歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
帰鹿報告その2。

2日目の指宿訪問を書くつもりだったが、1日目に福昌寺を訪れたことを書き忘れていた。
福昌寺に来たのは、大河「翔ぶがごとく」の取材のとき以来だから、十数年ぶりである。以前とほとんど変わっていない風景に心が落ち着く。鹿児島の風景や景観もここ10年ほどでめまぐるしく変化しているだけに、変わらないものを見ると、ホッとする。

福昌寺は、島津家の菩提寺である。
14世紀末、島津元久の要請により、曹洞宗の高僧、石屋真梁が建立したが、明治初期の廃仏毀釈によって破壊された。その後、再建されたが、院号・戒名だけでなく、神号が付いている墓もある。

そぼ降る雨の中、玉竜高校の裏手の同寺に行く。
まず、調所氏の先祖である調所広郷の墓に詣でた。これは永年東京にあったものを、近年、調所氏が分骨して建立されたものである。島津一族ではないため、塀の中ではなく、門外の一角にあった。
この区画には、島津家に貢献した人士が時代を超えて眠っている。調所広郷のほか、明治初期、政府に抗議して自害した横山安武(森有礼の兄)や、関ヶ原の退き口で島津義弘の身代わりとなって討死した長寿院盛淳の墓もあった(写真参照)。
長寿院盛淳

門内に入ると、歴代島津家当主の墓がたくさん並んでいる。非常に広くゆったりとしている。昔日には玉竜高校の敷地も墓域だったという。
島津重豪、同斉興、同斉彬夫妻、同久光など、幕末関係の殿様に一通り挨拶した。とくに久光の墓は広くて、墓標も大きい。大きな鳥居が建った神式の墓所である。「前左大臣従一位大勲位公爵~」という位人臣を極めた称号がひときわ目立つ(写真参照)。
そう、久光は藩主にはなれなかったものの、歴代島津一族の中で、もっとも高い官位を得た人である。
島津久光

それから、戦国コーナーに回る。
拙著でも書いた島津義久、同義弘などの墓所に手を合わせる。

そして、前回の訪問では気づかなかったことに気づいた。
義久の左隣が甥で女婿の久保(義弘二男)、その左が義弘だが、さらにその左は誰だろうと思ったが、他にはある墓碑が壊れていてわからない。そういえば、以前来たときにも壊れていた気がする。

誰だろうと墓標に近づき、刻まれた院号(庵号か)を見て驚いた。

持明彭庵主

と書かれているではないか(写真参照)。
亀寿

何と、
ジメサア
こと、亀寿である。
島津義久の三女にして、従弟の忠恒(のち家久)夫人。

夫である家久の墓域にないのは単なる偶然なのか。
朝鮮で陣没した前夫久保のそばにいるのが、せめてものことかもしれないと思った。亀寿と久保の結婚生活は短かったが、二人は仲睦まじかったという。

もっとも、二人の間に義弘の墓があるのが何とも(笑)。
義弘と久保の位置を変えればいいのに、と不謹慎なことを思ったりした。


次回こそ指宿です。

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【2007/02/28 16:43】 | 戦国島津
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福昌寺 島津家久妻の墓
ばんない
こんばんは。

福昌寺跡をご訪問されたとのことでうらやましいです。
これからますます花粉も出ますし、季節が良くなれば墓場は藪蚊がすごいので、今が一番墓参りにはいい季節なのでしょうね。

ところで、十八代当主の方の島津家久(…ややこしい)の正室と側室たちの墓なんですが、『島津歴代略記』という島津家から出された小冊子に福昌寺の墓地地図が載ってまして、それによれば家久の妻達は一人も家久と一緒には葬られてないようなんですよ。他の当主は妻と隣どおしか近隣に墓がある当主が多いので、家久の孤立ぶりが目立ちます(苦笑)。

ただ、この福昌寺の墓なんですが廃仏毀釈とか、近年島津家が行ったという合祀の時などに改葬や墓地の移動があったのではないかという疑いを持っているのですが。この件、どこに確認すればいいのか分からないので未だに未確認です。

島津家久の妻たち
桐野
ばんないさん

『島津歴代略記』は、私も持っていましたので見てみました。
たしかに家久とその妻たちの墓は離れていますね。
後夫人の2人は、亀寿の墓の近くにありますね。
なぜ、その周辺に家久の墓がないのか微妙ではあります。

もっとも、家久の墓の横には子の光久、孫の綱貴の墓が並んでいますので、近世薩摩藩の歴代藩主というくくりというか、グループ分けだと理解することもできるかもしれません。
それでも、せめて後夫人たちの墓はその側に置かれてもいいのではと思いますが……。

福昌寺墓所の由緒のことは私も全くわかりません。
明治以降に再建されたか、再利用されたのではないかとは思いますが……。やはり島津家でないと、その間のいきさつはわからないのかもしれませんね。

なお、福昌寺墓所でいつも気になっているのは、墓標に使われている黄土色の石材のことです。
他の大名家などではあまり見たことがありません。
何か特殊な石材なんでしょうかね? 一説には花倉石ではないかと聞いたのですが……。

山川石
桐野
追加。
調所一郎氏よりメールあり。携帯からは書き込めないとのことで、伝言があった。

私が疑問に思った石材のことである。島津齊彬などの宝篋印塔に使われている黄色っぽい石材は、山川(やまがわ)石といって、指宿の先の山川あたりでとれる石で、灰色っぽいのが花倉(けくら)石だそうである。

調所氏が島津家に確認してくれた情報です。調所氏に多謝。



やまもも
やまももです、こんばんは。

 
 獅子文六は『南の風』で、福昌寺の墓について、「石燈籠のような形で、なんという石か知らないが、カステラの菓子のような、黄と褐色で、南国の初夏の日光を浴びると、黄金の輝きを、放つのである」と書いていますが、私も島津齊彬などの宝篋印塔に使われている黄色っぽい石材がどんなものなのかとても気になっていました。

 そけだけに、調所一郎氏が島津家に問い合わされて「花倉石」と判明したとのお話、とても興味深く読ませていただきました。

 それから、今和泉の島津忠剛の墓の写真を拝見し、私が拙ブログ等に載せていた写真が違う方のお墓だということが分かりました。それで正しい写真に差し替えておきましたが、桐野作人さんのこのブログは本当に勉強になります。


武藤 臼
こんばんわ
鹿児島というと、仕事ではここ5年の内に何度か行っているのですが、戦国島津に興味があるわりには、島津絡みの史跡はほとんど回っていませんでした。島津家の墓所もノーチェックです。
今年のGWは、鹿児島をゴールに宮崎周遊を考えているのですが、福昌寺へは是非詣でてみようかと思ってます。

山川石です
桐野
やまももさん、こんにちは。

獅子文六の小説にそんな記述があるとは知りませんでした。たしかにあの色は不思議な色ですね。
先日、近づいてしげしげと眺めましたが、軟らかくて加工しやすい性質をもっているように見えました。
とくに殿様の宝篋印塔は精巧な彫刻が施してありますから、軟らかい方が細工がしやすいと思います。

ちなみに、あの黄色の石は山川石です。念のため。
私が勘違いしておりましたが、花倉石は灰色っぽい石のようです。


福昌寺
桐野
武藤臼さん、お久しぶりです。

鹿児島に行かれたときは、ぜひ福昌寺も訪ねて下さい。
ちょっと奥まってわかりにくい場所ですが、玉竜高校を目印にすれば、タクシーでも大丈夫です。

現在でも相当立派ですが、廃仏毀釈で破壊される前はもっとすごかったのだろうなと思わせます。
戦国系は貴久、義久、義弘、久保、亀寿、家久などの墓があります。

そうそう、京都の大雲院(八坂神社裏手の祇園祭の山車が屋根になっているお寺)に、島津以久(忠将の子、義久・義弘の従弟)の墓があるのはご存じですか?


福昌寺の宝篋印塔について
やまもも
桐野作人さん、こんばんは、やまももです。

 福昌寺の宝篋印塔は山川石で出来ているんですね。了解いたしました。


武藤 臼
福昌寺是非訪ねてみます。

島津以久の墓所が近所とは知りませんでした。
さすが京都あなどれません(笑)
近々詣でてきます。

墓石
ばんない
御晩です(汗)

墓石は近所?の山川石なのですね。九州は古代から独特の石の文化があるところなので、他地域でよく墓石に使う花崗岩には見向きもしなかったということでしょうか(冗談です)
山川石は加工しやすい石と言うことですが、そういう石に限って往々にして風化しやすい性質ではないかと思うのですが、なぜ耐久性が求められる墓石にその石を使ったのか興味深いところです。

後、今まで読み過ごしていたのですが、亀寿の墓標はわざと壊されたような感じなのでしょうか?

ところで横レスになりますが、島津以久の墓がある大雲院は拝観拒絶寺院です。(URI欄に、詳細な説明がある掲示板へのリンクを書いております)


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25日から一泊二日で帰鹿した。

今回の目的は、鹿児島県歴史資料センター黎明館が新たに購入した諸文書の閲覧などのためである。
黎明館に閲覧申請書を出したところ許可が出たので、畏友の調所一郎氏(広郷子孫)と同行して鹿児島入りした。
朝4時起きで、ちょっとつらかった。

鹿児島空港に着くと、雨がぱらついていた。天気予報は曇りだったはずだが、黎明館に着く頃には大雨になった。
午前11時頃、黎明館で、前日から入鹿していた猪股さん(村田新八研究家)と合流する。黎明館が購入した古文書のなかに、村田新八文書が含まれるとのことで、彼女も来鹿した次第。

さっそく学芸員の中村さんに見せていただく。こちらの要望どおり、巻物になっている小松帯刀と村田新八の書簡を拡げてあった。
小松帯刀書簡は2点あった。いずれも新出文書だと思われる。うち1点は慶応三年(1867)八月のもので、イカロス号事件の記事が書かれていた。ちょうど古文書講座でやっていたので、まことに興味深かった。

村田新八文書は、残念ながら新出文書ではなかった。猪股さんが「これは見たことがある」と言って、日付や宛所などすらすら語ってくれたが、まったくそのとおりだった。さすが「新八命」だけあって、よく勉強されている。ただ、新出文書ではなかったので、少し残念そうにされていた。

同館が購入した文書は小松・村田だけでなく、西郷・大久保はむろん、桂久武・桐野利秋・別府晋介・辺見十郎太・淵辺高照・池上四郎・村田三助・大山格之助など多岐にわたっていた。全部を閲覧したわけではないが、とくに西南戦争関係が多いのではないかと思われた。

その後、黎明館の企画展「薩摩刀 波平 ~武の国の刀工~」を見学する。同行した調所氏の企画立案であるだけに、その当事者から直接解説を聞けたのは望外の幸せだった。調所氏は薩摩拵の蒐集家であり、著作をもつ研究者でもあるが、刀剣についてもとても詳しくて大変勉強になった。

黎明館をあとにして、仙巌園(磯庭園)に向かう。
同園のある茶屋に、今和泉島津家11代夫人が勤務されていると調所氏が語ってくれたので、私がぜひお会いしたいと無理やりお願いしたところ、調所氏の多彩な人脈のおかげで、夫人が会ってくださることになった。

今和泉島津家とは、来年の大河ドラマ「篤姫」の主役、天璋院篤姫の実家である。夫人は11代御当主が他界されておられるので、実質的な当主でもある。

茶屋に訪ねていくと、出てこられたのは和服のよく似合う上品なご婦人だった。抹茶をいただきながら、少しお話をうかがえた。さらに記念写真まで撮らせていただいた。
来年大河関係の仕事を準備中だけに、主人公の係累の方とお会いできたのは何とも幸運だった。
調所氏と和子氏

