名古屋の徳川美術館の研究員である田中秀隆氏の論考である。田中氏は茶道史の研究者である。二年前の論文だが、迂濶にも不勉強で知らなかった。
表題にあるとおり、信長は本能寺で茶会を開こうとしていた。それが果たしていつだったのかというのがこの論考の主題である。結論からいえば、本能寺の変のあった六月二日以降に予定されていたというものである。
拙著『真説本能寺』(学研M文庫)でも触れたが、『仙茶集』という史料にある「御茶湯道具目録」が、天正十年(1582)六月一日、すなわち本能寺の変前日に、信長が博多の豪商、嶋井宗室に披露するため、秘蔵の名物茶器38種の目録を書き上げて宗室に与えたものだとされてきた。
信長がそのために安土から本能寺に運び込んだ名物茶器のほとんどが灰燼に帰した。
問題はこの茶会がいつ開かれたのか、あるいは開かれる予定だったのかという点である。公家の山科言経の『言経卿記』六月一日条に「数刻御雑談、茶子・茶これあり」と記されていることから、この日に茶会が行われたというのが通説だった。
田中氏はこれを否定し、この「茶子」「茶」も茶会の範疇かもしれないが、雑談に伴う単なる茶請けと茶だけだとし、上目録の存在から考えるに、信長が想定した茶会とは道具披露を伴う本格的な茶会だったとする。
言われてみれば、たしかに道具披露を伴う茶会が開かれた形跡は見出しにくい。当日、勅使・親王使として本能寺を訪れた勧修寺晴豊の『晴豊公記』の記事も茶会があったとは認めがたい。田中氏が指摘するように、道具披露を伴う茶会は六月二日以降に予定されていたのであろう。
田中氏の論考でもっと興味深かったのは、この茶会の目的が何だったのかという点である。氏によれば、ひとつは堺遊覧中の徳川家康が急遽京に呼び戻されたことから、家康のための茶会でもあったとする。次に家康を含めて、将来の茶道具の下賜を視野に入れた茶道具に対する認識を武家の間で高める目的があったこと。また毛利・長宗我部征伐を前に、余裕をもってこれに臨んでいることを公家に示すことだったという。
このなかでは、やはり家康の動向との関連が重要だろう。『イエズス会日本年報』は、信長が茶道具を本能寺に運び込んだことについて「三河の国主(家康)やその他の諸侯に見せるため」だったとしていた。
私もこの点は拙著で触れたが、そのときは家康に茶道具を見せるなら、安土の方が都合がよいのではないかと書いて否定してしまったのであるが、やや早計だったかもしれない。
もうひとつ、本願寺顕如の右筆宇野主水の日記は本能寺の変当日の六月二日条で次のように記す。
朝徳川殿上洛、火急ニ上洛之儀□、上様安土より、二十九日ニ御京上之由アリテ、それにつき、ふた/\と上洛由候也、
私はこれを家康が本能寺の変を察したからではないかと思っていたが、当日朝、まだ堺まで凶報が届いていなかった可能性が高く、記事にあるように、信長の上洛を知った家康があわてて上洛しようとしたと見たほうがよい。そして、途中で京から下ってきた茶屋四郎次郎から凶報を聞いたというのが妥当な見方だろう。
となると、家康の急な上京はやはり信長の茶会に参加するためだったことになるのかもしれない。信長嫡男の信忠が堺に下らなかったのもそのためだったかもしれないし、堺の豪商、天正寺屋宗及も、また堺代官の松井友閑も堺から上京しようとして、途中で政変を知って引き返している。
これらのことから、信忠や松井友閑など織田家一門・重臣、家康を初めとした大名、堺の豪商たち、そして嶋井宗室(神谷宗湛もいたか)が本能寺に呼ばれて、道具披露を伴う茶会が開かれる予定になっていたのかもしれない。
拙著もこの問題をちゃんと検討していないではないかと、田中氏からお叱りをうけている(笑)。ひとつ勉強をさせてもらいました。
田中秀隆「本能寺の変と茶会―松山吟松庵・茶会予告説の復権―」
『金鯱叢書』第31輯
財団法人徳川黎明会 2004年