歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨30日深夜から、CATVの時代劇専門チャンネルで、かつての大河ドラマ『春日局』をずっと連続放映している。

すべてに付き合うほど暇ではないが、一回目が本能寺の変を描いていたので観てみた。
1989年放映だから、もう20年近く前の作品である。主演の大原麗子のほかは、父斎藤利三を江守徹が演じていたくらいしか覚えていなかったが、明智光秀が五木ひろしだったのには改めてびっくりした(笑)。

感想を一言でいえば、昨今の大河ドラマよりも、ずっと丁寧に描いており、なるべく史実を重視しようという姿勢が見られるのは好感がもてた。脚本は橋田壽賀子だが、史料や史実の扱い方について、かなり水準が高いと思った。脚本家の出来不出来も性別の問題ではないようだ。

とくに、明智軍が桂川を渡河して、洛中に進軍するとき、斎藤利三が「今日よりわが殿は天下様にお成りになる。下々まで勇み励め」と檄を飛ばすが、これなど『川角太閤記』をほとんどそのままセリフにしたものだった。

ほかにも、利三の友人として海北友松(吉幾三)と東陽坊長盛(ガッツ石松)を登場させるなど、あまり知られていない史実によって、利三の人間像をよく描いていた。

また、海北友松が「まっすぐ立って長刀のような形をした彗星を見た。不吉な前兆ではないか」と語るシーンもあった。
これは『立入左京亮入道隆佐記』や『フロイス日本史』にもちゃんと出てくる怪奇現象である。本能寺の変の予兆を感じさせるよい材料で、この記事を持ち出してきたのは、なかなかだと思った。

利三の息子については諸説あるが、一応三人出てきて、長男利康(杉本哲太)、二男利宗、三男は元服前の○○丸(失念、のち三存か)で、ほぼ『寛政重修諸家譜』に沿っていた。それほど異論のない設定だろう。

斎藤利三墓

写真:京都・真如堂にある斎藤利三(左)と海北友松の墓。隣り合っているところからも二人の親密さがうかがえる。

ただ、ちょっとおかしいところも目についた。
愛宕百韻のとき、光秀が利三など五人の宿老も同道して愛宕山に登っていることである。これは違うのではないか。五人のうち、少なくとも利三、明智秀満(磯部勉)、溝尾茂朝あたりは連歌も詠める連中である。そうであれば、愛宕百韻にも三人共か、そのうちの誰かが連衆(詠み手)に加わっていてもおかしくないからである。

あと、利三の妻について、「お安」と呼んでいたが、出典は何だったか? しかし、稲葉一鉄の娘という設定はちと違うのでは。同じ『寛政譜』によるなら、一鉄の兄通明の娘としたほうが一貫性がある。

とくに利三周辺が気になったのは、私がいまもっとも気にしている人物だからだが……。
ともあれ、昔の大河は最近のと比べれば、かなり良質だったということは確認できた。

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【2006/12/31 18:35】 | 信長
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利三夫人お安
桐野
自己レスです。

春日局の生母が「お安」と呼ばれていたことについて、おぼろげな記憶があったが、出典を思い出せずにした。そしたら、3月に刊行予定の拙著草稿にちゃんと書いていたではないか(汗)。

それは『稲葉家 御家系典』(岐阜県立図書館所蔵)にあり、稲葉一鉄の兄通明(みちあきら)の子貞通の娘で「アン」と書かれていた。これから採ったと思われる。

なお、「アン」の父貞通は一鉄嫡男の貞通とは別人ということになる(従兄弟同士)。

いずれにせよ、これに基づく限り、「アン」は一鉄の娘ではなく、したがって、お福(春日局)も一鉄の孫ではなくなる。



ばんない
本日偶然にCSの「時代劇チャンネル」であの『独眼竜政宗』30話を拝見しましたが、セットも今より格段に豪華ですね。一緒に見ていた家人も最初セット撮影を見抜けませんでした。

時代は進んだのに、ドラマの中身は退化しているとは嘆かわしい限りです。再来年の『篤姫』もおそらくあの『利家とまつ』なみのとんでもない内容になるんでしょうか。

篤姫
桐野
ばんないさん。

大河「独眼竜政宗」はよく出来たドラマでした。セットもよかったのでしょうし、役者たちのやる気がよく表れていましたね。

「篤姫」はかつての大河「翔ぶがごとく」を意識し、それと異なる視点から(つまり殿様や上級家臣から)描くことになりそうで、西郷。大久保だけでなく、これまであまり注目されなかった人物に焦点が当てられそうですね。
「利家とまつ」や「功名が辻」の二の舞だけはぜひ避けてもらいたいと思います。
今年の大河はかなり史実重視ですが、高視聴率です(たぶんに前作の惰性かもしれませんが)。
見応えのあるドラマを作ってもらいたいですね。

利三
市野澤
こんにちわ。

部屋を整理していたら、大河ドラマ『春日局』の一話が出てきました。
中学生の時にオンタイムで見ていて、よくできた内容なので翌週の土曜日の再放送を録画したのを、懐かしく思いながら見ました。

五木ひろし氏の光秀は人が良さそうですね(笑)
一方、『おんな太閤記』に続き、信長を演じる藤岡弘氏は面ライダーでの怪我がなければ、大河ドラマ『国盗り物語』で信長を演じる予定でした。人の運命は分かりませんね。
一話で私も二点、気になりました。

①光秀の謀反の理由
当時の限界というか、これは今も課題ですね。

②自害した信長を確認するだけで、信長の首級を挙げない利三。信長の首級は明智方に取って、必要不可欠です。利三は花も実もある武将と描きたかったのでしょうか?

私は利三が蒲生氏郷に武辺の道を教えた逸話を読んだ時、黒澤明監督の『乱』で井上比佐志さんが演じた鉄修理を連想しました。井上さんに利三役を演じて欲しいです。

井川比佐志?
桐野
市野澤さん、こんばんは。

「春日局」は、私も時代劇チャンネルか何かで、初回だけ観ました。当時としてはよくできたほうではないでしょうか。
ただ、愛宕山に斎籐利三以下重臣たちが勢ぞろいしていたシーンには驚きましたが(笑)。

映画「乱」、そうか、部将たちにはちゃんと名前が付いていたんですね。私は一瞬、「影武者」と勘違いしておりました。


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せごどん表

先日紹介した漫画『せごどん』

友人の調所一郎氏(調所広郷子孫)から、同漫画の帯に推薦文を書いたと教えてもらったので、書店で購入した。漫画・劇画を買うのは拙著が劇画化されたのを買ったとき以来か。
とても、探せそうになかったので、店員に探してもらおうと依頼し、書名を伝えたが、三度も「はあ?」と言われた。そうりゃそうだろう、鹿児島弁だから意味不明だよな(笑)。しかたなく、自分で探したら、意外と簡単に見つかった。

単行本は1巻と2巻が同時発売である。
さっそく1巻を見る。表の帯には「薩摩藩家老調所笑左衛門の血を継ぐ調所兄弟も注目!!」とある。裏の帯には次のように調所氏の一文が書かれている。

「西郷どんと私共の先祖である調所笑左衛門広郷とは対立が伝えられておりますが、薩摩、及び日本という国を思う気持ちに変わりはなかったのです。そうした微妙な方向性の違いも含めて本作品は時代考証がきちんとなされており、幕末史の入門書として広く読まれることを祈念します。調所一郎・謙一(調所笑左衛門広郷七代目兄弟)」

「微妙な方向性の違い」というのが言い得て妙で、調所さんの想いが込められていよう。

さて、作品についてだが、西郷隆盛という難しい人物に挑戦した心意気と、鹿児島出身の作者ゆえに、幕末薩摩藩情にかなり精通して、なかなか読ませる作品になっていることは認めたうえで、それでも気になる点などを巻ごとに批評してみたい。

まず、西郷その人よりも、大久保正助(のち利通)の造形のユニークさのほうが強烈で印象的だった。
一言でいって、まるでドラえもんに出てくるスネ夫のようである。キャラクターも絵も(写真下参照)。
小ずるい策略家だが、いつも肝心の所でどじを踏んで西郷に助けられるという設定。竹馬の友の西郷を裏切らないが、自分のために利用はするというマキャベリストぶりを発揮する。
1,2巻とも表紙は西郷だが、裏は大久保が描かれており、両者が表と裏、ポジとネガという一体不離の関係として描いていこうという、作者の意図か。

せごどん裏

西郷の少年期のエピソードとして右腕を負傷して剣術を断念したのは有名だ。どういう話かというと、横堀三介という者が妙円寺詣りの夜に喧嘩を仕掛けてきたので、西郷が横堀を泥水に投げ飛ばしたのが発端で、怨みを抱いた横堀が聖堂(造士館か)帰りの西郷を襲撃し、そのとき、刀の鞘が割れて、西郷の右腕を深く傷つけてしまったというもの。

これが作品では、大久保がからんでおり、大久保の下手な小細工がもとで、西郷が負傷するという描かれ方になっている。大久保の狷介な性格を際立たせるという狙いかもしれないが、元の逸話を歪曲してまで描かねばならないことだろうか。少々やりすぎではないか。
まあ、2巻目以降、大久保が成長して少しは好意的に描かれるようではあるが、今後も大久保と対比することで、西郷を大きく見せるという方法論を採用するようだと、かえって、西郷を小さく見せることになるのではないか。
その試金石は、大久保が囲碁で島津久光に取り入るという逸話をどう描くかにあるかもしれない。

今回の大きなエピソードは、西郷・大久保と同じ方限(ほうぎり、集落)の下加治屋町の仲間、笹岡倫之進の父親が、家老調所広郷の秘蔵の茶器(藩主斉興からの拝領品)を間違って割ってしまったことから、倫之進が憤激して抜刀したために斬首されるという話が展開する。

この話は聞いたことがなかったので、おそらく作者の創作ではないかと思う。それに、下加治屋町に笹岡という名字の城下士は存在しないのではないだろうか。『元帥公爵大山巌』(大山元帥伝刊行会)には下加治屋町方限の戸主名70数軒が出ているが、そのなかに笹岡名字は見当たらない。まあ、お家断絶になったというのが事実なら、掲載されていなくても不思議ではないが……。

薩摩藩独特の郷中制度や、二才、稚児などの年代階層別の集団教育が県外の一般人には理解できないだろうという判断で、わかりやすくする工夫をしているのは買うが、それを衆道に単純化し、西郷と大久保が互いに接吻するというのは何だかなあという気もする。

あと、気になったのは年齢の数え方である。

西郷:文政10年(1827)12月7日生まれ
大久保:天保元年(1830)8月10日生まれ

当時は数え年換算するのがふつうだが、作品では満年齢になっている。それはそれでよしとしよう。でも、作品ではいつも2歳違いで表記してある。西郷が12月生まれだから、ほぼ2歳違いだろうということだろうが、実際は2歳8カ月違う。3歳違いで表記したほうが誤解を招かないと思うのだが……。

また表紙の巻数表記が西郷家の家紋「抱き菊の葉に菊」を下敷きにしているのも工夫の一つで面白い。ただ、作品とは関係ないが、この家紋は明治以降じゃないかなという気がする。幕末かそれ以前から西郷家が菊紋を一部あしらっていたとは考えにくいのだが……。

二巻目にはおきゃんなお由羅の方が、三巻目では篤姫も登場するようだ。
二巻目以降も批評をつづけていきたい。

せごどん ①
イブニングKC
道明 著
出版社名 講談社
出版年月 2006年12月
ISBNコード 978-4-06-352163-4
税込価格 540円


【2006/12/30 13:48】 | 幕末維新
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笹岡家
かわい
 鹿児島では多い名字なのでしょうか。

鹿児島県の名字ランキング
桐野
『鹿児島県姓氏家系大辞典』(角川書店)の末尾に、NTTの電話帳をもとにした鹿児島県の名字のランキングが掲載されています。

それによると、笹岡名字はわずか3軒で、8399位です。ほとんど例外的な名字と言ってよいと思います。

ちなみに、私の桐野名字は143軒で、682位です。

作者の意図
かわい
 首都圏なら母方の親戚だけでその倍はいますから、鹿児島では希少名字といってもよさそうですね。
 それにしても、なぜそんな例外的な名字を使ったのか興味深いですね。実際にそういう知られていない逸話があったんでしょうか。作者に聞いてみたいですね。

素朴な質問なんですが…
その昔、島津氏に滅ばされた(?)伊東氏ですが、鹿児島にはどの位いらっしゃるんでしょうか? また、なぜいらっしゃるんでしょうか? 以前の「百姓から見た戦国大名」にある話と関係があるんでしょうか?歴史ファン初心者なので、変なことを質問しているかも知れませんが。

伊東氏
桐野
日向の戦国大名だった伊東氏はたしかに島津氏に攻められて居城の都於郡(とのこおり)や佐土原を逐われましたが、滅亡はしておらず、豊後の大友宗麟に庇護されています。
そして、島津氏が豊臣秀吉に降伏したのち、秀吉の命によって復活し、日向飫肥3万6千石ほどの大名となって、明治維新までずっと健在でした。

この伊東氏は鎌倉御家人の工藤祐経の子孫で、祐経の二男祐時が日向国地頭職を得たことから、日向で勢力を強めます。伊東氏の一族は「祐」の字を実名の通字にしているのが特徴です。そしていくつか分家もあり、島津氏にも仕えた家がありますね。

比較的知られているのは、島津義弘に仕えて、長刀の名手だったことから「今弁慶」の異名をとり、関ヶ原合戦で義弘を守って帰国した木脇(きのわき)刑部左衛門祐秀です。「祐」の通字があります。
木脇氏は伊東祐経の二男祐時の八男が木脇刑部左衛門尉祐頼と名乗ったことから始める家のようです。

ほかにも、上の伊東氏とは別の系譜の伊東氏がいくつか島津家に仕えていますね。
幕末維新期には、伊東祐麿・祐享兄弟が出て、ともに海軍の将官、とくに祐享は元帥府に列し、連合艦隊司令長官などを歴任していますね。この伊東兄弟も「祐」を通字にしているので、上記伊東氏と何らかの系譜関係があるのかもしれません。



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二条御所

表題のミュージアムが先月オープンしたのはご存じの方も多いだろう。

たまたま新聞記事を見ていて、その場所が京都中心部の烏丸御池、旧龍池小学校跡地だと知って驚いた。
この小学校はドーナツ化現象によって人口が減り、廃校になっていたもの。前からどのように再利用化されるのか気になっていたが、マンガミュージアムが出来たとは……。

で、この龍池小学校跡地にはどんな由緒があるかというと……
今から430年ほど前、織田信長がこの地に自分の京都屋敷を造営したが、2年後の天正7年(1579)11月、ときの皇太子の誠仁親王(さねひと~)に譲渡し、それ以降、二条御所(あるいは下御所)と呼ばれた。二条御所は信長時代、朝廷の中心となった。

この地は名前からもわかるように、もとは摂関家の二条家の屋敷で、『洛中洛外図屏風』にも描かれているほどだ(上写真参照)。そして同家の庭園にあった池が龍躍池と名付けられ、南北朝時代から「二条殿の龍池」とも呼ばれた。龍池小学校の名はこの池の名前にちなんでいる(下写真参照)。

龍池小学校

そして、天正10年6月2日、本能寺の変のとき、信長の嫡男、三位中将信忠の主従が隣の妙覚寺から二条御所に移って立てこもった。信忠は誠仁親王一家を御所外に出してから、明智軍を相手に奮戦して討死を遂げた。享年26。
信忠の最期とともに、二条御所は炎に包まれて焼失した。造営からわずか五年足らずのことだった。

まさにその場所にマンガミュージアムが建ったのかと思うと、感慨深い。同館を訪れたときは、剣豪でもあった信忠のことにも想いを馳せてもらえればうれしい。

【2006/12/28 23:40】 | 信長
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二条御所…
岐阜少将
マンガミュージアムオープンの話は聞いていましたが、まさか場所が二条御所跡とは…。
有為転変は世の習いとはいえ、この変わりようには泉下の信忠卿も目を丸くされているのではないかと。

ちなみに辞典・辞書類で信忠終焉の地を「二条城」としているものが多いのには辟易しています。
たしか『国史大辞典』も二条城と書いていたような…。

二条殿址碑はどうなったか
桐野
二条城と二条御所を間違えているのは多いですね。

また二条城も足利義昭(同義輝のも)のと、徳川のものと二種類ありますね。

マンガミュージアムが出来たのを機に、誤解が少なくなればよいですが。

ところで、ミュージアムが建つ前にあった「二条殿址」の碑(本文写真参照)などは撤去されたのか、ほかにも江戸時代の金座か銀座の碑もあったと思いますが、どこかに残されたのか、確認しておく必要がありそうですね。
できれば、二条家の二条殿址だけでなく、誠仁親王の二条御所址でもあることを明記した新しい碑でも立ててくれたらもっといいですが。

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大乗院寺社雑事記

以前、臨川書店の増補史料大成シリーズの60%オフセールを書いた(12/16)。そのときに注文した史料が届いた。

1,大乗院寺社雑事記 全12冊
2,親長卿記 全3冊
3,宣胤卿記 全2冊 付:親長卿記補遺、宣胤卿記補遺
4,山槐記 全3冊


以上である。
じつをいえば、私の守備範囲とはほとんど関係ない本ばかりだ。1~3は織豊期よりだいだい1世紀も前の史料だ。4に至っては源平争乱時代である。
何というか、史料名に惹かれて買ってしまった面もある(爆)。それだったら、『蔭凉軒日録』も有名だけに欲しかったな(爆)。「凉」は「にすい」なので注意。
これだけ散財するくらいなら、『新修徳川家康文書の研究』第二輯を買ったほうがよかったかもしれないな。

一、二史料の解説をば。
1,は藤原氏の氏寺、南都興福寺の門跡寺院、大乗院に関わる記録である。興福寺には、近衛流の一乗院と、九条流の大乗院という二大門跡寺院があった。のちに将軍となった足利義昭が覚慶という名で門跡だったのは一乗院で、近衛家の猶子という形での入室である。
で、1,は大乗院27代門跡尋尊の日記(「尋尊大僧正記」)を中心とした史料である(ほかに28代政覚、30代経尊の日記も含む)。
興福寺の法会に関する記事を中心に寺院の細々した出来事や、世間の噂話や芸能まで話題が幅広い。政治的には、応仁の乱の勃発や、管領細川政元が自分で擁立した将軍足利義材(のち義稙)を廃し、将軍義澄を擁立したいきさつなどが詳しい。

山槐記など

4,は平安末期の公家、中山忠親の日記。忠親は内大臣だった。内大臣に任官することを「任槐」というように、中山の「山」と内大臣の「槐」を組み合わせた日記名である。
玉葉』『兵範記』などとともに、源平争乱とくに平家の興亡を知る根本史料のひとつである。あっ、『兵範記』を注文するのを忘れていた。
そういえば、『山槐記』には薩摩島津氏の祖、島津忠久の記事もあったはず。あとで調べてみよう。

書棚を飾るには恰好の箔付けになるものの、いつか役に立つ日が来る史料かどうかはなはだ疑問ではある。不必要な本まで蒐集してしまう癖が治らない。まさに「病膏肓に入る」だな(爆)。



【2006/12/27 22:40】 | 新刊
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尊皇攘夷

といっても、幕末維新の話題ではない。
前に戦前の『歴史公論』誌(12/15「『猿』は誰だ」参照)を古書で購入したことを書いたが、そのとき、一緒に買った『公論』という名の雑誌である。幕末維新特集かと思ったらそうじゃなかった(笑)。

発行年月が昭和17年(1942)11月である。まさにアジア太平洋戦争に突入し、ミッドウェーで敗北を喫したあとである。

戦中の思想状況がどのようなものか、うかがい知るには好個の史料かもしれない。
執筆者には、著名な右翼もしくは日本浪漫派の言論人もいる。

影山正治……尊皇攘夷の大道
保田與重郎……攘夷の思想

とくに興味深かったのは、常岡瀧雄「勤皇の大義」という論文である。これには、勤皇主義を基軸に据えて、歴史上の人物や学者を勤皇か不忠・逆賊かを裁断するという論調になっていて、その視角というかとらえ方が面白い。

まず、幕末の志士(土佐勤王党)の田中光顕と会ったとき、田中が次のように述べたという。
「我々明治維新の志士は勤皇を実践したのである。[闕字]天皇陛下を尊ぶだけ即ち尊皇だけでは駄目だ、皇事に勤労即ち悪戦苦闘しつゝ、[闕字]陛下の御為に一切を捧げて血みどろの勤労をすることが勤皇であり、日本人は総て勤皇でなければならぬ」