写真:調所氏と今和泉家和子夫人。バックは鹿児島特産の土人形の雛壇。

その後、地元紙の南日本新聞社の社屋を訪ねる。
文化部の記者の方と某企画の打ち合わせ。

夜は黒豚しゃぶしゃぶに舌鼓を打ち、お店特製の焼酎を呑み、ご満悦。
翌日は指宿に向かう。(つづく)





【2007/02/27 16:12】 | 幕末維新
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今和泉家第11代当主の御夫人のお姿に感激
やまもも
桐野作人さん、初めまして、鹿児島在住のやまももと申します。

 最近になって幕末の薩摩藩のことに興味を持つようになり、その関係で貴ブログの存在も知りました。また、『真説 本能寺』も購入して拝読させていただきました。光秀謀反の背景にある歴史的真実の考察には大いに納得させられましたが、また実に丁寧に関連する一次資料や研究書を読んでおられるのに感心させられました。

 ところで、今日のブログを拝見していましたら、今和泉家第11代当主の御夫人とお会いになったことを書いておられました。私はいま天璋院篤姫のことに興味をもっていろいろ調べ、それを拙ブログ「ポンコツ山のタヌキの便り」にアップしたりしていますが、それだけにご夫人のお姿をこのブログで拝見することが出来て大いに感激しています。

 今後、篤姫のことを含めて幕末の薩摩関連のことをいろいろ教えていただきたいと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。


こちらこそ
桐野
やまももさん、はじめまして。

コメント有難うございます。少しはお役に立てたところもあったようで、何よりです。
また拙著もお買い上げいただいて有難いです。じつは、来月中旬、やはり信長をテーマにした「だれが信長を殺したのか」(PHP新書)を刊行予定です。興味がおありなら、本屋をのぞいてみて下さい。

やまももさんのブログも拝見しました。
とても充実してますね。とくに史実や史料を重視されている姿勢がうかがえ、こちらも勉強させていただきたいと思います。
先日、指宿の今和泉に行ってきましたが、小学校内の手水鉢までは見てきませんでした。別邸と仮屋の違いなど興味深いことをお書きになっていますね。

今後ともよろしくお願いします。

ご丁寧なお返事に感謝
やまもも
桐野作人さん、こんばんは、やまももです。

 昨夜の私のコメントにご丁寧なお返事をいただき、とても喜んでおります。それで、今夜の拙ブログにそのことを記事にして書かせてもらいました。もしなにか問題がございましたら、いつでも訂正させてもらいます。

 また、「だれが信長を殺したのか」(PHP新書)をお出しになる予定とのお知らせ、ありがとうございます。出版されましたら入手したいと思っております。

 なお、桐野作人さんが集英社から出された「孤高の将軍 徳川慶喜」をぜひ拝見したいと思いましたので、紀伊国屋書店に注文しましたところ、もう在庫もありませんとの返事でした。仕方がありませんので、古書店で入手できないか調べてみようと思っています。

 それから、今和泉を訪問されたそうですが、そのご報告を楽しみにしております。

お世話になりました
猪股
この度は,お世話になりました。
行く先々で解説等をいただき,大変勉強になりました。ありがとうございました。

村田新八の書簡は現物を目にする機会が少なく,私としてはカナリの興奮状態にありましたが,貴重な資料を前に緊張もしていましたので,それが「残念そう」に見えたのかも知れません。

知りたいことは沢山ありますが,機会を見つけてコツコツ学んでいこうと思っています(研究家などと恐れ多いです。村田新八ファンの一人ということでご容赦ください)。

今後とも,どうぞよろしくお願いします。

こちらこそ
桐野
>やまももさん

表題の拙著、だいぶ前に絶版になりました。
古書ではあるかもしれません
ただ、私的には内容に不満があるのですが(爆)。
ブログも拝見しました。

>猪股さん

お疲れさまでした。
研究家云々はともかく、よく調べられていると思います。とくに足を使って。好きこそ何とかという格言のとおりですね。
村田について、何か新しいことがわかったら、また教えて下さい。


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調査のため、帰鹿します。
帰京次第、また報告します。
一泊の予定です。

【2007/02/25 04:26】 | 雑記
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今川義元墓

昨日、内輪の研究会仲間のKさんから、黒田日出男氏の表題論文をいただいた。感謝。

黒田日出男「桶狭間の戦いと『甲陽軍鑑』」 『立正史学』100号、2006年

桶狭間合戦の新説である。

長く通説となっていた旧参謀本部の「迂回奇襲説」が、藤本正行氏に批判されて、新たに「正面攻撃説」が有力な仮説となっていることはよく知られている。

そんななか、黒田氏は桶狭間合戦の研究史を三つの時期に分けて、その内容や画期を次のように提示している。

第Ⅰ期:参謀本部の「迂回奇襲説」
第Ⅱ期:藤本氏の定説批判と「正面攻撃説」

藤本氏の主な著作は次の2点である。

『信長の戦争軍事学』 JICC出版局 1993年
『信長の戦争』 講談社学術文庫 2003年


そして、1997年以降の研究が第Ⅲ期であり、藤本説の再検討の時期だということだが、まだ批判の段階で新たな仮説が提示されているわけではないという把握のしかたである。
なお、黒田氏は第Ⅲ期において、藤本説の「正面攻撃説」を批判し、再検討の必要性を示唆したものとして拙稿を取り上げている。学術誌ではなく商業誌に書いたものまでチェックしているのはさすがである。過大評価かもしれないが、有難いことだ。

拙稿「桶狭間合戦 信長は籠城案を退けて正面攻撃をしかけたか?」 『歴史読本』01年12月号

黒田氏の藤本説批判の要点は、『信長公記』の記述からは「正面攻撃説」を導き出せないというもので、この点には私も同感である。
また、黒田氏は「奇襲」や「正面攻撃」などの用語の定義を明らかにしたうえでないと、論争が生産的にならないとも指摘している。これもそのとおりだろう。
藤本氏の「正面攻撃説」は、いわゆる白昼堂々の「正面強襲説」ともいうべきものであり、敵の今川方に攻撃の企図を隠さないで、その全容を晒しての攻撃だという趣旨であろう。

そして、黒田氏が藤本氏の「正面攻撃説」を批判して提示するのが、「乱取状態急襲説」である。
今川軍は織田方の鷲津・丸根の両砦を落とし、さらに織田軍の攻撃をいったん撃退した。その戦勝に浮かれて兵士たちが乱取している隙をつき、信長本隊がそれに紛れるようにして、義元の本陣に近づき急襲したという結論である。

その史料的根拠は、表題にあるように『甲陽軍鑑』である。意外なことで驚く人も多いことだろう。
同書には「駿河勢の諸方へ乱取にちりたる間に、身方(味方)のやうに入まじり」云々という記述があり、今川軍兵士の乱取に紛れて接近する信長本隊が描かれている。
黒田氏の紹介によれば、『甲陽軍鑑』には桶狭間合戦の記事が随所に出てくる。私もこんなに多いのかと驚いたほどである。
さらに黒田氏は『信長公記』に、信長本隊の進撃ルートなどが省略されているのは理由があるとし、乱取の隙をつくという、あまりかっこよくない戦い方による勝利を具体的に記述するのを意図的に避けたとする。

なかなか興味深い新説だといえるが、すぐに納得できるかといえば、首をひねる方も多いのではないだろうか。

まずは、『甲陽軍鑑』の記事の信頼性の問題である。近年、『甲陽軍鑑』の史料的価値は再評価されつつあるといっても、武田氏や山本勘助に関する記述について誇張や歪曲など疑問視されている部分があるのに、他国の記述がどこまで信頼できるのかという素朴な疑問もあるだろう。

個人的には、『信長公記』に出てくる「山際」の解釈が気になった。黒田氏は「山際」を、義元本陣がある「おけはざま山」(桶狭間山)の麓と理解しているが、それでいいのだろうか?
この問題は、織田軍の迎撃体制や信長本隊の進路に関わる重要な点だと思っているが……。

ともあれ、停滞気味だった桶狭間合戦研究に、新たな波紋を投げかけたものであり、今後の論争が興味深い。

写真は桶狭間古戦場にある今川義元の供養塔


【2007/02/23 21:42】 | 信長
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板倉丈浩
こんばんは。20000アクセス、おめでとうございます。
そういえば最初にここに書き込んだとき、ニフティでのやりとりと言われて、ちょっと思い至らなかったのですが、ひょっとして、あの方の官名をハンドルにもつあの方だったのでしょうか・・・?(今頃気づくなよ<自分)
大変失礼いたしました。これからも気ままなコメントが多いと思いますが、ご容赦くださいませ。

さて、桶狭間ですが、正面攻撃か迂回奇襲かについては、本隊より十町ほど先行していた松井兵部少輔が本隊の危機を知り引き返して戦死した(桶狭間合戦記)とか、間道から襲撃されたため七段の備えが無駄になった(老人雑話)等、諸史料がほぼ一致して織田軍の迂回を前提にした記述となっていることから、迂回はしていたんじゃないかと考えています。
信長公記の「山際まで御人数寄せられ候処」の記述は、中島砦東方の丘陵地帯を迂回して太子ヶ根の山麓で待機したとすれば、他の諸史料とそれほど矛盾しませんし。

ただし、従来いわれてきたような、信長が義元の本陣位置を探知しての襲撃ではなく、中島砦周辺で戦端を開き、慌てて救援に向かった今川軍が東海道を西進するところを横合いから攻撃した、というのが真相のような気がします。
つまり、今川軍は大高城周辺で戦う先手と沓掛城を出撃してこれを支援する後詰に分かれていたのですが、後者の動きが鈍く互いに離れていたので、信長はそこにつけ込んだのではないかということです。移動中の部隊を叩ければ兵力差は関係ないですし。
まあ、信長は「運は天にあり」なんて言っていますから(信長公記)、実際には出たとこ勝負で、勝ったのはたまたまだったのかもしれませんが・・・(^^;

あと、諸史料では今川本陣の「後の山」に廻ったとありますので(甫庵信長記、家忠日記、総見記、続明良洪範など)、織田軍が待機したのが太子ヶ根であるとすれば、今川本陣は、2つの古戦場跡や例の65mの丘よりはもう少し西北、有松駅南方の丘陵地帯(名古屋市緑区有松町大字桶狭間字高根とあるあたり)の方が、今川軍の布陣地「桶狭間山」としてはふさわしいような気がします。
ここからなら、従来の候補地より、主戦場である鳴海方面への眺望も良さそうなんですよね・・・。
地図とにらめっこしながら(笑)、そんなことを考えました。

史料批判
桐野
板倉さん

長文のコメント有難うございます。

迂回したかどうかについては、狭間筋(のち東海道)を通らずに、その東側に回り込むルートならすべてと定義すれば、まったくありえなかったことではないと、私も思っています。

ただ、迂回したか否かを、どの史料に基づいて認定するかという問題だと思うんですね。

桶狭間合戦については一次史料はほとんどなく、編纂史料ばかりです。とくに近世になってからのそれはたくさんあるので、際限がありません。
そこで、藤本氏が採用した方法論は、『信長公記』を根本史料に、『三河物語』など比較的信頼できるとされる史料を補助的に利用するという形で、使う史料をばっさりと刈り取ってしまったわけですね。

私はそれもひとつの考え方だと思います。
ただ、藤本説はその方法論を徹底していないように見受けられます。藤本説は上で述べたように、史料批判によって禁欲的な態度をとっていますが、考察と結論は必ずしも禁欲的とはいえません。『信長公記』が根本史料なら、同書でここまではいえるというのではなく、結論(正面攻撃)が飛躍しているように、私には思えます。

その点を徹底させてみたうえで、他の史料をどこまで活用して何がいえるかだと思うのですけど、拙稿でも申したように、藤本説によって切り捨てられた『甫庵信長記』がまったくの創作ではなくて、どうやら『信長公記』異本(天理本のことですが)を下敷きにしている可能性があり、そうなると、藤本説の方法論自体が揺らいでくると、ご紹介した黒田日出男氏は指摘しています。

