歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
NHK大河ドラマ「天地人」第27回「与六と与七」

ドラマは天正15年から翌16年の聚楽第行幸あたりをやっていましたね。

前回、小早川隆景が登場して、秀吉のそば近くにいましたが、なぜ隆景が出てきたのか、脚本家の意図がわかりません。横内正が演じていましたので、今後も登場するのでしょうか? ちなみに、あの時期、隆景は在京していません。念のため。

さて、今回、聚楽第のCGが出ていましたね。
聚楽第の全貌があれほど、しかも俯瞰で見られたのは初めてです。
復元のしかたが正しいのかどうか、私には判断がつきかねますが、ちゃんと奧に天守閣があり、手前に池のある庭園とともに西本願寺にある飛雲閣そっくりの建物がありました。もっとも、飛雲閣は聚楽第の遺構ではないという説が最近は有力だったと思いますが。

今回は小国与七こと、大国実頼が主役といってもよかったですね。
小国家は出羽小国城主で、実頼は小国三河守真将の養子となり、家督を継いでいます。

実頼が聚楽第落成と秀吉の九州攻めからの凱旋を祝すため、上洛したのは天正15年(1587)11月。
実際は、上杉家の人質としての上京だったといわれています。だから、兼続から離れるため、あるいは上杉屋敷造営のために在京したわけではありません。

ドラマでは在京中、秀吉から従五位下叙位、すなわち諸大夫成(しょだいぶなり)をし、さらに小国から大国へ改姓していました。
大国に改姓したのは事実ですが、果たしてこの時期だったのか、また秀吉の命だったのかは不明です。上杉家臣団の系譜を収録した「御家中諸士略系譜」(『上杉御年譜』23所収)の大国但馬守実頼の部分には次のように書かれています。

「小国氏家督後に故有り、大国に改め、天正十五年十一月諸大夫に任ぜらる」

これを見るかぎり、大国氏への改姓は上洛以前のようにも見えます。
また実頼が諸大夫成したと書かれているのは、おそらくこの系譜だけで、それを裏づける史料はほかにないと思われますので、詳細は不明です。

豊臣政権時代、大名や陪臣の公家成・諸大夫成の事例を網羅してあるのは、下村效「天正 文禄 慶長年間の公家成・諸大夫成一覧」(『栃木史学』7号、1993年)です。
これによると、天正15年の諸大夫成には大国実頼の名前は見えません。翌16年、上杉景勝が聚楽第行幸のために上洛したとき、景勝が三位(参議もか)に叙せられ、清華成したのに伴い、兼続・色部長真・荻田長繁の3人が諸大夫成したことは書かれていますし、実際に兼続の口宣案も現存していますから間違いありません。

それに比べて、実頼の諸大夫成は裏付けとなる史料に欠けています。
本来、諸大夫とは、親王・摂関家・清華家など上流公家の家司のことです。
それにならって、武家陪臣の諸大夫成という先例をつくったのは秀吉で、天正13年(1585)7月、関白に任官したとき、十数人の家臣を率いて参内しました。この家臣たちが秀吉への供奉のため、諸大夫成しています。石田三成・大谷吉継などです。
兼続ら陪臣の諸大夫成は、その先例にならったもので、徳川・前田・毛利・宇喜多など五大老クラスの大諸侯が清華成したのに伴い、その参内に諸大夫として供奉するために、少数の重臣たちが諸大夫成を認められるようになりました。
したがって、景勝の清華成以前に、その家臣が諸大夫成するのは原則的にありえないと思います。

上杉家と同格の大名である中国の毛利氏の場合も、輝元が景勝に少し遅れて上洛します。そして従四位下参議に叙任され、清華成するとともに、一門・重臣の堅田元慶・渡辺長・粟屋元貞・国司元蔵・穂田元清・口羽春長・福原元俊・林就長・三浦元忠の9人が諸大夫成をしています。

このような事例を見れば、実頼の諸大夫成は疑問符が付きますね。
もっとも、別の事例もあります。諸大名は豊臣政権への服属のしるしに、親族や重臣の子女を人質に差し出しています。
たとえば、真田信繁もそうで、在京している間に秀吉の近習となって諸大夫成し、左衛門佐と名乗っています。
実頼のケースはむしろこの事例に該当するでしょうか。でも、実頼は秀吉の近習になった形跡はありません。う~ん。