そうだったのか。尊皇と勤皇は同じような意味の言葉だと思っていたが、田中に言わせれば違うのだ。尊皇は思うだけであって実践がない。血みどろの勤労こそが勤皇だというわけだ。両者に区別があるとは知らなかったなあ。

そして、歴史上の人物・団体が次々と俎上に上げられる。

足利高氏:日本一の不道徳漢、非人格者 
 ↑尊氏じゃないのは後醍醐天皇からの一字拝領だからかな
源頼朝:七百年の武人大権干犯の元祖
 ↑「干犯」は当時の流行語なんだな
白虎隊:「逆賊徳川の走狗たる藩主を君と誤認」「天皇に弓を引いた逆賊」「勇ありとも大義を弁えず」
 ↑「勇」は認めているらしいな
道鏡:君主制をそのままにして己れ 天皇たらんとし
蘇我馬子:天皇を弑し奉り
幸徳秋水:明治天皇に対して不軌を図り

ほかにも、学者や思想家も上記のような逆賊を賞揚したとしてヤリ玉に挙げられる。

吉野作造・河上肇・美濃部達吉・大山郁夫:日本精神喪失の、ユダヤ第五列教授
平泉澄:大権干犯強盗の元兇源頼朝を事もあらうに国体観念明確なりとして賛嘆
元田永孚:勉学の模範人物として東夷と自称せし支那思想の奴隷徂徠を挙げてゐる
中村直勝:大逆賊義時を人格者として称揚
北 一輝:皇国の国体と絶対相容れざる民主々義の忠僕でありその信奉者

リベラルな学者だけでなく、どちらかといえば皇国史観的で国粋主義的な学者の言論まで重箱の隅をほじくるような執拗さで非難している。とにかくレッテル張りに用いられる語彙の極端さにはある種感嘆させられる。

戦中の思想統制の一端がうかがわれるが、その批判の矛先が多方面にわたっていることは、当時の支配的思潮が思想的な「純化」によって極端な党派性と不寛容さを有しているだけでなく、まわりがすべて敵に見えてしまう思想的隘路に陥っていることも同時に明らかにしているように思えた。

『公論』第5巻11号
第一公論社
1942年11月
特価90銭


【2006/12/26 23:16】 | 古書
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この本は見たいなぁ
ひの字
夏に、上北沢の松沢教会で東京裁判の映画会やりました。
大川周明がなよなよした奴だったのにはびっくり。
専攻が近代史だったんで、この辺大いに興味があります。

大川周明
桐野
ひの字さん、はじめまして。

近代史を専攻されていたんですか。
この雑誌は稀覯本でしょうかね。国会図書館のデータベースでも引っかかりませんでした。

東京裁判の映画って、小林正樹監督の作品でしたよね。私もだいぶ前に見たことがあります。大川周明が東條英機の頭を後ろから叩くシーンが有名ですね。
以前、鶴岡に行ったとき、光丘文庫で石原莞爾の史料と一緒に大川周明の史料もちょっと見たことがあります。二人はたしか同郷でしたよね。

逆賊東條の左翼性
逆賊東條の左翼性
逆賊新撰組や八重桜が震災復興とからめて美化されて大河ドラマにされているが、しょせんフィクションであることを
確認すべき。八重桜や戊辰戦争とその子孫東條とか、新撰組に資金援助していた今の関東連合や部落開放同盟?竹中?みたいな弾左衛門は天皇に弓引いた朝敵であるためである。そうした朝敵を靖国は独立系だからといってごちゃ混ぜに
祭ってしまうと天皇が東條同様敗戦の元凶なの?とおかしなことになるのは明白。天皇はこの国では負け側になることは有り得ないことを確認する必要があるわけであり、それらはわが国の国体維持にとって超えられない一線であることを理解できない一部の者が逆賊だけど日本人だからとか、信念が~などと小さな弁明によって大きな損失を見せないようにしようという、イラクの3馬鹿みたいな左翼思想に他ならないというわけである。平清盛が栄華を極めたのに法皇や上皇や天皇サイドから逆賊となり、今や平家の落人は部落民扱いなのであるが、それは例え華族になれても天皇に弓引いた逆賊徳川とその穢れた遺伝子を撒き散らす名古屋土人や、皮革部落で有名な関東連合の江戸時代バージョンの弾左衛門、そしてそれらの飼い犬の逆賊新撰組、戊辰戦争の八重桜などが叩かれるのはそういう理由である。震災に陥ったことは非常に残念なことではあるが、現状の被災状況と当事の政治的闘争において因果関係を捻じ曲げてまで逆賊新撰組や逆賊戊辰組、その子孫東條を美化しようというのはNHKという大規模放送局が放映するにはいささかに稚拙過ぎるというわけだ。我々は地域の小英雄だけが全てなのではなく、小さな島国日本としてみた場合に当時として最も最適な政権を選ぶ自由や獲得闘争を引き起こすことは当然の権利であったので、単に福島が可哀相だから、徳川が部落扱いで可哀相だから、土方がゲイに人気有るから、という田舎の小英雄を美化したいからという理由だけで事実をどんぶり勘定することはよくないというだけの話である。これらの前提を踏まえれば、憲兵隊と新撰組と部落開放同盟の類似性も言わずもがなではあるが、アイヌ同様天皇家に弓引いた逆賊としてこの国の歴史上で既に処理された集団であり、だからこそ天皇否定に走る中国共産党系のような逆賊思想をこちらが正しい、本物だと煽ろうとするとすることが少しづつではあるが理解できるのではあるまいか。天皇のDNAでどの成分が検出されるにせよ、朝敵となった、ならないの事実に及ぶものではないため、仮に部落民の娘が部落民の立場をよくするために苗字が平とかいかにもな出自の娘を嫁がせてもそれで大逆行為というものが消えると言うわけではないので、この国の精神的国体維持にとってむしろ神経を逆撫でする結果にしかならないことを知るべきである。要するに新撰組や徳川や東條を美化することは、この国の日本人の日本国民の神経を逆撫でする精神であり、それらが例え、日本人の中で主流派から脱落した被差別部落のコンプレックスから来る物であっても、彼らだけが日本に住んでいるわけではないので新手な思想テロとしてむしろ弾劾されなければならないのである。これがまさしく極右と右翼の違いである。ヒトラーは昭和時代、日本人は天皇を大事にせよと伝えているが、当時の日本の宰相、東條と松岡はむしろその天皇から逆賊認定された非国民、もしくは隠れ非国民の出自であった為、こうした勢力はドイツよりもむしろソ連と組んで天皇制を廃止し江戸時代をさらに強化した東條幕府、八重桜幕府でも作り、占領地を大東亜共栄圏の小さなソ連にしたいとする意向が強いことが、自民族優先主義のエリート極右、ナチスドイツと国体解体、権力者による圧政支配と憲兵と言う被差別民による弾劾左翼支配のソ連左翼(半端な右翼)=これが実質左翼であり極左という構図が成立することになるのだ。要するに極右からみれば右翼というのは腐敗体制維持のために左翼が右翼ごっこをとった姿であり、それは無能な現体制を恐怖政治で強いる為に自国民に厳しい、もしくは虐殺を正しい犠牲と執行するのが右翼(この場合は極左)であり、腐敗体制を駆逐して、自国民の発展を促す為に無能な現体制を崩壊させ新秩序を作ろうというのが極右というわけである。明治維新は言ってみればナチ的でもあったが、それらは無能徳川と無能エタヒニンの根絶であり、昭和クーデターは中国共産党みたいな腐敗体制護持のための自国民犠牲当然主義者が陸軍士官学校を統制派で乗っ取り、かつての明治時代の逆恨みを自国民の抑圧で達成しようというポルポトや毛沢東のような極左革命でああったことが伺える。何より靖国神社をアピールすることで右翼のめっきを被ったことであり、これらが盲目的な愛国心を尽忠報国などして賛美しようとする見た目右翼の韓日友好、竹島提供みたいな右翼というよりは右翼(笑)に結びつくというわけである。靖国神社の東條庇い工作は八重桜や部落民新撰組徳川や東條を賛美しようとする右翼と言うよりは右翼(笑)の実質的左翼であり、この手法は文化大革命などの権力者による知的階層の絶滅工作に近いというわけだ。いや、本質的には同じである。ドイツはヒトラーによって日本の徳川や部落にあたるドイツ共産党は葬り、戦後分割統治されても目立った戦闘もなく東ドイツ、つまり左翼側から勝手にソ連崩壊に合わせて併合できている点が興味深く、彼らはその後ワイマル憲法時代の塗炭の状態からはいくぶんマシになっているだろうし、イスラム左翼が国家を荒らしまわり、ドイツを乗っ取ろうとする新しい問題に直面してはいるが少なくとも賠償金で踏み潰される状況ではないことから、敢えて暴れた意味はあったのかもしれないが、ある意味自国民優越主義のもたらした結果とその正反対なのが日本のポルポト東條や徳川、新撰組のケースである。こちらは自国民弾圧主義という反省、刑罰、虐殺主義である為、腐敗体制が内圧(明治)、外圧(米英)によって、なされ、現状は米英によって潰された分中国で言う香港のような状態となり、東條の左翼支配よりも米英の植民地支配のほうがまだマシになってしまったという馬鹿げた状態に陥っているという目を背けたくなるような状況にあることが分かるだろう。仮に日本をワイマルドイツぐらいに追い込むと極右が行動しやすくなるという歴史を踏まえ、自民党という左翼寄り政党と竹中のような部落民を用いて中間層を絶滅させ、アルバイトと移民にして自国民弾圧主義と自民幕府の形成を促したいと考えている連中が冒頭における八重桜美化、逆賊新撰組美化、東と日本は違う思想のばら撒き、文系学問に左翼思想の投入などを行い、有能層の弾圧と無能談合の為のコミュニケーション至上主義、この場合は完全なるコミュニストではあるが、実質左翼体制の達成だというだけの話である。これは内部左翼が自民であり、中国共産側からの支援による民主党、所謂外部左翼との違いこそあれ、どちらにも左翼的であるという類似点があるが、違いがあるのは自国民労働者を守ろうとする側がこの場合ドイツでいうワイマル否定派の極右サイド的であり、自国民労働者を絶滅させ、移民に置換しよう、反対派は粛清しようという犠牲必定主義が極左サイド的であるということである。安倍は低学歴ゆえに理解はしないだろうが、TPPに反対する左翼に屈しないといいながら、それは外部左翼に対しての言葉であるが、実質自民党と部落開放同盟のやっていることは内部左翼、ポルポト的な労働者絶滅、移民置換によるソフトな自国民弾圧思想であることから、彼らもまた左翼であるというわけである。左翼と左翼が食い合っているため、政権交代しても改善される問題もあるが、残る問題もあるどころか、外部左翼の悲願である人権侵害設置法案や外人参政権、自民と部落の派遣改悪法など恐るべき国家解体法が自民、民主両サイドから発生した事実からも知ることが出来るのだ。自民であっても民主であっても八重桜という自滅賛美はNHKみたいな大手が垂れ流し、自国民の労働者の雇用を派遣によってぶつ切りにして生活基盤を破壊し絶滅を試みようとする部落開放同盟を野放しにする小泉政権やその後継者安倍を含め、戦後米英の植民地であり続けたわが国はまさしくワイマルドイツのように左翼がストライキを起こして国家と国民の生活基盤を外国に売り渡し、滅亡させようとする勢力に満ち満ちている末期的状況であることを知らねばならない。敵はこうした滅びを善とする左翼勢力そのものであるが、名古屋土人を含めこの国のサヨクと言うのは非常に巧妙であり右翼の”皮”を着ることに長けているのであるが、近年ネットの台頭によってそうしたややこしい工作を看破することは容易となりつつあるのだ。今や若者は新聞やテレビを信用せず、むしろネットで相互情報を確認して話の根幹を知るようになり、より左翼の排撃というナチ的闘争に近付きつつあることは非常に喜ばしいことでもあるだろう。というのは極右勢力が不在なため、今まで愛国右翼の側を被った左翼な部落民どもが図に乗れたことが弾劾しやすくなったからである。面白いのは名古屋人という日本の天皇弓引いた逆賊の末裔どもやその下僕憲兵新撰組や平家のカムロみたいな被差別民どもと外部左翼の中国共産党系や北朝鮮などの外部左翼が権益を奪い合って殺し合いを始める点であろう。しかし、あくまでこの国を本当の意味で正しく導くことが出来るのはそうした内部左翼や外部左翼やどっちに転んでも自国民弾圧左翼となる自民民主ではなく、極右闘争に目覚めた我々でなければならないということである。この国は天皇を精神的柱としながら、無能な政治権力との決別の為の闘争によって統一されなければならないのであり、それは内部左翼と外部左翼の内ゲバによるものであってはならないのだ。自民民主が徳川、不良アジア人や部落開放同盟が憲兵や新撰組みたいなものであるが、明治時代はその両勢力を連続して克服しているという事実を忘れてはならない。在日支配と部落支配の壊滅こそ我々が真に望む闘争でなくてはならないのだ。自民と民主はそうした意味で末期的であり、真に自国民優越主義、自民族優越主義を望む者だけが破滅的状況を打破しうる唯一の存在であることを過去の克服闘争を再確認して知る必要があるといえるだろう。この国は名古屋人を始めとした天皇に弓引いた無能層どもの玩具に堕させてしまってはならず、それらは逆賊新撰組や逆賊東條、裏切りの靖国野郎との決別でもある。奴らは感情に訴えるだけで何の進歩のビジョンも見出さないどころかむしろその逆だ。破壊し破滅させるだけの、そして結果を予想できないが保身だけは直感的に感じる単なる一方通行感覚バカに過ぎないことを今一度確認しなければならないだろう。

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服部半蔵

ある歴史雑誌で服部半蔵正成について書くことになった。はっきりいって私は詳しくないのだ。それでも、企画意図に事件や謎の真相を中心にという注文があったため、信康事件との関連なら書けるかもしれないと思って引き受けた。

執筆に際して、友人の橋場日月氏の『服部半蔵と影の一族』(学研M文庫)を参考にさせていただいた。
いただいてからだいぶ経っていて、遅ればせながらきちんと読みました(すみません)。

非常に詳しく調べられていて感嘆した。とくに、伊予今治藩にいる服部半蔵の直系の子孫が遺した『服部半三武功記』なる史料を発掘し、これを駆使して従来にない服部半蔵像を描き出しているのではと感じた。不勉強でよく知らないが、この史料はよく知られた史料なのだろうか?

ほかにも『勢陽五鈴遺響』『砕玉話』『三州土呂一揆濫觴記』とか、聞いたこともない史料がふんだんに援用されており、目が回るようだった。
『朝野旧聞襃藁』などに収録された記録なのかどうかわからないが、豊富な史料渉猟によって、かつてないほど生き生きした服部半蔵の姿が浮かび上がっているように感じられた。

あと、文章が読みやすい。本文に注記がたくさん付いているが、それほど気にならない。拙著でも同様な体裁のものを出したことがあるが、我ながら読みにくくて辟易した。きっと何か工夫があるのだろう。そのあたりの技術的な面も参考にしたい。

とにかく、なかなかの力作だ。本当に助かりました。

服部半蔵と影の一族
著者:橋場日月
学研M文庫
発行年月:2006年10月
価格(税込):693円
ページ数/版型:320P 15cm
ISBNコード:4-05-901188-6


【2006/12/25 23:28】 | 戦国織豊
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御礼
橋場
過分のお言葉、痛み入ります。
他の誰に言われるより一番嬉しいです……。

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せごどん

「せごどん」とは、鹿児島弁で「西郷どん」という意味。

鹿児島の地元紙南日本新聞サイトによれば、漫画雑誌「イブニング」(講談社刊)に連載されていた表題の漫画が単行本化されて、25日発売とか。
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=1941

作者は鹿屋出身とのこと。連載を見ていないので何ともいえないが、「史実とフィクションを交えながら、独自の西郷像を展開」という趣旨が独りよがりで贔屓の引き倒しでないなら、期待できるかもしれない。

西郷隆盛が漫画化されるのはおそらく初めてのことではないか。「お~い、竜馬」で坂本龍馬が注目された例もあるから、そうしたきっかけになれば面白いかも。

大久保利通は漫画にはしづらいんだろうな(爆)。昔の「るろ剣」の大久保はかっこよかったけれど。

【2006/12/24 19:11】 | 幕末維新
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中央公論

「中央公論」1月号を編集部からいただいた。

日頃あまり縁のない雑誌だが、「司馬遼太郎と日本人の物語」という対談など面白そうな記事もある。

とくに興味をそそられたのが表題の企画。
13人の識者が自分の専門分野からそれぞれ10冊ずつを推薦・紹介するというものである。テーマと識者は以下の通り。

日本国家の成り立ち  遠山美都男
天皇の歴史      今谷 明
貴族と武士の盛衰   本郷和人
戦国時代の実像    小和田哲男
江戸の爛熟      氏家幹人
ひと味ちがう明治維新 三谷 博
戦前の政党政治    村井良太
「あの戦争」を知る  保阪正康
戦国日本の歩み    猪木武徳
日中関係の二千年   加藤 徹
思想していた日本人  苅部 直
歴史小説の楽しみ   細谷正充


個人的に面白かったのを二、三挙げてみる。
まずは本郷和人氏である。彼の文章はほかでも読んだことがあるが、とくに一般向けの概説が面白い。とにかくユーモアがある。多少楽屋落ちネタだが、自分を自虐的に肴にしたかと思うと、論敵を寸鉄人を殺すような一言でチクリというスタンス。歴史をわかりやすく語ってくれるという意味では恰好の指南役である。

明治維新については、三谷博氏を評者に選んだのは編集部の卓見といえるかもしれない。小説『山の民』まで紹介してあったのにはびっくりした。たしかにこれは名著である。

あと、苅部直氏は若手の気鋭の研究者。前田勉『兵学と朱子学・蘭学・国学』(平凡社選書)を紹介していたから思い出した。この本を新聞広告で見て買おうと思って忘れていたことを。だから、速攻で購入した。「近世の支配思想は兵学である」というコンセプトは、儒学第一主義をとる通説への強烈なアンチである。タイトルの四つの学問のあらましをコンパクトに理解できるからお勧めである。

そして、私の守備範囲に一番重なる小和田哲男氏の記事。いつぞや当ブログで紹介した黒田基樹『百姓から見た戦国大名』を入れるなど目配りが効いているが、信長関係、本能寺の変関係の紹介には少し鼻白んだ。
「これまでの主流的な考え方だった怨恨説は、最近の研究では後景に追いやられ、むしろ近年は、明智光秀単独ではなく、黒幕が存在したのではないかという説が有力視されているように思われる」
この概括にはちょっと納得できないな。黒幕説の代表ともいえる朝廷黒幕説を唱える論者は現在一人もいない。それなのに、なぜ黒幕説が有力視されているといえるのか。小和田氏には拙著も贈ってあるんだけど(爆)。
まあ、最近、黒幕ものが小説も含めて相次いで出版されている状況に規定されてのものかもしれない。むしろ、こちらの力不足に思いを致すべきかもしれない。小和田氏にさえ研究状況がそのように見えているということは、一般の歴史ファンにはもっとそうだろうと思われるからだ。

【2006/12/24 02:30】 | 新刊
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パルティアホースカラー
こんばんは。
『中央公論』は未チェックでした。なかなか面白そうな企画ですね。今度、ぜひ読んでみようと思います。紹介していただいて、ありがとうございます。

本能寺の変について、私は桐野さんの『真説・本能寺』など、いくつかの書籍や論文を読んでみただけですが、黒幕説が有力と言い切れるような印象は感じませんね。

確かに、小説などを含めれば、黒幕説を採用しているものの方が、数としては多いような気もします。でも、数が多いからと言って有力視されているというものでもないでしょうから、小和田氏の概括はちょっと疑問ですね。


桐野
評者の立場や学説によって、推薦図書ががらりと変わるような気がします。

黒幕説にしたほうが世間の耳目を引きやすいというのはありますね。小説ならそれでもかまいませんが。

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谷口克広

信長研究者で著名な谷口克広氏から表題の新刊をご恵贈いただいた。多謝。
吉川弘文館の「戦争の日本史」シリーズの第13巻である。

ご本人から一年近く前に脱稿していた話は聞いていたが、ようやく上梓の運びとなったようである。
信長とその家臣団について、谷口氏にはすでに定評のある多くの著作がある。本著は信長の合戦を逐次年代順に詳しく検討したものである。
谷口氏があとがきで述べているように、氏には『織田信長合戦全録』(中公新書)という類書がある。そのため、今回はカテゴリーを変更するなど、同書との差別化に苦労のあとがうかがわれる。