なかなか難しい問題ですね。

『甫庵信長記』の桶狭間
かわい
>桐野さん、板倉さん
 以前、原稿のネタに使ったので、『甫庵信長記』はかなり読み込んだのですが、あの文章から通説の迂回ルートを読み取ることは不可能です。中島砦から北へ取って返したという記述もなく、素直に読むと狭間の東西どちらかの山際を移動したと解釈するしかないため、藤本説と大差のない移動経路を想定することになるはずです。
 それと「後の山」への移動ですが、『甫庵信長記』では信長がそう命令してはいますが、実際に移動する段では例の大雨の描写が挟まり、次はもう敵陣を見下ろす山の上の話になります。そこが目標の「後の山」であるかどうかは定かではなく、もちろん太子ヶ根に直結するような描写にもなっていません。ある意味、どうとでも解釈できる内容だと思います。
 藤本氏の『甫庵信長記』批判は、その影響を受けた後世の編纂物の分まで含めて槍玉に上げている観があり、いくらなんでも行き過ぎている気がします。

藤本説について
板倉丈浩
桐野さん、かわいさん、レスありがとうございます。
お二方のご指摘は私も同意見ですが、私なりに整理してみます。
藤本氏の正面攻撃説は次の2つの前提によって成立している説だと思います。

1,中島砦東方の丘陵地帯に「今川前軍」が布陣している。
2,中島砦を出撃した信長は「東向きに」戦闘を開始した。

1について、藤本氏は「彼自身は旗本とともに後方にいたとしても、その前方に一部隊(仮に「前軍」と呼ぶ)を進出させ、中嶋・善照寺の両砦を牽制したはずである」とするだけで典拠を示していません。
2については、信長公記の「東に向てかゝり給ふ」を根拠にしているようですが、その直前に今川軍敗走と信長の下知(義元旗本への攻撃命令)が書かれていますので、これは追撃にかかる記述と見るのが自然でしょう。
つまり、さんざん史料批判を展開しながら、肝心要の部分が「はずである」とか、牽強付会の解釈に陥ってしまっているわけで、小瀬甫庵や参謀本部への批判はバランスを欠いていると言わざるを得ません。

これ以外にも、信長公記がこの合戦を「天文廿一年」としている点について、藤本氏は「後世の加筆であろう」とするだけで、なぜ、こんな明らかに間違った記述が加筆(?)されたのかについて、全く考察がないのも問題です(ちなみに、甫庵信長記は正しく「永禄三年」としています)。
信長公記が比較的良質な史料であることは否定しませんが、基本的には後世編纂した軍記であり、史書として扱うときは注意が必要だと思います。
特に合戦の描写などは、他の軍記物と比較しても、大げさな記述が目立ちますので。

桶狭間合戦記
桐野
>かわいさん、板倉さん

参謀本部編『日本戦史』の「迂回奇襲」説の典拠は同書には書かれていなかったように思いますが、どうやら表題の史料のようです。

これは19世紀、つまり、江戸後期の編纂物で、山崎真人という尾張藩関係者が叙述したものです。なお、それに先行する同名の編纂物を、やはり尾張藩重臣の山澄英竜(1625-1703)が著していますが、現存していないとか。山崎のそれはこの山澄本の内容に近いと言われているようです。
表題の同書は『豊明市史』資料編補二に全文収録されており、『朝野旧聞襃藁』にも抜粋して収録してあります。

それで、同書に何と書いてあるかというと、

「爰に於て、信長自ら引率せらるゝ人数ハ、善照寺砦の東の峡間へ引分け、勢揃へして三千兵となり、(中略)諸士ハ、はや勝ちたる心地して、即ち旗を巻き兵を潜め中嶋より相原村へ掛り、山間を経て、太子根の麓に至る」

これを読むと、『日本戦史』の「迂回奇襲」説の根拠がいい加減であることがわかります。善照寺砦から東後方の「峡間」へという進路は、まず起点が不正確(ほんとは中嶋砦から)なうえに、いかにも不自然な進路を採用しています。

さらに後半部分を読むと、ますますおかしいですね。
東後方の「峡間」へと進路を秘匿して迂回したはずなのに、いつの間にか「中嶋」(中嶋砦)に現れて、ここから「相原村」(中嶋砦の東方に相原という地名あり)を経て太子根に至っています。

おそらく参謀本部は同書の不自然で矛盾した記述を誤読したものと思われます。善照寺砦から「東の峡間」を行くというのは、『桶狭間合戦記』の筆者も勘違いしたのかどうかわかりませんが、どう考えてもおかしいです。
むしろ、後半部分の中嶋→相原村→(山間)→太子根というルートなら、それほど不自然な進路ではありません。
どうも、『桶狭間合戦記』と『日本戦史』双方の不幸な勘違いの相互作用から、「迂回奇襲」説が生まれたようですね。

一方、私も内輪の報告で書いたのですが、かわいさんご指摘の『甫庵信長記』だけでなく、ほかにも『織田軍記』(総見記)『松平記』など、いわゆる評判の悪い近世の軍記物も決して「迂回奇襲」説を採用していません。これらの軍記物はいい意味で、『信長公記』首巻からそれほど逸脱していません。つまり、創作の度合いがかなり低いです。

したがって、『日本戦史』がいい加減だからといって、『甫庵信長記』などの軍記物も一緒に葬り去るのは無謀です。これらの軍記物も『信長公記』との関連で、比較検討されてしかるべきだと思います。


昔の話題に乱入してすいません。
かぎや散人
こんにちは。
相当時間がたってしまった話題なので恐縮なのですが、眼にとまったものですから、一言?参加させていただいても宜しいでしょうか。

実は、小生は『日本戦史』が「迂回奇襲」説の根拠にしたといわれる山崎真人の『桶狭間合戦記』には、それほど非合理なところはないと考えます。勿論、その結論に賛成するか、その説が正しいかということは別の問題としてのことですが・・・。

先生が紹介された文章は、「信長公は自らが引率されてきた人数の多くを、善照寺砦の東の峡間の方へ分離して敵の目から隠して、そこで勢揃をさせたのだが、その時点での信長の兵力は三千であった。」と訳せると、小生は思います。

「引分け」は信長が率いてきた軍勢を二つに分けたのであって、山間の狭間に分け入ったわけではないと思います。
ですから、先生のおっしゃられるような「善照寺砦から東の峡間へ行く」というようなルーとを採ったと著者が書いたとは思えないのです。

そして、そこで善照寺砦の「東の峡間」というのは、これが朝日出であると思うのですが、正確には善照寺からみるとちょっと東北になります。しかし、東でも不正確だとは言えない程度です。丹下砦からみますと東になります。

それに、信長の軍事行動としては、率いてきた二千からの軍勢の全てを善照寺砦に集めることは問題があります。
それは、そんなことをしたならば混雑してしまうからです。
ですから、信長は丹下を出発するときに、後続の兵士には朝日出で軍勢を整えるように指示したはずなのです。兵士を集合し整列させるには広いところが良いからですし、善照寺砦の外曲輪では手狭になるからです。
なぜなら、善照寺砦の本郭は東西60m、南北36mといわれていまして2,160㎡位になります。それに一人当り一坪半(約5㎡)~三坪(約10㎡)を当てはめてみますと、約220~430人の兵力しか籠れず、そこには既に佐久間一族が守備しているのですから、信長と多少の随行兵以上は受け入れることは難しいからです。
そして、二の曲輪が鳴海城側にあったと思われるのですが、そこの広さも本郭の三倍程度しかとれないように思えます。古城図が手元にないので確認はできませんが・・・。

それに、熱田を出発した信長は揉みに揉んで駆けつけているのですから、後続する将兵も軍列の乱れなどはお構いなしに追従したものと思われます。
ですから、足の速いものと遅いものは離れ離れになっており、善照寺に着いても原隊とは逸れてしまい、整列するのは大変だったと考えます。

このようなわけで、『桶狭間合戦記』の記述は、地理的におかしなところはないと思います。
「東の峡間」にあたる朝日出から中嶋へ移り、今度は扇川の左岸(ここは相原村に相当します)を東行して、半ノ木へ掛り、山間(神明~明願~細根山~現有松駅裏)を経て太子根の麓に至ると山澄英竜や山崎真人が考えても不自然でもおかしなところもないと思います。

このような説を採られる人には、現在では梶野渡氏がおられまして、『尾張の歴史・桶狭間合戦の真相に迫る』に書いておられます。
小生は、梶野説に賛成できないのですが、それは、信長が中島砦から扇川の川底を走ったとされるからです。しかし、陸上を行くのであれば行けなくはないのです。

また、天保十二年五月の鳴海村村絵図をみますと、相原村は扇川の左岸も村域に含んでいますから、おそらく合戦当時も相原村地であったと見てもよいのではないでしょうか。そして、天保十二年には半ノ木から細根までは道があります。・・・当時もあったとは言えませんから、織田勢が山中を行ったとするのであれば、山崎真人の考えた経路に問題はないと考えることができると思います。

長々と自説を述べてしまいましたが、いかがなものでしょうか。



お説有難うございます
桐野作人
かぎや散人さん、おはようございます。

ご意見、有難うございます。
いま、別件のため頭が桶狭間モードに切り替わっていないため、よく考えてみます。すぐのコメントはお許し下さい。

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昨日で20.000アクセスを超えた。
たくさんのアクセス有難うございます。

10.000アクセス突破よりもペースが速くなっている。

もっとも、今月は更新回数がかなり落ちてしまった。
そのせいか、人気ブログランキングも落ち気味です。

回数はともかく、内容にはこだわっていきたいと思いますので、よかったら、クリックをお願いします。

もっとも、同ランキングのバナーをダウンロードしてきたけれど、なぜかアップできないでいる。どうすればできるのかな?

【2007/02/23 00:25】 | 雑記
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吉田松陰大好き
まあ、そう肩を落とさないで下さい。順位を付けられると上を目指したくなるのは分かりますが、時には『ま、いっか』と落ち着かせる事も必要だと思います。私は桐野様のブログが大好きですよ!要は、ファンの数より質が大切と思います。上辺の数より、数が少なくても、良質な中身さえ残ればいいと思って頂ければ、ファンとしても『絶対付いていく!』と熱心に思いたくなります。

リンク欄のバナー表示
かわい
ちと調べてみましたが、どうもできないみたいですね。
「リンクの管理」画面ではサイト名とURLしか記入できませんから、画像は貼れないのではないでしょうか。

それと、FC2ランキング(現在2位ですね。おめでとうございます)のサイト名が「ランキング」だけなのはもったいないです。サイト名を「FC2ランキング」にして、「人気blogランキング」とは別のランキングであることを明示したほうがよいと思います。

祝1位獲得
かわい
おめでとうございます!
こんなに早く1位になると思わなかったので、先のコメントでは間抜けなことを書いてしまいました(笑)。

FC2ランキング
桐野
かわいさん、どうも。

いろいろ教えていただき有難うございます。
一応、バナーをダウンしてきて、アップする方法は解説があるのですが、アップする際に、バナー画像がいったんリストに表示されなければならないのですが、それが写らないのです。以前、試したとき、反映された記憶があるのですが、そのときの操作方法を忘れてしまいました。

リンク欄のFC2ランキング、アドバイスのように明示しておきました。
これは一番最初にリンクを張るときに試しにやってみただけで、ほとんどのぞいてみたこともなく、さっきのぞいてみて1位だったのを見て驚きました(笑)。
今後もう少しかまってやろうと思います。

いろいろ有難うございました。

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稀覯本の復刻で知られる山口県周南市のマツノ書店が近々、『復古記』全15冊を復刻し、発売する。

復古記』というのは明治期に編纂された維新史・戊辰戦争史の集大成というべき史料集である。2万点以上の史料が収録されている。明治政府が刊行しただけに、いわゆる官製の維新史観に基づいた編纂方法がとられているものの、これだけ体系的にまとまった史料集は空前絶後であろう。

官製史書といい条、現在の古書相場でも20万円以上するから、その史料的価値は疑いない。とくに戊辰戦争史の根本史料であり、個別戦史としてみても、史料の宝庫である。

今回、マツノ書店が東大出版会と提携して、廉価(11万円程度らしい)で発売することになった。
さっそく来月からPRが始まる。そのための推薦文をマツノ書店店主の松村さんに依頼されていた。宮地正人氏、紀田順一郎氏、中村彰彦氏といった錚々たる方々と並べていただくのは忸怩たるものがある。

本日、ゲラの校正を送り返した。小生は、相楽総三と赤報隊の一件を中心に、思うところを書いてみた。

復古記』に関心のある方はマツノ書店のサイトを見て下さい。ご希望なら、案内のチラシを送ってくれるはずです。

【2007/02/21 20:38】 | 幕末維新
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いよいよですね
パルティアホースカラー
こんばんは。
『復古記』復刻版の発売が、いよいよ始まるのですね。この史料集は、私も貴重なものだと思います。復刻されるのはとても喜ばしいことですね。
かつての版を所蔵していない大学なども結構多いようですので、この機会に復刻版ができるだけ多く売れるといいですね。

大学
桐野
パルティアホースカラーさん

ご無沙汰しております。

「復古記」が入っていない大学もあるのですね。マツノ書店も宣伝対象として考えたほうがいいのかもしれませんね。

貴ブログはいつも充実しており、楽しく読ませていただいております。
そちらにくらべると、こちらは散漫でして(笑)。
少しは見ならっていきたいと思います。

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今夜の「開運なんでも鑑定団」。
なにげに見ていたら、何と、信長の朱印状が登場したではないか!

