膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
NHK大河ドラマ「篤姫」第19回「大奥入城」

ドラマ進行時点は安政3年(1856)11月頃。

いよいよ大奥編の始まりですね。
私は女の世界については門外漢なので、あまりコメントするところはありません。

年寄滝山が大奥の女性たちを引き連れて、篤姫に挨拶した場面。
滝山が年寄はじめ、中年寄、中臈など役職の上から順に紹介しておりました。
また大奥に勤務する人数を、御目見え以上200人、御目見え以下を合わせて1000人だと、篤姫に告げました。

大奥の御広敷詰めの男性役人を合わせれば、それくらいになると思います。
大奥女中は身分的には、男の旗本御家人と同様、御目見え以上と以下に分かれ、また将軍付と御台所付に分かれます。

『定本江戸城大奥』によれば、

御台所付
御目見え以上:91人
御目見え以下:214人

将軍付もほぼ同数

御広敷詰(男性):270人以上

以上を合わせると、およそ1000人内外だと思われます。

それで、滝山の挨拶の場面、滝山の向かって左隣りにいたのは上臈年寄の某だというテロップが出ませんでしたっけ?
うろ覚えなのですが、もし上臈年寄なら、滝山より格上のはずで、本来なら、まん中の座にあるべきかもしれません。
上臈年寄もしくは上臈は、公家の娘がつとめます。御台所は摂関家や宮家からしか選ばれませんから、その入輿のとき、公家の娘がお付きとして同行し、上臈になります。ですから、その名前も姉小路とか飛鳥井とか、実家の名前を名乗ることになります。もっとも、役職上は最上位でも名誉職的で、実権は年寄がにぎっていたようです。

また年寄は別名、老女とも呼ばれました。これは表向(幕府の公儀としての男性世界)の老中に匹敵する役割として、そのように呼ばれました。

さて、滝山と幾島がさっそく言い争いをしておりました。
幾島も近衛家から派遣され、職制的には滝山と同じ年寄になります。
同格の2人の対決です。

細かい点では、篤姫の食事の場面。
御膳で焼き魚を一口食べただけで、御膳が下げられていました。
これはその通りのようですね。
同上書には、次のようにあります。

「御飯を召し上る時、御年寄は御膳の向ふに乗せある柳箸を取りて御肴などをムシリて差し上ぐ。御肴は一箸にても召し上れば直ちに「御換り」と御年寄申し出すを御中臈承はりて、傍なる三方を両手にて目八分に捧げ三膝計り摺り出でゝ御年寄より御下りを受け、元の座に摺り返りて後ろの敷居外に控へたるお次の者へ「何々のお換りを」と申し付くる」

ディテールはよく覚えていませんが、そんな感じだったような。

鹿児島での出来事。
大久保正助が小松尚五郎を訪ねていました。
帯刀と名乗るのはもう少しあと、2年後くらいです。

江戸の西郷からの手紙で、「駿河の下田」に異人が来たとか、大久保が申しておりました。
おそらくタウンゼント・ハリスのことでしょう。

しかし、下田は伊豆国に属しているはずですけどね。
私の聞き違いでなければ、かなりのケアレスミスですね。
下田が静岡県だから駿河と短絡したのでしょうか?

これは脚本通りだから、原田泰造のせいではないと思います。
でも、若き大久保利通としては、少し気が抜けているというか間延びしているというか、どうも実像と一致しませんね。
これから、少しはビシッとするのかどうかわかりませんがね。

今回は大して書くことがなかったので、関連写真を載せておきます。


上から江戸城天守台、大奥跡、下田の玉泉寺(ハリスの住んだ米国領事館)
大奥


大奥


玉泉tera


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NHK大河ドラマ「篤姫」第18回「斉彬の密命」

ドラマ進行時点は安政2年(1855)10月から翌3年11月。

嘉永6年(1853)あたりは1年を数回もかけましたが、今回は1年を1回と進行が早く、一気に入輿までいきましたね。

斉彬や篤姫は渋谷藩邸に移っているはずですが、屋敷の各所で普請をしており、そういう描き方ではなかったですね。
安政3年夏には、斉彬が渋谷の藩邸で電信や電気の実験をしているのですが、そんな興味深いエピソードもスルーでした。

