歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
十七烈士

そうだ、京都へ行こうと思い立って、昨29日から一泊で出かけた。

知り合いの大山崎町の学芸員氏から展示会の招待を受けたのも動機のひとつである。もっとも、学芸員氏は留守で会えなかった。こちらが事前に連絡せずに行ったのでしかたがない。その代わり、展示はしっかり見てきました。

大山崎惣中に関わる戦国・織豊期の文書がたくさん展示されていた。とくに徳川家康が関ヶ原合戦直後に出した禁制は大高檀紙の立派なものだっだ。

せっかく大山崎まで行ったので、天王山と男山八幡(石清水八幡宮)を制覇しようと思い、まず天王山から登る。
天王山は周知のように、山崎の合戦の舞台にもなり、山頂には羽柴秀吉が築いた山崎城址があるし、中腹には禁門の変で敗れた真木和泉ら十七烈士の墓がある。

標高は270メートル程度なので、すぐ行けるかと思ったが、これが予想外の急勾配と悪路で思いのほか時間を費やしてしまった。

十七烈士の墓は竹林のなかにあった。真木和泉らがなぜここに登って自刃したのかよく知らないが、もしかして最後に天皇のいる京都を遙拝するためでもあったか。

さらに登り、山崎合戦の碑のある展望台までたどり着く。ここからは明智方の陣所方面がよく見える。折からの好天でとても眺望がよかった。また山崎の隘路も実感できた。

天王山山頂

修復工事中の酒解神社の脇を通り抜けると山頂である。山崎城の本丸、あるいは天守跡とおぼしき曲輪がある。曲輪の段になった部分にはわずかだが、積み石が残っていて、往時の痕跡を偲ばせてくれた。
本丸の下には二の曲輪、三の曲輪とおぼしき削平地があった。

山を下りると、すっかり疲れ果ててしまったのと、夕暮れ近くなったために、男山八幡は断念した。次回を期すしかない。


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【2006/11/30 23:41】 | 雑記
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今夜、古文書塾てらこやの第四回講座だった。
幕末土佐藩の重役、寺村左膳の日記『寺村左膳道成日記』を読んでいる。今回が三回目である。

今回は慶応3年(1867)5月23~24日前後の四侯会議について、かなり突っ込んだ検討をした。
じつをいえば、この時期の寺村の日記は、本人が病気がちで情報伝達が一日ないし二日遅れているうえ、経緯を詳しく把握していないようである。
そのため、以下のような当事者たちの史料を援用して、互いに内容を比較検討することにした。

薩摩藩:大久保利通日記
越前藩:続再夢紀事
宇和島藩:伊達宗城在京日記
朝廷(一会桑派):朝彦親王日記
朝廷(王政復古派):中山忠能日記
幕府:徳川慶喜公伝・昔夢会筆記

比較してみて、諸勢力、とくに薩摩と幕府の駆け引きがとても興味深い。お互いに相手の弱点を叩き合うという戦術を採用している。
焦点の長州寛典問題で、薩摩藩が幕府の長州再征の非を鳴らすのに対して、幕府側は長州の禁門の変の「罪」を問うという具合。お互いが議論の前提を自分の都合のよい地点に設定しているのが面白い。

史料の重複が多かったり、内容の把握が難しかったりするなかで、受講生のみなさんには相当の負荷をおかけしたのではないかと思うが、最後の慶喜の『昔夢会筆記』の談話はほとんど現代語だから、かなり理解してもらえたように思う。

四侯会議といっても、つまるところは薩摩藩と幕府、とりわけ大久保利通と徳川慶喜の対決であることがよくわかった。
大久保は同盟相手である長州藩の復権のために、慶喜はひそかに諸外国に兵庫開港を約束してしまった手前その辻褄合わせにと、お互いに本音を隠して、建前論を徹底的に戦わせている醍醐味を味わっていただけただろうか。

次回はいよいよ今次の最終回。四侯会議解体により、討幕へと突き進もうとする薩摩藩と、それを阻止しようとする土佐藩、とりわけ、「止め男」後藤象二郎の登場である。

本講座の詳細は以下のサイトにありますが、来年1月からの新講座の日程が決定したのに、なぜか更新されていません。講座の性格や雰囲気を掴むための参考にはなると思います。
http://www.shopro.co.jp/komonjo/index.html

【2006/11/29 00:07】 | てらこや
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吉川弘文館の新刊目録から。

昨年亡くなった尾張徳川家の徳川義宣氏による表題の本の第二輯が発売される。
徳川家康文書の研究』は中村孝也氏の手になる全四巻が日本学術振興会から刊行されたのち、その追録というべき、新修版が徳川義宣氏によって1983年に刊行された。これが第一輯ということになる。

そして今秋、待望の第二輯が刊行されることになった。
新たに500点以上が採録されたようである。
う~ん、魅力的だが、いい値段だ(笑)。
また品切れになっていた第一輯をオンデマンド出版で重版するとのこと。これも朗報かもしれない。
詳細は以下の通り。


新修 徳川家康文書の研究 第二輯
徳川義宣著/徳川黎明会発行/吉川弘文館発売  A5判 上製 函入 966頁 口絵4頁
定価(税込) 26250 円
ISBN 4642034188

中村孝也著『徳川家康文書の研究』、前著『新修徳川家康文書の研究』に未収録の家康文書・参考文書・未勘文書計506点を採録し、詳細な解説を付した。また前掲書収録文書でも原本を確認したものは校異改訂を示し、解説を一部追加訂正した。著者の長年に亙る研究成果を集成した、家康のみならず戦国・織豊期研究には欠かせない貴重な根本史料集。(06年11月刊)

〈主な目次〉緒言/例言 文書解説(永禄四年~元和二年)校訂(中村孝也博士『徳川家康文書の研究』収録中)(原本確認一覧表/校訂)補訂(掲表補訂/『新修徳川家康文書の研究』正誤表/後記)附記(仙千代)…竹内誠(徳川林政史研究所所長)徳川義宣主要論文一覧

※長らく品切れになっていました第一輯を、オンデマンド版で復刻
新修 徳川家康文書の研究 第一輯 OD版
A5判 上製 カバー装 1084頁 口絵16頁
定価26250円(税込) 4-642-00906-X
詳しくは小社販売部までお問い合わせください。


【2006/11/28 00:58】 | 新刊
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第二輯
橋場
高いですよねぇ、第一輯の初版時から6千円以上アップですから。古書市場にはいくらくらいで出てくるでしょうか。これは絶対買わなければならない本なのですが、この価格では当分様子見です(泣)。

第一輯OD版
かわい
 第二輯も高いですが、OD版も高いですよう(T_T)。
 第一輯は20年前に地元の古書店で発見したとき、たしか新古で1万8千円くらいでしたかね。第二輯も当分は2万数千円を下らないんじゃないでしょうか。


様子見
桐野
みなさん、様子見ですか。
私も、ほかに欲しいものがあるので、年明けまでしばらく考えてみます。あるいは新刊の割引を追求するか。


かわと
内容を考えれば、この価格でも押さえておくべきでしょうけれども…、私もちと手が出ません。
もっとも、私の場合中村本の方も一冊も持ってないので、それも静観の判断に影響してはいます。
それでも買わないときっと後で後悔するとは思うんですが、やはり先立つものがなければいかんともしがたいですね。


桐野
かわとさん
中世だけでなく近世の史料まで本格的に入手するとなると、大変ですね。史料本は集め出したら、きりがありません(笑)。

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昨日午後から、表題のイベントに出かけた。

私はいつぞや講師として招かれたのが縁で、会員歴3年ほどの俄会員。
会の歴史はほとんど知らないが、創立から20周年で如水会館の大広間で盛大な大会を開けるというのは、歴史関係の親睦団体の底力は大したものだといえる。

記念講演は、徳川18代宗家の恒孝(つねなり)氏だった。20周年という区切りの大会にふさわしい講師である。

演題も「パクストクガワーナの終焉―得たものと失ったもの―」というもので、近世から幕末維新の260年の歴史を徳川側から総括するという内容だった。

むろん、お立場上、徳川政権に肯定的な評価になるが、単なる我田引水ではなく、「階級の中の平等社会」「権力と富の分離」「武士のモラルと洗練された経済社会」という小テーマとそれを裏づけるデータなど、近世をより客観的に鳥瞰しようという試みだった。

そして最後の結論で、徳川政権の崩壊によってによって失ったものとして「平和」を挙げられたのが印象的だった。島原の乱以来、200年以上にわたる平和なパクストクガワーナとくらべて、明治から1945年までの70数年間のうち、わが国が何らかの形で戦争に関わった年数が4割を占めるという指摘、つまり、日本の近代がまさに戦争の時代だったという客観的事実の提示は今日の世相に鑑みても重い問いかけだろう。恒孝氏も「平和」の大切さをいちばん訴えたかったのではないだろうか。

それに関連して、ついつい明治維新の必然性というか、果たして起こす必要があったのか、それとも、徳川による新たな近代の可能性があったとお考えですかという、仮定でしか答えられない、お馬鹿な質問をしたのは、じつは私めでした(汗)。
立場上お答えにくいにもかかわらず、友人の作家はこういっているという形で見事に切り返されたのには感心した。

会場には、来賓として大久保利泰氏(利通曾孫)、榎本隆充氏(武揚曾孫)もおいでになっていた。お二人はほぼ同期で、恒孝氏はお二人の少し下の後輩にあたると、大久保氏からうかがった。

もうひとつの質問も面白かった。明治維新後、やはり華族同士では、維新期に敵味方に分かれた感情のしこりというか、歴史意識の違いがあったのではないかという質問に対して、恒孝氏は学習院時代の旧華族仲間では「憎っくき大久保め」と冗談では言ったりすると、ユーモアを交えての回答。会場の爆笑を誘った。

華族同士の複雑でからみ合った婚姻関係、また学習院での教育と仲間意識などで、共通の集団意識が形成されたとの回答はその通りだろうと思う。

恒孝氏は会津松平家から宗家を相続されたわけだが、氏の養母にあたる先代家正氏の夫人は島津忠義の九女である。本来なら、真逆の敵味方だった同士の婚姻関係が象徴的で、それが数代継続されると、共同意識がおのずと生まれるに違いあるまい。

最後の抽選会では、龍馬カレンダーが当たりました。ほんとはNHK大河「竜馬がゆく」のDVDがほしかったけど……。

【2006/11/27 10:01】 | 雑記
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別冊歴史読本の最新刊です。