まだすべて通読していない段階だが、個人的に感じた点、思いついた点を列挙しておく。今回はあえて注文も書いておきたい。

1,武田信玄の西上戦の評価
 以前に武田氏研究者の柴辻俊六氏の新刊を紹介したが、柴辻氏は信玄は上洛をめざしたと結論づけていた。谷口氏は染谷光廣氏の信長との決戦ののち、元亀四年(1573)五月頃に上洛する予定だったという説に賛同している。一種の二段階上洛戦とでもいえばよいだろうか。柴辻氏とさほど矛盾する見解ではないだろう。

2,長篠合戦の叙述には不満
 前著もそうだったが、本書でも長篠合戦の記述が非常に少ない。想像するに、藤本正行氏の説にさほど付け加える点がないと考えておられるのだろうが、谷口氏の長篠合戦論を拝読したいものである。
 なお、前著では同合戦を「中世的騎馬軍団と近世的鉄砲隊との戦いなどとする位置付けは、あまりに短絡にすぎる」と評していたが、本著ではその評価が消えている。本書のほうが分量的に余裕があるはずだから、分量の関係でないとすると、何らかの見解の変更があったのか。ご本人に聞かずばなるまい。

3,安土城天主と本丸「清涼殿」風の建物との関係
 これは合戦ではないが、天下人信長の政権構想を考えるにあたって避けて通れない問題である。
 本丸の「御幸の間」(清涼殿風建物)を見下ろす形で天主が建っているという位置関係から、信長が天皇を凌ぐ地位を望んでいた、天皇に自分を見上げさせるつもりだったという説に対して、谷口氏は天主は天下人のシンボルだから、山頂に屹立させるのは当然である。信長にいくら尊王の念が強かったとしても、御幸の間を天主より上には地形的に置けないだけのことである。もし信長がその気なら、京都御所のすぐ近くに巨大な邸宅でも建てたほうが効果的ではないかと反論している。まったくその通りで痛快である。

4,三職推任の評価
 これも合戦ではないが、織田権力期における公武関係では重大事件である。谷口氏は従来から、三職推任の主体(言い出しっぺ)を京都所司代の村井貞勝の勇み足だとしていたが、本書でもその考え方は踏襲されている。
 そして今回は、信長が三職推任への回答を保留したという研究者が多いなかで、「じきに三職のどれかに就くということは断った、と見るべきである、したがって、この月末の最後の上洛の時に返事をするなどということは、はじめからありえなかった」と、保留説を一蹴している。堀新氏や私の立場に賛意を表されている。もっとも、「じきに~」と書かれているところを見ると、その後の任官の可能性は排除していないと見るべきか。

5,イエズス会関係史料への否定的評価
 谷口氏とは多くの点で意見が一致することが多いが、この問題だけはいつも意見が分かれる。私などは同史料をなるべく評価したいほうだが、谷口氏はその逆だ。
 本書でも、有名な信長の自己神格化の一節について、宗教の欺瞞性や迷信をもっとも嫌ったはずの信長のこれまでの立場との「著しい不整合」を指摘し、さらに日本側の史料になぜこれだけ盛大な祭典の記事がないのかと疑問を突きつける。
 また信長が「シナに艦隊を派遣する」という同史料の記事にも、極端すぎると否定的である。
 今後、この問題は谷口氏ともっと議論したいと思う。

信長の合戦を扱った本なのに、合戦以外の部分に紙数を割いてしまい、偏った内容になった。これも私の問題関心と重なるためであり、ご寛恕いただきたい。合戦については私の感想などより、直接読まれることをお勧めする。

信長の天下布武への道(戦争の日本史13)
谷口克広著
吉川弘文館
2006年12月刊
四六判/定価2.625円




【2006/12/22 20:46】 | 新刊
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友人からとても珍しい史料集を拝借した。
長州藩の御典医、李家氏(りのいえ・し)に伝わる幕末期の書簡集(受給文書)である。

差出人は前原一誠・山県有朋・野村靖・木戸孝允・杉孫七郎・伊藤博文など、幕末期長州藩の錚々たる著名人たちである。とくに前原一誠の書簡が18通と飛び抜けて多く、次いで山県有朋の8通、野村靖の7通である。

李家氏とは、その変わった名字から察せられるように、朝鮮系の渡来人が祖である。豊臣秀吉の朝鮮侵略のとき、全羅北道の南原城(ナモンソン)攻防戦において、城を死守した全羅道兵馬節度使忠壮公、李福男の末子慶甫(のち元宥)が毛利軍に捕らえれて長州萩に連れてこられた。この元宥が李家氏の祖である。

『萩藩諸家系譜』によれば、李家氏は李氏朝鮮王族の支族という家柄の高さにより、寄組500石の家格で遇され、典医、侍医として藩主に仕えた。

前原・山県らから書簡を受け取ったのは、十代目の当主、李家文厚である。文厚も御典医で、馬関戦争では野戦病院長となり、四境戦争でも従軍医として活躍した。とくに高杉晋作が重篤に陥ったとき、藩主からの見舞医としてその最期を看取ったといわれる。

そのような経歴から、名だたる長州藩士たちとの交流があったのだろう。書簡の内容も病気の相談事などが多い。
なかでも面白かったのは、前原一誠のある書簡である。前原は文厚に悩みを打ち明けたり、北越戦争の苦戦の様子を報告したりと、単に医師と患者という関係を超えて親交があったようだ。
それでも、やはり病気の話が面白い。前原は湿疹系の病気が多かったらしい。たとえば、

「面部一面ニ発疹、格別粒立候様ニも無之候共、極而痩而御座候、脊之辺へも少々吹出し候様ニ御座候」

という具合で、顔や背中に湿疹ができていたようである。
とくに噴き出したのは次の一節。

「二白 弟、淋病再発、大ニ困窮難儀仕候得共、未施薬餌如何仕候而宜御座候哉」

と、文厚に再発した淋病の治療法を尋ねている。
前原は別の書簡で次のような告白もしている。これが淋病の原因か。

「彦太、(中略)内情欲ヲ恣ニシ、陰ニ登楼、妓抔愛シ、其罪井林ニ不下」

李家氏の歴史は数奇なものである。とくに長州藩では萩焼の歴史とも重なっていよう。
ちなみに、薩摩焼の陶工として著名な沈寿官も、李家氏と同じく南原城から連行された陶工の末裔である。

『幕末維新名士書簡集―李家文書―』
李家正文編
木耳社
1981年



【2006/12/21 00:40】 | 幕末維新
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李家
橋場
李家といえば、風水の李家幽竹氏を連想します。
彼女も李王朝末裔との事でしたが、長州ゆかりなのでしょうか。

李家幽竹氏
桐野
橋場さん

申し訳ありません。李家幽竹なる方は不勉強で知らないのです(恥)。

李家という名字はおそらく長州藩の李家氏以外はないと思います。ですから、その係累の方である可能性は高いかもしれませんね。

有名な風水師のようですから、著作がありそうですね。自分のルーツについて書かれていないのでしょうか?


李家という名字
かわい
 たしか、作家の田中芳樹さんの本名もそうですよ。下が一字名だったせいで、よく外国籍と間違われたとか。

田中芳樹氏も
桐野
李家が本名だったとは知りませんでした。
というか、私は不勉強で、この人の著作を読んだことがないのです。
銀河英雄伝説もアニメで見ただけですから(爆)。



まつかぜ
こちらでは初めまして♪
前原一誠と聞いてやってきました~ちょうど今、前原関係の資料を読んでいたとこなんで、ジャストタイミングです。
それにしても、り、淋病とは(汗)…前原には妾もいるんで女好きであることは想像してましたが。。。萩の乱前後の体調不良もこのビョーキが関係あるのでしょうか??
だとしたら、正規の資料には出てないですよね、こんなハナシ(笑)

前原一誠のお妾さん
桐野
まつかぜさん、ようこそ。

前原にもいたんですね。前原に限らず、当時はいてもおかしくないですが。彼女に病気を移したりしなかったのだろうか(爆)。

前原に関しては、同史料集には北越戦争の記事が多いです。その方面でもよい史料かもしれません。

10年前の記事にすみません
すずき
この記事のおかげで李家姓の曽祖母の
ルーツに裏付けがとれました。
ありがとうございます。


ku335
우계이씨에 대하여 조사하다
이복남(李福男)에서 리노이에 모토히로(李家元宥)씨를 알게되었는데
이런 사연이 있었네요
한국어라 모르시겠지만 감사한 마음에
글 남겨봅니다.

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木下聡氏の論考「山内上杉氏における官途と関東管領職」(『日本歴史』685号、2005年)をたまたま読んだ。
私の知識ではとても批評する能力がないが、ただ一点だけ触発されるところがあった。

それは、山内上杉氏の当主のうち、顕定以降の顕実、憲房、憲寛、憲政がいずれも官途名を名乗らず、仮名(けみょう、通称)の四郎五郎を生涯通していることに対して、木下氏は顕定以下が関東管領職であり、関東管領職そのものが官途を代替したと結論しているのが、非常に興味深かった。

そういえば、将軍足利義輝が上杉輝虎(謙信)に宛てた御内書のなかで、関東管領の養父憲政を「上杉五郎」と呼んでいたのを思い出した。すでに老年の域に達している憲政を「五郎」という通称か幼名で呼ぶのにわずかな違和感を覚えたものの、そのままにしていたが、関東管領が官途の代わりだとすれば、納得がいく。

木下氏はさらに、謙信の養子の一人、上杉三郎景虎についても指摘している。景虎は北条氏康の一子である。越相同盟の象徴として謙信の養子となったことはよく知られている。

謙信が養子の景虎と顕景(のち景勝)の二人を差別なく処遇したのはよく知られている。ところが、官途名に関しては、処遇に差が出ているのではないかと思われるのだ。

木下氏は、天正三年(1575)正月に謙信が長尾喜平次(景勝)を上杉弾正少弼景勝と名乗らせていることを指摘している。
そして、一方の景虎が三郎のままなのは、じつは謙信は関東管領職を景虎に譲るつもりだったからではないのかと推定する。

じつに興味深い説である。


【2006/12/19 18:12】 | 戦国織豊
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かわい
 あー、やっぱり研究しておられる方がいらしたんですね。これでまた楽ができそうです(笑)。
 私はこれまで、景勝が含まれる天正三年の軍役帳から景虎や関東衆が漏れていること、御館の乱で憲政が景虎に加担していることなど、状況証拠だけで景虎が関東管領後継者に内定していたことを説明しようと考えてきたのですが、よいことを教えていただきました。ありがとうございます。

謙信と関東管領職
桐野
かわいさん、どうも。

多少はヒントになってよかったです。
じつは、木下論文を全部読まないで、ならば、三郎景虎もそうだろうと連想して、うれしくなって上の雑記を書いたのですが、同論文を通読してみると、最後のまとめに、三郎景虎が関東管領職に予定されていたのではないかと書かれていてがっかりし、一度アップした文章をあわてて書き直しました。私が考えそうなことはすでに織り込み済みだったわけです(笑)。

私も貴重な指摘だと思うのですが、ひとつだけ疑問があります。
それは謙信の官途と関東管領職の関係です。謙信も弾正少弼の官途をもっていましたが、これは関東管領職就任以前の補任でしたよね。
だとすると、関東管領職に就任したのちはこの官途はどうなるのでしょうか? 謙信も仮名で呼ばれることになるのでしょうかね。

といっても思いつきませんが……。
若い頃は平三景虎でしたが、まさか上杉平三と名乗ったとも思われません。
とすれば、謙信は山内上杉家に変則的に養子入りしたために、呼称が歴代当主とは異なったということになるのでしょうか。

とすれば、謙信を飛び越して三郎景虎だけが従来の正統的な関東管領職だとするのも、少しおかしい気がしますが……。


三郎輝虎では?
かわい
 堆積した本の山に阻まれて『戦國遺文』を確認できないまま書いていますが、そもそも景虎は北条三郎なのでしたっけ?
 北条家では三郎は幻庵の系統の仮名だったと記憶しているのですが、だとすると景虎の元々の仮名をそのまま上杉家で使ったことにはならないですよね。上杉に入って三郎になったことになる。
 で、思ったのですが、謙信は平三の平を取って三郎を称していた、と考えることはできないでしょうか。

 このへん、養子入りする前の景虎を考証する記事の記憶があって、『歴群』の旧赤本と『戦國遺文』の両方を探していたのですが、どちらもいまだに見つからないもので、思考の垂れ流しになってしまったことをお詫びします。ご容赦ください。

北条三郎
桐野
かわいさん

初期の歴史群像シリーズ⑭『真説・戦国北条五代』は1989年刊ですが、いまもって有用な文献ですね。一般向けでこれほど高度でわかりやすい北条氏の概説書はないと思います。

で、上杉三郎景虎についても同書に記事があり、「別人だった氏秀と景虎」と題して黒田基樹氏が執筆しています。

それによれば、上杉三郎は北条氏康八男で、一度北条幻庵の婿養子となって北条三郎と名乗り、越相同盟の成立によって謙信の養子となり、上杉三郎と名乗ったとあります。

「三郎」はご指摘のとおり、幻庵の婿養子になったときの仮名です。そして上杉家に入ってからも「三郎」と名乗ったわけですが、幻庵家での名乗りをそのまま使ったと考えてもそれほどおかしくないのではとも思います。

とすれば、「三郎」は関東管領上杉家に固有の仮名だったわけではないことになりませんんかね?
もし三郎景虎が関東管領職を継いだか、継ぐ予定だったとすれば、山内上杉家の慣例に従って、「三郎」から「四郎」もしくは「五郎」に改名する手続きが必要だったということにならないのか。
それとも、仮名の世襲はそれほど問題ではなく、官途名を名乗らず、仮名を使いつづけること自体を重視するのか、見解が分かれそうなところではあります。

謙信の場合、上杉憲政の養子となり、小田原城を攻めたのち、「上杉三郎輝虎」と名乗っているのか、『上杉家文書』などを調べたほうがいいかもしれませんね。
これについては、要調査ということで。



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イエズス会の世界戦略

体調を崩して二日間書き込みできなかった。

高橋裕史氏が講談社選書メチエから10月に刊行したものである。新刊ではないかもしれないが、私の問題関心とも関わる興味深い本である。

帯の惹句に「宗教的情熱の下に隠された、宣教師たちのもう一つの顔」とあるように、イエズス会の世界進出を可能にした源泉をその軍隊的な組織力に求めるとともに、宣教師たちがスペイン・ポルトガルの世界戦略・植民地主義の先兵だったことを立証しようという意欲作である。

個人的に興味深かったのは、「第七章 聖衣をまとった戦士たち」である。イエズス会が大友宗麟・有馬晴信・大村純忠など九州のキリシタン大名に大砲・鉄砲・硝石など軍事的な援助をしたことは知られるが、その後、反キリシタン大名の攻撃からの自衛の必要から、長崎住民の武装化、長崎の軍事要塞化へと発展し、フィリピンのマニラからスペイン軍隊の派遣まで要請するほど、日本イエズス会の軍事的「自立」が進んだとする。イエズス会がこれほど九州で軍事力を強化した背景には、庇護を求めるには九州のキリシタン大名たちが脆弱すぎたことによるという。
秀吉がイエズス会を警戒してバテレン追放令を発したのもわかるような気がする。

この点で、九州と上方でのイエズス会のありようが異なっていたといえよう。つまり、上方ではイエズス会はほとんど武装していない。それは彼らを庇護できるだけの強力な権力者が存在したからである。ほかならぬ信長である。

近年、信長の天下統一事業にはイエズス会の軍事援助があったとする仮説が出ているが、主客転倒であろう。
同書にも、高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』(岩波書店、1977)でまとめられた日本イエズス会の年間経費の一覧をさらにわかりやすく整理して掲げられている。信長時代と秀吉時代の一部を挙げると、

1571年(元亀二) 2.000クルザド
1572年       3.000
1575年(天正三)  4.000
1576年       5.000
1578年       6.000
1580年       6.000~8.000
1581年       8.000
1582年       20.000
……………………………………
1583年       10.000
1586年       11.300
1587年       15.000



信長時代、キリシタン保護政策により、信者鰻登りに増え、宣教師・修道士も増加したので、それに伴い、イエズス会の年間経費は漸増し、本能寺の変のあった1582年は最高額に達している。
信長死後、経費が漸減しているのは、最大の庇護者を失い、活動基盤が狭められたからだろう。
数字からみても、信長の死はイエズス会にとって大きな打撃だったのである。近年、本能寺の変について、イエズス会黒幕説が出ているが、みずからの利益を損なうために信長を殺さねばならないのかという素朴な疑問がぬぐいきれない。

クルザドというポルトガルの貨幣単位が、当時の日本でどれくらいの貨幣価値を有していたかといえば、『イエズス会日本年報』には、金1.000両が7.000クルザドとなっている。つまり、金1両が7クルザドだから、20.000クルザドは2857両ということになる。

問題は、最大に見積もって年間3.000両足らずの財政基盤しかもたない団体が、果たして信長にどの程度の軍事援助を提供できるのか、またそれは信長の天下統一事業にとって、どれほどの影響力を持ちえたかという点だろう。

講談社選書メチエ
『イエズス会の世界戦略』
著者: 高橋裕史
発行年月日:2006/10/10
ISBN:4-06-258372-0
定価(税込):1,733円



【2006/12/18 11:52】 | 信長
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クルザド
かわと
私もこの本買ったんですが、まだ読んでません…。

私も金銀流通の関係からイエズス会関連の史料をめくったりしたんですが、信長の援助額はすごいですね。確か大友では2000クルザド(クルサド)ぐらいで、信長の初発段階とほぼ同額だったようです。もっとも大友の方が少し早いですが。

ところで「クルザド"cruzado"」ですが、これを単なる「尺度」として用いているのか(元々は重さの単位らしい)、銀価格として使用しているのかが、私としては気になってます。後者だとすると、永禄年間から大友は銀で援助していた、ということになるわけですが。
ただし、イエズス会士は銀を価値尺度の基本単位として計算していたであろうことは確かなようです。

すみません。完全に独り言でした(笑)。

クルザド、金、銀
桐野
かわとさん

クルザドが銀の秤量単位だとすると、たしかに銀換算がいいのかもしれませんね。

私が金換算で書いたのは、『イエズス会日本年報』(一五八二年の日本年報追加)での、本能寺の変後、明智軍が安土城を占拠して、その御金蔵から金銀を略奪した記事のなかに次のように記されていたことに拠っています。

「高貴な人達には各々金の一両、一千すなはち七千クルサドを与へた」

ちょっとわかりにくいですが、金1.000両=7.000クルザド(金1両=7クルザド)という関係を示していると解していいですかね?
ここでは、イエズス会は金をクルザドに換算しているようです。

一方、『兼見卿記』によれば、光秀がその後、京都五山や大徳寺・妙心寺に銀子100枚ずつ配っています。この一件について、『~日本年報』には次のように記されています。

「これを五山と称したが、この僧院に各々七千クルサドを贈って、信長の葬儀を行はせた」

つまり、銀子100枚が7.000クルサドと等価になっています。とすれば、銀子100枚と金1.000両も等価になるのでしょうか? 

