歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
本能寺の変でした。
トヨエツ信長の退場は思ったより早かったですね。

江が生霊となって本能寺に現れたり、伊賀越えに同行するなんて、ナンセンスもいいところで脱力感いっぱいです。

光秀が天正10年(1582)5月20日に安土で信長に会ってました。
そんなことはないでしょう。光秀は15日から17日までの3日間、安土で家康の接待役をつとめ、17日に信長から接待役を免じられて、中国出陣を命じられたので、20日はその支度のため坂本城にいるはずです。
また、丹波と近江滋賀郡の所領没収を信長に言わせていましたが、またかという感じでもういい加減お腹いっぱいですね。そんなはずないでしょう。

ひとつ新味があったのが、信忠が在京しているのを確認してから、光秀が謀叛に踏み切ったこと。
堺に行く予定だった信忠が、信長上京を知って、京都で出迎えると決めたのが5月27日。
信忠が森乱宛てに同日書状を送っています。
信長・信忠父子ともに討ち果たすのが謀叛の要諦だったとした点は買えますね。従来そんな風に描いたドラマはなかったと思いますから。

余談ながら、信忠が堺下向を中止(延期)したのを知って、「(堺衆が)力を失い、茶湯の面目を失った」と嘆いたのが千宗易です。宗易にとっては、江よりも信忠のほうが大事な人物でした。

さらに余談ですが、江と宗易の交流を描いてしまった以上、宗易=利休の秀吉との確執やその最期についても、江が余計なお世話をするのではないかというイヤな予感が……。

最後の江紀行で、信忠が自害した二条御所跡(旧龍池小学校跡)の石碑が登場しました。
これも珍しいかも。もっとも碑銘のとおり、「二条殿跡」と呼んでいましたが、当時の呼ばれ方だった「二条御所跡」(あるいは下御所)と呼んでほしかったですね。

もう感想を書くのも今回限りかもしれません。

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【2011/02/07 00:33】 |
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とらさん
愛宕でくじを引いたりするシーンはあまり重要視されないのでしょうかね。例の発句も出てこなかったですし。
それと、謀反を勧めたのが信長自身、というのが今後いろいろ引用されるような気もします。
信長自滅説の誕生?

信忠が京にいたことを知っていたなら同時に妙覚寺を包囲しそうな感じですけど、昨日の放送ではうまく?触れないようにしてましたね。
京にいたことは知ってたが、どこにいたかは知らなかった、とすれば史実にも整合性がありますし。

お江は生霊か幽体離脱かテレポートか、とSF方面でも話題になってたり・・

次回も本能寺の謎??にお江がせまります。ご覧になって頂きたいですね・・

お姫様戦国紀行
市川
時代考証を担当する先生方の存在などもはや必要ないのではと思ってしまうのが今年の大河の感想です。
これほど主人公のやることなすことがまかり通る世界なら、歴史的見解など必要ないと思います。
桐野先生を含め、他の大河サイトの真面目な評論を読んでも、虚無感が漂います。

周囲の人物像も真新しいことはなく、みんなが知っている信長や光秀の悪い意味でイメージ通り。
特に光秀は扱いが雑です。理不尽に殴られいじめ抜かれた人物だったとしかもう認識できません。

このまま1年間、お姫様はどこまで首を突っ込み続けるのか……。




とらさん
次の清盛の考証を担当される先生もNHK批判?をされてますし、ここ数回の大河はさすがに行きすぎなのでしょうか。
あくまでドラマであるというのも理解はできるのですが・・

歴史認識のズレ
惟宗
桐野さん、一連のお仕事、ブログ、いつも拝見しております。いつぞやは、ブログにての質問に懇切丁寧に御回答下さり、改めてお礼申し上げます。ブログでの大河ドラマに対する桐野さんの危惧や皆さんのコメントを拝見していると、よく言われていることですが、歴史研究者【=学界】の認識と一般の方の認識のズレが大きすぎるという問題がありますね。特に歴史学はそれが顕著だと思われます。歴史がその存在理由を問われている現在だからこそ、桐野さんの危惧は当然でしょうし、大河ドラマ=史実と思い込まれる視聴者に対する懸念もまた当然だと思います。大河ドラマに歴史を身近に感じて興味を喚起する装置としての役割があるにしても、フィクションとしてのドラマを史実と視聴者が認識すると、さらに史実としての歴史との乖離が加速してしまいますし、歴史研究者として、一般の方に学界の最新の動向を解りやすく解説して興味を喚起する必要をさらに強く感じてしまいました。←口で言うのは簡単ですが…。無味乾燥で、つまらないと思われがちな歴史学の危機が大河ドラマに象徴されているとさえ、感じてしまいます。

乖離
桐野
研究者と一般人、史実と物語の乖離はいつの時代でもあることですから、あれこれいっても仕方ないのかもしれません。

たとえていえば、赤穂浪士の討ち入りは明らかに実在した史実ですが、それを翻案した「仮名手本忠臣蔵」はフィクションですね。
最近の大河ドラマは後者の役割を果たしています。
問題は時代考証を置いていることかもしれないですね。時代考証を置かずにつくれば、あれこれいう筋合いでもないんですけどね。

また歴史研究者もその乖離をどう見るか、もっと積極的な発言があってもいいような気もしますね。



市野澤 永
昨日、仕事の関係から下記の書籍の出版を知りました。

書名 天正壬午の乱
   本能寺の変と東国戦国史
著者 平山 優
価格 \2,415(税込)
出版 学研パブリッシング
ISBN 978-4-05-404840-9
発行 2011年3月

本日、丸島和洋氏がご自身のH.Pでご紹介をなされていましたが、益々読みたくなりました。

ご存知でしたら、申し訳ありません。





忍っこ
桐野先生こんにちは
「江」は大河ドラマ50作という記念すべき作品
なのに、またやっちゃってます。
新聞の番組紹介欄に上野樹理が7歳の「江」を
演じるのはムリがあると書いてありました。
私も時代考証は必要ないと思います。
作家の田渕久美子さんの過去の作品はれきしの
「れ」の字も出てきません
そういう方が作った「江」ですから
史実はもちろんご存じでないと思います。



平山優氏
桐野
市野澤さん

平山優さんの新著紹介、有難うございます。

じつは平山さんからご恵贈していただきました。
そのうち、当ブログでも紹介したいと思います。



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大河ドラマ「江」第4回「本能寺へ」

今度は馬揃えを見に行ったのですね。

信長の天正9年(1581)洛中馬揃えを正面から、かなり手間暇かけて復元してみせたのは、数ある大河ドラマで初めてだと思います。

その意欲は買いますが、予算の関係もあるのでしょうか、ちょっと静的、悪くいえばのんびりでしたね。
太田牛一『信長記』巻14の馬揃えのくだりを読むと、あんなのどかな感じではありません。
その前に、安土でも馬揃えをやっていますが、かなり激しいものです。左義長(どんど焼き)の爆竹がはじけるなかを馬で乗り回すという勇壮なものでした。

洛中ではさすがにそこまで激しくなかったと思いますが、南北約500メートル、東西約150メートル(諸説あり)の広大な馬場を、15騎ずつが単位になって、次々と入れ違いに駆け回っています。引用すると、

「初めは一与(一組)に十五騎づつと仰せ出だされ候へども、ひろき御馬場にて、三与四くみづつ一手になり、入りちがへ/\透き間なく、馬に行き当て候はぬ様に、埒(らち、馬の柵)を右から左へ乗りまはし、辰の刻より未の刻までめさせられ」云々

最初は15騎ずつだったのが、数が多いので、45騎~60騎が一緒になって馬場を駆けめぐっています。あまりに騎馬の数が多いので、ぶつからないようにするのが大変だったとも書かれています。馬揃えをした時間も午前8時から午後2時までの6時間という長きにわたっていますね。

なお、信長が椅子を引かせ、座ってみせました。
これはイエズス会関係の史料に記述があります。イエズス会のアジアの総責任者であるヴァリニャーノ(東インド巡察師)がちょうど来日しており、あの椅子はヴァリニャーノからの信長へのプレゼントです。
史料には「ビロード製の椅子」とあります。ドラマでは、椅子の表にビロード状のものが付いていました。
私はソファーのような感じかなと思っていましたが、どうなんでしょうね?
ドラマでは信長が椅子に座って見せましたが、史料には高く掲げてみせたとあります。

あと、馬揃えの目的・狙いについて、江が恐れ多いというほど信長に反発していましたね。
はっきりとは描いていなかったですけど、何となく、信長が朝廷を威嚇する狙いを込めているように描いていました。相変わらずですねえ。

この馬揃えは、安土でのそれの評判を聞いた正親町天皇がじきじきに見たいと京都所司代の村井貞勝を通じて依頼してきたので、信長がそのリクエストにこたえて挙行されました。信長が無理やり強行したのではないのです。宮廷女官の日記『御湯殿の上の日記』には次のように書かれています(仮名が多いので漢字を増やしてます)。

「都にて左義長あらば、御覧まいられたき由、信長に申し候へと御使にて仰せられ候へば」云々

主語がないですが、宮廷女官が書いているのと、「御覧」「仰せ」といった敬語から、主語は天皇だとわかります。

信長の馬揃えが朝廷に対する軍事的な示威だという見方はまだ根強いですが、違うと思いますね。
また洛中馬揃えはこれが初めてではありません。
元亀元年(1570)、信長が朝倉攻めをするとき、京都に諸大名を集めましたが、そのとき、徳川家康が洛中で馬揃えを行い、多くの群集がつめかけて喜んだと『言継卿記』にあります。
家康も天皇か将軍義昭を軍事的に脅したということになるのでしょうか?