江戸時代から昭和までの有名人100人近くの「男の人生流儀」を取り上げたもの。
私は、西郷隆盛・大久保利通・桐野利秋の三人を担当しました。

西郷は、月照との入水事件を中心に。
大久保は、征韓論前夜、息子二人に宛てた遺書を中心に。
桐野は、市来四郎の桐野評を中心に。

といった感じです。
よかったら、書店でのぞいてみて下さい。

事典にのらない 日本史有名人 男の品格
別冊歴史読本51
出版社名 新人物往来社 (ISBN:4-404-03351-6)
発行年月 2006年11月
価格 1,680円(税込)

【2006/11/26 08:47】 | 新刊
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おはつで~すww
ホームページ作ってみた
ガンガッて きょうも更新明日も更新
ほぼ毎日更新するんで…
見てくれたら うれしいかもww

http://bigsio.jp/~459/


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日本海域3

前から欲しかった『日本海域歴史大系』第四巻・近世篇Ⅰ(清文堂、2005)が比較的安く手に入った。

このシリーズはタイトルにあるように、海(とくに環日本海域)をテーマとしながら、境界や周縁という問題を取り扱っていて興味深い。

そのなかで、中野等「豊臣政権の大陸侵攻と境界認識の変容」という論考が面白かった。中野氏は豊臣政権の展開と朝鮮侵略を主要テーマにしてすでに定評のある研究者だが、秀吉の「天下」観念がどのようなものだったかを跡づけている。

私たちは信長や秀吉の「天下統一」といえば、漠然と現・日本列島の統一だろうと考えていて、ゲームなどにもそれは反映しているのではないか。それでもなお、蝦夷地や琉球は含まれるのかどうかという点も曖昧なままである。

秀吉もまた「本朝六十余州」とか「日本六十余州」という言葉を使っているが、どうやらそれは「天下」とイコールではないらしい。
たとえば、家臣の亀井茲矩(これのり)に「琉球守」や「台州守」(浙江省台州)という官途名を与えているのもその傍証ではないかと、中野氏はいう。

また西洋の境界論でいえば、秀吉の「天下」とは単なるバウンダリー(一次元のライン)ではなく、フロンティア(二次元の地帯・ゾーン)ではないかと中野氏は述べる。
つまり、あらかじめ何らかの歴史的経緯で定められた境界線が存在するのではないというのである。秀吉の場合、「叡慮」を政権の正統性の根拠とし、その委任者・執行者としての立場から「惣無事令」を遂行したことはすでによく知られている。
その際、豊臣政権の、つまり「天下」の境界は「叡慮」に服属した勢力とそれを拒絶した「兇徒」との間に存在する。だから、秀吉の意志によって可変的であり、かつ拡大的に再生産される。フロンティアとはそういう意味である。

したがって、秀吉はフロンティアの外側の「兇徒」を次々と伐り従えて「天下」を拡げていくことになる。それはフロンティアの外延化であり、一種の帝国的境界である。
その際、外国の王も例外ではない。「叡慮」に服するかどうかがすべての基準であり、その意味では、秀吉にとって戦国大名も朝鮮国王も唐国も同じである。

秀吉が大陸派兵の意図を表明したのは、関白任官直後の天正13年(1585)9月のことだが、それに伴い、九州出兵も命じている。毛利輝元に宛てた朱印状のなかで、秀吉は「唐国(明国)までも征服しようと思っていたが、島津が命令に背いたのが幸いなので、これを機に九州征伐を命じる」と述べている。
つまり、大陸派兵と九州出兵は一体というか、むしろ、九州出兵は大陸派兵に従属した一環だともいえそうだ。一方の島津側は秀吉のそうした意図をどこまで認識していたのだろうか。

中野論文を読んで連想したのは、では信長の「天下」観念はどのようなものだったのかという点である。信長が出羽下国の安東氏を服属させて、日ノ本将軍として遇したのではないかと言われていることから、蝦夷地も「天下」の範疇に含まれていた可能性が高い。しかし、その死によって、西の境界までは不明のままである。

同書にはほかにも、池内敏「近世から近代に到る竹島(鬱陵島)認識について」という興味深い論考の収録されている。なお、この「竹島」は現在、日韓で係争中の「竹島」(独島)ではない。
池内論考はあくまで文献史学的な手法でこの問題にアプローチしている。
元禄年間の徳川幕閣が「竹島・松島そのほか、因幡・伯耆に附属する島は存在しない」という見解を表明したこと。
また明治政府もこの問題を調査して、外務官僚の北澤正誠が竹島・松島が「古来我版図外の地たるや知るべし」といった報告を出し、明治政府も渡航禁止令を出していること。
こうした歴史的事実も踏まえて、冷静な議論が必要だろうと感じた。

『日本海域歴史大系』第四巻・近世篇Ⅰ
長谷川成一・千田嘉博 編
清文堂、2005年
中国・オランダを例外として国を鎖していたとされる近世。しかし日本海域に目を向けると、アイヌを介した北方との交易、北前船を通じた内外の交流の海として、新たな地域史像が浮かび上がってくる。本巻では、異国との接触を始めとして、海域の城郭・鉱山、海運と港町の発展、災害や信仰から見た地域社会、赤瓦や擂鉢等の移動など、多様な社会相を明らかにしていく。
ISBN4-7924-0584-X

【2006/11/25 13:29】 | 古書
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天下か殿下か
桐野
自己レスです(懐かしいフレーズだ)。

ふと思ったのですが、秀吉の「天下」がそういうものだったとすれば、秀吉が消息などで、「てんか」と自署するのは何を意味するのでしょうか?

私は以前、雑誌にこれは「殿下」の意味だ、秀吉は北政所はじめ家族にそう呼ばせていたんだという趣意のことを書いたけど、秀吉が「天下」にこれだけのこだわりをもっていることを考えると、やはり「天下」なのでしょうかね?

発想のてんか「ん?」
かわい
 まずはお約束のオヤジギャグを(笑)。

 秀吉の「天下」が修辞的なだけでなく、実際に論理的にも「天上」に対するものだったと仮定するなら、当時の西欧社会におけるカトリック普遍主義を背景にした世界帝国の概念にほぼ合致することになりますね。惣無事令の普遍化などは、神の国の普遍化から宗教色を除いただけで、事実上は同一概念ですから。
 とすると、地の果てまでもすべてが天下ということになり、さらに切支丹禁令はカトリック普遍主義の否定西欧社会への宣戦という見方も可能になりますが、殿下も天下も「てんか」なのが厄介ですね。単純に天下様の様を取って自称した可能性も十分ありそうですし、一筋縄ではどれと決め難いだけに、研究者の方々の議論に触れる機会であるところのこうした本を紹介していただけると、大変ありがたいです。論文掲載誌をことごとくチェックするなど、私のような一般人には難事業ですから。
 で、信長ですが、御神体を置いた安土城を天上と天下を結ぶ世界の中心と位置づけていたのだとしたら、信長もまた天下人この世の主という発想だったのかもしれませんし、宣教師が伝えた西欧社会の様相(教皇と皇帝を聖俗それぞれの神の代理人とする)から拝借した可能性もありますし、解釈としてはなんでも成立してしまいそうですね。

天下と公儀
桐野
かわいさん。

オヤジギャグ、どうもです。

信長が「天下布武」の印判を使うようになったのは、イエズス会との本格的交渉の前からですが、その後の「天下」の用例を見ると、当初とくらべて変容というか発展している可能性がありますね。
巨視的=世界史的に見れば、信長の「天下」とカトリック的普遍主義のアジアへの登場とがほぼ軌を一にしているのは単なる偶然ではなく、信長がそれに刺激・影響されて、それと融合・折衷した産物だったのかもしれませんね。

ただ、信長と秀吉の差異もあったかもしれず、信長存命なら「叡慮」を含まない「天下」の展開を考えたのではないかという気がします。

なお、研究者の間では、信長の「天下」は足利将軍的「公儀」を自称できなかった(もしくはその条件を持ちえなかった)からだとして、「公儀」よりも「天下」を過小評価する傾向が強いですが、どうも国内的な、内向きの議論ではないかという気がします。

秀吉の「天下」が信長の「天下」を継承し、しかも、列島世界を超越している観念であるなら、、信長の「天下」を「公儀」の下位に位置づけるのはおかしくなります。

「天下」を標榜した信長・秀吉の織豊時代が、前近代においてカトリック的普遍主義が東アジアでいちばん勢力を有した時期と重なっている、その国際的な契機を重視するほうがよいのではとも思います。

むしろ、「公儀」概念こそ、「天下」という日本的普遍主義を断念もしくは放棄したのちの、内向きな志向を示しているとも考えられないでしょうか。


神国思想
桐野
>かわいさん

追加です。

>惣無事令の普遍化などは、神の国の普遍化から宗教色を除いただけで、事実上は同一概念ですから。

秀吉の対外侵略は「神国思想」を理論的武器に展開されたというのは、かなり通説化されてきましたね。ですから、「天下」の展開は宗教的でもあります。

もっとも、それは神仏混淆の付け焼き刃的なもののようですが。


秀吉の政策における宗教性
かわい
 詳細な解説、ありがとうございます。信長万能主義的な大衆信仰(笑)に対する掣肘と考えれば、研究者が過小評価に傾く気持ちもわからなくはないですね。

 秀吉の神国思想についてですが、先の西欧社会との対比において、私が明確な差異として意識していたのは、宗教が目的と手段のどちらに立脚しているか、ということでした。つまり、西欧社会における帝国概念では宗教が手段ではなく目的であったと考えられるのに対して、秀吉は宗教を手段として用いることを重視していたように思えたのです。
 神聖ローマ皇帝の目的が多くの場合、宗教的な同一性を広域的に確立することにあり、そのために制圧と秩序の回復という手段を必要としていたと考えられるのに対して、秀吉の政策にはそうした目的性が感じられず、広域的な支配の貫徹とそのための秩序回復がそれ自体目的であったかのように見えたからです。
 これはある意味、仰せのような「神仏混淆の付け焼き刃的なもの」であることを意識しすぎた結果なのかもしれず、その点ではかなり的外れなことを書いてしまったのかもしれません。
 実際、神聖ローマ皇帝のスタンスにおいても、戦争目的の正当化に宗教的裏づけを求めていたことは通説化していますし、三十年戦争に帰結する神性ローマ帝国の悪あがきも新教勢力の存在による政治的結合性の揺らぎが大きな動機とされているようですから、秀吉の宗教性を一刀両断に切り捨ててしまうのはいささか早計であったようです。