銀子1枚=金10両

というレートはちょっとおかしいような気もします。
銀子1枚が10両だとしても、ちょっと不等価ではないでしょうか。下記によれば、銀子1枚は75両程度にならないといけないですね。

たとえば、奥野高広『織田信長文書文書の研究』上の153号には、

「金子ハ拾両之代拾五貫文、銀子ハ拾両之代弐貫文たるへし」

とあり、これを換算すれば、

金:銀=15:2=7.5:1

という交換比率になるのは有名な話ですね。

となると、最初の金のクルザド換算が間違っているのですかね? 頭が混乱してきました。
安土城の御金蔵の金は「悉く一定の目方の棒」だったとあります。これが1本で1両換算だと思いますが、ここからよく考えないといけないのでしょうかね。




度量衡は苦手ですが…
かわと
ロドリゲスの『日本大文典』によると、1クルザドは10匁と書いてありまして、1両=京目4匁5分とすれば、17世紀初頭段階では、1クルザドはおよそ2両になります。

ですので、金1両=7クルザドだとすれば、銀では14両ぐらいと等価になりますので…、信長段階からすると金の銀比価が倍ぐらいになっていることになるんですかねぇ…。

いずれにせよ、金と銀の比価が同額になることはあり得ない一方、金1両=7クルザドの等式の方が事実に近いように思います。
ですので、明智光秀の五山への分与に関する記述の方に齟齬がありそうな気がします。実際は銀だったのに、これを書いたフロイスが金と聞き間違えた、とか。

ちょっと苦しいですが、今のところ、そういう想定しかできないですね。

大徳寺の史料から
桐野
かわとさん

光秀の五山などへの分与は、請け手側のひとつ、大徳寺に、次のような光秀自筆文書があります(『大徳寺文書』)。

「 大徳寺
 銀子百枚
  日向守」

銀子であるのは間違いないですね。

それに関連して、大徳寺にもうひとつの史料があるのを忘れておりました。『龍宝山大徳寺誌』に次のようにあります。

「方丈・南門、明智日向守光秀所建、故名明智(門脱カ)、日向守光秀弑其君信長公、知命不保、納白金千両於本寺、為冥福、因建方丈・南門」

大徳寺の方丈と南門は光秀の寄進で建てたようで、南門はもとは明智門と呼んでいたようです。
光秀の寄進は信長を討ったのち、その供養料という名目で行われ、金額は「白金千両」だったと思われます。これが先の『大徳寺文書』の「銀百両」のことでしょう。ちなみに、白金は銀のことですね。

としますと、「銀百枚」=「白金千両」という関係が成り立ちます。
つまり、銀100枚=銀1.000両ということになりますね。
金か銀かは別にして、1.000両=7.000クルザドという公式は一応矛盾なく成立します。

ただ問題は、銀100両と金100両が等価なのかどうかという点です。
銀はもともと秤量ですから、金のように何枚とか何両という数え方はしないはずです。
ところが、ここではあえて銀を両換算しているということは、この「両」は金に準じたものととらえれば、一応矛盾は解消します。

そういう考え方が成立するかどうかははなはだ怪しいですけど(笑)。
 

フロイスに学んで
かわと
先に書いたコメントが説明不足でした。

明智光秀が寄進をしたことについて見聞した『イエズス会士日本通信』所収ルイス・フロイス(だったかと)の書翰において、

「これを五山と称したが、この僧院に各々七千クルサドを贈って、信長の葬儀を行はせた」

の記述が、本来は「銀」であるのに、「金」とフロイスが誤解してその価格を計算したのではないかと思われまして、それゆえ金1000両=7000クルザドという計算式が後に続いたのではないかなぁと。
そうだとすれば、銀1000両=7000クルザドという等式は成立しないものと考えられます。

そこで小葉田淳『金銀貿易史の研究』(法政大学出版局、1976年)を繰ってみると、16世紀の金銀比価について言及がありました。

信長が制定した永禄12年(1569)については、桐野さんが既に1:7.5であったことをお示しになっていますが、その後天正前半にかけて金の銀比価が上昇して1:12ぐらいになった後、天正10年(1582)頃はおおよそ1:10程度になるようです。

孫引きなんですが…小葉田さんが引用しているフロイス『日本史』の一節に、次のような文章があるそうです(どのあたりに書いてあるのか、確認できてませんでして…)、

「或る人が他の人に何本"barre"の金または銀を贈与したとある場合に、その一本を日本では一枚と称し、或る限られた重さを持つ。すなわち日本には鋳造された金貨または銀貨なるものはなく、その重さによって取引される。(中略)銀の一枚は4テール3マースの重みがあり、わが国の貨幣では4クルザド6ヴィンテンに相当する。金の一枚は、四三銀一枚"43 Silver Ichimai"よりなり(かわと注:この部分は不詳)、43クルザドに相当する。」

最初にこれを見ておけば良かったです(笑)。これによると、
銀1枚=4.6クルザド
となりますが、「テール」が中国の「両」に相当するならば、約37gだそうですので、1枚は約159g。1匁を3.75gとすれば、1枚は約42匁で、1両=4匁5分とすれば、1枚は約9両になります。やはり銀も1枚=10両であると考えた方がよさそうです。
一方、
金1枚=10両=43クルザド
とフロイスは認識していたようですので、金と銀の比価は1:9.3となり、おおよそ符合します。
やはり金と銀の価格差はこの辺りにあったと考えた方が良いように思います。

以上をまとめると、
銀1両=0.46クルザド
金1両=4.3クルザド
あたりで推移していたと思われます。これだと先に『日本大文典』で書いた1クルザド=銀約2両という記述とも齟齬が無いと言えますね。ただ金1両=7クルザドとする一連の記述とは少し差異があるわけですが…。この辺は、変動幅の範囲内と考えていいかどうか、課題は残るところです。

勉強になりました
桐野
かわとさん

詳しいご説明、有難うございます。
やはりご専門と重なっている分野だけに、史料のどこを見ればよいか、よくご存じですね。大変勉強になりました。今後、大いに参考にさせていただきます。

信長時代と近世初期、わずか30年ほどの間に金銀の為替レートにかなり大きな変動が生じているようにも見えますね。相対的に金の価値が上がっていると考えてよいのでしょうか。

あるいは、イエズス会史料が金銀とクルザドの価値関係について大雑把すぎるだけなのかもしれませんが。


金価格と銀価格
かわと
あくまで生半可な知識に基づく私見ですが、16世紀後半から17世紀初頭にかけては、金価格の上昇を見るより、銀価格の下落を見る方が良いかもしれません。
世界的には、主流となっていた石見銀を押し流すほどの莫大な量の南米ポトシ銀が席巻して、銀がだぶつき気味だったようです。

もっとも日本はやはり銀の産出国だからか、世界水準と比べて銀価格がやはり低かったようで、この時代は基本的に金が流入する一方、銀は流出し続けたと考えられています(前掲小葉田著書参照)。

これは妄想ですが、日本で銀価格が下落傾向だったのは、秀吉が金に執着したせいで国内需要が伸びなかったせいかもしれません(笑)。

金と銀
桐野
かわとさん

当時、メキシコ銀と日本銀で世界の銀産出量のほとんどを占めていたというのを読んだ記憶があります。

銀の増産によって、その価値が金に比して低下したというメカニズムは素人の私でも理解できます。

秀吉の金への執着は有名ですね。銀が国際的な決済通貨になっているなかで、銀との差別化から金の占有を一種の権威の源泉とでも考えていたのでしょうか。もっとも、それには大名や大衆の拝金思想が抜きがたくあることが前提ですが。

家康も知っていた倭国年号
いしやま
最近珍しい書籍を教えてもらいましたので、ご存知かもしれませんが、紹介します。
安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本に布教に来て、日本語教科書を作るため、日本文化を幅広く聞き書き収集して著した、「日本大文典」という印刷書籍です。
400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。
興味深いことに、この本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人が聞き書きした、日本の歴史が記載され、倭国年号から大和年号に継続する522年善記からの年号が記載されています。この頃あった、古代からの日本の歴史についての考を知ることができる タイムカプセル でしょうか。家康はこの倭国からの王朝交代を知っていたはず。この内容はウィキなどどこにも出ていないようです、もう既に見ていますか。
ついでに
倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 720年日本紀と 日本書紀 は別物という考証です。
宜しくお願いします。


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表題のシリーズで知られる京都の臨川書店からダイレクトメールが来た。

何と既刊本の60%オフという画期的なセールを来年1月末まで展開するというのだ。私の守備範囲だと、

晴右記/晴豊記 6.300円 → 2.520円
家忠日記    6.510円 → 2.604円
多聞院日記1~5 29.400円 → 11.760円


ほかにも、次のような有名な史料も、みな60%オフである。

歴代宸記、花園天皇宸記/伏見天皇宸記、権記/帥記、中右記、兵範記、山槐記、康富記、親長卿記、小右記、愚管記、親元日記、蔭涼軒日録、大乗院寺社雑事記、鎌倉年代記/武家年代記/鎌倉大日記 etc

いつもすぐには必要なさそうだと思って、図書館での閲覧ですませていたけど、親長卿記や大乗院寺社雑事記(何と7.980円だ)などは触手が動くなあ(笑)。  

予算などの関係で見送っていらした方、古書よりもさらに安く、しかも新本で入手できますよ。

この大胆なセールは来春が臨川書店の創立75周年を記念しての謝恩セールとのことですが、今後、このシリーズの重版はなく、品切れでもって絶版にする旨、明記してあります。
読者や研究者にとっては、うれしくもあり、淋しいことですね。 

【2006/12/16 12:16】 | 新刊
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かわと
情報ありがとうございます。
私も噂には聞いていたんですが、やっぱり本当だったんですね。私にはDM来てないので、それでも買えるかどうか確認してみたいと思います。
大乗院と多聞院と蔭凉軒は欲しい…。

この機会にぜひ
桐野
かわとさん

同シリーズは中世史料が多いですから、私よりもかわとさんのほしい史料がたくさんあるでしょうね。

DMの有無と関係ないと思いますので、同社に問い合わせされたほうがよいと思います。

歴史関係の出版社には厳しい状況がつづいているようですね。

痛し痒し
かわと
問い合わせてみたところ、無事注文することができました。なんでも「大変注文が殺到している」そうですので、早めに手を打った方が良さそうです。

長期的に見れば、絶版というのは厳しい状況ですね。続群もですし、研究環境の悪化について学界全体の問題として考えないといけなくなってきたかもしれません。

負のスパイラル
桐野
かわとさん

じつは私も「親長卿記」「大乗院~」など何点か注文しました(笑)。
個人的にはうれしいのですが、史料大成という良質な基本史料のシリーズが絶版になるのは淋しいですね。
後続の研究者には大きなマイナスですし、長期的には研究活動にも影響を与えそうです。
これらの史料本をもっとも必要としている学生・院生・若手研究者には経済的余裕がないために部数がはけない。したがって、史料本は高価にならざるをえない、そうなるとますます手が出なくなるという負のスパイラルですからね。
出版社の経営基盤維持のために何とかできないものでしょうか。





悩ましい問題
かわと
元々学問そのものが対価を生まないというのが、いかんともしがたいところですね。
せめて版元の著作権のあたりで、なんらかの措置が講じられるといいんですがね…。
たとえば史料のデジタル化(打ち込み)は、何人か集まれば手弁当で可能ではありますので、著作権がクリアできれば、廉価での頒布も可能になるかもしれないのですが。

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本日、霞会館(旧華族会館)に出かけた。

今年六月、都内・武蔵野大学で開催された連続講座「薩摩藩と明治維新」の関係者が集まり、次年度の企画を打ち合わせようというのである。

メンバーは、肝煎りの島津晴久氏(重富島津家当主、島津久光子孫)、講師をつとめた大久保利泰氏(利通子孫)、榎本隆充氏(武揚子孫)、それに私、そして主催者側と会場撮影を担当し、DVDまで作成したプロダクションの担当者である。

前回は有料のうえ平日開催だったが、それでも毎回100人を超す方々が聴講された。次回は土曜日午後開催を考えたいとのことだった。

講師は、私以外は有名人の子孫であり、ご先祖の逸話や史料など、いろいろ話題をお持ちである。だから逆に、何を演題にしたらいいか迷っておられる感じで、主催者や制作プロダクションの意見も参考にしながら、あれこれ語り合い、ある程度詰めた。

私の場合は、錚々たるお歴々を前にして、刺身のつまのようなものだから、再来年の大河ドラマがらみで、「大河『篤姫』の見どころ」といったところでどうだろうかと話したところ、タイミングもちょうどよく前宣伝にもなるのではと、すんなり決まった。

榎本さんから、武揚の父、榎本円兵衛(箱田良助)が伊能忠敬の内弟子で、全国の測量に同行し、とくに薩摩藩領の測量にも加わっているという奇遇を聞かされた。

そういえば、『鹿児島県史料集』に伊能忠敬の鹿児島測量の史料があったなと思って、帰宅して見てみると、たしかに箱田良助が出てくる。さっそく榎本さんにお送りしてみようかと思っている。

『伊能忠敬の鹿児島測量関係資料並に解説』(鹿児島県史料集Ⅹ、鹿児島県立図書館)

制作プロダクションの担当者は非常に熱心な方で、DVD作成にあたって、綿密な打ち合わせをし、さらに講演以外に追加の取材や撮影もして編集された。私の以外はなかなかの力作に仕上がっている。
そして司馬遼太郎とお付き合いがあったそうで、手がけられた司馬氏の著作をいただいた。多謝。


【2006/12/16 00:14】 | 雑記
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見どころ…
駿太
>「大河『篤姫』の見どころ」

重富の海辺を幼い篤姫と小松帯刀がアハハハウフフフほーら捕まえてごらんよ~……なんてことは、格調高いそのお席ではお話しませんよね?(笑)
すみません、格調高いblogにこんなこと書いて。不適切でしたら削除してください。

おじゃったもんせ
桐野
駿太さん、ようこそ。

当ブログに欠けているのは、駿太さんのような軽妙洒脱さでして、こればっかりは性格的に出せそうもありません。

だから、色を添えていただける書き込み、大歓迎です。

篤姫と小松の出会いがどんなものになるか楽しみですね。「翔ぶがごとく」との差別化を意識したドラマになりそうな気がしますから、幕末薩摩藩の別の側面を見せてくれて、唸らせるようなものに仕上がってほしいです。

あと、キャスト予想も面白そうですね。
私、「義経」で常磐御前を演じた稲森いずみを買っておりまして、この人はトレンディ系よりも時代劇がじつは似合うんじゃないかと思いました。何より鹿児島出身です。

個人的には、彼女にお由羅の方をやってもらいたいですけどね。どうでしょうか? 国生さゆりよりも似合っていると思うのですが……。



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いま信長ネタを書いたばかりだが、信長がらみの重要情報があるのに気づいた。

京都新聞滋賀版の記事。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061214-00000047-kyt-l25

信長が狩野永徳に描かせてローマ法王に贈ったとされる安土城の屏風絵を探すために調査団が派遣されるという。

この屏風絵は400年以上行方不明となっており、バチカンのどこかにまだしまい込んであるのではないかと囁かれていた。これまでも、NHKなどが探したが、見つかっていない。
今回はこれまでと異なり、かなり徹底的に調査するようである。

この屏風絵が見つかれば、諸説ある安土城の真の姿が明らかになるといわれてきた。
朗報がもたらされることを期待したい。


【2006/12/15 02:21】 | 信長
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歴史公論信長

昨日書いた戦前の雑誌というのは、『歴史公論』誌の1936年(昭和11)6月号のことで、織田信長の特集である。
以前からその一部はコピーしてもっていたが、古書で格安な値段で出ていたから、思い切って購入した。

徳富蘇峰が巻頭言を書き、東京帝大の史料編纂官の花見朔巳、伊木寿一のほか、
イエズス会研究者の岡田章雄、
城郭研究者の鳥羽正雄、
のちに著名な史家となる桑田忠親、
国文学者の暉峻康隆、
茶道史研究でも知られる永島福太郎、
伝記作家の坂本箕山

などが執筆者に名を連ねている(敬称略)。

時代の制約もあろうが、収録された論考は玉石混淆である。史実と物語がごっちゃになっているのも多く、とくに坂本箕山のものは読むに堪えない。

そんななか、面白かったのは永島福太郎の「洞ヶ峠と湖水渡り」という論考である。
題名からもわかるように、筒井順慶の日和見の代名詞となった洞ヶ峠と、明智秀満の琵琶湖渡りを史料に基づいて検証しようというものである。

洞ヶ峠については、『多聞院日記』などに基づいて、筒井順慶は郡山城に籠城していたから同峠にいるはずがなく、むしろ、『蓮成院記録』の記事から光秀がいた可能性が高い、その目的は順慶を手中にするためだったとする。現在でも十分通用する論考である。

明智秀満の湖水渡りについては、まず秀満の呼称を問題にし、左馬助とか秀俊とか光春は間違いであり、明智弥平次秀満が正しいと論じるなど、じつに的確である。
そして、湖水渡りについても、『川角太閤記』などの記事は俗説で信用できないと切り捨て、『秀吉事記』(いわゆる『天正記』)にある小舟で渡ったというのが正しく、そこから尾ヒレが付いて俗説が形成されたと論じる。
70年前の論考だが、実証主義に徹したその研究態度はじつに見事である。

あと、年来の疑問がぶり返ったのが、伊木寿一の「織田信長の自筆文書及び天下布武の印に就いて」という論考である。
年来の疑問が何かというと、細川家所蔵の信長朱印状の年次と、文中にある「猿」が誰かという問題である。この朱印状の全文を掲げる。

  猿帰候て、夜前之様子具言上候、先以可然候、
 又一□を差遣候、其面無油断雖相聞候、猶以可入勢候、
 各辛労令察候、今日之趣徳□ニ可申越候也、
     三月十五日  (天下布武朱印)
   長岡兵部大輔とのへ
   惟住五郎左衛門尉とのへ
   滝川左近とのへ
   惟任日向守とのへ


まず年次の問題。
伊木はこの朱印状の年次を不詳としている。信長文書の年次といえば、まず奥野高広『織田信長文書の研究』下をチェックしないとならないが、これには上の信長文書は収録されていないのではないか。補遺編も含めて見てみたが、見当たらない(見落としの可能性もあり)。

一方、細川家譜である『綿考輯録』一(藤孝公)には、この信長文書がちゃんと収録してあって、年次を天正六年(1578)の丹波攻めのものだとしている。さらに、上の不明文字も「一□」が一若、「徳□」が徳若と翻刻している。一若は若い頃、秀吉と一緒に信長に仕えた小者である。徳若もおそらくそうだろう。
『太閤素生記』(改訂史籍集覧)に、秀吉が信長に仕え始めた頃の記事がある。

 其比、信長小人ニガンマク・一若ト云テ小人頭二人アリ、
 彼一若中々村ノ者也、


秀吉と同郷の一若が実在したことはほぼ確実である。なお、ガンマクも本能寺の変を安土に急報した人物である。

年次が天正六年というのはほぼ動かないだろう。『信長公記』同年の四月十日条に「滝川・惟任・惟住両三人丹波へ差遣はされ」云々とある。上記朱印状は三月で一月ずれているし、宛所が四人で一人藤孝が足りないが、これとは別に同年三月四日付で、信長が藤孝に宛てて丹波に出陣するよう命じた朱印状があるから、四人が揃うし、丹波攻めの軍令が下ったのが三月だったことが確認できる。

なお、奥野はこの文書を収録していないが、上に挙げた藤孝宛ての信長朱印状(三月四日付)の解説で、「三月十五日信長は光秀・一益・長秀・藤孝の四人の行動を是認し、なお油断するなと戒めている」と述べている。これは明らかに上の信長朱印状の内容を念頭に置いたものだろう(存在を知っているのに、なぜ収録してないのか)。

次に「」は誰かという問題。
伊木はこれを羽柴秀吉だとし、俗説も満更捨てたものではないと解説している。その後、この説を多くの研究者が踏襲している。だが、果たしてそうなのか。

①まず、この時期、秀吉は播磨にあって、本願寺=毛利方に寝返った別所長治の三木城を攻めていた。その秀吉が安土の信長のところに帰って「夜前之様子」を伝えたことになるが、まったく具体性がない。丹波方面に在陣している四将にとってみれば、播磨表の情報がこれだけでは何のことだかさっぱり不得要領ではないだろうか。明らかに筋違いの情報伝達である。

②この時期の秀吉を、いかに信長とはいえ、公式文書で気軽に「」と呼ぶとは思えない。三年前に秀吉は筑前守を勅許されている。その正式名称を用いないのは、家臣の手前どうなのか。

③「」は信長お抱えの小物頭ではないのか(秀吉も小者から小者頭に昇進した)。
」を「一若」「徳若」とともに三人をセットで考えたほうがよいのではないか。この三人が信長の命を受けて、丹波表にいる四将との連絡にあたっていると解したほうが自然ではないか。

④そうだとすれば、「」という名の、秀吉ではない別の小者が信長のそば近くにいたことになる。考えてみれば、信長が秀吉夫人おねに宛てた有名な訓戒状では、秀吉のことを「はげねずみ」と呼んでいた。秀吉の綽名としてはこちらのほうが信憑性があるのではないか。

というような疑問を抱いていたのだが、結局、よくわからないままで、疑問がさらに深まるのである。
このところ話題が幕末ばかりで、久しぶりに信長を書いたような気がする(笑)。



【2006/12/15 01:48】 | 信長
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ロアン
初めまして、ロアンと申します。

早速ですが、ご指摘の信長黒印状は、『織田信長文書の研究』下巻の271ページに写真と共に掲載されてます。年次は、天正6年ではなく、天正5年に比定されてます。
「猿」については、以前より秀吉ではないと思っていましたが、年次の確定など、なかなか面白い信長文書だと思います。以前、岐阜の博物館で特別展示されているのを見て、猿は秀吉ではあり得ないと直感しました(笑)。文書自体は、かなり虫食いが激しかったです。

『歴史公論』の該当号、僕もかなり以前に、やはり古書店で入手して書架に収めています。
その頃は、ネットなど無い時代でしたので、店頭で見つけて早速購入しました。
論文のいくつかは、今日の批判にはも十分に耐えられるものがあると思います。


天正五年か六年か
桐野
ロアンさん、はじめまして。

ハンドルは半井驢庵から取られたのでしょうか。
コメント有難うございました。

例の細川家文書、『織田信長文書の研究』の天正五年に掲載されているとのこと。さっそく確認しました。信長の自筆文書だとのことで、わざわざ写真版まで掲載されているのに見落としてしまい、恥ずかしいかぎりです。ご指摘有難うございました。

う~ん。天正五年説もありそうですね。
『信長公記』によれば、雑賀攻めのとき、浜手を進軍した織田軍に滝川・惟任・惟住・長岡の四将がそろい踏みしていますね。

私は『綿考輯録』の年次比定に従って、天正六年だと書いてしまいましたが、同年との整合性はあるというだけで、同五年との整合性もあるとなると、決められませんね。短い書状ですし、ほかに年次を推定できるような材料がありそうもないですね。

ロアンさんはこの原文書を肉眼で見られたのですね。そして「猿」≠秀吉というお説とのこと。心強く思いました。差し支えなかったら、そう思われた理由などお聞かせ下さい。

猿=秀吉について
岐阜少将
はじめまして。
いつも興味深く読ませていただいています。

今回の記事を読み、一つ思うことがあったので伺いたいのですが、秀吉のあだ名が猿というのは一体どこから来たものなのでしょうか?
ドラマや小説等で秀吉が「猿」と呼ばれることが多いので「秀吉のあだ名=猿」とさも当たり前のように思ってきたのですが「はげねずみ」のように文書などの一次史料に残っているものなのでしょうか?それとも後の編纂物等によって書かれたものが由来なのでしょうか?

