膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
「龍馬伝」第6回
―松陰はどこだ?―

ドラマ進行時点は嘉永7年(1854)1月から6月頃。

ペリー艦隊が再度来航しました。
龍馬の千葉道場からの一時破門など、創作がつづきます。
その最たるものは、龍馬が桂小五郎とともに、下田に行き、吉田松陰の密航を制止に行くシーンですね。
もちろん、龍馬も桂もその場にはいませんから、フィクションです。

このシーン、既視感がありました。
数年前の大河ドラマ「新撰組」です。
あのときは黒船見学に、近藤勇・土方歳三と桂、龍馬に佐久間象山が呉越同舟でしたね。
多少入れ替わりがありますが、また再現ですね。
共通しているのは、龍馬と桂です。
大河ドラマで2度も刷り込んでは「史実」だと勘違いする人が出そうです。

剣で黒船に太刀打ちできるのかという、龍馬なりの苦悩が描かれていますが、史実では嘉永6年(1853)12月、佐久間象山の砲術門人帖に龍馬の名前があることから、砲術に関心をもち、佐久間象山の塾に入っていることがわかります。黒船来航から半年後ですから、史実の龍馬は自分なりに解答を見つけています。松陰先生をあえて登場させる必然性はなかったかもしれません。

一方、岩崎弥太郎ですが、相変わらず郷里の井ノ口村でくすぶっています。
ここは高知城下から相当離れていて、平井加尾がとても通ってこれる場所ではないのですが、まあ、大目に見ましょう(笑)。

ただ、弥太郎にようやく江戸遊学のチャンスが訪れました。
加尾の根回しで、多賀屋何とかという商人が弥太郎の意見書に感心して遊学費用を出してくれるという筋書になっていました。
しかし、実際は違うようです。『岩崎弥太郎伝』によれば、遊学のきっかけとなったのは、知り合いの藩士奥宮忠次郎が江戸詰に異動となったことです。弥太郎は奥宮に江戸遊学の志望を述べたところ、奥宮が心を動かされて従者にしてくれたということです。
奥宮の日記に、その一件が書かれていて、弥太郎のことを「有志の秀才なり」と記しています。優秀な人物だったことは間違いないようです。

次回は河田小龍が登場するようですね。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング
 
先を越されてしまいました。
新聞連載で書こうと思っていたネタです。

南日本新聞サイトの「どげんけ?」というwebでしか見られない記事です。
ここにあります。

記事中にもありますが、この逸話は薩長の「鴻門の会」と呼ばれています。
実際、項羽と劉邦の有名な故事によく似ています。
さしずめ、大久保は樊噲の役回りになるのでしょうか。

さて、この逸話、史実なのかどうか。
記事は出典を『防長回天史』としていますが、同書にはこの逸話には見当たらないような気がします。
ふつうは妻木忠太『偉人周布政之助翁伝』(有朋堂書店、1931年刊)が出典とされますが、中原邦平『訂正補修 忠正公勤王事績』(1911年)にも同じ逸話が載っています。こちらのほうが刊行が早いので出典といえそうですね。忠正公は幕末の長州藩主毛利敬親のことです。

中原邦平は長州出身で、明治中期、毛利家編輯所に入り、『防長回天史』の編纂に加わりましたが、総裁の末松謙澄と対立して脱退しています。

名の通った史家ですから、それほど誇張や創作をするとは考えにくいです。
でも、大久保が一枚の畳を頭上でクルクル回せるほどの剛力の持ち主だったかどうか、いささか疑問なきにしもあらずです。
この日のことを大久保は日記に「頗る暴論に及び候」と書いていますから、相当激論があったことはたしかでしょう。その勢いで畳を回してしまったのでしょうか?

なお、この逸話は『忠正公〜』には次のように書かれています。

「さうすると大久保一蔵は余程力のあった人と見えて、薩州の畳踊を御目にかけるといふて、畳の間へ指を突込んだが、忽ち畳を引き起して、之れを掌の上でグル/\グル/\廻し始めた、是も誰の頭へ当るか知れぬ、其れで来島の如きは刀を引寄せ、イザと言へば、直ぐ斬りつける身構へをするという云ふ風で、(後略)」

長州側は大久保が必ずしも仲裁役だとは思っていない感じですね。
大久保としては、周布政之助が堀次郎に刀を突き付けて躍っているので、それを牽制し、堀を守ろうとしての座興だったのかもしれません。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング
 
先月、急用で郷里鹿児島に帰った。
鹿児島市内から実家に向かう途中、いつもと異なり、内陸の入来峠越えをした。
じつはほとんど初めて通る道だった。

入来(いりき)は鎌倉時代の有名な西遷御家人である渋谷諸族の嫡流、入来院氏の名字となった所。
昭和初期、エール大学の朝河貫一博士が英訳刊行した『入来文書』(”The Documents of Iriki”)は一躍、世界に知られるようになり、わが国の封建制研究の基本文献となっただけでなく、「サムライ」イメージの原型となったことでも知られる。