今回もあまり書くことはありませんので、2,3指摘するに留めます。

○7歳年上女房?
肝付尚五郎が小松家の継目養子となり、ついにお近と縁組することになりました。
尚五郎が小松家を正式に継いだのは安政3年(1856)正月27日ですから、縁組もその前後でしょう。
それで、お近が尚五郎よりも7歳年上だとナレーションがありました。
これは時代考証担当の原口泉氏の持説だと思われます。近刊でもそのように書かれているのですが、その出典が示されていません。何か史料があってのことだと思われますが……。

ただ、7歳年上説は微妙ではあります。
琉球で客死した先代の小松清猷は文政10年(1827)正月24日生まれで、安政2年(1855)6月17日に没していますから、享年29です。
一方、小松は天保6年(1835)生まれで、安政3年(1856)には数えの22歳になったばかり。
お近はそれより7歳年上ですから、当年29歳。
清猷とお近は1歳違いの兄妹だったことになります。
まあ、ありえないことはありませんし、清猷の生誕月が正月ですから、実質2歳近く離れていることもありえるわけで。
可能性としてはありえますが、出典がわからないものですかね。

○近衛邸への使者は?
京都の近衛邸に島津伯耆が使者となって,篤姫養女縁組の御礼をしておりました。
島津伯耆はこの年、安政3年6月23日に家老となっているので、新米の家老ということになります。
諱は久福。知覧に所領がある佐多島津氏の当主です。幕末期には所領6700余石の大身で、もちろん、門閥である一所持の家格です。

ただ、このような使者に家老が命ぜられるのはやや不審です。
実際、このとき、近衛家の使者に立ったのは家老より役職が下の者です。
斉彬の側近の竪山武兵衛の日記「竪山利武公用控」安政3年6月10日条に次のようにあります。

「又京都えの御使者、肝付左門并に梶原清右衛門義は仰せ渡さるにより、両三日の内出立仰せ付けらるべき哉」

使者を命じられたのは肝付左門と梶原清右衛門の2名です。
肝付左門は諱が兼両。ほかならぬ尚五郎の長兄です。この時期の役職はわかりません。
ただ、その後変更があったようで、実際に使者になったのは梶原だけだったようです。

○「篤君」と呼ぶべき
近衛忠煕との養女縁組により、篤姫の呼称は「篤君」になります。これは摂関家の姫には通例の君号です。近衛家から正式の君号が書面で送られています。そして、島津家中でも「篤君」と呼ぶよう布告が出されています。
ですから、本来ならその時点から「篤君」と呼ぶべきです。しかし、そうではなかったですね。まあ、ドラマのタイトルが「篤姫」ですから、呼称で混乱を起こしたくないのでしょうが、それなら、斉彬がよく使った「篤子」も問題ありなわけですが。「於篤」くらいが一番無難だったでしょう。

最後に、大奥からの迎えの使者として、老女滝山が登場しましたね。
のちに、大奥で最大の宿敵になる人です。
稲森いずみ、老女役だからなのでしょうか、2年ほど前の大河「義経」での常盤御前より老けて見えたのは気のせいか。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第17回「予期せぬ縁組」

昨夜は冒頭の10分間ほどを見逃しました。観た部分だけを書きます。

ドラマ進行時点は安政2年(1855)夏から秋にかけてです。

今回のタイトルは、肝付尚五郎の縁組、小松家への継目養子のことですが、尚五郎の養子入りについては、史料不足で不明な点があります。

ドラマは、尚五郎の江戸行きから養子縁組まで、ほぼ「小松帯刀伝」(鹿児島県史料集21)に従っていたように思います。それには、以下のように記されています。

安政2年5月江戸詰を命ぜられ、18日出発、6月28日江戸着。
同9月3日江戸発、10月8日着。
安政3年正月27日、小松相馬清猷の後嗣となり、詰衆を命ぜられ、小松尚五郎と称す。