このような先例を見ると、馬揃えは朝廷はじめ京都の民衆を喜ばせる一大イベント以上ではないと思います。

たまたま、私が歴史読本誌に連載している「信長」の先月末発売号(3月号)でちょうど馬揃えのことを書いて居ます。興味のある方はお読み下さい。

次回はいよいよ本能寺の変ですね。

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【2011/02/02 08:38】 |
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とらさん
こんにちわ。
馬揃えは期待していましたが確かに小規模?でしたね。群集も何万人ですとか勝家も相当な大人数だったとは思いましたが、やはり女優さんの衣装とかに予算が・・
ただ信長の背中に梅の花が刺してあったので、細かいところには気配りしてあるのだなとやはり予算が気になったり・・

家康の馬揃えですが、戦に行く前というのはそれなりの緊張感、絶対に勝つとは限りませんし殺し合いに行くわけですからね、そういった状況の元でのパレードですので、戦の予定があるとは知らない?群集が喜ぶのはともかく、行ってる方にはそんなに余裕があったのでしょうかな、とも少し思います。つまり見る方と行動する方とはまた違った思惑があったのかな、とか
決して軍事的な威嚇という意味があったとは思いませんが、少なくとも「もし無事に勝利して帰ってきた時は」京に名を示すような武将である、というような顕示ぐらいの思惑はあったのかな、とか。
あくまで私見ですのですいませんです・・

ところで、この先家康の京入りは天正十年のあの堺遊覧後、まで無かったのですかね。
大河ですと妙に安土までは気楽に?来てる様な感じがしてしまって・・

家康の馬揃え
桐野
とらさん

家康の馬揃えは、仰せのような三河武士の存在感を示すという狙いはあったでしょうね。
もっとも、家康が朝廷を威嚇する理由はないし、将軍義昭も信長と蜜月時代ですから、これまた理由がありません。
いずれにせよ、誰かを脅す軍事的示威とは考えにくいですね。
麾下の綱紀維持、士気高揚あたりが目的でしょう。


とらさん
お返事ありがとうございます。
細かいですけど、姉川の時点では義昭ー信長は少し複雑になってませんかね。
殿中御掟の後義昭がそれを無視するように御内書連発、そして十月に不仲ー天皇仲介、さらに翌年追加七条、金ヶ崎とこのような時系列でしたかね。
信長というよりは義昭の態度に大きな変化があった時期で、このあたりは「御父」あたりの蜜月時代とは正反対の関係、とすら思えてしまいます。

もちろんこれが家康の馬揃えに与える影響は個別に検証されるべきでしょうが、もし信長ー義昭不仲、が背景にあるとしたなら、それもまた考慮に入れてもいいのでは、とも思えてしまって・・
また信長の馬揃えの背景もですが・・

決して反論とか論争とか言うのではなく、以前から少しこのあたりは不明に思っていた点で、雑誌の連載もずっと楽しみに拝見しておりましたので。失礼しました。

石清水行幸
Tm.
とらさん、横レスにて失礼します。Tm.と申します。
そして桐野先生にはお久しぶりになります。

ご指摘の点は以前から自分も事あるごとに述べさせて頂いているのですが、信長と朝廷の関係について、両者の融和・協調路線を主張される方に言えることとして、本能寺の変における黒幕説に通じることを強く否定する余りか、殊更、両者の対立を過小評価というか矮小化し過ぎているのではないかと思っています(義昭との関係においても然り)。

歴読3月号の小論においても、今回、桐野先生は、馬揃えに対する天皇方の反響として『信長記』のそれを紹介されていますが、如何せん信長贔屓(時としてですが)の記述でもあり、特に2回目のそれについては、当の天皇方の記録である『御湯殿の上の日記』の記述は、

   むまそろへひんかしにてあり

と感想もなく素っ気ないものであることは、かつて桐野先生も指摘されていますね。
何より2回目のそれは、1回目とは打って変って軍事色の濃いものでした。

ある意味それは本来の馬揃え=左義長に近いものですが、天皇方がリクエストしたのは、むしろ1回目の仮装行列としての面であったと思います。ですから、『御湯殿』のそれも当然のことと言えるのではないでしょか。
果たして信長は、天皇方のそうした要望を理解していなかったのでしょうかね。

