歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
古文書塾てらこや冬期講座の2回目。

昨日はいろいろあって疲れて更新できなかった。

のっけからお詫びです>受講生のみなさん
また時間に追われて、レジュメに収録した史料の説明をするのを忘れていたことに気づきました。

史料6,防長回天史 5編下のことです。

これは長州藩士柏村数馬(広沢真臣の兄)の日記の一部です。柏村がひそかに上京して、西郷吉之助らと会談した内容を国許に報告したものです。
柏村らが上京したのは、薩長の間で改めて軍事同盟を結び挙兵計画が進行しているなか、薩土盟約(平和的に王政復古をめざす方針)の一報がもたらされたために、長州側としては薩摩側に方針変更が生じたのかどうかを確認しようとして、柏村らの派遣になったわけです。この柏村日記には、西郷が語った有名な「三都同時挙兵計画」が記されています。

で、表題の後藤象二郎に戻しますと、日記のなかで、薩土盟約の成否について土佐藩や後藤がどう考えているのかを伝える内容です。
つまり、一気に京都政局を主導するようになった後藤の薩土盟約案ですが、それを実現するための土佐藩や後藤らの責任と覚悟のほどを明らかにしています。
まず、後藤はこの薩土盟約案を幕府が採用しなかったとしたらどうするかについて、

「その策を持ち出しても幕府に採用これなきは必然に付き、右の塩に幕と手切れの策にこれあり、在京同藩(土佐藩)の者は残らず同意に付き、弊藩(薩摩藩)異議これなく戮力同心と申す事」

土佐藩の献策を幕府が採用しないと、それを機に幕府と断交する策であり、土佐藩の在京重役はみな意見が一致しているので、薩摩藩もそれほどの覚悟ならと、異議なく同意したというわけです。

問題は、土佐藩の在京重役で意見が一致したとしても、国許の老公、山内容堂の承認を得て藩論と定めるという作業がまだ残っています。土佐藩の国許には、門閥層を中心に佐幕派や後藤糾弾派の勢力がいるので予断を許しません。西郷らは後藤に、もし薩土盟約案が藩論にならなかった場合、後藤らはどうするのかと詰問しました。そのときの後藤の答えですが、

「後藤などよほど尽力此度の建策自然土藩一般の国論に相成らずとも、象次郎は勿論、同志の者だけは相加わり申すべし」

後藤は、薩土盟約論を藩論にできなかったら、自分と同志の者だけでも薩長側に加わるという形で責任を取ると、覚悟のほどを示したわけです。

薩摩藩が薩土盟約案に同意したのは、その趣意が薩摩藩の方針に合致していただけでなく、後藤の覚悟のほども見極めたからでしょう。
薩摩藩にとって、薩土盟約が成就しようがしまいが、まったく損がないことになりました。もし成就したら、薩摩藩は武力挙兵というリスクを冒さなくても、その果実を得ることが出来ます。また成就しなかったとしても、土佐藩の大立て者である後藤が薩長陣営に加わるとなると、土佐藩の討幕派(乾退助や小笠原唯八ら)を元気づけ、土佐藩の世論が一気に薩長との連合に傾きます。どっちにしろ、薩摩藩には損がありません。
前回の講座で、西郷が後藤や土佐藩を「主人」にしてみようといったのには、そういう真意が隠されていたわけです。

遅ればせながら、昨日の講座の補足とさせていただきました>受講生のみなさん。
今回は多くの質問が出て、とても賑やかでした。これからもよろしくお願いします。

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それでは、「ゴンザの露薩語講座」第9回です。
前回出題分「シンド」の解答は「労働」でした。
残念ながら、今回は正解者がありませんでした。
シンド」はみなさんもご想像どおり、「しんどい」から来ていると思います。でも、なぜこれが「労働」になるのか、ゴンザの考えがよくわかりませんが、『鹿児島方言大辞典』(高城書房)によると、「シンド」は苦労の意味で「心労」からの転訛だとあります。ゴンザは薩摩時代、自分のまわりで働く大人たちが「シンド」とか「テソカ」「テセ」と話していたのを耳にしたからでしょうか。もっとも、仕事が大変だという意味では「テシケコッジャ」(疲れることだ)とか使うように、「シンド」よりも「テセ」系が鹿児島では一般的なような気がします。
水戸っぽさん、岐阜少将さんは、疲れた→病気という連想はとてもよいと思うのですが、今回にかぎってはゴンザがちょっとひねてましたね(笑)。きなみんさんのシンド→神道→ロシア正教というのはじつに素晴らしい連想でしたが、ちょっと方向が違いましたね。それと神道なら「シント」と濁らないかも知れません。

第9問:ボズ

ヒント:前回のきなみんさんの発想法です。
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【2007/01/31 11:14】 | てらこや
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水戸っぽ
ん..ボズ・スキャックズに相当するミュージシャンが
当時のロシアにいたか?...。
と、世迷い言はこの辺までにして、
「ボズ」→坊主→司教
(というか、ロシア正教的にはこの語で正しいのかどうか。カトリックなら神父、新教なら牧師ですよね。)


きなみん
ボズ→BOSE→スピーカー→...ウソです。
ボズ→坊主→司祭 ですかね?
私もロシア正教での呼称を知らないので...


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大河「風林火山」第4回。

ミツが狩り場で信虎に殺害されるという妙な話。
巻狩や鷹狩をやるなら、勢子を百姓から動員するはずで、また狩り場一帯が立ち入り禁止になるはず。のんびりワラビ取りなどしないだろうに。

信虎の残虐さを示すエピソードとして挟み込んだのだろうが、いかにも出来が悪いな。ミツの死を信虎の残虐さとああいう形で結びつけるとは思わなかった。
たしかに、江戸中期に成立した『武田三代軍記』などには、信虎が妊婦の腹を割いて男女の別を確かめたとか、鉄炮で野良仕事の百姓を撃ち殺したといった悪行が描かれているが、あまり信用できない。
だいたい、鉄炮伝来が天文11年(1542)か12年だから、信虎が追放された天文10年以前にあるはずがない。だから、ドラマでは弓矢だったのか?

そんな後世の信用できないものより、同時代の『妙法寺記』には、ちょうど今回のドラマで描いた天文5年(1536)5月から7月にかけて「雨降り候て言語道断餓死、殊更、疫病ハヤリ申し候」とあるし、同書6月には、今川家で反逆した福島越前守の残党を匿った前嶋一門が信虎に粛清されたことが家中の反発を買い、「一国奉行衆悉く(ことごとく)他国へ越し申され候」といった事件のほうが重要だろう。
要するに、災害や飢餓に有効な手が打てず、また奉行人といった側近衆にまで背かれるという家臣団統制のまずさが、信虎失脚の主たる原因だと見たほうがいいのではないか。

前回、勝千代が元服して晴信となったのが天文5年3月。
今川氏輝兄弟が変死したのが同年4月10日(3月17日説も)。
いわゆる花倉の乱は5月24日。
わずか2カ月ほどだが、架空のエピソードを入れて引っ張るなあ。それより、わかっている史実をなるべく忠実に再現したほうがよほど面白いんじゃないだろうか。
また、晴信の官途を大膳大夫と呼んでいたが、これも左京大夫の間違いだと思う。

ミツの死を知った村人たちが報復しようと言い出すなか、若い百姓の平蔵が「これが下剋上か」とつぶやいたけど、使い方としてはどうか? 
「下剋上」は、「下、上に剋つ(かつ)」というのは周知のことだが、この言葉は「下」(公家に対する武家や、領主に対する百姓)の反乱を恐れる「上」の連中が侮蔑的に使う言葉である。まあ、逃散や年貢未納などを企てる百姓が逆に皮肉や恫喝の意味を込めて使うならありえるかもしれないが、どうもそんなニュアンスじゃなかったな。
それより、あんな理不尽な形で仲間が殺されたら、戦国時代の百姓なら、逃散や強訴など一揆徒党を組むくらいの気概があると思うんだけどな。江戸時代の百姓だって、あんなにおどおどしていないはず。

それにしても、勘助が潜んでいる村を葛笠村とか言っていたけど、実在の村なんだろうか?
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では、粛々と「ゴンザの露薩語講座」第8回です。
前回出題分「アヲモイ」の正解は「ウォッカ」です。
アヲモイ」は多くの方がおわかりのように「泡盛」のことです。ゴンザはこのアルコール度の高い蒸留酒(古酒なら60度を超えるものもある)と、ウォッカを対応させたわけですね。
もっとも、「泡盛」は琉球の酒ですから、薩摩でもなじみのある名前だったのかという疑問があります。でも、辞書によれば、泡盛は九州の一部でも作られたとあります。また泡盛は薩摩藩を指す隠語としても使われていたようです。面白いですね。ちなみに焼酎は戦国時代からあったようですが、サツマイモを原料にするのは江戸後期以降でしょうね。

かわいさん、マロンハットさん、きなみんさんは正解です。
岐阜少将さんはもうひとひねり足りませんでした。黒豚シャブシャブさんは今回わざとはずされたのかもしれません(笑)。かわいさん、酒類の別を解説いただいて有難うございます。
あっ、そうだ。大久保利通日記の復刻は今秋の予定のようです>きなみんさん。

第8回:シンド

ヒント:見かけは簡単かも知れませんが、動詞ではなく名詞です。



【2007/01/29 00:17】 | 風林火山
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水戸っぽ
「シンド」→(名詞なので)しんどいこと→
疲労or病気?とかかなあ?


岐阜少将
「シンド」→「風邪or熱」

考え方は水戸っぽさんっと同じですね。
しんどい…風邪で熱があってしんどいということではないかと。


きなみん
シンド→神道→ロシア正教
ですかね?(ムリ)
ていうか12歳の少年が「神道」なんて言い方しないわな(笑)
あ、今秋ですか。貯金始めます(弱気)

下剋上
吉田松陰大好き
意味は知っていましたが、上の者の皮肉とは知らなかったので、目からウロコが落ちました。おもろいですね~。又、ドラマの解釈をして下さるので、信虎を誤解せずに済むので、ありがたいです。

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昨夜、山口のマツノ書店店主の松村氏、大久保利通研究者の勝田政治氏、相楽総三研究者の西澤朱実氏らと一席を囲んだ。

マツノ書店が復刻する大久保利通日記の索引が完成したので、その祝宴である。索引という面倒で、かつ大事な仕事をしたのは勝田氏とそのグループ。

マツノ書店は5月頃に戊辰戦争についてのわが国でもっとも詳細な編纂史料『復古記』全15冊の復刻が進行中である。小生にも推薦文を書くように言われている。
昭和初期に刊行されたこの史料は幕末維新史研究上、畢竟の大作といえるだろう。これだけまとまった史料は今後もう出ないだろう。
マツノ書店では東大出版会と連携して、これを全巻10万円で発売予定。本来の定価は15万円。古書価格では20万円前後だから、どうしても欲しい方には、お買い得である。
以下に各冊の内訳を紹介する。

第1冊 慶応3年10月至明治元年2月
第2冊 明治元年2月至明治元年3月
第3冊 明治元年3月至明治元年4月
第4冊 明治元年4月至明治元年閏4月
第5冊 明治元年閏4月至明治元年5月
第6冊 明治元年5月至明治元年7月
第7冊 明治元年7月至明治元年9月
第8冊 明治元年9月至明治元年10月
第9冊 伏見口戦記・東海道戦記
第10冊 東海道戦記・房総戦記
第11冊 東叡山戦記・東山道戦記・北陸道戦記
第12冊 北陸道戦記・奥羽戦記
第13冊 白河口戦記・平潟口戦記・越後口戦記
第14冊 越後口戦記・蝦夷戦記
第15冊 綱文・索引


宴が終わったあと、勝田氏行きつけのゴールデン街の某店に行く。新宿ゴールデン街に行ったのは2年ぶりくらいか。たしか、そのときも勝田氏と一緒だった。
昔からの店もまだだいぶ残っている。バブル全盛期の頃、編集者だった私は仕事にかこつけて、よくここに通った。その当時付き合った連中もいまは名が売れたジャーナリストや映画監督になっている。
当時は、終電のあと、タクシーがまったく拾えず、しかたなく電車の始発まで店にたむろしてものだ。もうそんな元気はとてもないな。
血の気の多い客が多かったので、時には激論があり、その挙句に喧嘩となり、殴られた人が狭い階段を転げ落ちたりしたっけ。
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ゴンザの露薩語講座」第7回。
前回出題分「イェクロトント」の解答は「酔っぱらっている(あるいはその状態)」です。ヒントがわかりやすかったですかね。

黒豚シャブシャブさん、モリカズヤさん、吉田松陰大好きさんが正解でしたね。とくに黒豚シャブシャブさんはこの間すごい正答率です。もしかしてネイティブの方でしょうか?
モリカズヤさん、はじめまして。猫好きのドラマスタッフさん、誰だかわかりました。佐賀のご出身なのでしょうか? それとも同じスタッフ仲間で、佐賀でのロケが長く続いて現地の言葉を覚えてしまったのでしょうか? 佐賀弁も鹿児島弁と共通する言葉がありますね。今度ともよろしく。
マロンハットさん、これにめげずに挑戦して、少しずつ鹿児島度をアップして下さい。

第7回出題:アヲモイ

ヒント:青森ではありません。これもお国柄の連想ゲームです。





【2007/01/27 19:38】 | 幕末維新
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岐阜少将
「アヲモイ」→「酒(泡盛)」

ここ数回は考えあぐねていましたが、久しぶりにたぶんこれではないかと思いまして。

惜しいですね
かわい
>岐阜少将さん
 泡盛は蒸留酒ですから、ウォッカ(водка)でよいのではないでしょうか。酒全般はヴィノー(вино)で、これにはウォッカも含まれますが、本来はワインの意味ですから、試してみればゴンザにも区別できたはずです。


黒豚シャブシャブ
ネイティブ鹿児島ではないので、かごしま文庫ー②「かごしま語の世界」を片手にイメージをふくらませ思案。答え1:馬(あお)の守りで馬主?答え2:山盛り?お国柄を考えると、答え3:雨漏りとか?


マロンハット
答えはウォッカ!
私も泡盛からの連想です。


きなみん
毎日楽しく拝見しております。
アヲモイ→泡盛→ウォッカ
ですかね?ひねろうかとも思ったんですが、ひねる余地が...(笑)
それより(ぉぃ)マツノ書店さんから大久保利通日記っていつごろ刊行されるんですかね?それが気になって気になって...