保存状態はあまりよくなく、馬蹄形の「天下布武」朱印も下部が少しちぎれていたが、一目で紛うことなき本物だとわかった。
お値段は300万円。保存状態がよければ、倍近くになったのではないか。

しかも、内容が気になる。
まず間違いなく新出文書である。讃岐に宛てた信長文書はほとんどない。しかも、知行宛行状か安堵状だと思われ、ちゃんと「天正八」(1580)という年次が書かれていた。日付は四月までは見たが、下は確認できなかった。


天正八年四月といえば、本願寺顕如が降伏した直後である。
それが讃岐の国人の動向にも何らかの影響を与えたのか……。

画面に映ったのはほんのわずかだったので、冒頭に「讃岐」云々という文言が読めただけだった。宛所が切れてなかったが、讃岐の国人への知行宛行もしくは知行安堵だとすれば、信長の武威が四国の讃岐に及んでいたことになる。該当者は香川氏とか香西氏であろうか?

いずれにしろ、信長の四国政策とも関わり、私の問題関心とも重なるもので、非常に重要な朱印状ではないかと思われる。

どなたか、VTRに撮った方はおられませんかねえ。

【2007/02/20 21:55】 | 信長
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かわい
http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/ に小さい画像がありますが、拡大しても読み取れないですね。私も偶然チャンネルを変えた瞬間に「信長」の署名と印判が目に入った状態で、ホームページで確認しようと思ったらこれですから。
局に直接問い合わせるか……、あっ、どこかの編集者を唆して取材させるなんて作戦はいかがでしょうか。


とし
讃岐の国人も生き残りをかけて戦々恐々としていたのでしょうね。背後の長曾我部にも挟まれて辛いところです。当時のそんな動きを感じることができるのは面白いですね。

う~ん
桐野
>かわいさん

私もそのサイトを見てみましたが、他の出品物はあるようですが、信長文書にはたどり着けていません。
編集者を唆すというのはいい手かもしれませんね(笑)。

番組の鑑定者は、京都で骨董や書画なども扱う出版社の思文閣の社長?だと思います。
どうも、同社で買うかもしれませんね。

以前も信長と秀吉文書が一カ所から数点出てきたとき、信長文書は明らかに本物なのに、ある先生が写しだと鑑定したので、値段が安かったですね。あれなら、私でも買います(笑)。

>としさん、はじめまして。

讃岐の国人、たとえば、西讃の有力国人である香川信景は天正三年頃に、信長に服属して一字拝領しています(前名は之景)。これは明らかに三好・十河氏からの離反だったと思います。さらに、天正八、九年には長宗我部元親の一子を養子にしています。
その時点までは、信長への服属という共通点があったので、香川氏も長宗我部氏にそれほど脅威を感じることもなく、むしろ、長宗我部氏の四国平定戦に協力しているようにも見えます。
信長の朱印状が誰宛てなのか興味が尽きませんね。



かわい
「前回のお宝」の「出張鑑定 in 山口市」にありますが、小さいので見るだけ無駄ですからね(^_^;。
A編集長とか興味持ちそうな気がしますが、どうでしょうね。見開きのカラーページに写真と地図と解説記事だったら見栄えはすると思いますが。でも文字量は5枚くらいになるのかな。少ないですね。

見ましたが……
桐野
かわいさん

ようやく見られましたが、拡大してもダメですね。ぼやけてまったく見えません(笑)。

これは編集部経由で掛け合ってもらったほうがいいかも。

織田信長書状
ぴえーる
初めまして。いつも興味深く読ませて頂いています。
「開運!なんでも鑑定団」に登場した織田信長書状ですが、私の住んでいる地域では二週間遅れて放送されたので、映像をキャプチャーすることができました。
全文が映っている画像等をアップしましたので、もしよろしければ御覧下さい。

御礼
桐野
ぴえーるさん、はじめまして。

貴重な情報と写真、有難うございました。
さっそく、本文でその解読、分析をしてみました。

とにかく御礼申し上げるばかりです。

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大河「風林火山」第7回。

創作部分がつづく。
今川から北条へと渡り歩き、氏康からも体よく追い払われて間者となって信州に入った勘助。

そこで出会ったのが、真田幸綱である。従来、幸隆とされていたが、どうやら幸綱の名乗りが正しいようである。
演じるのは佐々木蔵之介である。
武田晴信の初陣となる海ノ口城の戦いがあった年なので、天文五年(1536)にあたる。幸綱は24歳という設定になる。

さて、武田軍が国境を越えて信州佐久郡に侵入したというので、真田幸綱らは武田軍の進出に危機感を示し、勘助を海ノ口城に使者として派遣するというところで今回は終わった。

しかし、海ノ口城は国境に近く、小県郡の松尾城に拠る真田氏からは相当遠い。果たしてこんなに危機感を抱くものなのか。それより、真田氏にとっては隣接する村上義清のほうがよほどの脅威だと思うが……。
まあ、五年後の天文十年、海野平合戦で、真田氏を含む海野一族が敗北して、幸綱らも上州に逃亡することになるから、その伏線的な意味合いもあろう。

真田幸綱の居城を松尾城としていた。城の遠景が出てきたが、どうも松尾新城ではなく、古城のように見えた。そして同城の櫓から幸綱が勘助とともに村上方の支城である戸石城を望むシーンがあったけれども、それは無理だと思う。

昨夏、真田庄の取材に行ったから地理的な感覚がわかるが、古城からだと、新城(真田本城)の山並みが邪魔して戸石城は見えないはずだ。だから、あのシーンは本来、新城からの眺望にすべきだろうが、あの時期、真田氏はまだあの地に城を築くだけの実力はなかったはずだ。新城が築かれるのは、幸綱が上州から復帰して以降だと思う。

一応、新城(真田本城)から見た戸石城の写真を掲げておく。うっすらと見える中央の市街地は上田市街。市街の手前にある右手の山並み(端が切れている山)が戸石城址。
戸石城


【2007/02/19 23:20】 | 風林火山
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違和感のある地理的設定
かわと
私も真田には去年行ったので、記憶に新しいところですが、ドラマ中の砥石(戸石)城の眺望は明らかに真田本城跡からのものを想定していたようですね。
真田から上田に下りる際には砥石城のすぐ脇を通らねばならないはずなんですが…。ほかに道があったとしても、村上氏の支配地域を通らずに佐久へ抜けるのは不可能だと思うんですが。
いずれにせよ、甲斐国境の情勢にまでちょっかいを出す必然性については、私もかなり疑問でした(笑)。伏線にしてはちょっと強引ですね。

真田本城
桐野
かわとさん、こんにちは。

そういえば、かわとさんも私とほぼ同時期に上田・真田に行かれたんでしたね。

仰せの通り、戸石城を遠望したシーンは真田本城からのものでしたね。

晴信の初陣の相手となる平賀源心ですが、『甲陽軍鑑』にしか登場しない人物らしく、実在したかどうかも疑問視されているようです。晴信の初陣を粉飾した可能性もあるでしょうね。

もし源心が実在していて、しかも海野一族なら、同族の幸綱が危機感をもつのはわかりますが、それでも、地理的にはかなりの距離感があるのはぬぐえないですね。

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最近、古書で入手したものである。
いい値段だったので、分厚い伝記かと思っていたが、120頁足らずの小冊子だった(笑)。でも、未見の文書が収録され、内容も面白いので、それなりに納得している。
著者は中原の子と孫である。

『贈正五位中原猶介事績稿』
中原尚徳・尚臣著
1929年刊
私家版


中原猶介といっても、知る人はほとんどいないかもしれない。
幕末の薩摩藩士である。生没年1832-68。
西郷隆盛より五歳、大久保利通より二歳年下で、同時代の人物である。

中原は薩摩藩の集成館事業の中心に位置し、また江川坦庵塾の塾頭を務めるなど、優れた科学者(化学・蘭学・造船・電気・硝子など)であり、砲術家でもあった。
弱冠十七歳にして、藩主斉興のお庭方として出仕し、斉彬時代には、反射炉建設、造船所建設、昇平丸建造などに才能を発揮している。また水雷・地雷の発明にも関わり、薩摩切子として知られる紅硝子などの発明にも中原の働きが大きいという。

さらに安政二年(1855)には、鹿児島城内の本丸休息所と二の丸花園までの、およそ500メートルの間に電線を架設して電信実験に成功している。情報の重要性を知り抜いていた島津斉彬は鹿児島と江戸藩邸の間に電線を敷設するための調査まで命じていたという逸話さえ残っている。
中原はまた優れた軍人でもあった。とくに砲術の専門家だった。
元治元年(1864)7月、禁門の変では、中原は軍賦役兼大砲隊長を拝命している。このときの軍賦役はほかに西郷吉之助と伊地知正治だから、中原の地位の高さがうかがえる。
戦闘では、中立売門で攻勢をかける長州藩兵に対して、中原の砲隊が後方から葡萄弾(炸裂弾の一種か)を浴びせたため、猛将来島又兵衛が討死し、長州勢は敗走のやむなきに至った。戦後、中原は功績を称えられて、感状と陣羽織・佩刀を授与されている。

戊辰戦争でも大いに活躍している。
鳥羽伏見の戦いでは、中原は薩州一番砲隊を率いて伏見口に陣した。麾下は四斤半施条砲三門である(配下の右半隊三門は鳥羽口に分派)。数は少ないが、高性能の大砲だった。
中原らは伏見奉行所の旧幕軍(会津藩、新選組など)とわずか100メートルくらいの距離でにらみ合う。戦端が開かれたのは一月三日夕刻だった。
その模様を、中原の「御届書」から見てみよう。

「賊敵俄に拙者警備口の奉行所柵門押開き、人数約四大隊、騎馬四五人、先鋒は会兵、新撰組と相見へ、銃砲剣槍相携へ早や三四十間の所まで押逼り候間、予て装弾致置候大砲三挺より霰弾二発、榴弾一発発射し、続て小銃を連発致候処、此の勢に避易致候はん、柵門涯一丁余の処まで後しざりに退却、それより柵門口へ畳数十畳立て併べ、互に大小砲銃を寸隙もなく打合、少時味方の砲声相緩み候節は、会兵、新撰組と相見へるもの抜剣にて駈出し、間隔三四十間の処まで、度々進撃致候儀も有之候へ共、味方の勇士飯牟礼喜之助、讃良清蔵、肥後平八、入江直次郎、児玉覚之丞等粉骨砕身よく相働き撃退致候」

