膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
真木和泉の入薩を書いていたら、幕末にはけっこう有名人が薩摩を訪ねているのを思い出した。
勝海舟、ジョン万次郎、中岡慎太郎、井上聞多も来ている。たしか桂小五郎も来ていたのではなかったか。外国人ではパークスもアーネスト・サトウも来ている。
そして、一番有名なのは坂本龍馬とお龍の新婚旅行だろう。

龍馬の入薩は二回ある。
一度目は慶応元年(1865)5月。
二度目は同2年3月〜6月はじめまで。
薩長同盟の成立に奔走し、そのために伏見寺田屋で幕吏に襲撃されて負傷し、治療も兼ねてお龍と入薩したのは二回目のほうである。高千穂峰に登山し、塩浸温泉で療養した話はあまりにも有名である。同温泉には二人の新婚旅行の銅像↓まで建っている。
塩浸温泉龍馬像

ここで取り上げたいのは、あまり知られていない一度目の入薩である。西郷家に宿泊し、糸子夫人が龍馬の求めに応じて着古しの褌を貸したので、西郷に叱られたという逸話が人口に膾炙している。

龍馬本人の道中日記「坂本龍馬手帳摘要」(『坂本龍馬全集』光風社出版)によれば、このとき、龍馬が鹿児島城下に滞在したのは5月1日から16日までの半月ほど。その間に龍馬が誰に会い、どのような行動をとったか、褌の逸話以外は伝わっていない。

その後、龍馬は鹿児島城下を発って、熊本に隠棲中の横井小楠を訪ねるために陸路、薩摩領内を北上した。ほぼ現在の国道3号線沿いに歩いたことが上記旅日記で確認できる。その間足かけ四日である。鹿児島城下から国境の出水まではおよそ100キロ。一日30キロ前後歩いた計算になる。折からもっとも天候のよい季節であり、龍馬の旅も快適だったに違いない。
なぜわずか四日間にこだわるかといえば、小生の郷里出水を通過し、貴重な記録を残してくれているからである。時系列に沿って見てみよう。

5/16
昼過ぎ、鹿児島城下を発ち、伊集院を経て市来に宿泊。

5/17
川内(現・薩摩川内市)を通過。川内川の渡河地点が海から三里ほど遡った所なのに海船が入ってくるほど「水深シ」と記す。川内川は九州でも有数の大河である。この日は大川(現・阿久根市)に宿泊。

5/18
阿久根宿から野田に入る。「皆地巻士也」と記す。これは在地の郷士という意味だろう。

そして出水郷に至る。薩摩藩内にある100以上の外城でも一、二を争う規模である。成人の郷士だけでも1000人以上いた。もっとも、郷士たちの多くが集住する麓は内陸部にあるため、龍馬はそちらには立ち寄っておらず、海岸に近い村や町、浦(漁村)を歩いている。

泉米津(現・出水市米ノ津)までの間平原、然ニ水少シ物多シ、ハゼノ木多シ」と、龍馬は出水郷の地理・風俗を記す。
たしかに出水平野は鹿児島県で一番広い平野で穀倉地帯だから、「平原」という形容はぴったりである。「物多シ」というのは鹿児島の他の地域より物産が豊かだったということだろう。

面白いのは「ハゼノ木多シ」と記している点だ。たしかに郷里にはロウソクの原料となる櫨の木が多い。小生も子どもの頃、雨上がりに櫨の木の下を通ったため、漆かぶれ(郷里では「ハゼまけ」と呼んだ)になった経験があるから、龍馬の記録に合点がいった。

その後、龍馬は国境を越える手続きをする。米ノ津で町役人の右下直右衛門という人と交渉したらしい。右下という名字は聞き慣れない。当て字だろうか。「うした」と読むのかもしれない。

龍馬は国境の番所を「野間原泉口番所」と記している。出水口の関所は野間関といったから、龍馬の記録はほぼ正確である。
龍馬は番所で、先の直右衛門に「書テ与ヘバ、必ズ罷出ル筈ナリ」とする。これは通行手形のことだろうか。

この日、日記には記述がないが、龍馬は米ノ津に宿泊したのだろう。名前のとおり、米の積出港としてよく知られていた。
古くは、豊臣秀吉の島津攻めのときも秀吉は肥後から海路、この港に上陸している。そして龍馬ののち、西南戦争でも西郷軍の半分はこの港から船に乗って熊本城をめざした。

5/19
龍馬は米ノ津から船に乗って、海路熊本に向かった。
陸路をとらなかったのは、国境を越えてしばらく行くと三太郎峠という難所があるためだろう。現在もなかなかの難路だから、当時はもっと険路だったに違いない。これを避けて海路を選んだのだと思う。
この日で日記はしばらく途切れて、5/23の太宰府まで飛ぶ。記録にはないが、龍馬を乗せた船はおそらく八代に着いたものと思われる。