神国思想
桐野
かわいさん。

ヨーロッパとの比較論まで展開していただき、有難うございます。私にはとても苦手な分野でして、書いていることがけっこう支離滅裂です(笑)。

で、秀吉の神国思想、神国観が手段か目的かといえば、やはり目的だったのではないかと思います。

朝尾直弘氏や高木昭作氏らの議論によれば、秀吉や家康など統一権力者の神国観(あるいは神国・仏国観)は、中世に流行した仏教優位の本地垂迹説を逆転させた、いわば「神本仏迹説」に基づいているとのこと。

本来、仏教の圧倒的優位だったものが、密教の天台本覚論などの影響で、日本の神がインドに出現して仏教を説き、中国に渡って儒教を説いたこと、したがって、日本こそがインド・中国に優越する神国・仏国だという説です。

これは蒙古襲来という民族的大事件以来、「末法の辺土」という「劣等コンプレックス」(島国根性とでも申しましょうか)の裏返しとして成立したようですが、織豊期や近世初期に登場して、わが国の国家観に影響を与えたのには、やはり固有の時代背景があると見るべきで、おそらく明国を中心とする華夷秩序(パックス・チャイニーナ)の衰退に規定されてのことだと思います。

信長・秀吉・家康はこうした神国観によって、明国に対する文化的優位を主張したかったのかもしれません。それは東アジア秩序を自分たちで再編統合しようとする動きの思想的根拠となったのかもしれませんね。


一方、この明国を中心とする東アジア的秩序が衰退するのには内外の要因がありますが、とくにヨーロッパ勢力=カトリック的普遍主義の東アジアへの登場もその外因です。
これは対明国のみならず、日本においても潜在的脅威であり、秀吉の神国観が一方で大陸侵略のイデオロギーとなりつつ、他方で、キリシタン追放令ともリンクしていたことは周知の通りです。
したがって、秀吉・家康の神国観は対外的ばかりでなく、国内統治の根拠にもなるという二面性があったように思います。

このあたりのことは、高木昭作氏の『将軍権力と天皇―秀吉・家康の神国観―』(青木書店、2003)に詳しいです。

余談ですが、信長とよく結びつけられる「第六天魔王」。これも神国思想のなかでは面白い位置づけにあり、私たちの常識を覆してくれます。


なるほど!
かわい
 たびたびの懇切なご説明に加えて参考文献までご紹介いただき、ありがとうございます。これまで大雑把に流してきた部分だったのですが、実は非常に面白い視点を見逃してきたことがわかりました。大変勉強になりました。
 とくに華夷秩序の衰退との関連は興味深いですね。早速、ご紹介いただいた本を探してみることにします。

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信玄の戦略

著者の柴辻俊六氏より新刊の高著(中公新書)をご恵贈いただいた。多謝。明日25日発売だそうです。

柴辻氏はいうまでもなく、武田氏研究の大家である。また真田氏の研究でも知られている。
とくに黒田基樹氏と共編の『戦国遺文 武田氏編』全六巻(東京堂出版)は武田氏研究には必携の史料集である。

いただいた新刊はまだ全部読んでいないが、武田信玄の最後の西上作戦を、柴辻氏がどのように評価しているのか気になったので、その部分だけ拾い読みした。

柴辻氏は、信玄が将軍義昭側近の上野秀政に宛てた書状(元亀四年正月十一日付)に注目し、そのなかに信長の悪業を五カ条にわたって列挙したうえで、「現世安民之政」とか「天下静謐の功を致すべし」といった文言があるから、上洛の意志が固かったと結論づけている。

この文書は『甲陽軍鑑』にも収録されており、やや粉飾ありかと思っていたが、醍醐理性院文書にもほぼ同文のものが収録されていることから、やはり真正なものであるようだ。

信玄の西上作戦がやはり上洛戦だったとなれば、信玄が臨終の間際に「瀬田に旗を立てよ」とうわごとのように叫んだという『甲陽軍鑑』の記事は一層の真実味を帯びることになる。

いずれにせよ、読むのが楽しみだ。
もっとも、同書編集部からも別途いただいたので、同じ本が二冊ある(汗)。

『信玄の戦略―組織、合戦、領国経営―』
柴辻俊六 著
甲斐一国を振り出しに次々と領国を拡大し、一時は全国統一さえありえたほどの快進撃はなぜ可能だったか
新書判/256ページ/定価798円(本体760円)
ISBN4-12-101872-9 C1221

【2006/11/24 12:56】 | 新刊
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ブログを始めて10日ほどたちました。

毎日、多くのアクセスをいただき有難うございます。
開始早々で気負いすぎているのか、小難しい議論の独り相撲という感じですが、大目に見てやって下さい。

また人気ブログランキングでも、かなり上位にランクされているようです。ただ、用語の意味がよくわかりません。

週間IN 週間OUT 月間IN

これらの数字は何を意味しているのでしょうか?

【2006/11/24 00:02】 | 雑記
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松裕堂
どうも、松裕堂です。

>週間IN 週間OUT 月間IN
この場合は
 週間IN…「膏肓記」にあるバナーをクリックして「人気ブログランキング」へアクセスした人の数。
 週間OUT…「人気ブログランキング」のリンクから「膏肓記」へアクセスした人の数。
 月間IN …”週間IN"の月間計。
だったかと。

ご教示多謝
桐野
松裕堂さん

たわいもない疑問にわざわざ答えていただき有難うございました。
INやOUTはそっちの意味でしたか。私はINが月曜日で、OUTが日曜日かなと思っていました(笑)。お恥ずかしい限りです。


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先日、紹介した『織豊期研究』8号に、木村忠夫「戦国期島津氏の飛び道具」という論文が掲載されていた。島津氏と鉄炮については個人的に興味をもっているので、さっそく読んでみた。

木村氏は文献における島津氏の最初の鉄炮使用例を天文23年(1554)の岩剣合戦だとし、9月14日、島津忠将(貴久の弟)が船5艘で重富の脇元に押し寄せ、祁答院・蒲生方に対して「鉄炮を以て敵二、三人射ち伏せらる」という記事をあげている。

木村氏は注記をしていないが、おそらく三木靖氏の説に基づいているのだろう。
三木靖氏『薩摩島津氏』(新人物往来社、1972)は、島津氏の鉄炮使用についてかなり早くから体系的にまとめたもので、いわば鉄炮研究の古典的な位置を占めている。三木氏は同書のなかで、南九州での鉄炮使用例を詳しく調べて、肝付方や日向伊東方が先に鉄炮を使用し、遅れて岩剣合戦で島津氏が初めて鉄炮を使用したと述べている。

三木氏は同書で、わが国戦史上でもっとも早い鉄炮使用例として、天文18年(1549)6月の黒川崎合戦をあげている(黒川崎は現在の加治木町日当山)。
種子島への鉄炮伝来が同12年(近年は同11年説が有力)とされるから、わずか数年後に合戦で使用されることになった。

三木氏はこのとき鉄炮を使用したのは島津氏ではなくて、敵対する肝付・渋谷・蒲生方だとする。だから、岩剣合戦が島津氏の初例となるという。
三木説の論拠となった「貴久公御譜中」を引用してみる(『旧記雑録前編』二、2629号)。

「天文十八年、(中略)以故同年五月廿九日、使伊集院大和守忠朗為将帥、領軍衆進于黒川崎、結陣営矣、同六月朔日、越前守(肝付兼演)築対陣、両陣相去不過一町、渋谷氏・蒲生氏亦増勢来、而日日飛羽箭、発鉄炮、経数月驚人之耳目」

大意をとってみると、島津方の伊集院忠朗が兵を率いて黒川崎に陣取ったところ、敵の肝付兼演も対陣し、両軍の距離は一町(100メートル余)もなかった。そこへ渋谷・蒲生が肝付氏の加勢にやってきた。そして日々矢いくさがあり、鉄炮を発したので、数カ月、人々の耳目を驚かした、ということになろうか。

三木氏は「発鉄炮」のくだりを「肝付方の肝付・蒲生・渋谷氏の側が羽箭と鉄砲を使用したものとしか、読めない」と解釈している。「」(しかして、しこうして)という曖昧な接続詞で文章がつながっているから、三木氏のような解釈も成立するだろう。

また三木氏は自説を補強するように、「肝付氏は加治木にあったが、その本拠や本宗は大隅半島であったから、その使用については種子島氏との関連を考えることができる」とも述べて、大隅半島の反島津方の国人と種子島氏との関係が強かったとする。
あまり知られていないかもしれないが、種子島は大隅国に属する。したがって、三木説にうなずける点がある。

個人的には、三木説にもまだ検討の余地が残っているのでないかと思っている。
まず、上引用部分だが、「」(そして、それから)の解釈にも関わるが、「発鉄炮」は対峙する両軍同士での出来事ではないか、つまり両軍とも鉄炮を放ったという解釈もできるのではないか。

なお、鉄炮研究の大家だった故・洞富雄氏も『鉄砲―伝来とその影響―』(思文閣出版、1991)のなかで、上引用部分について「両軍の間で~銃撃戦がおこなわれた」と解していて、三木説のように踏み込んだ解釈をしていない。

次に、鉄炮を国内で最初に制作した種子島氏との関係だが、加治木領主の肝付氏は島津守護家の老中をつとめるなどしており、大隅半島に勢力を張る本宗家とはこの時期、親密とはいえない。むしろ、肝付氏本宗家の兼続が日新斎こと島津忠良の女婿であることから、島津守護家との関係が強い。

それに、鉄炮伝来に立ち会った種子島時尭もまた日新斎の女婿である。もっとも、時尭は日新斎の一女とはのち離縁しているが、その一女は加治木で対陣した肝付兼演の嫡男兼盛に再嫁している。これは加治木の肝付氏が黒川崎合戦ののちに島津氏に服属したので、その関係を強化するための政略結婚だと思われることから、黒川崎合戦当時、種子島時尭は日新斎の女婿だったことは確実であろう。

よって、種子島から九州本土への鉄炮伝来ルートを想定するに、大隅方面よりもむしろ、時尭の舅である日新斎の島津守護家に贈られた可能性のほうが相当高いのではないか。少なくとも、加治木肝付・蒲生・渋谷の諸氏よりも、島津守護家のほうが種子島氏との関係は強い。
それなら、黒川崎合戦で島津方も鉄炮を使用したとみてもよいのではと考えるが、どうだろうか。

【2006/11/23 14:31】 | 戦国島津
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鹿児島市清水町の祇園之洲近くにかつて、重富荘という高級旅館があった。島津家別邸というブランドで豪快な野外の宴が売りだったが、時代の移り変わりのためか、先年旅館業をやめて閉鎖されていた。