会津藩兵や新選組の接近戦を大小の銃砲火で撃退した様子がよくわかる。

その後、中原は海軍参謀、次いで参謀に任ぜられ、北陸征討軍に加わる。
北越の地では、長岡藩家老、河井継之助らと対峙した。
中原は軍議で、7月25日の進撃を表面上決定しておき、じつは24日夜半の奇襲攻撃をするよう提案したが認められず、25日未明の進撃に決した。
ところが、河井らが機先を制して、24日深夜に長岡城奪還の奇襲攻撃をかけてきた。
中原は砲隊を率いて奮戦したが、右膝頭に銃弾を受けてその場に倒れた。
のちに柏崎の野戦病院に収容されたが、戦友や医者たちの勧告にもかかわらず、一切の手当てを拒否して、8月7日、長岡城再奪還の吉報を聞きながら他界したという。享年37歳。

辞世は、

よしや身は越路の雪にうづむとも
  とくる清水に名をや流さむ


中原がそのまま存命ならば、薩摩藩では西郷・大久保に次ぐ地位を占めたのは間違いないだろうと思われる。惜しまれる早死だったゆえに、その名前や足跡が忘却されているのは残念である。
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ゴンザの露薩語講座」第16回。
前回出題分:「カキ」ですが、なかなか応募がなかったですね。簡単すぎてどんなひねりなのか連想するのが大変だったでしょうか。正解は「リンゴ」です。
元さんはじつにお見事でした。ご推察のとおりです。ゴンザはリンゴを見たことがなく、鹿児島で見られるカキ(柿)にたとえたのだと思います。う~ん、ゴンザ辞書、あまり実用的じゃないですね(笑)。
きなみんさんは連想しすぎて収拾つかなくなったみたいですね。吉田松陰大好きさんの「夏期」→「冬期」も面白いですね。

突然のお知らせです。
ご好評をいただいた講座ですが、ちょっとネタ切れになりましたので、しばらくお休みしたいと思います。参加していただいた方々、有難うございました。

【2007/02/18 16:04】 | 古書
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恐れ多い桐野先生様!
吉田松陰大好き
とうとう、ゴンザクイズをお休みにされましたね。少々寂しいです。参加された皆様は頭が良いですね。素晴らしいし、ペンネームが面白かったです!中原という人物は、全く存じておりませんでした。この者が発明した物は【維新ふるさと館】で触れられ、なかなか面白いです。男っぷり、たっぷりで、また私のハートはメロメロです。辞世句が吉田松陰と多少似ているので親近感が湧き、心に響きます。生涯を通して、人間性の良さが大いに感じる人物ですね!

維新ふるさと館
桐野
吉田松陰大好きさん。どうも。

鹿児島の維新ふるさと館に行かれたことがあるのですか。
なかなか面白い仕掛けがあるところですよね。昨年だったか、リニューアルされたと聞いています。
集成館事業、たとえば、反射炉とか薩摩切子などの展示があったかどうかはよく覚えていないのですが……。

松陰の辞世は、たしか「身はたとへ武蔵の野辺に朽ちるとも~」でしたっけ?
たしかに似ていますね。ほかにも似ている辞世を詠んでいる人がいたような。近藤勇も違いましたっけねえ。


維新ふるさと館
吉田松陰大好き
昨年の3月中旬にリニューアルされました。三月下旬、初めての鹿児島旅行で、もうすぐ空港に着くという時、機内雑誌で維新ふるさと館の存在を知りました。薩摩切子は展示されていたかどうか忘れましたが、反射炉や電気関係の物はあり、体験コーナーが設けられているので楽しいです。一番印象に残っている事は、国旗,国歌の発祥は薩摩であり、当時の国歌を聴けた事です。曲は違いますが、歌詞は全く変わっていないので、考えさせられるものがありました。現在も問題にされてますが、当時の背景で見ると、相当想いの深い歌なので誇りに思いました。

土方歳三の辞世
桐野
維新ふるさと館のリニューアルは去年春でしたか。

それで、前回、松陰の辞世と近藤勇のそれが似ていたかもというのは、私の勘違いでした。
近藤ではなくて、土方歳三でしたね。

たとひ身は蝦夷の島根に朽つるとも
  魂は東の君やまもらむ

「魂」はおそらく「たま」と読むのでしょうね。
「東の君」って輪王寺宮でしょうかね?


松陰の辞世
吉田松陰大好き
返答が遅くなり、申し訳ありません。さすがです!『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留(とどめ)置(おか)まし大和魂』です。これは【留魂録(りゅうこんろく)】という遺書の言葉です。「例え自分は武蔵の地に葬られても、日本を思う私の心は置き留めて欲しい」という切願の辞世です。土方歳三もソックリですね。御調べ下さり、ありがとうございました。当時の日本男子(武士)は、立場が異なっていても、精神的に共通点がありますね。土方の“東の君=輪王寺”は分かりません。どなたか御存知ありませんか?

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古文書塾てらこや冬期講座の3回目。

寺村左膳・後藤象二郎らが土佐に帰っている時期を中心に読み進める。

後藤が提起した薩土盟約案に、老公山内容堂もいったんは同意する。
左膳らに上京命令も下されて、順調に進むかと思った矢先、一大事件が勃発する。
長崎で英国人水夫が攘夷派とおぼしき者に殺害された。その嫌疑が土佐藩にかかり、英国公使パークスが抗議と犯人引き渡しを要求して土佐に乗り込んでくる。いわゆるイカロス号事件である。
一方、幕府も重大な外交問題勃発を心配して、英国軍艦とともに土佐の須崎へ。
このとき、将軍慶喜から容堂に宛てた直書が手渡された。左膳はこれを容堂への上京要請と推察したので、私もその線に沿って、容堂が薩土盟約案に一転して反対するきっかけになったのが、この慶喜直書ではないかと解説した。

ところが、また勘違いをしたようだ。帰宅後、『徳川慶喜公伝 史料篇』を見たところ、この直書が収録されていた。内容はイカロス号事件を心配する内容だった。上京要請などどこにも書いてない(冷汗)。事前にちゃんと調べておかないから、こういうことになる(喝)。

今回は前回の積み残し分や近藤勇の親藩会議での発言などに時間を取ったうえ、「少将様」が誰にあたるかを検討するのに、近世武家官位制にまで突っ込んで詳しく説明したため、どんどん時間がなくなってしまった。
そのため、やろうと思っていた『保古飛呂比』にあるイカロス号事件について、まったく進行できなかった。坂本龍馬のことも書いてあったから、是非ともやりたかったのだが……。
時間配分や人物比定などミスが多い。反省すること、しきりである。
次回こそ、イカロス号事件をちゃんとやりたいと思う。龍馬文書も使いたい。
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ゴンザの薩露講座」第15回です。
前回出題分「カシタ」ですが、ヒントでわかったようですね。正解の方が多いです。解答は「長官もしくは隊長」です。
ばんないさん、水戸っぽさんは正解です。きなみんさんはあろうことか、真逆になってしまいましたね(笑)。次回は頑張って下さい。

第15問:カキ

ヒント:緯度の違い

【2007/02/14 22:35】 | てらこや
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きなみん
まったくとっかかりがわからず、誰かの書き込みを見て
考えてたのに、誰も書いてくれない...(笑)
カキ → 垣 → ?
カキ → 牡蠣 → ?
カキ → 柿 → ?
カキ → 火気 → ?
カキ → 夏期 → ?
ダメです。降参です...orz


吉田松陰大好き
今回は本当に難しいですよね~。私も誰かコメントしないかな~と待っておりましたが、3日間誰もコメントしないなんて今まで無かったので、ほんまに難しいっす!緯度の違いだから、夏期→冬期かな?お手上げっす!イカロス号事件は知らなかったので、勉強になりました。


多分リンゴだと思います。緯度と言えば南北。南にあって北にないのは、みかんや柿です。ロシアで初めてリンゴを見た彼が連想したのは、柿だったのではないでしょうか。

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今夜の大河の第六回。

「~ごいす」のミツが出なくなって、すっかり淋しくなったな。彼女の笑顔と明るさがよかったのに……。後半で別の役というか、そっくりさんの別人でもいいから登場してほしいな。

三条夫人の輿入れがあったが、やはり三条氏の姫として扱っており、養女云々の話はなかったな。
でも、三条夫人ではミツのいなくなった空白は埋めようがないといったら、池脇千鶴に失礼か。

勘助は今度は、北条氏康に接近した。演じる松井誠という役者、あまり知らないが、舞台か何かの出身か。新国劇みたいな風貌と演技だ。

今川氏との和睦などで、小山田信有の独断専行を強調するのは故あってのことか? 意図が読めない。
信有の生母は武田信虎の妹だから、信有は信虎の甥になる。その関係から、信虎の意を受けて家老の評定を無視した策略を実行したということか。
これだけ信虎に接近していると、信虎追放のときに連坐するのかといえば、史実ではそうではなく、その後も何事もなかったように晴信に従っている。あえて信虎との親近感と家臣団での孤立を強調する意図がわからないな。

また『妙法寺記』には天文5年(1536)6月に、前嶋一党の粛清に抗議して、奉行衆が甲斐を退散したという重大事件があったが、それを素通りして、7月の三条夫人の輿入れに話が飛んだな。

なぜこの重要な史実を飛ばしたのか。やはり父子確執のプロットにこだわっているゆえか? ちょっと話を単純化しすぎるのではないか。せっかくこれまでいい感じで来ているのに、今後の展開を踏み外さなければよいが……。
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ゴンザの露薩語講座」第14回です。
前回出題分「ダクマ」の解答は「エビ(とくに淡水系の手長エビ)」です。これは鹿児島特有の呼び名だと思います。ほかの地域ではまず通用しないのではないかと思います(熊本・宮崎あたりでは使うかも知れませんが)。
まいたけ君さん、「クマ」が同じでも全然違いましたね(笑)。次回頑張って下さい。

第14問:カシタ

ヒント:組織や集団でのある地位。

【2007/02/11 23:05】 | 風林火山
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松井誠
ばんない
松井誠は、ご推察の通り、大衆演劇出身の、かなり有名な俳優さんです。(URIをクリックすると公式HPに飛びます。)

「ダクマ」は海老のことでしたか。全然予想できなかった。そういえば鹿児島のお雑煮には乾燥クマ海老をつかうのだそうですね。これは淡水海老ではなくて海水の海老だそうですが。

「カシタ」は字感のままストレートに「頭(庄屋、名主)」としておきます。


きなみん
カシタ → 格下 → ぺーぺー
ってのはどうでしょうか?(笑)


松井誠
桐野
ばんないさん
松井誠の紹介、有難うございます。
サイトを見たところ、女形もやるんですね。
「立ち役は市川雷蔵丈」という惹句がありましたが、ちょっと違うぞと思いました。雷蔵のほうがもっと華奢で繊細そうです。松井誠は首が太い(爆)。

ダクマはダッマといったりもします。子どもの頃、川遊びでよく捕まえました。ザリガニよりずっと小さくて透明に近いエビでした。
鹿児島では川エビと海エビはかなり区別しますね。川エビはまず食べないと思います。食糧事情にもよりますが。
お雑煮は、うちの場合、乾燥車エビだったような。



水戸っぽ
「カシタ」→かしら(頭)というのは容易に想像がつくのですが、より具体的な用語に置き換える(しかも当時のロシアの状況を踏まえて)となると...
領主、地主あたりが無難なのでしょうか(農奴制の時代だし)。あるいは(山下清ではないが)軍隊に置き換えたら、隊長、団長とか。


かじやちょう
かじやちょうです。
先日はどうもありがとうございました。
ダクマですが、鹿児島以外の九州地方でもそのように呼ぶみたいですね。
私の家も母方の影響で乾燥車エビでした。(笑)

