歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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7月4日、友人たちと伊豆方面に行きました。
折から小雨もぱらつくあいにくの天気でしたが、途中で雨もやんだのでよかったです。

まず三島駅に着くと、三島大社に行きました。
ここには格別の思い入れがあります。
天正10年(1582)、本能寺の変が起きる年、当年閏月問題が起きました。
朝廷が調製する京暦(宣明暦)と地方暦で、当年の閏月をどこに入れるのか、1カ月の食い違いが生じました。
これは後北条氏五代の記録『北条五代記』にも記されていて、北条氏政は関東の三島暦などに従っています。

信長もこの食い違いに着目し、暦道を司る土御門有脩と「濃尾の暦者」を対決させています。
このときは、京暦が正しいということで決着がついたのですが、本能寺の変の前日、6月1日、信長はこの問題を蒸し返し、公家衆を困惑させています。
なぜ信長が蒸し返したのかその理由は史料に表れませんが、私は信長が甲州陣で東国に実際足を踏み入れたことによる知見が大きいのではと思っています。
信長にとって、自分の領国内での時間の不統一は看過できなかったものと思われます。
三島大社の変わった灯籠

その後、韮山代官として有名な江川邸に行きました。
幕末期の当主、江川英竜(坦庵)が有名です。坦庵は兵学者でもあり、パンを初めて焼くなど開明的な人物でした。パン窯なども見学しました。江川家の家紋が井桁に菊紋なのが興味深かったです。近世は菊紋の使用制限がなかったことがうかがわれます。
韮山代官江川家の家紋

韮山には源頼朝の配流地蛭ヶ小島があります。もっとも、現在、建碑されている蛭ヶ小島とされる地はあくまで「伝」だそうで、必ずしも特定されていないとか。案内してくれた地元の有識者によれば、その近くに「兵衛の森」とかいう地名があるそうで、頼朝の官途「右兵衛佐」にちなむ地名なので、こちらが蛭ヶ小島かもしれないと説明してもらいました。
源頼朝が配流された蛭ヶ小島

有名な反射炉にも行きました。わが国では、佐賀、薩摩、長州、水戸など諸藩でも反射炉がつくられましたが、完全な形で現存しているのはここだけです。それだけに貴重ですね。
韮山の反射炉

日帰りの小旅行でしたが、とても楽しかったです。

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【2013/07/06 11:01】 | 歴史紀行
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ずっちゃん
お疲れ様でした。また御同道有り難うございました。今度は近くにある私の隠居庵にも是非。玄峰和尚が岸信介と密談によくいらしてた片倉温泉が最寄りの温泉でしてなかなか良いです。


ずっちゃん
訂正・竹倉温泉でした。

楽しみです
桐野
先日はお世話になりました。
また伊豆行きたいですね。

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昨日、鹿児島から帰京。

14日に城山観光ホテルで講演会。日本福祉施設士会の九州ブロックからお招き。一般参加者も含めて多数おいでいただきました。

演題は「西郷隆盛と坂本龍馬」。
西郷や龍馬ゆかりの史跡について、鹿児島・奄美だけでなく京都や土佐の写真も含めてスライドショーも。
いわずもがなだったかもしれないが、「船中八策」や「世界の海援隊」はフィクションということも話した。

城山観光ホテルは近年何度も宿泊しているが、いまだかつて館内の展望温泉に入浴したことがない。もったいなくてトホホです。
翌朝の朝食で、初めて朝カレーを食す。最近いろんなホテルで朝カレーが出ているが、これまで食べたことがなかった。

ホテルに鹿児島の友人、Y口さんが迎えに来てくれ、同行してまた史跡取材。
彼は事前に取材予定地を調査してくれ、車両停車場所なども含めてロケハンしてくれる。また資料まで揃えてくれているから、とても有難い。
今回もメインの取材地になると思われた清水城の縄張り図、発掘調査報告書などもコピーしてくれていたので、とても助かった。
今回は残暑が厳しく、あちこち駆け回ったため、暑がりの私は汗みどろになった。
また昼前後は桜島の降灰に悩まされ、15:00頃からは台風の影響か、雨にも降られて晴れ男の異名も台無しになった(笑)。

