歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
新講座のご案内です。

名古屋の中日文化センター講座「信長公記を読み解く」を長らく続けてきましたが、昨年12月で終了しました。
今年1月からは、新たに講座「秀吉の伝記『天正記』を読み解く」を始めます。
筆者は大村由己(おおむら・ゆうこ)で、豊臣秀吉の伝記のなかでは、もっとも信頼が置けるとされる記録です。

講座は毎月第4木曜日の開講です。
第1回は1月22日13:00~14:30。
演題は「大村由己『天正記』とは? 播磨別所記①」です。

興味のある方(とくに東海地方ですが)は受講してみませんか。

講座内容、申し込み方法など詳しくは同センターのサイトのここをご覧下さい。

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【2015/01/06 00:02】 | 中日文化センター
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本日は、日帰りで名古屋出張です。
中日文化センターでの講座「信長公記を読む」に出講です。

やりかけの仕事が終わらないで、それを放り投げていきます。
仕事の管理が悪いのか能力の問題なのか、他の仕事があるなかでのレジュメづくりもなかなかしんどいものがあります。今回はまたパワーポイント使用予定。

抱えきれない仕事の現状は頭が痛いです。
というか、実際にこめかみあたりが痛いです。
夏風邪だろうか?

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【2011/08/25 08:34】 | 中日文化センター
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一昨30日、名古屋の栄中日文化センターに出講。

他の仕事との折り合いがつかずに、レジュメの作成が前夜未明までずれ込み、就寝は午前3時過ぎ。
6時過ぎには起床で、内外のネコの世話をはじめ、あれこれ雑用が大変。

13:00からは「信長公記を読み解く」第3クールの3回目。
テーマは「志賀の陣と『勅命講和』

レジュメはB4で15枚。
どうだという感じですな(爆)。
当然、時間内に終わるかどうか懸念されたが、途中端折ったりしたので、10分程度の超過で終了。

目玉は、綸旨や御内書、起請文などが天皇・義昭(二条晴良)・信長・義景(長政)・延暦寺の5者でどのように取り交わされたのかということを図示した点である。
史料の現存状況に制約されているものの、その多くが延暦寺に宛てられていることから、この和睦交渉が延暦寺の和睦承諾に精力を使ったことがうかがえた。
そして、いわゆる「勅命講和」も信長・義景を対象にしたとは思えず、義昭・晴良の説得や信長の起請文が延暦寺に功を奏さなかったため、綸旨が発給されたのではないかと推測してみた。

また奥野高広氏が紹介した宛所が切断された信長条書は誰宛てだったのかという推理もしてみた。通説の浅井長政宛てでないという結論。
ただ、この条書の冒頭に「勅宣」とあるのは何を意味するのかよくわからなかった。条書の日付からして、信長や義景に宛てた綸旨(勅命講和)だとは思えない。両者に綸旨が発給されたなら、『信長記』はむろん、『御湯殿の上の日記』『言継卿記』などに何らかの証跡が残ると思うからである。


15:30より教室を変えて、「戦国の手紙を読み解く」の6回目。
この講座の最終回となり、豊臣秀吉を取り上げた。
テーマは「豊臣秀吉―山の奧、海は櫓櫂の続き候迄―

副題は有名な奥州仕置からとった一節(浅野家文書)。
秀吉の自敬表現、有名な三国国割構想、秀吉遺言覚書(浅野家文書)、そして北政所やおひろい(秀頼)宛ての消息を読む。
プライベート面では、秀吉が豪姫を可愛がっていたことを確認。
豪姫を「五もじ」と呼んでいる。「五」は「ごう」の一字をとってあてたからではないかと解釈したが、よかったか?

