最近、古書で入手したものである。
いい値段だったので、分厚い伝記かと思っていたが、120頁足らずの小冊子だった(笑)。でも、未見の文書が収録され、内容も面白いので、それなりに納得している。
著者は中原の子と孫である。
『贈正五位中原猶介事績稿』
中原尚徳・尚臣著
1929年刊
私家版
中原猶介といっても、知る人はほとんどいないかもしれない。
幕末の薩摩藩士である。生没年1832-68。
西郷隆盛より五歳、大久保利通より二歳年下で、同時代の人物である。
中原は薩摩藩の集成館事業の中心に位置し、また江川坦庵塾の塾頭を務めるなど、優れた科学者(化学・蘭学・造船・電気・硝子など)であり、砲術家でもあった。
弱冠十七歳にして、藩主斉興のお庭方として出仕し、斉彬時代には、反射炉建設、造船所建設、昇平丸建造などに才能を発揮している。また水雷・地雷の発明にも関わり、薩摩切子として知られる紅硝子などの発明にも中原の働きが大きいという。
さらに安政二年(1855)には、鹿児島城内の本丸休息所と二の丸花園までの、およそ500メートルの間に電線を架設して電信実験に成功している。情報の重要性を知り抜いていた島津斉彬は鹿児島と江戸藩邸の間に電線を敷設するための調査まで命じていたという逸話さえ残っている。
中原はまた優れた軍人でもあった。とくに砲術の専門家だった。
元治元年(1864)7月、禁門の変では、中原は軍賦役兼大砲隊長を拝命している。このときの軍賦役はほかに西郷吉之助と伊地知正治だから、中原の地位の高さがうかがえる。
戦闘では、中立売門で攻勢をかける長州藩兵に対して、中原の砲隊が後方から葡萄弾(炸裂弾の一種か)を浴びせたため、猛将来島又兵衛が討死し、長州勢は敗走のやむなきに至った。戦後、中原は功績を称えられて、感状と陣羽織・佩刀を授与されている。
戊辰戦争でも大いに活躍している。
鳥羽伏見の戦いでは、中原は薩州一番砲隊を率いて伏見口に陣した。麾下は四斤半施条砲三門である(配下の右半隊三門は鳥羽口に分派)。数は少ないが、高性能の大砲だった。
中原らは伏見奉行所の旧幕軍(会津藩、新選組など)とわずか100メートルくらいの距離でにらみ合う。戦端が開かれたのは一月三日夕刻だった。
その模様を、中原の「御届書」から見てみよう。
「賊敵俄に拙者警備口の奉行所柵門押開き、人数約四大隊、騎馬四五人、先鋒は会兵、新撰組と相見へ、銃砲剣槍相携へ早や三四十間の所まで押逼り候間、予て装弾致置候大砲三挺より霰弾二発、榴弾一発発射し、続て小銃を連発致候処、此の勢に避易致候はん、柵門涯一丁余の処まで後しざりに退却、それより柵門口へ畳数十畳立て併べ、互に大小砲銃を寸隙もなく打合、少時味方の砲声相緩み候節は、会兵、新撰組と相見へるもの抜剣にて駈出し、間隔三四十間の処まで、度々進撃致候儀も有之候へ共、味方の勇士飯牟礼喜之助、讃良清蔵、肥後平八、入江直次郎、児玉覚之丞等粉骨砕身よく相働き撃退致候」
会津藩兵や新選組の接近戦を大小の銃砲火で撃退した様子がよくわかる。
その後、中原は海軍参謀、次いで参謀に任ぜられ、北陸征討軍に加わる。
北越の地では、長岡藩家老、河井継之助らと対峙した。
中原は軍議で、7月25日の進撃を表面上決定しておき、じつは24日夜半の奇襲攻撃をするよう提案したが認められず、25日未明の進撃に決した。
ところが、河井らが機先を制して、24日深夜に長岡城奪還の奇襲攻撃をかけてきた。
中原は砲隊を率いて奮戦したが、右膝頭に銃弾を受けてその場に倒れた。
のちに柏崎の野戦病院に収容されたが、戦友や医者たちの勧告にもかかわらず、一切の手当てを拒否して、8月7日、長岡城再奪還の吉報を聞きながら他界したという。享年37歳。
辞世は、
よしや身は越路の雪にうづむとも
とくる清水に名をや流さむ
中原がそのまま存命ならば、薩摩藩では西郷・大久保に次ぐ地位を占めたのは間違いないだろうと思われる。惜しまれる早死だったゆえに、その名前や足跡が忘却されているのは残念である。
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「ゴンザの露薩語講座」第16回。
前回出題分:「カキ」ですが、なかなか応募がなかったですね。簡単すぎてどんなひねりなのか連想するのが大変だったでしょうか。正解は「リンゴ」です。
元さんはじつにお見事でした。ご推察のとおりです。ゴンザはリンゴを見たことがなく、鹿児島で見られるカキ(柿)にたとえたのだと思います。う〜ん、ゴンザ辞書、あまり実用的じゃないですね(笑)。
きなみんさんは連想しすぎて収拾つかなくなったみたいですね。吉田松陰大好きさんの「夏期」→「冬期」も面白いですね。
突然のお知らせです。
ご好評をいただいた講座ですが、ちょっとネタ切れになりましたので、しばらくお休みしたいと思います。参加していただいた方々、有難うございました。