このところ、やけに外出が多く、忙しい。
それも、何となく腰の落ちつかないことばかりのような気がして、充実感があまり感じられない。
本日、簡易の人間ドックに行ったけど、運動不足だったし、きっと血液検査の数値が悪いだろうなと、今から予測できる。
さて、今週は表題の2つの講座が火、水と連チャンでした。
というか、来年の3月まで、ずっと連チャンになりそう。
週がずれてくれたら、ひと息つけるんだけどなあ。めぐり合わせだからしょうがないけど。
まず、10日(火)の「てらこや」講座「
幕末薩摩藩と小松帯刀8」の第2回。
今回は、薩土盟約の破約から、薩長芸三藩出兵協定の成立と破算について検討しました。
薩土盟約の破約理由については、家近良樹、佐々木克、高橋秀直の諸氏の学説を紹介。
それぞれ説が異なるが、やはり、後藤象二郎が土佐藩兵を引き連れてこなかったことが、薩摩藩を一番がっかりさせたのではないかと、私見を述べた。あえていえば、高橋説に近いか。
この破約により、薩摩藩は薩長との軍事的連携、これに芸州藩を巻き込んでの三藩による共同出兵計画に傾斜する。
それに関する『大久保利通日記』を読みながら、長州の薩摩への期待が高いことがよくわかった。
とくに毛利父子が「玉」の動座の件を、大久保に確認しているいきさつが面白かった。
大久保は形勢不利な場合、天皇を「浪華」=大坂に移すつもりだと答えたが、毛利父子はさらにたたみかけて、幕府が外国(フランスのことだろう)と結んだ場合、大坂では危ないのではないかと質す。すると、大久保は地理的な理由もあり、勤王の有力藩に移ってもらうことも考えていると答えた。これは暗に長州を想定しているようにも感じられた。中国地方の勤王藩といっても、岡山、鳥取、芸州といった諸藩では、薩長とも安心できないだろう。やはり長州なのではないか……。
それに、毛利父子は挙兵にあたって、くれぐれも幕府側に「奪玉」されないよう、二度も念押ししている。これは禁門の変の悲惨な敗北がトラウマになっていて、前の轍を踏まないようにしてほしいという懇願に近いものではなかったか。
ほかにも、土佐藩の大政奉還建白が、この三藩挙兵計画とどのようにからむのか、からまないのかも少し話した。
次回は、この三藩挙兵計画の失敗=「
失機改図」について。それとの関連で坂本龍馬の動向を見る予定。
終了後、毎度の二次会はパスさせていただき、某社の編集者と打ち合わせ。龍馬関連。
11日(水)、午後3時から、三鷹のサテライトキャンパスで「
信長記を読む」第3回講座。
今回は、斎藤道三との正徳寺の会見、赤塚・萱津両合戦について検討。
赤塚合戦については、名古屋の講座の受講生の方からいただいた発掘調査報告書が大変役に立った。記して謝意を述べたい。
終了後、思わぬ熱心な質問あり。時間が長引いたのと、桶狭間合戦にも関係した質問だったので、そのときに検討しましょうと答える。
なぜか、このあたりは、東京も名古屋も受講生の皆さんが熱心なのは共通している。
帰宅後、送付を約束したものを送り忘れていたのが発覚。急ぎ送る。
某企画立案に頭を悩ませた。
トイレで関連史料を読んでいたら、あれこれ夢中になり、30分以上も居つづけだった。
一番集中できる場所かも(爆)。
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