膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
先日、紹介した『織豊期研究』8号に、木村忠夫「戦国期島津氏の飛び道具」という論文が掲載されていた。島津氏と鉄炮については個人的に興味をもっているので、さっそく読んでみた。

木村氏は文献における島津氏の最初の鉄炮使用例を天文23年(1554)の岩剣合戦だとし、9月14日、島津忠将(貴久の弟)が船5艘で重富の脇元に押し寄せ、祁答院・蒲生方に対して「鉄炮を以て敵二、三人射ち伏せらる」という記事をあげている。

木村氏は注記をしていないが、おそらく三木靖氏の説に基づいているのだろう。
三木靖氏『薩摩島津氏』(新人物往来社、1972)は、島津氏の鉄炮使用についてかなり早くから体系的にまとめたもので、いわば鉄炮研究の古典的な位置を占めている。三木氏は同書のなかで、南九州での鉄炮使用例を詳しく調べて、肝付方や日向伊東方が先に鉄炮を使用し、遅れて岩剣合戦で島津氏が初めて鉄炮を使用したと述べている。

三木氏は同書で、わが国戦史上でもっとも早い鉄炮使用例として、天文18年(1549)6月の黒川崎合戦をあげている(黒川崎は現在の加治木町日当山)。
種子島への鉄炮伝来が同12年(近年は同11年説が有力)とされるから、わずか数年後に合戦で使用されることになった。

三木氏はこのとき鉄炮を使用したのは島津氏ではなくて、敵対する肝付・渋谷・蒲生方だとする。だから、岩剣合戦が島津氏の初例となるという。
三木説の論拠となった「貴久公御譜中」を引用してみる(『旧記雑録前編』二、2629号)。

「天文十八年、(中略)以故同年五月廿九日、使伊集院大和守忠朗為将帥、領軍衆進于黒川崎、結陣営矣、同六月朔日、越前守(肝付兼演)築対陣、両陣相去不過一町、渋谷氏・蒲生氏亦増勢来、而日日飛羽箭、発鉄炮、経数月驚人之耳目」

大意をとってみると、島津方の伊集院忠朗が兵を率いて黒川崎に陣取ったところ、敵の肝付兼演も対陣し、両軍の距離は一町(100メートル余)もなかった。そこへ渋谷・蒲生が肝付氏の加勢にやってきた。そして日々矢いくさがあり、鉄炮を発したので、数カ月、人々の耳目を驚かした、ということになろうか。

三木氏は「発鉄炮」のくだりを「肝付方の肝付・蒲生・渋谷氏の側が羽箭と鉄砲を使用したものとしか、読めない」と解釈している。「」(しかして、しこうして)という曖昧な接続詞で文章がつながっているから、三木氏のような解釈も成立するだろう。

また三木氏は自説を補強するように、「肝付氏は加治木にあったが、その本拠や本宗は大隅半島であったから、その使用については種子島氏との関連を考えることができる」とも述べて、大隅半島の反島津方の国人と種子島氏との関係が強かったとする。
あまり知られていないかもしれないが、種子島は大隅国に属する。したがって、三木説にうなずける点がある。

個人的には、三木説にもまだ検討の余地が残っているのでないかと思っている。
まず、上引用部分だが、「」(そして、それから)の解釈にも関わるが、「発鉄炮」は対峙する両軍同士での出来事ではないか、つまり両軍とも鉄炮を放ったという解釈もできるのではないか。

なお、鉄炮研究の大家だった故・洞富雄氏も『鉄砲―伝来とその影響―』(思文閣出版、1991)のなかで、上引用部分について「両軍の間で〜銃撃戦がおこなわれた」と解していて、三木説のように踏み込んだ解釈をしていない。

次に、鉄炮を国内で最初に制作した種子島氏との関係だが、加治木領主の肝付氏は島津守護家の老中をつとめるなどしており、大隅半島に勢力を張る本宗家とはこの時期、親密とはいえない。むしろ、肝付氏本宗家の兼続が日新斎こと島津忠良の女婿であることから、島津守護家との関係が強い。