兼続とお船の間にどうやら子どもができたみたいですね。
縁組してから7年目です。
これはのちの「お松」でしょうね。
『兼見卿記』文禄4年(1595)8月条にお船が子女と吉田社を訪れていますが、それにある「十一歳息女」がお松だと思われます(今福匡『直江兼続』)。
逆算すると、生年は天正13年(1585)ですね。ドラマより3年前に生まれたことになります。

次回は独眼竜政宗登場ですね。
すでに真田幸村(信繁)は登場済みですし、今後は前田慶次や大谷吉継も出てくるでしょうから、ますます歴女好みのドラマになりそうな(爆)。

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【2009/07/05 23:35】 | 天地人
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石ころ
隆景を出したのは、いずれ「ワシが死んだら是非上杉殿に大老を継いで頂きたい」とか言わせるための布石じゃないでしょうかw

なるほど
桐野
石ころさん、はじめまして。

小早川隆景の役回りをそのように考えられましたか。
おそらく、関白秀次の粛清をある程度描くならば、ありうるかもしれませんね。
秀次の死後、豊臣政権は動揺し、秀吉は諸大名に起請文を出させますが、その際、徳川家康と毛利輝元・隆景を東西の抑えとする意志を示しています。
秀吉は隆景を高く買っていたので、その死に臨んで、自分の代わりに上杉景勝を取り立てられよと、隆景が遺言するという寸法ですね。なるほど、なるほど。


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大河ドラマ「天地人」第24回「戸惑いの上洛」

上杉景勝の初めての上洛、先週の講座で「天正十四年上洛日帳」を読んだばかりだったので、我慢して観た。

日帳によれば、景勝主従が上京したのが天正14年(1586)6月7日夜。
本来はこの日、近江坂本に宿泊する予定だったが、石田三成の「御異見」により急遽予定を変更して、逢坂の関を越えて入京、夜8時頃、六条本国寺に入っている。旅程を変更させるくらいだから、最初からこの上洛を三成が仕切っていたのだろう。
そういえば、このとき、三成は加賀・越中国境の森本まで、景勝主従を迎えに出ている。景勝・兼続と三成の対面は本当はこのときが初めてだといわれる。
ドラマではすでに両者は対面していることになっているから、もはや対面シーンは不要だったのだろうな。

さて、京都から大坂に下ったのが12日。再び大坂から上京するのが18日。
大坂滞在は6日間である。

そのうち、秀吉と大坂城で対面したのは14日と16日。
14日、景勝が天守閣に登って見学したことはちゃんと書かれている。
そのほか、「小金(黄金か)之御座敷」を秀吉から見せられている。これはおそらく惣金造りの茶室だろう。「宗易手前」があったというから、すでに景勝はこの日に千利休に会っているが、描かれていない。惣金の茶室といい、描いたほうが効果的なものがなぜかスルーされていて、妙な作り話ばかりだった。

何より、日帳によれば、景勝らは北政所にも福島正則にも会ったとは書かれていない。ましてや、30以上の大名家に挨拶回りしたなんて、どこにも書いてない。
大名として会ったと書かれているのは、14日、秀吉との対面のとき、陪席者として織田長益、前田利勝(のち利長)、石川数正、榊原康政。家康の重臣2人が来ているのは、家康の上洛の段取りがすでに決まっていたからだろう。前田利家も来ていない。
そのほか、16日、秀吉が茶湯朝会を開いている。このとき、大名も何人か陪席していたかもしれないが、名前が書かれていない。
同日、景勝は豊臣秀長の屋敷に茶湯に招かれている。

日帳に書かれている大名の人名はこれだけである。大名家への挨拶回りは豊臣秀長だけ。

またドラマでは、景勝が偏頭痛のような病気で倒れたが、日帳には景勝が病気になったという記事はない。ただ、17日、秀吉から堺見物を勧められたが、断っている。理由は高野への物詣のためで病気ではなさそうだ。

あと、千利休の娘「お涼」。
利休には系図上、6人の娘が確認できるが、もちろん「お涼」という名前の娘はいない。
6人を挙げてみると、

1,石橋良叱の妻 お吟か
2,万代屋宗安の妻 お三(お亀とも)
3,千紹二の妻
4,本能寺円乗坊宗円の妻
5,魚屋渡辺与兵衛の妻
6,亀 おちやう(千少庵の妻)

有名なのは1。今東光の「お吟さま」のヒロインで、映画化もされた。吟子という名前だったというが、果たして定かであろうか。

「涼」という名の娘はいない。お吟の夫が良叱で、唯一音が「りょう」だが、これから採ったか。
とすれば、「お涼」はお吟をモデルにしているのか?

