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歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
いささか旧聞に属する話柄ですが、南日本新聞9月4日社会面に、表題の記事が掲載されました。
同紙ネット記事には掲載されていないようですね。
*↑私の調査不足でした。同紙サイトに記事があります。ただし、紙面の抄録のようです。ここです。

篤姫の初名が通説の「一(かつ)」ではなく、「一、市(いち)」ではないかという点については、すでに中村武生氏も指摘しており、小生も同意したことがありました。中村氏のブログのここです。

今回、崎山健文氏(黎明館学芸専門員)によって明らかにされた史料は、尚古集成館所蔵の「典姫様日記 寶印御方」。
典姫は島津斉彬の娘で、嘉永5年(1852)生まれ。のちに重富島津家の珍彦(忠鑑)に嫁いだ人でしょう。
その嘉永6年4月5日条に次のように書かれているそうです。

「今和泉於市様事、今日篤姫様と被仰出候」

篤姫の幼名を「於市」と書いてあります。これを「おかつ」とは読まないでしょう。
なお、典姫はこの日記時点で2歳ですから、日記を書けるはずがなく、傅役や乳人など周辺の人間が付けていた日記でしょうね。

さらに「日記 表方御右筆間」という史料には、天保7年(1836)8月5日付に、篤姫の義理の叔母にあたる女性が勝姫(かつ・ひめ)と改名したので、以後、「勝」の字と「かつ」の呼び名を遠慮するよう通達があったと書かれているそうです。

この改名は篤姫が生誕した翌年です。
篤姫が生まれてから、この改名通達までのおよそ8カ月間だけ、篤姫は「おかつ」だったかもしれないと、崎山氏はコメントしています。
これで一応、通説と新説を整合させたわけですね。

なお、勝姫は斉彬の妹ということになっていますが、じつは斉彬の祖父・斉宣の娘です。
藩主だった斉宣が父重豪に勘当されたために、その娘たちは兄である斉興の養女となりました。
関白近衛忠煕の夫人である郁君も斉興の娘ということになっていますが、じつは先代斉宣の娘です。

この「日記 表方御右筆間」には、篤姫の江戸行きの記事もあるそうです。
昨年、中村氏が血まなこになって探していた史料のひとつが出てきたことになりますね。
大坂・住吉神社や鎌倉・鶴岡八幡宮など、島津家ゆかりの地にも参詣しているなど、新たな足取りも判明したとか。
肝心なのは、京都滞在の数日間なんですけどね。
さて、その記述はあるのでしょうか? 
新聞記事には書かれていません。

なお、私が以前気づいた史料は、斉彬の側用人日記「竪山利武公用控」(『鹿児島県史料 斉彬公史料四』)の安政2年(1855)条末尾に備忘的に書かれている「嶋津安芸家大凡」です。
史料名のとおり、篤姫の実家である今和泉家の系譜が簡単に書かれています。その十代忠剛、つまり篤姫の実父の項に、

「嫡女 お市 寅十九歳、母同断」

とあります。
これが篤姫であることは明らかで、名前が「お市」だったことがわかります。

もっとも、これには通説と異なる記述もあります。安政2年時点で数え19歳ということは、天保8年(1837)生まれということになり、通説より2歳年下になります。また「寅」が生まれの干支だとすれば、まったく合いません。まさか名前ではないと思いますが……。

今回の発見や中村氏が見つけた『仙波市左衛門日記』の記事などと合わせると、篤姫を名乗る直前に「いち」「おいち」という名乗りだったことは確実だといえそうですね。

それにしても、尚古集成館には『鹿児島県史料』に収録漏れの、未見の史料がまだまだ眠っている可能性がありそうです。

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【2009/09/05 18:30】 | 篤姫
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松裕堂
>同紙ネット記事には掲載されていないようですね。
【篤姫は「おいち」? 黎明館学芸専門員が新史料発見】
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=19109
上件の記事ではないでしょうか。
とりあえずご報告まで。

ありましたね
桐野
松裕堂さん、こんにちは。

私の探し方が足りなかったようです。
ご教示有難うございました。

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南日本新聞本日のニュースです。
詳しくはここ

天璋院篤姫の銅像が鹿児島に建つことになりそうですね。
場所の候補地は3カ所あげられていますが、さて、どこになるのでしょう?
常識的には生誕地である今和泉島津家の城下屋敷跡か。

主体は昨年、鹿児島で長く開催された「篤姫館」の実行委員会で、余剰金4.000万円を投入するそうです。
ほかにも、榎木孝明氏製作の映画「半次郎」にも助成するようです。