入来院氏の居城があった清色城跡は現在、入来小学校になっている。
その周辺が江戸時代の入来郷の麓(入来院氏の家来たちの集住地域)である。
じつは、私の連載のこの記事にある平田増宗暗殺現場の「土瀬戸越」に行ってみたかったのだが、せっかく友人のかじやちょうさんに教えてもらったのに、うろ覚えのまま行き、おそらく場所を間違えてしまった。またリベンジしないといけない。関連する、いくつか写真を載せておきます。

入来麓
入来郷の麓、左右に低い石垣のある武家屋敷が並ぶ






清色城跡
入来院氏の清色城跡







入来峠
ループ道があり、今でも険しい入来峠







入来峠頂上
入来峠の最高地点(奧が宮之城、出水方面)





帰路も同じ道を通ったが、明治初期の大警視、川路利良の出身地である皆与志(現・鹿児島市)を通過したので、有名なバス停を探したら、すぐ見つかった。
川路の役職にちなんだバス停である。
地元の人々が誇りをもって付けたと思われる。
しかし、西南戦争直前、ここに住んでいた川路利良の家族は私学校党に迫害・弾圧され、死者まで出した。
このバス停標識もいつまで残るかわからない。このバス会社はすでに他社に吸収合併されて、もうないのだ。
今では路線そのものも廃止されて、このバス停が使われることもない。
そのまま朽ち果てるか、その前に撤去されるかの運命が待っている。
バス停が健在なうちに撮影できてよかった。

大警視バス停
知る人ぞ知る、噂の「大警視」バス停






川路石碑
バス停近くにある川路利良生誕地の碑






よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第137回
―キリシタン発覚し、火刑―

連載が更新になりました。同紙サイトのここをクリックするか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は矢野主膳の一件を書きましたが、この事件が発端となって、永俊尼ことカタリナ夫人の流罪に発展するまで、3回にわたって書く予定です。

なお、矢野主膳の処刑地について桜島とする説もありますが、帖佐脇元ではないかと思っています。

近世初期のキリシタン弾圧は徳川幕府の基本政策でしたが、薩摩藩では少し特種な展開を見せました。
ひとつは、薩摩が辺境であるせいか、さまざまな亡命者やキリシタンが潜伏しやすかったこと。またカタリナ夫人という島津家当主の家族がキリシタンだったことによって、島津家久、光久が苦渋の選択を迫られます。とくに対幕関係の悪化=島津家の改易の恐れに戦々兢々としたことはいうまでもありません。

今回から3回にわたって、矢野主膳、明石小三郎、カタリナ夫人という3人のキリシタンを紹介する予定ですが、その陰にあって、キリシタン問題の火の粉が何とか島津家に降りかからないように奔走するのが、家老の伊勢貞昌です。
貞昌は近世初期の名家老といってよいと思います。いつか本連載でも紹介したいと思っていますが、その事績が多岐にわたり、またあまり劇的な面がないため、書くにはなじみにくい人物ですね(笑)。

伊勢貞昌をはじめ、比志島国隆、島津久慶といったひと癖も二癖もある人物が書けるようになればいいなと念願していますが、まだまだ未熟です。

次回はキリシタン武将で有名な明石掃部全登の一子小三郎の薩摩潜伏について書く予定です。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング
 
現在、発売中の『歴史読本』3月号。
目次の紹介などはここにあります。

表題のタイトルで記事を書きました。サブタイトルもあります。
―小松帯刀の京都邸「御花畑」を探す―

一昨年来、ずっと探索を続けていたテーマで、南日本新聞連載「さつま人国誌」などでも中間報告してきましたが、今回こそはほぼ確実に町名レベルまで明らかにできたと思います。

詳しくは同誌の拙稿をご覧いただくとして、これまで摂関家の近衛家は京都に本邸、別邸合わせて5つの邸宅があるとされてきましたが、どうやら6つ目がありました。それが小松帯刀が京都邸とした「御花畑」です。

今回の結論に辿りつくまで試行錯誤がありました。
とくに近衛基熈の隠居屋敷で幕末まで存在した堀川邸(堀川一条上ル)に比定できるのではないかという考えに一時傾いたことがありましたが、結果としてこれも否定せざるをえなくなりました。私の未熟の致すところです。

そんなこんなの試行錯誤のプロセスを書きましたので、興味のある方はご覧下さい。

なお、薩長同盟が締結された場所も、『桂久武日記』や木戸孝允、品川弥二郎など当事者の伝記や証言から、おそらくこの「御花畑」ではないかと結論しました。
この点も強調しておきたいところです。

ついでながら、同誌には、私の連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」第27回も掲載されています。
今回は「足利義昭の追放と浅井・朝倉の滅亡」というテーマで書きました。
そのとおり、元亀争乱の終結について詳しく述べたものです。
こちらもよかったら、ご覧下さい。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング