歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
中華帝国の構造

1994年にサントリー学芸賞を受賞した作品
著者は黒田明伸氏。

コメント欄で、かわとさんに戦国期から織豊期において、鐚銭=ビタが決して悪貨ではなく、むしろ金銀に対して相場が上がっていたことを教えてもらった。

そのことで思い出したのがこの本である。古書で意外と安く買えた(笑)。
この本には、わが国の戦国期から織豊期にかけて、なぜ貫高制が石高制へと転換されたのかという、以前から気になっていた問題を、中国を中心とした東アジア世界の動きから解き起こしている。
むろん、表題のほうが主題であり、日本の問題がそれほど触れられているわけではないので、いまはまだ拾い読みの状態。

16世紀前半、メキシコや日本の銀が大量に明国に流入し、同国は銀経済となり、銅銭の鋳造が減少した。そのため、それまで日本に大量に輸出されていた銅銭も1570年代にはほとんど流入が停止したと黒田氏はいう(127頁)。まさに貫高制から石高制の転換期にあたる。

そのことから、日本では2つの大きな社会・経済現象が起きた。
ひとつは、鐚銭問題の深刻化である。輸入銭の供給量が極端に減ったので、鐚銭が横行したというわけである。

もうひとつは、そのような銭経済下で、折から織豊期に入り、各地で検地が実施されるようになると、収租額を銭価で表示できなくなり、より確実な価値をもつ米穀に依拠せざるをえなくなって石高制を成立させたというのである。

私も、関東を中心として展開した貫高制のほうが石高制よりも合理的ではないかとひそかに思っていたが、やはり統一権力の強制力が石高制を強引に成立させたのかという程度で思考停止していた。

このように、東アジアの視点から近世社会の指標のひとつである石高制の成立を考えるというのは新鮮な驚きだった。

しかし、かわとさんの御説を知って、さらに思考は反転した。
輸入銭がなくても私鋳銭・模鋳銭というわが国独自の銭貨鋳造が予想以上に普及していたのではないかというのだ。
わが国の本格的・大衆的な貨幣鋳造は寛永通宝が最初だとばかり思っていたが、まさにこれこそ官製的思考だったかもしれない。
織豊期社会において、輸入銭に頼らない下からの銭貨鋳造が本格的に行われていたとすれば、貨幣は上から押しつけられるものという「常識」を疑ってかかる必要がありそうだ。

そして別の疑問も派生する。
まず、私鋳銭や模鋳銭を鋳造していた主体はどういう階層・勢力なのだろうかという点。また銭貨鋳造に統一権力、大名権力など総じて領主側はどの程度関与していたのか。

次に、銭貨鋳造がなお盛んであったなら、貫高制から石高制への移行を結局説明できなくなるのではないのか? あるいは関東で貫高のことを永高(永楽銭換算)ともいったことから、貫高はやはり精銭の存在が前提だったのか。それならば、マクロ的には黒田理論はなお有効なのだろうか。

現状で黒田理論がどのように評価されているのか、あるいは乗り越えられようとしているのか、研究状況をよく知らないが、日本の中近世移行期では、より具体的に再検討する必要があるということだろう。
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【2007/03/30 00:01】 | 古書
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私鋳銭の鋳造主体
かわと
この記事へのコメントは、後日私のブログからのトラックバックの形でさせていただきます。しばらくお待ち下さい。

一点だけ私鋳銭・模鋳銭の鋳造主体ですが、明確にはわかりません(笑)。
鋳型が堺で出土しているので、堺商人が関与しているのはほぼ確実です。私もほかに大名権力が絡んだ可能性もおそらくあると思っているのですが、いかんせん証拠が出ないもんで…。

16世紀後半頃のものとして著名なものに大隅加治木で鋳造された「加治木銭」がありますが、これも果たしてどのような背景で鋳造されたものかは、実はわかっていません。私は島津氏が関与してないかなぁ…なんて思ったりもするんですが。

私鋳銭
桐野
かわとさん、こんばんは。

わざわざ貴ブログで書いて下さるとのこと。かえって申し訳ないです。結果として回答を催促してしまったみたいで。

日本国内で私鋳銭が盛んにつくられるようになったとのことですが、中国江南地方でも、日本への輸出用に私鋳銭がわざわざつくられたというのを何かでみた覚えがあります。もしかしてかわとさんのブログだったか? 確実な需要があるのですから、十分ありえそうなことですね。

加治木銭については、前にも少し教えてもらったような。大隅正八幡宮の社家が関わっていたというのは違いましたっけ? あれは別の話題だったかな? 『旧記雑録』など、気をつけてみてみたいと思います。



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イベントの案内です。
遠方だし、すぐ忘れるので備忘かたがたご紹介します。

表題の展示が、4月14日から米沢市上杉博物館で開催されるようです。
詳しくは、ここへ

図録は刊行されるのでしょうか。
相当力の入った展示のようですから、新史料などがあればうれしいです。

【2007/03/29 12:28】 | 戦国織豊
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ご無沙汰してます
市野澤
一冊1500円・送料340円です。
今月、吉川弘文館から谷口克広氏の『検証本能寺の変』発売ですね。

お久しぶりです
桐野
市野澤さん、お久しぶりです。

直江図録の情報、有難うございました。
展示会に行かれる予定なのでしょうか?

谷口さんの著作、たしかにそろそろですね。見本はもう送られてきたとご本人は仰せでした。だいたい内容は承知しておりますが、楽しみです。

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拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)のなかで、さっそく、うっかりした点を発見してしまった(苦笑)。

山城愛宕郡高野の豪族で佐竹出羽守という人がいるが、彼は比叡山延暦寺の焼き討ち後、光秀の配下の与力となった(姉妹の一人は吉田兼見夫人)。
その佐竹が元亀年間に、光秀とトラブルを起こしたことがある(拙著190頁)。その原因を光秀との寄親・与力関係か知行問題だろうと推定した。

そう書きながら、頭に何か引っかかりを感じていた。それが今日はっきりわかった。ちゃんと原因を書いた論文を見つけたのである。しかも、信長関係では基本的に押さえておくべき主要論文のひとつだった……。それは、

染谷光廣「織田政権と足利義昭の奉公衆・奉行衆との関係について」 『織田政権の研究』 吉川弘文館 1985年

追放された将軍義昭の奉公衆・奉行衆の多くが織田権力に取り込まれ、なかでも光秀の配下になった者が相当数いたことが書かれている。一昔前には何度も参照した論文である。

いかん、頭ですっかり消しゴムが働いている……。

で、染谷論文には、その原因を「山城光源院領の儀」と、もうひとつ「二十日銭」などの利権をめぐって、光秀と係争したとあった。

そう、頭に引っかかっていたのは、消しゴムがわずかに消し忘れたこの部分だったのだ。

ところで、「二十日銭」って何だろうか? 読みは「はつかせん」でいいのだろうか? 地子銭? 通行税?
日国(小学館『日本国語大辞典』)で引いてみたが、「はつかせん」では立項されていない。
問題がひとつ解決したと思ったら、また別の問題が派生してしまった(爆)。


【2007/03/26 23:28】 | 信長
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NHK大河「風林火山」第13回。

いよいよ勘助が武田家に仕官することになった。
しかし、板垣信方を駿河に行かせてからの成り行きは、勘助よりも脚本家が策に溺れて破綻しているように感じられたけど、それはさておいて。

気になったのは、勘助が晴信に対面したとき、晴信から「我が一字を与え、山本勘助晴幸と名乗るように」と告げた場面。
これに対して、板垣が将軍足利義晴からいただいた一字を与えるのはいかがなものかと諫言する。まことにもっともだ。
ところが、晴信はその直前に「諫言してもダメなら、自分の首をすげ替えよ」と言っていたくせに、その舌の根も乾かぬうちに、その誓いを翻す。食言も甚だしい。