有名な話なのかもしれませんが、私自身専門的な知識を持ち合わせていないもので…御教示頂ければありがたいです。

秀吉の「猿」呼称
桐野
岐阜少将さん、はじめまして。

ロアンさんといい、いかにもなハンドルでとても楽しいです(笑)。

コメント有難うございます。
秀吉が「猿」と呼ばれたかどうかというのは難しい問題ですね。

まず、信長が秀吉を何と呼んだのかという点に関して、現存の一次史料で確認できるのは「はげねずみ」だけだということ。
また紹介した信長朱印状に「猿」という文言があるが、秀吉を指すかどうか不明だということです(『綿考輯録』の解説には、信長の忍びだとしています)。

あと、一次史料で秀吉を「猿」と呼んだ例もありますね。「京中落書」と呼ばれるもので、天正19年(1591)に成立したものです。秀吉のたび重なる天下普請による負担強化に対する諷刺です。

 まつせ(末世)とは別にはあらじ、 木の下のさる(猿)関白を見るに付ても

という強烈な落首です(笑)。
一般庶民にも秀吉の猿顔は有名だったようです。

編纂史料には、秀吉が「猿」と呼ばれたと思わせるものがありますね。
『太閤素生記』(改訂史籍集覧十三)は、秀吉を知る人への聞書である程度の信はおけるとのことですが、たとえば、秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とあります。これなどは家族が「猿」と呼んでいたことを示しているのかもしれません。

また放浪時代の秀吉が松下加兵衛に見出されたとき、加兵衛が秀吉を見た印象を次のように書いて居ます。

「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」

さらに時代が下って『絵本太閤記』になると、幼少の秀吉の容貌について「其面猿に似たり、名を日吉丸と号けれど(名付けれど)猿によく似たりとて人みな猿之助とよび習はせり」とあります。

日吉丸という幼名は真偽定かではありませんが、比叡山の日吉山王のご神体は猿ですから、日吉信仰と何か関連があるともいわれていますね。

以上から、一次史料でも秀吉が「猿」顔だったことは確認できます。
編纂史料でも、秀吉が「猿」かそれと類似した名前もしくは綽名があったようですね。

あまりお答えにはなっていないかもしれません。
この問題について、ある程度論じているのは、小和田哲男『豊臣秀吉』(中公新書)がありますので、ご紹介しておきます。


横レスですが・・・
板倉丈浩
桐野さんの説明に補足しますと、『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」としていますね。「ガンマク・一若・猿三人の小人頭の内、猿は秀吉也」とも記しています。
また、蒲生氏郷が朝鮮出兵を批判して「猿め、死処を失うて狂うたか」と吐き捨てたというエピソードは有名です(武功雑記)。
秀吉の字(あざな)が猿に似ていたので「猿之助」だとするのは『明良洪範』が元ネタのようです。

信憑性の高そうな史料で見ますと、毛利家臣・玉木吉保はその自伝で秀吉を「赤ひげ・猿眼」と描写しています(身自鏡)。
秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」と報告しています(懲録)。
イエズス会宣教師の報告書の中にも、信長の鷹が足に縄をつけたまま飛んで高い木に引っかかって動けなくなったときに、秀吉が素早く木に登ってほどいたことがあり、また容貌も猿に似ていたので「サル」と呼ばれるようになったという記述がありました(1600年報)。

こうして見ると、秀吉の顔が猿に似ていたのは間違いないようなのですが、もともとの名前が猿なのか、ニックネームが猿なのかは史料不足でちょっと確定できませんね。
当時の史料で秀吉を猿と呼んだ記録がほとんどないので、秀吉がそう呼ばれることを嫌ったとも考えられます。自分の過去を語ることがほとんどなかったようですし、過去を消し去りたかったのかもしれません。

ありがとうございます
岐阜少将
桐野様、板倉様、ありがとうございます。
小和田氏の著作は読んでみようと思います。
大変参考になりました。

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ネットで戦前の雑誌を購入した。
そのうちの一冊は昭和11年(1936)刊行のもの。二・二六事件が勃発した年で、日本が暗い世相になり始めたころである。

頁をパラパラとめくっていると、面白い物が挟まっているのに気づいた。
東京・神田神保町の洋服店の小さな三つ折り広告である(写真をクリックすると拡大します)。
既製服の価格の一覧がある。

 背広10円
 学生服6円80銭
 オーバー6円
 モーニング20円……


いまの物価とくらべて、まさに隔世の感がある。1万倍くらい違いそうだ。
そして、消費者の気を引くように3円の割引券が付いているだけでなく、表には「大東京交通図」、裏には「東京市電車案内図」というマップが付いている。
私たちが駅でよく見かける路線マップと同じようなものである。

大東京」という呼び名。
皇居を中心に東京中に張りめぐらされた市電網。
いまとはまったく異なる東京の姿がそこにある。
そして、私が利用する私鉄を調べてみた。もちろんあったが、最寄り駅は書かれていない。70年前はまだ存在しなかったのである。

雑誌の間に挟まっていたためか、色も鮮明で非常に保存状態がよい。
福島の古書店で購入したものだが、常識的にはその周辺から買い入れたものだろう。福島の人がなぜ東京神田の洋服店の広告をもっていたのか、この洋服店はいまも健在なのかなど、興味が尽きない。

ともあれ、70年前のタイムカプセルで、しばし心が休まった。

【2006/12/14 10:53】 | 雑記
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今夜、古文書講座「幕末の手紙を読む3」の最終回だった。

手紙を読むと銘打ちながら、2回目から日記を読んでいるから、やや看板に偽りありである(笑)。

テキストは幕末土佐藩の重役、寺村左膳道成の日記である。
今回は慶応3年(1867)5月下旬から6月中旬までを読んだ。
四侯会議が挫折したあとで、一種の政局の空白期であるが、病気が癒えた日記の主、左膳は連日のように料亭、茶屋通いの日々である。
それというのも、四侯会議の結果に失望した山内容堂が帰国し、その弟の兵之助豊積が名代として在京しているものの、国事に関わるなという容堂の厳命があったため、在京重役たちはみな暇になってしまい、持てあました時間を、北野天満宮や金閣寺、平等院の見物などに費やし、夜は宴会三昧という日々である。
上京当初、郷里を懐かしがっていた左膳だったが、三条や祇園に通い詰めのセレブ生活が気に入ったのか、帰りたいと言わなくなった。京の水がなじんだのであろう。

それでも、政局は徐々に動いていた。土佐藩の国許では勤王派が勢いを増し、左膳ら在京重役を引きずり降ろそうと息巻いている。
そして、ついに長崎から後藤象二郎が上京してきた。土佐藩の切り札の登場である。
後藤は左膳ら在京重役に、大政奉還→王政復古という「大条理」を滔々と披瀝したので、左膳はその弁舌の素晴らしさにすっかり心酔してしまう。このとき、後藤から話を聞いた左膳ほか福岡藤次・真辺栄三郎は薩土盟約に参画することになる。
もっとも、このときの後藤の「大条理」は坂本龍馬らに吹き込まれたものだった。

今回こそは薩土盟約のところまで行きたかったが、結局、その前で終わってしまった。最後に少し日記を飛ばして、薩土盟約の場に「浪士之巨魁」である坂本龍馬と中岡慎太郎が同席していたことを確認して講義を終えた。この場面が、この日記での二人の初出である。

細かい注釈について。
後藤のことで国許が「以之外相済まざる義」になっているというが、何があったのか。左膳の日記には書かれておらず、宇和島藩で取り沙汰されている。

おそらく公金の使い込みだろうと推測したところ、受講者のみなさんからも賛同があった。宇和島藩が薩摩藩の小松帯刀に事情を問い合わせると、小松は大したことではないと答えたが、土佐藩内ではかなり大きな問題だったと思われる。
帰宅してから調べたら、、佐々木高行の『保古飛呂比』慶応3年3月24日条に次のようにあった。後藤の長崎での行状についてである。

「尤も後藤等は、長崎にて散財甚だしきとて、政府中(藩当局)にも誹り甚だしく、何分今日天下の大変事の出来候場合、区々たる事言うべき時にあらざる候えども、佐幕中の小八木派は尤も刺撃せり」

やはり、長崎での桁外れの「散財」が国許の藩当局で問題にされ、佐幕派の小八木派が後藤の非を鳴らしているというのである。

ほかに、長崎での後藤の一件について、後藤が薩摩藩士の「洋行人」に語ったという一節が『伊達宗城在京日記』に書かれている。
その「洋行人」の薩摩藩士が誰かということになった。薩摩藩の英国留学生の一人だろうから、五代友厚かと推測したところ、町田久成ではないかという受講生の方のご意見があった。このほうが確かかもしれないが、疲れていて、今日は調べる気にならない。とりあえず宿題ということで。

受講生のみなさん、5回にわたる講座へのご出席有難うございました。テキストと関連史料が多すぎて、いつも積み残しばかりでしたが、最後だけは何とかうまくいったように思います。御礼申し上げます。

年が明けると、「幕末の日記を読む」の新講座が1月16日から始まります。引き続いて寺村左膳の日記を読みます。薩土盟約、薩摩藩の秘密討幕計画、大政奉還、討幕の密勅など重要事件が目白押しでいちばん面白いところです。
よかったら、継続参加して下さい。初めての方ももちろん大歓迎です。

詳しくは、以下のサイトの右下の特別講座のコーナーです。
http://www.shopro.co.jp/komonjo/

尚々、
今回からカテゴリーを少し変更して、古文書講座「てらこや」を独立させました。

【2006/12/12 23:02】 | てらこや
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まいたけ君
『伊達宗城在京日記』に出て来た薩摩の「洋行人」は、やはり町田久成(民部)ではないかと思います。
 佐々木高行日記『保古飛呂比』6月29日条には次のように書いてありました。

 松力ニ於テ薩藩大監察町田民部に会す、田中幸助同席ス、民部ハ龍動ニ二ケ年勤学、此頃帰崎、直ニ京都ニ出ルトイフ、西洋談敷事アリ、夜ニ入リ帰宿ス
 (龍動はロンドン。「二ケ年」は中井の大ボラか?)

24日に佐々木と親交をもった中井(田中幸助)が、町田を佐々木高行に紹介したものと思われます。

また、この時期の『伊達宗城在京日記』にも、町田民部は数回登場しています。例えば、6月20日条には、「町田民部参委曲西洋談且皇国大変革之密話スル懐中の折本ニ記ス」と書かれています。

町田は、長崎でも五代と共に土佐と接触していることが岩崎弥太郎日記で確認できますし、講座で取り上げていた「後藤象次郎今日崎ヨリ参候処」と「只今迄崎ヨリ来候同藩士洋行人の由」は同じ日に書かれてますので、もしかしたら、町田久成は、後藤・龍馬・中井と共に、長崎から京にやってきたのではないでしょうか。

『寺村左膳道成日記』6月29日条の「薩藩田中民部等一席也」の「田中民部」は、中井弘(田中幸助)と町田民部二人のことと考えるべきかもしれませんね。

それから、中井が、後藤のことを宇和島藩に告げていた記事がどこかにあった筈と探したところ、『伊達宗城在京日記』6月最終条に書いてありました。後藤は、今回の「大条理」で、長崎での失敗を汚名挽回しようとしていると、中井は語っています。

町田久成
桐野
まいたく君さん

昨日はお疲れさまでした。

いろいろ調べていただき、有難うございました。勉強になりました。『伊達宗城在京日記』の記事は私も確認しました。

「洋行人」はやはり町田久成のようですね。
長崎から後藤・龍馬・中井弘とともに、町田久成も一緒に上京したということですが、そのメンバーが面白いですね。みな大政奉還論者です。

そうそう、左膳の日記に出てきた容堂警固の軍備役支配の深尾山九郎と山川久太夫。国許に帰らせてくれと激しく突き上げ、左膳ら重役を困惑させた二人です。

佐々木の『保古飛呂比』によれば、佐々木は山川と「同志」だと書いています。ということは、山川も勤王派だったと思われます。国許に帰りたいというのは単に里心がついただけではなく、国許で勢力を増している勤王派に合流するつもりだったのかもしれません。
京都藩邸では容堂不在のため、現状維持で何もしない方針ですから、在京していても無駄で、藩内世論を転換させるには国許に帰った方がよいという判断だったのではないでしょうか。

保古飛呂比ももっと読み込まないといけないですね。でも、読み応えがありすぎて(爆)。







まいたけ君
深尾三九郎と山川久太夫は、勤王派でしたか(笑)
それを知って少し調べてみましたら、彼らの行動は「維新功績者調べ書」に載っていました。

二人とも、江戸から来た板垣と会ったり、中岡慎太郎の宿を訪問したりしていますね。面白いのは、会津人が集まる妓楼に入って、会津桑名の気風を探究したりもしたそうです。
板垣が京都に残っていたらよかったのでしょうが、容堂は板垣も連れ帰ってしまいましたから、早く帰国したかったのかもしれませんね。


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昨夜、ある薩摩な会の忘年会があった。参加者の方から表題の新聞記事をいただいた。そして帰宅してみると、京都在住の友人からも同じ記事がFAXで送られてきていた。有難い限りである。御礼申し上げます。

さて、これだけでは何の記事かわからない。これは京都在住の気鋭の研究者、中村武生氏(仏教大学講師)が週刊紙『京都民報』に「京都の江戸時代を歩く」というタイトルで連載している記事のひとつである。なかなか好評だと聞いている。
表題は、そのなかの12月10日付の記事の題名である。副題が「龍馬暗殺①」となっているから、続きもあるようで楽しみだ。

なお、中村氏のブログ「歴史と地理な日々」はリンクさせていただいている。興味のある方はどうぞ。とにかくエネルギッシュな研究者で、その姿勢にいつも刺激を受けている。

坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋事件は旧暦だと慶応3年11月15日だが、新暦だと1867年12月10日にあたる。昨日が139年目の命日だったことになる。

中村氏は記事のなかで、薩摩藩が長州藩だけでなく土佐藩とも盟約を結んでいたし、近江屋事件当日、西郷は京都におらず、大久保は病気の小松帯刀の代理として入京したばかりであり、暗殺協議などできようはずもないこと。またこの緊迫した政局のなかで、土佐藩の重要人物である龍馬を薩摩藩が殺害したら、両藩の円満な関係が破壊されるからありえないと強調している。

薩摩藩黒幕説の論拠は『改訂肥後藩国事史料』にある「坂本を害し候も薩人なるべく候」という一節である。
中村氏はこの史料の取り扱いについて史料批判の重要性を改めて提起している。これは重要な指摘だといえよう。
史料そのものへの検討がなおざりにされたまま、この一節だけが一人歩きした感がある。これに対して、中村氏は、近江屋事件の場合、刺客が誰であろうが、まず土佐藩関係史料が重要で、もし薩摩藩が関係するなら、薩摩藩関係史料がその次に重要になると指摘する。

一方で、その両者とも関係がない肥後熊本藩の史料を扱う場合、同藩がこの情報をどのようにして得たかを明らかにしていない以上、これだけの情報では信用するに足るかどうかわからないと指摘する。つまり、上記の一節は真偽不確かで信用するに値しないという結論である。そして、薩摩藩黒幕説を唱える人に、史料批判の技術を習得するよう呼びかけている。

まことに筋道の通った妥当な指摘である。しかも、『歴史読本』誌に三回連載した拙稿まで参考文献にあげていただいている。光栄なことだ(ただ、題名に少し誤りが)。
友人の中村氏に改めて御礼申し上げたい。


【2006/12/11 10:07】 | 幕末維新
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中村武生
 中村武生です。
 汗顔の至りです。
 ほとんど桐野さんのご成果の紹介にすぎませんのに。
なのにタイトルの誤り(変換ミス)、本当に申し訳ありませんでした。
 ②「うたがわれた新選組」、③「供述した刺客」へとつづきますので、どうかよろしくお願いいたします。
 取り急ぎ感謝とお詫び申し上げます。


桐野
中村武生さん

どうも。ようこそです。
史料批判の必要というのは仰せのとおりで、龍馬関係はえてして忘れられがちですね。自戒したいものです。

連載記事、私の京都の友人も楽しみに読んでるみたいです。龍馬暗殺だけで3回続くんですね。
ご健筆お祈りします。

黒幕は大久保だと思います。
吉田松陰大好き
史料無しで推測により、申し訳有りませんが『京都時代マップ:幕末,維新編』光村推古書院を参考にしますと、大政奉還は10月15日、竜馬暗殺まで1ヶ月あり、薩土同盟を結んだとしても、暗殺協議に発展したのでは?と思います。信憑性に欠けますが、大河ドラマの新撰組では暗殺を企む者にメモを簡粗に渡し(薩摩藩とハッキリしてませんが)、企む者が実行した感じでした。西郷と大久保は竹馬の友で、大久保は西郷に幼い頃より大変世話になっていたから、自分が汚れてもいいと思ったのでは…。西郷の性格では黒幕にはならないと思います。

大久保に動機なし
桐野
史料無しの推測では、なかなか難しいでしょうね。
大久保が鹿児島から入京したのは、龍馬が殺された当日です。西郷に至っては、西国の船上にいました。
仮に大久保だったとしても動機がありませんね。大久保は入京する前に土佐に寄って、山内容堂や後藤象二郎と王政復古のための兵力動員を打ち合わせています。つまり、土佐にも一緒にやろうと呼びかけていたわけですから、土佐藩と敵対する理由がまったくありません。ましてや龍馬を殺害しなければならない理由はありません。
もし大久保や西郷が土佐藩の存在が邪魔で、大政奉還が許せなかったと思ったら、龍馬を殺害しても何の効果もありません。龍馬は土佐の藩論を左右できる立場にないからです。どうしてもというなら、後藤象二郎を殺害しないことには何の実効もありません。

ご覧になった大河ドラマはおそらく「新選組」ですね。史実を重視しようとお考えなら、あまり信用しない方がいいと思います。これで「否定」になったでしょうか(笑)。

否定になりました!
吉田松陰大好き
納得致しました。【黒幕は大久保】と言いながら、自分と同じ姓なので嫌だな~と思っていましたが、スッキリ爽快でルンルン気分となりました。ありがとうございます!

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瀬戸内の海賊

瀬戸内海賊研究で知られる山内譲氏の昨年刊の著書である。
最近は古書ばかりに目がいって、新刊はついおろそかになりがちで、迂濶にも知らずにいた。これも新古書の形で購入したものである。

副題に「村上武吉の戦い」とあるように、三島村上水軍の総帥、村上武吉を中心にした叙述である。
最近、村上水軍の拙稿をまとめたことがあった。そのとき、山内氏の論考も参考させてもらい、大変勉強になった。

私はまったくの門外漢なので御説を拝聴するしかないが、村上武吉といえば、個人的に興味のあるテーマが二つある。

ひとつは、有名な厳島合戦に参戦したのかどうかという点。これは宇田川武久氏が村上水軍(来島と能島の両村上水軍)の不参戦説を唱えてから、自明のことと思われていたことに疑問符が投げかけられた。

この点について山内氏の結論は、
①一次史料に、能島村上氏の参戦を証明するものは確認できない。
②後世史料のうち、比較的信頼できる『森脇覚書』に能島・来島の両村上氏の参戦を記してある。
この①②が現在のところ整合しないので、性急な結論は保留し不明とするというものである。なお、山内氏は来島村上氏の参戦はほぼたしかではないかとしている。

ただ、①について、まったく一次史料がないと断言してよいものか。
毛利元就の嫡男隆元が村上武吉に宛てた感状があり、日付や知行給与の場所から見て、厳島合戦があった弘治元年(1555)のものである可能性がある。山内氏はこの史料には触れていない。
また、山内氏が信頼性が低いとした『万代記』(毛利直轄水軍の川ノ内警固衆の関係者によるもの)のなかに、元就が武吉に宛てた感状が収録されている。これは明らかに厳島合戦に関するものだが、山内氏から見ると、偽文書になるのだろうか?

