膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
風邪気味で体調がいちまちですが、頑張っております。
外出の際はマスクが手放せなくなりました。

このところ、新刊をご恵贈いただきましたので、御礼を兼ねてご紹介します。

柴辻俊六『信玄と謙信』 高志書院、2009年11月刊

高志書院選書の3点目です。
まだ見本段階でいただいたようで、版元のサイト(ここです)には案内が掲載されていません。数日のうちに書店に並ぶと思いますので、その頃にはサイトにも紹介があるでしょう。

柴辻氏はいうまでもなく、武田氏や真田氏研究の大家です。
いつも、著書や論文などをお送りいただき、有難い限りです。
まだ少ししか読んでおりませんが、信玄の西上作戦について、個人的な関心から「第6章 西上作戦の挫折」を読んでみました。
元亀2年(1571)春に、信玄の遠江・三河侵攻があったのかどうかについて、近年、否定的な説がいくつか出されています。柴辻氏は通説どおり、同年の侵攻はあったという従来のお立場のようです。
その根拠のひとつとなっている松永久秀家来の岡周防守宛て信玄書状ですが、その年次が同年でいいのかどうか、再検討の余地はないのかなとも感じました。
個人的には同年段階では、信長と将軍義昭の関係はまだ比較的良好ではないかと思われますが……。

また信玄の侵攻が「上洛」か「局地戦」かという論点もまだ決着がつきそうもありません。柴辻氏は従来どおり、上洛説のお立場のようです。
最近では、二者択一で割りきれないのではないかという説も出てきています。
まだまだこの論争は決着がつかないのでしょうね。

もう1点、彦根の出版社、サンライズ出版の編集者Yさんから、

豊島昭彦『井伊直弼と黒船物語―幕末・黎明の光芒を歩く―』 サンライズ出版、2009年10月刊

をいただきました。
同社は私のブログでのリンク先でもありますが、本書の案内はここにあります。
Yさんとは、先日、滋賀の木之本で関ヶ原合戦の講演をしたとき、佐和山城の発掘調査報告会で知り合いました。

井伊直弼はいうまでもなくご当地、彦根の人ですね。
近年、直弼の再評価の動きがありますが、本書は直弼ゆかりの史跡を丹念に歩いて調べた歴史紀行になっています。
とくに写真が豊富で、見ていて楽しいです。個人的には、村山たかの史跡写真が初めて見るものばかりで興味深かったです。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング
 
昨5日、午前中から半蔵門にある表題の博物館に行く。
多少風邪気味で、少し寒気がしたので厚着して、マスク着用。
マスクなんて何年ぶりだろうか。
じつは、新型インフルに備えて、マスクを大量に買い込んであったが、初めて使った。
マスクのガーゼの間にメントール剤を入れる形式で、着けてみたら、鼻腔の通りがよく、何よりメントールの香りが心地よい。なんか癖になりそうだ(笑)。

同館前で古写真研究者のMさんと待ち合わせ。あとでもう一人のKさんもおいで。

今回、ある幕末薩摩藩士の子孫旧蔵品を同館で購入したとのことで、それを見学させていただいた。古写真について造詣の深いY理事やI研究員のご好意によるもの。

予想以上のもので、長崎や京都や江戸やロンドンやパリで撮影された古写真がたくさんあった。
もちろん、よく知られた有名人の写真もある。

私以外のみなさんで、幕末明治期の写真家の名前や写真場、またコロタイプとかダゲレオとか鶏卵紙とかゼラチンなんとかとか、古写真の専門用語が飛び交うが、私はほとんど理解できず、上野彦馬とか内田九一とか堀真澄とかいった、比較的有名な写真家の名前が何とかわかっただけだった。

売店で、同館刊行の古写真集やI研究員が執筆された大判で分厚い写真コレクションを購入した。
思わぬ散財だったが、古写真についての基本的知識が得られる有難い本とのこと。とくに写真家のリストが膨大で、履歴や営業場所などが詳しく載っているうえ、出身都道府県別の索引もあり、いろいろ役に立ちそうだ。

同館を辞去したのち、お二人と喫茶店でかなり長時間話し込む。
話題は多岐にわたったが、私が古写真で経験したことを話したら、大変悔やまれる出来事だと教えてもらった。
それは、私が南日本新聞連載のある記事で紹介した人物の分家の子孫という方から電話をいただき、そのお宅に古いガラス原版が先祖代々伝えられており、お姫さまが写っているという。その方は安政年間のもので、有名な島津斉彬写真より古いものだと仰せになった。

私はまさかそんな……と思い、それならとても私の手には負えないから、専門的な公共機関で調べてもらったほうがいいとアドバイスしたが、その方はそれには気乗り薄で、私に見てもらいたいような口ぶりのまま、電話を切られた。