板垣が諫めたように、将軍の一字を家来、それも正体不明の新参に与えるというのは常軌を逸しているし、当時の主従儀礼に鑑みてもおかしすぎる。
晴信から一字もらった家来は馬場信春はじめ多数いるが、みな「信」の字で、「晴」の字は誰一人としていない。

あと、年代がおかしいのは、諏訪頼重に嫁いだ禰々の没年である。
「武田系図」(『群書系図部集』第三)によれば、禰々の没年月日は天文12年正月19日である。
これに対して、勘助は同じく天文12年3月に、板垣信方に推挙されて晴信に仕えたことになっている(『甲斐国志』)。
つまり、勘助が晴信に仕えたとき、禰々はすでにこの世の人ではないということになる。まあ、頼重と禰々の対話の場面は信虎の駿河追放の話題だったから、まだよしとしよう。おそらく次回か次々回くらいに亡くなると思われる。

そこで気になるのが、勘助がミツに与えた摩利支天の彫り物の行方だ。
たしか、ミツの死後、それが晴信の手に渡り、さらに妹の禰々に渡っている。
そして禰々がなくなるとどうなるのか。おそらくその臨終間際、禰々が義理の娘の由布姫に形見として渡すんだろうな。

そして、晴信が頼重を攻めて、勘助が隠れている由布姫を見つけたとき、この摩利支天の彫り物を見て、由布姫にミツの面影を見て、運命の出会いを感じるという塩梅だろう、きっと。


【2007/03/25 22:20】 | 風林火山
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No記憶力なのであてにはなりませんが
橋場
勘助がミツに与えた摩利支天は、ミツの墓から平蔵が持っていっちゃったような記憶があるんですけど……晴信のは別物で造りも色彩も上物だったような?自信はナッシングですが(笑)。

摩利支天
桐野
橋場さん、どうも。

こちらも頭が消しゴムなので、記憶違いかもしれません。
私には、ミツが持っていたのとそっくりに見えましたが、彩色はしてなかったような気もします。

たしか、晴信が河原でミツや平蔵を引見したとき、平伏しているミツの胸元からのぞく摩利支天を興味深げに眺めていたのは覚えていますが、それ以降は消しゴムで、禰々が嫁ぐとき、与えたあたりからは少し覚えているのですが……。
そういえば、諏訪に流れた平蔵が持っていたような気もしますが……。
う~ん、よくわからん。

記憶のクリアな方、教えて下さいませ。

そういえば、ミツ役の貫地谷しほりちゃんは、大河の好演が認められたのか、CMにも出ていますね。
最近、三菱東京UFJのCMで銀行員の制服着ているのも彼女ですよね。ちょっとイメージ違うけど(笑)。



現在の所有者
かわい
 橋場さんが正解(笑)。勘助のはミツを経由してずーっと平蔵が持っています。
 晴信が禰々にあげたのは新品ですが、平蔵が持っているのはミツが信虎に射られたときの傷がど真ん中についてますよ。

あやや
桐野
かわいさん、どうも。

やっぱりそうでしたか。橋場さんの記憶が正確だったのですね。
それで、晴信が禰々に与えた摩利支天はどんな由来でしたっけ? 晴信手製でしたかね?

武田「義」信、「香坂」弾正
水戸っぽ
将軍の一字を頂いたというのは武田晴信然り、上杉輝虎然りかと存じますが、いずれも下の一字ですね。ところが晴信の長男義信についてはそうではなく、足利将軍家伝来の「義」を冠しています。何故このような特例的な扱いであったのかかねてから疑問でした。母が三条氏であること等が関係しているでしょうか。
それから香坂弾正が初登場しましたが、寡聞&無知な当方は「香坂」の表記を目にしたのは(殊に小説やドラマの類では)今回が初めてのように存じます。かつての「武田信玄」でも、村上弘明が演じていたのは「高坂」のクレジット表記ではなかったかと。この19年の間の何らかの研究成果等が反映されているのでしょうか。
それにしても、勘助との間の、
「そなたはなかなかよい面構えをしているのう」
「勘助様はお強いとお聞きしましたが..」
といったやりとりはちょっと狙い過ぎという感がありましたが(笑)。

「義」の一字と香坂弾正
桐野
水戸っぽさん、お久しぶりです。

武田義信はたしかに将軍義輝からの一字拝領だと思います。
足利将軍家家督の通字である「義」の字を与えるのと、下の字を与えるのとで意味合いが異なっていたのかどうか、不勉強で知りませんが、下の字を与えること(ex.武田晴信、伊達輝宗、毛利輝元、尼子晴久)と、さほど変わらない事例があるように思います。室町期の守護の事例はたくさんありますが、戦国期も多いですね。たとえば、

今川義忠・義元
朝倉義景
尼子義久
大内義興・義隆・義長
大友義鑑・義鎮・義統
島津義久(義辰)・義弘(義珍)

などが思い浮かびました。
戦国大名でも、いずれも守護かそれに準ずる家柄だという共通点がありますね。
ですから、武田義信もさほど例外ではないと思います。

香坂弾正については、前の大河「武田信玄」ではたしかに高坂弾正と表記していましたね。これは『甲陽軍鑑』の所伝に基づくものですが、最近では疑問視されています。

ところで、先日の大河は天文12年(1543)の時点を描いていたので、このときはむしろ、春日源助という名前でなければならないと思います。香坂弾正を名乗るのは早いですね。
先日の大河、記憶がはっきりしないのですが、あるいは春日源助(のち香坂弾正)というテロップだったでしょうか。これなら、間違いではないです。

「香坂弾正」名乗りが史料上で表れるのは、永禄2年(1559)11月の信玄の判物で、それには「香坂弾正左衛門尉」とあります。
この名乗りは、信州更級郡牧之島の香坂氏の養子になったことにちなむものです。もっとも、同9年にはもとの春日名字に復していますので、香坂弾正だった期間は数年間だけのようです。
春日名字になってから、弾正忠を名乗ったのではないかと思います。




将軍偏諱
ばんない
こんばんは。
>春日源助(のち香坂弾正)というテロップだったでしょうか
私も録画していないので記憶に頼りますが「春日源五郎(のちの香坂弾正)」だったかもしれません。
ともかく、内野聖陽演じる山本勘助が源助の顔をむっちり触って「いい面構えじゃないか」と言った台詞に呆気にとられてしまいまして(汗)。

ところで、
>今川義忠・義元
>朝倉義景
>尼子義久
>大内義興・義隆・義長
>大友義鑑・義鎮・義統
>島津義久(義辰)・義弘(義珍)
いずれも室町幕府末期の戦国武将達ですね。
偏諱は上一字を与えられる方が下一字より格が高いという話を聞いたこともありますが。




香坂と偏諱と摩利支天
かわい
>香坂
 ちゃんと(のちの香坂弾正)となっているのは確認しましたが、現在の役名は忘れました(笑)。春日源五郎になっていましたっけか。

>偏諱
 下より上のほうが格が高くて、義晴と義輝が濫発するまでは例が少ない、というのが定説だったような。桐野さんご指摘の例でいえば、今川義忠がその少数例で他は濫発組ということになるんでしょうけど、なんかほかにもけっこういたような気がします。

>禰々の摩利支天
 晴信はなんの前振りもなく突然出してきましたけど。小道具さんが型取って複製した……じゃなくて、どこかで買ったとか。勘助が持ってるのと同じのがほしいよ~とか晴信がだだをこねて、しかたなく板垣が買いに行ってたら笑えますが、そういう意味での無茶はしませんからねえ(笑)。

