歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
久しぶりに大河ドラマについて。

昨7日は、第40回「三国同盟」というタイトルだったが、個人的には、ガックン景虎の上洛のほうに興味があった。

景虎が上洛したのは、第1次川中島合戦があった天文22年(1553)秋で、景虎24歳のときである。

ドラマで景虎が後奈良天皇に拝謁した場面。景虎が清涼殿らしき場所に昇殿して、御簾の向こうの天皇と対座していた。
しかし、この設定には違和感があった。

景虎は従五位下・弾正少弼。せいぜい諸大夫程度の官位であり、昇殿できる堂上公家ではない。だから、この設定はおかしい。

のちに信長がはじめて参内したとき、弾正忠の僭称で無位無官だった。正親町天皇が小御所の庭で信長を謁見し、天盃を授けている。もっとも、天盃がなかなか出てこなかったので、しびれを切らした信長が辞去してしまうという一幕もあった。
このように、天皇が堂上ではない地下人(じげにん)と対面するときには昇殿という方法をとらない。景虎も同様だろう。

なお、このとき天皇は天盃のほか、御剣も与えた。それは「無銘豊後瓜実御剣」で、現在も上杉家に伝来している。

もうひとつ、勅使とおぼしき広橋大納言(字幕をよく見ていなかったが、兼秀だったか)が景虎に、いわゆる治罰綸旨を与えていた。
この場面も微妙である。この綸旨は上洛したときに与えられたものではない可能性がある。
綸旨の原本は残っておらず、『上杉家御年譜』一にその写しがある。それによれば、日付は4月12日。景虎が上洛する半年も前である。この日付が正しければ、あの場面はおかしい。

この日付どおりだとすれば、第1次川中島合戦の前にあたるわけで、景虎の信州侵攻は村上義清の救援というだけでなく、治罰綸旨に基づく征伐という名分もあったのかもしれない。
ちなみに、綸旨には「任国並隣国の敵心を挟む輩を治罰さるる所也」と書かれている。「任国」って越後のことなんだろうか?

余談ながら、景虎の上洛の下準備をしたのは、家臣の神余親綱である。もっとも、将軍義輝は三好長慶のために近江に退転していたから、対面を設定できず、次善の策として後奈良天皇との対面になった。
親綱が頼りにしたのは、大覚寺門跡義俊である。義俊は関白近衛稙家の弟。のちに稙家の嫡男前嗣(のち前久)が現任の関白のまま越後に下向するのは、このときの近衛家との縁もひとつの要因だろう。

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【2007/10/08 17:55】 | 風林火山
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毛利家文書
Tm.
関係のない記事でのコメントすいません。

以前より気になっていた小早川隆景の書状ですが、毛利家文書之三に収録されている838号です。
古文書の読みに知識乏しい自分には正確な釈が出来ません。桐野先生にご教授いただければ幸いです。



ご確認
桐野
Tm. さん、こんにちは。

『毛利家文書』の該当文書、一応確認してみました。

さて、私は物忘れが激しくて、どの記事でのどの議論だったのか、よく思い出せません。申し訳ないですが、記憶を喚起されたく、ご教示願えませんでしょうか。

「不慮ニ将軍中国御動座ニ付而」云々の部分でしたっけ? それとも年次の問題でしたかね?



Tm.
桐野先生、申し訳ありませんでした。
自分でも何時の議論であったか分からなくなっています。

かつて知人より示唆されたのは
「金銀彫さる七塔ヲ有御建立、数寄之座敷御誘候ても、」
の部分であり、それが安土城を意識してのものではないかとのことでした。
その上で『毛利家文書』の年次比定が正しいとすれば、安土での正月の出来事について何らかの情報が伝わり、上記のような計画がなされたのではないかとも思われるのですが如何でしょう。

また大筋の内容としては、元就の遺訓を踏まえ、義昭の動座により俄かに戦意が高揚していることを危惧し、輝元を諌めることを妙壽寺の御床下に依頼したものと存知ますが、不勉強ゆえ、文中に名の挙げられている者たちがどのような人物か存知よりません。

それらを踏まえ、同書状の大意や人物、先生の所感についてご教授願えれば幸いなのですが。





小早川隆景書状
桐野
ご紹介の妙寿寺宛て隆景書状ですが、
宛所の妙寿寺は毛利家の本拠、安芸吉田にある妙寿寺の住持、明叔元楊のことで、おそらく隆景と深い交流があっただけでなく、毛利輝元の学問の師でもあった僧侶だと思われます。

年次は、『毛利家文書』の編者は天正6年(1578)に比定していますが、翌7年ではないかと思います。
まず、書状中に「日頼様以後八ヶ年御家を被保候」とあるのが手がかりで、日頼様こと毛利元就の死去が元亀2年(1571)ですから、それから8年ということですから、同7年(1579)のほうがでいいのでしょう。
また、冒頭にある「市少四」(市川経教)と「杉七」(杉重良)の裏切りについて、隆景が述べています。
2人は大内氏旧臣で毛利に重恩ある国衆ながら、豊後大友氏に寝返っています。その時期はどうやら同7年正月のようですから、同年のほうがよいと思います。

あと、この書状がよく知られているのは、将軍義昭の中国下向について、隆景が毛利氏の前途を不安視している一節で、義昭が毛利家を頼ってきたことを「当代之御面目」としながらも、「乍去、消候ハんとて光増と申事も候」と書いているところです。つまり、消えかかっているロウソクの最後の輝きのようだというわけです。

で、肝心の部分ですが、

「金銀ヲ彫たる七塔ヲ有御建立、数寄之座敷御誘候ても、当家之御名字不続候へは、一時之煙と罷成事候」

先ほど申しましたように、この書状の年次は天正7年が妥当だと思われますが、それでも、大丈夫でしょうか?
また毛利氏が安土城の何に刺激されたとお考えなのかよくわかりません。天正6年も翌7年も、信長は安土城天主を堺衆などに公開していますね。そのことでしょうか?

しかし、毛利氏が寺院建築と城郭を同次元で意識するものでしょうか。ご紹介の部分は、妙寿寺か西堂(人物でしょうが)に関わる寺院建築で、7つの堂宇を建立するということですよね。それが安土城天主と何か関係があったり、毛利氏が意識した所産なのでしょうか? あるいは「七塔」を七重塔とお考えでしょうか? おそらく七重塔ではないと思います。

とりあえずはそれくらいで勘弁して下さい。

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大河ドラマ「風林火山」第32回
―越後侵入―

今回は山本勘助の越後侵入が描かれ、とてもありえそうもない長尾景虎との対面、もっとありえそうもない宇佐美定満との対面と、創作全開である。

戸石崩れは『甲陽軍鑑』と異なり、上田原合戦→戸石崩れという順でちゃんと描いてあった。
もっとも、戸石攻めはまたしても芸のない武田の攻め方で(笑)。「豊泉堂雑記」さんから筆誅を喰らうのではないか。
さらに、豊泉堂さんが心配していた戸石崩れに勘助が不在という恐ろしいことが実際に起こってしまった。

『甲陽軍鑑』では、勘助が劣勢の武田勢を救うために、両角虎光の兵50騎を借りて、村上勢の進路を南にそらすことに成功し、窮地を脱することになっている。ところが、肝心の勘助は景虎に捕らわれて戦場に不在である。しかも、宇佐美に正体がばれてしまっている……。

さて、この場面、軍師の勘助の見せ場のはずだが、今後何らかの形で描くのだろうか。それともスルーしてしまうのだろうか?

それはそうと、宇佐美が使っている忍びが「軒猿」となっていて、思わず苦笑してしまった。

前々回からだったか、直江実綱の娘でが出てきている。父に景虎の夜伽をするよう命じられたものの、景虎に冷たくあしらわれるというシーンがあった。
これを見て、在りし日の大河「天と地と」にフラッシュバックしたのは私だけだったろうか。
「天と地と」でも似たようなシーンがあったが、若干設定が違っていた。宇佐美定満の娘が乃美(「なみ」と読む)で、やはり景虎の近くに侍して、景虎を慕い続けるというものだった。
乃美を演じたのは樫山文枝、宇佐美は宇野重吉と民芸コンビだった。懐かしい。

乃美」と「」……字こそ違うが音は同じ。脚本家の「天と地と」へのオマージュか。

【2007/08/12 22:40】 | 風林火山
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大河ドラマ「風林火山」第28回

いよいよ板垣信方と甘利虎泰の「両職」が討死。
板垣信方

上田原古戦場にある板垣信方の墓。昨夏撮影したもので、だいぶ荒れ果てていたが、本ドラマ最後の紀行によると、かなり整備されていた。

でも、甘利の内応って、策に溺れた筋書きではないだろうか。どうして、オーソドックスに作れないかなあ。
晴信の慢心を諫めるのに、敵に内通してしまったら、元も子もないだろうに。そんな人間の諫言など、晴信にはさらに通じなくなると思うのだが。
やっぱり、脚本家が独自性とか創作力を、何か勘違いしているような気がするな。

板垣信方の死については、本邦随一のアクションスターだった千葉ちゃんのために見せ場をつくるに違いないと思っていたから、あれこれ言うまい。ただ、影武者や孫子や諏訪法性の偽旗はやりすぎなんじゃなのかな。

もっとも、『甲陽軍鑑』では、板垣は「近国に名をとりたる仁なりといへども、油断いたされ候」とあるけれど、その死をより意義あるものにするには、「油断」という筋書きには出来なかったのだろうな。何せ、この間の数回で、散々下手な伏線を張りまくってきたから、覚悟の討死にしなきゃならなかったのだろう。

もっとも、『甲陽軍鑑』には、油断していた板垣が敵が襲来してきたので、床几から立ち上がって馬を引き寄せ乗ろうとしたところを、乱入してきた5,6人の敵に馬から引きずり降ろされ、転んだところを討ち取られたとある。

実際はお粗末で惨めな最期だったわけで。
唯一、馬上から落ちるところだけが『甲陽軍鑑』を取り入れたことになるのだろうか。

余談
千葉真一が引退するのではないかという情報が流れている。「キーハンター」をワクワクしながら見ていた世代だから感慨深い。
御年68歳だから、アクションスターとしては難しいのか。でも、古稀を過ぎたアクションスターというのも、また素敵だと思うけどな。
近々、記者会見があるらしい。

【2007/07/15 23:47】 | 風林火山
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サニー千葉
ばんない
板垣の最後はシンイチ・チバのオンステージになるとは思っていたんですが、敵に円陣で囲まれる演出などは「戦○自衛隊」とほぼ一緒でしたね(汗)。

引退するというのは初耳です。アクションスターとしてはきつい年齢なのでしょうが、本当に引退するというなら残念です。ただ、引退するとなると昨日の『風林火山』のあの派手な演出も分かるような気がします。でもタランティーノ監督は嘆くでしょうね。

引退
桐野
ばんないさん、こんにちは。

千葉真一の会見があったみたいですね。
やっぱり役者としては引退のようです。今後はプロデューサー的な立場になるんでしょうか。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070716-00000001-oric-ent

ただ、この人は役者はともかく、経営者その他は決して成功したとはいえないですから、一抹の不安がありますが。

感想
市川
役者さんの熱演、場所の広大さは前半のクライマックスに相応しいものだったと思います。
ですが武田晴信さんのオーバーリアクション、いまいち意味が分からない甘利さんの作戦、負けを前提に戦う板垣さんの不甲斐無さと、最後の無駄な奮戦(そして歌詠み)。
私個人は不満の残るものでした。次回に期待しています。

大見得
桐野
市川さん、こんばんは。

晴信の演技はますますオーバーで露悪的になっていますね。とくに、歌舞伎の大見得を切るような大写しには笑ってしまいました。
まあ、亀治郎さんは歌舞伎役者ですから、不思議ではないですが(ただ女形だったような)。

板垣役の千葉氏については、68歳とは思えぬ身のこなしだったことはたしかですね。よほどの修練の成果だと思います。

上田原合戦じたい、果たしてどんな戦いだったか、さっぱりわかりませんでしたね。もともと史実がよくわかっていませんが、たとえ創作でも、両軍の駆け引きがわかるようにつくってほしいものです。

上田原合戦については、かわいさんの詳しい批評があります。リンク欄の豊泉堂雑記です。興味がおありなら、ご覧下さい。

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昨日の大河ドラマ「風林火山」第24回。
表題の尾籠、失礼のほどを。今回のキーワードだったもので。