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内輪の研究会で、桶狭間・長篠の両合戦について報告した。

すでに語り尽くされている感があり、とくに桶狭間合戦については史料が決定的に不足している。そんななか、これ以上何を報告できるのかという疑問もあるが、そうは言っておれない事情もあって、あえて報告の機会を仲間の研究者につくっていただいた。

桶狭間合戦については、戦前から迂回奇襲説が定説になっていたが、近年、藤本正行氏によって正面攻撃説が唱えられて、おおかたに受け容れられつつある。
報告するからには、藤本説の検証は避けて通れないので、若干、私見を述べた。使っている史料は藤本氏と変わらないから、あとは解釈論の領域になるが、二、三、藤本氏の方法論への疑問点と、織田・今川両軍の進行方向とルートについて、やや異なる意見を述べた。

長篠合戦については、論点を鉄炮に絞った。
果たして、織田軍に鉄炮はどれくらいあったのか。
陽明本信長公記などには、鳶ヶ巣に派遣した馬廻鉄炮500挺と本隊の1000挺の1500挺というのが定説である。
一方、太田牛一自筆の池田家本信長記には「鉄炮千挺計」の「千」の横に「三」と付け加えた形跡がある。これは、後世、甫庵信長記(3000挺の3段撃ち)を見た池田家の誰かが「三」を付け加えたのではないかと言われてきた。
池田家本の写しである原本信長記系の写本には、「三」を本文に取り込んで「三千挺」と記したものもあるが、信用できないとされてきた。
今回は、池田家本系統ではない異本にある「三千挺」をどう見るか検討した。いろいろな意見をうかがえて、大変参考になった。

全体を通じて、時間不足もあったが、不十分な報告で反省しきりである。

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さて、気を取り直して「ゴンザの露薩語講座」第6回です。
上記の理由で更新が遅れて申し訳ありません。
前回出題分「デミュ」ですが、ちょっと難しかったようですね。
薩摩弁では「大名」のことです。
正解は「公爵」です。

水戸っぽさんは、「大名」と解読され、さらに「貴族」と答えられていますので、正解と致します。鹿児島県外の方だと思われるのにお見事です。

黒豚シャブシャブさんも「大名」と答えられていて、ほぼ正解です。「皇帝」がやや惜しかったですね。「皇帝」は日本だと「将軍」か「天皇」になってしまいます。あと、当時、「大名」という言葉をふつうに使ったのかという疑問ももっともですね。ゴンザが使ったのを見ると、ある程度流通した言葉だったと思われます。

初参加のマロンハットさん、難しかったようですね。これに懲りずに次回からもご参加下さい。拙著共著お買い上げいただき有難うございます。

何といっても面白かったのは吉田松陰大好きさんの「でべそ」でした。もしかして「ソース」とかいう解答があるかなと思っていたのですが、それをはるかに上まわるユニークなお答えでした。次回からも吉田松陰大好きさんの面白いお答え待ってますね。

第6回出題:イェクロトント

ヒント:前回よりさらに難しいかな? より薩摩弁の口語で発音すると「ヨクロトット」です。同じような状態を指して「ヨクロタ」ともいいます。

【2007/01/26 12:21】 | 信長
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黒豚シャブシャブ
答えは、酔っ払い。いや、ウォッカがあるから、酒乱ぐらいインパクトがあってもいいか!?


マロンハット
はい、またまた難しいです。見当もつかない…
答えは、チョウザメ!
よかさかな、です。




モリカズヤ
はじめまして、「佐賀に来た猫好きのドラマスタッフ」さん
からのご紹介でお伺いしました。「ゴンザの露薩語講座」、
楽しそうですね。私も仲間に入れてください。
こたえは、「酔っぱらっている人」だと思います。
佐賀弁で「エークロットット」酔っぱらってしまっている。
その状態を「エークロタ」とか「イェークロタ」とか言うのです。
如何でしょう。


吉田松陰大好き
どうも、毎回馬鹿な回答しか浮かばず、「世界不思議発見(TBS)」の野々村真君になった気分です。昔から見ている番組で、『真君ってお馬鹿だな』と思っておりましたが、同格でした。分からないけど、謎を解きたい気持ちがようやく理解できました。‘正しい回答’でなく“面白い回答”を…という先生もいいですねぇ。感謝です。さて、今回は私も【酔っぱらい】と思います。薩摩弁だけで考え『ヨクロトット→酔っぱらったぞ』という風に思えます。薩摩弁だけでもロレツが回ってない感じなので、相当ベロンベロンで違う世界へ行ってしまった人って感じですね。


吉田松陰大好き
2、3年程前、美容院でパーマをかけながら松下幸之助の「指導者の条件(PHP)」を読み、『信長は“天下万民の為”という大義に基づき、世の非難を覚悟の上で武力を持ち、天下平定を貫いた』という内容に感動し「私は信長を誤解していた」と、美容院で長い事泣きました。スタッフの方にも情を移した様で、親切にティッシュとゴミ箱を置いて下さり、「三輪あきひろの“正負の法則”もいいですよ」と教えて下さる方もいました。(読書は苦手な為読んでませんが…)現在は許される事ではないけれど、当時は、やむを得ないかも…と、信長を好きになった本でし


吉田松陰大好き
信長は本音を多く語らない為、誤解されがちで不器用ではありますが、ベラベラ語る者よりクールでカッコ良い!女として無言で心中を理解し、支えたくなりますhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F992.gif" alt="" width="12" height="12">さて、新人物往来社の『歴史を歩く:信長天下統一の道(昨年1月号)』で桶狭間合戦前、裏切られた戸部新左衛門の筆跡を右筆に真似させ、某略文書を書かせて義元と離間させる等策謀し、情報収集に一番力を入れた為、的確な情勢判断、時期をあやまたない決断で勝利したともありした。それにしても、27歳の信長が真っ向勝負に出たとしたら、本当に無謀だけれどカッコ良く、私のハートはメロメロですhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F991.gif" alt="" width="12" height="12">

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以前に紹介した漫画単行本「せごどん」の第二巻。

いよいよ西郷が郡方書役助という藩の役職についた。年貢未進の百姓に代わって西郷が百叩きの罰を受けるというフィクションもあるが、大目に見よう。

今回の目玉は何といっても、薩摩藩世子、島津斉彬の登場である。ちょっと軽い江戸弁を操り、お国言葉は話せないものの、鼻ヒゲをはやした、やけに男臭い斉彬さんである。

初登場で西郷と遭遇する場面が、島津家の菩提寺である福昌寺で銃を使って狩猟をしているところ。
第一の疑問、いくら藩主世子とはいえ、殺生禁断の寺院で狩猟をしていいのか。
第二の疑問、狩猟に使っている銃がフランス式のミニエー銃だというが、時代はまだ弘化三年(1846)だから、ミニエー弾はまだ開発されていないはず。

西郷の父吉兵衛が出入りする赤山靱負があっけなく、お由羅崩れで切腹してしまう。
そのお由羅だが、江戸浅草の矢場で、客の呼び込みをやっているおきゃんで、セクシーな町娘。そして勝ち気で一本気で、いかにも江戸っ子らしい性格はなかなかユニークで面白い。
藩主斉興の側室にあがったものの、斉興が長男斉彬を毛嫌いし、お由羅の生んだ久光を跡継ぎにしようと暗い炎を燃やすなか、お由羅はそんな斉興と距離を置き、高崎崩れで多くの命が奪われるのを目の当たりにして、「私はただ幸せになりたかっただけ」と泣き崩れる。そして幕府から隠居を命じられても未練たらたらの斉興に、たまりかねたお由羅が「目を覚ましな、このスットコドッコイ」と怒って張り倒す……。
お由羅邸

(写真は鹿児島の玉里屋敷跡近くにあるお由羅邸跡)

従来の悪女お由羅像を覆す発想で、なかなか面白い。
ただ、西郷よりも大久保のほうがお由羅に憎悪の炎をより強く燃やしているように見えるが、そのあたりが次回でどんな展開になるのだろう。
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ゴンザの露薩語講座」第5回です。
前回の出題「ガワッパ」は河童のことですが、ご指摘のようにロシアにいるはずがありません。ゴンザはこれを「悪魔」と訳しました。子ども時代のゴンザにとって、大人たちに聞かされるガワッパはさぞや恐くて恐ろしい存在だったからでしょうか。
黒豚シャブシャブさんも水戸っぽさんも一応正解ですが、大正解ではありませんでした。次回頑張って下さい。ちょっと解答者が少なくなっています。ほかの方と同じ解答でもかまいませんから、参加して下さいませ。

第4回:デミュ

ヒント:薩摩弁でわかれば、それがロシアで何と同格か考えて下さい。

【2007/01/24 00:58】 | 幕末維新
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マロンハット
こんにちは。
「ゴンザの露薩語講座」いつも興味深く拝見させていただいております。
今回は難しいですね~薩摩弁すら見当もつきません…

戦国驍将・知将・奇将伝、購入しましたw


吉田松陰大好き
本当に難しく見当がつきません。「で」つながりで『でべそ』。話は変わりますが、お由羅がなかなか良い人物に描かれているんですね。[へぇ~×3]って感じです。面白そうな内容なので次回が楽しみです。


水戸っぽ
「デミュ」→大名→(ロシアにおける)貴族or領主..
薩摩弁よくわからないので完全に当てずっぽうですが。

管理人のみ閲覧できます
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黒豚シャブシャブ
答え1:量を見るで百科事典? 答え2:大名で皇帝? ゴンザレフ(だから勝手に名前を変えるな!)は大名と言う単語を使ったか? 殿様とかではないのか?

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トラックバックのあったsanraku2さんのブログ「日本史日誌」で、平山優『武田信玄』(吉川弘文館、2007)が紹介されている。

まだ購入していないが、表題にあるように、「甲越和与」つまり、武田信玄と上杉謙信の和睦が成立したことについて触れているらしく、その出典が丸島和洋氏の論文「甲越和与の発掘と越相同盟」(『戦国遺文 武田氏編』第六巻月報、東京堂出版)だとあったらしい。

私も同書を購入したとき、その月報論文をちらりと読んだままだったので、これを機に再読してみた。

川中島で五回にわたって戦った信玄と謙信の両雄が和睦していたというのは、あまり知られていないが、どうやら事実のようである。
時期は永禄十二年(1569)七月から翌元亀元年(1570)七月までの、およそ一年間である。
永禄十一年末、信玄は駿河に侵攻している。この作戦を成功させるため、その背後を上杉方に衝かれないよう、信玄が上杉方と版図を接する北信や西上野方面の静謐を欲していたという客観条件がある。

「甲越和与」の成立基盤はそこにある。同時期、謙信は北条氏康とも「越相同盟」を成立させようとしていた。しかし、氏康一子の三郎の養子入りをめぐって同盟締結が難航していた裏には、「甲越和与」の存在があった。

「甲越和与」は、激しく対立する両雄だけの交渉で成立するのは当初から困難で、第三者的な権威ある調停を必要とした。それは「公儀」である。具体的には将軍義昭と織田信長の働きかけである。とくに義昭は謙信の上洛を望んでおり、そのためにも「甲越和与」の成立を必要としていたという事情があった。

一方の信玄も、駿河侵攻を有利に進めるために、「甲越和与」を必要とし、とくに信長に対して交渉の仲介を再三要請している。どうも、「甲越和与」をより切実に欲していたのは信玄であり、「公儀」の調停を断り切れない謙信が渋々従ったというのが実情かも知れない。

丸島氏は、「甲越和与」が不安定ながら、一年近くも継続したことを指摘している。そして、この和睦による利益があまりない上杉方が「越相同盟」成立と引き替えに、「甲越和与」を破棄するに至る。

しかし、「甲越和与」の動きはそれだけで終わらなかったことを丸島氏は指摘している。元亀二年(1571)、「越相同盟」が破綻すると、今度は上杉方が武田方に対北条軍事同盟の締結を呼びかけている事実がある。上杉・武田連合で、北条氏にあたるというわけである。
この間、信玄の謙信への認識も変わっている。それが顕著なのは謙信の呼称である。信玄はそれまで関東管領職に就任した謙信の上杉改姓をずっと認めずに「長尾」と呼んできたが、元亀二年九月、将軍義昭の側近一色藤長に出した書状で「上杉輝虎」と書くなど、謙信の上杉改姓を容認する態度に転じる。
信玄は嫡男義信さえ犠牲にした駿河侵攻を何としても成就させようとし、謙信との同盟さえ厭わなかったことが明らかになる。

山本勘助死後の動きだが、改めて通り一遍ではない東国戦国史の面白さ、複雑さがある。
個人的には、「甲越和与」の動きを、信長側からどのように見えるのかが興味深い。「甲越和与」の動きは二次にわたってあったようで、いわゆる足利将軍の大名間抗争調停権がどの程度の有効性があったのか、それに信長がどのように関与したのか。とくに第二次の「甲越和与」は将軍義昭が信長との対決のために働きかけたものであり、信長抜きの調停権の実効性がどんなものだったのか、対比的に考察できたら面白いかもしれない。

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さて、「ゴンザの露薩語講座」第4回です。
前回の解答。「オイガト」は「私のもの」、あるいは「私の~」で、~は所有物の名詞が省略された表現ですね。たとえば、「そやおいがとじゃ」(それは私の[もの]だ)というような使い方です。より口語に近くいえば「オイガッ」です。英語でいえば、「my own~」でしょうか。
今回は残念ながら正解がなかったですね。
吉田松陰大好きさんは、ベタなご回答で、出題者の罠にはまってしまいました。ゆうたろうさんは前半は正解ですが、「ト」でつまづきましたね。たしかに「トト」(父さん)と考えたくなるのもわかります。

第4問:ガワッパ(ガラッパ)

ヒント:これは直訳と意訳と両方あります。直訳でも正解としますが、意訳は少し抽象的で不気味な言葉にひねって下さい。

【2007/01/23 00:09】 | 戦国織豊
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黒豚シャブシャブ
答えは、河童。ロシアに河童がいたのか…?


水戸っぽ
「ガワッパ」→川のわっぱ(子供)→河童
ということでしょうか..。
でも、確かにロシアに(伝承等の中でだけでも)
いたのか疑問ですが。


sanraku2
甲越和与についての解説、ありがとうございます。様々な事情が絡んでいて面白いですね。思えば、和睦交渉の時期は信長と義昭の短い蜜月期に上手い具合に当たっていますし。
ところで、甲越和与の根拠となったのはどういう史料なのでしょう? やはり書状の遣り取りが残っていたのでしょうか?