それを単に信長と天皇方との認識の違いとだけで片付けて良いものでしょうか。
そのことが、正に『御湯殿』の「むまそろへひんかしにてあり」という記述に表されており、過去に御所の西で行われたというそれに対比されているのではないかと思われます。



とらさん
>Tm.さま
お返事ありがとうございます。
公武関係において、史料から判明することは先生の述べられているように「喜ばす以上のものではない」ということでしょうね。
ただ自分のような立場のシロウトさん?ですと、もう少しふみこんで「人間学としての歴史」という面を強調したく思います。
これは「過去に学び未来に活かす」という学問の目的にもあてはまるでしょうし。

また、黒幕説の否定と共に極論としてのトンデモ説を否定せんがための「史料主義」が重視されているようにも感じます。

あくまで例えですが、同僚の娘さんがピアノ習ってれば「聞きたい」というのがエチケットでしょうし聞いたら「上手」「また聞かせてね」というのもエチケットでしょう。
そしてこれは、それ以上のもの、ではありません。
同僚とはライバル関係かもしれませんし、友好的である、と断定できるものではないでしょう。

公武関係においてもそうで、実のところ、はもう少し幅広く検証したほうがいいのでは、と思うわけです。

自分は対立とは思いませんが朝廷から見て信長は、決して理解の範疇にあるもの、と言い切るのも難しいと思いますし、そこにはなんらかの緊張状態があったのではないか、とような認識ではいます。
ここから先は事実を基にした推論になってしまうのですけどね。
失礼しました。

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大河ドラマ「江」第3回「信長の秘密」

何かもったいぶったタイトルでしたが、要はありもしない江の好奇心をかき立てただけ。江というより、むしろ脚本家の好奇心ではないかと思う。
だって、江はドラマ進行時点でわずか7歳か8歳ですよ。
子どもだから恐い者知らずで何でも聞けるという演出もありかもしれんけど、それなら、大人の上野樹里より、子役の芦田愛菜ちゃんのほうが実年齢ぴったりだし、効果的だったんじゃないの?
もっとも、7~8歳の女の子が、信康事件の真相を知ろうなんて考えないけどね、ふつう。

それで、今回の隠しテーマは信康事件です。
前回のコメント補足でも少し書きました。ここです。

もう一度、整理しておきます。
ドラマは信長が築山殿の殺害と信康の切腹を命じたという通説に従い、さらにその理由として、信康が信忠よりも優秀だったからではないかと、お市の方に述べさせておりました。

はっきりと強調しておきますが、この通説は後世の徳川史観です。
家康に都合がよいように、信長に事件の責任を転嫁したもので、結果として信康の「逆心」(後述)も曖昧化し、救済する意図が込められています。つまりは史実から乖離したフィクションだということです。

この事件の基本史料は、徳川方だと『家忠日記』、織田方だと太田牛一『信長記』の異本「安土日記」です。
太田牛一が著述したいわゆる『信長記』(『信長公記』と呼ばれることが多いですが)は自筆本と写本を含めて、数十点あります。
そのなかで信康事件を記したものと、記さないものがあります。また記したものでも、内容が微妙に違っています。
記されたものは成立が古く、記されていないものは成立が比較的新しいです。
なぜこのような違いが生じるかというと、太田牛一が『信長記』諸本を著述した時期が文禄年間(天正年間まで遡る可能性大)から慶長年間で、豊臣から徳川への政権移行期にあたっているからです。
つまり、徳川政権にとって父子相剋というデリケートな問題である信康事件を記述するのか否か、徳川政権が強固になるにつれて、太田牛一はこの問題に触れるのを次第に遠慮するようになったからです。

したがって、『信長記』諸本のうち、成立の古いものほど、この事件の真相に近いということになります。
その諸本のうち、写本ながら成立が古いとされるのが、加賀前田家の尊経閣文庫が所蔵している「安土日記」です。これは全巻揃っておらず、信康事件前後の天正6年と7年のみが残っています。有名な九鬼水軍の鉄張船についても貴重な記述があります。
そのなかで、信康事件が何と書かれているかというと、

去る程に三州岡崎三郎殿(信康)逆心の雑説申し候、家康ならびに年寄衆上様に対し申し、勿体なきお心持ちしかるべからざるの旨異見候て、八月四日に三郎殿を国端へ追い出し申し候、

