膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第57回
―米国初プレーの日本人か―

昨日、連載が更新になりました。
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今回は大久保利通の長男利和(としなか)と二男牧野伸顕がわが国の野球黎明期に野球をしていたという面白い話です。

わが国で野球が始まったのは明治5年(1872)のことで、東京一ツ橋の開成学校(のち東京帝国大学)のアメリカ人教師だったウィルソンが伝えたとされています。

大久保兄弟は明治4年11月、岩倉使節団に同行して渡米、フィラデルフィアの寄宿舎に入ります。帰国したのは同7年。兄弟は開成学校に入学し、そこでウィルソンと一緒に野球をした由。
大久保兄弟はわが国で最初に野球をした何人かの生徒の二人だったわけです。

ただ、牧野伸顕の回顧によれば、フィラデルフィア時代にも野球をやったと語っております。
その年代がわかりませんが、もっとも早いと、明治5年だと思われ、開成学校の生徒たちと同じ年に、海の向こうで野球をしたことになります。さて、どちらが早かったのでしょうか?

コラムに掲載した大久保兄弟の写真はいかにも武士の子らしい、背筋を伸ばした凛々しさと、同時に年相応の可愛さがあります。
甲東曾孫の利泰氏から、じつは別ヴァージョンで1人ずつ写った写真もお借りしました。こちらはさらに鮮明だったのですが、やはり2人一緒に写っているのがよいと思って、そちらを載せました。

なお、コラムの中で触れた一ツ橋の学士会館の前庭にある「日本野球発祥の地」ブロンズ像も載せておきます。
近くを通りかかったら、ご覧下さい。
野球発祥


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第56回
―細島の惨劇、久光の密命―

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今回は寺田屋事件の後日談の2回目。
藩外の脱藩士たちに待ち受けていた苛酷な運命について書いてみました。
田中河内介父子・千葉郁太郎・中村主計・海賀宮門の5人が薩摩藩側によってひそかに殺害されました。
田中河内介父子は鹿児島に護送される船中で殺害され、遺骸は播磨灘に投棄され、小豆島に流れついたといわれています。
この一件は、薩摩藩側にとっても後味の悪いものだったらしく、のちに樺山資紀が語っているところによると、田中父子を殺害した海域で、よく亡霊を見たとか、夜な夜なヘンな声を聞いて、とても恐かったそうです。またその海域は海難事故が多かったそうで、田中父子の怨念ではないかと囁かれていた由。

記事の分量の関係で書けなかったことを補足しておきます。
かれら脱藩士や浪人の殺害について、久光の密命があったことを紹介しました。
久光自身は殺害せよと具体的に指示しておりませんが、受令者がそのような趣旨に受け取ったことは間違いないだろうと思われます。現場で裁量したのが誰だかわかりませんが。

なお、このとき、田中河内介は粟田宮(朝彦親王)の令旨と錦の御旗をもっていたとか。
のちに、そのことを西郷が奄美で世話になった木場伝内に書いています。それによると、錦旗は偽物で、人をあざむくものだと西郷は言っています。

それでも、田中が殺害されたことを「私に天朝の人を殺され候儀、実に意恨の事に御座候、もふは勤 王の二字相唱候儀出来申間敷」 とか「頓と是限の芝居にて御座候」とも書いており、中山家の諸大夫だった田中を殺してしまっては、「勤王」の大義が立たないだろうと、西郷は久光のやり方に批判的です。

もっとも、当時、久光の密命があったことを西郷が知っていたかどうか定かではありません。書簡の前段には中山実善(中左衛門)を猛烈に批判しているので、もしかしたら中山の命ではないかと思っていたかも知れません。

なお、田中河内介が奉公した中山家は明治天皇の生母だった中山慶子の実家であり、幼少期の天皇は中山家で養育されたそうで、田中は養育係でもあったようです。

日向細島にある海賀・千葉・中村の三士の墓は宮崎県出身の方から提供していただきました。有難うございます。
三士の墓がある古島(こしま)は細島の湾の入り口あたりにあり、干潮になると陸続きになるそうです(写真参照)。
古島

三士が薩摩藩によって殺害されたとき、その遺骸を地元の黒木庄八という人が見つけて墓碑を建て、供養したそうです。その後も子孫によって代々供養されているとか。

なお、細島(現・日向市)は日向の有名な港で、薩摩藩も参勤交代で、東目(東回り)ルートをとるときには、この港から出航することが多いです。帰路も同様ですね。
細島は幕府の天領でしたが、港のあたりには薩摩藩御用達の旅宿もあり、幕府から薩摩藩はこの港で一定の権益を与えられていたようです。
ですから、天領にもかかわらず、殺害行為ができたのでしょう。本来なら大問題だと思いますが、その後、この事件は地元でどう処理されたのでしょうか。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第55回
―苛烈な処分と名誉回復―

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今回は表題のとおりで、寺田屋事件の後日談を書きました。
この事件は幕末薩摩藩にとってはあまり語りたくないものかもしれません。
しかし、たとえ暗部であろうと、歴史的事実であるかぎり、直視する必要があると思います。

近年、この事件を単なる藩内の内肛と見るだけでなく、大きな政治的背景をもった事件であり、薩摩藩内の路線闘争だったという指摘もあります。とりわけ、有馬新七らが藩外、とくに長州の尊攘派と結合し、藩の枠を超えた大きな政治運動にしようとしていたことも明らかになっております。それに対して、久光がライバルである長州藩に主導権を奪われる危機感から、断固たる処置に出たのだともいわれております。

今回はそうした政治的背景よりも、事件後のことに焦点を当てました。
次回は、寺田屋事件に関わった藩外人の知られざる悲劇を書きたいと思っております。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第54回
―篤姫 斉彬供養塔を建立―

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今回は東京杉並の大円寺を取り上げました。
以前、当ブログでも訪問記を書いたことがあります。このエントリーです。

篤姫が養父斉彬の一周忌に建立させた供養塔のことです。
前回出かけたとき、見つけられませんでしたが、今回、別件でご住職にお会いできて尋ねたら、やはり島津家が整理してしまったとのこと。
とても残念でした。もし残っていたら、篤姫ゆかりの史跡として注目を浴びたに違いありません。
この供養塔には、篤姫の斉彬への思いが込められていると思います。
わざわざ自筆の写経を納めたのもその証左です。

しかし、大奥にいる篤姫は外出もままならず、江戸城下にあったこの供養塔にも参拝できなかったはずです。
江戸では行動範囲が狭かったので、篤姫ゆかりの史跡は少ないですね。寛永寺の墓所を除けば、本来なら、この供養塔がもっとも篤姫を感じさせてくれるものだったのではないでしょうか。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第53回
―狆が好き、でも猫飼う―

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今回は篤姫とペットというテーマです。
この逸話はだいぶ知られるようになったかもしれません。
三田村鳶魚「御殿女中」に収録された篤姫付のもと中臈、大岡ませ子の談話から採録しました。
篤姫のペット、サト姫のことが面白おかしく描かれています。

ただ、それだけでは面白くないので、篤姫が好きだったという狆(ちん)について、島津斉彬と水戸斉昭の間でのやりとりを付け加えました。
狆は江戸時代、上流階級や富裕な商人層の間で好まれた愛玩動物です。
昨今のペットブームと相通じるところがあるかもしれませんね。

その狆をどうやら薩摩でも飼育していたようです。
いわば、島津家は狆のブリーダーだったと思われます。

膝元にまとわりついて離れない黒狆に、攘夷のご本家、気難しそうな烈公水戸斉昭が「うい奴じゃ」とばかりに目を細めている光景は思わず吹き出しそうです。

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