尚五郎の江戸行きはけっこう難渋しています。
同書によれば、小倉から船で大坂に着き、途中、鞠子宿(現・静岡市)で大風雨にあい、そのため、増水した安倍川で3日間足留めを喰っています。

これによれば、尚五郎の江戸詰はわずか2カ月強ですね。
なお、尚五郎養子の一件について、島津斉彬の側近、竪山武兵衛の公用日記には、ドラマとは少し違った事情が書かれているので紹介しておきます。

小松清猷が琉球で他界したのは同年6月17日のようです。
江戸の斉彬はその死を7月15日に届いた鹿児島からの便で知らされました。
清猷は軍役奉行として琉球に赴任していましたが、10日後の25日、斉彬は清猷の後任を諏訪数馬(武衛、一所持159石)にしています。正式の役名は「御軍役総頭取兼太鼓役」です。

それから、後嗣のいない小松家をどうするかということになります。
ドラマでは斉彬が尚五郎に養子に行くように命じ、尚五郎は突然のことで驚きます。

ただ、気になるのは、ドラマでは尚五郎を一人息子のように描いており、じつは三男だということをあまり明示していませんね。まあ、肝付家の兄弟まで登場させると、煩雑になるからでしょうが。
逡巡する尚五郎に斉彬が「小松家は桓武天皇以来の名家だぞ」という形で説得しておりましたが、やや筋違いですね。
三男で生家を継げる見込がほとんどない尚五郎にとっては、じつに有難い養子先なのです。ですから、本来は「三男のおぬしには、よい縁組のはずだ」といったほうがベターでしょう。
なお、小松家の出自が桓武天皇以来の桓武平氏だという通説にも疑義がありますが、ここでは触れません。

で、果たして最初から斉彬の意向で尚五郎の小松家相続が決まったのかどうかですが、上記竪山の公用日記には、次のようにあります。

「肝付尚五郎、小松相馬継目養子に内約これある候由」

つまり、「内約」とは小松家と肝付家の間で内々に尚五郎を養子にする約束が成立していた意味だろうと思います。
その内約が小松家→鹿児島の藩当局→江戸の斉彬という順に伝えられて、最終的に斉彬が裁可したという流れだったのではないでしょうか。
両家が清猷死後、すぐさま「内約」を結んだところを見ると、日頃から交流があって親しい間柄だったことがうかがえます。
ただし、過去に両家で何らかの縁組が結ばれたことはないようです。だとすると、鹿児島城下の両家の屋敷がすぐ近くにあり、隣近所の間柄だったことによるものでしょうか。

尚五郎の小松家相続が決まり、奧小姓を免ぜられて帰国になるわけですが、その時期もドラマ通りだったかどうかはよくわかりません。「小松帯刀伝」にはそのように書いてありますが、竪山の公用日記8月19日条には別の趣旨が書かれています。

「御供にて罷り下り候節,御暇下さるとも、また此の涯中御暇にて下さるとも、いずれにても御都合宜しきよう申し上ぐべくくれるよう豊後殿(家老島津豊後)より承り候に付、此の涯御暇下さり候方宜しくあらされまじくかの旨、今朝御出掛けの処にて申し上げ候処、伺い通りに仰せ付けられ候」

つまり、尚五郎の帰国を、斉彬が次の参勤交代で鹿児島に帰るときに御供させるか、それともこの際すぐ帰国させるか、どちらでも都合のよいほうを言上してほしいと家老の島津豊後から承ったので、竪山の私見として、すぐ帰国させるのは都合がよくないのでは(次の参勤交代での帰国に供させたほうがよい)と、斉彬にお伺いを立てたところ、斉彬は伺い通りにせよと仰せになった、という大意です。