今度、結婚式場として再出発することになったそうだ。「マナーハウス島津重富荘」と呼ばれるらしい。
http://www.asahi.com/life/update/1122/004.html

重富荘は、島津久光の三男珍彦(うずひこ)が住んでいた邸宅だったという。
以下、重富荘と関係ある重富島津家の話に脱線。

島津家の分家に重富島津家(越前島津家とも)というのがある。現在の鹿児島県姶良郡姶良町重富を領していた。幕末期でも石高14.487石と万石以上だった。

島津家には多くの分家があるが、重富・加治木・垂水・今和泉の四家がとくに格式が高く、一門家と呼ばれる。本宗家に跡継ぎが絶えたとき、この四家から家督継承者を出す決まりになっていた。徳川家における御三家と同じで、島津家のいわば御四家だと考えればよい。

幕末の重富島津家の当主は島津周防忠教だった。というより、島津久光と呼んだほうがわかりやすい。久光ははじめ種子島家の養子となり、のちにそれを解消して重富家の養嗣子となった。
島津斉彬が重態になったとき男子がいなかったので、島津本宗家は断絶しそうになった。そのため、慣例に従って御四家から家督継承者を迎えることになり、重富家の久光の長男又次郎に白羽の矢が立った。のちの茂久(明治以降は忠義)である。島津本宗家の家督継承でこのような手続きがとられたことはそれほど知られていない。

茂久が本宗家を相続したことにより、父親の久光も本宗家に戻ることになった。そのため、重富家の家督が空いたので、久光三男の珍彦(忠鑑)が跡を継ぐことになった。ちなみに、二男の久治は宮之城島津家の養子になっていた。
重富荘は重富にあった邸宅を移したものか、明治になってからの珍彦の邸宅だったのだろう。

ちなみに、珍彦が幕末維新期にも重要な役割を果たしていることはあまり知られていない。慶応三年(1867)十一月、討幕の密勅をもって帰国した西郷や大久保の唱える率兵上京論を強く支持したのが珍彦だった。一方、珍彦の兄久治は討幕反対派の首魁だった。久光の子ども同士で対立したことはあまり知られていない。
珍彦は明治になってから男爵となり、旧藩校の造士館の館長を長く務めたので、銅像がその跡地に建てられていたが、戦争中の1943年に撤去された。おそらく軍事的な目的で供出されたのだろう。

今夏、都内の某大学で「薩摩藩と明治維新」という連続講座が開かれ、不肖私めにも講師の声が掛かった。そのとき、講座を主宰された重富島津家の現当主、晴久氏とお会いし、親しくお話しする機会があった。
元殿様とは思えぬほど気さくな方で、講演も聴衆が引き込まれるような達者な話ぶりで感心した。
私が晴久氏に「ご先祖の珍彦さんに興味があります」とお話ししたところ、さっそく貴重な家譜類の史料をお送りいただいた。いつかお役に立てたいと思っている。

ところで、再来年の大河ドラマの主人公、天璋院篤姫は重富家と同じ御四家のひとつ、今和泉島津家の出である。今和泉家は指宿市にある。再来年はさぞや観光客が多いだろう。

【2006/11/23 00:13】 | 雑記
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かごんまファン
はじめまして。東京のKakoです。

島津重富を検索してたどりつきました。
実は私の祖祖母(鹿児島姶良郡重富村)の生誕について島津家と遠からず所縁があるらしいとのことで
探し調べておりましたが、どう調べれば良いのやら困っていました。
なにかアドバイスを頂けたら嬉しいのですが。
唐突で申し訳ありません。


はじめまして
桐野
Kakoさん、はじめまして。

祖母上が島津家とご縁があるとか。
島津家とは重富島津家なのでしょうか?
またご健在でおられるのでしょうか?

お調べになっていることについて、問題は、そのご縁がどのようなものかによるかと思います。考えられるとしたら、

1,祖母上の実家が江戸時代からの重富島津家の一族だった。
2,江戸時代から重富島津家の家来筋だったか、明治以降に同家に奉公に上がった。
3,重富島津家の方と鹿児島もしくは東京で知り合いだった。

以上のようなどのケースにあたるかによって、調査方法も違ってきますね。
1か2だったら、調べる方法はあるかも知れません。

お答えになっているかわかりませんが、限られた情報ではこれ以上のお答えはできそうもありません。
もし個人情報などを気にされておられるなら、別途、ブログ右側下のメールフォームから小生宛てにメールをいただければと思います。メールなら、ブログには表示されませんので。


郷士の出じゃっど。
松元
東京在住です。ですが、私の出はまぎれも無い重富島津の郷士でございもす。重富島津は実に合理精神をもった島津の家臣であったと言われている事をご存知だろうか。私の祖先が重富島津の芋侍として暮らしていた所(姶良郡姶良町西餅田=重富)は火山灰から切り取った石造りの門と壁に囲まれた地で今でもその佇まいを残しています。そして叔父が暮らしておりもんど。今和泉や伊集院、鹿屋の島津家は明治以降その名を残そうと武家屋敷存続の為に小作人の労を犠牲にして今の観光地を作ったのです。重富島津家とその家臣は過去の遺物を残す事より貧しかった人民の生活向上の為に汗したのです。
私の家系はとても貧しいながらずっと武士です。親父も86歳ですが、矍鑠として武士の精神で生きております。私も何故か自然に武士の歩きと走りを身につけています。これはDNAなのでしょう。先祖の墓は重富にあります。
長いコメントで失礼しました。リクエストあれば続き書きます。

重富島津家
桐野作人
松元さん、はじめまして。

松本ではなく、松元だというあたり、鹿児島を感じますね。
重富島津家の家臣筋の出ですか。

伊集院に島津家(分家でしょうが)はなかったような気がしますが……。鹿屋の島津家というのは花岡家でしょうかね?

いろいろ面白い話有難うございました。

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アドレス
桐野
えっと、15歳の方からご質問をいただきました。
お答えしようと思ったのですが、アドレスが文字化けして表示されません。
もしよろしければ、再度アドレスをお教え下さいませ。

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風林火山の古道

久しぶりの新刊です。

単著ではなく共著ですが、興味がおありなら書店をのぞいてみて下さい。
発売は明後日の11/24(金)で、版元は集英社です。
下記サイトに少し詳しい案内もあります。
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=4-08-781357-6&mode=1

本書はタイトルからも明らかなように、来年の大河ドラマ関連企画です。
武田氏や山本勘助の歴史的な事績を扱う類書に対して、武田氏関連の史跡を「古道」というコンセプトでまとめて差別化したものです。ジャンルとしては歴史紀行にあたります。

小生の担当は2つあります。

ひとつは、信州小県の真田氏と上州街道
真田氏の揺籃の地である真田郷や上田をめぐりながら、真田氏の発展をもたらした上州街道を辿ります。上州街道は真田郷・上田と上州沼田を結ぶ動脈でした。
真田郷や戸石城が一望できる真田本城に10年ぶりくらいに登りました。ここからの眺めはいつ見てもよかったです。
上田市内の真田太平記・池波正太郎記念館も初めて訪れました。武田信玄が苦杯をなめた上田原の古戦場にも行き、板垣信方の墓も初めて訪れることができました。

もうひとつは、三河長篠古戦場と伊那街道です。
伊那街道は東海道の吉田宿から信州飯田へとつづく峻険な山道です。
途中に長篠城と同古戦場があります。
長篠古戦場は何度も行きましたが、それでもまだ回りきれません。
今回初めて行ったのが、鳥居強右衛門の供養塔(磔碑ではなく)、山本信供(勘助の息子)の討死の地と供養塔、馬場信房最期の地などです。

とくに印象深かったのが馬場信房最期の地です。長篠城から遡った豊川右岸にありますが、道路脇にありながら、峻険な山の斜面にあり、なかなか気づきにくい場所です。武田勝頼が退却のために渡河した地点のすぐ近くにあることから、やはり主君を守るためにここで殿戦を行ったのだなというのを実感できる場所でした。

余談ながら、古戦場の一角に武田軍団随一の猛将、山県昌景とその一族の供養塔があるのですが、少し暗くなっていて山林だったせいもあるのですが、なぜかうまく撮影できませんでした。全体がぼやけていて変な筋が入っています。以前に撮影したときも、ここはうまく撮れていません。何か変なものがいるのでしょうか?

さて、伊那街道は武田勝頼も父信玄も、ともに失意の道でした。勝頼にとっては歴史的な大敗北を喫して武田氏凋落のきっかけとなり、信玄にとっては織田信長との決戦を断念せざるをえない死出の旅となったところです。
取材の旅の最後が信玄の遺骸を焼いたと伝えられる駒場の長岳寺だったのも、一層感慨を深くしました。

『「風林火山」の古道をゆく』
出版社名 集英社 (ISBN:4-08-781357-6)
発行年月 2006年11月
価格 1,680円(税込)

【2006/11/22 10:38】 | 新刊
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ついに!
つっちー
「風林火山」ついに発売でうれしい限りです。
桐野先生には「古道」というキーワドだけでなく、さらに深いテーマでそれぞれまとめていただき、「さすが!」と唸りました。
今度、ゆっくり「打ち上げ」(2回目?!)をと思っております。


桐野
つっちーさん、どうも
わざわざのご挨拶有難うございます。
この本ではいろいろお世話になりました。カラーページが多くて、見ても楽しめる本ですね。
これから他の執筆者の方々のも拝読しようと思います。
打ち上げをまたやりましょう。


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先日取り上げた新刊『もうひとつの明治維新』に収録されていた論文を読んだ。とくに次の論文が非常に面白かった。

仙波ひとみ「幕末朝廷における近臣」

幕末維新史において、公家の果たした役割はこれまで重視されてこなかったし、当然、一般にもあまり知られていない。たとえば、尊攘派浪士に脅されて意のままに動く軟弱公家というあたりが一般の通り相場かもしれない。

中近世移行期から近世初期にかけての朝廷の地位と役割については、幕藩制国家の一要素(天皇はとくに「金冠」として)に位置づけられ、公武関係、朝幕関係のありようが明らかにされてきた。とくに公家近臣集団については、「関白―両役制」(関白と武家伝奏・議奏)や小番衆(内々と外様)の位置づけや機能などについて研究が積み重ねられてきた。

幕末期の公家衆もそうした近世の公武関係を基本的に継承しつつも、大きな変化が生まれてきており、そこに幕末期朝廷の独自性がある。たとえば公家の列参行動など、近世初期にはありえなかった現象である。