織田信長、上杉景勝、安国寺恵瓊、伊達政宗、千利休そして豊臣秀吉と半年間読んできました。
熱心に受講され、多くの質問をされた受講生のみなさんに感謝です。

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【2010/10/02 16:27】 | 中日文化センター
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「五もじ」に関して
舘鼻 誠
はじめまして

「五もじ」の件ですが、この言葉は、娘や女性をさす言葉として、毛利家文書などにも頻繁に登場しています(弘治3年の三子教訓状8条のほか543号、544号など)。
このためあえて豪の当て字として読む必要はないかと思われます。
ご参考までに。

ところで先日、ご著書の『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船』を拝見し、そのなかで能島村上の根城を伯方島の城に比定され、能島を出城に位置づけた文章に目がとまりました。
私も、海賊の拠点は海城の能島だけを見るのではなく、その対岸を含めて考察する必要があることをかつて書いたことがありますが(『戦国争乱を生きるー大名・村・女たち』NHKライブラリー)、現地でのフィールド調査をふまえて考えると、伯方側よりも、対岸の大島の存在のほうが本拠としてはふさわしいのではないかと考えています。
たとえば村上氏は、信仰のシンボルとして宝篋印塔を建立していますが、大島には南北朝期からの大型の宝篋印塔が存在するのに対し、伯方にはこのクラスの宝篋印塔が1基も存在せず、あるのは小型塔ばかりです。
また五輪塔の分布も、大島側に集中します。
これは造塔者に階層差があることを示唆するもので、本拠が大島側にあったことを示す一例ではないかと思います(もちろん伯方側の機能も否定はしませんが)。
こうした石塔の分布や形態は、本拠や信仰空間などを復元するうえで極めて有効な歴史資料になりますが、2005年から4年間かけて私が実施した小早川領とその周辺地域における石塔調査(科研調査)では、時間的な制約もあって、島嶼部の調査は細かくできませんでした。
このため、上記の内容も、なお検討の余地が残りますが、『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書ー石造物編』(愛媛県教育委員会)を見ても、同様の傾向が読み取れます。
ご参考になれば幸いです。

ご教示御礼
桐野
舘鼻 誠さん、はじめまして。

お名前は存じ上げております。
いろいろご教示有難うございます。

「五もじ」の件、私もじつは疑問に感じていたのですが、毛利元就の一女五竜も「五もじ」と呼ばれていること。また秀吉消息で北政所(おねorねい)も「ねもじ」と呼ばれていることから類推して、その一字をとって「~もじ」としているのかと思ってしまいました。不勉強でした。

また拙著もご覧いただいたようで恐縮です。
能島水軍の拠点が伯方島ではなく反対側の大島の可能性が高いとのこと。それも宝篋印塔の分布や格式での推定など、大変参考になりました。

以上、2点有難うございました。


舘鼻誠
こんにちは。
お返事ありがとうございます。

「五もじ」に関して二、三の補足です。
「もじ」という言葉は、「ある語の後半を省き、その代わりに添えて品よくいう語」(日本国語大辞典)として、名前の一文字を略して使われることが多いですね。
秀吉も、側室の三条に宛てた書状で「ともし」と記しています。
吉川元春の妻も、子息の広家を「ひもし」と呼び(吉川家文書1217)、輝元の姉(吉見広頼妻)と見られる女性(大日本古文書は尾崎局としますが内容から姉と推察/五條小枝子「中の丸(毛利元就継室)考」)が輝元に宛てた書状にも、おじいさまを「ちもし」(ぢもじ)、母を「かもし」と記しています(毛利家文書1325)。
ご指摘の秀吉の「ねもし」もそうですね。

ただ、こうした表記は、すべて、仮名文字+もじという特徴があります。
これに対し「五もじ」は、漢字の「五」+もじで、表記が異なります。
宍戸隆家の正室を「五もじ」と呼んでいるのはご指摘の通りですが、これも、表記が漢字です。
彼女が五竜城に嫁いだため、「五竜」の五+もじと考えることもできますが、たとえば、隆元に宛てた元就の書状では、「五龍の五もし」(毛利家文書543号)という表記もあり、「五竜」をわざわざ書く点から見て、「五もじ」が五竜の略字ではないことがうかがわれます。