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大河「風林火山」の第三回。

勘助がまだ武田家に仕官せず、武田信虎の追放もまだとあって、中だるみ状態だ。

武田晴信役の市川亀治郎、まだいいのか悪いのかよくわからない。今度の晴信は学問好きという設定のようだから、派手さはいまひとつだろうか。中村梅雀や先代の尾上辰之助に似ている感じ。

仲代達矢。昔の豪放さが消えた感じ。以前は大声のセリフがうるさいほどだったが、声量もだいぶ落ちたようだ。演技も一本調子で、なんか変。
もう古稀を過ぎてるもんな。芸歴長いよな。映画「用心棒」あたりから、もう45年くらいたってるもんな。昨夜のCATVで、今夜あった「華麗なる一族」の前ヴァージョンの映画(山本薩夫監督、1974年製作)を放映していた。仲代達矢が今のキムタクの役である。そりゃ、時間がたったはずだ。

小山田信有を演じた田辺誠一の顔が能面のようで、よい味を出していた。
ただ、信有は越中守・出羽守・弥三郎の三代がいるようだけど、この信有はどれなのだろうか。
弥三郎はありえないし、若いところを見ると、出羽守信有なんだろうか。しかし、郡内小山田氏は越中守信有の代で、武田氏に従い、躑躅ヶ崎館に屋敷も構えている。これが息子の出羽守の代になると、もっと臣従度は進んだはずで、今川家の太原崇孚と内通している場面はどうなのか?

あと、ミツたちのいる村の実態だが、第一回とくらべると、やはり緊張感がなくなって、江戸時代の百姓とあまり変わらなくなってしまった。早くも羊頭狗肉である。
本来なら、村の周囲に土塁・柵や環濠があってもおかしくない。それに百姓たちがみな平百姓ばかりで、名主や侍身分が存在しないのもおかしい。最近の村落論では、村内部の身分の別や階層分化を重視しているのだが、それらは反映していないな。藤木久志氏がどちらかといえば、村内部の構造よりも、村vs領主の構図を重視しているからだろうか。
村にも、耕さない名主や侍が存在していることを描かないと、仏作って魂入れずだと思うけどな。

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ゴンザの露薩語講座」第3回です。
前回の解答は「バラライカ」でした。
黒豚シャブシャブさん、見事正解ですね。三角形をしているギターのような有名なロシアの弦楽器ですね。昔の映画「ドクトル・ジバゴ」に印象的なシーンがありましたね。主題歌にも使われていました(古いか)。
岐阜少将さんはちょっと深読みだったようです。「ドムラ」というのはどんな楽器なのでしょうか?
ゆうたろうさんは、あと一ひねり足りませんでした。吉田松陰大好きさんは松陰のような豪胆な解答でしたね(笑)。
で、次の出題です。

第3問:オイガト

【2007/01/21 23:19】 | 風林火山
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吉田松陰大好き
またまたストレートに『ありがとう』「いや~どうも~皆さんのお陰でごわす~」鹿児島人らしく素直な心で感謝感激を表した言葉。大河ドラマの件ですが、信有の父親は信虎に倒されたと言っていたので、僅かなヒントになるのでは?専門家の視点はさすがですね。細やかな事まで見ていらっしゃるので勉強になります。仲代達矢の[大地の子]は最高で泣きました。信虎は無言の表情と動作は上手く思います。今後もグチとも思える本音を御聞かせ願います。


ゆうたろう
(ぼくの)父さん。
「オイガ」を「おれの」と読むとして、「ト」は何だ、という話になるのですが、一万数千語規模の辞書ではそんなに難しい言葉は入ってないと思われるので、身近な単語で。

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昨夜、薩摩の会の新年会があった。

加治木島津家の当主、島津義秀氏が上京されたので新年会も兼ねて開催された。

今回は、西郷隆盛曾孫の西郷隆文氏(陶芸家)もおいでになった。西郷と奄美の愛加那さんととの間に生まれた菊次郎氏(元京都市長)の子孫である。現在、鹿児島県日置市(旧日吉町)で南洲窯を開いておられる(↓参照)。薩摩焼でも庶民向けの黒薩摩をテーマにされている。以前、訪れたことがあり、素朴な味わいのなかに、何か主張が感じられる作風だなと思ったことがある。
南洲窯

特別ゲストは、角界から芝田山親方(元横綱大乃国)だった。現役時代は200キロを超す大型力士だった。引退してからだいぶ減量したとはいえ、それでも威風堂々たる体格だった。
親方は大の甘党だというのは現役時代から知られていたそうで、昨年は何と、『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業』(日本経済新聞社刊)という著書まで刊行したほど。
お相撲さんは口が重い人が多いという先入観があったが、とても口がなめらかで、面白い話をされる方だったので、びっくりした。講演も上手そうである。

帰り際、義秀さんにちょっと尋ね事をした。義秀さんが宮司をされている精矛神社(加治木町日木山)は、天文18年(1549)6月の黒川崎合戦の舞台となった場所にある。
この合戦で、わが国戦史上、初めて鉄砲が使用されたことは以前このブログでも書いたことがある。
それで、加治木では鉄砲を使ったのは島津方か肝付方かのどちらだと考えていられるのかとお尋ねしたところ、島津方ではないかとのお答えで、その理由として、種子島時尭が島津日新斎の女婿である点を重視されていたので、我が意を得たりという思いだった。
島津家の方だということもあるが、歴史にも造詣が深くて感心する。

また何人かの方とお近づきになれてうれしかった。

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さて、『ゴンザの露薩語講座』第2回ですよ。
まずは前回の解答から。
スイチョル」は「好きです、愛している」という意味です。
水戸っぽさんは大正解ですね。岐阜少将さんもご存じだったようです。ほかの方も、ご存じなのに、わざと賑やかしのためか、ユニークな解答をお寄せいただいたようで。
ちょっと簡単だったようなので、今度は少し難問を。

第2問:シャムセン

ヒント:鹿児島弁ではわかりやすいですが、露薩辞書である点を留意して下さい。

【2007/01/20 12:14】 | 雑記
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ゆうたろう
……ギター?

(前回出遅れすみません。露薩講座開講おめでとうございます)


岐阜少将
「シャムセン」→「ドムラ」

三味線…はないですよね。少し調べてみたところロシアの民族楽器で同じ3本弦で形が似ているものがあったのでこれで。


吉田松陰大好き
何も調べず、ストレートに『三味線』。本当は【薩摩琵琶】を指しているのではないかと思います。琵琶の音色はいいですね。鹿児島県の[維新ふるさと館]で、劇?の始まりに少し流れた程度しか聞いた事がありませんが、素晴らしいです。


黒豚シャブシャブ
答えはバラライカ。ゴンザレフはコザックダンスを踊ったのか?(勝手に名前を変えるな!)

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ゴンザ石像

江戸時代、薩摩の少年、ゴンザが漂流してロシアに渡り、露日辞書を完成させたことは鹿児島ではだいぶ知られている。

先日、この話を古文書塾の受講生のみなさんに話した。とくにゴンザが女郎屋を「ワルカコトスルトコル」(悪かことするところ)と訳したことを紹介したら、大笑いになった。そこで、今回から、ゴンザが編纂した露日辞書(露薩辞書)から面白い言葉を末尾で紹介してみたい。クイズ形式で出題します。翌日に解答を示しますので、とくに鹿児島県外のご出身の方、参加してみて下さい。

その前に、ゴンザのことを少し紹介しておきます。

江戸時代中期、将軍吉宗の治世。
薩摩生まれのゴンザ少年(1718?-1739)は、鹿児島から大坂に向けた船(ワカシワ丸)に乗り込んで出航しました。船には米のほか、藩御用達の絹織物などの貴重品を積んでいました。なぜかといえば、薩摩藩主継豊は将軍吉宗の意向で、竹姫(五代将軍綱吉養女)を娶ることとなったので、そのための結納品を積載していたのです。
将軍家との縁組みは何かと物入りなので、薩摩藩は何とか竹姫との縁談を断ろうとしましたが、吉宗じきじきのお声掛かりで、とうとう断れなくなりました。そうしたいわくつきの縁組みにゴンザの航海は関わっていたわけです。
ところが、途中、船が時化に遭って、ロシア領のカムチャッカ半島に漂流しました。享保十四年(1729)のこと。ときにゴンザ12歳だったそうです。

折からロシアは東進政策を推進していたので、日本人のゴンザらはロシア当局から厚遇され、首都ペテルブルクの科学アカデミーに所属して、露日辞書の編纂を命じられました。ゴンザはロシアの女帝アンナに拝謁しましたが、女帝はゴンザの流暢なロシア語に驚き、日本語学校を設立し、ゴンザをその教師にするよう命じたといわれます。
仲間たちがほとんど死亡するなか、当局の勧めにより、ゴンザ少年は一人で露日辞書を編纂しました(写真参照)。一万数千の語彙を収集して対訳しました。これは世界初の露日辞典でしたが、実質は露日というより露薩辞書といったほうがよいでしょう。ゴンザは故国に帰れぬまま、わずか22歳の若さで異国の地に没しました。

ゴンザはロシアで、デミアン・ポモルツェフと名乗ったそうです。ゴンザが亡くなったとき、ロシア科学アカデミーは異国人ゴンザの功績を称えるために肖像画と石膏像を製作し、それが今日まで伝えられています(冒頭写真参照)。

このゴンザの事績が広く知られるようになり、鹿児島県でも顕彰活動が行われ、鹿児島一の繁華街天文館の一角には、ゴンザ通りも誕生しています。また鹿児島にはゴンザファンクラブも発足し、写真のような会報を刊行するなど活発な活動が行われております。
ゴンザ会報

また、ゴンザの出身地は鹿児島県のどこだったのか、いろいろ調査がされています。ゴンザの露日辞書から、ゴンザが使用した方言の分布も調べられているようですが、まだ特定するには至っていません。

なお、その後の調査により、ゴンザの自署が見つかり、下に左衛門のくずし字があったことから、ゴンザはゴン左衛門、おそらく権左衛門という名前だったと思われます。

ゴンザが編纂した露日辞書は日本語版に翻訳もされており、『新スラヴ日本語辞典』(ナウカ社、1985)として出版されています。
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さて、「ゴンザの露薩語講座」の始まりです。「ワルカコトスルトコル」→「女郎屋、遊郭」という形で答えて下さいね。

第1問:スイチョル?

【2007/01/19 13:31】 | 雑記
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吉田松陰大好き
禿げてる


水戸っぽ
「スイチョル? 」→「(~のこと)好きですか?」


まいたけ君
「スイチョル?」→「あめんぼを取りますか?」

 発音が「キンチョール」に似ているぞ。でも、「キン」ではなく「スイ」なので、「蚊」ではなく、水にいて蚊に似ている虫。
 う~ン(悩)、あ!「あめんぼ」のことではないかな?
 いやまてよ。キンチョールのCMといえば、沢口靖子。もしかしたら「(そんなことして)恥ずかしくはないですか?」かも?


岐阜少将
「スイチョル?」→「空腹か?」

好きかなとも思いますが、解答済みなので。

補足
吉田松陰大好き
『おまん、毛がすいちょるでごわす』という様な感じで、『すいちょる』は【毛が薄い】更に変化して《禿げている》


ゆうたろう
きりぎりすの鳴き声?
(私も「すきですか」かなと思いますが、既出なので)


吉田松陰大好き
今更…ですが、『月代』の事を言いたかったのです。ロシア人から見た日本人の感想【オオ~、ジャパニーズヘッド、すいちょる!】てな感じで斬新だったのではないかと思ってました。

ごんざ
いぬかい いて
ごんざの辞書のマニアになり、それに特化したブログをはじめました。
よろしくおねがいします。
http://ameblo.jp/gonza1729

ごんざ
いぬかいいて
ごんざの「わるかことするところ」について、以前から気になっていました。

スイチョル
てげてげ
好きですか ?です。 よすごあんど


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戦国の驍将

表題の文庫が新刊(学研M文庫)です。
共著で執筆しました。
私の担当は、以下の6人です。

後藤又兵衛
島津家久
織田信忠
結城秀康
本多政重
近衛前久


文庫で読みやすく仕上がっています。
詳しく内容はここにあります。



【2007/01/17 16:53】 | 新刊
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早速買ってきました
武藤 臼
 こんばんわ
 
 わりと自分好みの人物が取り上げられてますが、10頁前後というのはやっぱり物足りないですね。次の単行本を楽しみにしときます。

すいません、TB二度してしまいました。


鎌倉時代
小池直行
私は、趣味の範囲ですが鎌倉時代に生きた色々な人物に関して興味を持っています

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今日から、小学館アカデミーてらこや「幕末の日記を読む2」の講座が始まった(詳しくはここ)。

今回は前回よりも受講者が多く、新人の方も何人かおいでだったので、前回受講しなかったハンデを感じさせないようにと気をつけたつもりである。

前回に引き続いて、土佐藩重役の寺村左膳の『寺村左膳道成日記』慶応三年(1867)分を読んだ。
今日のテーマは、六月の薩土盟約だった。
大政奉還や王政復古とくらべて、あまり知られていないだけに、なるべく詳しく、かつ多角的に見られるよう、史料も取り揃えた。

とくに焦点となったのは、「政令二途」体制(朝廷と幕府の権力分散状態)の克服をどのように行うのか、土佐藩、薩摩藩、そして幕府という三者三様の処方箋の違いを押さえることにした。

土佐藩:後藤象二郎の「大条理」=大政奉還→王政復古
薩摩藩:二条城・大坂城・兵庫港を同時に襲撃する計画
幕府:将軍慶喜の摂政兼任策

同じ時局認識から出発しながら、立場や利害の違いから、それぞれ方針と行動が異なっていたことを理解してもらえたのではないかと思う。

面白かった史料は、『伊達宗城在京日記』に出てきた伊達宗城と島津久光という殿様同士のやりとりである。
二人は、後藤象二郎の薩土盟約に賭ける意気込みが空回りするのではないかと見ており、結局、山内容堂が後藤の策に同意しないだろうという点で二人は意見が一致する。殿様仲間で容堂の性格を知り抜いたうえでの冷徹な観察眼が興味深かった。

なお、同日記に出てくる「簡兄」が誰かを時間不足でちゃんと調べられず、おそらく久光のことだろうと推定した。それは「簡兄」が「双松」にいるからであり、「二本松」つまり、薩摩藩の京都藩邸を意味する隠語ではないかと考えたからである。

帰ってから調べてみると、久光は雅号をいくつか持っており、そのなかに「大簡」と「双松」が含まれていた。「簡兄」は「大簡」を略した敬称だった。「双松」は二本松藩邸を指す隠語ではなかったものの、久光が二本松からとった雅号であることは間違いないだろうと思う。
久光はほかにも、「頑古道人」「無志翁」といった雅号をもっていたようだ。老荘思想っぽい感じがする雅号である。

講座のあとの反省会で、ロシアに渡った薩摩の漂流民ゴンザが編纂した「露日辞書」がその実「露薩辞書」であり、露日交渉上ではほとんど実用性のないものだったという話をたまたましたら、受講生のみなさんに受けて、このブログで「ゴンザの露薩講座」をやったらどうだという提案があったので、少し具体化してみようと思っている。

【2007/01/17 01:07】 | てらこや
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武田晴信の官途から、息子の勝頼の官途を思い出したので、少し書いてみたい。