ダクマとチング
桐野
かじやちょうさん

ダクマはやはり南九州一帯で使いますか。
やはり、方言を県境の内外で考えてはいけないようですね。広く九州もしくは南九州の言語文化圏で考えたほうがよいのかもしれません。

先日、呑もうとした壱岐の焼酎の銘柄「チング」。メニューには「壱岐の方言で友達の意味」と書いてありましたけど、恐れ入りました。
これって、ハングルでも友達の意味で使います。対馬ならともかく、壱岐までハングルの影響を受けていたとは知りませんでした。
これもダクマと一緒で、韓国文化の壱岐への流入ととらえるより、対馬海峡を挟んだ共通の言語文化圏だと考えたほうがいいかもしれませんね。



たか

どうか目を通してください。

昨年末、サマワから帰還した自衛隊員の前に天皇が立ちました。天皇の前に制服姿の自衛官がずらりと居並ぶという事態が起こったのです。これは象徴天皇として憲法四条の制限に抵触します。この国は学習能力がないのでしょうか。戦前のように、海外に出かけていく武装した自衛隊に、隊旗授与式するようになってしまうまで、あとわずかというところまで来てしまっています。主体性を奪われた哀れな天皇という人間が、こそこそと地位と存在意味を高める野望を抱き、事実公務を違憲な範囲にまで広げているのです。なんと恐ろしいことでしょう。絶対やめさせなければなりません。憲法違反だと声をあげなければいけません。

どうか皆さんも宮内庁に抗議メールを送ってください。↓
information@kunaicho.go.jp

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7日、日帰りで桶狭間古戦場に取材に出かけた。

現地の地理や史跡に詳しい畏友の橋場日月氏にわざわざ泉州から来ていただき、ガイド役をお願いした。また橋場氏の友人で歴史好きのH氏も同道してくれた。

折からの好天気で、日中は気温も20度近い暖かさだった。日頃の行ないがよいためか、これ以上ない史跡探訪日和だった。

まず、名古屋駅で上記お二人と合流して名鉄線で、桶狭間古戦場跡に行く。今川義元戦死の地である。中京競馬場駅で降りて、まず太子ヶ根に行く。大将ヶ根ともいい、織田軍がこの丘陵の陰から義元の本陣を襲撃したともいわれている。史跡も碑も何も残っていないが、地名が現在も残っていることを随所に確認できた。

その後、反転して、義元の墓のある桶狭間古戦場と高徳院に行く。ここに来たのはじつに十数年ぶりだろうか。あたりの景観がまったく変わっていて、なかなか思い出せなかったほどである。
桶狭間古戦場跡

(豊明の桶狭間古戦場跡の碑)

高徳院の境内の真ん中に、以前、義元本陣跡という碑が立っていたが、碑こそ残っていたものの、だいぶ景観が変わっていた。橋場氏が、お寺裏にある松井兵部少輔の墓に連れて行ってくれた。兵部少輔は義元の部将で、義元を救援しようとして討死した。以前、来たときはこの墓の存在は知らなかったから、教えてもらって有難かった。

その後、桶狭間山をめざす。ここは義元の本陣が置かれたところである。『信長公記』には「御敵今川義元は四万五千引率し、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」と書かれている。
山といっても、標高は65メートル足らず。あたり周辺で一番の高所を探し回った。ようやく見つけたが、何の変哲もないところである(下写真参照)。
桶狭間山


この付近にもうひとつの今川義元戦死の地がある。桶狭間古戦場公園になっている。戦死の碑と供養塚があった。近くには今川義元の重臣、瀬良氏俊の陣所跡とされる「セナ藪」や、長福寺がある。同寺には義元供養のための阿弥陀如来像が安置され、境内には戦死者供養塔や義元首検証の碑もあった。

その後、バスでいったん名鉄線に戻り、鳴海城址をめざした。この城は今川方の最前線で、岡部元信がこもっていた。この城を監視・圧迫するために、織田方は丹下・善照寺・中嶋の付城を築いた。
鳴海城は当時を偲ぶものは碑以外なかった。橋場氏によると、以前は切岸が残っていたというので、その場所に行ってみたが、宅地造成の真っ最中で、完全に姿を消していた。

善照寺砦は織田方の最大の前線拠点だった。ここにジャングルジムがあったので登ってみたところ、鳴海城はビル・マンションに遮られて見えなかったが、大高城方面を望むことができたのは収穫だった。

善照寺砦から、その支砦といってよい中嶋砦に移動する。ここは扇川などの河川が合流する三角州にあり、陸海双方の交通路を扼していたように思われる。
善照寺砦まで進出した信長は家臣たちの制止を振り切ってこの砦までやってくると、折からの豪雨の中、敢然と義元の本陣を攻撃するのである。
信長がなぜそんな大胆というか無謀とも思える決断をしたのか、その地に立って見たかったのである。しかし、当時を偲ばせるのは、碑と河川の三角州だけである。大高城方面は建物に遮られてまったく見えなかったのは残念無念。

その後、鳴海駅まで戻ってタクシーで大高城に行く。ここも今川方の拠点で、松平元康(のちの徳川家康)が兵粮入れをしたことで知られる。
この日めぐった城砦の中で、もっとも中世城郭の風情を残している城跡だったので、とてもうれしかった。大きな曲輪が三つも四つもあった。そしてその突端からは、織田方の付城である鷲津・丸根の両砦がよく見えた(下写真参照)。
鷲津・丸根

(写真奥の丘陵の左手のマンションあたりが鷲津砦、同じく右手の高層マンションの裏あたりが丸根砦)

取材はこれで終わりだろうと思っていたところ、橋場氏が鷲津・丸根にも行こうという。時刻はもう4時を回っていた。冬場の取材は午後4時が限度だと思っていたし、大高城からはるか遠くに見える両砦だったので、とても行けないと思っていたが、案外近かった。両砦まで見て回れて、桶狭間古戦場の関連史跡は日帰りにもかかわらず、ほぼ全部回ることができた。望外の喜びである。
鷲津砦

(鷲津砦跡の碑)

一人ならとてもこれほど効率的には回れず、下手をすれば鳴海城あたりで終わっていたかもしれない。名ガイドの橋場氏に感謝、感謝である。また、全行程が徒歩20キロ以上に及ぶ取材とはゆめにも思わずに同道したH氏は途中で、私たち二人にあきれ顔ながら、最後まで同行してくれた。さぞやお疲れだったろうと思う。

古戦場めぐりは久しぶりだったが、20キロ以上歩いたにもかかわらず、翌日もとても元気だった。まだまだ史跡取材がやれそうだという自信も取り戻せた気がする。取材後、名古屋駅の某タワービルで飲んだ生ビールがうまかったことはいうまでもない。
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ゴンザの露薩語講座」第13回です。
前回出題分「ヤキモチ」の解答は「ビスケット」でした。きなみんさんとまいたけ君さんは連想法はよかったですが、ちょっとはずしましたね。

第13問:ダクマ

ヒント:これは鹿児島の人なら知ってますね。

【2007/02/10 00:23】 | 信長
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まいたけ君

ダクマ → 氷

鹿児島で「クマ」といったら、「白クマ」っきり思い出せないもので(冷汗)



信長の成功要因は?
小池直行
頼朝の場合、関東武士の気持ちにうまく乗って成功したようですが、信長の場合その支持層みたいなのがあったのでしょうか


吉田松陰大好き
充実した日帰り旅行だった御様子で羨ましいです。心が満たされていれば、体の疲れは感じませんよね。高層マンションが全室埋まる程、人口は多くないと思うので、無ければ良かったですね。皮肉ですが、人間の欲で貴重な史跡まで奪われ、切岸や桶狭間全体を是非見て頂きたかったです。まあ、便利な世なのでこの時代に生まれてラッキーである事には違いありませんが…。いつか旅行を共にしたいです。【幕末編】で!先日のクイズで何も考えず、勝手にクイズダービーをして正解となりましたが、きなみん様済みません。でも嬉しかったですhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F99B.gif" alt="" width="12" height="12">

信長の成功要因?
桐野
小池直行さま

表題は信長の桶狭間合戦での成功要因という意味でしょうか?

それなら、いくつかあると思いますが、主体的要因としては、信長の旗本衆の忠節度と団結力が強かったことはいえると思いますね。
義元襲撃が成功したのも、信長の軍令に従って一糸乱れぬ攻撃が可能だったからだと思います。

信長の成功要因続き
小池直行
質問の仕方が悪くてすみませんでした、信長がまがりなりにも覇を唱えられた要因をなんだとお考えですかという意味での質問です。信長を歴史の主役に押し上げた歴史の必然みたいなのがあるのですか、それとも信長が個人的にたまたま強かったのでしょうか。この時期天下統一を目指す武将が何人か現れたようですが、まず何故この時期にこういう機運が出てきたのでしょうか、その中で信長がなし得たのはなぜでしょうか?信長でなくてもよかったのでしょうか?

信長と戦国大名
桐野
小池直行さん

いや、信長の天下取りの成功要因でしたか。
これはこの欄では本文からもはずれますし、難しすぎるテーマですね。

それでも少し触れますと、近年の研究では、戦国大名の領国支配を従来より高く評価する傾向があり、よって、戦国大名と織豊政権の段階差をより小さく見ようとしているようです。
つまり、戦国大名と信長はそれほど変わらないのではないかという議論になりますね。
それなら、なぜ信長だけが上洛できて天下取りができたのかということになりますが、地理的条件がかなり大きいのと、他の戦国大名との差別化、とくに鉄砲などの軍事面や経済流通面などで優れていたのではないでしょうか。
来月中旬、信長と本能寺の変について拙著を刊行する予定ですが、信長と他の戦国大名との関係についても触れていますので、よかったら読んで下さい。

ありがとうございました
小池
そう簡単には答えの出ない問題とは思いますが、ご丁寧なご回答ありがとうございます、御紹介の本(?)是非読ませていただきたいと思います、頼朝に始まった武家政権が信長-家康によってやっと完成したような(又は末期に入ったか)気もしていたのですが

桐野さんの最新作
香港の読者
はじめまして、私は香港の読者で、胡と申します。桐野さんの御著作を拝読しました。「真説.本能寺」や「真説.関が原」など、感心しました。特に「真説.本能寺」は本能寺の変に関する謎を解明したと思っています。だから、さんの最新作を楽しみにしております。

どころで、信長の朝廷政策について、調和ですか、対立ですか。具体的な内容は何でしょうか。教えていただきたきたいと思います。

公武協調
桐野
香港の読者、胡さん、はじめまして。

わざわざ香港からのコメント、有難うございます。
また私の本を読んでいただき、光栄です。

信長の朝廷対策ですが、表題のように、公武協調、公武一体が基調だと思います。
その論証は長くなるので、この欄では尽くせませんが、一言でいえば、信長と朝廷は別個の性格の異なる権威だからで、お互いがお互いを必要としたということです。

また、信長にとって、朝廷を打倒したり消滅させても、何のメリットもありません。また朝廷からとくに奪い取るほどのものもありません。官位叙任にしても、年号制定権にしても、暦の問題にしても、朝廷の権限(天皇大権という人もいますが)を所与の前提として理想的な形で存在すると想定すること自体、非歴史的です。
これらの権限はすでに形骸化しており、武家の補完や協力なしでは機能しません。かといって、武家がこれらをあえて奪い取るほどの価値があるものでもありません。

具体的に見ても、左大臣推任、馬揃え、三職推任、二度の譲位問題、そのいずれにおいても、公武交渉は協調的です。朝廷は信長の意を迎えようとしてますし、信長もまた朝廷に気を遣っています。

