
最近、電車の中で読んでいた黒田基樹著『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書、2006年)を読み終えた。
なかなか斬新な視点だと思う。戦国時代、戦国大名と直接向き合う「村」(惣村)の力を高く評価しようという試みだと思う。
とくに、後北条氏の五代の当主のなかで、二代氏綱と三代氏康が社会の飢饉状況を改善できず、その失政を「世直し」する意味で代替わりしたという見方などは意表を衝かれる。大名はその領国統治にあたって、そこまで「村」に対して抜き差しならぬ真剣な対応を迫られたのかと思うと、従来の戦国大名像が塗り替えられるような気もする。
しかし一方で、黒田氏は別の著作『戦国大名と外様国衆』(文献出版、1997年)のなかで、四代氏政から五代氏直への代替わりが、氏直と信長の娘との婚約を契機に行われたことを明らかにしている。
こうした政治的・対外的契機を重視した代替わりの事例を見れば、前の二例の代替わりも「失政」だけなく、ほかの理由もあるのではないかとも思えるのだが……。
近年、地域権力論が盛んで、その一潮流として「村」の力を高く評価する研究動向がある。その代表は黒田氏の師匠筋にあたる藤木久志氏で、黒田氏のこの著作もそうした線に沿っているものとみえる。
もっとも、そうした研究動向を批判しつつ、大名や領主という上位の地域権力、つまり、上からの規定力を無視できないという研究もある。
いずれにせよ、視座をどこに据えるかによって、違う世界が見えるような気がする。
で、黒田氏の著作に戻ると、村の戦争について論述した「第二章 村の仕組みと戦争」が個人的には面白かった。
戦争は武士だけでなく、村も行うのである。戦争の原因は主に村同士の境界争いや帰属不明の入会地の争奪をめぐる争いが多い。このリアリズムを知れば、名作といわれる黒澤明の「七人の侍」の世界も嘘っぽく見えてくる。
村同士の戦争も当時「合戦」と呼ばれた。村の戦争のキーワードとして、黒田氏は「相当」(あいとう)・「兵具」「合力」の三つを挙げている。「兵具」はもちろん武器で、鉄砲も使用される。「合力」とは味方の村同士で加勢し合うことである。だから、村の戦争は往々にして大規模化する。
とくに面白いのは「相当」という概念である。これは要するに、やられたらやり返せの論理である。村同士の戦争によって、人的物的被害が生じたとき、それを回復・充当する行為を意味する。
村同士の戦争が和睦したり、訴訟沙汰になった場合、金銭や物資で解決が図られるが、ときには相手側に死者が出た場合、こちら側も同等のもの、つまり「解死人」(げしにん)を提出することがある。これが表題のことである。
辞書によれば、解死人は下死人や下手人と同義とされるが、この場合は少し意味合いが違うような気がする。
下手人なら、みずから殺人を犯した本人という意味合いだが、村同士の戦争処理の代償としての「解死人」は必ずしも、敵方を殺した本人を意味しない。
あくまで相手の死に対して、こちらも適当な人間を相手方に提供することで、血の贖いをする行為である。
この「解死人」は相手側に引き渡されると、当然、リンチを受けたりしたのち殺害されるという悲惨な運命を辿る。「村」という共同体を守るためとはいえ、残酷なやり方だといわざるをえないが、これがわが国の戦国時代の紛うことなき実態だった。
個人的に興味があったのは、この「解死人」がどのようにして選ばれるのかという点にあった。たとえば、老若のいずれか、未婚既婚のいずれか、村内身分の上下のいずれか、あるいは村に居住する被差別民や漂泊者(勧進僧など)も選ばれるのかという点である。おそらくこういうときのために、解死人候補者があらかじめプールされているのではないかという気がする。
残念ながら、黒田氏著作ではそのあたりがあまり書かれていなかった。テーマの本筋からはずれるからだろう。もしご存じの方がおいでなら、あるいは参考文献をご存じなら教えて下さい。
う〜ん、やはり戦国時代には生きたくないなと思う。ましてや、自分が「解死人」にはなりたくないなと思った(爆)。
百姓から見た戦国大名
黒田 基樹 著
ちくま新書 新書判 224頁
刊行日 2006/09/05 ISBN 4-480-06313-7
定価735 円(税込)