という話をしたら、お二人が「それはもったいない。我が国にはガラス原版はほとんど残っていない。もしかしたら、写っているのは島津家の姫で、すごく貴重なものだったかもしれないよ」と教えられた。
当時は古写真にはほとんど興味がなかったからなあ、見せて下さいと一言いえばよかったと、後悔先に立たずと思うことしきり。
そのときのメモがどこかないか探しているが、まだ見つかっていない(泣)。

その後、お二人と別れ、新宿に行く。
新都心の高層ビルのティ−ルームで、某社の編集者と某企画の打ち合わせ。
うまくやれるかどうか、時間的な面で多少不安である。
でも、やるっきゃない。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第127回
―重傷負うも、和睦に尽力―

連載が本日、更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回の話はよく知られていることです。
それでも、あえて書いたのは、直政が本当に島津勢を追撃したのかどうか、ある従軍兵士の覚書を読んで疑問に感じたからです。
どうも直政は追撃していないのではないか、と思いました。
もともと、直政は女婿の松平忠吉に初陣を飾らせるため、抜け駆け発砲事件を起こしています。
発砲した相手は島津氏とも宇喜多氏ともいわれますが、いずれにせよ、先手衆の一角にいたわけで、退き口を敢行した島津勢を追撃する態勢と準備はないのではないか、追撃するとすれば、後方に待機している予備兵力が行うのが戦術的に妥当だと思うからです。

では、直政がどこで、どのような形で島津勢と接触して負傷するに至ったのか、それは本文をお読み下さい。

次回もまだ退き口にこだわります。
義弘のある馬廻について書きます。
中馬大蔵(もう書きました)でも、横山休内でもありません。
お楽しみに。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング
 
歴史読本の連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」第25回

現在、発売中です。
今回が2年間の集大成のはずでしたが、比叡山延暦寺焼き打ちで終わっています。これではいけません。

叡山焼き打ちについては、文化人の明智光秀が信長を諫止したけれど、信長がそれを振り切って断行したという俗説があります。

しかし、史実は俗説と逆で、光秀は叡山焼き打ちの先兵だったことがうかがわれます。
だからこそ、破格の出世をしたと見るべきでしょう。

先日お伝えしたように、次回から、というか現在執筆中ですが、少しペースを速めます。
次回はいよいよ武田信玄の登場ですね。乞うご期待。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング
 
日次記です。

10月28日(水)天晴れ
午後から三鷹のサテライトキャンパスで、武蔵野大学市民講座「信長記を読む」に出講。
第2回で、演題は「『器用の仁』織田信秀の活躍と死、『大うつけ』信長の登場」

今回から、本文に入る。テキストは角川文庫(陽明本)。
信秀の「憑み勢」の意味とか、美濃や三河での戦い、斎藤道三との和睦と信長・帰蝶の縁組など、関連史料を使いながら話す。
最後に、信秀の没年についての諸説を検討し、天文21年(1552)でよいのではないかと結論した。
先日紹介した金子拓氏の新刊も受講者のみなさんに紹介した。

帰路、少し遠い駅で降りて、歩いて帰宅。2キロ近く歩いたが、少しも汗ばまなかった。涼しくなったものである。


29日(木)天晴れ
午後から明治大学駿河台キャンパスで、リバティ講座「歴史を動かした男 坂本龍馬の生涯と死」を受講。
先日、京都でお会いした宮川禎一さん(京都国立博物館)が講師だったので、ぜひに聴講したいと、事務局にお願いしていた。
中央線に人身事故があり、だいぶ混乱していたので、総武線の各停で向かう。

演題は「薩長同盟前夜に書かれた龍馬書簡を読み解く

これまで慶応3年(1867)に年次比定されていた姪っ子春猪宛て龍馬書簡を同2年に比定しなおしたところに独自性がある。
これにより、この書簡に強くにじみ出ている龍馬の異様なテンションの高さが、薩長同盟締結前夜の昂揚感やもろもろのストレス、風邪などによるものだという解釈を成立させた。

冒頭に、龍馬の手紙の解読は「歴史の問題」ではあるが、その前に「国語の問題」だと強調された。とくに土佐の方言などが使われており、その難解さは目立つ。
また、末尾に遺書めいた一節があり、これを書くのが大きな目的だったが、それを正面に据えて書くわけにいかず、「いじられ」キャラの春猪を思い切りいじったあと、最後に付け加えたのではないかという説明も面白かった。

当時の交通事情、郵便事情とも関わるが、書簡が目的地に届けられるにあたって、船便などの都合で、龍馬は一族縁者や友人などにまとめて手紙を書いていたという説明は、個人的に面白かった。
私も小松帯刀の書簡を読んでいて、同様のことを感じたからである。小松も限られた船便を有効に活用するため、藩の重役や大久保宛ての公務の書簡を何通も書き、妻お近宛ての書簡も一緒に送るということをしている。

講座終了後、構内のピロティや外の喫茶店で、共通の友人であるM川さんと3人で長く談じ込んだ。とても楽しい一時だった。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング