膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
一昨10日、島佐近の名前が出てくる石田三成文書が発見されたというニュースがあった。

各紙のなかで文書がよく見えるのが読売新聞だった。ここです。

少し小さくて見にくいが、ちょっと読んでみた。


免相之■ハ、嶋左近・    ■は「弁」「事」か

山田上野・四岡帯刀・

両三人ニ申付候、右之三

人之儀、勿論誓詞之    

上、可為順路候而、任

其旨可相納候、三人

方へも右之趣申付候也、

 八月廿三日 三成(花押)



かわとさんのご教示をいただき、一部訂正しました。
有難うございます>かわとさん。

内容について。
たしかに「嶋左近」の名前が出てきますが、貢租収納の代官のように見えます。
もし左近が家老なら、このような代官を勤めるのかどうか、やや疑問なきにしもあらずですが。
あるいは、筒井家からの転仕からほどない時期で、まだそれほど家中での地位が高くなかった頃でしょうか?
宛所は誰なんでしょうね? 所蔵者の先祖なんでしょうか?
いずれにしても、興味深いです。

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以前から、連載中の「さつま人国誌」に書きたいと思っているテーマなのだが、それにふさわしい写真を所持していないために、ずっと書けないでいる。

猪熊事件は御存じの方もおいでだろうが、江戸時代初め、慶長年間に起きた有名な宮廷スキャンダル。
公家の少将猪熊教利らが起こしたので、その名前で呼ばれている。

この事件は、ときの後陽成天皇から関係者が勅勘を受け、徳川幕府も公家や女官を斬罪・配流などの処罰をした。女官は伊豆七島に流されたことは知られている。

そのうちの一人、左少将松木宗信は薩摩の硫黄島に配流と決まったが、島津家久の計らいにより、甑島に配流替えになったという。同じ離島でも、硫黄島より甑島のほうが本土に近く、島も大きく利便性があるという配慮だったのだろうか。

それはともあれ、松木宗信は甑島のうち、上甑島の里村で没している。墓は同村の西昌寺跡にあるらしいというところまではわかっている。もし彼を取り上げるなら、ぜひともこの写真がほしいのだが、残念ながら、甑島は未踏の地で、写真をもっていない。
もし松木宗信の墓の写真をお持ちの方がおいでなら、ぜひご一報下さいませ。相応のお返しをしますので。

それで、彼を取り上げる一番の理由だが、彼の末裔に有名な人物がいるからである。幕末から明治にかけて活躍した松木名字の薩摩藩士といえば……。
もうおわかりでしょう。

余談
島流しつながりでいえば、宇喜多秀家八丈島にある墓の写真をお持ちの方はおいでではないですか? 秀家も島津家に匿われているので、いつか取り上げたいと思っております。

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今年発表された論文である。毛利輝元が関ヶ原合戦にどのような立場やビジョンで臨んだのかが述べられている。
従来、優柔不断の日和見主義者と描かれてきた輝元像に修正を迫ろうという意図で書かれたものである。

光成準治「関ヶ原前夜における権力闘争」 『日本歴史』707号 2007年

興味深い点を列挙すると、

1,輝元・三成の連携による大坂城占拠計画
 武断派七将による石田三成襲撃によって、三成が一方的に蟄居・失脚に追い込まれたわけではなく、三成が輝元と結んで反撃をしようとしていたこと。
その計画は、伏見にいる家康に対して、大坂を掌握して対抗しようというもので、奉行衆の増田らが秀頼を奉じ、輝元が尼崎に布陣して西日本の諸大名を結集したうえで、伏見城下に残っている三成と連携して家康を挟撃しようとする計画だった。
 しかし、大坂城が家康派の小出秀政・片桐且元によって占拠され(背後に城中にいた藤堂高虎の工作あり)、失敗に終わったこと。

2,輝元の素早い上坂
 輝元の凡庸さを示すものとして、これまで不用意な上坂が取りあげられてきた。家康の会津出陣ののち、安国寺恵瓊に上坂しないと秀頼への逆心と見なされると脅されて、あわてて上坂したとされているが、どうもそうではなく、輝元はあらかじめ大坂城占拠に備えていたとする。
 その根拠は、毛利秀元が輝元の大坂到着の当日かその2日前に、家康の本拠だった西の丸を占拠して徳川方の留守居を追い出していること。これは当日、上坂した輝元の命によるものか、事前に秀元が輝元から命じられていたか、どちらかとしか考えられず、いずれにしても、輝元が大坂城占拠に積極的だったことを示していること。

