木下聡氏の論考「山内上杉氏における官途と関東管領職」(『日本歴史』685号、2005年)をたまたま読んだ。
私の知識ではとても批評する能力がないが、ただ一点だけ触発されるところがあった。
それは、山内上杉氏の当主のうち、顕定以降の顕実、憲房、憲寛、憲政がいずれも官途名を名乗らず、仮名(けみょう、通称)の四郎や五郎を生涯通していることに対して、木下氏は顕定以下が関東管領職であり、関東管領職そのものが官途を代替したと結論しているのが、非常に興味深かった。
そういえば、将軍足利義輝が上杉輝虎(謙信)に宛てた御内書のなかで、関東管領の養父憲政を「上杉五郎」と呼んでいたのを思い出した。すでに老年の域に達している憲政を「五郎」という通称か幼名で呼ぶのにわずかな違和感を覚えたものの、そのままにしていたが、関東管領が官途の代わりだとすれば、納得がいく。
木下氏はさらに、謙信の養子の一人、上杉三郎景虎についても指摘している。景虎は北条氏康の一子である。越相同盟の象徴として謙信の養子となったことはよく知られている。
謙信が養子の景虎と顕景(のち景勝)の二人を差別なく処遇したのはよく知られている。ところが、官途名に関しては、処遇に差が出ているのではないかと思われるのだ。
木下氏は、天正三年(1575)正月に謙信が長尾喜平次(景勝)を上杉弾正少弼景勝と名乗らせていることを指摘している。
そして、一方の景虎が三郎のままなのは、じつは謙信は関東管領職を景虎に譲るつもりだったからではないのかと推定する。
じつに興味深い説である。