膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
大河「風林火山」の2回目。

今回は史実と離れた勘助の若い頃の話だったので、とくに触れるべき点はない。ただ、フィクション部分ながら、史実とのかみ合わせを考慮するなど、かなりよく出来ているように思えた。
勝千代こと晴信の大名御曹子としての苦悩と、勘助の社会底辺での動きという、上下の二元構造的な構成が巧みで、両者の交錯する日がいつか待ち遠しい気にさせる。

勝千代が元服したとたん、子役から市川亀治郎に変わった。以前、義経でも用いられた手法だ。

元服について、天文五年(1536)、16歳になった勝千代が将軍義晴の一字を拝領して晴信と名乗り、叙爵して大膳大夫の官途を名乗ったというナレーションがあった。

念のため、偏諱・叙爵(従五位下の叙位)・官途名についての依拠史料を調べてみた。

【偏諱】
『高白斎記』「三月武田晴信公元服、十六歳、義晴ノ諱ノ晴ノ字ヲ賜フ」
足利将軍を「義晴」と呼び捨てだが、12代将軍義晴からの一字拝領は確認できる。なお、通称(仮名)は太郎を名乗った。

義晴の偏諱のうち、「義」の一字をもらった大名は、当て推量だが、大内義隆、大友義鎮、今川義元などはそうではないかと思う。「晴」は武田晴信のほか、細川晴元、伊達晴宗、長尾晴景(謙信の兄)、尼子晴久もそうかな。公家だと、関白二条晴良、今出川晴季、勧修寺晴右・晴豊父子などがいる。
もっとも、勧修寺晴右・晴豊は「はれみぎ」「はれとよ」と読むとされる。以前からの疑問なのだが、偏諱の場合、訓読まで含めて拝領するのではないのかな? 義晴は「よしはれ」と読むのかどうか。もしそうなら、「晴信」も「はれのぶ」か?

【叙爵】
『歴名土代』「[甲州武田信虎子]源晴信。同五正十七」(天文五年正月十七日)
五位に叙することをいう。晴信の官位文書が現存していないが、四位・五位の叙位人を収録した『歴名土代』(りゃくみょうどだい)に記載があるので間違いない。
晴信が叙爵した天文五年九月、従三位参議の正親町公叙(おおぎまち・きんのぶ)が甲斐から帰京している。これは晴信の叙爵の口宣案を持参して下向したものだろう。口宣案の日付はおそらく正月十七日で、三月の元服式に間に合うように持参したのだろう。

【官途名】
『甲陽軍鑑』「駿河今川義元公御肝入にて、勝千世殿十六歳の三月吉日に御元服ありて、信濃守・大膳大夫晴信と、忝も禁中より勅使として転法輪三条殿甲府へ下向し給ふ」
信濃守と大膳大夫を同時に名乗るということはふつうありえない。信濃守は後年の官途で、おそらく信州領有をめぐって上杉謙信との対抗上名乗ったのではないかと思われる。
なお、柴辻俊六氏は天文五年の元服のときは左京大夫、同十年六月、父信虎を追放して家督を継いだとき、従四位下大膳大夫に叙任したとしている(『戦国大名辞典』)。もっとも、同氏は最新刊の『信玄の戦略』(中公新書)では、天文五年の元服のときに従五位下大膳大夫に任ぜられたとも書いており、食い違う。
そもそも、左京大夫や大膳大夫の官途名乗り初めの典拠は何なのだろうか。