膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
中世史、赤松氏を専門とされている渡邊大門氏より、近刊2点拝受。
謹んで、御礼申し上げます。。


1.『奪われた「三種の神器」―皇位継承の中世史―』講談社現代新書

三種の神器といえば、壇ノ浦で安徳天皇とともに海のもくずと消えたことを想起します。
しかし、そのような単純な話ではありません。むしろ、神器がなくとも、どのように王朝の正統性を主張する論理を組み立てるのか。北朝関係者などの「知恵」を見る思いがします。
本書の独自性は南北朝統一後の種々の事件に対する考察にあろう。
嘉吉の乱での赤松氏の没落、禁闕の変での後南朝勢力による神器(神璽)の強奪、長禄の乱での神璽奪還による赤松氏の再興など、神器をめぐる出来事はまことに興味深い。

詳しくは、ここをご覧下さい。


2.『「アラサー」が変えた幕末―時代を動かした若き志士たち―』マイコミ新書、毎日コミュニケーションズ

中世史が専門の渡邊氏が幕末も書けるとは知らなかった。意外な驚きである。
本書は専門的な知識を提供するというより、肩の凝らない読み物になっている。
しかし、時代を超えて、専門家の鋭い史眼が光っているように思える。
ただ、大久保利通が囲碁によって島津久光に接近しようとしたとき、精忠組の同志である税所篤の兄吉祥院に囲碁の手ほどきを受けたという逸話だが、大久保の十代後半の日記が新たに発見され、吉祥院と接する前から、大久保は相当の囲碁の腕前だったと、佐々木克氏は指摘している。
これは小さな瑕疵にすぎない。簡潔ながらも、維新の志士たちの行動の要諦が学べる気がする。
流行りの「アラサー」を幕末に置きかえれば、たしかにその世代が時代を動かしたことは間違いない。

詳しくは、ここをご覧下さい。

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このところ、忙しくてなかなか更新できません。

今週は2つの講座に出講。

ひとつは17日(火)、小学館古文書講座「てらこや」で、「幕末薩摩藩と小松帯刀8」の第4回講座。
テーマは「『失機改図』と坂本龍馬の動向」。

失機改図」とは、慶応3年(1867)9月、薩摩藩の呼びかけにより、薩長芸三藩出兵協定が結ばれましたが、薩摩藩と芸州藩の事情により頓挫してしまいます。
これを長州藩側が「失機改図」と呼びました。捲土重来とか新規巻き直しといった意味でしょうが、どうも長州藩側の冷たい視線も感じられます。

それもそのはず。大久保一蔵が島津久光の密命を帯びて長州に乗り込み、山口の藩庁で毛利父子や重役勢ぞろいのなか、一席ぶった自信満々の構想でした。そのため、大久保はこれで名誉回復できると感激した毛利父子から来国俊の銘刀を与えられる栄誉にも浴しました。
にもかかわらず、薩摩藩兵が期限までに三田尻港までやってきませんでした。薩摩藩の面目丸潰れです。

講座では、このときの薩摩藩の事情とは何なのか、薩摩藩側の史料ではよくわからない、おそらく藩内の倒幕反対派、自重派の抵抗によるものではないかと思うと話しました。一応、薩摩藩士の手記『道島家記』には、このとき動員された諸郷の兵から大砲なしでいくさをするのかと、家老の桂久武に詰め寄ったため、大砲の調達に手間取ったという記述がありますが、これが遅延の理由にはなりえないのではないかとも付け加えました。

そしたら、『史談会速記録』に、その頃の記事があるという受講者からのご指摘。いやはやすごいものです。教えられました。

次回はいよいよ大政奉還です。この講座、8クールめ(約40回)にして、ようやくたどり着きました。
今度は小松帯刀が主役です。


19日(木)は午後から駿河台の明治大学リバティアカデミー講座「坂本龍馬の生涯と死」の第5回講座に出講。
テーマは「薩長同盟論の現在」。
この間、報告や講座で何度か取り上げたテーマ。
いつもと少し構成を変えてみたり、いくつかあまり知られていない史料を紹介した。とくに木戸孝允宛て品川弥二郎書簡。これは薩長同盟がいつ結ばれたか決定的な史料だと思う。すでに三宅紹宣氏も触れていたが、全文紹介という形で紹介できたのは、『木戸孝允関係文書』が公刊されたことが大きい。