篤姫館といえば、昨年度終盤に、「さつま人国誌」掲載の拙稿「篤姫とミシン」もパネル展示していただき、実際に観てきました。
懐かしいです。

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【2009/08/19 10:08】 | 篤姫
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候補地
岩剣石塁
「など候補地9カ所」の、名前が挙がっていない他の場所が
どこなのか気になりますね。
 石橋公園周辺も今和泉島津家浜屋敷が近くにあった
ということなので、候補地なのでしょうか?
 ドラマと関連付けるとなると西郷隆盛・小松帯刀と
仲がよかったということになっているので、両銅像の
真向かいの中央公園という場所もありますが、
家格的に鶴丸城内の黎明館あたりになるのではないかと
勝手に想像しています。

鶴丸城内?
桐野
岩剣石塁さん、ご無沙汰しておりました。

篤姫銅像はどこに建つんでしょうね。
ゆかりの地はいくつかありますから、どこになるのか今後注目ですね。
何か地元情報があったら教えて下さいませ。

もっとも、鹿児島は銅像が多い土地柄で、ますます増えてしまいそうですが(笑)。



酩酊
はじめまして。
桐野さんのお名前を知ったのは大河の徳川慶喜の時に、「孤高の将軍 徳川慶喜」を買って読んだときです。
あれ以来、ちょっと歴史熱が冷めましたが、大河ドラマ「篤姫」を放送していた時に、ひょっとしてサイトでも作っているかなと思って検索したところ、ここを発見しました。
篤姫ブーム、凄かったですね。個人的には幕末物が好きです。
天地人は…あまり見ていません(笑)。兼続の子役だった子が、トヨタのCMに出てますね(笑)。
これからもお体に気をつけて、たまに心霊写真でもUPしてください。楽しみにしております。

御礼
桐野
酩酊さん、はじめまして。

私の古い拙著、読んでいただき有難うございます。
心霊写真?の一件もご覧になったのですね。
その後、新ネタは見つかっておりませんが、また面白い写真や話があったら書きたいと思います。
今後ともよろしく。


トンちゃん
彼女は当時の写真が残ってるから、写実的な像できますね
ただもう少し大きめの銅像にした方がいい気がします…
ゆかりの地に建立されるといいですね

モデル
桐野
トンちゃんさん、はじめましてでしょうか。

コメント有難うございます。
篤姫の晩年の写真が当然、基本になるんでしょうね。
もっとも、ドラマのファンあたりでは、どうせなら、あおいちゃんをモデルにして作ったらどうかという意見もあるそうで(笑)。

個人的には、菅野美穂のほうが薩摩の女性に見えましたけど。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第50回「一本の道」

いよいよ最終回となりました。
昨夜、観られなかったので、遅ればせながら、本日鑑賞。

明治になってからの篤姫を描いたためか、すでに「総集編」的な趣きになっていたように感じました。

小松帯刀の死の様子については、私も一昨日、書いておりますので、前回分をご覧下さい。
ドラマでは「足痛」が強調されていましたが、今回は病床の小松が初めて吐血して、看病するお琴を驚かせたシーンがありました。
明言はしていませんでしたが、明らかに肺結核とおぼしき症状でしたから、同説を唱えた小生としては満足です。

ひとつ気になったというか、なるほどなと思ったのは、小松が病死した場所です。
外国人の医師が小松を治療していました。テロップは出ませんでしたが、おそらくオランダ人医師で小松の主治医だったボードウィンを想定しているのでしょうね。小松がボードウィンの治療を受けている様子はここに書いています。
ボードウィンは大坂医学校を設立して、医者の育成にあたりましたが、小松はそこに入院しているという設定でした。

私も同所に入院してそこで亡くなったというのも有力だと思うのですが、それを裏づける史料がないように思います。
一方、小松が亡くなる8カ月ほど前、大久保利通に宛てて病状を知らせた書簡のなかで、「八畳の床の中で大弱りです」と書いています。これはどうも日本間風に思えるので、小松はお琴の居宅で療養していたのではないかと推定しました。

もっとも、病状が重くなってから、設備のととのった大阪医学校に移った可能性は否定しません。

あと、鹿児島のお近が上坂して、お琴と一緒に看病にあたっていました。
これは史実です。ただし、上坂してきたのはお近だけではありません。
薩摩藩大坂留守居役だった木場伝内が大久保利通に宛てた書簡があります(『大久保利通関係文書』三)。これは7月2日付で、同書の編者は明治2年(1869)に比定していますが、小松が鹿児島から大坂に向かったのは同年7月5日頃ですので、この書簡は同3年とすべきでしょう。

となりますと、小松が亡くなる直前に、お近たちは見舞いにやってきたことになります。
それによれば、小松の病状は一進一退で、小松の体は「いらさ竹にぬれ紙かぶせた様にて、誠に見るに忍びざる御ありさま、気の毒の事」というものです。竹のように痩せ細って、皮膚がたるんでいるような状態だったのでしょう。