小学館の『大日本国語辞典』の「ご文字」の項目にもありますが、漢字表記の「五もじ」は、「御寮人」を「五」と略して、「もじ」をつけたのではないかと思います。
御寮人を「五」と略す理由は、よくわかりませんが、同じく『大日本国語辞典』の「五文字」の項目に引用される「婦の五徳を備へしいはれなり」というあたりが、案外あたっているのではないかと思います。

秀吉も、松の丸にあてた書状で、彼女を「西の丸 五もし」と表記し、彼女の侍女の「おぐら」「おく」に宛てた書状でも、「西のまるお五」と表記しています。
おそらく名門、佐々木京極の娘であることに敬意をあらわして、「たもじ」ではなく、あえて「五もじ」と表記したのでしょう。
この点から、秀吉の側室のなかでも、淀殿と松の丸は、別格の扱いを受けていたのではないかと推察され、それを故に、醍醐の花見の盃争いのようことも生じただと思います。

なお、ご指摘の「ねもじ」も、「ね」の下にさらに文字が続くから、「ねもじ」と略されたのだと思われます。
最近は、すっかり「ねね」説が否定され、「おね」か「ねい」の表記にかわってしまいましたが、上記の理由から、私は「ねね」の可能性は、まだかなり高いのではないかと考えています。
「ね」説への反論として、角田文衛の『日本の女性名』(教育社歴史新書、国書刊行会から再刊されたようです)をあげておきます。
ほとんど注目されていないようですが、私も、角田氏の見解で良いのではないかと思います。

長くなりましたが、ご参考まで。


五文字
桐野
舘鼻誠さん

再度の詳しいご教示有難うございます。

うろ覚えではなく、ちゃんと日国を調べたらよかったと思います。
日国には「五文字」に娘、少女という意味がありますものね。

語源は「婦の五徳」から来たとのこと。勉強になりました。
信長長女で徳川信康に嫁いだ五徳も何かそのあたりと関わりありそうですね。

故・角田文衛さんのご本はたしか持っていたと思いますので、再読してみます。

御礼まで。

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講座のご案内です。

名古屋の中日文化センターで開講している「信長公記を読み解く」。
今月から第3クールを迎えることになりました。
講義内容も今期からいよいよ元亀争乱に突入です。
信長はやはりここからですね。
元亀争乱は複雑な経過を経ますが、それをなるべくわかりやすく、かつこれまであまり知られていない史料や事柄を盛り込みながら、進めていきたいと思っています。

名古屋や東海方面で関心のある方は受講してみませんか。
私の講座はここにあります。
だいぶ下のほうにありますので、スクロールして探して見て下さい。
私の講座名にある「詳細情報・申し込み」をクリックすると、講座概要が表示されます。
上部に「現在募集していません」という表示が出ますが、ネット上の応募をしないだけで、電話・窓口などではまだ申し込みができます。

詳しくは栄中日文化センターのサイト(ここです)にお問い合せ下さい。

なお、今期のカリキュラムは以下の通りです。

① 7/22 姉川合戦の再検討
② 8/26 野田・福島の陣と本願寺挙兵
③ 9/30 志賀の陣と「勅命講和」
④10/28 比叡山焼き討ちと明智光秀
⑤11/25 小谷封じ込めと異見十七カ条
⑥12/23 武田信玄の西上と三方ヶ原合戦


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【2010/07/09 11:52】 | 中日文化センター
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日次記です。

先週は恒例の月末講座が多い週でした。

23日(水)
午後から横浜市栄区テレビセミナーの講演。
自宅からかなり遠いと思っていたが、湘南新宿ラインのおかげで意外と早く到着。
大河ドラマ「龍馬伝」に関連した連続講座(全6回)の5回目で、すでに同ドラマ・プロデューサー氏などのお話もあった由。
会場は地球市民かながわプラザホールというデザイン性あふれた立派なホール。
開場前から聴衆がおいでで、会場は300名ほどで埋まった。
有料なのに有難い限りである。
主催者は区民のボランティアの方々。
送迎など、いろいろ親身にお世話いただいて、これまた多謝。

演題は「薩長同盟論の現在」。
話は薩長同盟の名称や目的・性格について、いつもの持論を語る。
間に10分休憩を挟んで、2時間の長丁場だったが、それでも、最後は駆け足になった。困ったものである。