そうしたなか、仙波論文では「近習小番」という、天皇に近侍する堂上公家集団に注目する。その着眼は鋭い。そして、幕末に生起した朝廷や公家の各種の事件や運動も、多くはこの近習小番(とそれを母体にした議奏)に関わっていることが明らかにされる。

私も、中世から近世における朝廷の小番衆編成についてはひととおりの知識があるつもりだった。近習小番も名前だけは知っていたものの、幕末期にそのような重要な役割を果たしていたとは、ついぞ知らなかったので、大変勉強になった。

小番衆の内々と外様という区別は、天皇との人格的かつ空間的な距離の遠近を意味し、内々が外様よりも天皇に近く、詰める番所もより天皇に近い場所に設置された。

一方、近世になって設けられた近習小番は内々・外様よりもさらに天皇に近い場所に詰めるとともに、その勤侍形態が内々・外様の当番制と異なり、日常的に天皇と接していることが重要だと仙波氏は指摘する。つまり、天皇との日常的な接触が多いことこそ、朝廷の政務に関わる足がかりとなり、その結果、政治的な行動が多くなる。
逆に、従来の内々と外様の小番衆は幕末期、ほとんど天皇と接点がなくなり、制度そのものが形骸化する。その意味で、近習小番こそ、天皇の「近臣」だと位置づけられる。論文タイトルの「近臣」とは近習小番のことを指す。

それと同時に、幕末期は両役のなかでも、天皇と接する議奏の役割が武家伝奏に比して高くなる。そして、幕末における各種の事件にはこの議奏が関わっている。そして議奏は近習小番から選ばれるのである。ここに近習小番と議奏の親近性がある。

まあ、こうした制度上の位置づけはわかりにくいので、孝明天皇の近習小番となった主な堂上公家の具体名を出してみよう。

東久世通禧・大原重徳・三条実美・岩倉具視・千種有文・富小路敬直・柳原光愛・長谷信篤……

よく知っている名前がある。このうち、三条実美・東久世通禧は八・一八政変で都落ちした七卿のうちの二人である。そして、岩倉具視・千種有文・富小路敬直は和宮降嫁を推進したために、「四奸二嬪」として排斥されたうちの三人である。
失脚した者が多いのも、孝明天皇の信任厚い近臣ゆえだった。三条・東久世は孝明天皇の叡慮を過信・誤解したためであり、岩倉・千種・富小路は和宮降嫁が公式の朝議を経ずに孝明天皇との私的なルートで進められたことが、関白―両役などから反発されたためである。

個人的に興味深かったのは、「四奸二嬪」と和宮降嫁である。「四奸」のもう一人は久我建通(内大臣)であるが、四人とも村上源氏ゆかりの公家たちである。
とくに、久我は清華家で氏長者でもある。さらに内大臣に任官する前は議奏だった。仙波氏は和宮降嫁は岩倉よりも、むしろ、村上源氏の総帥である久我と、現任の議奏である中山忠能、正親町三条実愛の三人が推進の中心人物だったと指摘する。三人とも議奏経験者である点が共通する。

この指摘には目を開かされる思いだった。岩倉のほかに中山忠能・正親町三条実愛と並べば、慶応三年の討幕の密勅を作成し、署名した人物たちである。

いわゆる公武合体策といわれる和宮降嫁が、単なる幕府との協調策ではなかったと私は思っていたが、まさに天皇権威を高める戦略であり、それが慶応年間になって王政復古運動へと発展していくことが、人脈的にも跡づけられた思いがする。
何というか、頭の中でばらばらになっていたものがつながったという感じである。

仙波氏にはほかにも「『国事御用掛』考」(『日本史研究』520号、2005)などの論考もある。いずれにしろ、今後注目の研究者である。

【2006/11/21 19:39】 | 幕末維新
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今日はなぜか、来客、電話、FAXなどが多い日だった。

そのうちで書けるものを。

まず、てらこやの古文書講座、来年1月からの新講座の日程などが決まった。

開始は1/16で、以降いつものとおり隔週で、1/30、2/13、2/27、3/13の計5回である。

テキストはおそらく「寺村左膳道成日記」が終わらないだろうから、少し積み残すことになりそうだ。
土佐藩だけだと……という受講者もおいでかもしれないので、現講座の最終回にまたアンケートをお願いして、希望を聞いてみたほうがいいかも。

こちらとしては、寺村の日記はあくまで入口というかフィルターのつもりで、それを手がかりにして、慶応三年政局を多角的に理解していただけたらという狙いがある。そのために、寺村日記以外に他の日記や書簡をなるべく多く提示して、幅広く見聞を広げてもらったらと思っている。
が、その目論見が成功したかどうかはまだわからない。もうダメ出しされているかもしれない(爆)。

詳細は以下のサイトにあります(ただし、まだ未更新)。興味のある方はのぞいてみて下さい。

http://www.shopro.co.jp/komonjo/


次に、来年の大河がらみで、軍師論を書いてもらいたいという依頼が来た。それも歴史系ではなく一般誌からである。

先方の編集者の狙いは「軍師の虚実」論みたいなものだという。
たしかに、軍師については虚像が横行していると思う。狭義の軍師はやはり軍配師(あるいは軍敗師とも)に限定すべきで、いわゆる政治参謀を軍師の範疇に含めるのはどうかと思う、みたいなことを話したら、そういう話を書いてもらいたいとのこと。

さらに先方がなぜ軍師の虚像が広まったのかと質してきたので、おそらく太閤記の竹中半兵衛、もっといえば、三国志演義の伝来・普及と関係があるかもしれない、要するに、諸葛孔明の虚実がわが国の通俗的な軍師像形成に影響を与えているのではないかと答えたら、そういう観点を望んでいたと言われた。

羅貫中の三国志演義がわが国に伝わり、「通俗三国志」として上梓されたのが元禄時代。しかし、これは漢文調で難しかったらしく、それほど普及していない。本格的な普及はやはり天保年間の「絵本通俗三国志」からだろう。その時期は同じく羅貫中の「水滸伝」が伝来した頃でもある。

わが国で諸葛孔明が大衆レベルまで知られるようになったのは意外と遅いこと、またそれらで描かれた孔明の神秘的な軍師像が現代に至っても連綿と影響を与えているのではないかなど、縷々話したら、それでよろしくということになった。
思いつきでしゃべっただけなのに、果たしてまとめられるかな。少し心配になってきた。


最後に、某TV局の制作者が某歴史ドラマの考証について相談に来た。
とくに重要な役どころになるらしい某人物について、詳しく教えてほしいとのこと。
こちとらもそれほど詳しいわけではないが、手持ち史料などをある程度紹介した。すでにかなり詳しく調査しているようだった。一応、系譜類について、誤りやすい点について注意を促しておいた。
小生の昔の拙著まで購入してくれていて、かえって恐縮した。
結局、3時間くらい話しただろうか。

さて、期待半分、不安半分のドラマだが、どうなるのだろうか。

という具合で、肝心の仕事ができず、忙しい一日だった。


【2006/11/20 19:51】 | 雑記
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会員になっている織豊期研究会から会報『織豊期研究』8号が送られてきた。

収録論文などは以下のサイトにある。
http://133.67.82.117/frame.html

まだ全部目を通していないが、個人的な関心から天野忠幸氏の表題論文がなかなか興味深かった。

三好長慶が足利義晴・義輝を近江に逐って畿内政権を樹立しながら、永禄元年(1558)に将軍義輝と和睦した点について、従来、長慶の政治的敗北であり、統治権の正統性を獲得できなかったとされていた。

これに対して、天野氏は三好氏奉行人連署奉書の多くの事例を紹介しながら、将軍義輝の幕府奉行人連署奉書にも長慶の影響力が確保されており、将軍権力を形骸化することに成功し、必ずしも敗北でないと評している。

また長慶死後、三好政権(三好三人衆と松永久秀)が将軍義輝を暗殺した理由として、天野氏は将軍義輝が大名間抗争の調停など独自の活動を活発化させた点、また朝廷が三好氏の改元要請を却下するなど将軍権力を認めるようになった点に求め、これらのことから義輝擁立を放棄したとしている。

つまり、三好氏が義輝を操作できなくなったことが暗殺の背景であり理由であるという。とすれば、やはり義輝との和睦は三好氏の敗北の伏線だったことにならないのか。天野氏が果たして通説を克服できたのかという疑問が生じないわけではない。

それはさておいても、興味深かったのは、将軍義輝暗殺ののち、三好三人衆が阿波に在国していた足利義栄を代わりの将軍に擁立したとする通説を覆していることである。
私も、三好氏にとって畿内政権の正統性を担保するためには、将軍擁立(つまり傀儡将軍)が不可欠だという観念にとらわれていたが、天野氏は必ずしもそうではないという。

すでに、長慶の代から三好政権は将軍を必要とせず、直接天皇と結びつくことで政権を展開したとしている。将軍義輝暗殺後、三好氏は次の将軍候補を用意しておらず、三好氏単独の畿内支配を狙っていたと、天野氏は述べる。
足利義栄を擁立することになったのは、三好三人衆と松永久秀が分裂したことに起因するという。つまり、久秀が畿内を逃れた足利義昭を擁する畠山・上杉・織田と結んだため、三好三人衆がそれに対抗するために、義栄を擁立したとする。

私も将軍義栄を擁立したのは三好三人衆(久秀は含まず)だというのは理解していたが、三人衆が当初、将軍を擁立する予定はなく、自前の政権を樹立するつもりだったというのには意表を衝かれた。

個人的な関心でいえば、三好長慶と同三人衆が有した、政権形成のために将軍など要らないという政治観念は、本能寺の変を起こした明智光秀にも共通するのではないだろうか。

私は、光秀が将軍義昭を擁立しようとはせず、みずから天下人になろうとしていたと考えているが、光秀のそうした考え方がこの時代に特殊なものなのかどうか、何に由来しているのかという点について、ひとつの示唆を与えてくれるかもしれないと思う。

【2006/11/19 19:42】 | 戦国織豊
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司馬遼太郎

週刊朝日編集部の村井重俊さんから表題のムックをいただいた。
ご恵贈、感謝。
村井さんはずっと司馬さんと親しいお付き合いがあった人で、週刊朝日で続いている司馬さんとその作品にまつわる長期連載もご存じの方も多いと思う。

