歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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本日夜9時、BS日テレ「解明 片岡愛之助の歴史捜査」

先々週の関ヶ原合戦特集前編の再放送があります。 
詳しくは、ここをクリックして下さい。

私もスタジオで愛之助さんと対談しているのでご覧下さい。
来週はその後編が放映されます。

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【2015/05/21 15:26】 | 戦国織豊
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番組出演のご案内です。

本日(31日)夜7:30からNHKBSプレミアム「英雄たちの選択」に出演予定です。
番組案内は、ここをご覧下さい。

テーマは関ヶ原合戦で、「両雄対決! 石田三成VS徳川家康」。
今回はスペシャル版で90分と長尺です。

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【2014/07/31 12:40】 | 戦国織豊
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お知らせです。

NHKBSプレミアム「英雄たちの選択」で、10月末に放映された「明智光秀・本能寺への葛藤」が来年1月3日(金)19:00~20:00に再放映が決定したとの連絡ありました。

まだ同番組サイトにはアップされていないようです。サイトはここです。

私も出演していますので、よかったら観て下さい。

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【2013/12/14 18:58】 | 戦国織豊
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先日、『織豊期研究』14号が届いた。

そのなかで気になった論文がひとつ。関ヶ原合戦の少し前の宇喜多騒動についてのもの。

石畑匡基氏「宇喜多騒動の再検討―『鹿苑日録』慶長五年正月八日条の解釈をめぐって―」

宇喜多騒動とは、宇喜多秀家と宿老衆が対立し、一時は宿老衆が屋敷に立てこもるなど一触即発になった事件です。その原因のひとつとなったのが、秀家の寵臣中村次郎兵衛の存在。
相国寺鹿苑院の日記『鹿苑日録』に、慶長5年(1600)1月5日、中村次郎兵衛が「相果てた」という記事があります。
その記事の解釈が難しいらしく、筆者の石畑氏によれば、朝尾直弘氏以来、新旧の研究者がさまざまに解釈しているそうですが、一致を見るに至っていないと石畑氏はいいます。念のため、当該条をあげておきます。

「中村次郎兵衛去五日夜相果ト云々、此故ハ此比備前中納言殿長男衆ヲ背テ恣之故ト云々、主者牢人也、定而中納言殿以前不苦之間、形少(大谷吉継)エ可出ト云々、備前ニハ不白與了松下人一両人[シテ]留守ヲスルト云云。上下七十人ホト之者共。一時ニ聴此事分散。絶言語。(後略)」

最初に断っておきますが、私は宇喜多騒動については門外漢です。
多くの研究者が上記の解釈に苦労されているようですが、どれもストンと腑に落ちてきません。それというのも、下記に示したような語句解釈に違和感がつきまとっているせいかも。

上記で私が語句で気になったのは2カ所。

1.「相果」(相果つる)。
2.「主者牢人也」(主は牢人なり)。

1.については、たしかに死亡するという意味もありますが、「身上相果つ」というように、地位・勢力や財産などすべて失うという意味もあります。
大西泰正氏によれば、中村次郎兵衛は殺害されず存命で、秀家夫人豪姫の実家の加賀前田家に引き取られ、その後は前田家家臣になっているそうです。だから、死亡記事だとすると、記主の誤伝だということになります。
ところが、石畑氏が明らかにされたように、上記引用中に登場する「不白」なる人物は相国寺の関係者(僧侶の可能性大)だと推定される。しかも、宇喜多家の大坂・備前島屋敷に出入りしていることから、宇喜多家中と何らかのつながりがあると考えられます。
そうであれば、不白からもたらされた情報を記したと思われる上記引用は雑説や噂ではなく、中村の生存を知っている家中からの確度の高い情報と思われます。
つまり、中村次郎兵衛の「相果」は死亡ではなく、地位や勢力を失う意味であり、この場合、進退に窮した中村が出奔もしくは逐電したと解することもできるのでは。

