膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
今夜、古文書講座「幕末の手紙を読む3」の最終回だった。

手紙を読むと銘打ちながら、2回目から日記を読んでいるから、やや看板に偽りありである(笑)。

テキストは幕末土佐藩の重役、寺村左膳道成の日記である。
今回は慶応3年(1867)5月下旬から6月中旬までを読んだ。
四侯会議が挫折したあとで、一種の政局の空白期であるが、病気が癒えた日記の主、左膳は連日のように料亭、茶屋通いの日々である。
それというのも、四侯会議の結果に失望した山内容堂が帰国し、その弟の兵之助豊積が名代として在京しているものの、国事に関わるなという容堂の厳命があったため、在京重役たちはみな暇になってしまい、持てあました時間を、北野天満宮や金閣寺、平等院の見物などに費やし、夜は宴会三昧という日々である。
上京当初、郷里を懐かしがっていた左膳だったが、三条や祇園に通い詰めのセレブ生活が気に入ったのか、帰りたいと言わなくなった。京の水がなじんだのであろう。

それでも、政局は徐々に動いていた。土佐藩の国許では勤王派が勢いを増し、左膳ら在京重役を引きずり降ろそうと息巻いている。
そして、ついに長崎から後藤象二郎が上京してきた。土佐藩の切り札の登場である。
後藤は左膳ら在京重役に、大政奉還→王政復古という「大条理」を滔々と披瀝したので、左膳はその弁舌の素晴らしさにすっかり心酔してしまう。このとき、後藤から話を聞いた左膳ほか福岡藤次・真辺栄三郎は薩土盟約に参画することになる。
もっとも、このときの後藤の「大条理」は坂本龍馬らに吹き込まれたものだった。

今回こそは薩土盟約のところまで行きたかったが、結局、その前で終わってしまった。最後に少し日記を飛ばして、薩土盟約の場に「浪士之巨魁」である坂本龍馬と中岡慎太郎が同席していたことを確認して講義を終えた。この場面が、この日記での二人の初出である。

細かい注釈について。
後藤のことで国許が「以之外相済まざる義」になっているというが、何があったのか。左膳の日記には書かれておらず、宇和島藩で取り沙汰されている。

おそらく公金の使い込みだろうと推測したところ、受講者のみなさんからも賛同があった。宇和島藩が薩摩藩の小松帯刀に事情を問い合わせると、小松は大したことではないと答えたが、土佐藩内ではかなり大きな問題だったと思われる。
帰宅してから調べたら、、佐々木高行の『保古飛呂比』慶応3年3月24日条に次のようにあった。後藤の長崎での行状についてである。

「尤も後藤等は、長崎にて散財甚だしきとて、政府中(藩当局)にも誹り甚だしく、何分今日天下の大変事の出来候場合、区々たる事言うべき時にあらざる候えども、佐幕中の小八木派は尤も刺撃せり」

やはり、長崎での桁外れの「散財」が国許の藩当局で問題にされ、佐幕派の小八木派が後藤の非を鳴らしているというのである。

ほかに、長崎での後藤の一件について、後藤が薩摩藩士の「洋行人」に語ったという一節が『伊達宗城在京日記』に書かれている。
その「洋行人」の薩摩藩士が誰かということになった。薩摩藩の英国留学生の一人だろうから、五代友厚かと推測したところ、町田久成ではないかという受講生の方のご意見があった。このほうが確かかもしれないが、疲れていて、今日は調べる気にならない。とりあえず宿題ということで。

受講生のみなさん、5回にわたる講座へのご出席有難うございました。テキストと関連史料が多すぎて、いつも積み残しばかりでしたが、最後だけは何とかうまくいったように思います。御礼申し上げます。

年が明けると、「幕末の日記を読む」の新講座が1月16日から始まります。引き続いて寺村左膳の日記を読みます。薩土盟約、薩摩藩の秘密討幕計画、大政奉還、討幕の密勅など重要事件が目白押しでいちばん面白いところです。
よかったら、継続参加して下さい。初めての方ももちろん大歓迎です。

詳しくは、以下のサイトの右下の特別講座のコーナーです。
http://www.shopro.co.jp/komonjo/

尚々、
今回からカテゴリーを少し変更して、古文書講座「てらこや」を独立させました。