膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
昨日の大河ドラマに登場した重富島津家の右近君(のち図書久治)。
おそらく出番は昨日の1回だけでしょう。
その画像がありますので、ご紹介しておきます。TVの役者ととてもよく似ています。いかにも、坊ちゃんで勝ち気そうな性格が出ていますね。

図書久治_320



久しぶりに古書の紹介でも。
もっとも、中味よりも周辺情報のほうが面白い。

田中鉄軒『薩藩戦史考証』 皆兵社 1913年刊

江戸時代後期、薩摩藩の軍学者として知られる徳田邕興(1738〜1804)が創始した合伝流についての解説書です。
徳田は藩主島津重豪の風紀改善政策を痛烈に批判して島流しになったほどの異端児。
この頃、薩摩藩の軍制が甲州流軍学に切り替えられようとする動きに対して、同流は机上の空論であり、鉄炮使用前の軍学など有名無実と厳しく批判しております。もっともな理屈だと思います。

余談ながら、合伝流は幕末になって、伊知地正治に受け継がれたことは有名です。西郷従道・三島通庸・高崎五六・渕辺高照らは伊知地の門弟でした。

で、中味より興味深いのは、見返しに題箋風に書かれた謹呈先。

「奉呈 山縣公閣下」

とあります。
おそらく元勲・山県有朋(1838〜1922)に贈ったのではないかと思います。

山県公_320


この本の発行年には、山県は75歳ながら、まだ健在です。
山県に贈呈されたとすれば、当然、パラパラ程度にはめくったのではないかと。
そう考えると、山県が触れたかもしれない本がめぐりめぐって、私の手許にあるというのは、なかなか感慨深いものがあります。

もっとも、この本が流出したとすれば、山県家からということになりますが、さて……。

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堀達之助

久しぶりに古書紹介を。

表題の本、データはここです。
なお、著者の堀孝彦氏は達之助の4代目の孫だそうだ。倫理学や社会思想史の研究者である。

堀達之助といっても、あまり知られていないかもしれない。
長崎のオランダ通詞の家に生まれ、アメリカ捕鯨船員のマクドナルドから、わが国で初めて英語を学んだ。
ペリーが来航したとき、達之助は首席通詞として、ペリーの乗艦するサスケハナ号に向かって「I can speak Dutch」と叫んだという。
公式の外交の場で外国人と会話した最初の英語だといわれており、わが国の開国の象徴的なシーンでもある。

蕃書調所や開成所でも教授方に任ぜられ、わが国の英学界をリードした人物である。安政年間、冤罪で小伝馬町の牢獄に入っていたとき、吉田松陰とも交流があったという。

じつは、私が興味をもったのは達之助よりも、その二男の孝之のほうである。
孝之は安政年間、長崎で薩摩藩士の五代友厚の知遇を得た。それが彼の生涯を決定づける。
孝之は五代との縁がもとで、慶応元年(1865)、薩摩藩英国留学生の一員(英語通詞)としてヨーロッパに渡る。

この英国留学生派遣は、薩摩藩が海外に目を向ける大きなきっかけとなった。留学生だった五代友厚・森有礼・寺島宗則らの帰国後の活躍は有名である。

ところで、わが国の近代化や国際交流のさきがけとして、近年、英国留学生を称える「若き薩摩の群像」が鹿児島中央駅前に建立された。

その碑文には「藩士十七名の留学生」と書かれている。
しかし、実際に英国に渡った留学生は19名である。
2名が除外されている。それが元土佐藩士の高見弥一と堀孝之だった。2人とも薩摩藩士ではないという理由からである。
いやはや、昔も今も薩摩人は唯我独尊で狭量だと、県外人に言われるに違いないと落胆したものだ。
19名の前途有望な若者の雄飛を出身地で差別するとは、そもそもこの国際交流の精神にもとるのではないかという疑問は今も消えていない。