今回、もっとも印象に残ったのは、日新斎・貴久以前の島津氏の居城だった清水城跡と、蒲生にある江戸時代後期の街道、掛橋坂である。
清水城は6代氏久から14代勝久までの約160年間、島津本宗家の居城だった。近年、にわかに脚光を浴び、城郭研究者の泰斗である村田修三氏や三木靖氏なども訪問調査されている。すでに石垣が存在していたことが知られていたが、密林の奥にあるため、そこまで行けるかどうか危ぶまれた。
すると最近、見学会があったらしく、登山ルートがきれいに伐採されていたので、難なく登れた。

しかし、前途に大きな敵がいた。伐採作業のときに山道に落とされたと見られるスズメバチの巣があり、ハチが群がっていた。
私は十数年前、関ヶ原の島津退き口踏破のとき、1度スズメバチに左くるぶしを刺されるという痛い体験をしたことがあり、2度目に刺されると、異常なアレルギー反応を起こし、下手をすれば死に至るケースもある。だから、スズメバチが出やすい夏場の山城歩きはなるたけ避けていたのだが……。
しかし、ここで引き下がっては、せっかくの清水城の石垣が見られない。意を決して山道の片隅をスズメバチを刺激しないよようにソロリと歩いて、何とか窮地を脱した。帰路も同様である。
写真はスズメバチの巣と清水城の石垣。
スズメバチ清水城石垣

石垣は高い所では3メートル以上はあると思われた。野面積みよりも精巧な石組みである。また隅が算木積みになっている箇所もあった。
あくまで門外漢の印象だが、戦国期よりも新しいのではと感じた。かといって、織豊期や近世にここに城郭が築かれたという話は知らない。
憶測だが、貴久が内城を造営するまでに一時的に入城したのか、あるいは内城が平地の屋形造りで防備が弱いため、その詰めの城として新たに普請されたのか。いずれにしても、今後の究明が待たれる。

もうひとつは、蒲生(現・姶良市)にある掛橋坂である。
これは近年、発見された江戸時代後期の古道。これまでほとんど知られていなかったそうだが、姶良市が整備したので、訪問しやすくなった。
大きな岩盤を開削した石畳の往還である。当時の技術では困難な掘削作業だったはずで、その苦労が偲ばれた。岩盤には石ノミの痕が残っており、明らかに人工的に開削されたことがわかる。
鹿児島の古道は、白銀坂や龍門寺坂が有名だが、掛橋坂は今後、大きな注目を浴びるだろう。
掛橋坂道標掛橋坂石ノミ

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今回訪問した史跡は以下のとおり。
よく1日で回れたと思うが、これでも、いつもより少ないかもしれない。

ザビエル上陸地(祇園洲公園)
石橋公園(西田橋など)
稲荷川河口
西南戦争官軍兵士墓地
祇園洲砲台跡
薩英戦争記念碑
島津重冨荘
琉球人松
多賀山公園
肝付兼重奮戦の碑
東郷平八郎遺髪墓・銅像
東福寺城跡
春日神社(薩藩水軍軍港跡)
森有礼生誕地石碑
伊東祐亨生誕地石碑
大乗院橋(再建)
今和泉島津家下屋敷跡
桐野利秋邸宅跡(明治期)
島津氏五代墓(本立寺跡)
鶴嶺高等女学校校舎跡
稲荷神社
泗川新寨戦三勇士之碑
大乗院磨崖梵字
清水城跡(石垣・櫓台など)
桐野利秋生誕地
別府晋介生誕地
名越左源太屋敷跡
矢上城跡(南北朝期の矢上高純居城)
桂庵玄樹の墓
川田神社
川田家歴代墓(川田義朗など)
川田城跡
丹後局腰掛石
花尾神社
丹後局の墓/僧永金の墓
丹後局荼毘所
後醍院宗重の墓
花尾かくれ念仏洞
西山宗知師の墓(一向宗僧侶)
都迫の念仏かくれ窟
桐野利秋の田廬跡碑(吉田開墾地)
掛橋坂
伝相良八代実長夫妻の墓