たとえば、馬揃えは信長が朝廷を武力で威圧するものだったという研究者がいますが、威圧する程度なら、ほかにもいろいろ手段があり、わざわざ馬揃えをするほどのものではありません。そもそも、安土で開かれていた馬揃えが面白いという評判を聞いた朝廷がぜひ見てみたいと伝えたので、それならばと信長が見せてあげたわけで、信長の朝廷への気遣いこそあれ、威圧とするのは見当違いだと思います。本当に威圧する気があるなら、数万の大軍を入京させて京都御所を囲めばいいんです。そんなことをする理由が信長にはなかったから、しなかっただけですね。

信長のイメージが先行しているせいもあるのですが、公武対立だった、信長は朝廷を滅ぼそうとしていたというのはどう考えてもありえないですね。
朝廷は信長に敵対していないし、朝廷を滅ぼしたからといって、信長には何のメリットもありません。

なお、三月中旬に本能寺の変について書いた新書が刊行される予定です。香港で入手できるのかどうかわかりませんが、もし入手できるようなら、読んでいただければうれしいです。前著「真説本能寺」での主張をさらに発展させ、光秀の新しい書状なども盛り込んでいます。



有難うございました
ご丁寧なご回答ありがとうございました。
本能寺の変の焦点は「三職推任」であろう。「誰が三職を推任したんですか」と、近年、日本の史学界は朝廷や信長、または村井貞勝の勇み足と提示されている。おそらく、立花京子氏の論説に大きな影響を受けるだろう。

でも、私の考えでは、どっちが提案しても、明智光秀の謀反と無関係だと思います。なぜなら、朝廷がどうやって光秀を連絡するかと、朝廷黒幕説は説明してない。

「平氏将軍打倒説」では、史料から見ると、そのときの信長は将軍就任の意思が見えないし、そのときの義昭はまだ「征夷大将軍」として備中で滞在中からです。もし信長は将軍になりたければ、まず朝廷に義昭の将軍名義を取り消させるのではないでしょうか。

一方、藤田達生氏が提唱する足利義昭黒幕説も納得できないと思います。一言といえば、義昭は信長を倒したがってでも、以前一度自分を背いた光秀が信用できるかが疑問である。

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遅ればせながら、日曜日の大河ドラマの感想をば。

花倉の乱がメインで描かれたが、勘助については依然、創作部分がつづいているので、とくに特記すべきことはない。勘助が晴信に仕えるまで、まだ数回を要しそうで、勘助は反武田勢力を渡り歩くことになるようだ。
原作も、晴信に仕える前は端折ってあるので、こういう展開もありだろう。ただし、判明している史実との整合性さえ担保できていればの話だが。
ともあれ、脚本家は、勘助を「学習する人」「試行錯誤の人」として描くようで、超人的な万能の軍師として描かない点は好感がもてる。

それで、今回注目したのは表題にもあるように、晴信の夫人となる三条氏のことである。ドラマでは、ちゃんと転法輪三条氏(てんぽうりん~)と正確に呼ばせていた。朝廷の女官の日記『御湯殿の上の日記』では、「てんほり」「てほり」と呼ばれてよく出てくる。ともかく、発音しにくい名字なのはたしかだ(笑)。

転法輪三条氏は閑院流藤原氏の嫡流で、摂関家に次ぐ清華家(せいがけ)の家柄。清華家もちゃんと正確に発音していたな(笑)。なお、清華家は摂政関白にはなれないが、太政大臣を極官(ごくかん、最上位)とする。
なお、転法輪とは仏教用語である。仏が衆生の煩悩を破り、悟りへと導く説法を意味する。なぜ、こんな仏語が冠せられたのか、不勉強で知らない。
このように、上流公家なので、歴代当主には太政大臣や諸大臣をつとめた者が多い。時代は下るが、幕末の公家、三条実美もこの転法輪三条家である。明治になってからだが、実美は太政大臣をつとめた。ここにも公家の家格制がまだ生きていたようだ(王政復古で関白は廃止されたから成れるはずもないが)。

で、晴信の頃の当主は、三条公頼(きんより、1495-1551)である。晴信が元服した天文五年(1536)の時点で、従二位権大納言だった。この人は地方(越前など)に在国していることが多かったが、天文20年(1551)、周防国で殺害されている。左大臣まで昇った公家にしては非業の最期だといえよう。

三条公頼には三女があり、長女が管領細川勝元に、二女が晴信に、三女が本願寺顕如に、それぞれ嫁いでいる。のちに晴信が反信長戦線の中心となったとき、本願寺と同盟を結んだのも、夫人同士が姉妹だった縁による。

このあたりまではよく知られているが、じつは晴信夫人と顕如夫人は公頼の実子ではないという説がある。
『阿波国徴古雑抄』に収録されている「那賀郡櫛淵村細川夏治所蔵文書」のなかに次のような一節がある。

「細川六郎持隆に女子二人御座候、一女は武田信玄公の御簾中、一女は本願寺門跡教如上人の奥方にて御座候、右両人共に西三条前右大臣逍遙院の養女に成り候ひて嫁ぎ申し候、[三条家へは、細川家より由緒有之候]」

顕如を息子の教如としたり、西三条としたりと、一部不正確な点があるが、なかなか興味深い内容である。
細川六郎持隆とは、細川京兆家の分家、阿波守護家の当主で、のちに三好実休に殺害される人物。史料の所蔵先が持隆の地元、阿波国で、しかも、阿波守護家の末裔と思われる家だけに、かなり信憑性が高い説ではないかと思っている。
また、甲斐守護とはいえ、武田家は所詮、東国の田舎武家であり、清華家の娘が嫁ぐというのは常識的に考えにくい。強く乞われたために、養女にして嫁がせたというのは十分ありえるだろう。しかも、阿波守護家の娘なら、同じ清和源氏の武田家とも釣り合いが取れる。

ともあれ、信虎は、晴信の元服に際して、叙爵と左京大夫の官途、さらに清華家の三条氏の姫を正室に迎えるなど、至れり尽くせりであり、晴信を冷遇していたとはとても思えないのだが……。
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ゴンザの露薩語講座」第12回です。
前回出題分「チェップンコダゴ」。二回ヒントを出しましたけど、難しかったようですね。正解は「鉄砲の玉(弾丸)」のことです。
チェップンコダゴ」を分解すると、「チェップ(テップ=鉄砲)」+「(の)」+「コダゴ(小団子)」となります。鉄砲の小団子ですから、鉄砲の玉という意味ですね。ばんないさんもきなみんさんも惜しかったですね。かすってはいますが、正解ではありませんでした。
余談ですが、慶長五年(1600)、関ヶ原合戦ののち、西軍に属した島津氏に対して、東軍方の加藤清正や黒田如水が国境まで攻めてきます。そのとき、北薩で加藤清正に相対していた島津方では「肥後の加藤が来るならば 焔硝肴に団子(ダゴ)会釈 それでもきかずに来るならば 首に刀の引出物」という戯れ歌を歌ったそうです。このなかに出てくる「団子(ダゴ)」が焔硝(火薬)とのからみで、弾丸を意味します。

第12問:ヤキモチ

ヒント:嫉妬ではありません。

【2007/02/08 00:24】 | 風林火山
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きなみん
ヤキモチ → 焼き餅 → ピロシキ
でどうだ(笑)餅じゃないけど。


まいたけ君

 ヤキモチ → パン

 わたしも、きなみん坊と同じように考えましたが、ピロシキは揚げますので、単に「パン」ではないかと、、、、、

ちょっとワンテンポ遅れてしまいましたが
ばんない
三条夫人は養女説があるのですか。
細川ガラシャも光秀の実子ではなくて養女という説があるそうですね。

戦国大名の妻になった公家の女性といえば
・大内義隆の妻(万里小路秀房女)
・今川氏親の妻(寿桂尼、中御門宣胤女)
・朝倉義景の妻(近衛稙家女)
あたりが有名でしょうか。
まあ、大内、今川あたりは一般的に「公家化した大名」なんてありがたくないレッテルを貼られていますし、朝倉は比較的京に近いところの大名ですが。

キリシタン大名で有名な大友宗麟の母も公家という説もありますが、この人に関してはこのあたりのよい史料がないようで定説がないみたいですね。


朝倉義景夫人
桐野
ばんないさん、どうも。

三条夫人の養女説、信憑性があるのではないかと思っています。

挙げていただいた戦国大名の夫人ですが、大内、今川の二人はいずれも勧修寺流の堂上公家ですが、ともに名家(めいけ、文官系)で、清華家より家格は落ちます。
ちなみに、『宮廷公家系図集覧』によれば、寿桂尼は「今川氏親妾」となっていて、正室扱いではないですね。このあたりはどうなんでしょうか?

また、朝倉義景夫人が近衛稙家の女ということですが、上記集覧には記載がありません。稙家の女は将軍義輝の御台所でもありますから、朝倉氏が将軍夫人と同格の夫人を迎えるというのは少し考えにくいですね。


戦国大名の公家人脈
板倉丈浩
ばんないさん、桐野さん、横レス失礼します。

大友宗麟(1530-1587)の母は伏見宮貞常親王(1474没)の王女とされていますが、いくらなんでも時代が離れすぎですね(笑)
今川については、氏親の姉が正親町三条実望に嫁いでいますから、公家人脈はもともと強かったのではないかと思います。
ご指摘の他には、近衛稙家の姉(尚通の娘)が北条氏綱に嫁いでいますね。これは『為和集』に「氏綱女中は近衛殿、関白殿御姉」とあり、間違いなさそうです。どうやら後室のようで、有名な氏康の母ではないようですが。

戦国時代後期は武士の地位が(形式的な面でも)相当向上していたようですので、武田氏くらいの名門になると、転法輪三条氏クラスの娘を迎えるのにそれほど苦労はしなかったのかもしれません。


朝倉義景夫人
ばんない
これが史料だ!…というのを出せればいいのですが、実は私も『朝倉義景』(吉川弘文館 人物叢書)と『戦国の流浪貴族・近衛前久』(中公新書)の受け売りなんです。

寿桂尼が側室ですか…そうだとすれば、今川氏親は別に公家の名家以上の身分の女性が正室にいないとおかしいことになるかと思いますが…。

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久しぶりに島津の話題でも。

いつぞや、どこかのサイトで島津義久には三番目の夫人がいたのではないかという記事を見たことがある。『旧記雑録後編二』に収録された史料に「奥様」とか「御料[米+斤]仁様」(御料人様か)という文言が出てくるのがそうではないかというのだ。

これは天正16年(1588)の出来事だから、義久の二番目の夫人はとっくに亡くなっている。もっとも、これらの言葉は義久の第三夫人だけでなく、亀寿や義弘夫人広瀬氏などを指す可能性もあるので、断定はできないのではないかと思っていた。

先日のブログで、ばんないさんに義久の二女(玉か)の名前についていろいろ教えてもらったとき、「新城島津家文書」(『旧記雑録拾遺』家わけ十所収)を見ていたところ、もしかして義久にとって、事実上の三番目の夫人ではないかという人物の消息があった。

ちなみに、義久の最初の夫人は島津日新斎の末娘(義久の叔母)で、永禄2年(1559)に没している。
二番目の夫人は種子島時尭の娘(義久の従姉妹)で、元亀3年(1572)に没している。彼女が玉?と亀寿の生母である。

二番目の夫人が亡くなったとき、義久はまだ40歳だったから、三番目の夫人を迎えても決しておかしくない。しかし、『島津氏正統系図』をはじめ、主な島津氏関係の系譜には一切その形跡がない。
理由ははっきりしていると思う。義久は天正15年(1587)、豊臣秀吉に降伏したとき、出家して龍伯と名乗っている。それ以来、還俗していない。つまり、法体だから正式の夫人を迎えることができないだけのことだろう。だから、公式記録に残らなかったと考えられる。