意訳すると、

そうこうするうちに、信康殿が謀叛の心があると噂が流れ、家康と家老衆が上様(信長)に対して不届きな心持ちはよくないと(信康に)異見をし、八月四日に国端に追放した。

一方、徳川方の『家忠日記』天正7年(1579)6月(5日か)条に次のような記事があります。

家康浜松より信康御○○○○の中なをしに越され候、○○○○時○○○家康御屋敷へ○○○○御渡し候て、ふかうすかへり(深溝帰り)候、

○○は虫損です(字数は不明)。虫損が多くて大意が取りにくいです。この前後の日記でこれだけの虫損があるのはこの個所だけです。微妙な内容なので、虫損ではなく抹消されたのかもしれません。

このなかに、家康が浜松から(岡崎の)信康のところにやってきた目的が「中なをし」(仲直し)、つまり仲直りのために来たとあります。
この一件は信康の追放、切腹の2カ月前のことです。これではっきりするのは家康と信康が不仲であること。それも単に父子の不仲にとどまらず、浜松と岡崎の対立にほかならず、つまり徳川家中の深刻な対立だと考えて間違いありません。

信康が非業の死を遂げるのは、信長の命令があったからでなく、徳川家中の対立を解消するために、家康が自分の嫡男を犠牲にせざるをえなかったというのが真相に近いでしょう。
信康が父に反抗したのには、築山殿が殺害されていることから、彼女の使嗾というか働きかけがあった可能性は高いですね。それが今川家出身としての恨みなのか、あるいは甲斐武田氏との内通のゆえなのかは不明です。

嫡男の処断を決断した家康ですが、やはり人の親ですから、信康に切腹を命じるのは忍びなく、一命は助けようとして一度は追放処分にしたのだと思います。

以上からわかるように、信康事件の本質は父子相剋、徳川家中の深刻な内紛にあります。また『信長記』と『家忠日記』を見るかぎりでは、信長が関与したかどうかは不明です。ここを見失ってはいけません。

もっとも、大久保忠教の『三河物語』には、信長が信康の切腹を命じたとありますが、それもどこまで信じてよいかわかりません。仮に信長が関与したとしても、積極的なものではなく、あくまで徳川家からの報告に対応したにすぎないという副次的なものでしょう。

そのことを裏付けるのが、もうひとつの徳川方の編纂記録『当代記』です。そのの記述はまことに興味深いです。

(天正7年)八月五日岡崎三郎信康主[家康公一男]牢人せしめ給ふ、是信長の聟たりといえども、父家康公の命を常に違背し、信長公をも軽んじ奉られ、被官以下に情けなく非道を行わるるの間かくのごとし、(後略)

徳川方の記録にも、信康が家康の命令にいつも背き、家来たちに非道な行いがあったと書かれています。また信康の所行をひそかに信長に報告したのは家老の酒井忠次で、『三河物語』が信康夫人五徳(信長長女)とするのと異なります。忠次の報告に対して、信長は「是非に及ばず、家康存分次第の由返答あり」とも書かれており、信長は徳川家中の問題には立ち入らず、あくまで家康の判断に任せると答えています。
これこそ信康事件の本質を示しており、上の『信長記』や『家忠日記』と内容が一致しています。

家康と信康の対立、徳川家中の対立ならば、大名当主である家康が自分で自主的に処置すればよいことです。それが『信長記』にある「上様」(信長)に対して不届きだという記述とも関連するのでしょうが、信長がこの一件に関与した可能性をうかがわせるのは、ひとえに信康が信長の女婿だからでしょう。家康も嫡男とはいえ、信長の聟を自分の一存だけで処断できず、信長にお伺いを立てたのかもしれません。

後世、徳川政権が確固たるものになると、信康事件はデリケートなものになり、嫡男を殺した家康というマイナスイメージが広がることをカモフラージュするとともに、信長に責任転嫁する言説が徳川方から登場するようになりました。私が徳川史観だというのはそれゆえです。

それに伴い、太田牛一の『信長記』諸本も時代が下るごとに、内容が希薄になり、ついには記事そのものが消滅してしまいます。その流れを追うと、


「逆心」 → 「不慮に狂乱」 → 記事消滅

「不慮に狂乱」とは、精神的な疾患を意味し、あくまで信康個人の性格の問題に限定しようとする意図があり、「逆心」を本質とする徳川家中の内紛を覆い隠す効果があります。

ところで、江の所作はあれでいいですか?
とくに歩き方というより走り方は「のだめ」そのものですね。
だいたい、姫があんなはしたない所作はしないでしょう。
もう完全に時代劇を捨てているとしか思えません。
原作・脚本家の思い描く超時代的なファンタジーなんでしょうね。そう考えれば納得できます。

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【2011/01/24 12:27】 |
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光秀の振る舞い
平八
私が疑問に思ったのは、光秀が主君の弟である
信包を、片手で制すような所作をした部分です。
これってアリなのでしょうか。

民放の歴史ドキュメントの再現ドラマ
みたいに見えてしまいます・・・。




市野澤 永
こんばんわ。

お世話になります。

今回の書き込みは一般誌に掲載されても遜色がない内容ですね。

>信康が信忠よりも優秀

高柳光寿氏には珍しく実証を欠いた見解です。
高柳氏の影響の強さというよりも、
谷口克広氏の研究成果を読んでいないですね。

>甲斐武田氏との内通

大須賀絡みで述べられたりしますが、どうなんでしょうね?