ガクト景虎が出るというので見たが、ほんの顔見せ程度だった。

真田幸隆(正確には幸綱)がいよいよ武田氏に帰属することを決める。
しかし、武田氏を一番の仇敵のように非難していたけど、これは村上義清も加わっていた戦いによるものだから、武田氏だけが悪し様に言われるのはおかしいし、地縁的な関係からは、むしろ村上氏が真田氏の宿敵ではないかと思うが……。

それはさておき、この脚本家は女性の心情を描くことが非常に下手だという印象を受ける(男性のそれもうまいわけではない)。
一時期の由布姫の錯乱と迷走もそうだし、今回の幸隆夫人の忍芽もそうだ。武田氏は父たちの宿敵だからと言っておきながら、その下の根も乾かぬうちに、兄が夫を裏切り者だと罵ると、一転して夫の味方をする。はあ~という感じだ。
女性は山の天気のように変わりやすいとでも考えているのだろうか。少しは思考に整合性をもたせるか、心情の変化を何らかの形で視聴者に理解させる工夫をしてみたらどうかと思うが……。
女は意地と怨恨だけで生きるものという偏見でもあるのかねと思ってしまう。

さて、今回は勘助が鉄炮で負傷した一件で、よく馬糞が出てきた。晴信に鉄炮で負傷した感想を聞かれた勘助は馬糞の味がしたとまで引っ張った。

幸隆ゆかりの僧侶が勘助の傷の手当てをし、馬糞を溶いて呑ませたら治ったと豪語していた。馬糞で治療というのはあまりに唐突で、面食らった人も多いだろう。
でも、出典はすぐピンと来た。

『雑兵物語』(浅野長武監修、人物往来社、1968年)

である。
これには、いろんな種類の足軽や中間、小者といった武家奉公人の逸話が独特の口語文でたくさん載っている。
そのなかに負傷の手当てをどうしたかということも書かれている。たとえば、傷が疼く場合の対処法としては、

「疵ががいにうずくべいならば、おのれが小便をのみなされろ。やはらぎ申べい」

傷がズキズキ痛むなら、自分の小便を呑めば症状が和らぐというのである。一時期、自分の小水を呑む健康法も流行ったから、あながち非科学的でもあるまい(笑)。

また傷の手当てについて。とくに鉄炮傷と特定したわけではないが、次のように書かれている。

「がいに胴腹の疵から血がはしる。又、血が胴へ落るもんだぞ。あし毛馬の糞を水にたてゝくらへば、胴へおちた血が下りて、疵もはやくいゑるものだ。あし毛馬の血をのんでも、胴へ落た血がくだるといふぞ。去ながら馬の血はうぬがまゝにとられまい。くそをくらったがましだ」

大意をとると、
「胴や腹の負傷で出血が多かったり、内出血しているときには、葦毛馬の糞を水に溶いて喰らえば、内出血した血が滞留せずに降りて、傷が早く治るというものだ。葦毛馬の血を呑んでも同様の効果が得られるが、馬の血を得るには殺さないとできないから、糞のほうが簡単に入手できるのでこちらがましである」

ドラマのシーンはこの一節からヒントを得たのだと思う。

さて、由布姫が晴信に勘助や板垣信方のことをあれこれ告白したために、晴信の顔色が変わり、軍議の場でも、板垣に皮肉を言ったり、板垣の進言をあえて無視する挙に出た。
いかにも嫉妬心丸出しで、器量が小さい晴信にされている。
しかも、これは単発のエピソードではなくて、おそらく上田原での板垣の討死(おそらく憤死として描かれるだろう)の伏線であろうことは想像に難くない。

あるいは、由布姫の無意識のなかに(諏訪氏の怨念という)夜叉の顔が隠されており、それが期せずして、武田家中の反目や分裂をもたらすという、一種のたたり神として含意されていると思うのは穿ちすぎか。

【2007/06/18 21:46】 | 風林火山
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大河の出典は『甲陽軍鑑』かと
かわい
 松山合戦の際の甘利左衛門と米倉彦次郎の逸話がありますから、たぶんこちらでしょう。脚本家氏はアレンジが下手なだけで、『甲陽軍鑑』はけっこう読み込んでいるようですよ。

巻第卅二
桐野
にありました。どこにあるか探しましたよ(笑)。

「葦毛馬の糞、水にたてゝのみ候へば、血をくだすと申て」云々とあり、しかも、鉄炮疵の手当て法だと書いていますので、こちらのほうを参照したのでしょうね。
ただ、これは永禄5年(1562)の話で、河越夜戦のあった天文15年(1546)から16年後の話なんですね。

米倉丹後の発明した「竹束」に関連する記事だったわけですな。

そういえば、この記事のあたりに、武田家に鉄炮が持ち込まれた話が出ています。信虎時代の大永5年(1525)に、鉄炮2挺が初めて甲府に来たとあります。
通説の鉄炮伝来より17年前になりますが、信じていいのでしょうか?
橋場殿下あたりは東国への鉄炮伝来を早めに想定していたような(うろ覚え)。

楽しく読ませていただいています。
ぶるぼん
桐野先生、以前、『新・歴史群像シリーズ』でお世話になりましたぶるぼんです。いろいろな先生方の歴史ブログを見ていましたら、先生のブログにたどり着きました。先生のブログは大変タメになり、いろいろと参考になります。ぜひぜひ大河ドラマも続けてみてください。橋場先生、かわい先生のブログともども毎週楽しみにしています。僕のほうもアドレスのブログで毎週『風林火山』のコメントを書いています。

真田郷の長谷寺
桐野
ぶるぼんさん、はじめまして。

すみません。お知り合いの編集者の方のようですが、お書きになっているブログではわかりませんでした(笑)。

ブログに書かれている「風林火山」の記事読みました。
私なんかよりずっと詳しいですね。
馬糞を勘助に呑ませた例の坊さんがのちに真田幸綱に招かれて長谷寺の開基になったのですか。そういう関係だったのですね。
真田郷の長谷寺には昨夏行きました。幸綱と夫人と昌幸の墓が裏手にありましたね。


ぶるぼん
桐野先生、これは失礼致しました。
メインの当社アドレスを貼っておきます。
もっとも最近はこちらのブログ
http://d.hatena.ne.jp/shugoro/
がハンドルネームになっていることが多いのですが……。
まあ、こちらは競馬予想がメインです。

思い出しました
桐野
ぶるぼんさん

あらためて貴ブログを拝見して、思い出しました。
その節にはお世話になりました。その後も歴群の仕事はされているのでしょうか。

はい
ぶるぼん
細々とですが、今回も携わっています。
また、担当になった場合はよろしくお願いします。
まあ、基本的にフリーですので、他の書籍等でもご縁がありましたらぜひ。

すみません
かわい
>桐野先生
 もう少し細かい内容まで踏み込んで書けばよかったですね。お手数をおかけしました。
 鐵炮の話は、種子島とそれ以前の『応仁記』なんかに登場するものを分けて考えるなら、大永5年もありなのかもしれません。それ以前の武田家は鐵炮どころではなかったでしょうし。
 このあたり、橋場さんはどうお考えですかね。

>ぶるぼんさん
 徒歩圏内のご近所なのでそのうち遊びにうかがいます。

鉄炮
桐野
かわいさん、こんばんは。

武田氏や北条氏の史料では、鉄炮の記事が種子島への伝来よりも早めに登場していますね。
考えてみれば、教科書的な史実の典拠は「鉄炮記」という後世の二次史料ですから、「応仁記」や「甲陽軍鑑」とさほど変わりません。「鉄炮記」だけが重視されるというのもおかしいですね。

鉄砲伝来
胡でございます。
恐れ入りますが、この討論には私を参与させていただきたいんです。

一般的には、鉄砲伝来は天文12年のことだと伝われているが、個人的にはポルトガルより、倭寇(日本の商人たち)は中国、琉球との密貿易で鉄砲を日本に導入したのではないだろうかと考えます。

「鉄砲記」には、天文十三年ころに、ある貿易船が伊豆に漂着したとの記事があり、一方、「北条五代記」には、永正十年に玉滝坊という山伏は堺で中国から伝来した鉄砲を入手して北条氏綱に献上したとの記事もある。