私にとっての司馬遼太郎といえば、高校時代に読んだ『国盗り物語』と、社会人になってから読んだ『翔ぶが如く』に尽きる。

今もって、『竜馬がゆく』も『燃えよ剣』も読んでいないし、今年の大河の原作『功名が辻』も読んだことがない。とくに前二者を読んでいないというと、よくそれで……という目で見られる(笑)。

いただいたムックは非常にきれいで、よくまとまっている。
安野光雅氏の挿絵も素敵だ。作品の登場人物をTVや映画で演じた役者さんたちのインタビューもたくさん載っている。

個人的に、ハッと思った1枚の写真がある。
司馬さんが京都・黒谷の会津藩士の墓地を訪れている写真だ。
非業の最期を遂げた同藩士柴司の墓の後ろに司馬さんが佇んでいて、視線が下に落ちている。おそらく墓碑銘を読んでいるのだろう。

何に驚いたかというと、会津藩墓地に背の高い雑草が生い茂っていること。
撮影年次が1962年とある。もう40年以上前だ。
司馬さんがコートを着ているから、晩秋から冬の季節だろう。夏ならともかく、その時季にこれほどの雑草が繁茂しているというのは、世話する人もほとんどいなかったのだろう。

今でこそ、この地は訪れる人々が多く、今春私が参詣したときも、会津藩墓地はきれいに清掃が行き届いていた。

40年以上前にこの地はそれほど顧みられることがなかったのだなと、実感した。
大げさにいえば、時代の移り変わりというか、日本人の価値観の変化を感じさせる写真だった。






【2006/11/18 22:08】 | 雑記
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橋場
司馬さんが「王城の護衛者」を発表したのが’68年ですね。
幕末、会津への世間の関心を呼び覚ます一石を投じた司馬さんは、その6年前に何を思って墓碑銘に向かっていたのでしょうか。

嗅覚
桐野
司馬さんが会津藩に着目したのは、今から考えると、先見性があったかもしれませんね。薩長(とくに長州)にばかり見ていた研究者とは異なる、独特の嗅覚があったのではないでしょうか。


先見性
吉田松陰大好き
これを持つ人が大好きです。本人は周囲より先を行くものだから、理解を得るのに時間がかかり、様々な苦難もあった事でしょう。'07,1/6,7放送の『白虎隊』を見て、今まで「倒幕派が好き」と表現してきましたが、もう止めようと決心しました。歴史は勝者に光を当てがちで、敗者は本当に影になってしまう。会津の人々は自国や殿を誇りに思っており、子供から老人まで命を惜しまず戦った。トップの容保公がプライドを捨てづらい気持ちも分かるけど、会津の犠牲は大き過ぎます。倒幕派は、山で自刃した隊士の亡骸を1年以上も引き取ったり、葬る事を許さなか

続きです
吉田松陰大好き
許さなかった様だし、親の苦しみは想像を絶する。会津が倒幕派に落ちた後の事は詳しく知らないが、敗者となった以上、大抵の予想は付きます。ドラマの会津の人間模様は人道主義に反しておらず、ただ立場が逆なだけで、倒幕派の人道主義に反する行いは、その後、長い間恨まれても仕方無いでしょう。新しい時代の幕開けは大変悲痛です。悲痛な歴史を繰り返してはいけないと、よく言うけれど、生活に密着してないと忘れがちなので、本当に歴史をどう学ぶべきか考えさせられます。勝敗で見ず、過程も見ながら、両者の個性や精神性等を理解したいです。

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もうひとつの明治維新


幕末維新史についてユニークで斬新な議論を提起しているパルティアホースカラーさんのブログで教えていただいた新刊情報の一冊である。
とても面白そうだったので、速攻でネットから取り寄せた。

一会桑権力論で有名な家近良樹氏が編者となった論文集で、若手気鋭の研究者の八本の論文が収録されている。帯の惹句も面白い。

「長州藩「俗論派」、薩摩藩反討幕派、中立諸藩、下級公家……
薩長討幕派中心の歴史ではなく、沈黙させられた勢力の側から幕末史を再構成。いま、明治維新の新たな姿を提示する!」

今日届いたばかりなので、とても全部に目を通していないが、私がもっとも読みたかったのは次の論文である。

高橋裕文「武力倒幕方針をめぐる薩摩藩内反対派の動向」

慶応三年(1867)の大政奉還や王政復古政変は、討幕運動の展開過程に位置づけられていた。これは多分に明治維新の主導勢力が薩長両藩だったことに由来する。

私も折に触れて書いたことがあるが、じつは討幕のご本家のはずの薩摩藩内には討幕慎重派や反対派がかなりの勢力を占めていたことはあまり知られていない。
知っている名前を挙げただけでも、島津久治(久光二男)・関山糺(家老)・町田久成(大目付)・新納嘉藤二(大久保一蔵親戚)・高崎五六・高崎正風・奈良原繁・中井弘などがいる。

これらの討幕反対派の存在が、討幕派である西郷吉之助・大久保一蔵・小松帯刀らの動向にどのような影響を与え、それが慶応三年後半の政局にどう作用したかというのが、高橋論文のポイントである。

既知の事柄が多かったが、興味深かったのは、慶応三年五月の四侯会議解体ののち、在京薩摩藩重役の間で、公式的には武力討幕ではなく幕府権力削減のための軍事圧力方針(限定的動員と武力不行使)を定めながら、その裏でひそかに武力討幕挙兵計画が練られていたという事実である。
前者の公式方針は在京重役が勢揃いして確認し、藩主父子に認可してもらい正式決定するはずだった。ところが、秘密の挙兵計画の存在が洩れたために、在京重役の討幕反対派(関山糺ら)が小松帯刀を問いつめるという事態に発展し、在京薩摩藩は真っ二つに割れるという状況になってしまったという。このあたりはほとんど知られていないことだろう。

この秘密の挙兵計画を練ったのは、やはり西郷と大久保だと思う。これに伊地知正治・吉井幸輔・黒田了介(のち清隆)あたりが噛んでいた感じだ。西郷・大久保らは公式方針に基づいた国許からの兵力増員をそのまま討幕挙兵に転用しようと考えていたのだろう。
黒田了介の書簡によれば、大坂城を大砲で攻撃して占拠し、かつ京都でも挙兵するという計画だったようだ。

もうひとつ気になったのは、大政奉還後の小松帯刀の動向である。小松は西郷・大久保と並ぶ討幕派の巨頭だったが、高橋氏は、小松は大政奉還後に土佐の後藤象二郎に接近して公議政体派に転じた、すなわち、三人組の結束が乱れて分裂したと結論づけている。とくに小松の上京を阻止したのは大久保だったという見方がまことに興味深い。
じつは、このときの薩摩藩の藩論統一に関わる史料は非常に少ないのだ。そのなかで、これは大きな問題提起といえそうだ。

以前、某会で小松の「足痛」の話をしたことがある。大政奉還後、討幕の密勅を持参して、西郷・大久保・小松は帰国するが、小松は足痛のため上京できずに、代わりに大久保が土佐経由で上京したといういきさつがある。

小松の足痛は事実だった。起居もままならないくらいの重症だったようだ。その病状は痛風か糖尿病か脚気かと推測してみたほどである。

しかし、小松の足痛が小松の謹慎の口実に使われたとすれば、やはり無視できない。土佐藩側の史料では、後藤が小松の上京がなかったのは失脚して桜島に蟄居させられているからだと観測していたが、それは満更でもなく、小松が桜島の古里温泉で療養していたのは小松自身の書状で確認できる。

小松が上京しなかったのは、単なる足痛か、それとも政治的理由か、さらに追究する必要がありそうである。

筆者の高橋氏はどこかで聞き覚えのある名前だなと思っていたら、幕末水戸藩における農民の反封建闘争を見事に描いた『幕末水戸藩と民衆運動』(青史出版)の著者だった。天狗党と諸生党の党争のはざまにある農民たちの動向を足を使って地道に調べ上げた力作だった。
それが一転して、薩摩藩関係の論文を書いた事情も知りたい。

同書には、ほかにも興味深い論文がある。幕末維新史研究の最前線がよくわかる好著といえよう。

家近良樹編『もうひとつの明治維新――幕末史の再検討』
有志舎 2006年10月刊 A5版 5000円

【2006/11/18 00:18】 | 新刊
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パルティアホースカラー
こんにちは。
ユニークで斬新などと評価していただいて、いささか恐縮しております。ありがとうございます。

慶応三年後半の小松の評価は難しいですよね。一方で後藤と協力して大政奉還を推進しているように見えますし、他方で討幕の密勅の請書にも名前を連ねていますしね。今後、議論が必要そうな問題ですね。

私は未読なので詳細不明ですが、高橋裕文氏は、茨城県立東海高等学校の『紀要』第6号(1999年)に、「幕府崩壊過程における諸勢力のダイナミズム(三)‐徳川慶喜の大政奉還をめぐって‐」という論文を書いているようです(家近良樹氏の著書『徳川慶喜』の参考文献に載っていました)。
もしかしたら、もともと慶応三年の政局に興味があったのかもしれませんね。

小松帯刀失脚説について
桐野
パルティアホースカラーさん

さっそくのコメント有難うございます。

慶応三年後半政局における小松の立場はおっしゃるように微妙ですよね。
今回の高橋論文の小松に対する評価について、とくに鹿児島帰国後、失脚して上京を差し止められたという点には、少し疑問があります。

高橋氏は慶応三年十一月の薩摩藩の率兵上京が禁裏守衛という目的であることは否定していません。
つまり、名目は討幕ではないかもしれませんが、藩主茂久みずからの率兵上京は藩論として決定されています。これは藩内に討幕出京ではないという触れまで出していますから、少なくとも土佐藩あたりに近い公議政体論的な立場での率兵上京です。

そうであれば、むしろ、小松の立場と主張に合致するわけで、小松の失脚というのはおかしくなりますね。

おそらくこのときの率兵上京は、情勢次第で公議政体派と長州藩のどちらとでも連携できるように目的を曖昧にしたものでだったのではないか。
それによって、討幕派とその反対派の対立・分裂を弥縫して藩論を辛うじて統一することができたのではないかと思われます。

