膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
南日本新聞サイトに興味深い記事が掲載された。
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=1552

在京中の大久保一蔵が鹿児島の西郷吉之助に宛てた慶応2年(1866)9月8日付の書簡の原本などを鹿児島の黎明館が地元の古美術商から今年10月に購入したという。

記事によれば、この書簡は原本の所在が不明になっていたとある。おそらく『大久保利通文書』第一巻に収録された104号文書の原本である。同書には収録当時の所蔵者が「有川浩祥氏蔵」とある。この書簡は有川氏の子孫宅にその後も所蔵されていたのか、あるいは流出したのかは記事からはわからない。

書簡は将軍家茂死去後の、いわゆる将軍空位時代のものである。幕府が長州再征に敗北し、次期将軍を誰にするか、さまざまな駆け引きが行われていた時期である。
書簡のなかで大久保は一橋慶喜が「賢侯之公論」(雄藩諸侯の合意による将軍決定)を受け容れず、「橋(一橋)譎詐百端之心術」を弄していると述べて、慶喜の思惑に激しく反発すると同時に、「大蔵大輔様も内実は御憤懣之御様子」とも述べ、松平春嶽が慶喜のやり方に不満をもっていることを伝えている。この頃、春嶽は徳川家の家督と将軍職を別個のものとし、慶喜以外の徳川一門からの将軍選出や大政奉還の可能性まで考えていたといわれる。

大久保もまた、次期将軍問題を大政奉還の選択肢も含めて、上京した雄藩諸侯の主導権によって決定しようと考え、春嶽ら雄藩諸侯と連携しようとしていた。「共和之大策を施し、征夷府之権ヲ破、皇威興張之大綱相立候」という公議政体論がそれである。

しかし、大久保は慶喜が「幕威を張る心底顕然」と将軍職就任に意欲を示していることを掴んでいたので、雄藩諸侯がそれに対抗できるか不安視して、久光の上京はよほどの覚悟を固めなければならないという厳しい現状認識を鹿児島の西郷に伝えている。書簡の趣旨はそんなところである。

なお、黎明館が購入したものには、この大久保書簡のほか、小松帯刀や村田新八の書簡など計20点が含まれているというではないか。大変気になる情報である。
 
信長墓

昨日からの京都紀行のつづき。

30日には市内を何カ所か回る。
京都府立総合資料館を訪ねたのち、大徳寺に向かう。
信長の菩提寺である総見院などの秋の一般公開が終了間際だったから、是非にと思っていた。総見院は数年前訪れたが、そのとき墓所の撮影を失敗したので、リベンジの意味もあった。

写真↑の中央が信長、左が信雄、右が信忠。信忠のが弟の信雄のよりやや低い。なぜなのだろうか?
信長のほかの息子の墓もあるが、三男信孝だけはない。総見院を建立したのが秀吉だからであろう。

それと、いつ見ても、お鍋の方の墓だけが自然石で可哀相だと思うのは私だけだろうか。側室だったからかもしれないが、隣の正室帰蝶の五輪塔より低くするか、小さくすればいいだけなのにとも思う。

その後、本堂に上がらせてもらって、信長の一周忌につくられた信長木像と、有名な画像や位牌を拝観させてもらう。しばし、去りがたかった。

10年ほど前だったか、総見院が初めて一般公開されたときに、たまたま取材で訪れて感動した記憶がある。京都の寺社の一般公開を推進するボランティアの方々の尽力のおかげだと聞いた。そのとき、信長木像の写真撮影をできないかと不躾な注文をしたところ、ボランティアの方が住職に話を付けて下さり、取材目的ならと撮影を許可されたことがあった。
そして、今度もボランティアの方々が甲斐甲斐しく親切に応対して下さった。感謝するばかりである。

総見院のほか、いくつかの塔頭を回った。前回も行った高桐院も再訪した。この塔頭は細川氏の菩提寺で、幽斎(藤孝)以下、歴代当主の墓所と、その近くの別区画に細川ガラシャと夫三斎(忠興)の灯籠型の供養塔↓がある。
細川ガラシャ墓

ここも以前訪れたとき、デジカメのメモリーが切れてあまり撮影できなかった思い出があるので、これまたリベンジである。

高桐院庭園

高桐院といえば、表門からの敷石の参道に落ちた紅葉↓と、庭園の紅葉↑が有名である。冬に入りかかった晩秋の終わり、紅葉は盛りを過ぎていて落ちた紅葉の紅がやや色褪せていたものの、まだまだ十分堪能できた。
とくに、参道はいつも参拝客が絶えないため、静寂な雰囲気を撮影するのが難しいが、しばらく待った甲斐があって、客足が途絶えた瞬間を撮影できたのが収穫だった。
高桐院参道