次に、天正九年(1581)から翌十年初めにかけて、羽柴秀吉が来島村上氏を調略したのに伴って、武吉も調略したのではないかという点である。
これに関連して、福川一徳氏が「天正十年沖家騒動再考」(『四国中世史研究』7号、2003)という論考で、武吉押し込め説を発表した。能島村上氏のうち、武吉が秀吉の調略に応じたため、毛利方に味方する嫡男元吉らが一種の家中クーデターを起こして武吉を押し込め、無理やり元吉に家督相続させたという新説だった。

これに対して、山内氏は福川説とは逆に、元吉が秀吉の調略に応じそうになったため、武吉がこれを引き止めたとしている。
その論拠として、毛利輝元が側近の二宮就辰に宛てた書状を挙げている(『萩藩閥閲録』所収)。そのなかに「此方(毛利方)より心付うすく候故、元吉と家中の者ども腹立ちの由候」云々とある。非常に説得的な史料である。

もっとも、福川説を批判して元吉離反説を唱えたのは西尾和美氏が先である。西尾氏の最近の論考「織田政権の西国侵攻と瀬戸内海賊衆」(『松山東雲女子大学人文学部紀要』12巻、2004)がそうだが、拙稿執筆時点ではこれを知らずに福川説で書いてしまった。恥ずかしい。

西尾氏はこの論考を『戦国期の権力と婚姻』(清文堂出版、2005)に収録している。この本はたまたま別件で買ってもっていた。
それによれば、元吉が秀吉方に奔った来島村上氏と密接な関係にあり、行動を共にしていたが、最終的に父武吉の説得に応じる形で辛うじて毛利陣営に留まったという。
この問題は、西尾氏ならびに山内氏の元吉離反未遂説のほうが説得力がありそうである。

いずれにせよ、村上武吉のまとまった伝記が刊行されたことは喜ばしい。

瀬戸内の海賊―村上武吉の戦い―:講談社選書メチエ
著者:山内譲
発行年月日:2005/02/10
ISBN:4-06-258322-4
定価(税込):1,575円


【2006/12/10 01:25】 | 戦国織豊
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信濃郷土叢書

古書で表題の本↑を廉価で購入した。
信濃郷土叢書の一冊で、1930年(昭和5)刊行の本である。
75年以上前の本の割には美本だった。

松尾多勢子(1811-94)は信州伊那の出身で、幕末期、女性歌人で国学者、尊王攘夷主義者としても知られる。西の野村望東尼(高杉晋作と交流があった人)と並び称される人である。

50歳を過ぎてから幕末の世相騒然たる京都に上り、尊攘派の浪士や公家の岩倉具視らと交流し、足利将軍木像梟首事件の下手人を匿うなど、幕末政局にも関わった女傑である。
「女傑」のイメージが強い人だけど、残された写真↓はこんなに可愛い人である。
松尾多勢子

彼女はまた、赤報隊で有名な相楽総三と交流のあった人で、相楽も何度か多勢子のところに立ち寄っている。相楽の数少ない関連史料のうち、松尾家に少なくとも二点残っている。

慶応二年(1866)、相楽が多勢子の子、誠に宛てた書簡
慶応四年(1868)正月、相楽が同じく誠に宛てた書簡


個人的に相楽総三に関心があって、その事績を調べているが、慶応年間の相楽の足跡に史料不足もあって不明な点が多い。
このうち、上記慶応二年の相楽書簡はその空白を埋める貴重な史料だといえる。

この書簡が知りたくて、以前、図書館でそれの収録されている本から一部複写したことがある。以下のリストのE(復刻本)にあたる。
コピーだけでは物足りなかったので、今回上記古書を購入したわけだが、じつははずれだった。この古書は下記Dにあたり、Eよりも内容がずっと簡略化されていて、相楽総三の部分の記述が存在しないのだ。

以下のリストは、国会図書館のデータベースから引用したもので、すべて伊那の史家、市村咸人の編著になるものである。でも、彼は同じ書名で内容が異なるものを何点も刊行しているので、非常に迷惑している(笑)。Eは復刻版だが、その原本はA~Cのどれかなんだろうか? 序文や解題を複写しなかったので事情がよくわからない。

A.市村咸人全集 第5巻/市村咸人全集刊行会 下伊那教育会 1980.8
B.松尾多勢子/市村咸人 文星堂 大正6
C.松尾多勢子/市村咸人 山村書院 昭15
D.松尾多勢子/市村咸人 信濃郷土文化普及会 昭和5 (信濃郷土叢書第17編)
E.松尾多勢子/市村咸人 大空社 1989.1 (伝記叢書59)

ところで、松尾多勢子は明治末年、その国事奔走の功績を賞せられて正五位を贈られた。
古代からの贈位者2000人以上をリストアップした『贈位諸賢伝』には、女性はわずか7人しか載っていない。そのうち、幕末関係は4人。うち2人が多勢子と野村望東尼である。
維新前になくなった坂本龍馬や高杉晋作も贈正四位だから、多勢子の贈位も大したものである。

歌人としての多勢子も面白い。
文久三年(1863)、足利将軍木像梟首事件ののち、京の長州藩邸には尊攘派浪士であふれており、多勢子もそのなかにいた。多勢子が長州藩主毛利敬親に贈った和歌。

 吹風になびく男花もかれはてゝ 淋しくもあるかむさしのゝ原

「男花(おばな)も枯れ果てて」というあたり、多勢子の自負が感じられる。「むさしのゝ原」とは関東、つまり幕府を意味するのであろうか。

明治になってから、多勢子の勤王事績は賞賛されたが、一方で女性なのに家の勤めを放棄して国学歌道に熱中し、挙句国事に奔走したのはけしからんという批判者もいた。いかにも男権主義の明治らしい。彼らが多勢子に奉った批判の和歌。

 女房のあまり歌読みいかぬもの 亭主を尻に敷島の道

まあ、こうした風潮があればこそ、贈位者に女性が少ないのもよくわかる。ほんの100年前の日本の姿である。

【2006/12/09 10:32】 | 古書
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まいたけ君
大空社の復刻版は、C.松尾多勢子/市村咸人 山村書院 昭15 を復刻したものです。それに加えて、巻末に、高木俊輔氏の解説6ページが付いて居ます。

ありがとうございます
桐野
まいたけ君さん

原典はCでしたか。有難うございます。
まいたけ君さんはもしかして、全部お持ちなんですか?



まいたけ君

 『松尾多勢子』は、今夏の古本市で買い求めました。大空社のこの復刻のシリーズはとてもいいのですが高いので、数冊持っているだけです。他には、『曽我祐準翁自叙伝』『おばあちゃんの一生ー岡上菊栄伝』を持っています。

大空社
桐野
先日、図書館で大空社の復刻シリーズが本棚にたくさん並んでいるのを見ました。200点以上あったような気がします。
昔のいい本はどんどん復刻してほしいですね。



吉田松陰大好き
我が母親は長野出身で、名は『多世子』です。松尾多勢子の名をつけてもらったそうで、母の家ではヒーロー的存在であったようですが、一部ではマイナスに捉えられていたとは知りませんでした。時代背景で見れば納得します。私も母から『世』の字を受け継いでおりますが、本名を明かすと正体がバレそうなので控えさせて頂きます。(ゴンザ露薩語クイズで馬鹿丸出しな為)松尾多勢子の詳細内容、感謝致します。

多勢子と忠敬
桐野
吉田松陰大好きさん

お名前に「世」が付いておられるのですか。昔、某パソ通にその字の付く方がおいででしたが……。

松尾多勢子はもっと評価されていい人だと思います。
明治になって、女だてら(古っ)に国事に奔走するとはけしからん、家庭を顧みよ、なる見当はずれの非難を浴びせられたのは何とも。

多勢子が50歳を過ぎてから国事に関わりだしたのは単なる偶然ではないと思います。おそらく子育てもおわり、母親としての役目を終えたから、余生は自分が好きに生きたいと考えたのではないでしょうか?

一方、佐原の商人、伊能忠敬も50歳で家業から引退し、余生を地図作りに捧げました。その人生のあり方は各方面から賞賛されています。

多勢子だって、伊能忠敬と同じ生き方だと思うのですけど、性別の違いだけで評価が対照的ですね。おかしな話です。

ゴンザクイズ、吉田松陰大好きさんのユニークで笑える解答をお待ちしております。



吉田松陰大好き
「女伊達ら…古っ」と一人コントですか。先生もユニークな方ですよね~。おっしゃる通り、母の話及び長野県新聞では育児など一段落してから幕末志士の援護に当たったとあるので、表面しか見てない者の悪評も残されているとは、いつの時代も浅はかな人間がいて嫌に思います。が、逆に『なりたくない人間』のモデルとなるので少々嫌みっぽいですが、いてくれるとありがたいです。

松尾多勢子
新千暖荘
あるブログで松尾多勢子なる初耳の女傑を教えて貰い、のめり込みつつあります。大空社のものは入手済み、ペリカン社のものは古本で購入。あと一冊入荷待ちです。「やじより」という小説をブログで見付けました。これを掲載したいのですが、了承を得る術がなくちょっと困っています。入門編として最適かと思ってはいるのですが。

はじめまして
桐野
新千暖荘さん、はじめまして。

松尾多勢子の本をいろいろ読んでおられるのですね。
幕末維新は決して男だけの世界じゃないと思います。
多勢子はもっと注目されてよいですね。

相楽総三に興味があり立ち寄りました
匿名希望
松尾多勢子さんという方、うっすら記憶していたのですが、
ブログを拝読して思い出しました。
相変わらずこの国は男女共同という割に、
先進国で管理職に女性がいない率No.1ですが、こうした批判に、
なんだか根深いものを感じます…(この頃よりは流石にマシに
なっていると信じたいですが…)
松尾さんは、幕末明治の、勝間和代さん的存在かもしれませんね


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島津義秀氏

昨夜(厳密には一昨日の夜)、恒例の薩摩の会が都内恵比寿の某所であったので、参加した。

この会は、加治木島津家の当主、島津義秀氏(精矛神社宮司)が上京する度ごとに歓迎会的に開かれているものである。内輪では参勤交代とも呼んでいる。

加治木島津家とは、薩摩島津家の一門家(四家)のひとつである。残りは重富・垂水・今和泉の三家である。数多い島津家一門のなかで本宗家に次ぐ家格で、本宗家の家督が絶えたときは、この四家から後継者を出すしきたりになっていて、加治木島津家からは「蘭癖大名」の異名をとる島津重豪が出ている。
したがって、その後の斉宣―斉興―斉彬―茂久(忠義)とつづく島津本宗家は、すべて重豪以来の加治木島津家の血筋ということになる。

また、再来年の大河ドラマの主役、天璋院篤姫は加治木家と同格の今和泉家の姫で、本宗家の島津斉彬の養女となり、さらに摂関家の近衛家の養女となってから、将軍家定の御台所になっている。

いつもの居酒屋とは違う、オシャレなパーティー会場。参加者は数十人で、知った顔が何人か見える。
会は、まず義秀氏の薩摩琵琶から始まった。鹿児島では薩摩琵琶は武士の嗜みのひとつで、芸事ではないという位置づけから、宴会では必ず酒宴の前に演奏するという。今回もそのしきたりに乗っ取った形で行われた。

演題は「城山」である。いうまでもなく西郷隆盛の終焉をテーマにしたもので、作詞は勝海舟である。
悲愴かつ勇壮な調べである。乾いた高音の薩摩琵琶の音色と、義秀氏の絞り出すような哀切な唄声がよくマッチしていた。それにしても、見事なバチ捌きである。鹿児島でも有数の弾き手であり、国内ばかりでなく海外の演奏活動にも出かける国際人ならではである。

以前、韓国料理屋で同会を開いたとき、義秀氏から島津義弘の関ヶ原退き口の琵琶を演奏してもらった。私も一部知っている歌詞があって楽しかった。そのときとくらべて、会場の性格やキャパの関係からか、反響する高音が印象的だった。

その後、友人で薩摩拵の刀剣収集家兼研究者の調所一郎氏(調所広郷子孫)や、日清戦争などで活躍した村田銃を発明した村田経芳の子孫、鹿児島出身の俳優、三浦浩一氏のマネージャーさん、古文書講座の受講生の方などと歓談。
加治木島津家の家老筋で、かつて島津義弘の家来として関ヶ原の退き口から無事生還した曽木五兵衛の子孫、曽木重隆氏にもご挨拶。
曽木氏は野太刀自顕流の達人である。背筋がピシッと伸びて矍鑠とされている。いつみても、惚れ惚れするような古武士の風格である。

その後、写真家の山本陽子氏の作品がスクリーンで紹介された。薩摩拵の太刀や、義秀氏や曽木氏の野太刀自顕流の稽古風景など、躍動的なテーマなのに、その瞬間を逃さずに見事に切り取った印象的な作品だった。
日頃は神楽坂の芸妓さんなど極めて女性的な作品が多い方なのに、それとはまったく対極にある男性的な野太刀自顕流も追いかけている。
義秀さんが彼女が野太刀自顕流の稽古の撮影に来たときの面白いエピソードを披露してくれた。
野太刀自顕流では寸止めはせず、振りかぶった木刀はそのまま振り下ろす。ところが、彼女は勇敢といおうか無謀といおうか、木刀を振りかぶった義秀さんの正面に回って至近距離から撮影しようとしたので、このままでは彼女の頭を割ってしまうと思った義秀さんは一瞬で彼女を蹴飛ばしてよけさせたという。
凄まじい話で、どちらもさすがのプロ根性である。

その後、今回の特別ゲストが登場。
何と、シンガーソングライターの原田真二氏である。
さっそくミニライブとなった。往年のヒット曲「てぃーんず ぶるーす」や「キャンディ」も生で聴けた。甘い唄声は健在だった。
かつてカーリーヘアの愛くるしい容貌の面影はわずかに残っているが、ずっと男っぽくなっていた。
彼は広島出身ということもあり、平和をテーマにしたコンサートを国内外で行っており、とくに鎮守の森コンサートという神社を会場にしたコンサート活動に力を入れているとか。今度、義秀氏の精矛神社でもコンサートを開く計画が進んでいるとか。

ほかにも鹿児島出身の演歌歌手、日高正人氏の「やじろべえ」も聴かせてもらった。この唄、鹿児島で聴いたことがあった。

それにしても、薩摩琵琶からギターに持ちかえて原田真二氏とジョイントする義秀氏の多芸ぶりにも驚かされた。

ほかにも、薩摩の郷中教育を映画化しようという方、関ヶ原の退き口で島津義弘を匿った堺商人の子孫とか、鹿児島の焼酎をメジャーにした仕掛け人の方とか、いろいろ面白い方のご挨拶やご紹介があった。

忘年会ということもあり、いつもと一風変わった会で楽しかった。
多方面からの参加者があって、さぞや舞台裏は大変だったのではないかと思う。裏方をやられた江戸留守居役の方々にも感謝である。お疲れさまでした。高そうな会場と盛りだくさんの企画だったのに、あの会費で大丈夫だったのだろうか。

写真は薩摩琵琶を弾き語る島津義秀氏。


【2006/12/08 01:01】 | 雑記
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名古屋の徳川美術館の研究員である田中秀隆氏の論考である。田中氏は茶道史の研究者である。二年前の論文だが、迂濶にも不勉強で知らなかった。

表題にあるとおり、信長は本能寺で茶会を開こうとしていた。それが果たしていつだったのかというのがこの論考の主題である。結論からいえば、本能寺の変のあった六月二日以降に予定されていたというものである。

拙著『真説本能寺』(学研M文庫)でも触れたが、『仙茶集』という史料にある「御茶湯道具目録」が、天正十年(1582)六月一日、すなわち本能寺の変前日に、信長が博多の豪商、嶋井宗室に披露するため、秘蔵の名物茶器38種の目録を書き上げて宗室に与えたものだとされてきた。

信長がそのために安土から本能寺に運び込んだ名物茶器のほとんどが灰燼に帰した。
問題はこの茶会がいつ開かれたのか、あるいは開かれる予定だったのかという点である。公家の山科言経の『言経卿記』六月一日条に「数刻御雑談、茶子・茶これあり」と記されていることから、この日に茶会が行われたというのが通説だった。

田中氏はこれを否定し、この「茶子」「茶」も茶会の範疇かもしれないが、雑談に伴う単なる茶請けと茶だけだとし、上目録の存在から考えるに、信長が想定した茶会とは道具披露を伴う本格的な茶会だったとする。
言われてみれば、たしかに道具披露を伴う茶会が開かれた形跡は見出しにくい。当日、勅使・親王使として本能寺を訪れた勧修寺晴豊の『晴豊公記』の記事も茶会があったとは認めがたい。田中氏が指摘するように、道具披露を伴う茶会は六月二日以降に予定されていたのであろう。

田中氏の論考でもっと興味深かったのは、この茶会の目的が何だったのかという点である。氏によれば、ひとつは堺遊覧中の徳川家康が急遽京に呼び戻されたことから、家康のための茶会でもあったとする。次に家康を含めて、将来の茶道具の下賜を視野に入れた茶道具に対する認識を武家の間で高める目的があったこと。また毛利・長宗我部征伐を前に、余裕をもってこれに臨んでいることを公家に示すことだったという。

このなかでは、やはり家康の動向との関連が重要だろう。『イエズス会日本年報』は、信長が茶道具を本能寺に運び込んだことについて「三河の国主(家康)やその他の諸侯に見せるため」だったとしていた。
私もこの点は拙著で触れたが、そのときは家康に茶道具を見せるなら、安土の方が都合がよいのではないかと書いて否定してしまったのであるが、やや早計だったかもしれない。
もうひとつ、本願寺顕如の右筆宇野主水の日記は本能寺の変当日の六月二日条で次のように記す。

朝徳川殿上洛、火急ニ上洛之儀□、上様安土より、二十九日ニ御京上之由アリテ、それにつき、ふた/\と上洛由候也、

私はこれを家康が本能寺の変を察したからではないかと思っていたが、当日朝、まだ堺まで凶報が届いていなかった可能性が高く、記事にあるように、信長の上洛を知った家康があわてて上洛しようとしたと見たほうがよい。そして、途中で京から下ってきた茶屋四郎次郎から凶報を聞いたというのが妥当な見方だろう。

となると、家康の急な上京はやはり信長の茶会に参加するためだったことになるのかもしれない。信長嫡男の信忠が堺に下らなかったのもそのためだったかもしれないし、堺の豪商、天正寺屋宗及も、また堺代官の松井友閑も堺から上京しようとして、途中で政変を知って引き返している。

これらのことから、信忠や松井友閑など織田家一門・重臣、家康を初めとした大名、堺の豪商たち、そして嶋井宗室(神谷宗湛もいたか)が本能寺に呼ばれて、道具披露を伴う茶会が開かれる予定になっていたのかもしれない。

拙著もこの問題をちゃんと検討していないではないかと、田中氏からお叱りをうけている(笑)。ひとつ勉強をさせてもらいました。

田中秀隆「本能寺の変と茶会―松山吟松庵・茶会予告説の復権―」
『金鯱叢書』第31輯
財団法人徳川黎明会 2004年


【2006/12/07 11:48】 | 信長
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謎は多いですね
市野澤
こんばんわ。

信長の行動に信忠・家康も振り回されている様子が伺えますね。

信雄が本能寺の焼け跡から見つけだした信長所用と伝わる兜(総見院蔵)も信長所用かは別として、火にかかったとしても、弱火であったと考えられているそうですから、信長の遺体・茶器の状態が気になります。
個人的な所感を述べさせて頂くと、当時の本能寺の焼け跡に手を入れられるのは光秀・秀吉・信孝と想定しているので、信雄が本能寺の焼け跡から父の兜を見つけだしたというのは心情的に理解できますが、時期に無理なような気がします。

堀新氏の『日本中世の歴史⑦天下統一から鎖国へ』(吉川弘文館)、読了しました。
私は堀氏の見解を支持していますが、170頁8行目~12行目は賛同しかねました。

また、その話かと笑われそうですが、堀氏の信長関係の論文を一冊の書籍で読みたいです。

忖度
桐野
市野澤さん、こんばんは。

古い記事にコメント有難うございます。
嫡男信忠さえも、信長の意向を忖度して動いていますね。
絶対権力者のご機嫌を損ねたら大変ですからね。
信忠が忖度しすぎて堺行きをとり止めてしまったことが、彼の運命を決したともいえます。

堀新さんはこれまでたくさんの優れた論文を書いてきました。
私も大変勉強になりました。
今後はそうした膨大な蓄積を出力する時期が来たのではないでしょうか。
新著もありそうなことを聞いていますが……。

織豊期王権論
市野澤 永
こんばんわ。

私にとっても、念願の書籍の発売です。
堀氏から、ご恵贈頂いたのでしょうか?