したがって、小松失脚とまではいえないのではないかという感触があります。
もう少し議論を詰めてみる必要がありそうですね。

高橋氏はすでに大政奉還あたりの論文を書かれていたのですね。そうした問題意識をお持ちだったのなら、今回の論文の執筆動機もわかります。
ご教示有難うございました。

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江戸のくずし字いろは入門


友人の菅野俊輔氏がくずし字の入門書を刊行した。
ご恵贈、感謝。

菅野氏は小学館アカデミーの古文書塾てらこやの同僚講師。
往来ものやくずし字の入門講座などを担当している。

http://www.shopro.co.jp/komonjo/

今回の本は、くずし字でも、もっとも基本である変体仮名の習得に焦点をあてたもの。とくにタイトルに「書いておぼえる」とあるように、鉛筆やペンでなぞって覚える仕組みになっているのがユニークだ。
最近、百人一首や奥の細道の筆写が流行っているが、その延長線上にある本といえるかもしれない。
「いろは」を一から書き写すことで、指先から脳細胞に刻み込まれる効能は大きいのではないかと思う。江戸時代の寺子屋にタイムスリップした気分で、いろはから習ってみるのもいいかも。とくに古文書を原文で読んでみたいと思っている人には、先生がいなくても基礎から学べるのがうれしい。

古文書を読みたい人は多いはずだが、くずし字という高いハードルのため、二の足を踏んでいる人もまた多いと思う。
また、初心者がくずし字を習得するためのノウハウが確立しているとも言い難い。これは経験者の実感でもある。著者が初心者向けのくずし字講座の講師であり、その経験から編み出されたノウハウは貴重であり、本書にもそれが反映していると思う。

変体仮名は数が多い。私なんかも物忘れが激しいせいか、あまり使用頻度が高くないものはよく忘れる。「ほ(本)」と「ふ(不)」の区別がつかなかったりもする。

変体仮名を学ぶと、それを覚えられるだけでなく、漢字への応用が利くという意味でも、非常に有効な勉強法だと思っていた。
だから、本書の着眼は素晴らしいと思う。この本を手にして、一人でも多くの人が古文書に興味を持ってくれたらうれしい。

菅野俊輔『書いておぼえる江戸のくずし字いろは入門』
柏書房刊、2006年
http://www.kashiwashobo.co.jp/


【2006/11/17 00:25】 | 新刊
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友人の松本和也氏が『歴史評論』最新号(680号)に「宣教師史料から見た日本王権論」という意欲的な論文を発表した。

日頃から、『イエズス会日本年報』などのイエズス会関係の刊本が良質な原典に拠っていないことを批判していたし、王権論にも関心を示していたから、年来の所論をまとめたようで、喜ばしい。

松本論文では、イエズス会宣教師が日本の「王権」をどのようにとらえていたかを、「rei」と「Vo」という、「王」を意味する二つの用語に基づいて詳しく展開している。しかも、ザビエル来日以来、宣教師たちの日本王権認識が深化し、二つの用語にも用法の変化が出てくるなど興味深い点を指摘している(前論文でも触れられていた)。

とくに、「rei」が「王」一般を意味し、天皇・足利将軍・統一権力(信長・秀吉)だけでなく、戦国大名にも用いられていることを明らかにしている。宣教師が戦国大名を「王」(小王権)と見たことは、近年、日本側研究者の間で盛んになった戦国大名の地域国家論とも合致しているとする。

そして、松本論文では、大王権(天皇・足利将軍・統一権力)と小王権(大名)による重層的な王権構造になっている点を指摘している点が意義深い。そして、上部王権ともいうべき大王権の構成や性格が戦国期までの「名誉的な」ものから、「天下」の登場による実質権力(いわゆる統一権力論と合致する)へと変化・移行するとする。
また日本の「大王権」には、二人の「王」がいたと見るべきではないかとも指摘する。つまり、天皇と統一権力の「王」たち(信長・秀吉・徳川将軍)である。

個人的に面白かったのは、「Vo」の意味である。これは「オー」と発音し、日本語の「オー(王)」がポルトガル語表記されたもので、宣教師が日本語の「王」を意識した語だという。しかも、「Vo」とは「rei」の「王」一般と異なり、天皇を指す言葉だという。前近代における日本語の「王」が天皇を指していたことと符合するというのだ。

そのことと関連して非常に面白かったのは、東アジア巡察使のヴァリニャーノが著した『日本巡察記』にある有名な信長の言葉である。天皇への謁見を求めたヴァリニャーノに対して、信長がそれには及ばないと述べたときのものだ。

「予は国王であり、内裏である」

これは誤訳だと、松本論文は指摘する。
『フロイス日本史』で松田毅一氏が注釈したように、正確には「予は(天)皇であり、内裏である」と訳すべきだという。原文では「国王」の部分が「Vo」になっているからである。

じつに面白い。
そのまま理解すれば、信長が自分は天皇だと語ったということになる。
となると、またぞろ信長の皇位簒奪だとかの早とちりの議論を誘発しそうだが、そうではないだろうと思う。信長はおそらく統一権力のなかに天皇も含めており、すなわち「大王権」の主宰者が自分であるという意味合いで使っているのではないか。

宣教師が価値づけした日本王権論は日本の研究状況とも合致している面が多く、今後、日本特殊論から脱却して、ヨーロッパやアジアとの比較王権論が可能であると、松本論文は締めくくる。
今後の展開が楽しみである。

【2006/11/16 10:47】 | 信長
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「予が天皇である」
板倉丈浩
はじめまして。板倉と申します。
王権論は私も感心があってちょっと調べたことがあるのですが、確かにヨーロッパのキリスト教と封建国家の分析には有用なんでしょうけど、これを日本に適用しようとすると、各論者が言っていることがバラバラすぎますし、あまりうまくいっていないような気がします。

さて、問題の信長発言ですが、「内裏」も天皇のことなんで、「王(皇)」の解釈がどちらであっても信長が自分は天皇だといったのは間違いないと思われます。
この発言の背景ですが、当時の天皇は宣教師追放の綸旨を出すなど宗教統制権を保持しており、宣教師たちは天皇による布教許可にこだわっていたということがあります。
いくら信長といえども叡慮には敬意を払わざるを得ないため、キリシタンに好意的でない天皇と宣教師を会わせたら面倒なことになる、という現実的な問題から出てきた遁辞であって、あまり深い意味はないのかなあ・・・というのが私の印象です。

予が天皇である
桐野
板倉さま
はじめまして。
もしかして以前、ニフティとかでやりとりしたことがありませんでしたっけ?

コメント有難うございます。
「王権論」については、日本史研究者の間で定義の混乱があるのはたしかですね。「公儀」とか「国家」など別の言葉に置き換えてもさほど支障がない使い方をしている例があります。
松本論文は、それらを意識して、ある程度、「王権」の定義を絞り込んでいるように思われます。

それと、宣教師追放の綸旨ですが、おそらく永禄末年に、朝山日乗らの進言によって出されたことを指摘されたと思われます。
あのときは、フロイスらが信長に綸旨の撤回を懇願したので、信長は「汝らは気にするに及ばぬ。好きなようにてよい」という趣旨を述べて、信長は綸旨を否定しております。
信長の意向は天皇の綸旨や将軍の御内書よりも優越していたというのが実態だったろうと思います。
さらに、その後、イエズス会は信長の許可と支援により、洛中に南蛮寺をつくりました。
したがいまして、信長の意向が綸旨に優越しているのは明らかであり、天皇の宗教統制権が実際に機能したとは思えません。また、そうした権限を天皇がもっていたのかという根本的な疑義さえあるのですが、いかがでしょうか。






板倉丈浩
こんにちは。

>もしかして以前、ニフティとかでやりとりしたことがありませんでしたっけ?

ありゃりゃ。これは大変失礼しました(汗)
このハンドル、あちこちで使い回しているのですが・・・歴史部屋でしょうか。
いろいろ駄文・雑文・乱文を書き散らして、失礼なレスもあったとは思いますが、この場を借りてお詫び申し上げますm(_ _)m

>松本論文

意欲が行間からあふれ出てくるような論文で、好印象を受けました(^^
ただ、西洋人が王と呼んでいるから王権かというと、そうでもないんじゃないかなあと思っています。
西洋史だと、「王権」に対するのは「教皇権」や「封建的諸特権」であり、国王への権力集中のシステムが「王権」だったという理解をしているんで、違和感をどうしても感じてしまうのです。

>宣教師追放の綸旨

これは将軍義輝暗殺直後の永禄8年7月にも出されていて、宣教師は実際に京都を追い出され、堺に逃れています。その後、永禄12年4月に義昭・信長から相次いで京都居住の許可が出された後に、ご指摘の追放綸旨が発せられたのです。
また、信長が宣教師に「気にするな」と言ったのは事実でしょうが、その少し前で、信長は日乗に対して「全ては全日本の君である内裏に御一任する」と回答したとされていますから(フロイス日本史)、明確に綸旨を否定するというより、うまくごまかしたという感じです。

>天皇の宗教統制権

宣教師による天皇への面会希望が、天正9年の京都馬揃えという、まさに信長の絶頂期に出されている点が重要です。信長の「自分が天皇だ」という回答に、宣教師側はとうてい納得できなかったものの、信長の性格を考えてあきらめたとしており、外国人の目から客観的に見て、天皇の影響力は絶大であるという意識があったのだと思います。

宗教統制権の所在
桐野
板倉さん、またコメント有難うございます。

松本論文も、誰かが「王」と呼ばれているから、「王権」という単純な議論ではないと思います。日本に「王権」が存在するなら、その構造や構成はどのようなものかを明らかにしようとしているように読めました。

>これは将軍義輝暗殺直後の永禄8年7月にも出されていて、宣教師は実際に京都を追い出され、堺に逃れています。

周知のように将軍義輝はキリシタンに寛容でしたから、この綸旨は義輝暗殺後の反動でもあったと思います。なお、信長上京以前の出来事ですから、信長が関知しないことですが。

キリシタン追放の綸旨の効力はやはり信長の権力の前には無力に等しかったと思います。京都・堺での南蛮寺の建立、安土でのセミナリオ建設など、信長のその後のキリシタン保護政策の展開は、朝山日乗の意図とは逆の形で既成事実化されています。これは綸旨の事実上の否定であり、それを信長が正面切って宣言しなかったのは朝廷の体面に配慮したからだと思います。

>宣教師による天皇への面会希望が、天正9年の京都馬揃えという、まさに信長の絶頂期に出されている点が重要です。

これは同年にたまたま東アジア巡察師のヴァリニャーノが来日したからでしょう。彼はイエズス会ではインド以東でもっとも高位の宣教師です。ですから、信長もしかるべく遇して、馬揃えの見学も許したのだと思います。
ヴァリニャーノは、日本に「rei」と「Vo」という二種類の「王」がおり、「rei」はたくさんいるが、「Vo」は天皇一人しかおらず、しかも、宣教師のみならず、ほとんどの日本人がまだ見たことがないという神秘的な存在に漠然とした興味を抱いて、イエズス会の代表として挨拶しておくべきだと考えたのではないでしょうか。
信長がそれを断ったのはご推察のとおりだと思います。