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【2012/09/16 11:23】 | 歴史紀行
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脱帽
ながお
桐野様

こんにちは。
先月帰省の折、1日だけ鹿児島市に行きましたが、回れたのは、南洲墓地、同顕彰館、石橋公園などほんの数箇所でした。プロのお仕事だし、事前準備があればこんなに回れるのですね。脱帽で~す(笑)。
石橋公園よかったです。
                

こんばんは
桐野作人
ながおさん

あれだけ回るには、やはり事前準備が必要ですね。また私の独力だけではとても無理です。
今回も鹿児島の友人に協力してもらいました。

花尾神社
木脇moひろみ
明けましておめでとうございます。
本年も桐野さんのご健康とご活躍をお祈りします。

さて、昨秋に「花尾神社」に行かれたそうですが、ここには、戦国時代の木脇祐秀の享保時代の子孫・木脇祐盛が留守居役をしていた頃のミッションで京都で制作た扁額が現存しており(宮司様に確認済み)、現物を確認しに行きたく思っている場所です。
また、今年は薩英戦争から150年。色々な史料が表に出てくることを楽しみにしています。

本年もどうぞ、宜しくお願いします。

花尾神社
桐野
木脇moひろみさん

明けましておめでとうございます。
本年もよろしく。

花尾神社、昨秋行きました。
ただ、境内散策と本殿外観を見学しただけで、扁額は拝見しておりません。
知っていたら、ぜひ見たかったですね。

史料を見ていると、時折、幕末の木脇啓四郎の記事を見ます。
最近では、『斉彬公史料一』478頁に「御茶道職木脇藤渕(後啓四郎)」云々と茶釜の模製を作っているような記事がありました。
小松帯刀の書簡にも登場しますね。
あと、戦国関係では、島津義久の側室?か女房衆と思われる小侍従という人が木脇祐光の室になったという記事もありましたが、この人は祐秀の親戚でしょうか?

取り急ぎご挨拶まで。

桐野作人




木脇祐秀と木脇祐光は別支流
木脇moひろみ
桐野作人様

質問へのご回答が遅くなりすみません。

■戦国の「木脇祐秀」と「木脇祐光」の関係
関係姓を示す史料には未だ出会っておりません。
便宜上、木脇姓を「祐秀系」と「唐湊系」と呼んでいます。
・「木脇祐光」の流れは「唐湊の木脇」。
・幕末の「木脇啓四郎」は「唐湊系の分家」です。
(この2つの系統から遡る支流も存在有り)
※「唐湊系」については、丹羽謙治先生の『薩摩藩文化官僚の幕末・明治 木脇啓四郎「萬留」』に翻刻された系図が掲載されています。

■誤解しやすい天正時代2つの「木脇祐昌」
ここで、誤解されやすい戦国時代「木脇祐昌」についてご紹介させてください。
次の①と②は「別人」です。
系統も異なります。

①木脇祐秀系の木脇祐昌
・木脇刑部左衛門祐秀の父「木脇刑部左衛門祐昌」は肥後八代「花山城主」(地頭)。
・天正13年8月10日、甲斐宗運二男に攻め入られ討死。

②唐湊の木脇系の木脇祐昌
・天正13年5月5日生まれ。「木脇源次、後に伊東二右衛門」。
・幕末・木脇啓四郎はこの唐湊系の分家。

以上、ご回答させていただきました。

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昨日、埼玉県行田市の忍城などに行ってきました。
久しぶりの好天で暑く、すっかり日焼けしました。

忍城は成田氏の城で、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、石田三成をはじめとする豊臣軍に攻められます。忍城は水攻めにされたことでも有名です。
その痕跡を探しに、友人のIさんと行きました。
午前9時過ぎ、行田駅前でレンタサイクルを借りようとすると、すでに1台を残してなくなっており、しかたなくタクシーを使って行田市郷土博物館に行きました。