偏諱と摩利支天
桐野
かわいさん、こんにちは。

私が挙げた事例もほとんどみな、義晴、義輝からの偏諱ですね。
この二代は三好氏にいじめられて坂本や穴太に逃げていただけに、諸大名へ官位や偏諱を売ることによって生計を立てていたといっても過言ではないですね。

禰々に与えた摩利支天、そんな素っ気ないものでしたっけ。躑躅ヶ崎舘の中庭で与えていたような。
まあ、晴信があれを拵えさせたのは、ミツのそれを見てからだと思いますが、むしろ不動明王なんかがぴったりじゃないかという気がしますが。

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この四月から、南日本新聞に表題のコラムを週一で連載することになった。
毎週土曜日の朝刊文化欄に掲載されるとのこと。
第一回は四月七日だと思う。

表題からわかるように、「さつま」に関係する面白い人物、知る人ぞ知る人物を取り上げていこうと思っている。できれば、西郷・大久保、島津義弘・同斉彬などビッグネームは避けるつもり。

「さつま」の定義は旧薩摩藩領(薩摩・大隅・日向諸県郡・奄美諸島・琉球)のことで、旧佐土原藩領も加えていいと思う。「さつま」出身者だけでなく、何らかの関係があれば、「さつま」出身以外の人物も取り上げる予定。

第一回は「その後の愛加那」というタイトル(予定)。

詳しくは、追ってまたお知らせします。

【2007/03/23 22:34】 | さつま人国誌
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期待しています
秘剣
連載、非常に楽しみです。
鹿児島からとりよせるか、東京支社にお願いするか・・・。
ネット版にも掲載されますかね~?

有難うございます
桐野
秘剣さん、こんにちは。

コメント有難うございます。
拙稿がネット版に掲載されるのかどうかはまだよくわかりません。
あるいは、当ブログで、一週間遅れでもいいので、掲載できないか、いろいろ方法を探ってみたいと思います。


南日本新聞サイトの告知
桐野
が一応出ておりました。
4月からだいぶ紙面刷新をするようです。

http://www.373news.com/modules/faq/index.php?cat_id=1

西南戦争130周年企画もあるようで、楽しみです。
史料や証言を地道に発掘した記事になることを期待します。

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未完の明治維新

坂野潤治氏の新刊(ちくま新書)である。

新書という特性を活かした好著ではないだろうか。
簡潔でわかりやすく、かつ本質を押さえた叙述方法によって、明治維新のとらえ方、わが国の近代化がどのような路線選択で行われたかがよくわかる。
歴史学者の一般読者向けの啓蒙書はこうでなければならないという好例であろう。

また随所に図版が挿入されているのがよい。
たとえば、図1(8頁)。

大久保利通(殖産興業)
西郷隆盛(外征)
板垣退助(議会設立)
木戸孝允(憲法制定)


という四人の英雄の考え方の違いが、どのような合従連衡や葛藤対立を生じさせるのか。そして、その違いが明治初期における実際の政治的な動向や事件をどのように規定したかを読み解くカギになっている。

とくに西郷と大久保は「富国強兵」という共通項(どちらかといえば、議会制や憲法に消極的という傾向)があるものの、大久保の殖産興業は「富国論」(外征はこれを頓挫させるから反対)、一方の西郷の外征論は「強兵論」(対等開国による対外強硬路線)であり、相互依存と矛盾対立が背中合わせの関係にあるという。

目からウロコだったのは、日本史の教科書には絶対載っている「富国強兵」という言葉が、その実、「富国」と「強兵」とで相矛盾しているという指摘だった。この四字熟語に何も疑問を感じずにいたのが恥ずかしかった。

また、征韓論についての独自の解釈も面白かった。
西郷・桐野とも、征韓論者ではなく、むしろ征台論者で対中戦争を企図していたという指摘にはなるほどと思った。私も西郷・桐野らが外征論者として一括りにされているけど、それでいいのかと思っていた。

そして、西郷の下野はその主義の敗北を示しているようにみえるが、必ずしもそうではなかったようだ。台湾出兵後、大久保が対中交渉に臨んだが、薩摩閥は官野を問わず、この交渉が失敗すると見ており、それを機に対中戦争に踏み込み、そのときには西郷を呼び戻して総司令官に据えるという計画を、黒田清隆・川村純義らが進めており、おそらくこれに西郷従道も支持するはずだし、在野の桐野らも鹿児島から呼応し、薩閥の大団結が実現したかもしれなかった(大久保は微妙な立場になるが)。
でも、これは一大軍事国家志向であり、仮に実現したとしても、かなり早い時期に挫折したと思うけど。

毛利敏彦氏によって西郷は「遣韓論者」で「平和主義者」だったという主張がなされ、某県では盛んにこれを強調して、教科書会社にまで記述の修正を要求しているほどだが、事はそんな単純な問題ではないこともわかった。

非常に読みやすい本なので、幕末維新史や近代史に興味のある方には一読を勧めます。

【2007/03/22 21:39】 | 幕末維新
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拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)について、板倉丈浩さんをはじめ、いろいろご意見・ご批判をいただいた。
コメント欄の数が多くなってしまったので、本欄のほうでできうるかぎりお答えしたい。

まず板倉さんには貴重なご意見をいただき、感謝したい。非常に鋭いご意見なので、こちらも大変勉強になります。箇条書きに沿って、私見を述べてみたいと思います。

(1)三好式部少輔の地位について(P84)

これについては、本欄で別途ご紹介した新出の信長朱印状(「讃岐国之儀」云々)との関連も考えないといけないなと感じております。
天正八年(1580)三月、本願寺が降伏したことにより、信長はその余勢を駆って、四国仕置(阿波・讃岐)にも着手したのではないかと思われます。
それが、新出の信長朱印状であり、板倉さんが取り上げている香宗我部親泰宛ての信長朱印状+三好康長副状です。
両者はおそらくセットにして考えないといけないのではないかなと思い始めています。

板倉さんは、元親が土佐一条氏を盟主とする大津御所体制の補佐役であることから、阿波国の国主に元親がなれないのではないかとご指摘です。なるほどと思いました。もしかして板倉さんは、阿波国を三好式部少輔に与えるという信長朱印状があったのではないかと想定されているでしょうか? つまり、香宗我部親泰宛ての2点はそれの関連文書だと。

板倉さんは新出の信長朱印状の宛所は三好康長ではないかと推定されましたが、それをセットに考えると、讃岐と阿波の両国が三好氏に与えられることになりますね。
そうだとすれば、当然ながら元親は怒りますよね。信長との断交は天正八年まで遡ることになりますが、さすがに早すぎないでしょうか。

(2)天正10年5月27日付け堀秀政書状について(P185)

ご指摘のように、天正十年五月頃の堀秀政の動きについて、『信長公記』は混乱しています。谷口克広氏は秀政が備中に下向したのは五月下旬、つまり徳川家康接待ののちだとしています。私は下旬というより、ほとんど月末だったのではないかと思っています。
秀政が羽柴秀吉とどこで合流したか、一次史料で確認することは難しいのではないかと思っています。『寛政譜』などは秀政が備中高松にいたように書いていますが、果たしてどこまで信用できるか。
たとえば、『惟任謀反記』には、「堀久太郎秀政に池田勝九郎元助・中川瀬兵衛尉清秀・高山右近重友等を差し加へ、これを遣す」とありますが、池田元助・中川清秀・高山重友の三人とも、備中に行くどころか、本能寺の変前後、ようやく出陣しようかというくらいですから、彼らと同道するはずだった秀政もまだ上方に留まっていた可能性が高くないでしょうか。
私は、那波直治問題(斎藤利三問題でもありますが)を処理した五月二十七日ののち、秀政は中国に下向する態勢になったのではないかと思います。
したがって、五月二十七日付の秀政書状は存在してもおかしくないと思います。

(3)本能寺の変の直前期における光秀の地位について(P120)

これもなかなか難しい問題ですが、光秀が長宗我部氏の取次からはずされたことはたしかで、信孝が四国渡海の総司令官に任命された以上、光秀が四国政策から排除されたことは明らかです。
それが政治的打撃になるかどうかという評価の問題ですね。
光秀が信長のそば近くにいて、信頼が厚かったというのも評価の問題で、直接の担当正面がないというのは、谷口克広氏の言われる方面軍司令官の地位から降りることを意味します。光秀がそれで満足したかどうかですね。

(4)本能寺の変とは何だったのか(P280)

戦国時代は謀叛や叛逆が多かった、中世人はキレやすかったというのはその通りだと思いますが、そうした一般論ではなく、天正年間初期という時代において、より具体的に考える必要があるのではないかと思います。
拙著では十分書き切れませんでしたが、やはり、荒木村重や松永久秀の反逆との比較は重要ではないかと思っています。
久秀や村重の頃(天正七年前後)までは、二人がそうしたように居城にこもって、本願寺・上杉謙信・毛利輝元・足利義昭らと結ぶという方法がとれました。
しかし、光秀が謀叛を起こした同十年にはそうした方法はとれません。謙信は没し、毛利は退潮し、本願寺は降伏し、将軍義昭の京都帰還はほぼ絶望的な状況でした。反逆して成功するには、信長本人を打倒するしか方法はなくなっています。
私は、光秀が将軍義昭と結ぼうと考えていなかった、つまり、義昭が黒幕ではないと思っていますが、拙著で挙げなかった理由として、本能寺の変当日、光秀が美濃の国人西尾光教に宛てた有名な書状に、信長父子が「天下の妨げ」だったという一節にもっと注目すべきだと思っています。
何が言いたいかといえば、光秀は信長本人の存在は否定しても、信長が構築した「天下」の枠組みは認めているということです。光秀が信長死後も「天下」という言葉を使っていることは重要だと思います。言葉を換えれば、光秀は将軍義昭の京都復帰や旧体制の復活など考えていなかったということです。光秀は信長の代わりに「天下」の中心に坐るつもりだったとしか考えられないでしょうか。

(5)「惟任公儀を奉じて」の解釈(P216)

板倉さんが仰せのように、「公儀=信長本人」でも私は別に構いません。要は、「公儀」は信長であって、足利義昭ではないということが明確になればいいだけです。
ただ、大村由己が「将軍」と「公儀」を使い分けているので、あえて意味づけすれば、「将軍」が信長本人で、「公儀」が織田権力だと解すれば、うまくおさまるというだけのことです。

以上、どこまでお答えになっているかわかりませんが、とりあえずの回答にしたいと思います。






【2007/03/20 23:50】 | 信長
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丁寧な御回答ありがとうございます
板倉丈浩
こんにちは。板倉です。

>貴重なご意見をいただき、感謝したい。非常に鋭いご意見なので、こちらも大変勉強になります。

こちらこそ、始めて見る史料や論文が多く、大変勉強になりました。

>両者はおそらくセットにして考えないといけないのではないかなと思い始めています。

例の信長朱印状について考察した際に、私もそのように考えました。

>もしかして板倉さんは、阿波国を三好式部少輔に与えるという信長朱印状があったのではないかと想定されているでしょうか? つまり、香宗我部親泰宛ての2点はそれの関連文書だと。

その通りです。

>讃岐と阿波の両国が三好氏に与えられることになりますね。 そうだとすれば、当然ながら元親は怒りますよね。

この時期の元親は、土佐では一条氏、阿波では三好氏を表面上立てて、名を捨てて実を取っていたということだと思います。

>彼らと同道するはずだった秀政もまだ上方に留まっていた可能性が高くないでしょうか。

なるほど。
毛利氏と講和して姫路城に引き返してきた秀吉が、秀政に対して「大博奕をお目にかけます」と言い切る『川角太閤記』の名場面はあまり疑ったこともなかったので、興味深いご指摘です。

ただ、もう少し傍証が必要かなとも思います。
私は『惟任謀反記(惟任退治記)』のこの記述については、直前で「軽率に戦うな」という信長の上意が示されていますし、文脈から「秀政を上使として秀吉陣中に派遣し、池田等には秀政への加勢を命じた」と解釈していました。
つまり、使者としての秀政は秀吉の陣に急行するけどそのまま復命することはせず、秀吉軍の一手の将として働くべく摂津諸将を与力につけられたということではないかということです。

>光秀が信長のそば近くにいて、信頼が厚かったというのも評価の問題で、直接の担当正面がないというのは、谷口克広氏の言われる方面軍司令官の地位から降りることを意味します。

確かに評価の問題というのはあると思います。
本社の総務部長と出先の事務所長のどっちが栄転か、みたいな話で(笑)
関東担当となった滝川一益は非常に落胆した旨、書状が残っていますが、光秀はどう思ったのか・・・。
ただ、意見対立があったり、評価が落ちたりしたということがあるとすれば、そういう家臣を大軍を率いさせたまま側に置くという信長の措置はやはり不可解なんですよね。
信長という人が無神経で、あまりそういうことを気にしなかっただけかもしれませんが(^^;

>光秀が美濃の国人西尾光教に宛てた有名な書状に、信長父子が「天下の妨げ」だったという一節にもっと注目すべきだと思っています。
>光秀は信長本人の存在は否定しても、信長が構築した「天下」の枠組みは認めているということです。

私は光秀は「天下」はそれほど意識してなかったのかなという印象を持っています。
細川父子あての手紙で「50~100日のうちに畿内近国を平定したら、息子・十五郎や忠興に譲って隠居したい」なんて言っていますし、光秀と細川氏の関係から言って、こちらの方が本音が出ているのではないかと思います。
つまり、明智氏の畿内における圧倒的な優位を保てればそれでいいのであって、それから先、天下統一までは考えていなかったような気がします。

>「公儀」は信長であって、足利義昭ではないということが明確になればいいだけです。

なるほど。了解です。
私も、この史料における「公儀=義昭」という解釈はありえないと思います。



三好や天下など
桐野
板倉さん、こんにちは。

再びコメント有難うございます。
気になった点について書いてみます。

>この時期の元親は、土佐では一条氏、阿波では三好氏を表面上立てて、名を捨てて実を取っていたということだと思います。

非常に面白い考え方ですね。香宗我部親泰宛て信長朱印状に「猶以て阿州面の事、別して馳走専一に候」とか、三好康長の副状に「諸事御指南」「いよいよ御肝煎」とある一節と関連しているようにも見えます。
私もこれらの一節から、信長が元親に阿波における何らかの権限ないし権益を与えたと思っていましたが、板倉さんのようには考えられませんでした。

また、拙著92頁あたりにある、新出の秀吉宛て元親書状に阿波勝瑞城に本願寺残党の牢人衆がこもっているのに、元親が「戦中遠慮を加え候」として、勝瑞城攻撃を控えたという一節が気になっていたのですが、板倉さんのご指摘が少しヒントになったような気がします。

そのように解釈すると、いくつかの疑問が氷解するのもたしかですが、一方で別の疑問が派生してくるようにも思えます。
たとえば、信長朱印状(天正8年6月12日付)ののち、式部少輔はどこにいたのか、岩倉なのか勝瑞なのかという点。式部少輔と三好存保との関係はどうなるのかという点。本願寺残党の牢人衆を引き入れたのは、むしろ式部少輔か、存保ではないのか(長宗我部方との対抗のため)などなど。

それと、阿波・讃岐両国を三好一族、とくに式部少輔を三好康長の子どもだと解すれば、康長父子に与えたことになり、いろいろな意味で極端にバランスを失した政策になるのではないかと思います。

