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「日本史日誌」で、平山優『武田信玄』(吉川弘文館、2007)が紹介されている。
まだ購入していないが、表題にあるように、「甲越和与」つまり、武田信玄と上杉謙信の和睦が成立したことについて触れているらしく、その出典が
丸島和洋氏の論文「甲越和与の発掘と越相同盟」(『戦国遺文 武田氏編』第六巻月報、東京堂出版)だとあったらしい。
私も同書を購入したとき、その月報論文をちらりと読んだままだったので、これを機に再読してみた。
川中島で五回にわたって戦った信玄と謙信の両雄が和睦していたというのは、あまり知られていないが、どうやら事実のようである。
時期は永禄十二年(1569)七月から翌元亀元年(1570)七月までの、およそ一年間である。
永禄十一年末、信玄は駿河に侵攻している。この作戦を成功させるため、その背後を上杉方に衝かれないよう、信玄が上杉方と版図を接する北信や西上野方面の静謐を欲していたという客観条件がある。
「甲越和与」の成立基盤はそこにある。同時期、謙信は北条氏康とも「越相同盟」を成立させようとしていた。しかし、氏康一子の三郎の養子入りをめぐって同盟締結が難航していた裏には、「甲越和与」の存在があった。
「甲越和与」は、激しく対立する両雄だけの交渉で成立するのは当初から困難で、第三者的な権威ある調停を必要とした。それは「公儀」である。具体的には将軍義昭と織田信長の働きかけである。とくに義昭は謙信の上洛を望んでおり、そのためにも「甲越和与」の成立を必要としていたという事情があった。
一方の信玄も、駿河侵攻を有利に進めるために、「甲越和与」を必要とし、とくに信長に対して交渉の仲介を再三要請している。どうも、「甲越和与」をより切実に欲していたのは信玄であり、「公儀」の調停を断り切れない謙信が渋々従ったというのが実情かも知れない。
丸島氏は、「甲越和与」が不安定ながら、一年近くも継続したことを指摘している。そして、この和睦による利益があまりない上杉方が「越相同盟」成立と引き替えに、「甲越和与」を破棄するに至る。
しかし、「甲越和与」の動きはそれだけで終わらなかったことを丸島氏は指摘している。元亀二年(1571)、「越相同盟」が破綻すると、今度は上杉方が武田方に対北条軍事同盟の締結を呼びかけている事実がある。上杉・武田連合で、北条氏にあたるというわけである。
この間、信玄の謙信への認識も変わっている。それが顕著なのは謙信の呼称である。信玄はそれまで関東管領職に就任した謙信の上杉改姓をずっと認めずに「長尾」と呼んできたが、元亀二年九月、将軍義昭の側近一色藤長に出した書状で「上杉輝虎」と書くなど、謙信の上杉改姓を容認する態度に転じる。
信玄は嫡男義信さえ犠牲にした駿河侵攻を何としても成就させようとし、謙信との同盟さえ厭わなかったことが明らかになる。
山本勘助死後の動きだが、改めて通り一遍ではない東国戦国史の面白さ、複雑さがある。
個人的には、「甲越和与」の動きを、信長側からどのように見えるのかが興味深い。「甲越和与」の動きは二次にわたってあったようで、いわゆる足利将軍の大名間抗争調停権がどの程度の有効性があったのか、それに信長がどのように関与したのか。とくに第二次の「甲越和与」は将軍義昭が信長との対決のために働きかけたものであり、信長抜きの調停権の実効性がどんなものだったのか、対比的に考察できたら面白いかもしれない。
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さて、「
ゴンザの露薩語講座」第4回です。
前回の解答。「
オイガト」は「私のもの」、あるいは「私の〜」で、〜は所有物の名詞が省略された表現ですね。たとえば、「そやおいがとじゃ」(それは私の[もの]だ)というような使い方です。より口語に近くいえば「
オイガッ」です。英語でいえば、「my own〜」でしょうか。
今回は残念ながら正解がなかったですね。
吉田松陰大好きさんは、ベタなご回答で、出題者の罠にはまってしまいました。ゆうたろうさんは前半は正解ですが、「ト」でつまづきましたね。たしかに「トト」(父さん)と考えたくなるのもわかります。
第4問:
ガワッパ(ガラッパ)ヒント:これは直訳と意訳と両方あります。直訳でも正解としますが、意訳は少し抽象的で不気味な言葉にひねって下さい。