同館は忍城跡にあり、現在、模擬天守が建っています。
まず、情報収集をする。受付に『行田市史』近世編、近現代編が並んでいたので、忍城攻めの史料があるはずの中世編を買おうとしたら、まだ未刊との由で残念。おそらく古代中世編という形で編纂されており、さきたま古墳群があるので刊行に手間取っているのかと憶測。
館内では忍城、とくに近世の忍城の展示を見学。
忍城模擬天守

同館でレンタサイクルを借りて、次に石田三成が本陣を置いたとされる丸墓山古墳に行きました。
この古墳はさきたま古墳群の一角にある。
古墳はほとんど前方後円墳だが、これだけは円墳。円墳ではわが国最大の大きさだという。
丸墓山古墳

頂上まで登ると、360度視界が開け、忍城の模擬天守も遠望された(写真中央奥)。ここに石田三成や浅野長吉などが立ったのかと感慨に浸る。
丸墓山古墳からの眺望

隣には有名な稲荷山古墳の雄姿が見える。
「ワカタケル」こと、雄略天皇の名を刻んだ鉄剣が発掘されたことでも有名。
稲荷山

その後、石田堤を探しに行く。石田堤は忍城水攻めのときに築かれた土堤の一部が現存しているもの。城の南方にある。
途中、道を間違えたりして、ようやく当該場所付近にたどり着いたが、なかなか見つからない。現在、史跡公園になっているというので、それらしき場所を探したが、見当たらない。
地元の人に尋ねたりして、ようやくたどり着いたが、何と、最初に来た場所だった。史跡公園というよりも駐車場か児童公園という感じ。
すぐ近くに土堤がつづいている。全長200メートルほど断続的に遺っていた。高いところは4メートル近くはありそうだった。
また上越新幹線の高架下には、土堤の断面を示してあった。土堤の断面をそのまま保存し、地層の重なり具合を原寸大でボードに示してあった。
石田堤案内板
石田堤
石田堤断面

秀吉のいくつかの水攻めのうち、忍城攻めは最大規模のものである。忍城は行田市だが、石田堤は隣接する鴻巣市にある。その規模の大きさがわかる。
レンタサイクルでめぐってみて、お尻が痛くなるほど、それを実感できた。

心残りは行田名物のゼリーフライを食べられなかったこと。残念。

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【2012/05/06 09:46】 | 歴史紀行
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先日の取材のうち、熊本編です。

熊本に来たのは久しぶり。
おそらく20年ぶりくらい。
かつての大河ドラマ「翔ぶが如く」の取材、その後の戦国島津氏の取材で訪れて以来。

今回のめあてのひとつとして、横井小楠関係と徳富蘇峰・蘆花兄弟の史跡を回りたいと思っていた。
空港からまず、小楠の居所があった沼山津の旧四時軒に行く。ここは小楠の資料館になっている。
小楠の資料でも、とくに暗殺場面が模型などを使ってリアルに作られていた。
四時軒

次に徳富兄弟の家に行く。のちに蘇峰が大江義塾を開いた場所。
当時の古い建物が残り、資料館が併設されていた。
大江義塾
蘆花こと健次郎が10歳足らずの頃、神風連の乱が起こり、健次郎は母とともに2階に上がり、熊本城方面が真っ赤に焼け、すぐ近くにあった熊本鎮台司令長官の種田政明少将が神風連に襲撃され、落命した騒動をつぶさに目撃している。有名な「ダンナハイケナイ、ワタシハテキズ」の電報の事件である。