>非道

信康・忠輝・忠直と徳川一門は、この手の逸話が多いですね。

>「のだめ」そのもの

キャストが決定する前にユーチューブで「のだめ」キャストを主軸に作成された『江』のOPには笑いました。
私が動画を見た際には、主要キャストが決定していたので、余計に笑えました。
今でも見れるのかな?



言葉遣いが…
三位中将
詳細な解説をありがとうございます。

信忠贔屓としては忸怩たる思いですが、ドラマ中で信康事件の直接の原因を信忠にされなかったことが唯一の救いです。
しかし理由を聞かれて「分からん」と言う信長もどうかと思いましたが(苦笑)

所作や言葉遣いに関しては最初から半ば諦めてはいましたが…それにしてももう少し何とかできないものかと。
個人的には言葉遣いが気になって仕方ありません。

いやはや
桐野
みなさま

時代考証的にはいろいろ疑問がありますね。
もっとも、制作側は時代劇の約束事を承知の上でスルーしている感じですね。

大河ドラマがそれでいいのかという議論もあるでしょうし、お子ちゃま向けにするなら、再定義が必要かもしれないですね。



HI
当代記には確か、後略部分に信長も軽んじたという記述があったはずですが…

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もうひとつ書き忘れておりました。

お市や三姉妹が憎悪していた浅井長政らの薄濃(はくだみ)のことです。

これは『信長公記』巻7,天正2年(1574)正月元旦の年賀での宴席で登場します。場所は岐阜城の居館でしょう。
ひととおりの年賀の挨拶が済んだのち、馬廻衆だけ残って宴席が開かれました。
そこで、「古今承り及ばざる珍奇の御肴」が出てきて酒宴になりました。

以下読み下しを掲げますと、

朝倉左京大夫義景首(こうべ)
浅井下野(久政)首
浅井備前(長政)首

已上(以上)、三ツ薄濃にして公卿に居ゑ置き、御肴に出され候て御酒宴。各御謡御遊興、千々万々目出度御存分に任せられ御悦びなり。


「薄濃」とはドクロを漆で固めてから金泥などで彩色したものだそうです。
これを読む限り、長政ら3人の薄濃は「公卿」(折敷の台)の上に載せて飾られており、盃にされたわけではないようです。ドラマで信長が釈明していたとおりですね。

これが何に基づいた趣向なのかよくわかりません。宗教的あるいは習俗的な背景などがあるのか不勉強で知りませんが、これまでそのような解説は見たこともありません。
身近な馬廻たちだけを集めて元亀争乱の苦労をともにねぎらうために、その引き出物(苦労・苦戦した成果)として供されたようにも思えます。
ドラマでは、信長が合戦の勝ち負けは世の常で、長政らもねぎらったのだと話していましたが、さてそこまで深読みできるのかどうかわかりません。

取り急ぎ補足でした。

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【2011/01/17 00:13】 |
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ハンク
いつも勉強させてもらっています。薄濃の件ですが、「中世に大流行した真言立川流の秘儀」という解説があります。『織田信長 石山本願寺合戦全史』112頁、武田鏡村著。

真言立川流
桐野
ハンクさん

その著書と真言立川流については、このブログでもすでに触れております。

http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-200.html

しかし、信長が真言立川流を知っていた、あるいは信じていたとは思えないのですが……。


こんにちわ
とらさん
お江の話題ですね。

市と長政はどちらも役者が23歳サバを読んだようで、このあたりは整合性がありますね・・?

家康もやけにフケてましたが、家康なら23歳でもあのぐらいフケて貫禄があってもおかしくない・・?