番組最後の天地人紀行は、景勝主従の宿舎となった六条本国寺だった。
この寺は別の事件のほうが有名である。
永禄12年(1569)、上洛したばかりの将軍義昭がこの寺にいたが、三好三人衆に襲撃されている。
あと、幕末には水戸藩の宿舎となり、同藩佐幕派は本圀寺党と呼ばれた。

寺名は義昭、景勝の頃は「本国寺」、江戸時代中期、「本圀寺」に改称している。水戸光圀の一字をもらったものとか。たしか中国の武則天がつくった漢字でしたね。

日蓮宗の有力な門流寺院だったが、戦後になってから郊外の山科に移転しています。
紀行で流れていた映像も山科のもの。以前、行ったことがあるので、参考までに写真を掲げておきます。
関白秀次の母日秀尼や加藤清正ゆかりの遺跡もあります。

梵鐘
bosho
墓所







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【2009/06/15 00:28】 | 天地人
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もののふのあわれ
市川
桐野先生、こんにちは。
話題は尽きない大河ドラマ「天地人」でありますね。
「我慢して観た」……心中、お察しします。
とことん強調したい愛の兜。もはやお笑いと化した福島正則。必要ない兼続の恋愛劇。無口(無礼者)・軟弱・病人となった上杉景勝。
私も歴史には詳しいほうではありませんが、これはもう歴史がどうこうの話ではありません。国営といってもやはり時代の流れ、運営する人材の質が昔とは違うのでしょうか。残念なことです。
愚痴ばかりとなりましたが、来週のさつま人国誌を楽しみにしています。これからも頑張ってください。


k2
桐野様
久しぶりに、我慢して、見て頂きありがとうございます。
私的にウケたのは、大坂城天守閣で、小栗三成が一回目とはうって変わり、ちゃんとひざまついて頭を下げていました。
桐野様の指摘で、今回は変えたのかも知れません(笑


時代の流れ
桐野
コメント有難うございます。

「時代の流れ」が的確な批評かもしれませんね。
視聴率を見ると、「篤姫」ほどではないですが、高率をキープしています。
ということは、あれで満足している視聴者が多数いるということですね。
私のまわりの人からの話でも、家族や知人などが史実だと思い込んで見ている人が多いとか。
春日山城に行った観光客が、謙信がこもった岩窟はどこだと、ガイドに真顔で聞いたという笑い話もありますし。

もう、国民の大多数が支持しているのなら、それでよいのではないでしょうか。

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徳之島から今夕帰京しました。

NHK大河ドラマ「天地人」第18回「義の戦士たち」を観ました。
今さら感想を書くのも何なのですが、看過できない点があったもので。

どうなんでしょうか、何回も出てきた魚津城攻めのCG。
決して出来がいいとは思えないものを何度もやる必然性が感じられませんが。
その分の経費を実写の戦闘シーンに回してもよかったのでは。
魚津城の孤立無援ぶりは実写でも表現できると思うのですが。

家老の兼続が単身、織田軍に包囲されている魚津城に使者となるなんて、論外ですね。もちろん、史実ではありません。
老将吉江に「立場を弁えろ」と叱られていましたが、それなら、そんな軽はずみな行動をとるなと叱るべきでしょうに。もし織田軍に見つかって死んだらどうするんでしょう(笑)。
また、魚津籠城の諸将が、自分も残ると言い出した兼続に「情に流されてどうするのだ」と叱っておりましたが、その彼らも降伏せよという景勝の上意に従わず、越後武士の意地を通すと言っておりましたが、これも主君の命に従わない感情論ではないんですかね。
相変わらず、ツッコミどころ満載の脚本です。