書名 織豊期王権論
   歴史科学叢書
著者 堀 新
価格 \10,500(税込)
出版 校倉書房
ISBN 978-4-7517-4290-7
発行 2011年2月

校倉書房のホームページ
http://www.azekurashobo.com/
※まだ更新していないようですね

堀さんの新著
桐野
市野澤さん

堀さんからいただいております。
このところ忙しくて、なかなか紹介できずにおります。
近々、紹介予定です。

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百姓から見た戦国大名

最近、電車の中で読んでいた黒田基樹著『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書、2006年)を読み終えた。

なかなか斬新な視点だと思う。戦国時代、戦国大名と直接向き合う「村」(惣村)の力を高く評価しようという試みだと思う。

とくに、後北条氏の五代の当主のなかで、二代氏綱と三代氏康が社会の飢饉状況を改善できず、その失政を「世直し」する意味で代替わりしたという見方などは意表を衝かれる。大名はその領国統治にあたって、そこまで「村」に対して抜き差しならぬ真剣な対応を迫られたのかと思うと、従来の戦国大名像が塗り替えられるような気もする。

しかし一方で、黒田氏は別の著作『戦国大名と外様国衆』(文献出版、1997年)のなかで、四代氏政から五代氏直への代替わりが、氏直と信長の娘との婚約を契機に行われたことを明らかにしている。
こうした政治的・対外的契機を重視した代替わりの事例を見れば、前の二例の代替わりも「失政」だけなく、ほかの理由もあるのではないかとも思えるのだが……。

近年、地域権力論が盛んで、その一潮流として「村」の力を高く評価する研究動向がある。その代表は黒田氏の師匠筋にあたる藤木久志氏で、黒田氏のこの著作もそうした線に沿っているものとみえる。
もっとも、そうした研究動向を批判しつつ、大名や領主という上位の地域権力、つまり、上からの規定力を無視できないという研究もある。
いずれにせよ、視座をどこに据えるかによって、違う世界が見えるような気がする。

で、黒田氏の著作に戻ると、村の戦争について論述した「第二章 村の仕組みと戦争」が個人的には面白かった。

戦争は武士だけでなく、村も行うのである。戦争の原因は主に村同士の境界争いや帰属不明の入会地の争奪をめぐる争いが多い。このリアリズムを知れば、名作といわれる黒澤明の「七人の侍」の世界も嘘っぽく見えてくる。

村同士の戦争も当時「合戦」と呼ばれた。村の戦争のキーワードとして、黒田氏は「相当」(あいとう)・「兵具」「合力」の三つを挙げている。「兵具」はもちろん武器で、鉄砲も使用される。「合力」とは味方の村同士で加勢し合うことである。だから、村の戦争は往々にして大規模化する。

とくに面白いのは「相当」という概念である。これは要するに、やられたらやり返せの論理である。村同士の戦争によって、人的物的被害が生じたとき、それを回復・充当する行為を意味する。

村同士の戦争が和睦したり、訴訟沙汰になった場合、金銭や物資で解決が図られるが、ときには相手側に死者が出た場合、こちら側も同等のもの、つまり「解死人」(げしにん)を提出することがある。これが表題のことである。

辞書によれば、解死人は下死人や下手人と同義とされるが、この場合は少し意味合いが違うような気がする。
下手人なら、みずから殺人を犯した本人という意味合いだが、村同士の戦争処理の代償としての「解死人」は必ずしも、敵方を殺した本人を意味しない。
あくまで相手の死に対して、こちらも適当な人間を相手方に提供することで、血の贖いをする行為である。

この「解死人」は相手側に引き渡されると、当然、リンチを受けたりしたのち殺害されるという悲惨な運命を辿る。「村」という共同体を守るためとはいえ、残酷なやり方だといわざるをえないが、これがわが国の戦国時代の紛うことなき実態だった。

個人的に興味があったのは、この「解死人」がどのようにして選ばれるのかという点にあった。たとえば、老若のいずれか、未婚既婚のいずれか、村内身分の上下のいずれか、あるいは村に居住する被差別民や漂泊者(勧進僧など)も選ばれるのかという点である。おそらくこういうときのために、解死人候補者があらかじめプールされているのではないかという気がする。

残念ながら、黒田氏著作ではそのあたりがあまり書かれていなかった。テーマの本筋からはずれるからだろう。もしご存じの方がおいでなら、あるいは参考文献をご存じなら教えて下さい。

う~ん、やはり戦国時代には生きたくないなと思う。ましてや、自分が「解死人」にはなりたくないなと思った(爆)。

百姓から見た戦国大名
黒田 基樹 著
ちくま新書 新書判 224頁
刊行日 2006/09/05 ISBN 4-480-06313-7
定価735 円(税込)

【2006/12/06 16:51】 | 戦国織豊
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おもしろい!
いずみ(ゆうたろう)
遅ればせながら、ブログ開設おめでとうございます。

解死人という言葉、ものすごく魅力的ですね。字面の面妖さというか一種独特の美しさがイイです。

ざっとググっただけなので既にご存知かもしれませんが下記の本が関連するようですね。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~isitaki/page010.html
解死人の風景
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062583534/sr=11-1/qid=1165463554/ref=sr_11_1/503-8040108-4674363
喧嘩両成敗の誕生

私も読んでみたいです。

解死人
桐野
いずみ(ゆうたろう)さん、はじめまして。

もしかして勇太郎さんですか?

解死人の文献紹介有難うございます。入手してみたいと思います。
「身代わり」「死の代理人」という言葉がぴったりですね。
解死人が喧嘩両成敗と結びついているというのも納得です。
個人の尊厳よりも共同体のほうが優先された時代だからともいえますが、近年も中世に近い法や道徳感覚になっているような気もします。

勇太郎です^^;
いずみ(ゆうたろう)
ご挨拶とurl記入忘れてました。スミマセンm(__)m
お久しぶりです。

お勧めの新書、購入本のリストに加えました。
ここ数日、解死人という言葉からイメージがどんどん膨らんで楽しいです。ちゃんと勉強して誤解曲解を修正せねば……^^;

子供のころ見た絵本や昔ばなしには、人柱の話がよく出てきましたが、「雉よ鳴かずば」の子の父親のように共同体に何らかの負い目のある人物が選ばれたのでしょうか。。。

解死人と異人殺し
桐野
やっぱり勇太郎さんでしたか。
ご無沙汰です。

解死人は面白い言葉ですね。
人柱というのは、まさに解死人ですよね。この場合、相手が敵対する共同体ではなく、猛威を振るう自然ですけど。
ほかにも、神隠しや人身御供などもそれに近いかもしれませんね。
あと、民俗学者の小松和彦氏に「異人論」(筑摩書房、ちくま文庫)という作品があります。
異人とは共同体の外部からの来訪者ですが、たとえば、山伏、巫女、遍路などを指します。
この本は異人殺しがテーマです。また取り上げられる対象は「遠野物語」など近世の物語譚だと思いますが、それは近世発祥ではなく、中世に淵源がある共同体的記憶かもしれません。日本中世史の視点から見直すのも面白いかもしれませんね。

村人がなぜ異人を殺すのか。単に金銭目的などではない動機があるような気がして、解死人とどこかでつながるのではないでしょうか。

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坂本龍馬の入薩から思い出したことをば。

西郷隆盛や小松帯刀とくらべて、大久保利通と龍馬の接点はほとんどないのではないかといわれている。また大久保と龍馬は疎遠な仲だったとか、果ては会ったことがないのではないかとまで言われている。

そのように言われるのは、大久保と龍馬の関係を示す史料、たとえば、往復書簡などがないからだが、考えてみれば、西郷・小松と龍馬の往復書簡も現存していないから、大久保だけがことさら云々されるものでもあるまい。

まず、大久保と龍馬は会ったことがある。当然といえば当然のことだが、一次史料で確認できる。現在、古文書講座でテキストに使っている土佐藩の寺村左膳の日記で、慶応3年(1867)6月22日、いわゆる薩土盟約が結ばれた一節には次のようにある。

七ツ過より三樹へ行、小松帯刀・西郷吉之助・大久保市蔵三人来る、当方ハ後藤象二郎・福岡藤次・真辺栄三郎・左膳とも四人也、外ニ、浪士之巨魁ナル吾藩之者、坂本龍馬・中岡慎太郎、二人ヲ呼フ、

これで明らかなように、薩土盟約の場に大久保がおり、立会人か証人的な立場として、「浪士之巨魁」である龍馬と慎太郎が同席している。二人が会わなかったなどということはないのだ。

次に、大久保と龍馬もそれなりに親しかったことを示す逸話もある。これは一次史料でないのが残念だが、徳富蘆花が父一敬の談話を聞書した「青山白雲」の一節である(『蘆花全集』第三巻所収)。
徳富一敬は横井小楠の四天王の一人で、親戚でもあった。一敬は小楠のそば近くにいた門下生だったのである。

しかも、前回紹介した、慶応元年5月、龍馬が熊本の沼山津に隠棲している小楠を訪ねたときと思われる逸話である。

家厳の話に「坂本龍馬が先生を沼山津に尋ねて来たことがあった。丁度自分も居合して其の話を聞いて居たのである。阪本(ママ)は其時薩摩から帰りがけと云ったが、今思へば薩長連合に骨折る最中であったので、坂本は白の琉球絣の単衣に鍔細の大小をさし、色の真黒い大男、で至ってゆったりと物言ふ人であった。衣服大小大久保の呉れたものとか云って居た。

『徳富一敬筆記』にも、このときの龍馬の大久保評が載っている。

龍馬曰く、天下の事衰頽救ふべからず、感慨の話多し。一人薩の大久保なるもの事を共にすべし。

まず前の「青山白雲」のほうだが、一敬が小楠と龍馬の会見に同席していたというから、かなり信頼が置ける話だろう。
とくに、龍馬の衣服と大小は大久保が贈ったものだというから、両者の間に親交があった証だろう。注目すべきは「鍔細の大小」という部分である。友人で薩摩拵の刀剣収集家、調所一郎氏(調所広郷の子孫)からの受け売りになるが、これは薩摩特有の刀剣の拵えである「薩摩拵」(さつまこしらえ)の特徴をよく表しているのではないか。

薩摩の示現流や薬丸自顕流などでは、極端に鍔の小さい拵えの刀剣を用いるのが特徴である。つばぜり合いを拒絶し、一撃必殺を狙う攻撃的な剣法だから、このような小さい鍔になる。
琉球絣の衣服といい、薩摩拵の刀といい、聞書ながら、じつにリアリティのある逸話でかなり信頼できる史料ではないだろうか。

余談ながら、大久保のもっとも古い写真で、紋服を着て筆と紙を持ち片膝立てて坐っているのがある。大久保の脇には大刀が立てかけてある。よく見ると、この刀の鍔はだいぶ小さい。これも薩摩拵だと思う。

後者の『一敬筆記』も、龍馬が大久保の人物を相当買っていたことを示している。
大久保もまた龍馬を信頼していたようで、同年秋、「非義の勅命は勅命に非ず」という大久保の有名な言葉を含む長州宛ての書簡を龍馬に託すことになる。これが薩長同盟締結に重要な役割を果たしたのではないかと思っている。

ほかにも二人の関係を示す史料はあるが、またの機会にでも。

【2006/12/05 23:29】 | 幕末維新
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松裕堂
>極端に鍔の小さい拵えの刀剣を用いるのが特徴である。つばぜり合いを拒絶し、一撃必殺を狙う攻撃的な剣法だから
豆知識入手(笑)。
なるほど、薩摩拵の鍔にはそんな謂れがあったんですか。
以前、鹿児島市内の書店で、薩摩拵について書かれた書籍を図版(写真)と一緒に眺めていたさい、些か不思議に思っておりましたが、これで疑問氷解です。

>「青山白雲」の一節
上の件の一節は、龍馬と小楠の会談が”ケンカ別れ”に終わったとする史料が強調されるにおよんで、最近はこの談話自体、引用の度合いが目減りしたかの印象がありますね。
長州処分における意見の対立からケンカ別れ終わったとする結末以外、史料と談話もさほど矛盾する箇所があるとも思えないので、私個人としては相応に信頼できる内容かと思っとります。


追伸:先日「入薩記――坂本龍馬の場合」に書き込みました当方のコメント。「管理者にだけ表示を許可する」にチェック入れてしまったため、ウェブ上には表示されていないみたいですね。パスワードを「管理者にだけ表示を許可する」のかと思ってチェックを入れてしまいました(笑)。申し訳ありません。

龍馬と小楠の違い
桐野
松裕堂さま

コメント有難うございます。

薩摩拵はほかにも柄が長くて面白い反り方していることなど、いろんな特徴があります。一撃で相手を倒す工夫がなされているようです。
友人の調所一郎氏に『薩摩拵』(改定増補版、里文出版、2004)という専門的な著作があります。

このときの龍馬と小楠の会見で、小楠が「乱臣賊子になるなかれ」と龍馬に告げたというときのものですよね。
何というか、捨てぜりふ的にも聞こえます。

このときの二人の意見の相違は長州処分をめぐる評価だったわけですか。
龍馬が長州復権論で、小楠が時期尚早論という感じでしょうか?
あるいは、龍馬が薩摩藩に接近しすぎだと警鐘を鳴らしたものでしょうか。

別件にもコメントをいただいたとのこと。管理者だけが見られるということだったのですが、どうすれば見られるのかよくわかりませんでした。でも、何とか見られました。
松裕堂さんは龍馬が歩いたあのルートを辿ろうとされたのですね。何の変哲のない道です(笑)。
でも、途中に薩摩焼の里があったり、島津義弘ゆかりの妙円寺があったりします。
いま、うちの郷里は鶴が乱舞してます。



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真木和泉の入薩を書いていたら、幕末にはけっこう有名人が薩摩を訪ねているのを思い出した。
勝海舟、ジョン万次郎、中岡慎太郎、井上聞多も来ている。たしか桂小五郎も来ていたのではなかったか。外国人ではパークスもアーネスト・サトウも来ている。
そして、一番有名なのは坂本龍馬とお龍の新婚旅行だろう。

龍馬の入薩は二回ある。
一度目は慶応元年(1865)5月。
二度目は同2年3月~6月はじめまで。
薩長同盟の成立に奔走し、そのために伏見寺田屋で幕吏に襲撃されて負傷し、治療も兼ねてお龍と入薩したのは二回目のほうである。高千穂峰に登山し、塩浸温泉で療養した話はあまりにも有名である。同温泉には二人の新婚旅行の銅像↓まで建っている。
塩浸温泉龍馬像

ここで取り上げたいのは、あまり知られていない一度目の入薩である。西郷家に宿泊し、糸子夫人が龍馬の求めに応じて着古しの褌を貸したので、西郷に叱られたという逸話が人口に膾炙している。

龍馬本人の道中日記「坂本龍馬手帳摘要」(『坂本龍馬全集』光風社出版)によれば、このとき、龍馬が鹿児島城下に滞在したのは5月1日から16日までの半月ほど。その間に龍馬が誰に会い、どのような行動をとったか、褌の逸話以外は伝わっていない。

その後、龍馬は鹿児島城下を発って、熊本に隠棲中の横井小楠を訪ねるために陸路、薩摩領内を北上した。ほぼ現在の国道3号線沿いに歩いたことが上記旅日記で確認できる。その間足かけ四日である。鹿児島城下から国境の出水まではおよそ100キロ。一日30キロ前後歩いた計算になる。折からもっとも天候のよい季節であり、龍馬の旅も快適だったに違いない。
なぜわずか四日間にこだわるかといえば、小生の郷里出水を通過し、貴重な記録を残してくれているからである。時系列に沿って見てみよう。

5/16
昼過ぎ、鹿児島城下を発ち、伊集院を経て市来に宿泊。

5/17
川内(現・薩摩川内市)を通過。川内川の渡河地点が海から三里ほど遡った所なのに海船が入ってくるほど「水深シ」と記す。川内川は九州でも有数の大河である。この日は大川(現・阿久根市)に宿泊。

5/18
阿久根宿から野田に入る。「皆地巻士也」と記す。これは在地の郷士という意味だろう。

そして出水郷に至る。薩摩藩内にある100以上の外城でも一、二を争う規模である。成人の郷士だけでも1000人以上いた。もっとも、郷士たちの多くが集住する麓は内陸部にあるため、龍馬はそちらには立ち寄っておらず、海岸に近い村や町、浦(漁村)を歩いている。

泉米津(現・出水市米ノ津)までの間平原、然ニ水少シ物多シ、ハゼノ木多シ」と、龍馬は出水郷の地理・風俗を記す。
たしかに出水平野は鹿児島県で一番広い平野で穀倉地帯だから、「平原」という形容はぴったりである。「物多シ」というのは鹿児島の他の地域より物産が豊かだったということだろう。

面白いのは「ハゼノ木多シ」と記している点だ。たしかに郷里にはロウソクの原料となる櫨の木が多い。小生も子どもの頃、雨上がりに櫨の木の下を通ったため、漆かぶれ(郷里では「ハゼまけ」と呼んだ)になった経験があるから、龍馬の記録に合点がいった。

その後、龍馬は国境を越える手続きをする。米ノ津で町役人の右下直右衛門という人と交渉したらしい。右下という名字は聞き慣れない。当て字だろうか。「うした」と読むのかもしれない。

龍馬は国境の番所を「野間原泉口番所」と記している。出水口の関所は野間関といったから、龍馬の記録はほぼ正確である。
龍馬は番所で、先の直右衛門に「書テ与ヘバ、必ズ罷出ル筈ナリ」とする。これは通行手形のことだろうか。

この日、日記には記述がないが、龍馬は米ノ津に宿泊したのだろう。名前のとおり、米の積出港としてよく知られていた。
古くは、豊臣秀吉の島津攻めのときも秀吉は肥後から海路、この港に上陸している。そして龍馬ののち、西南戦争でも西郷軍の半分はこの港から船に乗って熊本城をめざした。

5/19
龍馬は米ノ津から船に乗って、海路熊本に向かった。
陸路をとらなかったのは、国境を越えてしばらく行くと三太郎峠という難所があるためだろう。現在もなかなかの難路だから、当時はもっと険路だったに違いない。これを避けて海路を選んだのだと思う。
この日で日記はしばらく途切れて、5/23の太宰府まで飛ぶ。記録にはないが、龍馬を乗せた船はおそらく八代に着いたものと思われる。

以上である。
わずか四日間だし、道中日記という性格上、記述も簡略である。それでも、当時の我が郷里の様子が断片的ながらも印象的に書かれていたので感慨深い。

龍馬はこののち、太宰府で三条実美ら五卿と会う。このとき、五卿の一人、東久世通禧が「偉人なり、奇説家也」と龍馬を評したのは有名である。
さらに龍馬は長崎に行く。そこには薩摩藩家老小松帯刀が来ており、龍馬と意気投合し、亀山社中設立を援助する。
薩長同盟締結に向けた布石が徐々に形を表してくる時期でもあった。

【2006/12/04 23:31】 | 幕末維新
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パルティアホースカラー
こんばんは。
興味深く読ませていただきました。

私は龍馬が第一回入薩の際に歩いた土地に詳しくないため、以前に「坂本龍馬手帳摘要」を読んだときには深く考えなかった部分についてもイメージができて、とても参考になりました。

龍馬の第一回入薩は、第二回入薩のときに比べて、恐らく政治的に重要な話し合いをしたことなどが想像されますね。あまり記録や逸話が残っていないらしいことを残念に思っています。

惜しいですね
桐野
パルティア・ホースカラーさま

コメント有難うございます。
たまたまうちの郷里のことが書いてあったので、土地勘があっただけのことです。
国境越えのあたり、もう少し詳しい情報があれば、藩外人の出入国の参考になったと思うのですが……。
たしかに、1回目の入薩では政治向きの話があったはずです。とくに薩摩側が龍馬に長州説得を依頼しようとしていたのではないかという気がします。
小松が長崎にいたのも偶然ではないでしょう。亀山社中への資金援助もこの仕事の反対給付だったかもしれません。



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真木和泉墓

(↑天王山にある真木和泉の墓標)