で、この本である。
堀孝之の履歴について、じつに興味深い史料が2点掲載されていた。

1,『町田久成略伝』
町田久成は英国留学生のリーダー格である。のち大目付。そのなかに、

「慶応元年藩命ニ依リ渡英密行留学生寺島(中略)、御船奉行見習通弁堀宗十郎(長崎人蘭学者堀辰之助ノ長子)」

孝之は壮十郎と名乗っていた。宗十郎は当て字だが孝之のこと。また二男なのに長子としているのは間違いである。
それはさておき、孝之の御船奉行見習というのは藩の役職に見える。その前提として、孝之はすでに留学直前に薩摩藩士に取り立てられていた可能性がある。

2,桂久武宛て堀壮十郎書簡(2月22日付)
孝之が薩摩藩家老の桂久武に宛てた書簡である。そのなかに次のような一節がある。

「私事、今般代々御小姓与被仰付、冥加至至極難有仕合奉存候」

孝之は御小姓与という家格を与えられ、非常に喜んでいる。御小姓与(おこしょうぐみ)とは、西郷や大久保と同じ城下士の家格(ただし、下から2番目の下級だが)である。つまり、堀はれっきとした薩摩藩士になっているのだ。
問題はこの書簡の年次である。著者は慶応元年ではないかと推定している。つまり、英国渡航前だ。
この書簡の宛所は「右衛門様」と桂の通称になっている。桂は明治になってから四郎と改名しているから、右衛門名乗りは四郎より前である。明治2年(1869)には版籍奉還があり、御小姓与など諸身分も解体されている。そうなると、この書簡の年次は慶応元年〜4年くらいに絞られる。このうち、慶応2年は桂が「天機伺」のため上洛中だから該当しないだろう。そうなると、慶応元年説はかなり可能性が高いのではないか。
藩当局は藩外人である堀を藩士身分にしてから留学させた可能性が高いといえないだろうか。
となると、もう一人の高見弥一も同様ではないか。

「若き薩摩の群像」に戻ろう。
堀孝之が留学直前に藩士になっていたとすれば、この銅像の「藩士」限定という条件からみても、堀が除外されたことは妥当だったといえるだろうか。同時に高見弥一についても再検討が必要ではないだろうか。
 
高柳光寿

いまさらながらの本だが、最近購入。
ある論文が収録されているのを知って、それだけ図書館で複写すれば用が済んだのだが、え〜い、めんどくさいとばかりに上下巻とも購入。これまたなかなかの値段だった(爆)。
上下巻合わせると10センチほどになる分厚い本である。

著者:高柳光寿
版元:吉川弘文館
刊行年:1970年
頁数:上巻866頁/下巻808頁
定価:各5.500円(当時)


目的の論文はもちろん読んだが、ほかにも面白そうな論文が目白押しで目移りしそうだ。

たとえば、「豊臣秀頼薩摩落説」。

よく知られた伝承だが、同工異曲の逸話を載せた史料がこんなにたくさんあるとは知らなかった。さすが実証史学の面目躍如である。
秀頼の薩摩落ち伝承はその死の直後からささやかれてようだ。とくに家康が亡くなった直後、秀頼が朝廷に保護されており、家康の死後にそれが公表されるらしいとか、元和2年(1616)、長崎代官の村山等安の台湾出兵が秀頼捜索のためだったという噂など仰天するような話がてんこ盛りである。

正面から取り組んでも手応えがあるのはむろんだが、企画を考えたり、小ネタを仕入れたりといった使い方にも適した本だろう。

 
薩摩浄福寺党

先日、京都に行って、島津歳久ゆかりの浄福寺を訪れた。
訪問後、京都の友人から、幕末期、この寺に薩摩藩邸では収容しきれなかった藩士が一時期滞在して、書院の柱などに斬りつけた刀傷が残っていると聞いて、少し悔しい思いをした。