>外国人の目から客観的に見て、天皇の影響力は絶大であるという意識があったのだと思います。

上記で述べたように、これは天皇が「Vo」という他の「王」と異なる格別の存在だったからではないでしょうか。ただ、その影響力が絶大だったことと必ずしもイコールではなかったような気がします。
たとえば、天正三年(1575)、常陸の天台宗と真言宗の間で絹衣相論という両宗派の地位の高低をめぐる訴訟がありました。最初、綸旨が発せられますが、まったく効力がなく、挙句は一方の取次の公家が買収されて綸旨の改竄までする始末で、綸旨の権威も何もありません。結局、朝廷が解決できなかったために、信長のところに訴訟が持ち込まれ、信長の裁定によって決着しました。
ことほど左様に、[宗教統制権」の所在が奈辺にあるか、明らかだと思います。この問題については以下の論文が参考になります。
堀新「織田信長と絹衣相論--関連史料の整理と検討」(『共立女子大学文芸学部紀要』51号、2005年)

いずれにせよ、「王権」をどうとらえるか難しいですね。西洋で確立した概念と、わが国の実態をどのように整合させるのか、理論的作業と史料的検討の双方が要求されそうです。



板倉丈浩
桐野さん、レスありがとうございます。

>日本に「王権」が存在するなら

ここが本当にポイントなんですが、松本論文は宣教師が王と呼んでいる事実の指摘に止まっているのが残念でした。「宣教師は自国の王との共通性を見い出していたはずである」と言われても、そうかなあ・・・って感じで。

>信長のその後のキリシタン保護政策の展開

仰るとおりなんですが、ただ「既成事実化」や「朝廷の体面に配慮」ということからして、この問題をウヤムヤにしたい、棚上げにしたいという信長の政治的意図があり、その延長線上で「予が天皇」という遁辞を弄するに至ったのではないでしょうか。

>神秘的な存在に漠然とした興味を抱いて

興味本位というのはどうでしょう?
実際に信長の機嫌を損ねていますし、ヴァリニャーノにしてはちょっと軽率すぎる気がしますが…。

>絹衣相論

むしろこういう案件は朝廷で処理すべきという一般的認識があったからこそ、当初は朝廷に解決が求められたのであり、イレギュラーな事例だと思います。

>理論的作業と史料的検討の双方が要求されそうです。

まったくそのとおりですね。
ここは松本氏が論文の最後で述べている「日本王権論を比較王権論として発展させたい」という言葉に期待したいところです(^ ^

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幕末土佐藩参政の寺村左膳の日記を読む。今回で2回目だ。

時期は慶応3年(1867)4月から5月。
いわゆる四侯会議が行われた時期だ。
はっきりいって、寺村の日記はこのあたりはトロい。本人が病気だったりして、どうも事態を正確に把握していないのではないかと思われる。
『大久保利通日記』『続再夢紀事』『伊達宗城在京日記』など、残りの三侯関係の史料が充実している。

四侯は徳川慶喜と対決するつもりだったはずだが、二条城で会見したのち、一緒に写真を撮ったりと、ちと緊張感に欠ける感じ。
この四侯を撮影した写真を資料としてレジュメに載せようとしたが、手持ち資料では探せなかった。
あとで受講生の方から越前藩が所蔵していると教えてもらった。立場が逆だな(笑)。この写真を使用できたら、もう少し受講生の皆さんの関心も増したかもしれない。残念。

あと、日記中に出てきた「三条若君様」の比定を間違えたかもしれない。
三条実美がまだ太宰府にいるから、正親町三条実愛の子どもではないかと想定してしまった。早合点だったかも。正親町三条なら、正親町をちゃんと付けるか、「正三」などの略字を使う場合が多い。

それに、「三条若君様」と山内容堂の娘と思われる「光姫」の縁組が予定されているわけだが、容堂の正室は三条実万(さねつむ、実美父)の養女(烏丸光政長女)だったのを忘れていた。この姻戚関係から、山内家と三条家との再縁が実現しそうだったとみたほうがずっと自然だ。

もっとも、「三条若君様」が三条実美の転法輪家だとすれば、誰が該当するのかも難しい。「光姫」が当年10歳だから、年齢的にそれに釣り合う若君でなければならない。
おそらく該当するのは一人だけだろうか。
実美の実弟ですでに亡くなっている公睦(権中納言)の二男に公恭がおり、実父が没したためか、当時子どもがなかった実美の養子になっていた。
公恭は嘉永6年(1853)生まれだから、当年15歳。「光姫」とぴったり釣り合うと思う。

もっとも、この縁組は実現しなかったと思われる。講義でもやったように、「光姫」は北白川宮能久親王(いわゆる輪王寺宮)に嫁いでいるからだ。
破談の理由は推測するに、おそらく実美に実子公美が誕生したせいではないだろうか。

う~ん。どうも次回訂正だな(爆)。

講義日の当日に泥縄的にレジュメや注をまとめたので、詰めが甘かったようだ。これからはせめて前日から取りかかったほうがいいかも。




【2006/11/15 00:50】 | てらこや
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まいたけ君
ブログ開設、おめでとうございます。

てらこや講座では、毎回、お勉強をさせていただき、ありがとうございます。

土佐山内家と三条家との姻戚関係、それがありましたね。そうすると、5月朔日の伏見での信受院との対面も、縁組みに関する話があってのことかもしれませんね。
また、この縁組みは、長州処分のあとに控える、五卿戻しの政治工作の一環ではないかとの深読みもできそうで面白いですね。

四侯の写真は、四侯それぞれが持っているのかもしれませんが、越前福井では、その写真を並べた小型の衝立てが、よく展示されていました。写真が載ってる図録、探してみますね。

どうも
桐野
まいたけさん

コメント有難うございます。
また講義ではお世話になっています。

山内家と三条家との縁組はいろんな意味合いが考えられそうですね。
なるほど、三条実美の帰洛後のことまで考えていたとしたらすごいですね。

例の四侯の写真、福井市郷土資料館だったかの図録に載っているかもしれないと思って探したのですが、図録がまだ見つけられておりません(泣)。
あと幕末の古写真集(小沢健志氏とか)も2点見てみましたが、載っていませんでした。たしかに見た記憶があるのですが、いざ探すとなると出てこないものですね(笑)。


四賢侯肖像写真衝立
まいたけ君
図録では見つかりませんでしたが、『松平春嶽のすべて』の173ページに、不鮮明ですが、「四賢侯肖像写真衝立』の写真が載っていました。
はっきりとはわかりませんが、撮影場所が同じように見えますので、これがそのときの写真ではないでしょうかね。


桐野
に載っていますか。有難うございます。
たしか、この本もっていたと思うのですが、まだ探せないでいます。どこにしまいこんだのか。


まいたけ君
桐野さんがお持ちの本で、衝立てのカラー写真が掲載されている本を見つけました。『山内家史料/幕末維新』第六編の口絵に「四侯会議記念写真」として載っています。箱書き(?)にその解説も書かれています。ご確認してみてください。

ありました!
桐野
まいたけさん

さっそく見てみました。
日頃、口絵など見る余裕がなかったもので、見逃しておりました。というか、この本に口絵が付いていたなんて、とんと気づきませんでした。

若干ぼやけてますが、カラーですし、四侯が横に勢揃いしていますし、ちゃんと解説文の写真も入っておりますね。

本当に有難うございました。
次回講座でみなさんに紹介したいと思います。
もしかして、あれこれ探していただいたのではないかと恐縮しております。感謝です。


まいたけ君
福井市立郷土歴史博物館『名品選』(平成16年3月発行)に、『山内家史料』より鮮明な写真が載っていました。とはいっても、写真の上に書いてある文字がはっきり読める程度で、殿様たちの顔ははっきりわかりません。資料解説によれば、撮影したのは横田彦兵衛という人のようです。次回講座に持っていきますね。

御礼
桐野
わざわざ福井まで手配していただき有難うございました。さっそく講座でみなさんに回覧して見ていただきましょう。


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今日からブログを始める。

タイトルがちょっと難しいかな?
趣味が高じて、ついに仕事になってしまった、という思いを込めて。

ブログを始める気になったのは、この一年ほど四苦八苦していた仕事がようやく一段落したから。
本能寺の変について、五年ぶりに何とかまとめることができた。
書きたいことの八割程度は書けたと思っている。
本当は三職推任などについても書きたかったが、分量が相当オーバーしていたし、屋上屋を重ねてもと、思い切って割愛した。
手前みそだが、完成度は前著『真説・本能寺』より高いと思っている。

とくに目玉は、光秀が謀叛を起こす三日前の書状。
有名な愛宕百韻当日に書いたものだ。
その書状から何が言えたか、乞うご期待というところ。

ほかにも、三七信孝が丹波国侍に宛てた書状(人見文書)の偽文書説について反論し、その意味づけをしてみた。
天正十年閏月問題などにも新しい解釈をしてみた。
他の黒幕諸説にも批判を加えてみた。

刊行は年明けになりそうだ。

【2006/11/13 23:57】 | 雑記
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ときは今
ひの字
桐野さんブログ開設おめでとうございます。

>とくに目玉は、光秀が謀叛を起こす三日前の書状。
これは、うーん。
何が飛び出してくるのかワクワク。(^。^)

刊行、楽しみにお待ちしています。


光秀書状
桐野
ひの字さん

初コメント有難うございます。
光秀書状はこれまで明らかになっていなかったもので、初公開だと思います。
山陰の豪族に宛てたものです。
お楽しみに。

ご確認ください
かわい
 ブログ開設、おめでとうございます。
 当方のリンクに追加させていらだきましたので、お立ち寄りの際にでもご確認くださいませ。
 新刊、楽しみにさせていただきます。

確認しました
桐野
かわいさん、コメント有難うございます。

さっそく確認しました。こちらも張りたいのですが、まだ勉強中です。もう少しお待ち下さい(笑)。

新刊が出ましたら、また感想をお聞かせ下さいませ。


慶祝
橋場
遅ればせながら参上致しました。
新刊を早く拝読したくてもう三度の飯も四度になる程悩ましい思いでおります。

御礼
桐野
橋場殿下
さっそくのご挨拶痛み入ります。
殿下の肥満が心配なので、拙著を早く出さないといけないですね。
キャベツを食べたらダイエットにいいですよ。

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