幕末土佐藩参政の寺村左膳の日記を読む。今回で2回目だ。
時期は慶応3年(1867)4月から5月。
いわゆる四侯会議が行われた時期だ。
はっきりいって、寺村の日記はこのあたりはトロい。本人が病気だったりして、どうも事態を正確に把握していないのではないかと思われる。
『大久保利通日記』『続再夢紀事』『伊達宗城在京日記』など、残りの三侯関係の史料が充実している。
四侯は徳川慶喜と対決するつもりだったはずだが、二条城で会見したのち、一緒に写真を撮ったりと、ちと緊張感に欠ける感じ。
この四侯を撮影した写真を資料としてレジュメに載せようとしたが、手持ち資料では探せなかった。
あとで受講生の方から越前藩が所蔵していると教えてもらった。立場が逆だな(笑)。この写真を使用できたら、もう少し受講生の皆さんの関心も増したかもしれない。残念。
あと、日記中に出てきた「三条若君様」の比定を間違えたかもしれない。
三条実美がまだ太宰府にいるから、正親町三条実愛の子どもではないかと想定してしまった。早合点だったかも。正親町三条なら、正親町をちゃんと付けるか、「正三」などの略字を使う場合が多い。
それに、「三条若君様」と山内容堂の娘と思われる「光姫」の縁組が予定されているわけだが、容堂の正室は三条実万(さねつむ、実美父)の養女(烏丸光政長女)だったのを忘れていた。この姻戚関係から、山内家と三条家との再縁が実現しそうだったとみたほうがずっと自然だ。
もっとも、「三条若君様」が三条実美の転法輪家だとすれば、誰が該当するのかも難しい。「光姫」が当年10歳だから、年齢的にそれに釣り合う若君でなければならない。
おそらく該当するのは一人だけだろうか。
実美の実弟ですでに亡くなっている公睦(権中納言)の二男に公恭がおり、実父が没したためか、当時子どもがなかった実美の養子になっていた。
公恭は嘉永6年(1853)生まれだから、当年15歳。「光姫」とぴったり釣り合うと思う。
もっとも、この縁組は実現しなかったと思われる。講義でもやったように、「光姫」は北白川宮能久親王(いわゆる輪王寺宮)に嫁いでいるからだ。
破談の理由は推測するに、おそらく実美に実子公美が誕生したせいではないだろうか。
う〜ん。どうも次回訂正だな(爆)。
講義日の当日に泥縄的にレジュメや注をまとめたので、詰めが甘かったようだ。これからはせめて前日から取りかかったほうがいいかも。