歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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久しぶりの更新です。

南日本新聞連載「さつま人国誌」第418回「出水の太閤石」
詳しくは、ここをクリックすればご覧になれます。

豊臣秀吉の薩摩侵攻のとき、郷里の北薩地方は最前線になりました。北薩一円の領主である薩州家・島津忠辰は降伏する道を選びました。相手は10万の大軍、当然の決断でした。

肥薩国境を突破した秀吉は薩州家の居城、出水城を接収し、秀吉も3日ほど滞在します。「太閤石」は出水城の東方、3キロほどの民家にあります。今回、「太閤石」のある方のご好意により写真を掲載しました。秀吉が巡見の途中、この近辺に立ち寄り、この石に座って休息したという伝説です。

同コラムはほかにも紹介し切れていない記事がありますので、ご覧下さい。

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【2016/07/18 22:16】 | さつま人国誌
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島津忠辰
ながお
桐野様

こんにちは。

太閤石のこと初めて知りました。

西出水の実家のそばの稲荷神社に秀吉が滞陣したという話を聞いたことがあります。あちこちに伝説が残っているようですね。

島津忠辰は一戦も交えずに降伏。この時降伏したのは忠辰だけではなかったのに卑怯者と言われました。薩州家は元々本家と跡目争いをしてきただけに風当たりが厳しかったのでしょうね。

太閤石
桐野作人
ながおさま
コメント御礼。
秀吉伝説は出水にいろいろ残っているかもしれませんね。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」本日更新。
記事は、ここをクリックすればご覧になれます。

第415回「筑前信国派の日本刀」

先日、帰鹿した折り、鑑賞させていただいた日本刀について書きました。集成館の高炉で製造された鉄を混ぜて鍛えたものだといわれています。和洋の技術が融合した刀剣です。

今回紹介した日本刀は、鹿児島市小松原にある株式会社明興テクノスの経営者山ノ内文治さん所蔵のもの。同社の一室に案内されたが、日本刀コレクションの間になっており、多数の刀剣が展示されていて驚きました。寺田屋事件で死を遂げた橋口壮介とされるものもありました。

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【2016/06/20 21:21】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」本日更新。
第414回「仙巌園の『猫神』」。
詳しくは、ここをクリックすれば、ご覧になれます。

鹿児島市の観光名所で史跡の仙巌園に猫を祀った神社があることは知られていた。近年の猫ブームで参拝者が多いという。島津義弘が朝鮮に連れていったという猫たちの興味深い逸話。

「猫神」については記事で紹介した逸話がある。ただ「猫神」がどのように成立したのか、史料を探してみたけど意外とわからなかった。近世の逸話が載っている編纂物『薩藩旧伝集』『西藩野史』『島津国史』や各種地名辞典などまで調べてみたが、ほとんど見つからず、今回は見切り発車気味である。

結局、もっとも詳しい記事は戦前の島津家当主だった島津忠重の著作だった。その著作『炉辺南国記』の刊行年は1983年である。執筆時期はもう少し遡るだろうが、それでも新しすぎる。その記述の元となる近世の史料があるのではないかと思うが、探し切れていない。ご存じの方がおいでかもしれない。

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【2016/06/06 16:23】 | さつま人国誌
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南日本新聞連載「さつま人国誌」を5月30日に更新。
ここをクリックすれば、ご覧になれます。

第413回「相撲史に名を残す出水川」。今回は趣向を変えて、郷里の力士出水川のことを書きました。
達ヶ関こと2代目谷風と激闘して勝利したいきさつなど。いろいろ伝承が残っている力士です。

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【2016/05/31 08:53】 | さつま人国誌
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出水川
ながお
桐野様

こんにちは。

高山彦九郎の『筑紫日記』によれば彦九郎が入薩の際、野間の関所で足止めをくらいしばらく滞在した折、出水川と交流があったことが記されています(『出水の旅物語』所収)

水俣の徳富家から託された手紙を届けたり、出水川宅によばれごちそうになったりしています。

出水川は引退して故郷に帰り、家業の旅館を継いでいたのですね。

彦九郎は現役時代の出水川を知っていたのでしょうか。

高山彦九郎
桐野
ながおさま

コメント有難うございます。
高山彦九郎との交流は承知していましたが、紙数の関係で書けませんでした。
もちろん、出水川の現役時代を知っていたでしょうね。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」本日更新。第411回「古田織部と島津家」。
詳しくは、ここをクリックして下さい。

最近は「へうげもの」で知られている古田織部。あまり知られていない島津家との交流について書きました。とくに最初の出会いは天正3年(1575)で信長時代と早い。

上京した島津家久が帰途につくとき、道案内したのが古田左介こと織部。家久は上鳥羽から下鳥羽まで織部に案内されている。なぜ織部が登場するのかよくわからないが、連歌師の里村紹巴師弟と友人関係にあったからか。島津義弘も息忠恒も織部と交流し、いろいろ指南を受けたことを紹介した。

織部の最期は大坂夏の陣の直後で、豊臣方への内通を疑われたもの。御内の木村宗喜が内通していたというが、なぜ織部父子
にまで罪が及んだのか? また一説によれば、織部が島津方と一味して洛中放火を企てていたという噂まであったとか。織部焼も銀座のデパートでの展示を拝観した。

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【2016/05/18 23:40】 | さつま人国誌
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織部燈籠
ながお
 桐野様

こんにちは。

「へうげもの」は読んでいないので登場したかどうかわかりませんが、古田織部が考案したとされる織部燈籠という不思議なものがあります。別名切支丹燈籠と呼ばれていますがキリスト教とは無関係だとされています。
ところが、先日ご紹介したジュゼッペ・キアラの墓石を戦時中にサレジオ神学院の神父さんが雑司が谷墓地で発見した時に、この燈籠がそばにあったのです。
誰かが他から持ってきたのかも知れませんし、この一例だけではなんともですが、こんな不思議なものを残すところが「へうげもの」かも知れません。


情報御礼
桐野
ながおさま
お知らせ有難うございます。
織部燈籠、いまも雑司ヶ谷墓地にあるのでしょうか? もしあれば、そのうち観に行きたいものです。

織部燈籠②
ながお
桐野様

写真には写っていますが、その現物は現在行方不明

とのことです。

織部燈籠自体は各地にありますので探していただけ

れば都内の寺院にもあります。

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