武田晴信の官途名が大膳大夫だったことは間違いない。少なくとも晴信本人が「大膳大夫晴信」と名乗った書状が存在するからである。

問題は左京大夫である。管見のかぎり、一次史料で確認できないが、父信虎も祖父信縄も左京大夫を名乗っているから、晴信が名乗ったとしても決しておかしくない。
柴辻俊六氏も典拠を示されていないが、元服と同時にそう名乗ったと、一度は書かれているからには何らかの根拠があるのだろう。不勉強ゆえ、典拠をご存じの方がおいでなら、ご教示願えたらと思う。

これから以降は、私の憶測です。

晴信はおそらく、元服と共に左京大夫を名乗った可能性が高いと思う。柴辻俊六氏によれば、信虎は当初左京大夫の官途を名乗っていたが、天文六年(1537)から陸奥守と受領名を名乗っているという(『戦国人名辞典』)。天文六年は晴信が元服した翌年だから、信虎が晴信に左京大夫を譲って、自分は陸奥守を名乗ったのではないか。そうでなければ、この時期に官途を変えたきっかけが考えにくい。
その後、晴信は左京大夫から大膳大夫へと官途名を変えたわけだが、その契機はおそらく信虎追放ではないだろうか。

で、問題は武田勝頼である。
勝頼は諏訪四郎から武田四郎と名乗りを変えたことは知られるが、官途名を名乗っていたことは、ほとんど知られていないのでないだろうか。

しかも、その官途は二種類あり、左京大夫と大膳大夫である。
たとえば、山科言経の『言経卿記』天正十年三月二十二日条には、武田氏が滅亡し、勝頼・太郎信勝・左馬助信豊の首級が京都に送られてきたことを述べた部分で、勝頼を「武田左京大夫」と記している。
また、上杉景勝宛ての勝頼書状(年次未詳)で、勝頼は「大膳大夫勝頼」と署名している(『戦国遺文 武田氏編』第五巻、3680号)。
なお、『上杉家文書』にもう一点、勝頼が大膳大夫を名乗った書状が収録されていた記憶があるが、号数を探せないでいる。勝頼が大膳大夫を名乗った文書が少なくとも2点存在する。

では、勝頼は左京大夫と大膳大夫をどのように名乗ったのか。同時に名乗ったということはありえない。どちらかが先で、もう一方が後のはずである。

それを考える手がかりを与えてくれるのは、丸島和洋氏の論文である。
「武田勝頼と信勝」 『戦国遺文月報』5、2004年4月

丸島氏は、天正七年(1579)末に、勝頼の嫡男太郎信勝が元服したのに伴い、勝頼は家督を信勝に譲って隠居した可能性が高いと、まことに興味深い指摘をしている。
それと同時に、武田家中の有力な一門や重臣に対して、受領(国司名)が授与されている。たとえば、武田信豊は左馬助から相模守へ、穴山信君は玄蕃頭から陸奥守へ、跡部勝資は大炊助から尾張守へ、内藤昌月は修理亮から大和守へ、真田昌幸は喜兵衛から安房守へ、という具合である。

勝頼の官途に戻れば、信勝への家督譲渡と隠居に伴い、官途名を左京大夫から大膳大夫へと変更したのではないかと思われる。
左京大夫が先であると考える理由は、第一に、信縄・信虎・晴信の三代が左京大夫をまず名乗ったと考えられ、勝頼もその慣例に従ったものと思われること。第二に、大膳大夫の官途は『上杉家文書』に遺されていることから、天正六年(1578)の御館の乱以降、両家の友好関係が結ばれてからだと思われる。したがって、上記で紹介した景勝宛ての勝頼書状の年次も、隠居後であり、天正八年以降ではないだろうか。
(なお、丸島氏は、勝頼の隠居は信玄の有名な遺言に従ったのではなく、信勝が織田家の血を引いていることから、信長との和睦を成功させるのが目的だったのではないかと、興味深い指摘をしている)

では、山科言経が天正十年に勝頼の官途を左京大夫だと記したことは官途が前後して矛盾するように思えるが、そうではないと思う。
勝頼の左京大夫の官途は、おそらく信玄の在世中、つまり、将軍義昭が京都に健在だった元亀年間に、信玄が後継者とした勝頼のために官途を要請したので、それが公家社会では知られていた可能性が高く、言経はそれを記したのである。同時に、そのとき勝頼は叙爵した可能性もあるだろう。

一方、大膳大夫の官途は天正七年末以降の名乗りであり、信長が支配する朝廷に願い出れば拒絶されるのは明らかだったから、勝頼が武田家歴代の慣例に従って僭称したものと思われる。したがって、言経が知るはずもなかった、と考えられよう。

なお、上記の丸島和洋氏に、勝頼の官途についての論文「武田「四郎」勝頼と「大膳大夫」勝頼」というのがあると思われる。それにそのあたりの経緯も書かれている可能性があることを付け加えておきたい。
というのも、この丸島論文は『武田氏研究』第24号(2001年)に収録されていると、私は備忘にメモしているのだが、同誌24号にはその論文は収録されておらず、同誌の前後の号にも見当たらない。私が粗忽にも何か勘違いして誤記したらしい。国会図書館の雑誌データベースでもヒットしない。
どなたか、この論文の収録誌・刊行年などをご存じの方がおいでなら、ご教示下さいませ。

【2007/01/16 01:35】 | 戦国織豊
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板倉丈浩
こんばんは。
信玄が「左京大夫」と呼ばれているのは『為和集』という歌集で、冷泉為和が天文8年8月に甲府に招かれた時の記事のようです(『私家集大成』第7巻・中世Ⅴ上)。
柴辻俊六氏は左京大夫は従四位下相当官だからこれは誤記だとしていますが(『武田信玄合戦録』p28)、今谷明氏『戦国大名と天皇』によれば、左京大夫は戦国武将に濫授された官で、他ならぬ武田信虎が大永元年4月に「従五位下・左京大夫」に正式に叙任されているようですので、信玄が任官していてもおかしくはないような気がします。
『勝山記』の信虎追放記事で、信玄のことを「武田大夫殿様」と呼んでますので、左京だか大膳だかわかりませんが、天文十年六月の時点で○○大夫と称していたのは間違いないようです。

武田左京大夫
桐野
板倉丈浩さん

おおっ、晴信の左京大夫名乗り、ちゃんと典拠があったのですね。立派な一次史料です。
これによれば、晴信が家督を継ぐ前に左京大夫を名乗っていたのは明らかですね。私の推論が裏づけられたように思います。
ご教示有難うございます。

柴辻氏の解釈はおかしいです。戦国時代、官位相当制は形骸化しており、左京大夫は従四位下でなければ云々というのはほとんど空論です。
そうした予断によって、一次史料の記事を否定するのはいかがかと。
なるほど、柴辻氏の書かれたものが前後で食い違っている理由がわかりました。

大膳大夫については、遅くとも永禄初年には名乗っています。ちゃんと調べれば、まだ遡れると思います。
その画期は、おそらく天文10年(1541)の信虎追放による家督相続だと思うんですけどね。


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大河「風林火山」の2回目。

今回は史実と離れた勘助の若い頃の話だったので、とくに触れるべき点はない。ただ、フィクション部分ながら、史実とのかみ合わせを考慮するなど、かなりよく出来ているように思えた。
勝千代こと晴信の大名御曹子としての苦悩と、勘助の社会底辺での動きという、上下の二元構造的な構成が巧みで、両者の交錯する日がいつか待ち遠しい気にさせる。

勝千代が元服したとたん、子役から市川亀治郎に変わった。以前、義経でも用いられた手法だ。

元服について、天文五年(1536)、16歳になった勝千代が将軍義晴の一字を拝領して晴信と名乗り、叙爵して大膳大夫の官途を名乗ったというナレーションがあった。

念のため、偏諱・叙爵(従五位下の叙位)・官途名についての依拠史料を調べてみた。

【偏諱】
『高白斎記』「三月武田晴信公元服、十六歳、義晴ノ諱ノ晴ノ字ヲ賜フ」
足利将軍を「義晴」と呼び捨てだが、12代将軍義晴からの一字拝領は確認できる。なお、通称(仮名)は太郎を名乗った。

義晴の偏諱のうち、「義」の一字をもらった大名は、当て推量だが、大内義隆、大友義鎮、今川義元などはそうではないかと思う。「晴」は武田晴信のほか、細川晴元、伊達晴宗、長尾晴景(謙信の兄)、尼子晴久もそうかな。公家だと、関白二条晴良、今出川晴季、勧修寺晴右・晴豊父子などがいる。
もっとも、勧修寺晴右・晴豊は「はれみぎ」「はれとよ」と読むとされる。以前からの疑問なのだが、偏諱の場合、訓読まで含めて拝領するのではないのかな? 義晴は「よしはれ」と読むのかどうか。もしそうなら、「晴信」も「はれのぶ」か?

【叙爵】
『歴名土代』「[甲州武田信虎子]源晴信。同五正十七」(天文五年正月十七日)
五位に叙することをいう。晴信の官位文書が現存していないが、四位・五位の叙位人を収録した『歴名土代』(りゃくみょうどだい)に記載があるので間違いない。
晴信が叙爵した天文五年九月、従三位参議の正親町公叙(おおぎまち・きんのぶ)が甲斐から帰京している。これは晴信の叙爵の口宣案を持参して下向したものだろう。口宣案の日付はおそらく正月十七日で、三月の元服式に間に合うように持参したのだろう。

【官途名】
『甲陽軍鑑』「駿河今川義元公御肝入にて、勝千世殿十六歳の三月吉日に御元服ありて、信濃守・大膳大夫晴信と、忝も禁中より勅使として転法輪三条殿甲府へ下向し給ふ」
信濃守と大膳大夫を同時に名乗るということはふつうありえない。信濃守は後年の官途で、おそらく信州領有をめぐって上杉謙信との対抗上名乗ったのではないかと思われる。
なお、柴辻俊六氏は天文五年の元服のときは左京大夫、同十年六月、父信虎を追放して家督を継いだとき、従四位下大膳大夫に叙任したとしている(『戦国大名辞典』)。もっとも、同氏は最新刊の『信玄の戦略』(中公新書)では、天文五年の元服のときに従五位下大膳大夫に任ぜられたとも書いており、食い違う。
そもそも、左京大夫や大膳大夫の官途名乗り初めの典拠は何なのだろうか。

【2007/01/15 00:27】 | 風林火山
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あほやん
はじめまして、歴史系大学院生をしております、あほやんと申しますm(_ _)m

以前といっても、そんなに前ではないですが「関白二条晴良」をテーマに若干報告したことがあります。
そのときには、てきとうに「はるよし」だか「はれよし」だかと読んでおりました。たしか『国史大辞典』は「はれよし」と読んでいたような気がします。

二条家は足利家と、なにかと関係深そうですね。

晴良のよみ
桐野
あほやんさん、初めまして。

関白二条晴良について報告されたのですか。もしかして、元亀元年の江濃越一和についてでしょうか。そういえば、最近、東京の○○○研究会で報告がありましたね(笑)。私は所用で出席できず残念でした。

二条晴良、「はれよし」だったのを思い出しました。
『国史大辞典』にもそう書かれていました。
将軍義晴からの一字拝領は確実だと思われますので、義晴も「よしはれ」と読んだ可能性があるのではないでしょうか? 何か史料がありそうですけど。

足利家は同じ摂関家でも近衛家との縁が深いですが、将軍義昭の代では、近衛前久とは不仲ですね。
そういえば、晴良の子、昭実は義昭からの数少ない一字拝領でしたね。昭実は義昭の追放後も実名を変更していませんので、それなりに足利家との縁を大事にしていたのかもしれかせん。


はじめまして
sanraku2
ご挨拶が遅れました。『日本史日誌』のsanraku2と申します。以後どうぞよろしくお願いします。

こちらこそ
桐野
sanraku2さん

わざわざのご挨拶痛み入ります。
こちらこそよろしくお願いします。
そちらのブログでもかなり詳しい考証をされておられる様子。時々のぞかせてもらいます。
今年の大河はいろいろ楽しみですね。

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カウンターを設置してから2カ月足らずで、1万アクセスを超えました。

ブログ始めたばかりなのに、1日平均200人近い方がアクセスしていただいた計算になり、予想外のことで、有難いかぎりです。

これからも、アクセスしてよかったと思えるような事柄が書けたらいいなと思っております。今後もどうぞご愛顧のほどを。

また、人気ブログランキングのクリックもよろしくお願いします。

【2007/01/14 21:19】 | 雑記
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朝倉五代

越前朝倉氏の本拠だった一乗谷にある福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館が表題の史料集を04年3月に刊行した。
先日、友人から聞くまで知らなかったので、急ぎ購入。

越前朝倉氏は一乗谷に入った初代孝景から五代100年以上にわたって北陸に君臨した戦国大名である。元亀四年(1573)、五代義景が織田信長に滅ぼされたため、その発給文書がそれほど残存しているとは思っていなかったが、意外と多いのに驚いた。収集に尽力された関係者の努力に多謝。
以下は当主ごとの発給文書の点数。奉行人奉書なども含めた点数である。

初代孝景(1428-81)  43点
二代氏景(1449-86)  26点
三代貞景(1473-1512) 43点
四代孝景(1493-1548) 83点
五代義景(1533-73)  268点


個人的にはやはり五代義景の文書に注目する。
ざっと一覧して気づいたのは、義景は元亀元年正月(1570)から印判状(黒印状)も併用するようになっていることだ。
花押だけでなく印判の登場は、大名権力の何らかの画期を示している。この年からちょうど織田信長との対決が始まっているけれど、単なる偶然なのだろうか。

変わった文書といえば、薩摩島津氏に宛てた文書が2点あることである。
1点(157号)は義景が島津義久に宛てたもの(7月23日付)。内容もなかなか興味深く、「琉球渡海勘合之儀」、つまり、琉球王国との貿易について、島津義久が同意してくれたことに謝意を表したもの。越前の朝倉氏が琉球と貿易をしていたという事実にまず驚かされる。年次は永禄10年(1567)とされている。

もう1点(175号)は、義景の側近、半井明宗が薩摩島津家の3人の老中、伊集院忠金(のち忠棟)・村田経定・川上久朗に宛てた書状写し(4月28日付)である。これは主君義景の書状の副状として出されたものである。このときの義景書状は現存していないようだ。
内容は、これも朝倉側が「琉球御勘合」について島津義久の取り計らいに感謝するというもの。
同書の編者はこの書状の年次を永禄12年(1569)に比定しているが、疑問である。宛所の一人、川上久朗は同11年2月に戦傷死しているから、永禄10年以前でなければならない。