この頃、すでにお近たちが小松の所に駆けつけています。
お近のほか、次兄相良長発、弟の吉利群吉、養子の小松右近(町田申四郎改め)、そして「母堂」(肝付家の実母か)などが来ています。
それだけでなく、家来など6、70人も同行していたため、その生活費や諸経費だけで一日「四拾金」(40両)かかるありさまで、「会計大いに難渋」したそうです。さすがに薩摩藩の元家老、兄弟たちも門閥家当主ですから、何かと大所帯で物入りだったようです。

当然、お近はお琴や一子安千代(のち清直)にも会ったでしょう。


次に、天璋院関係ですが、再び江戸に戻ってきた和宮と、勝海舟に連れられて、芝居見物に行ったシーンで、天璋院と和宮がお給仕でシャモジの取り合いをしたシーンがありました。
これは勝の回想録である『海舟余波』に載っていますが、場所と状況の設定が少し違います。

「後に私の家に御一処にいらした時に、配膳が出てから、両方でお上りなさらん。大変だと言って、女が来て困るから、『どうした』と言うと、両方でお給仕をしようとして睨みあいだというのサ。それで、私が出て行って、『アナタ方はどういうものです』というと、互に、『私がお給仕をします筈です、それにアナタからなさろうとなさいますから』と言うのサ。私は笑うてネ、『なんです、そンな事ッてすか、それならば良い事があります』と言ってネ、お櫃を二つ出させて、一つ宛(づつ)、側に置いて、『サ、天璋院さまのは、和宮さまがなさいまし、和宮さまのは、天璋院さまがなさいまし、これで喧嘩はありますまい』と言って笑ったらネ、「安芳は利口ものです」と言って、大笑になったよ。それから、帰りには、一つ馬車で帰られたが、その後は、大変な仲よしサ。何事でも、互いに相談で、万事、一つだったよ」

芝居見物の帰りかどうかはわかりませんが、勝の屋敷での出来事のようです。
またドラマでは、勝の機転でシャモジをもう1本もってこさせましたが、これでは、お櫃を2つ用意させて、それぞれがお櫃をそばに置いてお互いに給仕するという形になっていますね。
細かいことをいえば、ドラマでは人力車でしたが、勝は馬車だと語っています。

個人的には、天璋院が勝のためにシャツを縫ってあげたという逸話も取り上げてほしかったです。しかも、ミシンで縫っていたらなおよかったですが……。

ついでに、天璋院が静寛院宮の終焉の地、箱根塔ノ沢を訪れる場面もほしかったですね。2人の関係を偲ばせ、天璋院の静寛院宮への思いも伝わります。さらに欲ばれば、天璋院のこの旅日記によれば、新橋から横浜まで汽車を利用しています。
将軍御台所だった天璋院が汽車に乗る場面など、明治という新時代を彷彿とさせるのではないかと思いますが、予算の関係で無理だったのではないかと臆測します。

ドラマの冒頭と途中の2回、千駄ヶ谷の徳川家の屋敷の門が出てきました。
あれは上野の東京国立博物館横に建っている鳥取池田家の上屋敷門ではなかったでしょうか。
じつは、昨日、篤姫の幕末江戸ツアーの講師をして、その門を見学して説明したばかりでした。
知っていたら、参加者のみなさんに、最終回に登場しますよと伝えられたのに残念です。
もし、昨日の参加者でこのブログを見ている方がおいでしたら、あの門ですよと書いておきます。

最後に、大久保利通のヒゲ、カイゼル髭っていうんですかね?
岩倉使節団で洋行する前から、あのヒゲにしていましたが、どうでしょうか。
あのヒゲになったのは帰国後じゃないかという気がしますが。

ともあれ、1年間「篤姫」のおっかけをやってきました。
この感想は1度だけパスしたことがありますが、ほとんど毎回書いたのではないかと思います。
途中でよほど止めようかと思いましたが、日曜日の夜と月曜日にものすごいアクセス数が記録されるのを見て、みなさんの期待を裏切るわけにはいかないなと思い、何とか完走しました。
それもこれも、このブログをご覧になって下さったみなさんのおかげです。

来年の大河はどうしようかなあ……。

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【2008/12/15 20:53】 | 篤姫
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中村武生
いやいや。おつかれさまでした。たいへん勉強させていただきました。来年もどうかお願いいたしたいところです。


ぶるぼん
先生、1年間お疲れさまでした。僕のほうも今年最後のトラックバックを貼らせていただき、無事50回完走いたしました。先生の情報を参考にさせていただいたことしばしで、ほとんど関心のない当会のブログへのアクセス増にも貢献していただきありがとうございます。
 やはり先生の批評はドラマを観る上で大変参考になりますので、できれば来年の大河ドラマ『天地人』も続けてほしいです。これは僕だけでなく、読者すべてが求めていますので。僕のほうも不勉強ながら、スタンプを交えて展開していきたいと思います。