もしこのとおりなら、斉彬の意向は、次の参勤交代で、尚五郎を帰国させることにあったはずです。あるいは、その後、10日間ほどで斉彬の気が変わったのでしょうか。
果たして、どちらが正しいのか、ほかに判断材料がないのでよくわかりません。

今回はこの問題だけに絞ってみました。
次回、お近が尚五郎より7歳年上であることを理由のひとつにして、縁組を断る話が出てきます。7歳の姉さん女房説は時代考証の原口泉氏の持説のようですが、どんな史料に基づいているのか、よくわかりません。

「篤姫紀行」、江戸の薩摩藩邸を取り上げていました。
私が前回予想したとおり、篤姫が輿入れした渋谷屋敷ゆかりの常盤松の碑が出ていましたね(笑)。
ただ、薩摩藩邸は5カ所あったとナレーションしていました。「主な〜」と限定詞が付いていたでしょうか。
私が調べたところによれば、少なくとも7カ所あります。詳しくはここをご参照下さい。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第16回「波乱の花見」

ドラマ進行時点は安政2年(1855)。

物語としては、なかなか面白い筋立てになっていました。

一橋慶喜がほんの少しだけですが、登場しましたね。
演じるのは、調所広郷役だった平幹二郎の息子のようで。目つきや顔形が親父さんにそっくりです。母親の佐久間良子にはあまり似ていなかったような。
そういえば、20年近く前の大河ドラマ「翔ぶが如く」でも、慶喜の初登場は弓矢を射るシーンでした。
そのときの慶喜を演じたのは三田村邦彦でしたね。

今回は何といっても、篤姫と水戸斉昭の対面が見せ場でした。
斉昭が薩摩藩邸を訪問したのは事実です。前回書いたように、先日、斉彬側近の竪山利武の公用日記に書かれているのを見つけたのですが、メモをとっていなかったため、いつのことだったか探し出せずにおります(汗)。
念のため、安政2年の桜の頃、旧暦3〜4月を見てみましたが、ありませんでした。

ただ、ひとつ不審だったのは、斉彬がこの花見の宴席をもうける理由を、自分の病気全快を祝うためだとしていた点です。
前回も書きましたが、斉彬は前年(安政元年)7月末に発病して9月には全快しております。
そうであれば、翌年3月頃の花見に全快祝いというのは時間が空きすぎています。まあ、これまでの筋立てからそうするしかなかったのでしょうが。

斉彬と西郷のやりとりについて。
西郷が斉彬に諫言しておりました。じつはこれ、有名な話です。
「西郷隆盛カ諫言ニ対シ斉彬公ノ御弁解」(『斉彬公史料』二所収)という史料があります。一部引用します(読み下し、片仮名を平仮名に直しています)。

「御前(斉彬)にはオランダ好き[洋癖]の御癖あらせらると、皆人評判仕り、特に他藩水戸人なども評し奉る、私にも其の通りと存じ奉る旨言上せしに、 御晒し遊ばされ、手前にも左様に思ふか、水戸人などが評判するは苦しからず、遠からず思ひ当る世となるべし」

といってから、斉彬は滔々と持論を西郷に語ってきかせます。病人と薬の比喩こそありませんが、のちに西郷が「水の流るるが如く御論弁あらせられたり」と述懐しているほどですから、西郷は圧倒されてしまったのでしょうね。
斉彬が西郷の口ごもりに「蘭癖か」と問い質しましたが、上記史料には「洋癖」とあります。まあ、似たような言葉ですが。

ちなみに、このシーンは「翔ぶが如く」でもありました。そちらは男が主役だったせいか、もっと時間をとって、斉彬役の加山雄三が西郷役の西田敏行をこんこんと諭したので、最後は感動した西郷が泣き出してしまいました。