あと、今回の趣向としては、薩長同盟が軍事同盟であるという点を、坂本龍馬宛て木戸孝允書簡にある六カ条の約定が第二次長州戦争でどの程度履行されたかという観点から、史料で少し実証を試みた。
とくに薩摩藩が約定の第一条(薩摩藩兵2000人が京坂を固める)をほぼ忠実に履行し、さらに約定にはない長州藩本国まで援軍を派遣しようと考えていたことを指摘。
これらから、軍事同盟としか考えられないのではないかと、一応の結論を示してみた。
いろいろ考え方があるだろうが、約定の第五条(一会桑の妨害があれば決戦する)まで履行する覚悟もあったと見るべきか否か。これは仮定のことなのでわからないが、約定した以上、薩摩側にその覚悟はあったと見るべきだろう。もっとも、双方で明文化していないから、薩摩側が口実を設けて履行しない可能性もないわけではないが、それでは双方の信義に関わろう。薩長も龍馬もそうした信義こそをいちばん大事にしたと思うから。

講座終了後、近くの神保町で久しぶりに兼見卿記輪読会に参加。
先月休んでしまっていた。
幕末から織豊期に、すぐさま頭を切り換えないといけないわけで、それなりに大変だ。
次回は私が報告担当になった。

今週もいろいろありましたが、とりあえずこの辺で。

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14日(土)午前中、表題の大会に出席するため、横浜方面に出かける。
会場は神奈川県立公文書館(横浜市旭区)。

相鉄線二俣川駅が最寄り駅だった。駅から徒歩17分とある。
バスが出たばかりだったので、歩いていったが、これがとても遠かった。
折から暖かい日だったので、着いたら汗ビッショリになった。

ほんとは午前11時頃に着きたかったが、雑用をしているうちに遅くなってしまい、12時過ぎになってしまった。
お昼休みだったせいか、所蔵史料の展示室が閉まっており、職員の方に無理をいって開けてもらう。申し訳ない。
同館所蔵の膨大な山口八十八コレクションの一部を展示してあった。
坂本龍馬や西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允など垂涎の書簡が並べてある。
とくに以前から関心のあったアーネスト・サトウの吉井幸輔宛て書簡を初めて実見。写真版では見ていたが、本物は初めて。
サトウがくずし字で書いた手紙なのだ。当時のイギリス人が日本語を解するだけでなく、くずし字まで書いていたのには、素直に驚く。しかも、くずし字のお手本のような基本に忠実なくずし字。
サトウの語学能力は改めてすごいと感じ入る。

さて、午後から3本の報告があった。

1 岸本覚氏:大名家の先祖顕彰と政治改革
2 白石烈氏:幕末政治と対外危機認識の変遷
3 天野嘉子氏:井上毅と参事院―フランスの諸規定と「参事院章程」の比較を中心に―


どれも興味深かったが、1は以前、歴研大会でも藩祖顕彰における長州本藩と長府藩の確執として聴いた覚えがあった。『陰徳太平記』もその文脈で理解すべきだと知らされ、これまた素直に驚いた覚えがある。いわゆる長州藩の天保改革の立役者である村田清風がこうした顕彰事業に関わっていたことを知る。

個人的に面白かったのは2である。
幕末期において、欧米列強の干渉を受けないために、幕府や諸藩などの間で、いわゆる「内乱回避」が共通理解になっていたか、従来の学説を批判・検討する趣旨。
結論的には、薩摩藩などが内乱をむしろ政治的手段として活用することを考えていたというもので、非常に納得した。私も以前からそのように考えていたが、その裏付けをしてもらった感じ。

終了後、近くの中華料理店で懇親会。
出席者の3分の2が参加するという歩留まりのよさ。大所帯の宴会となり、盛り上がる。
旧知のM川さん、M田さん、N村さん、T野さんらと同じ卓を囲んで話もはずんだが、中途で同会事務局長の勝田先生から、挨拶するようにと耳打ちされる。
「聞いてないよ」
という感じだったが、致し方なく最近の雑感を話した。おそらく支離滅裂だったことだろう。

少し話した内容と関わるが、個人的には幕末維新期の重要人物たちの居所論に関心あり。
何より、ある人物がいつ、どこで、なにをしていたのかという基本的な事実を知るのに都合がよいだけでなく、幕府や諸藩の在京重役たちが京都と国許の往復に何らかのローテーションがあるのかどうか、また在京重役の構成の違いによって、意志決定のあり方に変化が生じるのかどうか。また周旋の相手や頻度により、当該勢力の政治方針の変遷を定量的に析出できるのではと思っている。
すでに織豊期や近世初期においては研究が進んでいる。この居所論はむしろ幕末維新期こそ必要ではないかという気がしている。

帰路、N村さんを神田のホテルまで見送る。
電車の中でT野さんから貴重なお話をうかがう。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第128回
―「今弁慶」義弘に殉死す―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回も関ヶ原の続きです。
木脇祐秀は前から紹介したかった人物でした。
ようやく果たせてよかったです。