お疲れ様でした
Holy
毎回本編放映後、こちらの記事更新で補足説明(あるいは本来の史実)を読ませて頂き、お勉強させてもらえたのがドラマ以上に楽しみでした。
岩倉具視旧宅隣の対岳文庫にかかっていた岩倉使節団一行の写真の大久保甲東閣下は、ヒゲなかったですよね(笑)。私はあれはビスマルクに感化されたヒゲだと思ってたので、ドラマで維新後いきなりアレでしたからうろたえました。「新政府の大久保」としてわかり易く変身させたんでしょう。
お琴が小松の好物のお肉を買いに行っていたくだりも、桐野さんの記事を読んでいた身としては成程と思わせられました。
来年の妻夫木直江と北村景勝の物語も是非解説お願いします。特に序盤、阿部謙信は素敵そうですよ…。

ありがとうございました
もん吉
このドラマが始まってここを知り、それからは毎日アップされるのを楽しみに拝見しておりました。
ドラマだけではどこまで本当のことか創作なのかよくわからず
桐野さんの説明を読んでなるほどと思ったことが数知れず。
今まで流していた部分にも興味を持ちまたいろんな書物を読み日本の歴史も学び直したいと思う今日この頃です。
本当にありがとうございました。


不謹慎にも
NAO4@吟遊詩人
小松帯刀が吐血したシーンで、「やった。桐野先生おめでとう。」と思ってしまいました。ここは、泣くシーンですよね。
帯刀様祟らないでね。ご冥福をお祈りします。

桐野先生、この1年(私は途中からですが)ありがとうございました。信長の方も期待しております。

お疲れ様でした
シラオ
妻がTV見る横で、先生から得た知識をひけらかすのが、
私の「篤姫」鑑賞の醍醐味でした^^
しゃもじ出た瞬間!「これは事実だよ^^」とか・・・。
楽しませて頂きました。
そして今日、種明かしを告げて先生のブログを妻のパソコンのお気に入りにも設定しました。
一年分振り返ることでしょう^^
本当にありがとうございました。これからも楽しみにしております。

ありがとうございます
桐野作人
みなさま

励ましの言葉をいただき、有難うございます。
少しはお役に立ったようで、私もやり甲斐があったなと感じています。

来年の大河については、私より詳しい方がリンク先にもいらっしゃいますので、できるだけといいますか、私の守備範囲内でやっていきたいと思います。

たっぷりの休息を!
でこ
有難う御座いました 何回お礼を云ってもたりませんこれからも、お体にご無理が 有りません様にお願い致します
又 榎本さんの中村 半次郎に期待をして居ります ご成功を
祈ります 風邪の予防注射は済みまして?是非済ませて下さい

おつかれさまでした
ばんない
当方2回目で挫折したので、以後はこちらのブログを経由して「観賞」?させていただいておりました。完走された桐野さんの忍耐には感服します。

お仕事もご多忙のご様子、また、リンク先の方の守備範囲となれば、来年は視聴率とにらめっこしながら(苦笑)適当でよろしいんじゃないでしょうか。重ね重ねお疲れさまでした。

徳川家屋敷門
御座候
>あれは上野の東京国立博物館横に建っている鳥取池田家の上屋敷門ではなかったでしょうか。

何か見覚えがある門だと思ったのですが、東博正門横のアレですか。なるほど。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第49回「明治前夜の再会」

ドラマ進行時点は、慶応4年(1868)4月から6月頃。

江戸開城の手続きはあっけなく済んでしまいました。
滝山以下、大奥の女性たちのその後については、私もよく知りませんし、関心もないので書きません。

やはり、今回はタイトルどおり、天璋院と小松帯刀の再会でしょうね。いうまでもありませんが、小松が天璋院に会ったとは到底思えませんので、この話はフィクションです。

ただ、小松がその時期、天璋院に会おうと思えば会えたのもたしかです。なぜなら、小松がその時期、江戸や横浜に出張してきていたからです。むしろ、ドラマはこの史実をもとに創作されたのでしょうね。

『小松帯刀伝』によれば、同年5月10日、外国事務局判事の小松は新政府から関東赴任を命じられ、6月4日に神戸発、10日に横浜に到着しています。

一方、『小松清廉手記』によれば、6月4日11時に飛脚船コスタリカ号で神戸を発し、翌5日6時に横浜に着いています。しかし、これはいかにも早すぎる感じがします。神戸から横浜まで30時間くらいで着いた計算になりますね。到着日は『小松帯刀伝』が妥当ではないかと思いますが、あるいは当時の飛脚船はそんなに速いのでしょうか? 私にはわかりかねます。