第一に、阿波三好家の内情を無視した荒っぽいやり方であること。阿波三好家のなかで、康長は庶流にあたります。三好存保という一応の当主がいるのに、それを差し置いての仕置はいかがなものか。当然、存保方や篠原自遁など家臣団からも反発がありそう。
第二に、やはり天正三年の元親宛て信長朱印状(『元親記』の記事を信じてですが)にある「四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ」という趣旨が、やはり一定程度、信長の意向や政策を拘束していたと思われ、あまりにも三好方に偏して合理性が少ない仕置なので、元親が納得できるとは到底思えないこと。
第三に、「名を捨てて実を取る」といっても、既成事実の積み重ねは当知行主義の原則を生じさせ、その実、「名も実も捨てる」結果になりかねないのではないかということ。

などです。

信長も、光秀の意向をまったく無視できませんから、四国政策を三好有利に誘導するとしても、それなりの論理というか、理屈を組み立てる必要に迫られます。むしろ、信長はそのようなやり方を好んだ人です(たとえば、佐久間信盛折檻状)。
とすれば、元親そして光秀を説得するためにどのような理屈を拵えられたのか、なかなか想像がつきません。
これはやはり、現存する信長朱印状などの史料で類推するしかないと思いますが、とくに前回ご紹介した新出の信長朱印状の宛所が切断されているのが、返す返すも痛いですね(笑)。

堀秀政の動向については、何か一次史料か信頼できる史料がありそうにも思えます。もう少し探してみます。ご存じの方がおいでなら、ご教示下さい。

光秀と「天下」についてですが、たまたま西尾光教宛ての書状が現存しているだけですが、ほかにも近江・美濃あたりの信長家臣に相当数、ほぼ同文のものを送っていると想定してもおかしくないと思います。
そうだと仮定すれば、光秀が「天下」という言葉を乱発していたことになります。
これは、織田家中で「天下」が信長を頂点とする統治体制という意味で、ふつうに使われる用語になっていたことを示していると同時に、光秀も「天下」を暗黙の前提として受け容れていたことにならないでしょうか。
これは「天下」という大義名分を持ち出すことによって、「謀叛」を正当化しようという、光秀なりの戦略でもあったかもしれません。

細川父子宛ての光秀書状に「天下」云々という言葉がないのもある意味当然だと思います。「天下」はご指摘のように、いわば「建前」で他人に対して使う言葉。
それに対して、細川父子は親戚、とくに忠興は女婿ですから、「本音」で語ったというのはそのとおりでしょう。忠興を優遇することで、何とか細川父子を味方につけたかったのだと思います。

また「五十百日」で畿内を平定して既成事実をつくれば、みな謀叛のことなど忘れてしまうというのも、現実的な考え方だったと思います。そうなれば、ますます「天下」という言葉が実体となり、より説得力が増すことになったのではないかと思います。
いかんせん、光秀にはその時間的猶予が与えられなかったですけどね。




三好氏と長宗我部氏、信長・光秀の「天下」について
板倉丈浩
再度のレスありがとうございます。
関心があるテーマなので、もう少し議論を続けます。

>信長朱印状(天正8年6月12日付)ののち、式部少輔はどこにいたのか、岩倉なのか勝瑞なのかという点。

これは史料がないのではっきりしたことはいえませんが、阿波国主として、十河存保出奔後の勝瑞城に置かれたんじゃないかと思います。

>式部少輔と三好存保との関係はどうなるのかという点。

もともと存保は一部国人に担がれたピンチヒッターに過ぎず、国内における人望もあまりなかったようですから、正式に式部少輔が阿波三好家を継承したということだと思います。
康長が書状の中で、実の息子と伝えられる式部少輔を「同名式部少輔」と一族扱いで呼んでいた背景には、式部少輔は阿波三好家の跡取りという(三好一族の代表者としての)意識が働いていたのではないでしょうか。

>本願寺残党の牢人衆を引き入れたのは、むしろ式部少輔か、存保ではないのか

元親は秀吉に対して、「十河」の守備を固めて本願寺残党=雑賀衆の討伐に赴いたとし、雑賀衆と「同心」したのは新開道善(南阿波国人・牛岐城主)だと書いています。
つまり、新たに成立した三好=長宗我部の連立政権に服さない一部国人が、雑賀衆を引き入れて勝瑞城などを一時的に奪ったということだと思います。

>天正三年の元親宛て信長朱印状(『元親記』の記事を信じてですが)にある「四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ」という趣旨

信長が果たしてそんな気前のいい約束を本当にしたのか、何のメリットがあるのか、はなはだ疑問ですが、もしあったとすれば、天正3年ではなく、天正8年じゃないかと思います。
長宗我部氏が三好氏と協調するという前提があれば、「四国切り取り次第」の軍事行動の対象はもっぱら伊予(毛利氏が影響力を持つ)ということになりますから、毛利氏攻略の一環として期待できるからです。

>四国政策を三好有利に誘導するとしても、それなりの論理というか、理屈を組み立てる必要に迫られます。

例の信長朱印状にある「本領」という語がそれに該当すると思います。
つまり、阿波・讃岐は三好氏の「本領」であるから三好氏再興は正統性があり、信長としてもそれを支援すべきであるということです。

>織田家中で「天下」が信長を頂点とする統治体制という意味で、ふつうに使われる用語になっていたことを示していると同時に、光秀も「天下」を暗黙の前提として受け容れていたことにならないでしょうか。

信長が「天下」という言葉を使用するときに、国家の統合だとか、公的な存在としての武士だとか、そういう独自の統治理念が込められているのだという朝尾直弘氏の指摘は理解しています。
ただ、光秀が書状で「天下」という語を使用しているからといって、信長の統治理念まで継承したと言えるのかどうかは疑問です。
光秀の「父子悪逆天下の妨げ討ち果たし候」という文面の「天下」の用法は信長とはちょっと違っていて、これは天道思想じゃないかという印象を私は持っています。
つまり、「信長父子は天道に外れた悪人だから天に代わって私が滅ぼしたのだ」と光秀は表明して、当時の人々に広く共有されていた天道思想に訴えたのではないかということです。
前のコメントで述べたとおり、これが光秀の本音とは思えませんが、そういう宣伝はしたと思います。



「四国切り取り次第」朱印状
板倉丈浩
自己レスです。

>天正3年ではなく、天正8年じゃないかと思います。

天正8年11月の秀吉あて元親書状にある「殊四国行之段、御朱印頂戴仕旨」の「御朱印」がこれにあたるのではないでしょうか。
讃岐では十河・羽床の反抗、阿波では本願寺残党の乱入があり、伊予攻めも西園寺氏の抵抗ではかばかしい戦果をあげられず、本国土佐でも妹婿・波川玄蕃を謀反の罪で殺害するなど、この時期の元親の四国経営はあまりうまくいっていなかったようです。
元親は秀吉に「阿波・讃岐を平定すれば西国表で粉骨する」と釈明していますが、信長はどう評価したか。

この後、天正9年2月に一条内政が伊予に追放され、3月には三好式部少輔が離反します。
信長が長宗我部氏に見切りをつけ、「四国切り取り次第」を取り消し「土佐と南阿波を残して讃岐・伊予・北阿波を返上せよ」と命じたとすれば、このタイミングでしょう。
信長の決定を受け、光秀が元親を説得しようとしますが、元親はこれを拒絶します。
この交渉がいつ行われたのかは確定できませんが、同年9月には秀吉が三好氏救援のため阿波に出兵していますから、この頃には織田・長宗我部は完全な敵対関係になっていたということがいえると思います。

なお、伊予の西園寺公広が「元親がこのまま切り取りを続けたら天下の仇となろう」と信長に抗議していたそうですから(山本大『長宗我部元親』)、信長の政策転換の背景には、前左大臣・西園寺公朝や右大将・西園寺実益らに対する配慮、朝廷対策という側面もあったのかもしれません。