分量の関係で書けませんでしたが、木脇は殉死したとき、他の殉死者すべてを介錯してから、最後、一人になって、岩のはざまに刀の柄を差し(つまり、刃を上向きにして)、そこに自分の体を突き刺して果てたそうです(『薩藩旧伝集』)。凄絶な最期ですね。

もうひとつ。義弘への殉死については、島津家久が禁止する旨をあらかじめ布告していたそうですが、木脇らはそれを無視して決行したため、殉死者はすべて知行を剥奪されました。家久の怒りのほどが知れます。名誉回復にはだいぶ時間がかかったようです。

なお、記事では木脇の墓しか紹介できませんでしたが、旧妙円寺(現・徳重神社)にある13人の殉死者の墓を載せておきます。木脇のはいちばん右奧です。
木脇





次回は、関ヶ原シリーズの最後として、新納旅庵を取り上げます。
旅庵は義弘主従とはぐれて東軍方の捕虜となってしまいました。
次回はこのはぐれ組の代表として、旅庵を紹介したいと思います。

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このところ、やけに外出が多く、忙しい。
それも、何となく腰の落ちつかないことばかりのような気がして、充実感があまり感じられない。

本日、簡易の人間ドックに行ったけど、運動不足だったし、きっと血液検査の数値が悪いだろうなと、今から予測できる。

さて、今週は表題の2つの講座が火、水と連チャンでした。
というか、来年の3月まで、ずっと連チャンになりそう。
週がずれてくれたら、ひと息つけるんだけどなあ。めぐり合わせだからしょうがないけど。

まず、10日(火)の「てらこや」講座「幕末薩摩藩と小松帯刀8」の第2回。

今回は、薩土盟約の破約から、薩長芸三藩出兵協定の成立と破算について検討しました。
薩土盟約の破約理由については、家近良樹、佐々木克、高橋秀直の諸氏の学説を紹介。
それぞれ説が異なるが、やはり、後藤象二郎が土佐藩兵を引き連れてこなかったことが、薩摩藩を一番がっかりさせたのではないかと、私見を述べた。あえていえば、高橋説に近いか。

この破約により、薩摩藩は薩長との軍事的連携、これに芸州藩を巻き込んでの三藩による共同出兵計画に傾斜する。
それに関する『大久保利通日記』を読みながら、長州の薩摩への期待が高いことがよくわかった。
とくに毛利父子が「玉」の動座の件を、大久保に確認しているいきさつが面白かった。
大久保は形勢不利な場合、天皇を「浪華」=大坂に移すつもりだと答えたが、毛利父子はさらにたたみかけて、幕府が外国(フランスのことだろう)と結んだ場合、大坂では危ないのではないかと質す。すると、大久保は地理的な理由もあり、勤王の有力藩に移ってもらうことも考えていると答えた。これは暗に長州を想定しているようにも感じられた。中国地方の勤王藩といっても、岡山、鳥取、芸州といった諸藩では、薩長とも安心できないだろう。やはり長州なのではないか……。

それに、毛利父子は挙兵にあたって、くれぐれも幕府側に「奪玉」されないよう、二度も念押ししている。これは禁門の変の悲惨な敗北がトラウマになっていて、前の轍を踏まないようにしてほしいという懇願に近いものではなかったか。

ほかにも、土佐藩の大政奉還建白が、この三藩挙兵計画とどのようにからむのか、からまないのかも少し話した。

次回は、この三藩挙兵計画の失敗=「失機改図」について。それとの関連で坂本龍馬の動向を見る予定。

終了後、毎度の二次会はパスさせていただき、某社の編集者と打ち合わせ。龍馬関連。


11日(水)、午後3時から、三鷹のサテライトキャンパスで「信長記を読む」第3回講座。
今回は、斎藤道三との正徳寺の会見、赤塚・萱津両合戦について検討。
赤塚合戦については、名古屋の講座の受講生の方からいただいた発掘調査報告書が大変役に立った。記して謝意を述べたい。
終了後、思わぬ熱心な質問あり。時間が長引いたのと、桶狭間合戦にも関係した質問だったので、そのときに検討しましょうと答える。
なぜか、このあたりは、東京も名古屋も受講生の皆さんが熱心なのは共通している。

帰宅後、送付を約束したものを送り忘れていたのが発覚。急ぎ送る。
某企画立案に頭を悩ませた。
トイレで関連史料を読んでいたら、あれこれ夢中になり、30分以上も居つづけだった。
一番集中できる場所かも(爆)。

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