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歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
NHK大河ドラマ「篤姫」第15回「姫、出陣」

ドラマ進行時点:嘉永7年(安政元年、1854)

予想していたとおり、篤姫は高輪屋敷の隠居斉興とお由羅の方のところに乗り込みましたね。芝の上屋敷の噂と断りながら、「呪詛したのではないか」とお由羅にストレートに質していました。
まったくもって、ありえない話ですな(笑)。
だいたい、お姫さま、それも将軍御台所を約束されているお姫さまがそんなことを不躾に口走るなんて、はしたないの一言で、斉興の逆鱗に触れ、篤姫は蟄居か養女縁組解消、幾島も教育不行届でお手討ちになってもおかしくないくらいの事態だと思います。
いくら、篤姫の見せ場をつくろうといっても、あまり無理をしないほうがいいですね。現代人には受けるかもしれないですが、当時の身分秩序や人間関係などを逸脱しすぎています。

ドラマの最初にあった調所広郷邸への乗り込みから始まって、因縁ある有名人物と篤姫とを無理やり関わらせるやり方は脚本・制作側に一貫しているようです。次回は水戸斉昭でしょう。
個人的には、「大河主役御節介症候群」と呼んでますけどね。もっとも、今回に限ったことではないですから、大河ドラマの伝統的手法のひとつかもしれません。

それはさておき、
西郷吉之助(当時は善兵衛と名乗る)が斉彬の庭方に引き立てられ、世子虎寿丸を肩車したりしておりましたが、その虎寿丸も夭逝。その心労がたたってか、斉彬まで寝込んでしまいました。

ただ、斉彬父子の病気と早世の因果関係は必ずしもドラマの通りではないかもしれません。
西郷が国許の友人福島矢三太に宛てた書簡(8月2日付)によれば、斉彬が俄に発病したのは7月晦日のこと。

先々月晦日より太守様(斉彬)俄に御病気、一と通りならざる御煩い、大小用さえ御床の内にて御寝も成らせられず、先年の御煩いの様に相成る模様

大小用も床の中でしなければならないほどの重病とのこと。これも初めての病気ではなく、以前も同様の病気にかかったようですね。
病名が気になるところですが、薩摩藩が幕府に届け出たところによれば、「疝癪」(せんしゃく)とのこと(「竪山利武公用控」)。
辞書によれば、疝癪は「胸・腹・腰などが急にさしこんで痛む病気。さしこみ」とあります。ただ、これは幕府に届け出た表向きの病名なので、実際にそうだったのかどうかは不明です。
なお、斉彬の病気が全快したのは同年9月ですから、2カ月以上寝込んでいたようですね。

一方、世子虎寿丸は閏7月23日の午後零時頃に吐瀉し、昼に12度、夜に25度も吐き、翌24日深夜2時ごろ他界したようです。

虎寿丸は幼児ということもあり、急病を発してほどなく他界したと思われますから、斉彬発病後のことになると思われます。したがって、斉彬は虎寿丸の他界による心労で倒れたのではないかもしれません。

最後の「篤姫紀行」で、西郷ゆかりの地として、目黒不動尊が出ておりました。
これも、上記の福島宛て西郷書簡に出てきますので、紹介しておきます。

太守様にも至極に御気張り遊ばされ候御様子と伺われ申し候、又此の上御煩い重ね候ては誠に暗の世の中に罷り成り候儀と只身の置処を知らず候、只今致方御座なく目黒の不動へ参詣致し、命に替えて祈願をこらし、昼夜祈り入る事に御座候、熟(つらつら)思慮仕り候処、いずれなり奸女をたおし候外望みなき時と伺い居り申し候。

引用中に、目黒不動尊に参詣して祈願したこと、「奸女」(お由羅の方)を打倒するとあります。西郷のお由羅憎しの感情が伝わってきますね。
ドラマではその割に、悪女に描かれていませんでした。あるいはこれからまた別の展開があるのでしょうか?

水戸斉昭の言動も少し不審です。
島津家への警戒心をあらわにしておりましたが、外様と親藩の違いを超えて、両家、両者はむしろ親密な間柄にあります。とくに斉彬と斉昭はペリー来寇以来の非常時において、幕政から排除されている親藩と外様が幕政関与を要求するという点では利害を共有する立場にあります。

また老中阿部が冷静に指摘していたように、息子の慶喜を一橋家の家督とし、姉は関白鷹司政通夫人ですから、島津家と同様、将軍家と摂関家の双方と結んでいます。

それに、斉彬は世子時代から斉昭と交流があり、その一環として、拙稿「さつま人国誌」でも書いたように、斉彬が斉昭に狆(ちん)を贈っている事実もあります。また、水戸藩でも反射炉建設をしようとしていましたが、これにも斉彬が援助しており、集成館の技術者として著名な竹下清右衛門を水戸へ2年間も出向させているほどです。

次回は、篤姫と斉昭の対面があるようです。
これはおそらく、斉昭が薩摩藩邸を訪問した事実と結びつけたものでしょう。

大久保一藏の父利世が配流先の沖永良部島から帰還して、一家は大喜びでしたね。
ただ、ドラマの展開で年が改まったかどうかよくわかりませんでした。改まっていなければ、帰還年次が違うのではないかと思います。
『大久保利通文書』十所収の「大久保利通年譜」によれば、帰還は翌安政2年3月14日ですね。
ドラマでは、斉彬の病気、虎寿丸の死去から、後半には年が改まっていたでしょうか? どうも記憶があいまいです。

余談ながら、斉彬が篤姫を「篤子」と呼んでいました。
「篤姫」は通称(仮名)であり、「篤子」は実名というとらえ方でしょう。
ただ、「篤子」という実名があったかどうか定かではありません。
これに関しては、疑問を呈している研究者もいます。ここです。
なかなか鋭い意見なので、ご参考までに。

要するに、篤姫の名乗りは

通称:篤姫(斉彬養女)→篤君(近衛忠熈養女)→篤姫君(将軍御台所)

実名:一子(かつこ)→敬子(すみこ、近衛家養女)

実名は一子と敬子だけで、その間に篤子とは名乗っていないのではないかというのが高尾さんの見解だと思います。今後の検討課題にしておきます。

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【2008/04/13 23:44】 | 篤姫
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高尾
コメントありがとうございました。

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2008/04/14(Mon) 10:40 |   |  #[ 編集]
コメントありがとうございました。
2008/04/14(Mon) 19:19 | URL  | 高尾 #-[ 編集]
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