歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
最近、某古書目録から戦国武将についての明治・大正期に書かれた伝記を数点まとめて入手しました。
珍しい古書ではないかと思っています。参考までに書名をあげておきます。

吉川広家卿略伝 井原豊著 秀英舎 1926年

浅野長政公伝 浅野忠純著 広島市饒津神社三百年祭祭典事務所 1910年

浅野幸長公 小松原要作著 饒津神社社務所 1916年

木村長門守重成 西山全太郎著 大阪府友松会中河内郡部会 1925年


それほど大部ではありませんし、史料的価値がそれほどあるとも思えませんが、あまり個人伝記がない人物たちなので、それなりに役立つのではないかと思っているところです。
なかでも、『浅野幸長公』がいちばんよくまとまっており、文書類も多数引用されていて実証的な伝記ではないかと思います。浅野幸長は早死にしただけに、伝記が存在していること自体、知りませんでした。まあ、広島藩浅野家が存続した故でしょうが。

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【2009/11/08 22:36】 | 古書
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木村長門守重成
NAO4@吟遊詩人
佐々木六角氏と同族で、近江源氏の木村氏と重成の関係が知りたくて、現在色々調べているところでした。少し参考にさせていただきたく思います。

木村重成の出自
桐野
NAO4@吟遊詩人さん、お久しぶりです。

木村重成を調べているんですか。
この本には、その母の2説書いてあります。

ひとつは、紀州那賀郡猪ノ垣村の郷士の子で、秀頼の乳母でもあったとか。

もうひとつは、近江の住人佐々木五郎右衛門の子で、木村常陸介が木村姓を与えて、自分の子にしたとか。←これって生母ではなく重成のことですよね?

木村常陸介が関白秀次に連座したことを考えると、その係累が豊臣家で生き残れるのかどうかいう気もしますが……。
あるいは秀吉の死後、可能になったということでしょうかね。



NAO4@吟遊詩人
桐野先生、お忙しいところ、お時間を割いていただきありがとうございます。

私が最寄りの図書館で検索をかけたところ、
「日本史の研究 ; 第2輯 三浦周行 著 /  東京 岩波書店 1930 」
があって、この842~843ページに、木村重成の母は、豊臣秀頼の乳母であり、

大和吉野の城主木村隼人の子常陸介重玆の養子とし、木村の苗字及び名乗の一字を与えて木村重成といはせたのである。

という記述(もちろん確証を持って行っているわけでなく、そういう説もあるという展開です。)がありました。

微妙に常陸介と関係していそうなのですが、血縁関係はないように見えます。常陸介の出自がもう少し分かると面白いんですが、そこは中断しております。

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昨日の大河ドラマに登場した重富島津家の右近君(のち図書久治)。
おそらく出番は昨日の1回だけでしょう。
その画像がありますので、ご紹介しておきます。TVの役者ととてもよく似ています。いかにも、坊ちゃんで勝ち気そうな性格が出ていますね。

図書久治_320



久しぶりに古書の紹介でも。
もっとも、中味よりも周辺情報のほうが面白い。

田中鉄軒『薩藩戦史考証』 皆兵社 1913年刊

江戸時代後期、薩摩藩の軍学者として知られる徳田邕興(1738~1804)が創始した合伝流についての解説書です。
徳田は藩主島津重豪の風紀改善政策を痛烈に批判して島流しになったほどの異端児。
この頃、薩摩藩の軍制が甲州流軍学に切り替えられようとする動きに対して、同流は机上の空論であり、鉄炮使用前の軍学など有名無実と厳しく批判しております。もっともな理屈だと思います。

余談ながら、合伝流は幕末になって、伊知地正治に受け継がれたことは有名です。西郷従道・三島通庸・高崎五六・渕辺高照らは伊知地の門弟でした。

で、中味より興味深いのは、見返しに題箋風に書かれた謹呈先。

「奉呈 山縣公閣下」

とあります。
おそらく元勲・山県有朋(1838~1922)に贈ったのではないかと思います。

山県公_320


この本の発行年には、山県は75歳ながら、まだ健在です。
山県に贈呈されたとすれば、当然、パラパラ程度にはめくったのではないかと。
そう考えると、山県が触れたかもしれない本がめぐりめぐって、私の手許にあるというのは、なかなか感慨深いものがあります。

