会員になっている織豊期研究会から会報『織豊期研究』8号が送られてきた。
収録論文などは以下のサイトにある。
http://133.67.82.117/frame.html
まだ全部目を通していないが、個人的な関心から天野忠幸氏の表題論文がなかなか興味深かった。
三好長慶が足利義晴・義輝を近江に逐って畿内政権を樹立しながら、永禄元年(1558)に将軍義輝と和睦した点について、従来、長慶の政治的敗北であり、統治権の正統性を獲得できなかったとされていた。
これに対して、天野氏は三好氏奉行人連署奉書の多くの事例を紹介しながら、将軍義輝の幕府奉行人連署奉書にも長慶の影響力が確保されており、将軍権力を形骸化することに成功し、必ずしも敗北でないと評している。
また長慶死後、三好政権(三好三人衆と松永久秀)が将軍義輝を暗殺した理由として、天野氏は将軍義輝が大名間抗争の調停など独自の活動を活発化させた点、また朝廷が三好氏の改元要請を却下するなど将軍権力を認めるようになった点に求め、これらのことから義輝擁立を放棄したとしている。
つまり、三好氏が義輝を操作できなくなったことが暗殺の背景であり理由であるという。とすれば、やはり義輝との和睦は三好氏の敗北の伏線だったことにならないのか。天野氏が果たして通説を克服できたのかという疑問が生じないわけではない。
それはさておいても、興味深かったのは、将軍義輝暗殺ののち、三好三人衆が阿波に在国していた足利義栄を代わりの将軍に擁立したとする通説を覆していることである。
私も、三好氏にとって畿内政権の正統性を担保するためには、将軍擁立(つまり傀儡将軍)が不可欠だという観念にとらわれていたが、天野氏は必ずしもそうではないという。
すでに、長慶の代から三好政権は将軍を必要とせず、直接天皇と結びつくことで政権を展開したとしている。将軍義輝暗殺後、三好氏は次の将軍候補を用意しておらず、三好氏単独の畿内支配を狙っていたと、天野氏は述べる。
足利義栄を擁立することになったのは、三好三人衆と松永久秀が分裂したことに起因するという。つまり、久秀が畿内を逃れた足利義昭を擁する畠山・上杉・織田と結んだため、三好三人衆がそれに対抗するために、義栄を擁立したとする。
私も将軍義栄を擁立したのは三好三人衆(久秀は含まず)だというのは理解していたが、三人衆が当初、将軍を擁立する予定はなく、自前の政権を樹立するつもりだったというのには意表を衝かれた。
個人的な関心でいえば、三好長慶と同三人衆が有した、政権形成のために将軍など要らないという政治観念は、本能寺の変を起こした明智光秀にも共通するのではないだろうか。
私は、光秀が将軍義昭を擁立しようとはせず、みずから天下人になろうとしていたと考えているが、光秀のそうした考え方がこの時代に特殊なものなのかどうか、何に由来しているのかという点について、ひとつの示唆を与えてくれるかもしれないと思う。