坂本龍馬の入薩から思い出したことをば。
西郷隆盛や小松帯刀とくらべて、大久保利通と龍馬の接点はほとんどないのではないかといわれている。また大久保と龍馬は疎遠な仲だったとか、果ては会ったことがないのではないかとまで言われている。
そのように言われるのは、大久保と龍馬の関係を示す史料、たとえば、往復書簡などがないからだが、考えてみれば、西郷・小松と龍馬の往復書簡も現存していないから、大久保だけがことさら云々されるものでもあるまい。
まず、大久保と龍馬は会ったことがある。当然といえば当然のことだが、一次史料で確認できる。現在、古文書講座でテキストに使っている土佐藩の寺村左膳の日記で、慶応3年(1867)6月22日、いわゆる薩土盟約が結ばれた一節には次のようにある。
七ツ過より三樹へ行、小松帯刀・西郷吉之助・大久保市蔵三人来る、当方ハ後藤象二郎・福岡藤次・真辺栄三郎・左膳とも四人也、外ニ、浪士之巨魁ナル吾藩之者、坂本龍馬・中岡慎太郎、二人ヲ呼フ、
これで明らかなように、薩土盟約の場に大久保がおり、立会人か証人的な立場として、「浪士之巨魁」である龍馬と慎太郎が同席している。二人が会わなかったなどということはないのだ。
次に、大久保と龍馬もそれなりに親しかったことを示す逸話もある。これは一次史料でないのが残念だが、徳富蘆花が父一敬の談話を聞書した「青山白雲」の一節である(『蘆花全集』第三巻所収)。
徳富一敬は横井小楠の四天王の一人で、親戚でもあった。一敬は小楠のそば近くにいた門下生だったのである。
しかも、前回紹介した、慶応元年5月、龍馬が熊本の沼山津に隠棲している小楠を訪ねたときと思われる逸話である。
家厳の話に「坂本龍馬が先生を沼山津に尋ねて来たことがあった。丁度自分も居合して其の話を聞いて居たのである。阪本(ママ)は其時薩摩から帰りがけと云ったが、今思へば薩長連合に骨折る最中であったので、坂本は白の琉球絣の単衣に鍔細の大小をさし、色の真黒い大男、で至ってゆったりと物言ふ人であった。衣服大小大久保の呉れたものとか云って居た。
『徳富一敬筆記』にも、このときの龍馬の大久保評が載っている。
龍馬曰く、天下の事衰頽救ふべからず、感慨の話多し。一人薩の大久保なるもの事を共にすべし。
まず前の「青山白雲」のほうだが、一敬が小楠と龍馬の会見に同席していたというから、かなり信頼が置ける話だろう。
とくに、龍馬の衣服と大小は大久保が贈ったものだというから、両者の間に親交があった証だろう。注目すべきは「鍔細の大小」という部分である。友人で薩摩拵の刀剣収集家、調所一郎氏(調所広郷の子孫)からの受け売りになるが、これは薩摩特有の刀剣の拵えである「薩摩拵」(さつまこしらえ)の特徴をよく表しているのではないか。
薩摩の示現流や薬丸自顕流などでは、極端に鍔の小さい拵えの刀剣を用いるのが特徴である。つばぜり合いを拒絶し、一撃必殺を狙う攻撃的な剣法だから、このような小さい鍔になる。
琉球絣の衣服といい、薩摩拵の刀といい、聞書ながら、じつにリアリティのある逸話でかなり信頼できる史料ではないだろうか。
余談ながら、大久保のもっとも古い写真で、紋服を着て筆と紙を持ち片膝立てて坐っているのがある。大久保の脇には大刀が立てかけてある。よく見ると、この刀の鍔はだいぶ小さい。これも薩摩拵だと思う。
後者の『一敬筆記』も、龍馬が大久保の人物を相当買っていたことを示している。
大久保もまた龍馬を信頼していたようで、同年秋、「非義の勅命は勅命に非ず」という大久保の有名な言葉を含む長州宛ての書簡を龍馬に託すことになる。これが薩長同盟締結に重要な役割を果たしたのではないかと思っている。
ほかにも二人の関係を示す史料はあるが、またの機会にでも。