それに、鉄炮伝来に立ち会った種子島時尭もまた日新斎の女婿である。もっとも、時尭は日新斎の一女とはのち離縁しているが、その一女は加治木で対陣した肝付兼演の嫡男兼盛に再嫁している。これは加治木の肝付氏が黒川崎合戦ののちに島津氏に服属したので、その関係を強化するための政略結婚だと思われることから、黒川崎合戦当時、種子島時尭は日新斎の女婿だったことは確実であろう。

よって、種子島から九州本土への鉄炮伝来ルートを想定するに、大隅方面よりもむしろ、時尭の舅である日新斎の島津守護家に贈られた可能性のほうが相当高いのではないか。少なくとも、加治木肝付・蒲生・渋谷の諸氏よりも、島津守護家のほうが種子島氏との関係は強い。
それなら、黒川崎合戦で島津方も鉄炮を使用したとみてもよいのではと考えるが、どうだろうか。
 
鹿児島市清水町の祇園之洲近くにかつて、重富荘という高級旅館があった。島津家別邸というブランドで豪快な野外の宴が売りだったが、時代の移り変わりのためか、先年旅館業をやめて閉鎖されていた。

今度、結婚式場として再出発することになったそうだ。「マナーハウス島津重富荘」と呼ばれるらしい。
http://www.asahi.com/life/update/1122/004.html

重富荘は、島津久光の三男珍彦(うずひこ)が住んでいた邸宅だったという。
以下、重富荘と関係ある重富島津家の話に脱線。

島津家の分家に重富島津家(越前島津家とも)というのがある。現在の鹿児島県姶良郡姶良町重富を領していた。幕末期でも石高14.487石と万石以上だった。

島津家には多くの分家があるが、重富・加治木・垂水・今和泉の四家がとくに格式が高く、一門家と呼ばれる。本宗家に跡継ぎが絶えたとき、この四家から家督継承者を出す決まりになっていた。徳川家における御三家と同じで、島津家のいわば御四家だと考えればよい。

幕末の重富島津家の当主は島津周防忠教だった。というより、島津久光と呼んだほうがわかりやすい。久光ははじめ種子島家の養子となり、のちにそれを解消して重富家の養嗣子となった。
島津斉彬が重態になったとき男子がいなかったので、島津本宗家は断絶しそうになった。そのため、慣例に従って御四家から家督継承者を迎えることになり、重富家の久光の長男又次郎に白羽の矢が立った。のちの茂久(明治以降は忠義)である。島津本宗家の家督継承でこのような手続きがとられたことはそれほど知られていない。

茂久が本宗家を相続したことにより、父親の久光も本宗家に戻ることになった。そのため、重富家の家督が空いたので、久光三男の珍彦(忠鑑)が跡を継ぐことになった。ちなみに、二男の久治は宮之城島津家の養子になっていた。
重富荘は重富にあった邸宅を移したものか、明治になってからの珍彦の邸宅だったのだろう。

ちなみに、珍彦が幕末維新期にも重要な役割を果たしていることはあまり知られていない。慶応三年(1867)十一月、討幕の密勅をもって帰国した西郷や大久保の唱える率兵上京論を強く支持したのが珍彦だった。一方、珍彦の兄久治は討幕反対派の首魁だった。久光の子ども同士で対立したことはあまり知られていない。
珍彦は明治になってから男爵となり、旧藩校の造士館の館長を長く務めたので、銅像がその跡地に建てられていたが、戦争中の1943年に撤去された。おそらく軍事的な目的で供出されたのだろう。

今夏、都内の某大学で「薩摩藩と明治維新」という連続講座が開かれ、不肖私めにも講師の声が掛かった。そのとき、講座を主宰された重富島津家の現当主、晴久氏とお会いし、親しくお話しする機会があった。
元殿様とは思えぬほど気さくな方で、講演も聴衆が引き込まれるような達者な話ぶりで感心した。
私が晴久氏に「ご先祖の珍彦さんに興味があります」とお話ししたところ、さっそく貴重な家譜類の史料をお送りいただいた。いつかお役に立てたいと思っている。

ところで、再来年の大河ドラマの主人公、天璋院篤姫は重富家と同じ御四家のひとつ、今和泉島津家の出である。今和泉家は指宿市にある。再来年はさぞや観光客が多いだろう。