お詫び
桐野
板倉さん、どうも。

レスが遅れ気味でお許し下さい。
ちょっと仕事が立て込んでおりますので、もうしばらくお待ち下さい。




堀秀政の居所
桐野
板倉丈浩さん、こんばんは。

前回話題になった堀秀政の居所についてですが、『堀家の歴史』(堀直敬著、堀家の歴史研究会刊、私家版)に、「越後村松堀家譜」が収録されていて、そのなかに天正十年五月頃の秀政の動きについて次のように書かれています(原文片仮名を平仮名に直す)。

「天正十午年、堀秀政信長の命を承て秀吉の援兵として西国に赴くの時、明智日向守光秀、信長父子を京都に弑して畿内騒乱せしかば、秀政摂州に留りて秀吉の来るを待ちし処」云々

これによれば、秀政は本能寺の変勃発時に摂津にいたことになり、やはり池田恒興らと一緒に出陣するつもりだったのではないでしょうか。
一次史料ではありませんが、堀家の家譜ということで、それなりに信頼できるかもしれません。

これで、秀政が備中に行っていなかった可能性がかなり高くなったのではないかと思います。

取り急ぎ、この件のみ。


越後村松堀家譜
板倉丈浩
>「天正十午年、堀秀政信長の命を承て秀吉の援兵として西国に赴くの時、明智日向守光秀、信長父子を京都に弑して畿内騒乱せしかば、秀政摂州に留りて秀吉の来るを待ちし処」云々

御教示ありがとうございます。なかなか興味深い記述ですね。
ただ、江戸時代の編纂物のようなので、17日に秀吉への「御使」として派遣されたとする『信長公記』の記述や、変の報せを備中で聞いたとする『寛政譜』『川角太閤記』の記述を否定するだけの材料かどうか。

>これで、秀政が備中に行っていなかった可能性がかなり高くなったのではないかと思います。

「御使」でなくて「援兵」だったとしても、光秀が急遽帰国した10日後になっても安土にいるってのは、いささかのんびりしすぎているような気がします。
光秀帰国後に中国方面の戦況がさらに悪化して追加の援軍派遣が決定したとか、そういう事情があったのならわかるのですが、そういうわけでもなさそうですし・・・。


「軍使」「御使」
桐野
板倉さん、どうも。

堀家(分家ですが)の家譜、仰せのとおり、近世の編纂物ですので、一次史料よりは信用性ではやや劣ります。しかし、私はこれが『信長公記』や『惟任謀反記』の記事と矛盾するとは思っておりません。

まず、『信長公記』にある堀秀政の役割・地位について、一般に誤解があると思います。
それは「御使」という用語についてです。これをふつうに使者という意味で理解されているのではないでしょうか。

それがおかしいと思う一例をあげますと、『惟任謀反記』には次のように書かれています。

「将軍(信長)は、信忠を京都に相具し、御動座あり、重ねて、惟任日向守光秀を軍使にして、早々着陣せしめ、秀吉と相談すべし」

ここでは、光秀が「軍使」となっています。これも秀政と同様に「使者」の意味でとらえると、大きな間違いであることは明らかですね。

つまり、「御使」や「軍使」は単なる使者ではないということです。「軍使」を国語辞典で調べると、次のようにあります。

ぐんし【軍使】
1 交戦中、軍の命を受けて、交渉のため敵軍に派遣される者。
2 天皇、将軍などの命を受けて、征伐、鎮撫などのために派遣される者。

光秀の「軍使」役が、2の意味で用いられていることは明らかですね。そして、秀政の「御使」も同様の意味だと思います。

『信長公記』の秀政についての当該部分に戻れば、

堀秀政
維任日向守
長岡与一郎
池田勝三郎
塩河吉大夫
高山右近
中川瀬兵衛

が中国への加勢を命じられた「先陣」ですが、そのうち、秀政が特別に信長の「上意」(中国の歴々討果し、九州まで一篇に」)を奉じる「軍使」としての武将という位置づけであり、秀政自身も先陣の一人として軍勢を率いていることに変わりありません。

したがって、『信長公記』にある「何れも何れも同事に本国へ帰り候て、御陣用意候なり」には、秀政も当然含まれていると思います。
秀政は家康接待役をつとめ、側近としての仕事を片づけたのち(5月27日以降)、軍勢をととのえてから出陣したところ、摂津あたりで本能寺の変に遭遇したという理解は、時系列的にも決しておかしくないと思います。

秀政だけが「軍使」で、先陣の諸将と少し役割が異なるのは、この中国出陣が単なる戦国大名同士の戦いではなく、「将軍」たる信長が、まつろわぬ毛利を「追討」「鎮撫」するという,一種の「官軍」(語弊を招くのであまり使いたくないのですが)という位置づけだったからでしょう。

なお、『惟任謀反記』で、光秀を「軍使」としたことは、秀政を「御使」とした『信長公記』と少し矛盾しますが、「将軍」の「上意」を前線指揮官の秀吉に、じかに下達する役目を秀政が負ったと狭義に解釈するか、あるいはその「上意」を奉じた先手全体を「軍使」と広義に解したかの違いかなとも思っています。

秀政が身軽に備中に使者として行ったという従来の理解のしかたは誤解だと思います。

難しい議論になってしまいましたが(苦笑)
板倉丈浩
こんばんは。大変お忙しい中、度々のレス感謝です。

>光秀の「軍使」役が、2の意味で用いられていることは明らかですね。

『惟任謀反(退治)記』の「軍使」については、当時の文書では見かけない言葉ですが、確かに、古代日本・中国では将軍の意味で使われている用例がありますね。
この史料の著者の大村由己は漢学に通じた学者だったようですので、この解釈も十分にありうると思います。

光秀は上意を奉じた「軍使」として、秀吉を含む中国方面軍の諸将を監督する役割を付与されていたということになりますから、この記述からも、信長の光秀に対する評価・信頼度は非常に高かったということがいえますね(^^

>そして、秀政の「御使」も同様の意味だと思います。

さて、これはどうでしょう。『信長公記』における「御使」の用例ですが、

首巻 「美濃国より大事の御使を請取り(中略)田舎より御使に罷上り候。火急の用事に候・・・」
巻一 「上意の御使に使者を相副へられ、佐々木左京大夫承禎、御入洛の路次人質を出し、馳走候へ・・・」
巻二 「天下の名物を召し置かるべきの由御諚候て(中略)友閑・丹羽五郎左衛門御使申し、金銀・八木を遣し・・・」
巻三 「何れも覚えの一種ども召し置きたきの趣、友閑・丹羽五郎左衛門御使にて、仰せ出ださる・・・」
巻十一「御褒美として播州の内芥川郡仰付けられ、弥御忠節を励まされ然るべきの旨、御使衆に申され・・・」
巻十二「塩河伯耆守へ銀子百枚遣わされ候。御使森乱・中西権兵衛相副へ下さる・・・」
巻十三「関東衆申し上げらるる趣、これを承る御使衆、二位法印・滝川左近・佐久間右衛門、三使にて御縁辺相調へ・・・」
巻十四「桑実寺へ女房共出だし候へと御使を遣はされ候へば・・・」
   「御脇指、御三人へ参らせられ候。御使森乱、中将信忠へ・・・」
   「其儀御返事をば申し上げず、剰御使に遣はされ候者十人ばかり討殺し・・・」
巻十五「森乱御使にて、濃州岐阜御土蔵に先年鳥目一万六千貫入置かれ候・・・」
   「御目に懸け候処、森乱御使いにて、御小袖并に御馬、御褒美として・・・」
   「本知安堵の御朱印、矢部善七郎・森乱、両人御使にて下され・・・」
   「幸若八郎九郎大夫居り申候額屋へ御使菅屋玖右衛門・長谷川竹両使を以て、忝くも上意の趣・・・」
   「森乱御使にて、幸若大夫御前へ召出だされ、御褒美として・・・」
   「上意にて、堀久太郎御使として、羽柴筑前かたへ条々仰せ遣はされ・・・」

