
京都紀行のつづき。
宿泊したホテルの近くに寺町御池の本能寺があったので参拝した。むろん、信長が襲撃されたときの本能寺ではなく、秀吉の京都改造計画によって寺町に移転したものである。
修学旅行らしき中学生の一団がいて、相変わらず人気があるらしい。
前から気になっていたが、信長供養塔の左側に三基縦に並んだ宝篋印塔がある。手前から徳川九代将軍家重夫人、真ん中が菅中納言局庸子、そして一番奥が島津義久夫人の石塔である。
興味があるのはもちろん、島津義久夫人の石塔である。表には「圓信院殿妙蓮幽儀」と院号・戒名が刻んである。案内板によれば、没年が元亀3年(1572)12月23日とか。
この没年に該当するのは、義久の二番目の夫人だった種子島氏である。鉄炮伝来で有名な種子島時尭の娘である。なお「種子島家譜」では、彼女の戒名を「圓信院殿妙蓮大姉」とし、没年月日も合致している(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ四』)。
彼女の生母は日新斎こと島津忠良の娘である。義久の最初の夫人も日新斎の末娘だった。これも前々から疑問だが、義久が日新斎の嫡孫であるにもかかわらず、日新斎の血筋の女性二人を妻に迎えているのは、島津本宗家の家督が日新斎の中興に由来し、その権威や正統性と何らかの形で関わっているからだろうか。

さて、この石塔の主、種子島氏は義久の三人の娘のうち、二女(島津彰久夫人)と三女(亀寿、島津家久夫人)をもうけた。この二人の娘たちは、その後の島津本宗家の家督争いと大いに関わることになったことでも知られる。興味のある方は拙著『島津義久』(PHP文庫)をご覧下さい。
義久と種子島氏の婚姻時期は確定できるかどうかわからないが、前夫人が永禄2年(1559)11月になくなり、二女の誕生年が永禄6年(1563)なので、翌3年から5年の間のことだろう。そうだとすれば、元亀3年になくなるまで8年前後の結婚生活を送ったことになる。
義久後夫人種子島氏の供養塔が遠く離れた京の本能寺にあるのは、おそらく種子島のほとんどの住民が本能寺の檀越だったことと無関係ではないだろう。とくに領主の種子島氏が大檀越だったと思われる。ちなみに、本能寺は京都法華宗二十一ヶ本寺のひとつ、本門流(八品派)の本寺で、由緒ある寺院である。
この供養塔の建立時期は、本能寺が寺町に移転してからだと考えたほうがよい。義久が秀吉に降伏したのが天正15年(1587)である。翌16年から義久は豊臣政権に服属する意を示すため、何度か上洛した。その間に夫人種子島氏の菩提を弔うために本能寺に供養塔を建立したのだろう。
あるいは、人質として在京期間が長かった三女亀寿が生母の菩提を弔ったのかもしれない。
なお、義久の正式な夫人は上記の二人だけだとされるが、三番目の夫人も存在した形跡がある。だが詳細は不明である。