それがきっかけで、司馬遼太郎がこのいきさつを小説に書いていると知り、古書で購入。表題が書名になっているが、短編集で8編収められているうちのひとつ。

司馬遼太郎傑作シリーズ
書名:薩摩浄福寺党
版元:講談社
刊行年:1966年
定価:290円


この作品が実際に書かれたのは刊行年より少し前だろう。司馬遼太郎の初期の作品といえる。判形はB6版だが、定価が時代をよく表している。収録された短編は次の通り。

1,慶応長崎事件
2,薩摩浄福寺党
3,倉敷の若旦那
4,五条陣屋
5,おお、大砲
6、絢爛たる犬
7,壬生狂言の夜
8,侠客万助珍談


1はイカロス号事件の顛末。嫌疑をかけられた海援隊士の菅野覚兵衛と佐々木栄の話。
3は元治元年(1864)、倉敷の幕府代官所を襲撃した長州の第二奇兵隊の物語。
4と5は天誅組の話。7は新選組隊士松原忠司の話。
という具合で、だいたい幕末に題材をとったものが多い。

肝心の「薩摩浄福寺党」は、架空の薩摩藩士肝付又助というぼっけもんがはね上がって、新選組との些細な諍いで斬られて死ぬという話。〜党となっているから、何か特別任務をもった集団かと思ったが、そうではなかった。思わせぶりなタイトルではある。
また、寺ゆかりの歳久の話は何も書かれていなかった。なぜ薩摩藩士が浄福寺を宿営地にしたのか。それは歳久との因縁しかないと思うのだが……。

それはともあれ、全体的に非常に軽妙で読みやすい。司馬遼太郎はむしろ短編の名手ではなかろうか。
国民的大作家だが、まだあまり知られていない初期の作品があるようだ。もっとも、私が不勉強で知らないだけかも知れないが(爆)。
 
島津久治

古書購入。

島津男爵家編輯所著
島津長丸発行
1922年刊
総頁:76頁


島津久治(1841〜72)の略歴は過不足なく描かれているが、期待した文書類はほとんどなかったのが残念である。

久治は久光の二男で、一門家の宮之城家を継いだ。宮之城家は、戦国期の太守、島津義久の従弟にあたる島津図書頭忠長(ただたけ)から始まる家である。石高は幕末期で15.763石。堂々たる万石持ちの分家。

ちなみに、久治の通称は図書というが、これは先祖忠長が図書頭だったことにちなむ。久治に限らず、歴代当主はみな図書と名乗っている。
ただし、忠長は「〜頭」だが、それ以降は「〜頭」が付かない。なぜかといえば、江戸時代、図書頭などの官途や〜守などの受領名(国司名)は諸大夫成(五位)以上の官位をもつ者しか名乗れなくなったから。主に大名と上位役職をもつ旗本だけの特権になった。島津家では、本家当主と世子、それに分家の佐土原家の当主と世子しか名乗れなかったのである。

たとえば、久光も重富島津家の当主だった頃は周防とか和泉という国名こそ名乗ったものの、〜守の受領名は名乗れなかった。久治も同様で、〜頭のない図書だけになったのである。

久治の業績としては、薩英戦争のとき、兄藩主茂久の陣代として総指揮をとったこと。また禁門の変のときも、薩摩藩の指揮をとっている。禁裏警衛の総大将が久治で、天龍寺駐屯の総大将が実弟の島津備後(珍彦、重富島津家当主)だった。
慶応2年(1866)には筆頭家老となって、藩政を取り仕切ったが、政治的には討幕反対派だったために、明治維新後、薩摩藩主流から遠ざけられる。とくに明治2年(1869)の藩政改革のとき、川村純義・伊集院兼寛ら戊辰戦争帰りの城下士グループから門閥保守派の首魁として激しく攻撃され、家老辞職のやむなきにいたった。
それからほどなく、32歳の若さで他界する。発行者の島津長丸は久治嫡男である。
晩年、鹿児島にオランダ人スケップル、フランス人クープスを招いて、英仏語の教育を熱心に行ったという。

口絵に、久治が元治元年(1864)12月、長崎で撮影した写真が掲載されている。椅子に座って斜め右を向いている。紋付きの肩には丸十の家紋が見える。精悍で利かん気の強そうな感じの殿様である。
これは久治が薩英戦争後の薩英の講和修交のため、長崎碇泊の英国軍艦を表敬訪問したときに撮影したものだろう。写真師はやはり上野彦馬だろうか。