もっとも、この本が流出したとすれば、山県家からということになりますが、さて……。

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【2008/02/04 19:15】 | 古書
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堀達之助

久しぶりに古書紹介を。

表題の本、データはここです。
なお、著者の堀孝彦氏は達之助の4代目の孫だそうだ。倫理学や社会思想史の研究者である。

堀達之助といっても、あまり知られていないかもしれない。
長崎のオランダ通詞の家に生まれ、アメリカ捕鯨船員のマクドナルドから、わが国で初めて英語を学んだ。
ペリーが来航したとき、達之助は首席通詞として、ペリーの乗艦するサスケハナ号に向かって「I can speak Dutch」と叫んだという。
公式の外交の場で外国人と会話した最初の英語だといわれており、わが国の開国の象徴的なシーンでもある。

蕃書調所や開成所でも教授方に任ぜられ、わが国の英学界をリードした人物である。安政年間、冤罪で小伝馬町の牢獄に入っていたとき、吉田松陰とも交流があったという。

じつは、私が興味をもったのは達之助よりも、その二男の孝之のほうである。
孝之は安政年間、長崎で薩摩藩士の五代友厚の知遇を得た。それが彼の生涯を決定づける。
孝之は五代との縁がもとで、慶応元年(1865)、薩摩藩英国留学生の一員(英語通詞)としてヨーロッパに渡る。

この英国留学生派遣は、薩摩藩が海外に目を向ける大きなきっかけとなった。留学生だった五代友厚・森有礼・寺島宗則らの帰国後の活躍は有名である。

ところで、わが国の近代化や国際交流のさきがけとして、近年、英国留学生を称える「若き薩摩の群像」が鹿児島中央駅前に建立された。

その碑文には「藩士十七名の留学生」と書かれている。
しかし、実際に英国に渡った留学生は19名である。
2名が除外されている。それが元土佐藩士の高見弥一と堀孝之だった。2人とも薩摩藩士ではないという理由からである。
いやはや、昔も今も薩摩人は唯我独尊で狭量だと、県外人に言われるに違いないと落胆したものだ。
19名の前途有望な若者の雄飛を出身地で差別するとは、そもそもこの国際交流の精神にもとるのではないかという疑問は今も消えていない。

で、この本である。
堀孝之の履歴について、じつに興味深い史料が2点掲載されていた。

1,『町田久成略伝』
町田久成は英国留学生のリーダー格である。のち大目付。そのなかに、

「慶応元年藩命ニ依リ渡英密行留学生寺島(中略)、御船奉行見習通弁堀宗十郎(長崎人蘭学者堀辰之助ノ長子)」

孝之は壮十郎と名乗っていた。宗十郎は当て字だが孝之のこと。また二男なのに長子としているのは間違いである。
それはさておき、孝之の御船奉行見習というのは藩の役職に見える。その前提として、孝之はすでに留学直前に薩摩藩士に取り立てられていた可能性がある。

2,桂久武宛て堀壮十郎書簡(2月22日付)
孝之が薩摩藩家老の桂久武に宛てた書簡である。そのなかに次のような一節がある。

「私事、今般代々御小姓与被仰付、冥加至至極難有仕合奉存候」

孝之は御小姓与という家格を与えられ、非常に喜んでいる。御小姓与(おこしょうぐみ)とは、西郷や大久保と同じ城下士の家格(ただし、下から2番目の下級だが)である。つまり、堀はれっきとした薩摩藩士になっているのだ。
問題はこの書簡の年次である。著者は慶応元年ではないかと推定している。つまり、英国渡航前だ。
この書簡の宛所は「右衛門様」と桂の通称になっている。桂は明治になってから四郎と改名しているから、右衛門名乗りは四郎より前である。明治2年(1869)には版籍奉還があり、御小姓与など諸身分も解体されている。そうなると、この書簡の年次は慶応元年~4年くらいに絞られる。このうち、慶応2年は桂が「天機伺」のため上洛中だから該当しないだろう。そうなると、慶応元年説はかなり可能性が高いのではないか。
藩当局は藩外人である堀を藩士身分にしてから留学させた可能性が高いといえないだろうか。
となると、もう一人の高見弥一も同様ではないか。