森乱(蘭丸)の名前が目に付きますが、上意を伝達したり応接したり褒美を与えたりと、普通に使者という意味で使われている例がほとんどで、「征伐、鎮撫などのために派遣される者」という用例はないと思います。

>この中国出陣が単なる戦国大名同士の戦いではなく、「将軍」たる信長が、まつろわぬ毛利を「追討」「鎮撫」するという,一種の「官軍」(語弊を招くのであまり使いたくないのですが)という位置づけだったからでしょう。

このへんの考え方、なかなか興味を引かれますね。
信長は秀吉の「惣無事令」を先取りしていたということでしょうか?
史料的根拠とか理論的な組み立てとか、もう少し御教示いただけるとうれしいのですが・・・。

>側近としての仕事を片づけたのち(5月27日以降)、軍勢をととのえてから出陣したところ、摂津あたりで本能寺の変に遭遇したという理解は、時系列的にも決しておかしくないと思います。

うーん。
使者として備中に直行するにしても、援軍として本国に帰って出陣準備をするにしても、光秀や摂津諸将と同じ17日に安土を出立していなければ不自然ではないかと言いたかったんですが・・・。



信長の中国出陣
桐野
板倉さん、どうも。

「御使」について、いろいろ事例を挙げていただき、有難うございます。
仰せのように、単なる「使者」という用例もあるでしょうが、そうでない別の用例もあると思いますよ。
たとえば、挙げていただいた事例のうち、巻十三の北条氏に対応した武井夕庵・滝川一益・佐久間信盛は織田家中での地位の高さからして、単なる「使者」ではなく、取次だと思います。ほかにも取次の事例がありそうですね。
取次の場合、ある程度独自の裁量権を有していることも留意しておくべきだと思います。

そして、織田家中の内部における「御使」と対外的な「御使」も区別する必要があるのではないでしょうか。「御使」をすべて同列には論じられないと思います。

また、私は光秀の「軍使」と秀政の「御使」の関係をほぼ同義語だとして位置づけているわけで、ただの「使者」ではない、別の側面を論じる必要があると言いたかったわけでして。

つまり、同じ「御使」でも、小袖や銀子を与える「御使」と、中国出陣にあたって何らかの重要な軍令と思われる「上意」の「条々」を携えた秀政の「御使」はレベルや意味内容が異なると思うのです。
それはまた以下のご指摘のように、信長の中国出陣の位置づけと関わっているのではないかと思います。

>史料的根拠とか理論的な組み立てとか、もう少し御教示いただけるとうれしいのですが・・・。

秀吉の「惣無事令」の先取りかどうかは何ともいえませんが、大村由己が「軍使」という言葉を使った背景には、信長と織田権力の性格を他の戦国大名と異なる格別の位置づけにしたい歴史観があるように思います。あくまで大村由己の歴史観であって、信長のそれではありません。

それは、拙著にも書いたように、信長を「将軍」と表記していることが示唆的だと思います。由己は信長が征夷大将軍ではないのは百も承知ながら、天皇をいただく政権(統一権力)による辺境の逆賊征討という意味合い(古代的な征夷大将軍に近いかも)で使っているのかもしれません。
由己はまた別の箇所で、信長のことを「天下に棟梁として、国家に塩梅(補佐)」と位置づけています。ここから、外征に向かう信長が「将軍」になるという考えが出てくるのかもしれません。

そうした由己の歴史観がよく表れている一節があります。『惟任謀反記』の武田攻めのところで、武田勝頼を「年来の朝敵たり」と述べている点が象徴的ですね。
ほかにも別所長治を攻める羽柴秀吉を「西国征伐の軍主」と述べているのも、「将軍」の代理的な意味合いでしょうね。

由己のそうした歴史観はまったく根拠がないわけではなく、武田攻めのとき、朝廷は信長のために自ら祈祷と戦勝祈願を行ない、畿内の寺社にも同様に祈祷を命じています。
拙著『真説本能寺』(22~25頁)でも書きましたが、このとき信長のために戦勝祈願をした寺社は、判明しているだけで、石清水八幡宮・興福寺・吉田社・三千院・伊勢神宮外宮・伊勢慶光院・越前剣神社などがあります。
また、信州に在陣している信長・信忠に対して、勅使も下向して激励しています。
織田権力が公武統一政権といわれる所以でもあると思います。
武田攻めもそうでしたから、中国出陣も同様かそれ以上だったと想定してもそれほど的はずれではないと思います。
史料的根拠、理論的組み立てになっているかどうかわかりませんが、どうでしょうか?

>使者として備中に直行するにしても、援軍として本国に帰って出陣準備をするにしても、光秀や摂津諸将と同じ17日に安土を出立していなければ不自然ではないかと言いたかったんですが・・・。

これについては、『信長公記』にもあるように、秀政は徳川家康接待役も命じられておりますから、家康が上洛した5月21日も、秀政は安土にいた可能性がありますね。
『信長公記』は秀政の記述で混乱していると前に書きましたが、どうなんでしょうかね。仮に命じられたのが17日だったとしても、すぐ出発するわけでもないでしょう。ましてや軍勢を率いてとなると。
秀吉への「御使」と家康接待役とが時系列的に両立しないと考えられてきたわけですが、何も同時にやる必要はないとも思います。

それと、板倉さんは5月27日付の秀政書状(稲葉貞通と那波直治宛ての2通)に疑問をお持ちのようですが、谷口克広氏によると、稲葉氏は美濃の国人ながら、信忠配下ではなく信長の旗本衆です。そうであれば、信長の中国出陣にあたって稲葉氏も従軍する可能性が高いわけで、そうなると、那波直治・斎藤利三の一件を片づけておかないと出陣できないという事情もあったのではないでしょうか。


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このところ、執筆の関係もあって、古書をさみだれ式に購入し、論文・史料の複写量も半端ではない。
とくに史料については、信長関係を数千枚複写する羽目になり、ただでさえ狭い事務所スペースには紙があふれている。

古書・新刊については、最近次のようなものを入手した。えっ、そんな基本書を今頃とか、何を今さらというのもある。正直、当たりはずれもあった(苦笑)。めぼしいのを順番に挙げてみる。

尾藤正英『江戸時代とはなにか』 岩波書店 1993年
福田千鶴『淀殿―われ太閤の妻となりて―』 ミネルヴァ書房 2007年
『山口県史』史料編 幕末維新1,3 山口県
徳川義宣『新修徳川家康文書の研究』第二輯 吉川弘文館 2006年
岸野 久『ザビエルと日本』 吉川弘文館 1998年
『日本思想大系 中世政治社会思想』上・下巻 岩波書店 1972,81年
川勝政太郎・佐々木利三『京都古銘聚記』 スズカケ出版部 1941年
石村禎久『石見銀山』 石見銀山資料館 1988年
志村有弘『信長戦記』改定新版 ニュートンプレス 2003年
『垂水史料集』6,8 垂水市
『新修 彦根市史』第一巻(通史編 古代・中世) 彦根市 2007年
高橋秀直『日清戦争への道』 東京創元社 1995年
『岩崎弥太郎日記』 岩崎弥太郎・岩崎弥之助伝記編纂会編集・発行 1975年


