膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
年が明けたので、それにふさわしく、新しい大河ドラマの話題でも書いてみよう。

正月早々、『歴史街道』誌(PHP研究所)が届いた。毎号送っていただき多謝。
時宜に合わせて、特集は「山本勘助と武田信玄」である。
そのなかに、渡辺勝正氏執筆の記事が目を惹いた。タイトルは、
「讃岐に生まれ、大内氏に仕えた? 文書と伝承から前半生の謎を解く」

山口県に山本勘助の伝承が遺されていて、何でも、讃岐の庄屋の家に生まれて猪狩りが得意で、猪と格闘して独眼になり、足も不自由になったそうで、その後、山口に来て大内義隆に仕えたというのだ。

山本勘助といえば、伝説の軍師で軍記物『甲陽軍鑑』にしか登場しないとして、その実在が疑われていたが、1969年、「市川文書」が発見され、そのなかに武田信玄の使者をつとめる「山本菅助」が記されていたことから、俄然、その実在が信じられるようになった。

その勘助が讃岐生まれで、大内氏に仕えた前歴があるとなれば、「市川文書」に続く大発見になるかもしれないのだ。

しかし、興味深い逸話なのに、出典が何も書かれていない。どこの誰に伝わった伝承なのだろうか? う〜ん、腑に落ちないな。

さらに驚いたのは、表題にも書いたように、長州藩毛利家の根本史料である『萩藩閥閲録』にも、勘助の子孫を名乗る家があるというではないか。
それも出典がよくわからず、原文書の掲載写真から見当をつけて探した。
厳密にいえば、『萩藩閥閲録』は別巻も含めて6冊あり、そのうちの『〜遺漏』に収録されていた。
探すのに苦労した。新説、新史料と謳うのであれば、せめて出典はちゃんと明記すべきではないだろうか。

で、該当史料は『萩藩閥閲録遺漏』巻3の3「山本勝次郎方御判物写」という家文書のなかに収録されていた(214頁)。
史料名は「山本家言傳之覚」というものである。その冒頭部分を抜き出そう。

一、元甲州武田ノ臣山本勘介之後胤と云、已後郷士と成、代隔元就公御代御当家江附属し、安芸より御供して御側近ク被召仕、御家来と成り、秀就公御代迄ハ御家来之所、(後略)

さて、この史料だが、中身の検討の前にその由来や性格について触れておきたい。長州藩三隅下村在の百姓、源兵衛なる者が、先祖が山本勝次郎という毛利家家臣だったことから、山本名字を名乗りたいという願書を藩当局に提出した。江戸時代後期の享和元年(1801)のことである。
この史料はこの願書に添付されたものと思われ、山本勝次郎なる先祖が山本勘助の後胤であることを証明するためのものだろう。かの有名な甲州流軍学の祖、山本勘助の末裔となれば、藩当局も山本名字の名乗りを許してくれるのではないかというわけだ。

しかし、上記の引用部分、ちょっと戦国時代の知識があれば、おかしいと気づくはず。
まず山本勘助の後胤で郷士となり、のち毛利元就に仕えたというが、元就の没年は元亀2年(1571)である。その年には勘助は没しているものの、その嫡男(勘蔵信供か)は健在で武田家に仕えており、天正3年(1575)の長篠合戦で討死している。『甲斐国志』によれば、ほかにも源三郎、主殿助という子どもがいたが、いずれも武田家の近習である。

つまり、元就の没年までに、勘助の子どもがちゃんと武田家家臣として健在なのだから、元就に仕えたというのはおかしい話だ。
同史料はつづけて、勘助の末裔を証明する刀剣類があったが、洪水で流失したという、実証不能の都合のよい話になっている。

それで結論だが、鵜呑みにするのはどうか。家譜・由緒書の粉飾だと見たほうがよいのではないか。
『萩藩閥閲録』所収の史料だからといって、内容が信用できるとは限らないと言うことだろう。