とすれば、先の義久宛て義景書状との関連が想起される。半井明宗書状は義景書状の前段階のもので、やはり永禄10年ではないだろうか。
なお、この半井明宗書状は『鹿児島県史料 旧記雑録附録』に収録されている(1017号)。同史料の編者は年次比定をせずに、年次未詳文書にしている。

分厚い史料集ながら、お値段も手頃。朝倉氏に関心のある方はどうぞ。

朝倉氏五代の発給文書
(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館古文書調査資料1)
編集・発行:福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館
発行年:2004年3月
定価:2.000円(送料340円とともに現金書留で)

*詳しくはここへお問い合わせ下さい。


【2007/01/14 00:33】 | 戦国織豊
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先日、国会図書館で資料調べをしたとき、ある研究紀要の論文を見ていたら、同じ号に表題の研究レポートが載っていた。
薩摩の武芸も研究テーマになるのかと思ったので、ついでに複写してみた。

ペルザー・ロブ「薩藩武芸文化探検―文亀から元禄にかけて―」
『東京大学史料編纂所研究紀要』14号、2004年3月


筆者はオランダ人留学生である。ライデン大学日本学科で学びながら、日本の武道文化に深い関心をもって来日したらしい。
博士論文のテーマを探して、その準備段階でのレポートである。

一読して、まだテーマが絞りきれていない感じである。
近代日本における武道の存在意義を明らかにするために、武道の起源を探検したいということで、薩摩のいくつかの武芸流派と薩住刀鍛冶を素材としたいらしい。

そう意気込んで、いろいろ調査・研究したロブ氏だが、大きなハードルがあったようだ。まず日本語の習得だけでも大変なのに、そのうえ、現代日本人さえ読めない古文書のくずし字にチャレンジしなければならなかったというから、目がくらむような困難さは想像に難くない。本人も漢文の基礎知識もなく、くずし字のために「精神的混乱に落ち込みそうになった」と告白している。

さらに、武芸を研究しようと思っても、ほとんど史料がないことに途方に暮れたという。そりゃそうだろう。たとえば、宮本武蔵の有名な「五輪書」だって、本当に武蔵が書いたかどうかもわからないくらいだから、あとは推して知るべしである。本来、武芸・剣術は口伝や秘伝が多く、文字史料になじまない、あるいは文字ではその奥義を明らかにすることはできないという性格をもっている。

ロブ氏の置かれた環境や研究条件には、同情するに余りある。

それはともかく、彼は、武芸の文化的な背景に関心をもっているようだ。
たとえば、薩摩の示現流には、朱子学と真言宗が影響を及ぼしているという。真言宗の影響は示現流と近い体捨流が原点であり、型を始める前に摩利支天経を唱える慣習があるからだという。また、道場では稽古相手は敵と見なすべきなので、一切礼をしないという。
残念ながら、この指摘があたっているのかどうか、門外漢の私には判断のしようがない。

また野太刀自顕流、いわゆる薬丸流についても触れている。同流派の史料は1点しかなく、しかも品切れで入手困難だと注記してある。
どんな希少価値のある史料かと思ったら、何と、私はちゃんと持っていたではないか(写真参照)。

15年ほど前、尚古集成館だったかで購入したものだが、その後重版していないのだろうか。ロブ氏も鹿屋体育大学附属図書館で見たそうだから、彼のためにも同書の古書が見つかるか、重版が実現したら喜ばしい。
と書きながら、日本の古本屋で検索してみたら、1冊ヒットしたけどな。
野太刀自顕流

彼によれば、野太刀自顕流の代表者が自流の本格的な研究をする予定だと語ったとあるが、その後進展しているのだろうか。

武道に憧れてヨーロッパからわざわざわが国にやってきて、日本人よりも日本文化を知ろうとしている彼の研究が成就することを祈りたい。
当論文からすでに2年以上経過しているが、無事博士論文は成ったのであろうか。

上記で触れた野太刀自顕流の本

野太刀自顕流(薬丸流)
編集:伊藤政夫
発行:野太刀自顕流研修会
発行年:1988年
定価:2.500円

【2007/01/13 22:48】 | 雑記
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HASU
ロブ氏の境遇ですが、冷たいようですが、「それくらい当然だろ。そんな泣き言を論文に書くんじゃねー」というのが正直なところです。

日本の西洋史研究者も欧米の文書館で、ミミズがのたくったような古文書を解読して博士論文に仕上げていますが、そんな繰り言を論文に書いたりしません。東洋史研究者には、今では絶滅した言語の文書を解読し、その前提として英仏独露中各国語の文献に目を通している人がたくさんいます。事実上、重要文献が日本語のみで済むし、日本は先進国だから海外で日本語を勉強することもけっこう容易い。日本史研究者は恵まれてるのです。


桐野
HASUさん、どうも。
以前から存じ上げていたHASUさんですよね?

さて、辛口コメント有難うございます。
まあ、語学のハンデ抱えて大変だろうなと思って、あまり内容上の評価はしなかったのですが……。

西洋史や東洋史の研究状況はもっと厳しいのですね。
私の方に、日本の古文書が特殊だという視野の狭い予断があったようです。


HASU
どうも。お会いしていたもうすぐ無くなる@niftyでも、それほどおたくさん話しした記憶がなかったので、覚えてくださって嬉しいです。

先のコメントでは厳しいことを書きましたが、もちろん、日本史には日本史の困難があると思います(郷土史家まで含めて異様に厚い研究者層と世界屈指の精緻さを誇る先行研究の山があるけど、論文の電子化は殆ど進んでないとか、日本人は中学から英語習うけど、非漢語圏の人は大学から漢字とひらがなを習うとか)。それは否定しません。でも、それは決して特殊なハンデではないです。日本の西洋研究者は、「翻訳と海外研究の紹介が仕事とはお気楽ですね」などと今でも陰口叩かれてます。私も影印本『慶長年録』程度の崩し字すら読めず、かわとさんを喫茶店に呼びつけて、教えてもらったことがあります。これは逆に言えば、普通の日本人が読めないのだから、スタート地点での差は、現代日本語の読解より少ないことを意味するのかも知れません。

欧米の日本史研究の集大成たるCambridge History of Japan(と言っても、日本人も書いてますが…)への《日本語での》書評を、私は寡聞にして知りません。あんまり一生懸命探したわけじゃありませんので、どこかにあるのかもしれませんが、無いのなら、要するに、一部の近現代史を除いて、海外の日本史研究者は、日本人研究者から舐められているからだと思うのです。ロブ氏には是非この苦難を乗り越えて欲しいと思います。じゃないと日本人研究者の意識も変わりません。


開国?
桐野
HASUさん

以前、遣明船に木材や銭貨をバラスト代わりに積載すると教えてもらって、目からウロコだったので、HASUさんのことは印象深く覚えています。

くずし字については、外国人が現代日本人に比してそれほどハンデないのではないのかというご意見、自分の経験に照らしても納得です。

日本史研究はどうしても一国主義といいますか、国内的に自己完結している嫌いがあり、それが日本人研究者の根拠のないプライドになっている一方、世界の歴史研究からは取り残されている傾向を生みだしているかもしれませんね。
そのように日本からの発信が少ない現状は、日本史の世界史、あるいは東アジア史における位置づけが不当に低く見られる傾向を生み出していないでしょうか。
個人的には、明治維新はフランス革命やロシア革命に比すべき歴史的事件ではないかと思っているのですが、どうもそうした比較史的な検討から、自ら遮断しているような気がします(まあ、欧米至上主義は世界史的な風潮であり、その規定力が大きいのでしょうが)。

ロブ氏のレポートについては、残念ながら論文の体をなしておらず、エッセイ程度だと思います。その点は承知の上で俎上に上げたのですが、考えてみれば、その紀要の主宰者もよく掲載したなと思いました。

何というか、外国人なので下駄をはかせてあるという位置づけにも見え、これはむしろ、ロブ氏はじめ外国人の日本史研究者に対しては非礼にならないのかなとも、チラッと思いました。

外国人がそういう研究状況を突破するというのも一興ですね。最近は幕末史などにそうした研究者がちらほらといるように思います。
日本史研究も長い「鎖国」からようやく「開国」する兆しがあるのでしょうか。


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最後の戦い

別冊歴史読本編集部から表題の掲載誌が送られてきた。

表題のとおり、戦国武将40人くらいの最後の戦いをまとめたもの。
今回、私が執筆したのは「島津義弘 一撃必殺の作戦を秘めて決戦場に臨んだ勇将」というタイトル。

いうまでもなく、島津義弘の関ヶ原の退き口についてである。
分量の関係で、退き口ルートなど詳しく触れられなかったが、拙稿にしては比較的読みやすく仕上がっているのではないかと思っている。

目新しい点といえば、西軍とくに石田三成勢の敗北が通説よりかなり早かったのではないかということを、島津家の史料で明らかにしたことであろうか。

同誌には、友人の河合秀郎氏や和田裕弘氏も執筆している。ともに力作なので、興味がある方はぜひ手にとってみて下さい。

別冊歴史読本56
戦国武将 最後の戦い
新人物往来社
ISBN:978-4-404-03356-7
発行年月 2007年01月
価格 1,890円(税込)


【2007/01/12 00:28】 | 戦国島津
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板倉丈浩
こんにちは。
ご紹介の本、早速購入いたしました。

>西軍とくに石田三成勢の敗北が通説よりかなり早かったのではないか

石田勢については、私もそのような印象を持っておりました。
といいますのも、西軍主力が小早川等に背後から攻撃されて総崩れになった(『慶長年中卜斎記』)ことから考えると、敗走した方向が小西行長や宇喜多秀家は東北なのに、石田三成だけは西北ですから、三成は行長や秀家に比べてかなり早期に戦場を離脱したのではないかと思われるからです。
ただ、西軍主力の総崩れの時刻は、島津家関係の記録である『関原御合戦進退秘訣』でも未の上刻(午後2時)とされており、これは通説通りでいいと思います。

また、島津勢について予備兵力だったのではないかという指摘は、東軍右翼部隊との交戦の形跡が全くないことを疑問に思っていましたので、卓見だと思いました。
小西勢についても同じく予備兵力だった可能性があると思うのですが、どうでしょうか。

それから、有名な敵中突破については、島津勢と対戦したのが福島・小早川・井伊・本多・松平といずれも東軍左翼部隊であったことを考えると、後方にいた島津勢が崩壊しかかった自軍右翼に加勢して東軍左翼と交戦していたのであり、敗軍に伴い戦場南方で孤立したため、南宮山の味方と合流しようと図った、とするのが自然なように感じます。
関ヶ原は狭い盆地なので、あんなところで数万の兵が充満しているところを中央突破したという通説は、どうしても信じられないんですよね・・・。

西軍敗北の実態?
桐野
板倉丈浩さん

西軍のなかで、石田勢の敗走が一番早かったのではないかとのご意見、勉強になりました。逃げた方角の違いからなんですね。ただ、石田勢が西北に逃げたというのは何か史料で確認できるのでしょうか? おそらく北国脇往還沿いということですよね。史料の有無はともかくとして、一番逃げやすいのはたしかですが。

小西行長勢も二番備えだった可能性はあると思います。どういう戦い方をしたのか史料にほとんど見えないのは、おそらくほとんど戦っていないからではないかと思っています。

西軍主力の総崩れの時刻は通説どおりでいいとのことですが、その場合の主力とは宇喜多勢を指すのでしょうか?
先に石田勢が崩れ、そののち宇喜多勢が崩れたと……。
薩摩側の参戦将士の書上類もその順で記してありますね。

島津勢の敵中突破の方法ですが、多分に幸運もあったのではないかと思います。
東軍諸勢が石田・宇喜多の両勢を標的にして追撃に移ったため、島津勢は無視される形になったのでは。薩摩側の史料にそのような記述があります。
東軍先手諸勢が敗走する石田・宇喜多勢を追いかけたために、東軍の先手諸勢と家康本隊、旗本勢との間に一時的に間隙が生じて、その隙を衝いて逃げたのではないかとも思えます。
もっとも、薩摩側の史料にも「敵方より馬を七百計両度入れ来たり候、二度め之戦ニ大乱に罷り成り候」と、かなり具体的に敵との交戦を記したものもあります。
おそらく伊勢街道にたどり着くまでに、島津勢の相当部分の戦力が東軍の壁を突破するために消耗したのではないかと思います。




板倉丈浩
板倉です。レスありがとうございます。

>ただ、石田勢が西北に逃げたというのは何か史料で確認できるのでしょうか? おそらく北国脇往還沿いということですよね。

三成が西北、北国街道沿いに敗走したことは、参謀本部編纂『日本戦史・関原役』、今井林太郎著『石田三成』、二木謙一著『関ヶ原合戦』など諸書に記されているのですが、典拠は書いてありませんね。
ただ、三成の潜伏先は木之本町大字古橋で北国街道からそんなに離れていませんから、だいたい妥当かなと思います。

>先に石田勢が崩れ、そののち宇喜多勢が崩れたと……。

そうですね。秀家・行長は三成よりも頑張ったので街道沿いに逃げられなかったんじゃないかと。

>島津勢の敵中突破の方法ですが、多分に幸運もあったのではないかと思います。

なるほど。
たまたま伊勢路方面の敵が手薄になったタイミングをうまく捉えたということなんでしょうか・・・。

>もっとも、薩摩側の史料にも「敵方より馬を七百計両度入れ来たり候、二度め之戦ニ大乱に罷り成り候」と、かなり具体的に敵との交戦を記したものもあります。

島津関係の史料をいろいろ見ていて気になったのは、突撃というよりひたすら防戦した記述ばかりなんで、本当は単なる退却戦だったのではないかなあという疑いがどうしても捨てきれません。
ご紹介していただいた史料も「敵襲に対して防戦した」という記述ですよね・・・。

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ジメサア1

鹿児島市の目抜き通り(国道10号線)に軍服姿の西郷隆盛銅像が立っている。その後ろの県立美術館敷地に、表題の「ジメサア」の石像↑がひっそりと鎮座していることは、鹿児島の人でもあまり知らない。

この石像の主は、薩摩藩祖、島津家久(1578-1638)の夫人、亀寿(1571-1630 島津義久の三女)である。
法号を「持明彭窗庵主興国寺殿」といった。頭の「持明」をとった「じみょうさま」が鹿児島弁で訛れば、「ジメサア」となる。

この石像が変わっているのは、毎年の祥月命日(旧暦10月5日)に写真のようにきれいにお化粧されることである。上の写真は3年前のものだが、昨秋のお化粧は下の写真のようにエビちゃん風だった(笑)。
ジメサア2