さて、小松が関東に出張した目的は何だったかです。
もちろん、天璋院に会うためではありません。公用です。
太政大臣の三条実美が輔相の岩倉具視に宛てた書簡(5月5日付)には、次のように書かれています。

「一、先だって申し達し候諸局より人選を以て東下の義、何とぞ急々御沙汰渇望奉り候、軍防局烏丸・長岡、諸局にては、大久保・木戸・後藤・小松・広沢のうち、両人ばかり下向、その外には誰にても宜しく候」

おそらく、江戸開城、上野戦争後、旧幕諸隊が脱走して宇都宮・白河方面に北上したため、新政府軍はこれを追撃することになったので、江戸の政軍の人材が払底したため、京都から送ることになったのでしょう。軍防局として、公家の烏丸光徳と長岡護美(肥後細川家)が送られることとなり、政治方面としては、参与から大久保一蔵・木戸貫治・後藤象二郎・小松帯刀・広沢真臣のうち、2人くらい出張させようというのが三条実美の意見のようです。
ここに挙げられている人名は薩長土の最有力者ばかりですから、当時の小松の地位の高さがうかがわれます。
そして結局、2人ではなく、小松だけが出張することになったようです。
小松に同行したのは伊東(伊藤博文か)・中井弘・山口尚芳のようです。

小松の江戸行きは政務全般もさることながら、ある任務があったようです。
それは、諸外国への借款返済という目的です。
『小松帯刀日記』によれば、同年3月頃の記事で、五代友厚からの申し送り事項として、

「一、大坂邸中にて焼失ホートエンへ八月中二万ドル、十月中二万ドル、のち四万両余、当年中政府より払方一条」

これは鳥羽伏見の戦いのとき、旧幕軍が大坂の薩摩藩蔵屋敷を焼いてしまったため、屋敷内にあったお金も焼けてしまったようで、オランダ商人ボードウィンへの支払いが滞り、その期限が今年中に迫っていたため、何とかこれを新政府に払ってもらおうということのようです。

それとは別に、幕府がフランスから購入した武器代金や横浜・横須賀製鉄所建設などの借款も残っており、これを同年7月中(西暦)に返済する必要もあったようです。幕府の借金なのに、新政府が引き継いでいるわけです。
また、同じく幕府が長崎飽之浦につくった製鉄所の費用がオランダ商社への借金残高として、13万5000ドルもあり、それを6月から10月まで毎月1万ドル、11月から翌年2月まで2万ドルずつ返済していくという段取りになったようです。

そうした旧幕府の借財の返済が、小松が江戸へ行った目的のひとつだったようです。
そんな仕事は下級役人でもできるはずだという見方もあるかもしれませんが、決してそうではありません。新政府の成立にあたって、前政府(幕府)の借金を清算することは、外交上、国家主権を諸外国に認知してもらうために重要な仕事でした。新政府の出発にあたって、諸外国の信任を得ることは最重要課題だったわけで、その仕事を小松が果たしたことになります。

さて、ドラマに戻りますと、天璋院と小松の一橋邸での再会のとき、天璋院が小松にまた会いましょうと告げたら、万感迫った小松が涙を流しました。その瞬間、小松の痛々しい足が大写しになりましたから、小松はすでに自分の寿命を悟っており、次に会える機会はないことを知っていたからこその涙だったのでしょう。

せっかくの永遠の別れのシーンに水を差すようですが、じつは小松はこのあと、もう一度江戸・横浜に行っています。
それは慶応が明治と改元された直後の9月10日、明治天皇の江戸行幸(要するに東京遷都です)に先行して、江戸行きを命じられています。
しかし、持病の足痛のため、小松は明治天皇の鳳輦に遅れて、10月末に横浜に着いています。もっとも、すでに仕事はできなくなり、治療に専念していたようです。そして、早くも翌11月中旬には治療のため、鹿児島に帰ることになりました。このとき、横浜での滞在期間は20日間くらいですね。
このときも無理をすれば、時間的には天璋院に会えないこともありません。

さて、次回の最終回では天璋院が横浜の小松を見舞うシーンがあるでしょうか? 予告では病床の小松が映っていましたが、あれは終焉の地となった大坂でしょうかね。

なお、ドラマでは足痛が強調されていますが、私は小松の死因は肺結核だと思っています。
これは2年前の慶応2年(1866)あたりから史料でも徴候が出ていることを確認できます。
死因については、今回ではなく次回にでも。

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【2008/12/08 00:38】 | 篤姫
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東久世通禧日記
まいたけ
 先日は、白峰の手紙のことで、大変お世話になりました。