髑髏の話ですが、正月の正装を「倒した相手への敬意」みたいに表現するのは上手だな、と。ここだけは感心しました。
しかし、あの髑髏は少し現代人すぎる形みたいで、まぁたくさんヌリヌリしてるうちにあのようになった、といえばそうなんですが。

秀吉が家康にお酒をつぐシーンも、いくら年下でも提携先の社長なんですから、ちょっと違和感が・・

そういえば第一回の秀吉の紋は豊臣拝領時のものらしくて、ちょっとタイムスリップしてしまったのでしょかね。

これからも楽しみ?ではあります。

秀吉の家紋
桐野
とらさん

秀吉の家紋、旗指物でしょうか?
見逃してしまいました。
もしかして桐紋だったのでしょうか?
それなら、たしかに問題ですね(笑)。
このドラマにそのあたりの考証を期待しても詮ないかもしれませんね。

秀吉の桐紋
平八
いつも拝読させていただいております。

「江」の秀吉の桐紋の件は私も質問しようと
思っていたところでした。

姉川合戦時?が小谷攻め時に黄地に黒で
桐紋(五三の桐だったと思いますが)の
旗指物が見受けられました。

秀吉の桐紋は、信長からの拝領と、後に
天皇から下賜される(こちらだけと私は
思っておりました)のと
2回あったのでしょうか?


とらさん
自分もあまり詳しくはないですし、録画消してしまったので確認できませんが、小谷の旗指物が五
七紋だった、というのをどこかで見かけもので。

第二回冒頭時の潮干狩りシーン、これは桂浜では、というのも面白かったですね。

「あざい」というのも普通に使われてますが、これはどうなんでしょうね。
今後が楽しみです。


市野澤 永
桐野さん、こんばんわ。

家紋の間違いは多いですね。

私の守備範囲だと、下総結城氏の紋が向きが違ったり、
結城白川氏は伊達家の紋をずっと使用していたような間違いがあります。

桐紋
桐野
みなさん

秀吉家紋についてコメント有難うございます。

家紋については、私は門外漢ですが、秀吉が桐紋をもらったのは信長からではなく、朝廷からではないでしょうかね。
関白宣下のときか、豊臣受姓がきっかけのような気がしますが。

薄濃の件
takara_tuka2000
はじめまして。いつも興味深く拝見しております。

薄濃の件ですが、藤巻一保氏が「第六天魔王信長」という本で真言立川流との関係について論じておられます。

要約すると、
・髑髏法は真言立川流のオリジナルではなく、密教外法として天台でも真言でも使われた修法である。
・髑髏法における真の本尊は、人の魂魄を食らい死を支配すると信じられた外法最大の神・荼枳尼天である。
・一方、かのフロイスが信忠について「愛宕と称せられる山にある悪魔に二千五百クルザードを献納した。なおその悪魔への深い信心から、それに捧げる一種の犠牲の業として、自らの邸で裸となって全身に雪をかぶる苦行をした」と記録している。この愛宕信仰とは、即ち荼枳尼天信仰である。
・信長自身も本願寺に提出した起請文において、わざわざ「愛宕」を書き足している。信長と髑髏法を結びつけたのは、愛宕を通じた荼枳尼天信仰ではないか。
・見寺の開基は津島牛頭天王社の記録によると、尭照という無名の真言僧。信長に髑髏法を教えたのはこの尭照ではないか。牛頭天王も荼枳尼天と同じく密教における外法にあたり、それを扱うにはそれのプロの助けが必要なので。

・・・となります。

もちろん直接的な証拠は何もないので状況証拠を積み重ねているだけですが、非常にユニークな視点だと思いました。

情報御礼
桐野
takara_tuka2000さん

「薄濃」についての情報提供、有難うございます。

かなりうがった意見ですね。面白いですが、どこまで信じていいのか迷いますね。



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「江」第2回

史実よりも何よりも、天正7年(1579)に安土城天主落成の祝いに赴いたお市と三姉妹。
元亀4年(天正元年、1573)生まれのお江はわずか7歳なのですが(笑)。
小学校1年生程度で信長とあんな会話ができるとは!!
前回、茶々の子ども時代を演じた噂の名子役芦田愛菜ちゃんは満6歳(数え7歳か)とのこと。ちょうど本日のドラマでの江と同じ実年齢です。違和感ありすぎですね。

あと、これは「利家とまつ」などでも非常に違和感を覚えたのですが、信長の呼称。
家来が「御屋形様」と呼んでいましたが、「上様」と呼ぶべきです。
「御屋形様」はせいぜい守護程度の呼称、信長は天下人ですぞ。

安土城天主での出来事は、『信長公記』巻12、天正7年5月11日にある、信長が天主に移徙(わたまし)した直後でしょうね。

でも、天主は信長の生活空間であり、その許しなく勝手に上れません。
のち秀吉が他界する直前の慶長3年(1598)、遺書を残していますが、それには徳川家康に伏見城天守に上ることを許すと書かれています(『浅野家文書』)。秀吉時代は天守閣が日常的な生活空間ではなかったと思われますが、信長時代はなおさらのことです。
天主・天守閣は主人のもので、通常、家来や他人は上ることはできませんでした。お江は許可を得ていたとは思えませんが。許可を得たなら、信長が襖越しに鑓で突いたりしないでしょう。