「鉄砲記」と「北条五代記」の史料としての信用度がまだ問題だが、種子島から、ただ一年で関東北条氏まで鉄砲が伝えられたことは考えにくいし、それに、その一年間に、鉄砲の作り方が習得できたかどうかまだ疑問があります。その二つの史料によれば、むしろ鉄砲伝来の時点は天文12年以前のことだという可能性が高いのではないでしょうか。

以上愚見ですが。






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昨日の大河ドラマ「風林火山」。
最近はあまり観ていないので、第何回かわかりません。

この間の勘助と由布姫のやりとりはうざったくて見る気も書く気も失せます。気持ちが猫の目のように変わるじゃじゃ馬姫ですなあ。
何度もいうように、その責の大半は脚本にあると思います。多少うまい演技をしたとて、脚本のお粗末さをカバーできません。

それはさておき、久しぶりに書く気になったのは、ちょっとした疑問から。

今川義元から北条氏康に宛てた起請文が登場した。
いかにもそれらしい牛王(玉)宝印(ごおうほういん)の料紙だった。もしかして本物? 熊野の牛王宝印紙だろうか? 東国だと戸隠山あたりも牛王宝印を出しているらしいが。

ただ表裏のどちら側に書いてあったか、よくわからなかった。
ふつうは、裏に書くはずだが……。
牛王宝印の料紙を翻してみせたから、一応、表裏の意味を知っているらしいが……。

で、問題は宛所。たしか、

北条氏康殿

と書いてあった。
これはいかんだろう。実名は避けないと。

北条左京大夫殿

と書くべきだろうに。
せっかく本物らしい牛王宝印紙を用いながら、ちょっと詰めが甘かったのではないか。時代考証の柴辻先生が見たら、すぐ指摘しただろうに。




【2007/06/04 21:28】 | 風林火山
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時代考証者
春長軒
桐野さん、こんばんは
小生も見ました。たしか、二度アップされました。ただし、宛名は「北条氏康殿」ではなく「北条新九郎氏康」とありました。柴辻さんは、この文書の作成には深く関わっていないと思います。NHKの美術部スタッフがある程度柴辻さんなどから意見を聞きながら、独自の判断で作ったのだと思います。柴辻さんが見過ごすはずはないと思います。戦国期の研究者の中でも、柴辻さんほど古文書に精通している方はいないと思います。すくなくとも、古文書に限って云えば、去年の時代考証の先生とは格段の差があると思います。
これはNHK制作側の体質の問題だと思います。
美術部には、書道の専門家は所属していても、古文書の専門者がいるわけではないので。

とは言え、宛名の表記は明らかに正しくないので、ややもすれば制作側や、時代・風俗考証者のお二人の責任に帰せられるかもしれません。
ただし、今日の大河ドラマは単なるホームドラマと化した面もあるので、昔のように歴史の勉強に益することはなくなったように思います。


新九郎でよかった
桐野
春長軒さん、こんばんは。

ご指摘有難うございます。
「北条新九郎氏康殿」でしたか。
一応、通称(仮名)+実名ですが、これでも、実名を使っているかぎり、間違いじゃないですかね。

あと、新九郎という仮名の名乗りですが、氏康は天文10年(1541)に父氏綱の死と共に家督を継ぎ、ドラマの進行時点では同14年と、4年も経過していますから、左京大夫を名乗ってもおかしくないですね。

『戦国遺文 後北条氏編』一を見てみましたが、天文10
~14年頃の氏康の発給文書は「氏康」としか署名がないので、よくわかりません。
ただ、氏綱が死去してから数カ月後の天文10年11月発給の氏綱文書に、朱筆で北条左京大夫と書き込んであります(200号文書)。もっとも、後筆でしょうから、証拠にはならないでしょうね。

念のため、『戦国人名辞典』の氏康の項を見たところ、「天文20年(1551)末頃、左京大夫に任官したらしい」とありました。
となると、河東の一乱のときは、新九郎だったみたいです。ドラマの起請文の仮名は正しかったようです。
この点は私が訂正したほうがよいようです。

でも、やっぱり氏康は違うと思います。「北条新九郎殿」でいいのでは。
好意的に解釈すれば、「北条新九郎」では視聴者が誰だかわからないだろうからと、氏康を付加したのかもしれませんが。



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