また斉彬が西郷に篤姫入輿の婚礼道具の購入を命じておりましたが、これはどうでしょうか。
たとえば、「竪山利武公用控」安政元年9月2日条に、

「金六百両 右篤姫様御一条に付、色々御道具御取入代として、山田壮右衛門へ相渡す」


とあります。これは「御道具御取入代」とありますから、明らかに篤姫の婚礼道具の購入費用をさします。また、それから4日後の9月6日にも、さらに600両が山田壮右衛門に渡されています。都合1200両ですね。
山田壮右衛門はおそらく小納戸役ですから、いかにもこの役目にふさわしい人物です。
庭方の西郷がそうした表向きの要件をつとめるのは不自然ですね。

花見のあと、将軍家定がようやく御台所の件を了承し、阿部正弘と松平慶永が安堵しておりました。
それと関連するかもしれませんが、「竪山利武公用控」安政2年7月2日条に次のようにあります。

「篤姫様御一条に付ては、来る八月・九月・十月中迄の内にはとふか御発もあらせらるべきやに、極内去る方様より御承知遊ばされ候由」

篤姫の入輿予定日が8〜10月中旬頃にどうかという打診があったとのこと。
「去る方様」が誰だかわかりませんが、これまでの斉彬がもっている幕閣ルートの人脈からすれば、奥医師の多紀元堅ではないかと思います。
花見のあとにあった話ですから、ほぼ時系列どおりですね。

最後に、篤姫が小さい姫を膝に乗せて昔話か何かを話してあげていました。
これは義妹、すなわち斉彬の娘と見るべきでしょう。配役をちゃんと見ていなかったので何ともいえませんが、おそらく暐姫(てるひめ)でしょう。
嘉永4年(1851)生まれですから、数えの5歳。
何となくそんな感じでした。
なお、暐姫はのちに斉彬の跡を継いだ藩主茂久(忠義)夫人になります。

次回は安政大地震があるようですね。
「篤姫紀行」は次回か次々回に薩摩藩の渋谷屋敷が出てきそう。あるいは入輿のときかもしれませんが。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第15回「姫、出陣」

ドラマ進行時点:嘉永7年(安政元年、1854)

予想していたとおり、篤姫は高輪屋敷の隠居斉興とお由羅の方のところに乗り込みましたね。芝の上屋敷の噂と断りながら、「呪詛したのではないか」とお由羅にストレートに質していました。
まったくもって、ありえない話ですな(笑)。
だいたい、お姫さま、それも将軍御台所を約束されているお姫さまがそんなことを不躾に口走るなんて、はしたないの一言で、斉興の逆鱗に触れ、篤姫は蟄居か養女縁組解消、幾島も教育不行届でお手討ちになってもおかしくないくらいの事態だと思います。
いくら、篤姫の見せ場をつくろうといっても、あまり無理をしないほうがいいですね。現代人には受けるかもしれないですが、当時の身分秩序や人間関係などを逸脱しすぎています。

ドラマの最初にあった調所広郷邸への乗り込みから始まって、因縁ある有名人物と篤姫とを無理やり関わらせるやり方は脚本・制作側に一貫しているようです。次回は水戸斉昭でしょう。
個人的には、「大河主役御節介症候群」と呼んでますけどね。もっとも、今回に限ったことではないですから、大河ドラマの伝統的手法のひとつかもしれません。

それはさておき、
西郷吉之助(当時は善兵衛と名乗る)が斉彬の庭方に引き立てられ、世子虎寿丸を肩車したりしておりましたが、その虎寿丸も夭逝。その心労がたたってか、斉彬まで寝込んでしまいました。

ただ、斉彬父子の病気と早世の因果関係は必ずしもドラマの通りではないかもしれません。
西郷が国許の友人福島矢三太に宛てた書簡(8月2日付)によれば、斉彬が俄に発病したのは7月晦日のこと。

先々月晦日より太守様(斉彬)俄に御病気、一と通りならざる御煩い、大小用さえ御床の内にて御寝も成らせられず、先年の御煩いの様に相成る模様

大小用も床の中でしなければならないほどの重病とのこと。これも初めての病気ではなく、以前も同様の病気にかかったようですね。
病名が気になるところですが、薩摩藩が幕府に届け出たところによれば、「疝癪」(せんしゃく)とのこと(「竪山利武公用控」)。
辞書によれば、疝癪は「胸・腹・腰などが急にさしこんで痛む病気。さしこみ」とあります。ただ、これは幕府に届け出た表向きの病名なので、実際にそうだったのかどうかは不明です。
なお、斉彬の病気が全快したのは同年9月ですから、2カ月以上寝込んでいたようですね。