なぜ化粧されるのか?
それはジメサアの哀しい生涯と関わっている。彼女は島津家太守、島津義久の三女に生まれた。しかし、父義久が天正15年(1587)に豊臣秀吉に敗北したため、人質として関ヶ原合戦(1600年)までの13年間のほとんどを人質として上方で過ごした。
また、義久には男子がなかったため、彼女の婿が島津家の家督を継ぐことになった。最初の夫は従兄弟の久保(島津義弘長男)。ところが結婚生活わずか数年で久保は朝鮮陣で病没。次に久保の弟、忠恒(のち家久と改名)を婿に取る。

忠恒こと家久は戦国大名島津氏を近世大名へと鋳直す役割を負っており、大名権力の強化のために、かなり強引な藩政運営と残虐といってよい家中粛清を行った。
また夫人に対しては、もと兄嫁であるうえに、7歳も年上の姉さん女房だったためか、敬して遠ざけるという姿勢を貫き、ついに二人の間に子どもができなかった。

彼女は父義久が没した国分城に居住し、鹿児島城の夫とは別居した。それは前太守の娘として、相応の所領を持ち、島津家の家宝である歴代系図を所持し、家久の側室に一子光久が誕生したときは、それを自分の息子として幕府に届け出るなど、島津本宗家の正統なる血統の持ち主として、また藩主夫人として、また女領主としての威厳・面目を十分保った生涯だったと思われる。

しかし面白いのは、領民には、彼女は夫に見捨てられた可哀相な女性にしか見えなかったらしく、その同情を一身に集めるという不思議な現象が起こったのである。
領民たちは彼女が夫に無視されたのは、その容貌の不自由さにあったと「解釈」し、石像に化粧して美しく見せることで彼女の無念を慰め供養するという風習がいつしか生まれ、それが鹿児島の素朴な庶民信仰のひとつとして定着し、今日に至っている。

一方、彼女が領内から同情と敬慕を集めたのは、藩政への無言の批判という面もあったのかもしれない。彼女に対して、領民だけでなく、島津家の家臣団の一部からの秘やかな支持と同情もあったのではないか。
それは、島津本宗家の家督が義久系から義弘系へと移ったことに起因する。それにより、冷遇されることになった義久系の旧臣団にとっては、彼女の存在こそ希望の星であり、彼女への敬慕と同情の念も重ねられて、「ジメサア信仰」が生まれたのかもしれない。

それで、私がジメサアでずっと気になっているのは、彼女の名前のことである。
彼女の幼名が「亀寿」だったことは、島津家の系譜『島津氏正統系図』や『西藩野史』などに記されている。
そのため、彼女は成人してからも、たいがい「亀寿」と呼ばれることが多い。
しかし、たとえば、成人した徳川家康をずっと竹千代と呼ぶのがおかしいように、「亀寿」も同様である。

先日、『鹿児島県史料』の新刊「伊地知李安著作史料集」を紹介したが、その第六巻に「京及江戸御人質交替紀略」(玉里文庫本)という史料が収録されていたのに気づいた。
豊臣政権から徳川幕府初期にかけて、島津氏が出した人質についての文書や記録を集めたものである。

これなら、「亀寿」の実名もわかるのではないかと思って、よく読んでみたが、「御料人様」「上様(かみさま)」「カミ様」と敬称で呼ばれているのは何例も見つけたものの、ついに実名は見つからなかった。

私は『島津義久』(PHP文庫)を刊行したが、そのなかで、亀寿を「おかぢ」と呼んだ。どこかのサイトだったかに、創作で付けた名前だとか、やや批判的に書かれているのを目にしたけれど、これは決して創作ではなく、ちゃんと史料的な裏付けがあるのだ。

『薩藩旧伝集』補遺という史料に、義久が豊臣秀吉に降伏したときのいきさつが次のように記されている。

秀吉公九州下向の時、大平寺にておかち様人質として御出の節、秀吉公似せ物かと御疑ひ、御容貌美しかりければ、猶いぶかしく思ひ玉ひ、

これによれば、大平寺(現・薩摩川内市)で義久が秀吉と対面したとき、「おかち様」を人質に提出したと書かれている。これは秀吉方から娘を差し出すように命じられたためである。
したがって、「おかち様」が亀寿=ジメサアであることは間違いない。亀寿はこのとき17歳である。男子なら元服を済ましている年代だから、亀寿も幼名を捨てて、通称(仮名)と実名をもっていたとしてもおかしくない。
つまり、「おかち」が亀寿の成人してからの通称ではないかと思われるのだ。もっとも、仮名なのか漢字で表記できる名前なのかまではわからない。私は「おかち」ではやや不自然だと思ったので、「おかぢ」ではないかと推定した。

ただ、『薩藩旧伝集』は江戸時代の二次的編纂物なので、信頼性という点では少し弱い。何とか一次史料で確認できないものか、今後も調査するしかないなというのが、当座の結論である。

「ジメサア」の石像からずっと引っ張ってきて、つまらない結論で申し訳ない。


【2007/01/10 13:22】 | 戦国島津
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島津家
小池直行
始めまして
島津家の祖は頼朝の落しだねという話が、島津家に伝わっているということを聞きましたが

頼朝落胤説
桐野
小池直行さん、はじめまして。

島津忠久というか、惟宗忠久が源頼朝の落胤だという伝承は、室町時代後期にすでに成立しています。でも、伝承であり、史実とはいいがたいですね。

忠久は摂関家の近衛家の家司(けいし)、惟宗氏の出であろうと言われています。

島津氏は藤原姓を名乗っていましたが、室町時代に一時的に清和源氏を名乗ります。これは明国との勘合貿易が「日本国王」家、つまり、足利将軍家の一族でなければ不可能だったために、便宜的に改姓したものでしょう。
落胤説もその文脈でとらえたほうがいいかもしれません。

なお、付言すれば、現在の島津家はなお、頼朝落胤説をとっております。「島津家正統系図」などにはそのように記されております。


ばんない
実在の人物に密かな藩制批判が込められた話が付いてくる、というパターンは「しゅじゅどん」こと徳田太兵衛の数々のとんち話に通じる物があると感じました。

ところで、亀寿の姉である義久次女については『鹿児島県姓氏家系大辞典』では「玉姫」と名乗っていたとしていますが、『垂水市史料集』に所収されている垂水島津家の関係史料などを見てみた物の、ズバリ書いてある物は管見では見つけられませんでした。この点について、桐野様は何か情報をご存じでしょうか?

義久二女の名前
桐野
ばんないさん

義久の二女が「玉」だとする典拠が『鹿児島県姓氏家系大辞典』だというのは知っていたのですが、いまもって同書のどこに記載されているのか調べてみましたけど、わかりません。「鹿児島県の人物」にも立項されていないようだし、後ろの系譜編でも垂水家、新城家などを見てみましたが、見つかりません。
もしご存じなら、頁数などご教示願えませんか。

それで、「玉」の典拠が何なのか、じつは私もいろいろ調べてみたのですが、確たることはわかりません。

ただ、それらしい史料がないわけではありません。『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ十』に「新城島津家文書」が2種類(東大史料編纂所本と黎明館本)収録されていますが、そのうちの東大本のほうに「新城消息」という文書が2点あります(3、4号)。
とくに3号文書が又四郎久信(のち忠仍)、つまり島津彰久と「玉」の子に宛てた消息です。
「新城」は義久二女が大隅国新城(現・垂水市)に化粧料3.700石を与えられたことから始まりますので、この場合の「新城」はいわゆる「玉」を指すと見てよいので、この消息は「玉」が息子の久信に宛てたものと見ていいのではと思います。
内容的にも、久信の子菊袈裟(のち久敏)に触れるなど、母らしい気遣いが感じられる文面です。
久敏の生誕年は慶長七年(1602)ですから、この消息はそれ以後、ようやく徳川家の覇権が確立した頃で、久信は上方か江戸に滞在中と思われます。

それで、この文書の差出人の署名が「ミつから」となっており、尚々書にもやはり「ミつから」という文言があります。
これによるかぎり、義久二女は「ミつ」という名前だったのかなと、ふと思いました。ただ、このようなくだけた消息文で、自分の名前を書くときは「○○より」と書くのじゃないかなと少し気になっております。

ともあれ、義久二女が「玉」というより、「ミつ」かもしれないということ、もっと検討が必要だと思います。

「ミつから」
ばんない
こんばんは。

『鹿児島県姓氏家系大辞典』の「玉姫」の件ですが、巻頭の方に市町村別の歴史概略が書いてあり、「国分市」か「垂水市」のところで書いてあったと思います。当方も手元に本がないので、記憶に頼って書いておりますこと、申し訳有りません。

さて「ミつから」の手紙ですが、偶然にコピーを手元に持っていました。「尚々、ミつから(欠字)いそき候へく候、(以下略)」で始まる物でしょうか。これですが、同じ「日向佐土原島津文書」に所収されている池の上(島津彰久母、北郷時久の娘)や球麻(島津久信妻、島津家久の娘)の手紙の末尾に出てくる「身つから」と同じ物かと思っていたのですが…。

それと、このコピーを探すときに偶然亀寿の消息といわれる物も見つけたのですが、そちらの方は文末の署名に「か」とか「い」とか書いてます。「か」のほうは「亀寿」の略だと思われるのですが、「い」って、何なのでしょう(苦笑)

「ミつから」
桐野
ばんないさん、どうも。

「玉」は『~辞典』の国分市の項(134頁)にありました。永年の疑問が氷解しました。有難うございます。

「ミつから」は「身つから」ですか。
私は「新城島津家文書」(東大本)所収の「日向佐土原島津文書」七にある82号文書の宛所に、

「きよミつにて うちしやうへまいる」

とあるのが気になっていて、これはおそらく「清水にて、内城へ 参る」だと思うのですが、「きよミつ」の「ミつ」かなと思ったのですが、少し変ですね。
この頃、清水城には内城があったというのも気になる表現で、「内城」は、島津家で使うそれではなく、単に本丸という意味なんでしょうかね?

「か」と「い」
私も気づきました。
「か」から亀寿消息となっていますが、私はこのブログで述べたように、亀寿幼名説をとっておりますので、ここは「おかち」の「か」ではないかとあえて推定したいです。「お」は「御」か「於」の接頭語ですから、名前としては「かち」でその頭の字ではという解釈です。

「い」も亀寿消息としてありますね。写真版を見ていないので何ともいえないのですが、おそらく「か」消息と同筆だと判断して、そう比定したのでしょうね。
「い」が何の略か、ちょっと想像がつきませんね。その前後、姉に出している消息が多いようですから、「妹」の「い」は? 単なる思いつきですが。

それと関連しますが、「新城島津家文書」(黎明館本)の9号文書。お手許で見られる状況でしょうか?

これも、亀寿消息とされ、宛所が「御あ□しさま」で「御あもじ様」のようです。「あもじ」は姉のことですから、これは亀寿が長姉於平か次姉「玉」に出したことになりますね。「玉」ではないかと私は思っています。

なお、年次を消息中に「れうさま」とあるのを「龍様」つまり、龍伯と解釈して天正十七年かとしています。そして、「れうさま」が国許に下るので、「きくもし殿」がさぞうれしいだろうと書いています。
「きくもし殿」とはおそらく菊~という幼名のことで、「あもしさま」の縁者(子どもか)を指すと思われます。該当者は久信だと思われますが、菊~という幼名を持っていたのでしょうか?

いずれにせよ、これでも義久二女の名前は不明のままですね。





きくもし殿
ばんない
こんばんは。

亀寿消息の末尾サイン「い」ですが、私も「いもうと(妹)」の「い」ではないかと考えてました(冷や汗)
宛先は文書の所蔵先から考えても長姉の御平ではなくて次姉の可能性の方が遙かに高いと考えます。

さて「きくもし殿」ですが、桐野様の想像通り、後の島津久信(忠仍)ではないかと諸史料から私も考えています(拙HP URLをご参照下さい)。ただ、「諸氏系譜」所収の新城島津家系図などには確か久信の幼名は載ってなかったような。但し、久信の長男が「菊袈裟」を名乗っていたのは確かなので、久信の幼名も「菊○」であった可能性は高いと思っています。

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多くの人にはほとんど必要ない情報だが、個人的な備忘のために書いておく。

鹿児島市の老舗書店、春苑堂書店から表題の案内が来た。
新刊2点の予約受付中である。

旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集七 6.510円(税込)
薩摩藩法令史料集四 6.510円(税込)


配布は4月の予定。
取り扱い先:春苑堂書店・南鹿児島店
〒890-0068 鹿児島県東郡元町19-6
TEL:099-206-5181

同書店は『鹿児島県史料』の委託販売をしている書店である。東京でも神田神保町の古書店、巌南堂が東京での委託販売を行っていたが、近年はどうなのだろうか?

伊地知季安(1782-1867)は幕末期、薩摩藩の記録奉行だった関係から、藩当局が所蔵する膨大な各種文書を丹念に筆写・編纂した。それが有名な『薩藩旧記雑録』である(のち『鹿児島県史料』に収録)。その過程での副産物として、薩摩藩の事柄を詳しく考証した記録を数多く遺している。それが『鹿児島県史料 旧記雑録』の拾遺という形で収録されたものである。

なお、『薩藩旧記雑録』は季安の代では未完で、息子の季通(1818-1901)に引き継がれ、明治18年(1885)、『薩藩旧記雑録』全68巻を完成させて内閣修史局に提出し、今日に至っている。


薩摩藩法令史料集』のほうは、先行する類書として、『藩法集』シリーズ(藩法研究会編、創文社)のなかに第8巻/鹿児島藩上・下(原口虎雄編)があった。じつはこの『藩法集』上下二巻は所持している。付言すれば、とても高かった。
そして今回のシリーズはどう見ても、これと重複しているなと思ったが、『鹿児島県史料』は有無を言わさず全巻購入を決めているので、そのまま第三巻まで購入している。

第一巻の解題を読んだところ、『藩法集』と底本が異なることがわかった。『藩法集』は「列朝制度」の都城本などの写本を底本にしているのに対して、『薩摩藩法令史料集』のほうは、『藩法集』の編者原口虎雄氏が「杜撰極まるもの」と断じた「歴代制度」東大本を底本としている。
原口氏の論難にもかかわらず、あえて新たに底本としたのは、「列朝制度」とは異なる特徴があり、適切な校訂を施せば、原口氏の非難する事柄を是正することは可能だったことによるという。

ともあれ、底本が異なることから、両方とも購入することはそれなりに意義あることだと、自分を納得させている(笑)。


【2007/01/08 19:40】 | 新刊
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ばんない
細かいつっこみになりますが
「李安」「李通」じゃなくて「季安」「季通」ではないでしょうか。

また巌南堂書店ですが今のところ『鹿児島県史料』の取り扱いを続けているようです。
http://www.gannando.com/shuppan/kagosima.html
余り関係のない話ですが、ここのトップページの社名の出方が一種独特なのでいつもびっくりします(苦笑)