兼続が景勝との密談で、越中に出ると見せかけ、北信の織田軍を越後領内に引き入れてから、反転して叩くという「秘策」を決めていましたが、上杉軍にそんな器用な作戦ができるとはとても思えません。
一応、魚津城が落ちると、遠からず境目を突破されてしまうので、景勝は救援に向かわざるをえなかったというのが真相に近く、天神山に滞陣しているとき、北信から森長可の侵入を知らされて、春日山城防衛のために撤退したと見るべきでしょう。このとき、北信に景勝・兼続が出陣した形跡は見られません。実際、北信に出陣したのは信長死後の6月中旬頃ですね。


それより、一番奇異だったのは、備中高松城を水攻めしている秀吉が信長に宛てた書状です。
包紙の宛所がな、なんと、

織田殿

となっておりましたぞ。
これは謙信や信玄など同格の大名の書き方で、家臣の秀吉が書けるものではありません。
何より、秀吉は「上様」である信長に直接書状を出せません。それは主従関係の鉄則といってよい常識です。
もし信長に書状で何か伝えたいとしたら、その側近に宛てます。
このときも実際は、菅屋長頼に宛てたといわれています(『甫庵太閤記』)。

自分が謙信か信玄になったかのように傲岸不遜に振る舞う秀吉がどうして「可愛い奴」なんですかね? 信長って、そんなに寛容でしたっけ?
いやはや、このあたりは書札礼の基本だと思うのですが、目配りが足りませんね。当時の身分秩序や身分意識は丁寧に描いてほしいものです。

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【2009/05/03 23:28】 | 天地人
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お、織田殿・・・
御座候
「披露」だの書札礼などという専門知識がなくても、「織田殿」はあり得ないと脚本家は考えないんですかね?

書状ではなくセリフで用いてみたら、その奇異さに思い至るはずです。

まあ兼続と信長がテーブルを挟んで向かい合って椅子に座っているシーンを描くぐらいですから、不自然とは感じないのかもしれませんが・・・「刀を差した現代劇」ぶりが著しいですね。

様と殿
桐野作人
御座候さん、こんばんは。

仰せの通りで、専門知識はなくても疑問を感じるはずですがねえ。
「上様」とか「上」とでも書いてあったら、まだしもだと思いますが……。

昨今、ある市民がお役所から送られてくる文書類の宛名が「○○様」となっているのはけしからん、「○○殿」とせよと怒ったとかいうエピソードがありますが、現代日本人の感覚として、「様」より「殿」が格上という通念的誤解があることが、斯様な現象を生じさせているのかなという気もしました。
だとすれば、文字どおり、現代的な解釈なんでしょうね(笑)。


じろー三郎
初めまして。いつも拝見させていただいております。
誰も「これおかしいだろ」って気づかなかったんでしょうか。さすがにこれは、細かい考証ミスとは言えない気がします。そもそもが、ラストで取り上げられた魚津の諸将が決死の覚悟を披瀝した書状も兼続宛で、その旨を景勝に披露するように頼んでいるのに・・・・・

考証ミス?
桐野作人
じろー三郎さん、こんばんは。

例の「織田殿」宛て秀吉書状のお粗末ですが、そこまで時代考証の責任ではないのではという気もします。
制作側が単なる美術のアイテムとして勝手に作り、時代考証の先生が関知していなかったかもしれませんしね。

もっとも、時代考証の先生によって、脚本をどの程度チェックするか、精粗があるようにも感じます。
今年は昨年よりも粗っぽいことはたしかだと思いますが。

兼続宛て書状の件はご指摘のとおりだと思います。
魚津籠城衆は主君景勝に直接書状を出せないことは、これからも明らかですね。
そこから、類推すれば、さほど難しくないというのもそのとおりです。
今年のドラマは、とくに軍事や合戦に関して、現代人の素人感覚で製作している印象が拭いきれません。

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NHK大河ドラマ「天地人」第16回「武田家の娘」

たまたま観ました。
御館の乱がほぼ終息した時点で、景勝が兼続を家老にすると言い出し、他の家老である吉江宗信、直江信綱もそれを支持する場面がありました。

この時点で、兼続が家老職に就任したかどうかは微妙ですね。
信綱が急死して、兼続が直江家を継いだのちならおかしくないですが。

兼続の文書が初めて登場するのは、天正8月(1580)8月15日、佐藤庄左衛門、皆川式部丞にそれぞれ宛てた景勝の朱印状の奉者として署名したものです。奉書として別に書かれたものではなく、兼続が書いたものに、景勝が承認した印として朱印を捺したものです。この時期の上杉氏の文書としては珍しい様式です。