あと、安土城に、信忠・信雄・信孝の三兄弟はじめ、柴田勝家や徳川家康、明智光秀までおり、あとから羽柴秀吉も来ました。
でも、どうでしょうかね?
この頃、織田軍は全力を挙げて荒木村重のこもる摂津有岡城を包囲しています。とくに信忠はその総司令官ですから、安土に行けたか。また勝家はじめ越前衆は有岡城攻めから越前帰国を命じられています。
光秀は同様に波多野氏がこもる丹波八上城を囲んでいます。
秀吉も播磨三木城主の別所長治の支城を攻めています。
ですから、主だった武将たちが安土にいるとは思えませんね。

家康が嫡男信康を同行していたのも微妙です。
というのは、安土城天主の落成からわずか3カ月後の8月に、信康は「逆心」の廉で家康の命で岡崎城から追放されているのですよ。
ドラマでは、追放から3カ月前だから、安土城に親子で行ってもよいと解釈しているのでしょうが、親が嫡男を追放するというのはよほど根深い対立や確執が推定されるわけで、3カ月前は仲がよかったとは常識的に考えられませんね。実際、前年の同6年9月、武田方との戦いで、信康は馬が病気になったことを理由に勝手に陣払いしており、すでに家康との関係が良好だとは思えません。
ですから、安土城天主が完成した頃はすでに家康と信康・築山殿は不仲どころか、浜松城と岡崎城で対立している状況だったはずです。だから、打ち揃って安土に来られるような親子関係ではなかったと思われます。信康夫人五徳(信長長女)と築山殿が不仲だと家康がなぜか暴露していましたが、むしろ、家康と信康が対立していたと見るべきでしょう。

ほかにもいろいろありますが、しゃべりや所作がほとんどのだめ江なので、先行きが心配ですね。

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【2011/01/16 21:52】 |
トラックバック(1) |


市野澤 永
こんばんわ。

>御屋形様

竹中直人さん主演『秀吉』もそうでした。
凄い違和感ありました。

>信康

私が先日、新宿でお話した点と類似する問題と考えているのですが、
信康は徳川姓ではなく、文書では松平・もしくは岡崎姓なんですよね。
桐野さんは、この点は如何思われますか?


「御屋形様」問題
千葉和彦
>「御屋形様」

「武田信玄」の脚本家が、「秀吉」も書いたときに錯覚したのでしょうね。
信玄は死ぬまで「御屋形様」でいいのですが、信長が「御屋形様」であった(かもしれない)のはほんの一時期とは思ってもいなかった。
困るのは他の脚本家まで右ならえしていることで…それ以前の大河ドラマでは信長は「上様」で統一されていたはずです。

ただ…「御屋形様」のほうが「上様」より上位である場合もあるようなので??なのですが。ウィキぺディアの「屋形」の項で『北条幻庵覚書』を紹介しているのですが、幻庵は甥氏康の娘に『舅吉良頼康は「おやかた様」…夫は「上様」と尊称するように説いた』とあります。

上様
桐野
千葉和彦さん

「北条幻庵覚書」のご紹介有難うございます。
ここでは、御屋形様と上様が逆の関係になっていますね(笑)。ただ、この場合も「御屋形様」はせいぜい吉良頼康レベルの領主にすぎず、大名でさえありません。
このようなある家での特殊事例を全体に敷衍するのはどうかと思います。

「上様」については、じつは毛利元就や上杉景勝も家中からそのように呼ばれています。
ただ、これらの事例は天下人とか将軍の「上様」とはレベルの違う話で、その家中での決まり事であり、外部で通用するものではありません。守護や大名への例外的な敬称だと思います。

その点、信長は織田家中はむろん、他の大名や領主、寺社、商人など幅広い層から「上様」と呼ばれています。
やはり、実態と対応した呼称がよいように思います。

信康
桐野
市野澤さん

信康の名字は徳川だったのではないでしょうか。
証明しろといわれても難しいですが、松平呼称は徳川幕府が成立してからの位置づけでしょう。
信康は家康の嫡男だけではなく、信長から一字拝領した女婿にもあたります。これ以上ない徳川家の正統なる後継者のはずでした。だから、名字は徳川以外考えられないと思いますが。
逆に同時代史料で松平信康と呼ぶ史料はあるのでしょうか?

「岡崎」云々は信康の居城というか居所の地名を冠しただけで、それほど深い意味はないと思います。
信長が岐阜殿とか、茶々が淀殿と呼ばれているのと同様かと。


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