原口氏版『藩法集』は枕にすればいいくらいの部厚い本でしたっけ。コピーするのも難儀でした。いまごろ『鹿児島県史料』で同じ物を出すこともないのに…と思っていたのですが、底本が違うのですか。なるほど。

季安・季通
桐野
ばんないさん、初めまして。

伊地知父子は季安・季通でした。うっかりしてました。ご指摘有難うございました。本文も直しておきます。

『藩法集』、そうです、枕にしてもいいくらいの厚さのが2冊です。
私も同じものを買うのかと思いつつ、しかたなく買ったというのが実情でして(爆)。底本が違っているということで、自分を慰めております。


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今晩から新しい大河ドラマ『風林火山』が始まった。
しばらくは井上靖の原作から離れたオリジナル脚本だという。

第一回の感想。
一言でいって、藤木久志氏の「乱暴狼藉の世界」と「雑兵たちの戦場」が全開である。
凶作・飢饉論、乱取、雑兵、村落論など、最新の研究成果がそれなりにちりばめられていた。ただ、字幕で「乱取」を「乱捕り」と表記していたのはいかがなものか。

それでも、戦国期の村落や百姓の様子がヴィヴィッドに描かれており、黒澤明の「七人の侍」の世界などフィクションであることを、よく示していたと思う。
ただ、こうした視点を最後まで貫けるかどうか。たとえば、上杉謙信の関東侵攻はまさに冬の端境期における乱取目的、つまり生きるための略奪が目的だったと言われている。
一方、謙信が信州で信玄と対決した理由を、単に信州の反武田の国人たちの支援要請に応じた「義戦」だと描いたら、あまりに落差がありすぎて上滑りすることになるかもしれない。まだ先の話だが、そのあたりをどのような設定にするのか、見極める必要がある。

山本勘助については、まず「大林勘助」という名前で登場していた。これはおそらく、『甲斐国志』下の山本勘助の条に由来するものか。

「源助貞幸年十二参州牛窪牧野右馬允ノ家令大林勘右衛門ノ養子ト也、改名勘助」

これに従ったものか。
なお、勘助に「陣取・城取、軍配の道を極めるのだ」と言わしめたのはなかなかで、脚本家も勉強しているように思えた。
余談ながら、勘助の相手役、百姓の娘ミツを演じた貫地谷しほりは藤谷美紀によく似ていた。貫地谷は「かんちや」と読むらしい。珍しい名字だ。

また天文四年(1535)の籠坂峠の合戦という、あまり知られていないマイナーな合戦をかなり史料に忠実に描いていたのも面白かった。討死した勝沼信友を演じた辻萬長は好きな役者である。次回からはもう登場しないのかと思うと、少し淋しい。
そういえば、寺島進も一回だけの登場で殺されてしまった。もったいない気がする。

武田信虎のいくさ好きや暴虐の兆候、そして板垣信方が学問好きの勝千代(のちの晴信)に期待していることも描いてあり、すでにクーデターの伏線は張られている。

ともあれ、一回目だけの印象だが、昨年の大河よりは期待がもてそうだ。
今後の期待も込めて「風林火山」のカテゴリーを追加してみよう。


【2007/01/07 21:51】 | 風林火山
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お久しぶりです
武藤 臼
ご無沙汰してます

今日ここまで初めて辿り着きました。
大変詳しくて勉強になります。

来年の大河は幕末島津ですが、
戦国島津が見られる日が来るのかどうか・・・

リンクを貼らせていただきました
また寄らせて頂きます

お元気のようで
桐野
武藤臼さん

おおっ、これはこれは、お久しぶりです。上野かどこかでお会いして以来、数年ぶりでしょうかね。

リンクの件、了解しました。こちらも張らせていただきます。そちらのブログも充実していますね。これからちょくちょく読みたいと思います。

戦国島津の大河は果たして実現するのでしょうかね?

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中央公論

ちょっと場違いな一般誌に記事を書きました。タイトルは、

「戦国軍師の虚像と実像―山本勘助はどのようにつくられていったか―」

一番言いたかったことは、戦国時代に「軍師」という名が付いた者は存在しなかったという点です。戦国時代には「軍師」という言葉が使われていなかったからです。私たちが「軍師」としてイメージしているのは、作戦の立案に関わる参謀型の側近のことですね。竹中半兵衛とか直江兼続、島左近といった連中です。彼らを「軍師」と呼ぶには無理があるというのが、拙稿の趣旨です。

戦国時代、「軍師」の代わりにいたのは「軍配者」です。この「軍配者」がどのような役割を果たしたのか、「気」と「日取」をキーワードにしてまとめてみました。
はっきりいって、陰陽五行思想など専門外なので、一知半解のことを書いているかもしれません。それでも、「軍配者」の雰囲気だけでも味わっていただけたらと。

心残りはサブタイトルにある山本勘助の逸話を分量の関係で割愛せざるをえなかったことです。『甲陽軍鑑』に登場する勘助はその実、奇をてらわない、真面目な「軍配者」です。信玄が彼を信頼していたというのは何となくわかるような気がします。

【2007/01/07 09:25】 | 戦国織豊
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京都新聞サイトの記事。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007010500076&genre=J1&area=K10

やっぱり、銀閣寺には銀箔が張ってなかったそうな。以前からそう言われていたが、科学的な調査ではっきりと結論が出たようだ。

そもそも足利義政が東山殿を造営した頃は、北山殿の金閣への対抗意識などなかったはずで、記事にもあるように、銀閣寺と呼ばれるようになったのは江戸時代からのようである。

当て推量だが、江戸時代、西の金閣に対して、東の銀閣があったほうがよいという程度で呼び出したのが発端ではなかったのか。←大文字祭りなどとも関連がないのか?

学生時代、銀閣寺の近くに下宿していただけに感慨深かった。






【2007/01/06 00:12】 | 雑記
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安場保和伝

昨年暮れの薩摩の会でお会いした友人の村田統二雄氏から大晦日にご本2点をご恵贈いただいた。いずれも重厚な大冊である。多謝。

『安場保和伝1835-99』 安場保吉編、藤原書店、2006年
『新版 アメリカの鏡・日本』 ヘレン・ミアーズ著/伊藤延司訳、角川学芸出版、2005年


村田氏は「村田銃」で知られる薩摩藩士、村田経芳(1838-1921)の玄孫にあたる。村田が改良発明した村田銃は明治13年(1880)、わが国で初めて国産制式銃となった。日清戦争などで威力を発揮したのは一八年式村田銃だったかな。その功により、村田は陸軍少将となり、男爵を授けられた。

『安場保和伝』をいただいたのも、保和の孫にあたる保定が村田家の養子となっており、つまり、統二雄氏の祖父にあたられるという関係からである。

安場保和(やすば・やすかず)は肥後熊本藩士(家禄200石)。維新前は一平と称した。横井小楠の弟子で、小楠門下四天王の一人に称せられている。小楠が松平春嶽に招聘されて越前福井に赴いたとき、保和は門下代表として同行しているほどだ。

熊本藩はいわゆる学校党の勢力が優勢で、有力な佐幕藩だったことでも知られる。それは王政復古でもそうだったが、慶応四年(1868)に鳥羽伏見戦争で徳川方が敗北したのちもなお「征東不可論」「佐会論」(会津を助ける意)を唱えたほどである。

佐幕論が優勢のなか、安場は藩論を王政復古政府支持に導くために奔走した。その功により、安場は新政府の徴士として登用された。三職の参与職に任ぜられたのである。その後、胆沢県参事、酒田県参事などを歴任し、明治五年(1872)の岩倉使節団の一員に選ばれた。

使節団に選ばれたことは、その後の明治政府での立身が保証されたに等しかったが、安場は何と途中で「洋行の苦痛」を訴えて憤然と帰国してしまう。そのいきさつが『米欧回覧実記』で有名な久米邦武の回顧録に次のように記されていて、爆笑するほど面白い。

我が一行中頑固党の張本人と目指された安場保和は、肥後横井派の古武士風の人で、数の観念に欠け、西洋数字等は知らぬから、ホテルに滞在しても二階と三階を取り違へ、室の番号を間違へるなど旅行の困苦を一層深く味うた。(中略)三月[陽暦四月]南風が吹き来り、忽ち暑くなり、渇を覚えたので、安場は砂糖水を飲まうと思ひ立ち、砂糖はシュガー、水はヲォーターと聞き覚えて、メードに命じた処、メードは軈て(やがて)巻煙草(シガー)と牛酪(バター)を持って来た。安場は斯様な洋行の苦痛から「人民の膏を絞った租税を僕の様の者の洋行に消費するに忍びぬから帰朝する」といひ出し、聴かなかった。

シュガーとウォーターを頼んだのに、シガーとバターを持ってこられたのでは、安場ならずとも立つ瀬がないなと思う。この一節を読んで、似たような体験があるから、安場に一段と親近感を覚えた。
安場の帰国の意思が固いので、久米らが副使の木戸孝允に頼み込んで帰国を許された。安場は白峯駿馬(元海援隊士)と一緒にアメリカから日本に帰国したという。

もっとも、当該部分を執筆した三澤純氏は、安場の帰国は単なる「洋行の苦痛」だけではなく、政治的理由もあったのではないかと指摘している。
安場は岩倉使節団の前に、廃藩置県をめぐって大隈重信や伊藤博文と激しく対立していた事実がある。二人の後ろ盾である木戸とも不仲だったという。その一方で安場は薩閥と近く、とくに大久保利通と親しかったという。安場が「洋行の苦痛」により帰国を訴えたとき、大久保は例の条約改正問題での全権委任状を得るために一時帰国している時期であり、大久保不在によって、安場は木戸・伊藤が牛耳る使節団の中で孤立を深めていたからではないかと推測している。なかなか興味深い。

安場については、帰国後、福島県令となり、安積開墾に精力を傾けたことが注目される。これは殖産興業路線のモデルケースでもあり、のちに大久保利通が推進した安積開墾事業の基礎を築いたともいえる。
安場は明治の開明派官僚の典型だといえよう。安場家の縁戚には後藤新平・鶴見俊輔・平野義太郎などもいる。

アメリカの鏡

もう一点の『アメリカの鏡・日本』。
アメリカの女性歴史家ヘレン・ミアーズが戦後の占領時代に来日し、GHQの労働局諮問委員会に所属してGHQの内部情報を知りえる立場にあった。本書はその経験をまとめたもので、自国の立場に偏しない立場からの日本文化論である。表題は明治維新以降の日本の発展と転落がその実、欧米モデルのアジアへの移植であり、日本の姿を見ることはアメリカの実態を照らし出しているという含意のようである。そのため、アメリカに日本を裁き、統治する資格があるのかという鋭い問いかけを内包していたため、マッカーサーから発禁処分にされたという、いわく付きの著作の翻訳である。
とても面白そうだが、残念ながらまだ読む時間が取れないでいる。


【2007/01/04 23:15】 | 幕末維新
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水戸っぽ
安場と「似たような体験」をされたというのはどのようなことなのか、誠に興味深く存じます(笑)。別途差し支えない範囲でお教え頂ければ幸いです。因みに私の場合、中華料理店で(日本語での意思の疎通が完璧とは言い難い感のある)彼の国の人と思しき店員に「Water!」と注文したところ、お湯が出てきたということがありました。まあ確かに間違いではありませんが..。
彼が小楠の弟子ということは、明治政府内でその思想的背景を具体的な政策等に反映させようとした形跡があったのか(かつ、そうだとすればまたそれはどのような分野・施策においてか)、また外様の細川家でかつ地理的にも西南部に位置する肥後藩において終始佐幕側が藩論を支配し続けたことにはどのような要因・背景が大きかったのか、等当方の関心が惹起された次第です。

「公議輿論」の実践
桐野
水戸っぽさん、はじめまして。

「似たような体験」、やっぱりここを突っ込まれましたね(笑)。

私の場合は中国東北地方を訪ねたときでした。内モンゴル自治区まで行く、長い長い汽車の旅で暇を持てあましましした。それで、少し中国語を習っていたもので、退屈しのぎにガイドの女性に中国語会話を教えてもらおうと、まず簡単な自己紹介のフレーズで「我是日本人」とか言ったところ、初っぱなから「桐野さん、貴方は日本人じゃない、そう聞こえない」と言われました。「日本人」の「日」(ri)は捲舌音で、英語のrとl、bとvの違いと同じように、日本人には苦手な発音です。
何度も挑戦しましたが、どうも合格点はいただけず、すると、コンパートメントに同室していた全然知らない中国人が堪えきれずに、クスクス笑い出す始末で……。

安場保和に話を戻しますと、彼の官僚生活は県令・知事など地方官が長いのですが、そのなかで、地租改正や立憲議会制などの重要テーマにおいて、小楠の教えである「公議輿論」を何とか政治行政に反映するよう努力した点でしょうか。官僚ですから当然限界はあるのですが。
たとえば、明治8年から始まった地方官会議では積極的に発言し、建白書を提出するなど、地方の立場を中央の国政に訴えています。愛知県令のときは、政府が上から押し付ける地租改正案に対して、苛酷すぎると反対して低い税率要求を貫徹しています。
中央と地方の関係をなるべく円滑ならしめようと努力しており、「明治前期の三大県令」の一人に数えられているようです。
面白いのは、愛知県令時代、名古屋城の金の鯱が旧体制の無用の長物として東京博物館に収納されていたのを、歴史遺産は大事にすべきだとして取り返し、名古屋の文化的象徴に据えたこともあるようです。

肥後熊本藩の佐幕論ですが、ひとつは隣国薩摩藩への対抗意識があると思いますが、それだけではないでしょう。
元治・慶応年間、熊本藩は一会桑権力を支持していました。一会桑権力の性格は、雄藩連合論や公議政体論を唱える雄藩(薩・土・越・宇和島など)の国政関与を一貫して排除し、朝廷を排他的に独占するところにあります。
熊本藩はその路線を一貫して支持していたわけですから、薩摩藩のみならず、土佐・越前などとも折り合わなかったですね。代表的な人物は家老の溝口孤雲でしょうか。
彼らはいわゆる学校党という派閥で、藩政を牛耳りました。それには尊攘派だった勤王党が衰退したことも一因です。藩内では、小楠率いる実学党が土佐・越前に近い路線ですが、少数派でした。







まいたけ君
>安場は白峯駿馬(元海援隊士)と一緒にアメリカから日本に帰国したという。

新年早々、興味深い情報をありがとうございます。出典は、安場の日記などでしょうか? 白峯は、岩倉使節団の一員として渡米中の佐々木高行を訪ねており、白峯の帰国費用は、使節団が支出している可能性が高いので、使節団の一員であった安場の帰国に同行したのかもしれませんね。
そうそう、白峯と共に、戊辰戦争の最中に渡米した菅野覚兵衛は、後に安積に入植していました。