資料館の館長にお会いしてずっと気になっていたことを尋ねた。
徳富兄弟の父、徳富一敬が手記を書いているという。一敬は小楠の門下で相聟でもある。
その手記のなかに小楠を訪ねた坂本龍馬のことが書かれており、龍馬が大久保利通を評価していたといった記述がある。私は『坂本龍馬全集』の年譜に引用されているのを見たのだが、一敬手記がどこに所蔵されているのか尋ねたところ、実在しないか、少なくとも見つかっていないのではないかという館長の返事だった。
同全集を編纂した宮地佐一郎氏はもう物故されているし、確認する術はないのだろうか?
明治時代の雑誌などに紹介記事があるのではないかと憶測しているのだが……。

その後、種田少将邸宅跡を撮影し、神風連の資料館に向かう。
隣接して桜山神社があり、神風連の戦死者・自刃者・刑死者の墓が左右にずらりと並んでいた。
神風連の思想的な指導者である林桜園の墓のほか、肥後勤王党の墓もあった。神風連は同党から分かれた団体である。同党の有力者だった宮部鼎蔵や河上彦斎の墓もあった。
神風連墓

熊本といえば、熊本城。
ここも当然久しぶりである。
築城者の銅像も載せておきます。
加藤清正

再建された模擬天守より、やはり西南戦争でも焼けなかった宇土櫓である。
城内の加藤神社から撮影したもの。
上部の建物より石垣の高さが倍近くあるその姿は勇壮そのもの。さすが加藤清正という感じ。
宇土櫓

天守閣近くの銀杏の木の横に、西南戦争時の鎮台司令長官だった谷干城少将の銅像があったと記憶していたが、なぜかない。
城内の案内板を見ると、近くの公園にあることがわかった。
熊本城では近年、本丸居館が再建された。私の記憶違いでなければ、そのときに移転したものか?
谷干城
谷は名前の干城のとおり、西郷軍の猛攻から熊本城を守りきった。

近年、再建された本丸御殿にも入ってみた。地下に通路があるという面白い造り。
内部は豪華で、金を多用した極彩色。とりわけ、奥に昭君之間があった。中国古代の悲劇の姫、王昭君にちなんだもの。一説によると、加藤清正が豊臣秀頼を迎えるために用意したというが本当か? ストロボを使用しない条件で撮影できた。
王昭君

模擬天守にも登る。最上階から西南方面にお椀を伏せたような山を見る。
花岡山である(写真奥中央)。現在は山頂に白い仏舎利塔が建っている。インドのネルー首相から贈られたもの。
花岡山

西南戦争の初期、西郷軍がここに四斤山砲や臼砲を据えて熊本城内を砲撃した。
それに先立ち、熊本城天守閣は炎上している。失火、放火の両説があったが、近年は鎮台側による放火説が有力。西郷軍の標的になるのを避けるためだったと思われる。
この山に登りたかったのは、西郷軍から熊本城がどのように見えたのかを確認するためだった。

小雨の中、花岡山に登ってみた。
西郷軍の砲座跡に石碑が立っていた。目立たない場所にあって探すのに苦労した。
この石碑の下に視界が開けた場所があり、遠く熊本城を望むことができた。
近年は高いビルが建っているが、それでも天守閣がはっきりと目撃できた。
当時はもっと目立ったに違いない。
参謀の児玉源太郎が西郷軍の標的にならないために天守閣を焼いたといわれるが、児玉の炯眼かもしれない。貴重な文化財が失われたが。
写真中央に天守閣が見える。
花岡山から見た熊本城

花岡山には官軍墓地がある。
ここには、神風連の乱で落命した種田少将のほか、県令の安岡亮介はじめ、鎮台の軍人たちの墓が建ち並んでいる。異色なのは、乃木希典の娘の墓もあった。乃木が熊本勤務時代に亡くなったらしい。
官軍墓地

なお、熊本築城のとき、加藤清正がこの山から石垣の石を切り出させたといわれる。山の中腹にか、兜石といわれる、清正の陣頭指揮で石を切り出した史跡があったそうだが、行きそびれてしまった。残念。