24日(木)
早朝、新幹線で名古屋へ。
栄・中日文化センターの講座2コマ。
13:00から「信長公記を読み解く
今回は「金ヶ崎の退き口と元亀争乱の幕開け」。
信長が諸国の大名や守護などに送った触状を分析。
興福寺一乗院の坊官の日記「二条宴乗日記」に写しがあるところを見ると、松永久秀筋から得たものか。
この触状は多数発給されたはずだが、現存しているのはこの写しだけではないだろうか。
ほかにも、お市の方の有名な小豆の袋の逸話も紹介する。
来年の大河ドラマには間違いなく登場するエピソードだと思うので、予習のつもりで読んだ。
この講座はほとんど欠席もなく、受講者のみなさん熱心である。
最新刊の拙著を紹介するのをうっかりして忘れてしまった。
もし、このブログをご覧の受講生の方がいらしたら、ここに紹介記事がありますので、ご覧下さい。

このシリーズの第2期が終わりました。
来月からは同じく第3期に入ります。元亀争乱を正面から取り上げます。
以下のようなカリキュラムです。

① 7/22 姉川合戦の再検討
② 8/26 野田・福島の陣と本願寺挙兵
③ 9/30 志賀の陣と「勅命講和」
④10/28 比叡山焼き討ちと明智光秀
⑤11/25 小谷封じ込めと異見十七カ条
⑥12/23 武田信玄の西上と三方ヶ原合戦


途中からの受講も大歓迎です。
信長の生涯ではここからが面白いところです。
ご参加をお待ちしております。
詳しくは同センターサイトのここをご覧下さい。

15:30から教室を変えて、2コマ目の「戦国の手紙を読む」。
今回は3回目で「安国寺恵瓊―羽柴秀吉への傾倒―」と題して、3点の書状を読んだ。
もちろん、有名な信長・秀吉を批評した書状を中心に考えていた。
この書状のことは、戦国ファンならよくご存じだろうが、全文を読んだ方はそれほど多くないだろう。
秀吉を「さりとてはの者」と評したことで有名だが、じつはこの言葉はこの書状にもう1カ所出てくることはあまり知られていない。それは三好義継の代わりに家来が腹を切ったという一件。そのありさまが「さりとては」の腹切りだというのである。
この「さりとては」をどのように理解するかを考えた。
とりあえずの結論は、主君と家来を対比的に描き、家来を持ち上げる(=主君をけなす)意図が込められていたのではないかというもの。妥当な解釈かどうかはわかりません。
恵瓊関係の史料として『東福寺誌』所載の史料も少し触れた。
恵瓊は東福寺の住持となっており、退耕庵を創建していることでも知られる。
関ヶ原合戦後の恵瓊書状らしきものがあった。東福寺の寺中は恵瓊には加担していないという趣旨のもの。
差出人が恵瓊で、寺中が宛所になっている。でも、どうも逆ではないかと思ったが、よくわからない。

結局、この書状でほとんど時間を使いきり、残りの2点を10分ほどでやる羽目になった(汗)。

終了後、上洛。

25日(金)
午前中、洛北岩倉へ行く。実相院ではなく対岳文庫を訪問。
じつはどうしても確かめたいことがあった。
管理人さんに館の扉を開けていただく。ほかにはほとんど来訪者がないのだろうか。
しかし、目当てのものはなかった。あとで管理人さんに詳しく話をうかがい、事情がよくわかった。
目的の達成度は半分。残念。
午後から反転して、宇治に行く。
槙島城跡を前から見てみたかったのと、すぐ近くの平等院は未訪問だったから、一度は現世の浄土をのぞいてみたいと思った次第。
あいにく小雨がぱらつく。
それでも有名な観光地だけに人が多い。
鳳凰堂は想像していたより小さかった。いかにも1000年前の木造建築だと感嘆。
朱塗りや漆塗りなどがあったのだろうが、だいぶ剥げ落ちている。でも、そこに歴史の風格を感じる。
真西を向いているという鳳凰堂の阿弥陀仏のご尊顔が丸い穴からのぞけました。
藤原氏の栄華と浄土への憧れのほどを実感。
鳳凰堂