以上である。
わずか四日間だし、道中日記という性格上、記述も簡略である。それでも、当時の我が郷里の様子が断片的ながらも印象的に書かれていたので感慨深い。

龍馬はこののち、太宰府で三条実美ら五卿と会う。このとき、五卿の一人、東久世通禧が「偉人なり、奇説家也」と龍馬を評したのは有名である。
さらに龍馬は長崎に行く。そこには薩摩藩家老小松帯刀が来ており、龍馬と意気投合し、亀山社中設立を援助する。
薩長同盟締結に向けた布石が徐々に形を表してくる時期でもあった。
 
真木和泉墓

(↑天王山にある真木和泉の墓標)

先日、天王山に登って十七烈士の墓を詣でたせいか、史料を見ていて真木和泉の詠草が目に止まった。しかも、真木が薩摩に入ったときのものである。

時期は文久2年(1862)2月から3月にかけてである。この時期の入薩者としては筑前藩士の平野国臣がいる。そして平野が詠んだ次の和歌はあまりに有名である。

 我が胸の燃ゆる思いにくらぶれば 煙は薄し桜島山

これは島津久光の率兵上京計画に伴い、尊攘派の一大決起を目論んでいた平野の入説に対して、大久保一蔵らが賛同しなかったため、平野が落胆した心情を詠ったものである。薩摩藩尊攘派には、我らのような燃えさかる熱意がないという失望感が桜島の薄い噴煙に譬えられている。

なお、平野は安政5年(1858)、僧月照を護衛して入薩しているから、このときが2回目である。月照とともに入水した西郷を蘇生させたのは平野の働きが大きかった。

一方、真木のほうだが、真木が平野らと決起計画を語らっていたのはたしかである。真木も平野と同時期に入薩していたとなると、一緒に行動していた可能性が高い。平野の入薩は知っていたが、真木のそれは不勉強で知らなかった。

「真木和泉入薩中ノ詩歌」と題した史料に和歌6首、漢詩5篇が収録されている(『鹿児島県史料 玉里島津家史料一』146号)。
そのなかから、二、三紹介する。

 【阿久根にて】  *【 】は詞書(ことばがき)
 旅衣なくさめかねてさつまかた 阿久根の浦にたふてをそひらふ

肥後方面から薩摩領に入る場合、陸路なら北薩出水の野間関を通過するか、海路なら出水の米ノ津か、少し南の阿久根に上陸する場合が多い。この和歌とその詞書を詠むかぎり、真木は阿久根に上陸したのではないかと思われる。
ちなみに、小生の実家は阿久根の北にあります。

 国沿南冥山岳崇 人資忠義貴英雄
 封彊一百二城裡 認得 天孫創業風


勇壮な七言絶句である。
「南冥山岳」は桜島か高千穂峰か、どちらだろうか。「天孫創業風」と関連があるなら後者か。
面白いのは、第四句の「天孫」に闕字(けつじ)が用いられていること。「天孫」は記紀にある、いわゆる天孫降臨だから、天皇家の先祖という意味である。散文(書簡や建白書の類)では朝廷や天皇に対して闕字をよく使うが、漢詩の表記でも闕字を使うのを初めて見た。これはやはり幕末期特有の表現ではないだろうか。当時の時代状況、また真木の勤王心が察せられる。

【桜島をめくりて福山の湊にあかり、通山といふ所まて行けるに又立かへりて】
 春なれハことわりなれと幾日へし かすむさくらのしまめくりして

真木はどうやら鹿児島城下から桜島に渡り、裏側の福山まで行ったことがわかる。藩領でもかなり奥深い場所だが、薩摩藩は真木に行動の自由を与えたらしい。
(↓福山から見た桜島の夕景色)
福山から桜島


「かすむさくらのしま」(霞む桜の島)の解釈だが、単に桜島の春の情景を詠んでいるのか、それとも、平野の感慨である「煙は薄し桜島山」と相通じるものがあるのだろうか。

 旅衣おもはぬかたに日数へて いそく心そまつ迷ひける

 琴の糸の心ほそさにすかゝきも かつかきまよふ旅衣哉

この2首には、やはり薩摩藩側との交渉がはかばかしくなく、交渉を早く切り上げて上京すべきか、それとも、もう少し粘るべきか、迷っているような真木の心境が察せられる。

ほかにも「擬家懐大島某」という詞書が付された七言律詩がある。内容が難しくてよくわからないが、詞書の「大島某」はもしかして大島吉之助こと西郷を指すか。
西郷はこの年(文久2年)2月初旬に流刑先の奄美大島から鹿児島に帰ってきていた。真木の詠草の日付は3月28日となっているから、西郷と会った可能性はありそうだ。

真木和泉はこのとき50歳である。諸藩や浪士の活動家は20、30代が圧倒的に多いなかで、老志士といえる。老年まで革命精神を持続できた原動力は何だったのか。その彼に桜島はどのように映じたのであろうか。

結局、入薩した真木や平野の入説は実らなかった。それは単に時局観や戦術のわずかな相違にとどまらず、最終的には西郷・大久保らとの対立という形になり、真木と平野は禁門の変に殉じることになる。