花岡山で初日の取材が終わる。
翌朝、どうしても訪れたかったのが立田山自然公園。
ここは熊本藩主細川家の菩提寺、泰勝寺の跡である。
開園の30分ほど前に着いた。先を急いでいたので入園は諦めようかと思ったが、ダメ元で清掃中の職員に掛け合う。すると、ちょうど受付の職員が到着。東京から来たと訴えると、開園前にもかかわらず、入園を許可していただいた。感謝感謝。
細川幽斎、忠興父子、幽斎夫人、そして細川ガラシャの墓がある。
写真は忠興の墓と、ガラシャの手水鉢。
細川忠興墓
ガラシャの手水鉢

熊本市内はほとんど目的を達して満足だった。
車を北上させ、一路、田原坂に向かう。
ここも20年ぶりである。
そのときは田原坂だけでなく、植木、木葉、南関、高瀬、山鹿、御船、人吉、日奈久など多くの戦跡や墓地を訪れた。
今回はそんな時間がないので、田原坂周辺だけ。
資料館を見学した。近年、田原坂周辺は発掘調査が進み、多くの遺跡や遺物が発見されている。
館内にはその一部が展示してあった。それとともに、展示物が以前よりはるかに充実していたのに驚いた。一般の入館者でもわかりやすい工夫がしてあった。
田原資料館

そして田原坂を下る。
田原坂は下から一の坂、二の坂、三の坂とある。
私たちは三の坂から逆にたどった。
いちばん当時の雰囲気が感じられるのは二の坂付近である。
道の両側は土手になっていて、西郷軍が土手に潜み、下から上ってくる政府軍(とくに乃木の第14聯隊)を迎撃したのだろうなと想像させる雰囲気がある。写真はその二の坂あたり。
田原坂

本当は田原坂から谷を隔てた二俣台地(政府軍の砲台跡)や激戦地として有名な半高山、篠原国幹が戦死した吉次峠など行きたかったが、時間の関係で断念せざるをえなかった。

その後、再び北上して太宰府をめざす。
それはまた次回に。

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【2012/04/30 00:54】 | 歴史紀行
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花岡山
ながお
桐野様
こんばんは。
花岡山は行った事はありませんが、様々な歴史のあるところですね。
徳富蘇峰ら熊本バンドがキリスト教を奉教することを宣言したところでもあります。彼らは後に同志社に移りますが、来年の大河ドラマとも話題がつながりそうですね。

熊本バンド
桐野作人
ながおさん

花岡山は熊本バンド発祥の地でしたね。
その一人である蘇峰は新島襄夫妻とともに東山に眠っています。
来年の大河に蘇峰も登場するのでしょうか?

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先週の土日(21~22日)、熊本・福岡に取材に行きました。

順番が逆ですが、旅程の最後となった柳川についてまず報告します。

22日16時、太宰府の取材に手間取り、予定より2時間近く遅れて柳川の立花邸、通称御花に着く。
御花は史料館のほか、西洋館や松濤館、松濤園など、立花家ゆかりの施設で構成されている。とてもオシャレな空間だった。写真はクリックすれば拡大されます。
西洋館

友人の調所一郎さんのご紹介で、立花家歴史史料館史料室長のU野さんにお会いする。
同館の展示品を詳しく説明していただいた。
とくに立花宗茂が大男の偉丈夫だったことが伝来している所用の当世具足で判明するとのこと。6尺くらいはあったのではないかという話だった。
ほかにも養父戸次道雪の伝説で有名な雷切丸の太刀や、新たに発見された宗茂夫人の立花千代の肖像画も見学。
宗茂の親衛隊がそろって着していた金色の桃形兜も面白い。これがまだ数百個も現存しているそうで、在りし日の宗茂の馬廻の壮観さが目に浮かぶようだった。

その後、隣接する松濤館の喫茶室でU野さんと歓談。
柳川では宗茂への関心はいまいちだったが、近年の歴女ブームにより来訪者が激増したという。
とくにバレンタインデーには、宗茂宛てのチョコレートがたくさん贈られてくるそうだ。
宗茂関連のグッズもたくさん作られるようになった。
ご推薦の宗茂の蒸し金鍔を購入した。
宗茂のことを熱く語られるU野さんがとても印象的だった。