いわば、取次や奏者としての役割ですが、この時期、景勝の判物・書状・朱印状に奉書形式で署名しているのは、現存している史料の中では兼続だけです。その点を重視すれば、兼続の景勝側近としての格別の地位が推定されますが、かといって、家老職かといえるかどうか。
もっといえば、この時期、上杉家の大名権力の構成要素として、明確な家老制があったのかどうか、よくわかりません。評定衆的な面と取次・奏者的な面が混同されているようにも思えます。

他国の大名かその取次から上杉家に宛てられた書状の宛所は家格的に一門や家老クラスになることが多いです。
翌9年3月10日、武田勝頼の書状は河田長親に宛てられています。同年4月20日、信長の側近菅屋長頼の書状は須田満親・上条宜順・山崎秀仙宛てです。

もっとも、上杉一門の上条宜順が同9年に兼続に宛てた書状3点の書止文言はいずれも「恐惶謹言」で、敬意を表しています。
これは直江信綱急死以前の書状ですから、兼続が上杉一門の上条氏からも敬意を表されるのは、やはり特殊な地位というべきかもしれません。それが家老職だとは限りませんが。
ひとつ考えられるとすれば、景勝は兼続を家老にしたかったかもしれませんが、兼続の若さだけでなく、樋口家の上杉家中における地位があまり高くないことから不可能だった。その代わり、景勝の近習衆として取り立てられる奏者としての最高、格別の地位にしたというのが、上杉家では珍しい奉書の奉者として表れたといえるかもしれません。

なぜ、兼続が景勝に急速に重用されるようになるのでしょうね?
ドラマであったように、御館の乱や武田氏との外交関係にどの程度貢献したかは現存する史料では確認できません。
やはり景勝と兼続の個人的な「親密さ」が大きく作用したのではないかという気がするのですが。
養父謙信が河田長親を重用したケースと似ているのではないでしょうか。

余談ですが、山本圭演じる吉江宗信。彼は謙信の最晩年(天正5年頃)、出家入道しています。しかし、ドラマではまだ俗体でしたね。

兼続とお船の仲を疑っていた直江信綱が急に物分かりがよくなり、最後、兼続の側から立ち去るシーンが幽霊風でどうもおかしいと思ったら、案の定、毛利秀広に斬殺されてしまいました。お船の再縁の伏線でしたね。

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【2009/04/20 00:18】 | 天地人
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NHK大河ドラマ「天地人」第9回「謙信死す」

ドラマ進行時点は天正6年(1578)3月。

相変わらず、感想を書く意欲が湧きません。
何というか、時代考証や史実云々以前に問題があるドラマですね。

今回で謙信が亡くなったわけですが、当然、その跡目をめぐって御館の乱が起きることになります。
そのきっかけやプロセスをいかに描くかが脚本を含む制作者側の腕の見せどころだったわけですが、何というか、これまで「義」を強調しすぎたせいで、自ら墓穴を掘ってしまった感じですね。
本当はタイトルを「墓穴」にしたかったのですが、少し手心を加えました(苦笑)。

故・直江景綱夫人の妙椿尼が謙信の「遺言」なるものを披露し、それが偽りだったことを知らされた兼続。それまでの単細胞の彼なら、この事態に頭の整理ができず、混乱するばかりのはずですが、仙桃院の現実と偽りの狭間に真実があるというわかったような食言になぜか納得してしまいます。
果たして、この展開はこれまでさんざん強調した「義」への裏切りではないのでしょうか。視聴者も違和感を抱かないはずがないと思うのですが……。

結局、安直な「義」の安売りが裏目に出てしまい、ドラマの核となるべき、「義」による景勝政権の樹立に大きな傷がつきました。初動でのこの誤りを今後、どう取り繕っていくのでしょうか。
「義」が「虚義」になってしまっては、兼続には荷が重そうですし、この自己欺瞞は人格崩壊へと帰結しそうですけど、そうはならないのでしょうね、主役ですから。
兼続はともかく、脚本家も大きな負荷を背負ったはずですが、今後の展開をいくさに勝てば結果オーライよ、みたいな安易な筋立てにすると、一気に興醒めですね。せいぜい敗者景虎への追悼と同情でかわすのでしょうか。