3,大坂占拠後の輝元の行動
 これが一番重要だろう。大坂城を占拠して西軍の旗頭となりながら、なぜ輝元は家康との対決に消極的だったのか?
 この点について、光成論文は、輝元はあくまで自己の権益拡大を優先しており、三成ら奉行衆と一体化していたという、従来の二項対立的な理解に収斂させていけないと強調している。
 その代わりに提示するのが、伊予への侵攻、黒田如水の動きを警戒した門司城の占拠、大友吉統の豊後回復支援など、一連の西国での軍事行動。輝元がこのように毛利領国周辺の勢力拡大にこだわった理由を、関白秀次改易後の文禄4年の秀頼宛ての起請文「坂西之儀は輝元并隆景に申し付くべく候」という、秀吉が輝元に西国仕置権を与えたことに求めている。
 また、家康に対しては中立を守り、正面衝突するつもりはなかったが、吉川広家らが家康に与してしまったことは誤算で、計画が挫折してしまったとする。
 しかし、この論法で、輝元像を修正できたことになるかどうか、いささか疑問である。拙著でも、輝元の立場を家康VS三成、武断派VS吏僚派といった二項対立ではとらえられないと書いたことがある。
 家康が豊臣公儀の占拠、掌握を目的として、そのためにもてる力を集中しているのにくらべ、せっかく大坂を占拠し、秀頼を手中にしながら、豊臣公儀の掌握に積極的でない輝元という従来のイメージを変えられたとは思えない。家康との対決を回避して、豊臣公儀の掌握はないだろうに。

それはさておき、この論文には、ほかにも興味深い点が書かれていた。
家康と上杉景勝が縁組みをしようとしていたこと。吉川広家が親徳川だった理由が秀元の領知配分問題で、家康が広家に有利な裁定を下したことなど。

それにしても、大名たちは自分勝手で自己利益ばかり考えているように見える。たとえば、秀元は家康に親近感をもちながら、家康が留守の大坂城西の丸を占拠したり、石田三成の配下だった寺沢広高がいつの間にか東軍に属したり、加藤清正も一時期輝元に味方するかもしれなかったりと、秀吉死後、譜代・外様を問わず諸大名はみな自己の権益維持・拡大を動機に動いている。
むしろ、ほぼ一貫してぶれずに明確な目的意識をもっていたのは、家康と三成だけだったのかもしれないなと感じた。


 
先日、知り合いから『史学雑誌』「2005年・回顧と展望」に拙論が掲載されていると教えられて、遅まきながら見てみた。丸1年も遅れてる(爆)。ちなみに拙論タイトルは、

信長への三職推任・贈官位の再検討」 『歴史評論』665号 2005年

う〜ん、これに載るのは2回目だが、何となく認めてもらったようで、うれしいものです。
中野等さん、有難うございます。といっても、どこぞの報告会でお見かけしただけで、挨拶さえしたことがありません。

で、その織豊期分に紹介されていたのが表題の史料集。
小西行長の居城があった熊本県宇土市が刊行しています。
正確には『宇土市史研究』26号です。
興味のある方はここを見て下さい。

ほかにも、『新宇土市史』通史編第2巻(中世・近世)が刊行されたばかりのようです。小西、加藤、細川の各時代を通観できます。天草・島原の乱も注目でしょう。

 
昨日、豊臣秀吉関係の研究会に出席。

豊臣政権から近世初期の対外関係史、とくに日朝関係史に詳しい米谷均氏の報告が表題のようなテーマであった。

秀吉の朝鮮侵略が失敗に終わり、文禄の役末期に講和を探る動きが出てくる。小西行長と沈惟敬の画策により、秀吉を日本国王に冊封することになったのは知られている。

その冊封のプロセスを細かく追った報告だが、これまで見たことのない明や朝鮮側の史料を見て驚くことが多かった。

とくに、このときの冊封は秀吉だけでなく、徳川家康以下十数人の大名も一緒に冊封されていた事実に驚く。家康は右都督だそうな。
古代の奴国王や卑弥呼から、懐良親王や足利義満など、国王冊封の事例はいくつかあるが(実際は倭五王を含めて15例だけとか)、陪臣まで一緒に冊封された事例は秀吉のほか、卑弥呼と倭王珍の事例があるようである。

秀吉は明らかに明から日本国王に冊封されたことを確認するとともに、明使の日本派遣から秀吉がこの冊封を否定するまでの動きも大変興味深かった。
先行研究では、徳富蘇峰の『近世日本国民史』がもっとも史料を網羅していて、現在でも基本論考になっていることも意外だった。

メンバーも豊臣政権に詳しい山本博文・曽根勇二・堀新の諸氏、日明関係史に詳しい伊川健二氏など、錚々たる研究者ばかりで、こちらは議論を拝聴するばかりだった。それでも、大変ためになった。
ちょっと分不相応な参加だったかもしれないが、研究の最前線の雰囲気が味わえた気がする。