宇治川は満々と水を湛え、流れが速く、白波が立っていた。
源平合戦での佐々木高綱と梶原景季の先陣争いに思いを致し、この激流に「いけづき」と「するすみ」がざんぶと飛び込んだのかと思うと感無量だった。
紫式部
宇治川の激流と紫式部像

が、折からの梅雨期で上流のダムが満杯になってしまい、大量に放流しているゆえの激流だったことがわかった。
はて、宇治川合戦での水量はどの程度だったのか?
先陣争いの碑や、源三位頼政の墓も参拝。
先陣争い
宇治川先陣争いの記念碑(一戸兵衛の揮毫だった)

槙島城の石碑は2カ所に碑が建っていることがわかっていた。
でも、道に迷ってウロウロする。
宇治はけっこう工場が多い。ユニチカや任天堂などがあった。
地元にあった町内地図に、同城址の保存顕彰会の事務局があるのを見つけて、お宅にうかがう。
これ以上ないガイドで、詳しく教えていただいた。感謝。
ひとつは、やや広い槙島公園に石碑が立っていた。
もうひとつは小さな児童公園の一角にあった。こちらが槙島城の本丸にあたるらしい。
槙島城
槙島公園にある城址記念碑

25日(土)
講座の日だが、新聞連載の原稿の締切なので早起きして書く。
何とか午前中にゲラを出してもらい、校正を済ませた。
相変わらずの綱渡りである。

午後から神奈川県大和市に行く。
小田急線に乗ったが、当初予定していた藤沢行きの快速急行(特急の次に速い)に乗ればよかったのに、待ち時間が15分以上あったので、各停や急行を乗り継いだところ、結局、後続の快速急行に抜かれてしまうという体たらく(苦笑)。
どうも小田急線には昔から慣れないな。

会場は大和市生涯学習センターの大会議室。
当初の募集は50名を予定していたそうだが、主催者の話では応募が多かったらしく、おそらく100名以上の受講者がいらしたのではないだろうか。

これは同市の「やまと市民大学」の講座。

「坂本龍馬の生涯を知る」

という6回講座の初回で、私は第4回と合わせて2回担当する予定。

今回は「坂本龍馬と薩摩藩」

レジュメもきっちりと8枚も用意(笑)。
とくに吉井幸輔について詳しく語る。
大河ドラマにはおそらく登場しないだろうけれど、龍馬ともっとも親しかった薩摩藩士だったことを強調。
こちらも間に休憩を挟んで2時間の講座だった。

質問タイムでは、龍馬が生きていたら、その後の歴史の展開はどうなったのかとか、龍馬は横浜に来たことがあるのかといったなかなか面白い質問があった。
みなさん、熱心に聴講していただき、感謝です。
送迎していただいた市の職員さんにも感謝。

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【2010/06/27 15:07】 | 中日文化センター
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対岳文庫
ばんない
こんばんは。

岩倉具視の隠棲地は、今大修理中で公開中断してませんでしたっけ?
去年行ったときに、そういう話をちらっと聞いたような記憶があったので…勘違いだったら済みません。

…でもあそこは以前からも平日はとりわけ見学客少なかったです(失礼)

修復中でした
桐野
ばんないさん、お久しぶりです。

対岳文庫横の岩倉隠棲の家は屋根を葺き替え中で、足場とシートで覆われていました。秋に作業は終了すると聞いたような気がします。
対岳文庫の管理人さんが、ワラの入手などや人手が大変だと仰せでした。

No title
ばんない
こんにちは。お返事ありがとうございました。

稲刈り機が良くなって、藁の粉砕までするようになってしまったので藁の入手は困難になってしまったとか聞いたことがあります。岩倉具視の旧宅のある辺りは今でも田んぼが多いですが、最近では刈り取り期に藁を干している田んぼは見たことがありません…農家の人は楽になったんでしょうが痛し痒しですね。

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