「若き薩摩の群像」に戻ろう。
堀孝之が留学直前に藩士になっていたとすれば、この銅像の「藩士」限定という条件からみても、堀が除外されたことは妥当だったといえるだろうか。同時に高見弥一についても再検討が必要ではないだろうか。

【2007/06/09 01:31】 | 古書
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町田久成
春長軒
「我自刊我書」本の『信長公記』が町田久成所蔵本を底本にしていることは、つとに知られていますが、町田久成がその『信長公記』を何時、何処で入手したのか興味津々です。


我自刊我本
桐野
春長軒さん、こんばんは。

我自刊我本「信長記」の刊行は明治14年(1881)なので、町田久成はそれ以前に入手したことになるのでしょうが、いつ、どんな経緯で入手したんでしょうね。
私も詳しいことはよく知りません。

博物館資料の収集
まいたけ
 関秀夫『博物館の誕生--町田久成と東京帝室博物館-- 』(岩波新書)を読むと、町田は、図書館と美術館を連結してつくられたロンドンの大英博物館のような博物館設立を考え、重点的に収集するべき博物館資料三種類のひとつに「古典籍や古文書類」をあげています。その収集方法としては、「楓山文庫、昌平坂学問所、和学講談所、開成所の蔵書を大図書館に集め、諸家の文庫などについても調査をおこない、博物館への収蔵の道を開くことを考える」とありました。おそらく、諸家の文庫調査の過程で見つかり、密かに買い求めたのかもしれません。島津久光の死後、出家した久成は、明治23年、園城寺子院の光浄院住職となりますが、ここは織田信長も止宿したことのある名刹だとか。織田信長とはご縁があったのかもしれません。

光浄院
桐野
まいたけさん、こんばんは。

町田久成についての岩波新書のご紹介、有難うございます。私も買ってきました。
ご指摘のとおり、古典籍や古文書類の蒐集の一環として、「信長記」を入手した可能性がありますね。しかも、後援者の大久保利通がまだ健在だった時期ではないかと思われますね。

ところで、町田が晩年出家して住職となった三井寺の光浄院ですが、「信長記」では信長の宿泊は確認できないような。
「信長(公)記」巻一、信長が足利義昭を奉じて上洛する永禄11年(1568)9月27日条に次のようにあります。
「廿七日、公方様御渡海候て、同三井寺光浄院御陣宿」とあり、信長ではなく義昭が宿泊しています。
先行していた信長は前日の26日、同じ三井寺でも極楽院に陣営を置いていますね。
その後、信長が三井寺に陣を置いた可能性があるのは、元亀元年(1570)、浅井・朝倉軍が比叡山に滞陣したときでしょうか。このとき、信長が坂本あたりに本陣を構えています。かなり長期間の対陣だったので、三井寺にも宿泊したかもしれませんが、はっきりとは史料に表れないように思います。
光浄院のほうには確実な史料があるのかも知れませんが。

なお、光浄院住職といえば、信長時代の暹慶(のち山岡道阿弥)が有名ですね。この人は信長と義昭が決裂したとき、義昭の味方になって、瀬田を守る総大将になっています。逆縁ですが、縁はありますね。



松裕堂
随分と時間が経過し、この話題にレスするのも「今さら」とは存じますが、
8月23日付南日本新聞のサイト(373news.com)に↓こんな記事が掲載されてますね。
http://www.373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=6202