 当時、横浜在勤であった東久世通禧の日記から、横浜での小松の行動がわかりますのでご紹介します。

五月廿八日
一、大坂より便あり、浪花丸来、参与小松帯刀・御用懸中井弘蔵・山口範蔵、米国飛脚船二て二日頃来港、(以下略)

六月三日
一、蘭公使面会、瑞典・那耳回条約御委任之儀宇和嶋ヨリ申来二付催促、近日小松着港之上可及談判事

六月六日
一、小松帯刀・中井弘蔵・山口範蔵昨夜着船

六月八日
一、判事助勤中井弘蔵・山口範蔵
  右者当港へ昨五日着、今日ゟ裁判処出勤可有之事

六月八日
一、長崎泡(飽カ)浦入用金旧政府二而和蘭商社へ借受之残金十三万五千弗有之処、此節約束ヲ改メ我六月中壱万弗、七・八・九・十・十一月弐万弗、十二月・正・二月弐万五千弗、相払可申云々
   辰六月 小松帯刀  和蘭岡士 アンテルタツク君

六月九日
一、四字仏公使館行、小松同伴、製鉄所之事

六月十日
一、小松帯刀今朝陸路江戸へ行

上記のことから、横浜に着港したのは六月五日で、江戸に着いたのが六月十日となります。『小松帯刀伝』の記述は、江戸着であるのを横浜着と間違えているものと思います。

ついでに、この後、小松は、江戸から帰り、横浜で仕事をこなしてから、再度江戸へ行っています。

六月十六日
一、小松帯刀江戸より帰ル

六月廿日
一、小松帯刀・寺嶋陶蔵横須賀見分之事
一、四時英公使館行、小松石見等同伴
  大坂居留地之事、西班牙条約之事、切支丹輩寛典御処置之事、函館外国人取扱振不平之事

六月廿三日
一、昨日小松帯刀英公使対談
  一、燈明台請負人着港居所之事
  一、陸軍教師雇方之事
  一、西班牙国条約之事  
  一、切支丹之輩処置之事
一、小松仏公使館行、陸軍教師雇理事

六月廿五日
一、エンシヱル職ノ引合、小松より約定書之事

六月廿七日
一、夕景蘭公使館行、食事、小松・寺嶋・山口同伴

六月廿九日
一、小松帯刀出江戸二付、左之件々申付ル
  一、弐万弗民部大甫(輔)入用金之事
  一、外国用普精(請)料之事
  一、坂田源之助浦賀詰申付事
  一、岡本徳次郎役義御免 五十両拝借 肥前重役へ申達事
  一、横須賀造作材木之事 幕府
一、当百銭造作銃鋳直し之事
  一、水野・杉浦御用掛申付、月給百円宛之事

七月十七日
一、蘭公使来ル、瑞典条約之事、小松明日横浜へ帰り、夫より直ニ上坂、廿日間二て可取極、全権者寺嶋・小松・予三人之事

七月十八日
一、小松帯刀昨夜より帰ル、三字同伴英公使間二行、
  エリカラフトノ事、五十万弗借替仏国払方之事、海軍教師ヨリ雇入不平之事

七月廿日
一、小松帯刀入来、風邪再発々熱平臥

七月廿七日
一、小松帯刀明日より上坂、大隈八太郎同伴事

船足
岩剣石塁
 神戸~横浜航路が約670kmくらいみたいなので、
その距離を30時間ということは、時速約22Km/h。
 船の速度は約12ノットといったところでしょうか。
(1ノット=1.852km/h)
 当時の船は外輪船もしくは初期のスクリュー船で、
代表的な船としては薩摩藩の春日が外輪船で17ノット、
幕府の開陽丸がスクリュー推進の12ノットらしいので、
当時の民間優速船でも充分あり得る船足ではないかと
思います。
 参考までに現代の桜島フェリーの航海速度が11ノット
くらいのようです。

小松の仕事ぶり
桐野作人
まいたけさん、こんにちは。

東久世通禧の日記をたくさんアップしていただき、有難うございます。
小松が精力的に仕事をしていることがわかりますね。
明治元年、同二年の外務大臣は小松だったといっても過言ではないような気がします。


速いですね
桐野作人
岩剣石塁さん、こんにちは。

まいたけさんのご紹介の日記から、やはり飛脚船コスタリカ号はかなり速度が速くて、一昼夜で神戸-横浜間を運航しているようです。

また、岩剣石塁さんの速度計算でも、十分それが可能なことがわかりました。
有難うございます。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第48回「無血開城」

ドラマ進行時点は、慶応4年(1868)3月。

いよいよ江戸開城まで来ましたね。
史実の基本線は押さえてあったので、まずまずだったのですが、小松帯刀の場面だけは違和感が拭いきれません。結局、小松が幕末維新に果たした役割は何だったんだという気がしますが。