先日、天王山に登って十七烈士の墓を詣でたせいか、史料を見ていて真木和泉の詠草が目に止まった。しかも、真木が薩摩に入ったときのものである。

時期は文久2年(1862)2月から3月にかけてである。この時期の入薩者としては筑前藩士の平野国臣がいる。そして平野が詠んだ次の和歌はあまりに有名である。

 我が胸の燃ゆる思いにくらぶれば 煙は薄し桜島山

これは島津久光の率兵上京計画に伴い、尊攘派の一大決起を目論んでいた平野の入説に対して、大久保一蔵らが賛同しなかったため、平野が落胆した心情を詠ったものである。薩摩藩尊攘派には、我らのような燃えさかる熱意がないという失望感が桜島の薄い噴煙に譬えられている。

なお、平野は安政5年(1858)、僧月照を護衛して入薩しているから、このときが2回目である。月照とともに入水した西郷を蘇生させたのは平野の働きが大きかった。

一方、真木のほうだが、真木が平野らと決起計画を語らっていたのはたしかである。真木も平野と同時期に入薩していたとなると、一緒に行動していた可能性が高い。平野の入薩は知っていたが、真木のそれは不勉強で知らなかった。

「真木和泉入薩中ノ詩歌」と題した史料に和歌6首、漢詩5篇が収録されている(『鹿児島県史料 玉里島津家史料一』146号)。
そのなかから、二、三紹介する。

 【阿久根にて】  *【 】は詞書(ことばがき)
 旅衣なくさめかねてさつまかた 阿久根の浦にたふてをそひらふ

肥後方面から薩摩領に入る場合、陸路なら北薩出水の野間関を通過するか、海路なら出水の米ノ津か、少し南の阿久根に上陸する場合が多い。この和歌とその詞書を詠むかぎり、真木は阿久根に上陸したのではないかと思われる。
ちなみに、小生の実家は阿久根の北にあります。

 国沿南冥山岳崇 人資忠義貴英雄
 封彊一百二城裡 認得 天孫創業風


勇壮な七言絶句である。
「南冥山岳」は桜島か高千穂峰か、どちらだろうか。「天孫創業風」と関連があるなら後者か。
面白いのは、第四句の「天孫」に闕字(けつじ)が用いられていること。「天孫」は記紀にある、いわゆる天孫降臨だから、天皇家の先祖という意味である。散文(書簡や建白書の類)では朝廷や天皇に対して闕字をよく使うが、漢詩の表記でも闕字を使うのを初めて見た。これはやはり幕末期特有の表現ではないだろうか。当時の時代状況、また真木の勤王心が察せられる。

【桜島をめくりて福山の湊にあかり、通山といふ所まて行けるに又立かへりて】
 春なれハことわりなれと幾日へし かすむさくらのしまめくりして

真木はどうやら鹿児島城下から桜島に渡り、裏側の福山まで行ったことがわかる。藩領でもかなり奥深い場所だが、薩摩藩は真木に行動の自由を与えたらしい。
(↓福山から見た桜島の夕景色)
福山から桜島


「かすむさくらのしま」(霞む桜の島)の解釈だが、単に桜島の春の情景を詠んでいるのか、それとも、平野の感慨である「煙は薄し桜島山」と相通じるものがあるのだろうか。

 旅衣おもはぬかたに日数へて いそく心そまつ迷ひける

 琴の糸の心ほそさにすかゝきも かつかきまよふ旅衣哉

この2首には、やはり薩摩藩側との交渉がはかばかしくなく、交渉を早く切り上げて上京すべきか、それとも、もう少し粘るべきか、迷っているような真木の心境が察せられる。

ほかにも「擬家懐大島某」という詞書が付された七言律詩がある。内容が難しくてよくわからないが、詞書の「大島某」はもしかして大島吉之助こと西郷を指すか。
西郷はこの年(文久2年)2月初旬に流刑先の奄美大島から鹿児島に帰ってきていた。真木の詠草の日付は3月28日となっているから、西郷と会った可能性はありそうだ。

真木和泉はこのとき50歳である。諸藩や浪士の活動家は20、30代が圧倒的に多いなかで、老志士といえる。老年まで革命精神を持続できた原動力は何だったのか。その彼に桜島はどのように映じたのであろうか。

結局、入薩した真木や平野の入説は実らなかった。それは単に時局観や戦術のわずかな相違にとどまらず、最終的には西郷・大久保らとの対立という形になり、真木と平野は禁門の変に殉じることになる。

【2006/12/04 01:32】 | 幕末維新
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通山はどこか
桐野
自己レスです。

真木和泉の和歌の詞書に「通山」という地名が出てくる。
真木が遊覧したコースは、

桜島→福山→通山

となる。
地図サイトで検索してみると、鹿児島県内の通山の候補地は2カ所。

1,志布志市有明町通山 (旧:曽於郡有明町)
2,霧島市牧園町上中津川通山 (旧:姶良郡牧園町)

1の通山のほうが大きな地名である。志布志湾に面しているから、風光明媚な場所であろう。福山から日州街道で行くのも不自然ではない。

でも、2ではないかという気がする。福山から霧島方面というのはやや遠回りにも見えるが、桜島を一回りしたあとだから、船便で福山に着くというのはそれほど不自然でもない。
何より、真木はやはり霧島の高千穂峰をめざしたのではないか。尊王派にとって、天孫降臨伝説に彩られた高千穂峰は憧れの地のはず。
登山はかなわなくても、その姿を遙拝できる場所まで行きたかったのではないか。
別の漢詩に「天孫創業風」という神武東征を思わせる一節がそれを裏づけているのではないか。

藩外の人間で高千穂峰をめざしたのは龍馬だけではなかったのかもしれない。

はじめまして
ゆぅちゃん
ブログでは。
以前、真木和泉を追って久留米と幽囚されていた家も拝見してまいりました。真木も多くの日記、史料を残している点で、その忍耐力には驚かされるものがありました。
簡単に語るには難しい人物ですが、清河八郎でさえ、和泉の素養に心打たれ、九州行きを決めるほど、その才能を買われていたのでしょう。和泉も幽囚期間が長いにも関わらず、その情報収集集、分析、方向、ともに卓越したものと、感心しております。
 そして、その幽囚が解かれた際、爆発的に各地の遊説を行います。薩摩もそのひとつなのでしょう。
 永い幽囚期間において聞いた薩摩~それがこの奥まで知悉しての行動だったのではないかと、素人考えを起こします。
 正月に買ってきた桜島小みかんを食しながら。 


桐野
ゆぅちゃんさん、初めまして。

真木和泉の郷里、久留米に行かれたのですね。
真木和泉はたしかに文久年間の尊攘派の首魁であり、藩の枠を越えて衆望を集めていたのは事実でしょうね。
惜しむらくは、やはり急ぎすぎたかという感じです。

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先日いただいた柴辻俊六『信玄の戦略』(中公新書)に、有力な武田家臣の実名がこれまでの旧説とは異なっていることが明らかになったと書かれていた。
『山梨県史』や『戦国遺文 武田氏編』の刊行により、多くの家臣団の文書も収録されたことで、そうした解明が可能になったようである。最近、武田氏研究の最前線にはご無沙汰なもので、大変勉強になった。

柴辻氏によると、次のような家臣たちの実名が判明したという。
( )内が旧説。

馬場信春(信房)
内藤昌秀(昌豊)
真田幸綱(幸隆)
小山田虎満(昌辰)
小山田昌成(昌行)
武田信堯(信光)
両角虎定(昌清)
横田康景(綱松)
秋山虎繁(信友)
土屋昌続(昌次)
三枝昌貞(守友)

柴辻氏はこれも一部だと書いているが、それでも、武田四天王の二人まで含まれているじゃないか。とくに馬場信春については、古くはそう呼ばれていたのに、いつ頃からか、誰の説でどんな根拠かによるものか不明だが、信房が正しいというすり込みが一時期盛んに行われたが、あれは一体何だったのだろうか?

先日、小生も執筆した共著『「風林火山」の古道を往く』で、真田幸綱を幸隆と旧説で書いてしまったなと後悔している。

人物の実名・通称・官途名などの確定は歴史研究の基礎的な作業である。これを間違えると、学説構築にあたりさらに大きな間違いさえ冒しかねないから、あだやおろそかにできない。

信長家臣団研究も従来、かなりいい加減だったが、谷口克広『織田信長家臣人名辞典』が刊行されてから、そうした状況はだいぶ改善されたように思う。

【2006/12/03 11:25】 | 戦国織豊
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本当に困ったもので
かわい
 私も別冊歴史読本『謀将山本勘助と武田軍団』で、内藤を昌秀にするかどうか悩みに悩んだ末に、結局昌豊と書いてしまいました。小山田備中は虎満にしてあるので、なんかちぐはぐで嫌な感じです。

なじむということ
桐野
かわいさん、どうも。

一度なじんでしまった名前はそれが史実か否かは別にして、なかなか捨てがたいものがありますね。
内藤昌秀と書いても、それって誰?とイメージしにくいのです。

真田信繁については、最近、幸村から脱却してようやくなじんできましたが(笑)。


馬場美濃守
板倉丈浩
こんばんは。

>とくに馬場信春については、古くはそう呼ばれていたのに、いつ頃からか、誰の説でどんな根拠かによるものか不明だが、信房が正しいというすり込みが一時期盛んに行われたが、あれは一体何だったのだろうか?

馬場美濃守の実名については、長篠に建てられた石碑には「信房」と記されていますね。
『戦国人名辞典・増訂版』(吉川弘文館)や『戦国人名辞典・コンパクト版』(新人物往来社)を見たら「馬場信房」で別名信春としてありました。
このあたりをさらっと見る限りでは、「信房」とするのが比較的妥当なように思えます(晴信の家臣が信春というのもなんだか変ですし・・・)。
他にも調べてみたのですが、甲陽軍鑑では実名は確認できず、武家事紀や名将言行録では「信房」、寛政重修諸家譜では「氏勝」で、はじめ玄蕃、民部権大輔政光、後に美濃守信房としてありました。また姓氏家系大事典では「信房は初名景政、また氏勝、民部少輔と称す。信の字を賜いて美濃守信房、又信春と云ひ、後に信勝と云ふ」とありました。
う~ん・・・。これでは、ちょっと確定できませんね(^^

まあ、自署名のある文書があれば一発なんでしょうが、最近出された吉川弘文館の戦国人名辞典を見ると、馬場美濃守の実名が記された書状は「信松」と読めるものが1通だけ、しかも写しなので確定できない、ということのようでした。
『山梨県史』や『戦国遺文 武田氏編』は未確認なのですが、今回、柴辻氏が「実名が確定した」と仰っているので、新発見史料があったということなんでしょう。

「信春」がかつての歴史小説などで一般化していた理由ですが、三方原合戦や長篠合戦に関して、参謀本部の「日本戦史」が基本文献となっていたことが大きいと思います。

馬場信春
桐野
板倉さん。

『戦国遺文 武田氏編』をざっと見てみました。
内藤昌秀はいくつか確認できましたが、馬場信春も信房も見つかりませんでしたね。

もちろん、見落とした可能性もあります。
ただ、内藤は工藤という前名字も含めて、奉行人的な働きをしているのに、馬場はその形跡がまったくありません。
馬場の発給文書はもしかして深志城代の時代のものがあるだけなんでしょうかね。それなら、『長野県史』を見ないといけないのかもしれません。


素人の横槍ですが
かわと
ざっと見た限り、『山梨県史』県内文書には馬場美濃守の発給文書は見あたりませんね。同時代史料では甲斐での活動の痕跡すら窺えないのは、いくらなんでも少々不審ですねえ。何してた人なんでしょう?

ちなみに『長野県史』には資料編は無かったと思います(笑)。『信濃史料』ですね。


長野県史
桐野
かわとさん、どうも。

『長野県史』は近世史料編が中心でしたね。幕末の相楽総三関係史料をいくつか見たものですから、つい書いてしまいましたが、古代中世編はないんですね。

『戦国遺文 武田氏編』でも、馬場美濃守の発給・受給文書は見当たらないんですよ。山県昌景はかなりあるんですけどね。
武田義信自刃後の有名な永禄十年の家臣団起請文のなかにも馬場はありません。

あれだけ有名な人物なのに、なぜ史料がないんでしょうね。『甲陽軍鑑』にはたくさん出てくるのですが……。


有名人だけど・・・
板倉丈浩
桐野さん、かわとさん、お世話になります。

馬場美濃守は甲陽軍鑑では家老、しかも筆頭格なのですが、甫庵信長記では「足軽大将」としており、実際はそれほど有力武将ではなかったのかもしれませんね。
信玄朱印状の奉書の数でいうと、山県昌景も多いのですが、跡部勝資・土屋昌続・原昌胤が特に多いようで、柴辻俊六編『武田信玄大事典』によると、跡部は「室町期以来の最有力の宿老」、土屋と原は「信玄の領国支配を中心的に支えた人物」とされています。
ちなみに、馬場信春は「有力な宿老の一人として有名な割には関係史料は少ない」と記されています(^^;

六河衆
かわと
桐野さんが言及されている、生島足島神社蔵の起請文のうち、「六河衆」の連署起請文のなかに「馬場小太郎信盈」という人物の署判があります。一連の起請文のうち、馬場氏で見えるはこの人だけです。
名乗りから見て世代は若そうなので、美濃守と同一人物だとは思えませんが、七人連署のうちこの馬場小太郎が日下で、地位は一番低いようです。
ほかの署判者は、奥から(地位の高い)順に、柳沢壱岐守信勝・青木兵部少輔重満・横手監物満俊・宮脇清三種友・山寺源三昌吉・青木右兵衛尉信秀とあります。

年功にもよるでしょうけど、これらの面々の中で日下に来るってのは、宿老クラスの一族とはちょっと考えにくいですね。ちなみに跡部・原・板垣・浅利などの宿老クラスは単独で起請文を書いてます。
もっとも名字が同じだけで一族ではないかもしれませんが、もし一族だとすれば、馬場氏って実は家中でそんなに地位は高くなくて、馬廻衆クラスぐらいかなぁ、という感もあります。馬廻だとすると、猛者のイメージにも繋がってきますし。

ちなみに「六河(六川)衆」は、甲斐巨摩郡(現北杜市)の在地武士団だそうですが、↓のようなページもありました。馬場が出てこないどころか、上記起請文に見える名が系図に無いみたいですが…。相当錯綜しているようですねえ。さすが武田(笑)。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takeka_g.html

馬場と教来石
桐野
かわとさん

六川衆=武川衆に馬場小太郎信盈なる人物がいましたか。
馬場美濃守はもともと武川衆の教来石氏の出身で、養子にいって馬場名字になったと思います。
この馬場某が美濃守の縁者なのかどうか微妙ですね。

馬場美濃守はそれほど高い身分ではないのではないかという点で、かわとさんも板倉さんも共通したお考えですね。
『甲陽軍鑑』によれば、馬場美濃守は山本勘助から城取(築城術)の指南を受けた弟子筋になっています。
もし譜代宿老クラスなら、そんなことはないかもしれませんね。むしろ、山本勘助の権威づけのために、馬場美濃守が利用されているという相関関係にあるような気もします。

近年、『甲陽軍鑑』の史料的価値は再評価される傾向にありますが、馬場美濃守については、やはり誇張、粉飾があると見たほうがよいのでしょうか。


深いテーマみたいですね…
かわと
断片的には辻褄の合う事実もあるんですね。パズルみたいです(笑)。

私はあくまでこの起請文のみからの判断ですが、馬場美濃守は、起請文にある柳沢壱岐守とおそらく家中の地位としてはせいぜい同じくらいかなぁという気がしています。
もちろん同じような出自であっても、武勇の面での能力や、当主との人的な距離の違いもありますから、家臣団の中での地位と、家中での存在感とは異なってはきますが。

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島津義久後夫人

京都紀行のつづき。

宿泊したホテルの近くに寺町御池の本能寺があったので参拝した。むろん、信長が襲撃されたときの本能寺ではなく、秀吉の京都改造計画によって寺町に移転したものである。
修学旅行らしき中学生の一団がいて、相変わらず人気があるらしい。

前から気になっていたが、信長供養塔の左側に三基縦に並んだ宝篋印塔がある。手前から徳川九代将軍家重夫人、真ん中が菅中納言局庸子、そして一番奥が島津義久夫人の石塔である。
興味があるのはもちろん、島津義久夫人の石塔である。表には「圓信院殿妙蓮幽儀」と院号・戒名が刻んである。案内板によれば、没年が元亀3年(1572)12月23日とか。

この没年に該当するのは、義久の二番目の夫人だった種子島氏である。鉄炮伝来で有名な種子島時尭の娘である。なお「種子島家譜」では、彼女の戒名を「圓信院殿妙蓮大姉」とし、没年月日も合致している(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ四』)。

彼女の生母は日新斎こと島津忠良の娘である。義久の最初の夫人も日新斎の末娘だった。これも前々から疑問だが、義久が日新斎の嫡孫であるにもかかわらず、日新斎の血筋の女性二人を妻に迎えているのは、島津本宗家の家督が日新斎の中興に由来し、その権威や正統性と何らかの形で関わっているからだろうか。
義久夫人案内板

さて、この石塔の主、種子島氏は義久の三人の娘のうち、二女(島津彰久夫人)と三女(亀寿、島津家久夫人)をもうけた。この二人の娘たちは、その後の島津本宗家の家督争いと大いに関わることになったことでも知られる。興味のある方は拙著『島津義久』(PHP文庫)をご覧下さい。

義久と種子島氏の婚姻時期は確定できるかどうかわからないが、前夫人が永禄2年(1559)11月になくなり、二女の誕生年が永禄6年(1563)なので、翌3年から5年の間のことだろう。そうだとすれば、元亀3年になくなるまで8年前後の結婚生活を送ったことになる。

義久後夫人種子島氏の供養塔が遠く離れた京の本能寺にあるのは、おそらく種子島のほとんどの住民が本能寺の檀越だったことと無関係ではないだろう。とくに領主の種子島氏が大檀越だったと思われる。ちなみに、本能寺は京都法華宗二十一ヶ本寺のひとつ、本門流(八品派)の本寺で、由緒ある寺院である。

この供養塔の建立時期は、本能寺が寺町に移転してからだと考えたほうがよい。義久が秀吉に降伏したのが天正15年(1587)である。翌16年から義久は豊臣政権に服属する意を示すため、何度か上洛した。その間に夫人種子島氏の菩提を弔うために本能寺に供養塔を建立したのだろう。
あるいは、人質として在京期間が長かった三女亀寿が生母の菩提を弔ったのかもしれない。

なお、義久の正式な夫人は上記の二人だけだとされるが、三番目の夫人も存在した形跡がある。だが詳細は不明である。

【2006/12/02 13:04】 | 戦国島津
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南日本新聞サイトに興味深い記事が掲載された。
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=1552

在京中の大久保一蔵が鹿児島の西郷吉之助に宛てた慶応2年(1866)9月8日付の書簡の原本などを鹿児島の黎明館が地元の古美術商から今年10月に購入したという。

記事によれば、この書簡は原本の所在が不明になっていたとある。おそらく『大久保利通文書』第一巻に収録された104号文書の原本である。同書には収録当時の所蔵者が「有川浩祥氏蔵」とある。この書簡は有川氏の子孫宅にその後も所蔵されていたのか、あるいは流出したのかは記事からはわからない。

書簡は将軍家茂死去後の、いわゆる将軍空位時代のものである。幕府が長州再征に敗北し、次期将軍を誰にするか、さまざまな駆け引きが行われていた時期である。
書簡のなかで大久保は一橋慶喜が「賢侯之公論」(雄藩諸侯の合意による将軍決定)を受け容れず、「橋(一橋)譎詐百端之心術」を弄していると述べて、慶喜の思惑に激しく反発すると同時に、「大蔵大輔様も内実は御憤懣之御様子」とも述べ、松平春嶽が慶喜のやり方に不満をもっていることを伝えている。この頃、春嶽は徳川家の家督と将軍職を別個のものとし、慶喜以外の徳川一門からの将軍選出や大政奉還の可能性まで考えていたといわれる。

大久保もまた、次期将軍問題を大政奉還の選択肢も含めて、上京した雄藩諸侯の主導権によって決定しようと考え、春嶽ら雄藩諸侯と連携しようとしていた。「共和之大策を施し、征夷府之権ヲ破、皇威興張之大綱相立候」という公議政体論がそれである。

しかし、大久保は慶喜が「幕威を張る心底顕然」と将軍職就任に意欲を示していることを掴んでいたので、雄藩諸侯がそれに対抗できるか不安視して、久光の上京はよほどの覚悟を固めなければならないという厳しい現状認識を鹿児島の西郷に伝えている。書簡の趣旨はそんなところである。

なお、黎明館が購入したものには、この大久保書簡のほか、小松帯刀や村田新八の書簡など計20点が含まれているというではないか。大変気になる情報である。

【2006/12/01 19:50】 | 幕末維新
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