2.について。
この一節の「主」の人物比定について、ほとんどすべての研究者の理解は秀家と対立した旧臣衆だとし、彼らが中村次郎兵衛を襲撃して殺害したという解釈で一致しているようです。
しかし、先ほどみたように、中村は存命しています。この一節を解釈した方々は中村が殺害されたという前提を念頭に置いておられるから、「主」を一方の当事者である旧臣衆に比定しているのではないかと考えられます。
「主」には事の当人という意味があり、この場合、記事の前後関係から、もう一方の当事者で「相果てた」けど存命している中村次郎兵衛を指すとも考えられます。
つまり、当の本人である中村次郎兵衛は家中対立の結果、出奔して牢人となったという解釈です。
この「牢人」を旧臣衆だとすると、細かい点ですが、「牢人」という単数形ではなく「牢人衆」とか「牢人者共」といった複数形で記すのではないでしょうか。
また、旧臣衆である「牢人」が大谷吉継に庇護されているという解釈も、この事件の裁定での大谷の立場・態度からするとおかしいのでは。大谷は秀家=中村ラインを支持していたようですから、自分の意に沿わない旧臣衆を庇護するとは考えにくいのではないでしょうか。

以上、自己流で解釈してみましたが、全体の大意としては、

「中村次郎兵衛が5日夜出奔したという。その理由は、近年宇喜多秀家の宿老衆に背いて恣意の政治を行ったからだという。中村は牢人になった。おそらく秀家が以前心やすく思っていた大谷吉継の所に出頭したのではという。備前島(にある中村の屋敷か)には不白と了松、それに下人が2,3人留守しているだけだという。上下70人ほどの中村の家人や奉公人はこのこと(中村の出奔)を聞くと、たちまち退散してしまった。言葉にもならない」


なお、以下は余談です。
「主」の解釈について、私も以前悩ましかった経験があります。
「主」はこの場合、「ぬし」と読んだほうがいいと思いますが、主人という意味のほかに、事の当人という意味があります。以前、この「主」が含まれる一節をそのように解釈した人がいて、目からウロコだった記憶があります。
それは、羽柴秀吉が小牧長久手合戦の最中、五位少将に叙任したことを記した『多聞院日記』天正12年10月16日条。非常に有名な一節です。

「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト」

今度、秀吉は天皇の思し召しにより、四位大将に任じて将軍も兼ねよという勅定があったけれども、「主」の望みで五位少将に任ぜられたという大意です。
ここにも「主」が出てきて、これを主人の意味に解すると天皇になります。天皇は秀吉を四位大将兼将軍にしたい意向だと前段にあるのに、なぜか天皇の望みで五位少将になったというわけのわからないことになります。
ところが、この「主」を事の当人、つまり官位を与えられる秀吉本人だと解釈すると、天皇の過分な官位授与に対して、秀吉がそれを断り、秀吉の望みで五位少将になったと、まことにうまい具合になります。

宇喜多騒動での「主」も事の当人=中村と解釈したほうが、うまく当該個所を解きほぐせるのではないかと感じた次第。

門外漢の妄言かもしれませんが。

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【2012/11/09 18:44】 | 戦国織豊
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千代田では
みなみ
特別講義ありがとうございました。
石畑さんは様々な大名家を意欲的に分析されてますね。
23日大門さんが江戸城廻り見学の募集をしてますので御案内しておきます。

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20年くらい前の大河ドラマから、近江浅井氏を「あざい」と読むのが通例になっている。
それは、同ドラマの戦国時代の時代考証を担当する小和田哲男氏が近江浅井氏の研究者であることから、その意向が反映されているのだろう。
もっとも、小和田氏は「あざい」読みの根拠を明確にされているのだろうか? 管見の限りでは存じ上げないが、今日、地名の浅井が「あざい」と読むからだと仄聞したことがある。ご存知の方がおいでならご教示下さい。

しかし、現代の地名が「あざい」だからといって、戦国期もそのように読んだとは限らないし、また浅井氏は名字だから、地名と同じ読みをするとは限らない。

そのように根拠があいまいだったせいか、最近は「あさい」読みが巻き返してきているように思う。
その代表は宮島敬一氏の『浅井氏三代』(人物叢書、吉川弘文館)で、冒頭のはしがきで『和名類聚抄』などを根拠に「あさい」だと断定された(同氏は『本郷』74号、2008年でも同様の主張をされている由)。