それはさておき、江戸開城に至る西郷吉之助と勝義邦の会談について述べておきます。
配役では、ずっと勝麟太郎と書かれていましたが、ドラマの中では「勝安房守」と呼ばれ、統一がとれていませんでした。島津久光を忠教から久光へと変えるなど、名乗りについてはとても意欲的でしたから残念ですね。島津忠義も同様です(茂久の名乗りが省かれました)。

勝海舟の日記(江戸東京博物館版)によれば、会見は3月13日と翌14日の2回行われています。

会見場所ですが、どうも1カ所だけではなかったようです。ドラマでは薩摩藩邸としか描かれていませんでしたが、薩摩藩の上屋敷である芝本邸は前年のクリスマスに幕府軍によって焼かれています。そのため、近くにある田町屋敷(町屋敷)が会見場所になっています。現在、田町駅近くにある丸い会見の碑のあたりですね。

勁草書房版の海舟日記3月13日条には次のように書かれています。

「高輪薩州の藩邸に出張、西郷吉之助へ面談す」

これによると、1回目の会見は高輪の中屋敷で行われたようです。
2回目の14日が田町屋敷だったとされていますが、一説によれば、田町屋敷近くのしもたや橋本屋で2回目の会見があったともいわれています。

なお、ドラマ最後の「篤姫紀行」では、池上本門寺の松涛園が紹介され、ここで両雄の会見があったと解説されていました。
池上本門寺が3月時点での東征大総督府の本営になっていたのはたしかです。4月4日、西郷は江戸城に乗り込んで、接収の手続きをしました。
その後、同月10日、勝が池上本門寺を訪れて、西郷と対面したといわれています。「篤姫紀行」はこのことを紹介していたわけですね。

もっとも、勝の日記(勁草書房版)によれば、4月9日条に「大久保一翁と共に、池上御先鋒の参謀へ談判す」とあり、翌10日条にも「池上へ行く。咋談ぜし処、皆良しと云う」とありますが、両日とも西郷の名前は出てきません。
9日条の「御先鋒の参謀」とは、東海道先鋒総督府参謀のことで、薩摩の海江田信義と長州藩の木梨精一郎ですね。ですから、この日は西郷と会っていないはずです。会ったとすれば、翌10日でしょうか。確証がつかめません。

ドラマで、勝が西郷との会見の前に、イギリスに江戸城下を焼き払うという情報を流すと天璋院に告げ、会見でも西郷がそのことに触れていました。
両雄の会見で外国の関与があったことを描いたのは大河史上、初めてではないかと思います。もしそうなら画期的です。
イギリス云々の典拠はおそらくアーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)でしょう。次のように書かれています。

「勝は、慶喜の一命を擁護するためには戦争をも辞せずと言い、天皇の不名誉となるばかりでなく、内乱を長引かせるような苛酷な要求は、必ずや西郷の手腕で阻止されるものと信ずると述べた。勝はまたハリー・パークス卿に、天皇の政府に対する卿の勢力を利用して、こうした災いを未然に防いでもらいたいと頼み、長官も再三この件で尽力した」

この一節がドラマに取り入れられたわけですね。なかなかだったと思います。
もっとも、勝がパークスに申し入れた時期が同書には書かれておらず、前後の文脈からすれば、3月14日の会見以降のようにも見えます。

余談ですが、この頃の勝の日記に興味深い記事があります。たとえば、3月16日条には、

「品川にて、薩州の諸隊長相良已下に引合う」

18日条にも「相良へ一書を送る」とあります。
この相良は薩摩藩士の相良治部長発(ながなり)だと思われます。ほかでもない、小松帯刀の次兄です。肝付家の二男に生まれ、相良家の養子となりました。相良家の家格は寄合で、一所持である肝付家や小松家より一段下ですが、それでも門閥家です。

長くなったので、今日はこの辺で。

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【2008/12/01 23:55】 | 篤姫
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お話大変ありがたく思います。
NAO4@吟遊詩人
本当に毎回面白いお話を聞かせていただき、感謝しております。

大河第48回「篤姫紀行」で、池上本門寺が会見場所と紹介され、ドラマ本体の薩摩藩邸と違っていたので、違和感を覚えましたが、桐野様のブログにて氷解いたしました。ありがとうございました。

以下、大河と桐野様のブログに関しまして、いくつかお聞きしたいことがあるのですが、御気が向きましたらお教えいただければ、幸甚でございます。

(1)戊辰戦争が勃発して、東征軍が江戸に到着するまでの間、江戸薩摩藩邸は、薩摩藩士によって確保されていたのでしょうか。
(2)ブログにお書きの薩摩藩士「相良」とは、肥後の大名「相良」氏と関わりのある家柄なのでしょうか。
(3)大河47回から、気になっていたのですが、東征軍の陣所のシーンで、背後の旗が、中央に「錦の御旗」、向って左に島津の「丸に十の字」は分かったのですが、右側の旗がよく分かりませんでNHKに問い合わせたのですが、「薩摩藩の紅白四方の旗」とのつれない(それ以上の解説が無いという意味)回答でした。「四方の旗」とは、「四角形(恐らく方形)の旗」という意味だと思うのですが、つまり何なのでございましょうか。