一方、世子虎寿丸は閏7月23日の午後零時頃に吐瀉し、昼に12度、夜に25度も吐き、翌24日深夜2時ごろ他界したようです。

虎寿丸は幼児ということもあり、急病を発してほどなく他界したと思われますから、斉彬発病後のことになると思われます。したがって、斉彬は虎寿丸の他界による心労で倒れたのではないかもしれません。

最後の「篤姫紀行」で、西郷ゆかりの地として、目黒不動尊が出ておりました。
これも、上記の福島宛て西郷書簡に出てきますので、紹介しておきます。

太守様にも至極に御気張り遊ばされ候御様子と伺われ申し候、又此の上御煩い重ね候ては誠に暗の世の中に罷り成り候儀と只身の置処を知らず候、只今致方御座なく目黒の不動へ参詣致し、命に替えて祈願をこらし、昼夜祈り入る事に御座候、熟(つらつら)思慮仕り候処、いずれなり奸女をたおし候外望みなき時と伺い居り申し候。

引用中に、目黒不動尊に参詣して祈願したこと、「奸女」(お由羅の方)を打倒するとあります。西郷のお由羅憎しの感情が伝わってきますね。
ドラマではその割に、悪女に描かれていませんでした。あるいはこれからまた別の展開があるのでしょうか?

水戸斉昭の言動も少し不審です。
島津家への警戒心をあらわにしておりましたが、外様と親藩の違いを超えて、両家、両者はむしろ親密な間柄にあります。とくに斉彬と斉昭はペリー来寇以来の非常時において、幕政から排除されている親藩と外様が幕政関与を要求するという点では利害を共有する立場にあります。

また老中阿部が冷静に指摘していたように、息子の慶喜を一橋家の家督とし、姉は関白鷹司政通夫人ですから、島津家と同様、将軍家と摂関家の双方と結んでいます。

それに、斉彬は世子時代から斉昭と交流があり、その一環として、拙稿「さつま人国誌」でも書いたように、斉彬が斉昭に狆(ちん)を贈っている事実もあります。また、水戸藩でも反射炉建設をしようとしていましたが、これにも斉彬が援助しており、集成館の技術者として著名な竹下清右衛門を水戸へ2年間も出向させているほどです。

次回は、篤姫と斉昭の対面があるようです。
これはおそらく、斉昭が薩摩藩邸を訪問した事実と結びつけたものでしょう。

大久保一藏の父利世が配流先の沖永良部島から帰還して、一家は大喜びでしたね。
ただ、ドラマの展開で年が改まったかどうかよくわかりませんでした。改まっていなければ、帰還年次が違うのではないかと思います。
『大久保利通文書』十所収の「大久保利通年譜」によれば、帰還は翌安政2年3月14日ですね。
ドラマでは、斉彬の病気、虎寿丸の死去から、後半には年が改まっていたでしょうか? どうも記憶があいまいです。

余談ながら、斉彬が篤姫を「篤子」と呼んでいました。
「篤姫」は通称(仮名)であり、「篤子」は実名というとらえ方でしょう。
ただ、「篤子」という実名があったかどうか定かではありません。
これに関しては、疑問を呈している研究者もいます。ここです。
なかなか鋭い意見なので、ご参考までに。

要するに、篤姫の名乗りは

通称:篤姫(斉彬養女)→篤君(近衛忠熈養女)→篤姫君(将軍御台所)

実名:一子(かつこ)→敬子(すみこ、近衛家養女)

実名は一子と敬子だけで、その間に篤子とは名乗っていないのではないかというのが高尾さんの見解だと思います。今後の検討課題にしておきます。

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