当方も鹿児島駅前でこの銅像を拝んだ日には「銅像一体造るだけでも相応の費用はかかるわけだし、しょうがないのかなぁ」と思った記憶があります。

実現したらちょっと嬉しい今日このごろ。

次回コラムで
桐野
松裕堂さん、こんにちは。

新聞記事、ご紹介ありがとうございます。

私もすでに読んでおりました。次回の拙コラムでさっそく取りあげる予定にしております。

いい流れになったとは思いますが、もし実際に造ることが決まっても、彫刻家の方の意向もありますから、まだまだ紆余曲折がありそうですね。

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高柳光寿

いまさらながらの本だが、最近購入。
ある論文が収録されているのを知って、それだけ図書館で複写すれば用が済んだのだが、え~い、めんどくさいとばかりに上下巻とも購入。これまたなかなかの値段だった(爆)。
上下巻合わせると10センチほどになる分厚い本である。

著者:高柳光寿
版元:吉川弘文館
刊行年:1970年
頁数:上巻866頁/下巻808頁
定価:各5.500円(当時)


目的の論文はもちろん読んだが、ほかにも面白そうな論文が目白押しで目移りしそうだ。

たとえば、「豊臣秀頼薩摩落説」。

よく知られた伝承だが、同工異曲の逸話を載せた史料がこんなにたくさんあるとは知らなかった。さすが実証史学の面目躍如である。
秀頼の薩摩落ち伝承はその死の直後からささやかれてようだ。とくに家康が亡くなった直後、秀頼が朝廷に保護されており、家康の死後にそれが公表されるらしいとか、元和2年(1616)、長崎代官の村山等安の台湾出兵が秀頼捜索のためだったという噂など仰天するような話がてんこ盛りである。

正面から取り組んでも手応えがあるのはむろんだが、企画を考えたり、小ネタを仕入れたりといった使い方にも適した本だろう。


【2007/05/10 00:08】 | 古書
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薩摩浄福寺党

先日、京都に行って、島津歳久ゆかりの浄福寺を訪れた。
訪問後、京都の友人から、幕末期、この寺に薩摩藩邸では収容しきれなかった藩士が一時期滞在して、書院の柱などに斬りつけた刀傷が残っていると聞いて、少し悔しい思いをした。

それがきっかけで、司馬遼太郎がこのいきさつを小説に書いていると知り、古書で購入。表題が書名になっているが、短編集で8編収められているうちのひとつ。

司馬遼太郎傑作シリーズ
書名:薩摩浄福寺党
版元:講談社
刊行年:1966年
定価:290円


この作品が実際に書かれたのは刊行年より少し前だろう。司馬遼太郎の初期の作品といえる。判形はB6版だが、定価が時代をよく表している。収録された短編は次の通り。

1,慶応長崎事件
2,薩摩浄福寺党
3,倉敷の若旦那
4,五条陣屋
5,おお、大砲
6、絢爛たる犬
7,壬生狂言の夜
8,侠客万助珍談


1はイカロス号事件の顛末。嫌疑をかけられた海援隊士の菅野覚兵衛と佐々木栄の話。
3は元治元年(1864)、倉敷の幕府代官所を襲撃した長州の第二奇兵隊の物語。
4と5は天誅組の話。7は新選組隊士松原忠司の話。
という具合で、だいたい幕末に題材をとったものが多い。

肝心の「薩摩浄福寺党」は、架空の薩摩藩士肝付又助というぼっけもんがはね上がって、新選組との些細な諍いで斬られて死ぬという話。~党となっているから、何か特別任務をもった集団かと思ったが、そうではなかった。思わせぶりなタイトルではある。
また、寺ゆかりの歳久の話は何も書かれていなかった。なぜ薩摩藩士が浄福寺を宿営地にしたのか。それは歳久との因縁しかないと思うのだが……。

それはともあれ、全体的に非常に軽妙で読みやすい。司馬遼太郎はむしろ短編の名手ではなかろうか。
国民的大作家だが、まだあまり知られていない初期の作品があるようだ。もっとも、私が不勉強で知らないだけかも知れないが(爆)。

【2007/05/07 20:33】 | 古書
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