(3)は、とても恥ずかしいことをお聞きしているのかもしれませんが、またお忙しいところ、大変不躾なことをお聞きしてしまい申し訳ありません。本当に御気が向いたらで結構ですので、ご教示いただければ、ありがたく思います。

お尋ねの件
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

忙しくしていたので返事が遅くなりました。
お尋ねの件ですが、

(1)江戸の薩摩藩邸
 幕末になると、京都が政治の中心になりますので、江戸の藩邸の比重が相対的に低くなる傾向があります。
薩摩藩においても、西郷吉之助が慶応元年(1866)12月に江戸の藩邸引き払いを主張しているくらいです。実際、人員など縮小されたようです。
 そして同3年12月25日、幕府軍によって芝の上屋敷が焼き打ちに遭いました。上屋敷じたいは建物がなくなってしまったと思われます。以降、上屋敷以外の薩摩藩邸もすべて幕府の管理下に入ったものと推定されます。若干の留守の人数はいたかもしれませんが。
 もっとも、翌4年3月、東征軍が江戸に入ってくると、東征軍の主力である薩摩藩への配慮もあって、藩邸は幕府の管理から離れたと思われます。

(2)相良氏
 小松帯刀の兄、相良長発の養家である相良家は、ご推察のとおり、肥後球磨の相良氏と縁があるようです。
 鎌倉時代、相良一族の一人が稲留善介と名乗り、島津忠国に仕えました。戦国時代になって、稲留氏は島津義弘に仕えました。天正初年、球磨の相良義陽が島津氏に降参したとき、稲留新助が義陽のところに使者に発ったとき、義陽と同族ゆえ、相良名字の名乗りを願い出て許されました。
 稲留新助改め、相良日向守長泰となり、これが江戸時代、寄合の相良家の祖となります。

(3)紅白四方の旗?
 薩摩藩の軍旗のシーンをよく見ていなかったもので何ともいえませんし、私も軍旗方面は詳しくないものでして。
 あえて推測すれば、その旗は四角くて、上半分が赤、下半分が白だったでしょうか?
 当時のいわゆる官軍では、その主力を構成する薩長土の三軍の間で、互いに相手を識別できるよう、麾下の各部隊(小隊単位でしょうか)ごとに手旗をもたせています。これが薩長土で、それぞれ色とデザインが異なっていました。たとえば、
鹿児島の黎明館刊行の図録「鹿児島の歴史と文化」によれば、

土佐:縦長旗を上下に三分して、上は赤、中は白、下は赤。
長州:四角い旗を斜めの対角線で分割し、右下が赤、左上が白。
薩摩:縦長を上下に三分して、上は赤、中は黒、下は赤。

これに関しては、玉里島津家所蔵の戊辰戦争絵巻のなかに、長州藩兵が休息している場面がありますが、長州藩の兵士がもっている手旗は上記と同様ですね。

それとは別に、黎明館所蔵の東征軍絵巻のなかに、薩摩藩と思われる砲隊が砲撃している場面が出てきますが、そのなかでは、上が赤、下が白の手旗を立てています。これは上記の薩摩の三分割の手旗と色・デザインとも違います。
ご覧になった「四方の旗」はこのデザインだったでしょうか?

もっとも、小部隊が目印にもっている手旗と、藩の本営に置かれている本陣旗が同じだとは限りませんけれど、上が赤、下が白というデザインでしたら、これらの絵画史料を参考にしたかもしれませんね。

なお、薩摩藩本営に立っていた錦旗、丸十紋旗、赤白四方旗の3種の旗にはそれぞれ、位置づけというか意味があったと思います。
錦旗はご承知の通り、官軍たる東征総督府の旗、
丸十紋旗は島津家、薩摩藩であることを示す藩旗、
赤白四方旗は、官軍に属する一藩を識別するための旗。藩といいながら、あくまで朝廷に属する一官軍部隊という位置づけでしょうか。

どうもありがとうございました。
NAO4@吟遊詩人
きめ細かいコメントをいただき、感激いたしております。ありがとうございました。特に四方の旗の件大分正解に近づいたように思えます。TVで見えた旗というのは、三色旗のように見えました。でもNHKの説明では、「紅白二色」で、影の部分をもう一つの色と勘違いしたのではないかとのコメントでした。お忙しいところ、本当にありがとうございました。

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