白峯駿馬
桐野
まいたけ君さん、どうも。
今年もよろしくお願いします。

白峯駿馬の部分、次の本に記載されているようです。

久米邦武『久米博士九十年回顧録』下巻、宗高書房、1985年、256~57頁

もっとも、『安場保和伝』に引用されていて、次の通りです。

「(前略)遂に彼は帰朝を許され、其の素志を達して、白峯駿馬と共に米国より日本に帰った。多分ほつとした事であらう」

白峯が出てくるのはこの個所だけで、ほかの情報があるかどうかはわかりません。
白峯はご紹介のような事情でたまたま米国に来ていて、旅行不案内な安場を同道して帰国してくれるよう、使節団側から依頼されたのかもしれませんね。

ほかに安場の渡航日記などが残っていたら、もう少し事情がわかるかもしれませんが、どうやらないようです。

なお、県令・知事時代、安場は神奈川県令だった佐々木高行と親しかった形跡はありますね。




まいたけ君
出典をご教示いただき、ありがとうございました。年賀状を書き終えたら、図書館で『久米博士九十年回顧録』を調べてみますね。
おっしゃるように、使節団からの依頼があったので安場を同道したのかもしれませんね。長い船旅ですから、そこでふたりが親交を深めた可能性もありますので、安場の渡航日記が残っていないのは残念です。

佐々木高行日記『保古飛呂比』の人名索引で「安場保和」を調べてみました。5巻に8回、9巻に5回、10巻(明治14年)に34回、11巻に4回、安場が登場しているようですから、おっしゃるように親しい関係であったのでしょうね。



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山本勘助墓

(川中島古戦場に立つ山本勘助の墓)

前回の続きである。

『萩藩閥閲録遺漏』には、ほかにも山本勘助の登場する文書が管見のかぎり、1点存在する。紹介しよう(巻2の4、山縣平八家蔵文書9)

明後日川中嶋へ人数手立、山本勘介方馬場美濃、弥旗本へ召連候、御方事弐万之人数壱万引分相渡申候、銘々人数名字着到遣候、可覧仕可為尤候、馬場・山本御方宿所へ早々参之由被申候、各相談可仕候、恐々かしく、
  (永禄四年)
     九月八日                信玄(御判)
      山縣三郎兵衛との


何と、有名な第四次川中島合戦の関連文書である。両雄の決戦は九月十日だから、その二日前の文書である。
内容は「明後日、すなわち決戦当日の出陣について、山本勘介方の馬場信春を(が?)旗本へ召し連れる。山縣には全軍二万のうち一万を預ける。その着到状を遣わすので、ご覧になるのがよろしい。馬場と山本が山縣の宿所に早々参ると申されている。各々相談してほしい」というもの。

ちょっと意味不明な個所がある。馬場が山本勘助の配下にも見える、信玄が馬場と勘助に敬語を使っている、山県は決戦当日、信玄の旗本備えだったから、全軍の半分の一万を預けられるとは思えない、「恐々かしく」なる書止文言は不自然だ等々。

はっきり言って、この文書の年次が永禄四年(1561)であれば、偽文書である。なぜなら、この時期、山県昌景は旧姓の飯富を名乗っているからである。山県名字を名乗ったのは、武田義信逆心に伴い、兄飯富虎昌が処断された以降である。また馬場信春もこの頃はまだ馬場民部と名乗っている時期ではなかったか。

毛利家家臣の山縣平八なる人物はよく知らないが、どうも山県昌景の子孫か同族を由緒にしているのではなかろうか。だから、山県昌景が武田軍の半分を指揮する大将だという誇大宣伝を何げに挿入し、自家の格式や武功を誇っているのではないか。

この偽文書の典拠となったのは、おそらく『甲陽軍鑑』だろう。同書品第32の川中島合戦の記述に次のような一節がある。この辺を参考にしたのではないか。

(信玄が)山本勘介を召、馬場民部と両人談合にて、明日の合戦備を定よと被仰付」

同家文書1も川中島合戦関連の文書である。勘助は出てこないが、ついでに紹介しよう。

去ル十日、川中嶋輝虎退口之時、数百人之追討、乍早晩神妙之至、難述筆言感思召候也、
  永禄四年
   九月十三日           信玄 晴信(御判)
     山縣三郎兵へとのへ


これは第四次川中島合戦から三日後の日付で、信玄が山県昌景に与えた感状である。
そして、これも偽文書である。その理由は少なくとも二つはある。
①前にも書いたように、三郎兵衛昌景が当時まだ、山県名字を名乗っていないこと。
②上杉謙信を「輝虎」としているが、この年、謙信は上杉憲政から関東管領職を譲られて政虎と名乗ったばかりであり、まだ輝虎とは名乗っていないこと。
ちなみに『甲陽軍鑑』の川中島合戦の記事では、謙信のことを輝虎と書いていることが多い。それを参考にした形跡があるのではないか。

念のため、『戦国遺文 武田氏編』の永禄四年条を見てみたが、上の文書2点は当然ながら収録されていなかった。偽文書だと認定されたからだろう。

それにしても、甲信地方から遠く離れた防長の毛利家家臣の間で、江戸時代(おそらく後期であろう)、山本勘助との係累があることを訴えたり、果ては偽文書まで作成して家譜や由緒書を飾る傾向が強いことがわかる。これも山本勘助の知名度が高く、甲州流軍学のバイブルたる『甲陽軍鑑』の社会的影響力が相当大きかったことを示しているのかもしれない。

『萩藩閥閲録』に限らないが、江戸時代の家譜や由緒書の取り扱いには注意が必要だということである。

【2007/01/03 00:27】 | 戦国織豊
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年が明けたので、それにふさわしく、新しい大河ドラマの話題でも書いてみよう。

正月早々、『歴史街道』誌(PHP研究所)が届いた。毎号送っていただき多謝。
時宜に合わせて、特集は「山本勘助と武田信玄」である。
そのなかに、渡辺勝正氏執筆の記事が目を惹いた。タイトルは、
「讃岐に生まれ、大内氏に仕えた? 文書と伝承から前半生の謎を解く」

山口県に山本勘助の伝承が遺されていて、何でも、讃岐の庄屋の家に生まれて猪狩りが得意で、猪と格闘して独眼になり、足も不自由になったそうで、その後、山口に来て大内義隆に仕えたというのだ。

山本勘助といえば、伝説の軍師で軍記物『甲陽軍鑑』にしか登場しないとして、その実在が疑われていたが、1969年、「市川文書」が発見され、そのなかに武田信玄の使者をつとめる「山本菅助」が記されていたことから、俄然、その実在が信じられるようになった。

その勘助が讃岐生まれで、大内氏に仕えた前歴があるとなれば、「市川文書」に続く大発見になるかもしれないのだ。

しかし、興味深い逸話なのに、出典が何も書かれていない。どこの誰に伝わった伝承なのだろうか? う~ん、腑に落ちないな。

さらに驚いたのは、表題にも書いたように、長州藩毛利家の根本史料である『萩藩閥閲録』にも、勘助の子孫を名乗る家があるというではないか。
それも出典がよくわからず、原文書の掲載写真から見当をつけて探した。
厳密にいえば、『萩藩閥閲録』は別巻も含めて6冊あり、そのうちの『~遺漏』に収録されていた。
探すのに苦労した。新説、新史料と謳うのであれば、せめて出典はちゃんと明記すべきではないだろうか。

で、該当史料は『萩藩閥閲録遺漏』巻3の3「山本勝次郎方御判物写」という家文書のなかに収録されていた(214頁)。
史料名は「山本家言傳之覚」というものである。その冒頭部分を抜き出そう。

一、元甲州武田ノ臣山本勘介之後胤と云、已後郷士と成、代隔元就公御代御当家江附属し、安芸より御供して御側近ク被召仕、御家来と成り、秀就公御代迄ハ御家来之所、(後略)

さて、この史料だが、中身の検討の前にその由来や性格について触れておきたい。長州藩三隅下村在の百姓、源兵衛なる者が、先祖が山本勝次郎という毛利家家臣だったことから、山本名字を名乗りたいという願書を藩当局に提出した。江戸時代後期の享和元年(1801)のことである。
この史料はこの願書に添付されたものと思われ、山本勝次郎なる先祖が山本勘助の後胤であることを証明するためのものだろう。かの有名な甲州流軍学の祖、山本勘助の末裔となれば、藩当局も山本名字の名乗りを許してくれるのではないかというわけだ。

しかし、上記の引用部分、ちょっと戦国時代の知識があれば、おかしいと気づくはず。
まず山本勘助の後胤で郷士となり、のち毛利元就に仕えたというが、元就の没年は元亀2年(1571)である。その年には勘助は没しているものの、その嫡男(勘蔵信供か)は健在で武田家に仕えており、天正3年(1575)の長篠合戦で討死している。『甲斐国志』によれば、ほかにも源三郎、主殿助という子どもがいたが、いずれも武田家の近習である。

つまり、元就の没年までに、勘助の子どもがちゃんと武田家家臣として健在なのだから、元就に仕えたというのはおかしい話だ。
同史料はつづけて、勘助の末裔を証明する刀剣類があったが、洪水で流失したという、実証不能の都合のよい話になっている。

それで結論だが、鵜呑みにするのはどうか。家譜・由緒書の粉飾だと見たほうがよいのではないか。
『萩藩閥閲録』所収の史料だからといって、内容が信用できるとは限らないと言うことだろう。

【2007/01/02 01:14】 | 戦国織豊
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松裕堂
あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします、松裕堂です。

讃岐の出身云々は兎も角
>猪狩りが得意で、猪と格闘して独眼になり、足も不自由になった
っていうエピソードなら、当人の略伝なんかにもよく見掛ける話ではありますな。

この点のみ関して言えば、出典は『武功雑記』乃至『甲陽軍艦』あたりかと思うんですが、私は両書ともに原文を読んだことがありません(笑)。

ただ山本勘助となると、軍法や忍術、剣術や居合術など、多くの伝系にその名をつらねる人ですから、そちら方面でも調べれば何か該当する手掛かりがあるかも知れませんね。

讃岐国の諸藩につたわる武芸のなかで、勘助ゆかりのものでもあれば、まず"当たり"をつけてみるべきせしょうか。

猪と格闘?
桐野
松裕堂さん、明けましておめでとうございます。
本年もよろしく。

本文をアップしてから気づいたことですが、山本勝次郎なる人物、山本勘助が大内義隆に仕えた頃にできたらしい子どもの子ども、つまり勘助の孫だということらしいです。勘助が信玄に仕えたときではないようですね。

その点では、私がやや勘違いをしていたようですが、だからといって、大内氏時代の勘助の事績が真偽定かならぬわけで、その当時の孫だと言われても、真偽不明としかいいようがないですね。

猪と格闘したという逸話も、文脈からは『萩藩閥閲録』に収録されているように読めるのですが、今日段階では探せずにおります。まあ、筆者が『山本勘介の謎を解く』という本を書いているようなので、そちらを読めということでしょうか。少し不親切ですね(笑)。

『武功雑記』『甲陽軍鑑』にも、猪と格闘云々の逸話は載っていなかったと思います。
ですから、紹介したのが唯一の史料だと思うのですが、雑誌記事を読んだだけでは「山口県の伝承」とあるばかりで、出典不明というのが何とも……。





松裕堂
>『武功雑記』『甲陽軍鑑』にも、猪と格闘云々の逸話は載っていなかった
あ、そうなんですか。
猪と格闘云々については、比較的よく耳にする挿話だったので、テッキリ著名書に出典があるものとばかり思っていました。

昭和九年出版の『大日本剣道史』にも載っている挿話なので、もっと古い資料に載っている有名なエピソードなんだと思っていたんですが、何気に出典不明のエピソードなんですかね。この猪との格闘云々。

大正十四年出版の『日本剣道史』は読んだことないので知りませんが、「本朝武芸小伝」や「新撰武術流祖録」には勘助に関する記述自体なかったと思いますし、ほかに思い当たる資料はちと皆無です。

なんか余計気になってきました(笑)。

猪と格闘
桐野
猪と格闘云々の逸話、あくまで推測ですが、『北越軍記』や『武田三代軍記』など、『甲陽軍鑑』の二次的翻案ものに掲載されているのかもしれません。
これらの本、もっていたはずなので探したのですが、ちょっと出てきません(汗)。

この本は 読まれました?
くれど
山本勘介がではなく、よくある片目の伝承に
有名人の名前がついたものです。出典がどうのとい
うことに 意味があるんでしょか?

柳田國男 一つ目小僧その他でも読まれたほうが
いいのではないかと

また この本は読まれました?自分のご先祖さまに 有名人がいたことにしたい という思いで 我田引水にしているだけです。


渡辺勝正氏の著書、読了しました。
天王寺屋
渡辺勝正氏の『山本勘介の謎を解く』を読み、書評を書きました。
その際、桐野様のご意見を参考にさせて頂きました。
よろしければ、私のブログもご覧下さい。

甲陽軍鑑大成
桐野
天王寺屋さん、こんばんは。

古い記事にコメントいただき有難うございました。
拝見しました。渡辺勝正氏の著作は未見でしたが、だいたいどういう内容なのか、よくわかりました。
それにしても、酒井憲二氏の『甲陽軍鑑大成』をお持ちなのですね。すごい。相当高かったはずですが、武田氏研究を本格的にやられるのでしょうか。

今後ともよろしくお願いいたします。
天王寺屋
わざわざご返事ありがとうございました。
浅学でたいへん恥ずかしいのですが、
少しずつ武田氏の研究を進めております。
『甲陽軍鑑大成』は古本屋で見つけた時に、
今しかないと思い衝動買いしてしまいました。

桐野様の著作、特に信長関係の書籍は
興味深く拝見させて頂いております。
またご意見を参考にさせて頂く事もあると思いますが、
よろしくお願いいたします。

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新しい年が明けました。

昨年秋から始めた拙いブログでありますが、毎日多くの方々に見ていただいて、有難く思っています。ご覧になって下さる皆さんにとって、今年が少しでも幸多かれと祈っております。

さて、私の幸はどこにあるのでしょうか。
ひとつは健康でしょうか。昨年、ちょっと身体トラブルがあって、改めて健康の大事さを痛感しました。
それと、仕事ですね。もともと自由業という名の浮草稼業で、世間の風向きに左右される業種。そんななかでも、仕事がいただけるのは有難いことです。とくに、やりがいのある仕事をいただいたり、ご指名を受けたりすると、人生意気に感じる単細胞なので、ついつい力を入れて頑張ってしまいます。
そのようなご縁が途切れずにあることが、私なりの幸かなとつくづく思っております。

今年は郷里を題材にとった仕事など、いくつか大事な仕事をいただいております。とりあえず、目の前の課題に真摯に取り組むつもりです。





【2007/01/01 15:19】 | 雑記
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