上で述べた「新城島津家文書」(東大史料編纂所本)のなかに、「一之臺」という女性の消息が2点収められている。
とくに1号文書は、義久二女玉?の息子久信(忠仍)に宛てたもので、「御前」こと義久の動静も書かれている。久信は義久が女婿の忠恒(のち家久)に代えて家督を継がせようとしたとされる人物で、義久が非常に目をかけていた孫である。
消息の中で、「一之臺」は在京中の久信に国許の垂水の様子を知らせ、久信の「御曹子」(久敏か)の様子まで触れている。
消息は慶長年間(徳川幕府成立以後)だと思われ、久信の祖父以久も没していることから、久信が当時、垂水島津家の当主だった。垂水と義久の隠居城の国分はすぐ近くである。「一之臺」が義久に代わって、孫に等しい久信を甲斐甲斐しく気遣った消息だと考えられないだろうか。
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ゴンザの露薩語講座」第11回です。
前回出題分「クチスコト」は口を吸うこと、キスのことですが、ゴンザは「恋とか熱愛」の意味で使っているようです。ゴンザにとって、ロシア人の人目も憚らぬラブラブぶりはさぞや驚きだったことでしょうね。まあ、「キス」でもほぼ正解としましょう。
マロンハットさん、きなみんさん、吉田松陰大好きさん、ゆうたろうさんは正解です。水戸っぽさんと岐阜少将さんはおしかったですね。

第11問:チェップンコダゴ

難しいからヒントです。武器の一種です。
よほど難しいのか、想像力を刺激しない語感なのか。再ヒントです。
「チェップン」はどちらかといえば、「テップン」としたほうがわかりやすいです。

【2007/02/05 00:52】 | 戦国島津
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一之臺
ばんない
「一之臺」は、「種子島家譜」の”種子島時尭”の項目で義久後妻のお付きとして付いていった女中の1人の名前として出ていますね。
奥向きで重役を担っていたことは、桐野様も書かれたとおりで事実だと思います。ただ、これだけでは、義久の3番目の妻だったかどうかまでは確定できないのではないかと、私は考えています。一之臺はあの春日局のような役割を果たしていたのではないかとも思えます。

「チェップンコダゴ」…手榴弾でしょうか。根拠は全くなく、山勘です(^^;)(あの時代に手榴弾ってあったのかな?)


きなみん
チェップンコダゴ → 鉄粉小団子 → 散弾銃
ってのはそんな時代にあるはずもなく(苦笑)
でもやっぱりこの字しか思い浮かばない...
チェップンコダゴ → 鉄粉小団子 → 打ち上げ花火
ってそんな単語も知らないのか?>ゴンザ


一之臺
桐野
ばんないさま

コメント遅れてすみません。

『種子島家譜』見てみました。
たしかに種子島時尭の娘の項目に出てきますね。それによれば、一之臺は「国上氏女」となっています。
『鹿児島県姓氏家系大辞典』によれば、種子島北部(西之表市)に国上という地名があるようですね。
また種子島氏10代幡時の弟時里が国上氏を名乗ったとありますから、種子島氏一門で、のち家臣化したようですね。時尭が14代当主ですから、4代前の庶流になりますか。

一之臺は義久夫人種子島氏の死後も種子島に帰らないで、義久のそば近くに仕えたのはたしかなようですが、だからといって、側室になったかどうかまではわかりませんね。

ご教示有難うございました。


佐多
義久公の二女新城様の名前が垂水市史料集に記載されていました。御家譜の後に略譜のようなものがあり、その中の島津大和守久章の項に『大和殿御息又助(忠清)殿御事は御懐様龍伯様御姫様にて御さや様と申候 御けしゃうでん千石迄~』とあります。
それにしても、家久公から光久公の代は権力統制(強化)の為にものすごい勢いで一族を粛清していた事が調べると出てきますね。悲しいかな垂水家は忠将公(以久公)の血統は断絶してしまっています。

「御さや様」
桐野
佐多さん、はじめまして。

島津義久二女の名前を教えていただき、有難うございました。
「御さや様」というんですね。
「お玉」ではなかったようです。

私も垂水市史料集で確認してみたいと思います。
取り急ぎ御礼まで。


佐多
どうも読み返すとしっくりこない文面ではありますね。又助殿の母は太守家久公の息女であり、久章公の母は側室の池田氏です。久章公が祖母である新城様の遺領を相続しているので誰の御袋様のことを言っているのかわからないですね。しかし龍伯様御姫様とありますのであっているんだろうなとは思っています。
久章公の室はすぐに死去されたのでしょうかね?
(後追いの自刃ではないかとの噂もあります)
諸氏系譜や垂水島津家譜にも記載無しです。

久章夫人
桐野
佐多さん、どうも。

忠将流といいますか、新城島津家には私もとても興味がありますが、いかんせん、いわくつきの家だけに史料が少ないようですね。

久章夫人は太守家久の妹ですよね。『島津氏正統系図』によれば、没年は正保2年(1645)5月10日です。夫久章は同年12月11日斬殺ですから、夫人はその半年前に他界していますね。
とはいえ、同年に夫婦とも亡くなっていることは、何か因縁がありそうですね。


佐多
桐野様、ご回答ありがとうございます。
そうですか、先に没していましたか。それで何の憂いも無くなったのであのような事になったのでしょうね。
新城家は後代に末川氏に改姓したようで、御子孫は都城市に居住されているようです。私の住む県にも薩州家庶流と永吉家に関連する島津姓の方々が住んでいらっしゃいます。一度もお会いしていませんが。

いまさらですが
ばんない
古い記事へのコメントで申し訳ありません。
別件で調べ物をしていて、史料を読み直してみると確かに義久の晩年に「一臺」という女性が関わっていたことが判明しました。詳しくはURL欄参照下さい。
年代から見ると、どうも私が指摘した国上時通の娘
http://www.realintegrity.net/~shimadzu/ku/kunikami-tokimichi-musume.htm
とは同名の別人の可能性が高そうです。

一臺
桐野
ばんないさん、こんばんは。

面白い知見、有難うございます。
義久の第三夫人の可能性があるとのこと。

ただ、「一臺」が複数いて、しかも同時期ではないようですから、島津本宗家の奥向きの女房衆の仮名(けみょう)のひとつだった可能性がありますね。
たとえば、春日局といえば、江戸時代初期のあの人をすぐ思い出しますが、じつは足利将軍家の奥向きにも代々、春日局がいました。将軍の女房衆では比較的身分の高い人です。

一臺もそうした代々の世襲名の女房衆だった可能性がありますね。
もっとも、義久のお手つきだった可能性は排除できません。ただ、正室、継室とまでいえたかどうか。とくに種子島氏の家来筋の女性なら、家柄的に正室・継室は難しいかもしれませんね。

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吉川弘文館から出版案内が送られてきた。

そのなかで興味があるのは、『日本古代中世人名辞典』『日本近世辞典』『日本近現代人名辞典』である。各冊21.000円、三冊で63.000円と、まことにいい値段である(笑)。

惹句で「卑弥呼から小泉純一郎まで」とうたっているけれど、こちらの関心のある時代と人物がものの見事に三冊に分かれてしまっている。

これは偶然ではなく、おそらく同社の「戦略」だろうか。たとえば、古代中世には信長・千利休・細川ガラシャ、近世には秀吉から坂本龍馬まで。近現代には吉田松陰・西郷隆盛がいるという具合。
信長と秀吉を中世と近世に分けるのもよくわからない。坂本龍馬が近世なのに、吉田松陰と西郷隆盛が何で近現代なの? と疑問は尽きない。現物を見ていないので何ともいえないが、もしかしたら双方で重複して立項してある可能性もあるだろうけれど。

もうひとつの不安点は、刊行し終わった国史大辞典との関係である。同辞典に収録された項目のうち、新たに人物だけを抽出して編集し直したのではないのかという疑問である。

同社にはこうした体裁で刊行された事典がある。05年に刊行された『戦国武将合戦事典』がまさにそれで、国史大辞典から武将と合戦を抜き出して再編集したものだった。新しい情報がほとんど含まれておらず、国史大辞典を所有しておれば、事足りるものだった。もっとも、国史大辞典全巻をもっている人はそんなにいないだろうから、戦国武将と合戦に特化した辞典が比較的安価で入手できるわけだから、需要はあると思われるし、それなりに意義あることだろう。
序文に国史大辞典の再編集だと明記してあったから、それを知らずに買ったこちとらの調査不足が悪いのである。この事典は定価8.000円だったが、今回はその数倍する辞典だから、中身を吟味してからじゃないと手が出せない感じである。
もしすでにチェックされた方がおいでなら、情報をお寄せ下さい。

むろん、同社はいい本もたくさん出している。また国史大辞典は戦後の日本史学界でも金字塔といえる業績であることは否定しない。それに注ぎ込まれた膨大な人員・資金・時間を考えたら、なるべく投資分を回収するために、一粒で何度かおいしいビジネスをしたい気持ちもわからないではない。
まあ、そういうことは出版案内に載るはずもないから、こちとらが賢くなって判断すればよいだけのことである。
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ゴンザの露薩語講座」第10回です。もう10回目なんですね。
前回出題分「ボズ」ですが、正解はボズ・スキャッグス、ではなくて「司祭」です。「司教」でもかまいません。ボズ→坊主→司祭という連想で、ご指摘のとおりです。
ゴンザは、ロシア正教会について、その神を「フォドケ(仏)」、教会トップの総主教を「オショ(和尚)」、司祭や僧侶一般を「ボズ」、寺男は「コズ(小僧)」という階層的な理解になっていたようです。
水戸っぽさんもきなみんさんも正解です。ヒントでわかりやすかったかもしれないですね。次回はちょっと難しくして、ヒントもなしです。

第10問:クチスコト

【2007/02/02 16:17】 | 新刊
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マロンハット
前回、前々回と乗り遅れてしまいましたが…

クチスコト→口でする事→接吻→挨拶
もしくわ、
クチスコト→朽ちる事→死去→葬式
でしょうか。う~んむずかしい。

戦国驍将・知将・奇将伝の表紙は関ヶ原の島津軍だったのですね!今気が付きました。豊久公かっこいい!



水戸っぽ
「クチスコト」→口にすること→食事
具体的な料理名までに展開させるのはちょっと考え過ぎ
かという気がするので、ここまでに。


きなみん
おそらくですが
クチスコト→口吸うこと→接吻
じゃないですかね?


吉田松陰大好き
まさに戦略と思える本ですね。何故、龍馬より7年も前に亡くなった吉田松陰が近現代なの?疑問は尽きませんね。哲学的に吉田松陰と西郷隆盛はくっついてもおかしくないと思いますが、変! ゴンザクイズはきなみんさんに【1000点!】

訂正
吉田松陰大好き
松陰は龍馬より8年前に亡くなってます。哲学系で西郷と同類と言いたかったのです。【ありえない薩摩黒幕説】にコメントしてるので、是非否定をお願い致します。


岐阜少将
「クチスコト」→「食事」

ではないかと。パッとに口に糊するという言葉が浮かんだもので。

国史大辞典の再編集といえば、たしか同書の月報(何号かは忘れましたが)で、国史大辞典の内容を凝縮した『国史中辞典』を出して欲しい、というようなことを書いていた方がいたと思います。
同じ再編集ならばこれが一番需要があるような気がしますし、手元にあれば便利だろうと昔から思っているのですが。


ゆうたろう
お久しぶりです~。
「クチスコト」口吸う事、でキスかな?ロシアだから、マロンハットさんの言うように挨拶のことかもしれないですね。
ロシア人の挨拶キッスは強烈だと聞いたことがありますが実際はどうなんでしょう。


小池直行
吾妻鏡の完訳本が出るみたいです。今まであった全訳吾妻鏡というのは、漢文の読み下しレベルで文の意味をつかむのが難しいです。実朝暗殺の勝手な解釈しました

吾妻鏡
桐野
小池直行さん

情報有難うございます。
吾妻鏡の原文はたしかに難しいですね。その意味では完訳本が出るのは有難いことですが、「完訳」と銘打っても、100%というのはないと思いますので、原文のものも座右に置いて対照する場合があるでしょうね。

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