
幕末維新史についてユニークで斬新な議論を提起しているパルティアホースカラーさんのブログで教えていただいた新刊情報の一冊である。
とても面白そうだったので、速攻でネットから取り寄せた。
一会桑権力論で有名な家近良樹氏が編者となった論文集で、若手気鋭の研究者の八本の論文が収録されている。帯の惹句も面白い。
「長州藩「俗論派」、薩摩藩反討幕派、中立諸藩、下級公家……
薩長討幕派中心の歴史ではなく、沈黙させられた勢力の側から幕末史を再構成。いま、明治維新の新たな姿を提示する!」
今日届いたばかりなので、とても全部に目を通していないが、私がもっとも読みたかったのは次の論文である。
高橋裕文「武力倒幕方針をめぐる薩摩藩内反対派の動向」
慶応三年(1867)の大政奉還や王政復古政変は、討幕運動の展開過程に位置づけられていた。これは多分に明治維新の主導勢力が薩長両藩だったことに由来する。
私も折に触れて書いたことがあるが、じつは討幕のご本家のはずの薩摩藩内には討幕慎重派や反対派がかなりの勢力を占めていたことはあまり知られていない。
知っている名前を挙げただけでも、島津久治(久光二男)・関山糺(家老)・町田久成(大目付)・新納嘉藤二(大久保一蔵親戚)・高崎五六・高崎正風・奈良原繁・中井弘などがいる。
これらの討幕反対派の存在が、討幕派である西郷吉之助・大久保一蔵・小松帯刀らの動向にどのような影響を与え、それが慶応三年後半の政局にどう作用したかというのが、高橋論文のポイントである。
既知の事柄が多かったが、興味深かったのは、慶応三年五月の四侯会議解体ののち、在京薩摩藩重役の間で、公式的には武力討幕ではなく幕府権力削減のための軍事圧力方針(限定的動員と武力不行使)を定めながら、その裏でひそかに武力討幕挙兵計画が練られていたという事実である。
前者の公式方針は在京重役が勢揃いして確認し、藩主父子に認可してもらい正式決定するはずだった。ところが、秘密の挙兵計画の存在が洩れたために、在京重役の討幕反対派(関山糺ら)が小松帯刀を問いつめるという事態に発展し、在京薩摩藩は真っ二つに割れるという状況になってしまったという。このあたりはほとんど知られていないことだろう。
この秘密の挙兵計画を練ったのは、やはり西郷と大久保だと思う。これに伊地知正治・吉井幸輔・黒田了介(のち清隆)あたりが噛んでいた感じだ。西郷・大久保らは公式方針に基づいた国許からの兵力増員をそのまま討幕挙兵に転用しようと考えていたのだろう。
黒田了介の書簡によれば、大坂城を大砲で攻撃して占拠し、かつ京都でも挙兵するという計画だったようだ。
もうひとつ気になったのは、大政奉還後の小松帯刀の動向である。小松は西郷・大久保と並ぶ討幕派の巨頭だったが、高橋氏は、小松は大政奉還後に土佐の後藤象二郎に接近して公議政体派に転じた、すなわち、三人組の結束が乱れて分裂したと結論づけている。とくに小松の上京を阻止したのは大久保だったという見方がまことに興味深い。
じつは、このときの薩摩藩の藩論統一に関わる史料は非常に少ないのだ。そのなかで、これは大きな問題提起といえそうだ。
以前、某会で小松の「足痛」の話をしたことがある。大政奉還後、討幕の密勅を持参して、西郷・大久保・小松は帰国するが、小松は足痛のため上京できずに、代わりに大久保が土佐経由で上京したといういきさつがある。
小松の足痛は事実だった。起居もままならないくらいの重症だったようだ。その病状は痛風か糖尿病か脚気かと推測してみたほどである。
しかし、小松の足痛が小松の謹慎の口実に使われたとすれば、やはり無視できない。土佐藩側の史料では、後藤が小松の上京がなかったのは失脚して桜島に蟄居させられているからだと観測していたが、それは満更でもなく、小松が桜島の古里温泉で療養していたのは小松自身の書状で確認できる。
小松が上京しなかったのは、単なる足痛か、それとも政治的理由か、さらに追究する必要がありそうである。
筆者の高橋氏はどこかで聞き覚えのある名前だなと思っていたら、幕末水戸藩における農民の反封建闘争を見事に描いた『幕末水戸藩と民衆運動』(青史出版)の著者だった。天狗党と諸生党の党争のはざまにある農民たちの動向を足を使って地道に調べ上げた力作だった。
それが一転して、薩摩藩関係の論文を書いた事情も知りたい。
同書には、ほかにも興味深い論文がある。幕末維新史研究の最前線がよくわかる好著といえよう。
家近良樹編『もうひとつの明治維新――幕末史の再検討』
有志舎 2006年10月刊 A5版 5000円