せっかく柳川に来たからには鰻が食べたかったので、隣接する集景亭で蒸しセイロをいただいた。
鰻

御花を辞去すると、もう夕刻に近かったので付近の散策をしたが、名物の水郷の船遊びは終わっていて、写真が撮れなかったのが残念。
水郷

柳川といえば、立花宗茂以上に有名なのが北原白秋。
その生家跡が記念館になっているので見学。
北原白秋

宗茂が関ヶ原合戦のとき、籠城した柳川城址もはずせない。
現在は柳城中と柳川高校になっている。柳川高校は硬式テニスの名門校として有名だ。
市街地の平城なので、あまり遺構は残っていなかった。中学校と高校の境界部分に低い石垣が残り、その上がどうやら本丸跡で、天守閣があったのではないかと思われる。
写真は本丸跡の案内板と同行してくれたY口さん。
余談ながら、Y口さんはドイツ・ブンデスリーガのスター、香川真司に何となく似ている。
柳川城

柳川城址は小さな水堀で囲まれていたが、水か小魚に誘われてサギ?が来ていた。何とか撮影しようとしたら、歩いて逃げる。茂みの中に隠れていたのをようやく撮影。意外とよく撮れた。
サギ

次回からは熊本編、太宰府編などもアップしたいと思います。
お楽しみに。

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【2012/04/24 10:21】 | 歴史紀行
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調所
柳川の紹介、有り難うございます。私の母方祖母・曾祖父母が柳川出身で立花家とも遠縁にあたるため、子供の時からよく聞かされてました。福厳寺という立花家の菩提寺が、そのまま時代劇ができるくらい古い趣があって良い感じの所です。次回は是非、御案内したいです。

福厳寺
桐野作人
調所さま
柳川の件では有難うございました。
おかげさまでU野さんと知り合いになれました。

福厳寺は行きたいと思いながら時間切れで無理でした。次回を期したいと思います。
ご一緒できればいいですね。


熊本・太宰府で
Y口
 思いのほか時間が経ってしまい、私の中では
太宰府の梅ヶ枝餅で10時のお茶、
久留米あたりでお昼のラーメン、
柳川でのんびりお掘を行き交う船を眺めながら
3時のお茶と考えていたのですが(笑)
 これに懲りずに、またどうぞお供させてください。

柳川
ばんない
こんばんは。
これからこのブログでも立花ネタが登場する頻度が高くなるのでしょうか?

>柳川では宗茂への関心はいまいちだったが、
これはかなり意外ですね
>近年の歴女ブームにより来訪者が激増したという。
>とくにバレンタインデーには、宗茂宛てのチョコレートがたくさん贈られてくるそうだ。
彼女たちに宗茂のほんとの顔を知らせたいです(苦笑)ファンが多いのはゲームでイケメンに設定されていることが多いからでしょうね、宗茂の生き様は確かにイケメンですけど。

>新たに発見された宗茂夫人の立花千代の肖像画
今までよくネットや本に出ていたのは、戦後になって描かれた十二単?着用の物ですよね。それと違う古い物が出てきたという事でしょうか。
話は変わりますが、妻と不仲の婿養子という点で似てますね、宗茂と島津忠恒。もっとも宗茂は生き様がイケメン(←しつこい)

千代と亀寿
桐野作人
ばんないさん

宗茂と忠恒が似ているということは、千代と亀寿も似ていることになるでしょうか?
両方とも気が強そう(笑)。
ただ、千代は再婚してませんけどね。


肖像画
ばんない
こんばんは。

>新たに発見された宗茂夫人の立花千代の肖像画
本日(もう昨日になりましたが)の「歴史秘話ヒストリア」で登場していた良清寺の物でしょうか?
かなり剥落が酷かったですが、今まで「千代の肖像画」として公開されていた昭和時代の作に構図や衣装は似ています。これを元に作成したのかも知れませんね。

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