何といいますか、今回の史実にもない、妙な設定は単なる勇み足というだけでなく、軌道修正が不可能なほどの致命的な失策だったのではないでしょうか。大げさにいえば、ドラマを展開させるうえでの主題もしくはモチーフの変質であり、その正統性の喪失だといえます。

ドラマの最後で、御館の乱の勃発を告げていました。
しかし、史実では最初に動いて本丸を占拠し、謙信遺蔵の金銀を押さえたのは景勝方です。
ところが、なぜか景虎方になった北条高広と柿崎晴家が先に攻めてきましたね。柿崎は謙信存命中にすでに亡くなっているといわれますし、北条は上州厩橋に詰めているのではないかと思います。もはや、そんな史実との相違も枝葉ですが。

ニセの遺言で家督を我がものにしたのなら、あくまでその計略を徹底すべきで、史実どおり先手を打たないと格好がつきません。今さら先に仕掛けたのは景虎方であって、景勝がいい子になってもしかたがないと思うのですが。

これではただのまぬけでしょう。戦国の生きるか死ぬかのリアリズムが欠落しています。このような胡乱な渦中に置かれた兼続君には同情するばかりですね。

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【2009/03/03 00:07】 | 天地人
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木暮兼人
私ごときの者が申し上げてよいものかどうかは
わかりませんが・・・

今年の大河、兼続の人物設定がかなりいい加減な気がします。
後のこの方の立場を考えてしまうと
本当にこれでいいのか、と思ってしまうような
エピソードの羅列による人物の成長振りです

桐野先生がおっしゃるとおり、ここ何話かの話の流れは
「勝てばオーライ」
「結果出したもの勝ち、言ったもの勝ち」
というお話の持って行き方だと感じていましたが
製作者側はそれと「義」との齟齬には気づいていないのではないでしょうか?

画面の兼続も仙桃院に説得された折には
「政治って(義って)そんなものなんだ」という表情で
阿部謙信に義を説かれたときよりも納得しているように感じてしまいました。

兼続の人物設定
桐野作人
木暮兼人さん、こんにちは。

仰せのとおり、兼続の人物設定は懸念されますね。
単純で感情的で泣き虫で……。

こんなんで、徳川家康を迎え撃てるのか、他人事ながら、いまから心配になってきます。

それなのに、「虚義」から始まる景勝政権。
兼続のこれまでのキャラクターとは相反します。その自己合理化のプロセスも描く必要があると思うのですが、きっとスルーでしょうね。

どうせなら、最初から「義」を強調しなければよかったのにと思います。せいぜい、家来と越後の民を食わせることが「義」だとでもいっておけば、関東侵攻でも謀略でも、何でも正当化できると思いますし、そのほうが戦国らしいと思うんですけどね。
脚本どおりなのかどうか知りませんが。


秘密保持
御座候
>故・直江景綱夫人の妙椿尼が謙信の「遺言」なるものを披露し、それが偽りだったことを知らされた兼続。

そもそも、この「秘密」を兼続に知らせる必然性が全く分からないのですが。秘密を知る者をできるだけ限定するというのは機密保持の鉄則であり、兼続にしても教えられたところで何もできず、景勝に対して隠し通さなければいけないという苦悩を背負い込んだだけです。兼続が偶然秘密を知ってしまい、仙桃院が口止めするというのなら、まだ話は分かりますが・・・

機密
桐野作人
御座候さん、こんばんは。

謙信の死から景勝が実権を握るプロセスをどのように描くかは、この番組前半の重要な見どころだったと思いますが、史料云々以前に物語として不自然というか、拙劣さが目立ちましたね。
機密保持についてもたしかにその通りです。
仙桃院と妙椿尼があの世にもっていくべき秘密のはずです。
でも、そうすると、兼続も景勝も女性2人の掌で躍らされたということになり、主役・準主役の立場がないので、兼続だけに洩らしたということにしたのでしょうか。

かといって、そうすると今度は「義」との折り合いがつかなくなるという体たらくになってしまいましたね。




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