その後、宮島氏の上記著書の書評で、西島太郎氏が宮島説を踏まえて、戦国期までは「あさい」だったのが、江戸時代初期(『東浅井郡志』は慶長18年とする)からは「あざい(郡)」読みに変化したのかと問題提起している(『織豊期研究』10号、2008年)。

で、この議論では素朴な疑問がある。研究者にはそれほど珍しくない史料の吟味が抜け落ちていると感じている。
それは、『大日本史料』10-17に収録された「南部文書」三である(305頁)。
これは浅井久政・長政父子の死去の綱文(天正元年8月27日)に収録された史料で、浅井氏の位牌所、菩提寺だった徳勝寺の住持楊厳が浅井家追善再興について述べた文書である。慶長16年(1611)7月朔日と年次が入っている。
これはほとんど仮名で書かれ、しかも清音・濁音が混在していて、浅井の読みを検証するのにこれ以上ない史料である。
このなかに浅井読みは4カ所登場する。いずれも浅井氏三代の人名であり、地名ではない点が重要である。それを順に挙げると、

1.あさいびぜんのか□(不明字)、なのりハすけまさ

2.あさいしもつけのかミひさまさ

3.あざいびぜんのかミながまさ

4.あざい三たい
(三代)


「あさい」読みが2例、「あざい」読みも2例と見事に拮抗している。
それでは結論はどちらともいえないかというと、そうではないだろう。
中近世の古文書や古記録では清音表記が圧倒的に多い。そういうなかで、濁音表記がこれだけある点が非常に重要で、1.2.も実際の読みは濁音の可能性さえある。


この文書は浅井氏の滅亡、長政の死から38年後に書かれたものだが(慶長18年説より2年遡る)、浅井氏の菩提寺の住持の文書である点が極めて重要である。住持の楊厳が大檀那だった浅井氏の読みを知らないはずがないからである。楊厳はすでに2代将軍秀忠の治世、すなわち、浅井三姉妹のお江が将軍家御台所になっていることから、浅井氏の追善再興を企て、それは徳勝寺がもとの小谷山から現在の長浜市街に再興されることにつながったのである。

そのように浅井氏の由緒としてはきわめて正確な史料だという前提に立ち、史料に忠実に解釈すると、遅くとも浅井氏三代めの長政の代には「あざい」読みだったことになる。そして、お江も淀殿も「あざい」氏だったことになるのではないだろうか。

「あさい」か「あざい」の議論はこの史料を無視してはできないだろう。
なお、この史料は東京大学史料編纂所のサイトにあるデータベース(大日本史料)から誰でもアクセスして調べることができます(ただ、本日夜から明朝まではメンテナンス中)。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
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【2011/10/08 22:26】 | 戦国織豊
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あざい?
びわこ
桐野さん、こんにちは。

浅井の読み方は、地元が「あざい」って読むから、「あざい」なんだと思っていました。

改めてこの史料を見ますと、長政の時に「あさい」は「あざい」になった可能性もある・・・ってことですか。興味深い史料ですね。

地名としての「浅井」が「あざい」って読まれるのは、「大蛇(おろち)」が「おとち」と読まれるような、湖北の訛りのように何となくですが思っていました。

文字が読めないので
より
さっぱり読めませんでした。
そこで、ふりがなや挿絵のある説法集を。
オークションで購入しました。

最近は、各所で、pdfで公開されて居ますので
助かります。

IPad!には、、これらが300冊入っています。
重宝して居ます。
鹿児島、宮崎が公開されると、嬉しいのですが。

方言
桐野
びわこさん、お久しぶりです。

亮政・久政の代と長政の代とで名字の読みが違うというのはふつう考えられないですね。
個人的にはずっと「あざい」だったのではないかと思っています。「あざい三たい」とも書いてありますから。

びわこさんの「あざい」読みは地元方言かもというのは妙に納得しました。

別の例ですが、「桶狭間」も「おけはざま」ではなく、地元では「おけばさま」と読んだかもしれないです。何となく似ているような事例です。

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