う~ん、我ながら脈絡がなく、系統性のない買い方である(爆)。
このうち、値段的な成果は、最後の『岩崎弥太郎日記』である。古書相場の3分の1程度で購入できたのは望外の喜びである。
じつは、この本、私の錯覚でなければ、以前一度購入した覚えがあるが、どこにしまい込んだのか出てこない。それでしかたなく、友人のM氏に拝借したこともあった。古文書講座「てらこや」などでも使える史料なので、活用していきたい。

さっそく、慶応3年8~9月あたりを見てみたら、イカロス号事件の記事満載だった。また『保古飛呂比』にあった桂小五郎が佐々木三四郎に軍艦の修理代金不足のため、金策を相談してきたのを「商会」(岩崎の土佐商会)に掛け合って拝借したという記事も、この日記で裏付けがとれた。もっと早く購入しておけばと悔やまれることしきりである。

もうひとつ、表題の本である。
これは京都にある碑文などの銘を詳細に集めたものである。その種類は、以下のように多種多様である。

扁額・板碑・五輪塔・銅鐘・欄干擬宝珠・橋脚・経筒・石灯籠・石塔・宝篋印塔・水船・・石仏・板壁・銅鏡・茶釜・仏舎利塔・瓦経・舞楽面・制札・棟札・風鐸・切支丹墓etc

個人的には、百万遍の知恩寺にある朝山日乗の板碑の銘が気になっていた。
日乗の没年月日が「天正五年九月十五日」であることを改めて確認できたのが収穫だった。

また近年、妙心寺に行ったとき、塔頭の春光院に信長時代の南蛮寺(イエズス会寺院)のものと思われる洋鐘が保存されていることを知ったが、拝観できなかったので、その拓本が載っていたのがうれしかった。「1577」(天正五年)と刻んであるのが興味深かった。

ほかにも、建仁寺に行ったとき、方丈前庭に織田有楽斎建立とされる石塔(石造十三重塔)があったが、庭の奥に鎮座しており、とても近づいて見ることはできなかったが、この本に銘文が載っているのに気づいた。
それによれば、「天正十載壬午林鐘日謹奉造立願主」云々とあることから、どうやら、本能寺の変のあった天正10年(1582)6月中に信長の供養のため、建立されたことがわかる。もしかして一番成立の早い供養塔かもしれない。
二条御所から逃げ出したといわれる有楽斎が果たして造主なのだろうか。造主とおぼしき記述もある。

泉州堺南之居住大願主[  ]

とあるが、残念ながら、肝心の部分が欠けているか、摩滅しているようである。これだと、堺の住人が造主なのではないだろうか。
もしかして、堺商人の今井宗久だろうか?
建仁寺

写真:建仁寺の石造十三重塔

ほかにも、方広寺の有名な鐘銘なども掲載されていて、眺めているだけで楽しい。
 




【2007/03/17 15:57】 | 古書
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表紙

拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)が本日から発売です。

書名:だれが信長を殺したのか―本能寺の変・新たな視点―
版元:PHP研究所
頁数:292頁
定価:760円+税
ISBN978-4-569-69073-5


よろしかったら、お買い求め下さい。

版元のサイトにも案内が出ております。ご参照下さい。


【2007/03/15 10:56】 | 信長
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パルティアホースカラー
こんばんは。
早速、新著を購入させていただきました。
まだ「はじめに―本能寺の変はどのように論じられてきたか」の部分しか読んでいませんが、そこを読んでいるだけでも期待にたがわず面白そうな印象を受けました。

読み進めるのが楽しみです。

御礼
桐野
パルティアホースカラーさん、こんばんは。

さっそく拙著をお求めいただき有難うございます。
読了されたら、感想・批判などをお聞かせ願えたらと思います。

とくに、信孝問題、天正十年作暦問題、光秀が政変前に上杉景勝に通牒したのか否かという点などはそれなりの論を構築できたのではないかと思っております。


御著を購入しました。
磯部
桐野様、はじめまして。磯部と申します。
以前、藤本正行氏が「軍記・語り物研究会」において、新出三冊本『信長公記』についての見解を発表されたときに、お姿を拝見しました。

ところで、16日に御著『だれが信長を殺したのか』を2冊購入しました。小生は気に入った本は2冊買うことにしております。目次を拝見しただけでも、小生にとりましては、前作の『真説本能寺』と同様、たいへん興味深い内容であると思われます。じっくり読んでいきたいと思っています。

信長公記
桐野
磯部さん、はじめまして。

あの研究会の会場にいらしたのですか。
いやあ、恥ずかしい。

それはともあれ、2冊もお買い上げいただき、有難うございます。

その後、『信長公記』諸本については、私も関心を持続しておりまして、近々少し書く予定になっております。その節には、またこちらで紹介したいと思います。


惟任ノ妹ノ御ツマキ
Tm.
はじめまして。ご著書購入いたし、早速読ませていだいています。
自分が本能寺の変に興味を抱く切欠となったのは、まさに『信長謀殺の謎』をたまたま書店で目にし購入してからで、前作の『真説 本能寺 』で探究心に目覚め、2002.6のシンポジウム「 本能寺の変 -明智光秀の真価を問う-」 にも参加させていただきました。

今回のご著書は特に興味のある部分から目を通させていただいておりますが、最近の自分の関心は、『多聞院日記』天正九年八月廿一日の条に見られる「惟任ノ妹ノ御ツマキ」ならびに筒井順慶、定次の婚姻問題であり、後者については信孝の件においてご教示頂く点がありましたが、前者について桐野先生はどのようにお考えでしょうか。

「ツマキ」を「妻姫」として信長の側室であったとする説もありますが、むしろ光秀の室家である妻木と見るべきだ思われます。ただ、その場合には妻木某に嫁いだ光秀自身の妹とみるのが一般的なのかも知れませんが、自分は光秀室の妹のことではないかと考えています。

『兼見卿記』の天正七年の記事に「惟向州妹」(四月)や「惟任姉」(九月)として「妻木」なる女性の存在がみられることは既に知られており、先生も『俊英 明智光秀』のなかでそのことを指摘され正室亡きあと後妻となったのではないかと推定されておられますが、『多聞院日記』の記事は、まさにその彼女の死去を伝えるものと考えられないでしょうか。
しかも「信長一段ノキヨシ也」との記述からは、彼女が信長に気に入られた女性(かつて夜伽した?)であったが故に「向州無比類力落也、」ということになったのではないかと推察するのですがいかがでしょう。

ちなみに『兼見卿記』と時を同じくして『言経卿記』にも「ツマキ」なる女性が見られることを先生はご存知でしょうか?
このときの山科言経は、亡父言継の家領を無事相続した御礼に妻子を同道して信長を訪問し(ただし顔面の腫れ物により対面ならず)、続いて彼女のもとにも立ち寄り贈答を行っています。
もしこの「ツマキ」が『兼見卿記』の「ツマキ」と同一人物であったとすれば、なお一層『多聞院日記』の記述に真実味が増すように思われるのですが・・・・・

近所女房衆
桐野
Tm.さん、はじめまして。

さっそく拙著お買い上げいただき、有難うございます。
また過去の拙著、拙稿も精読されておられる由、恐縮至極です。

さて、この度のご意見、なかなか興味深く拝読しました。
とくに『言経』天正七年五月二日条は面白い記事ですね。
 山科言経が父言継の死去に伴い、信長邸に挨拶にうかがっています。この邸宅は同年二月に竣工した「二条御新造」(のちの二条御所)のことです。
信長は荒木村重を攻めるため摂津に出陣し、途中から帰京して二条御新造に入ったところに、言経が挨拶に祗候したのでしょう。
信長は言経に言継の遺領安堵と家督相続を許したようですが、ご指摘のように、信長は「面顔ニ腫物出来」という事情で、言経には面会しておりません。

問題の一節はその次です。

「其外近所女房衆ツマキ・小比丘尼・御ヤヽ等ニ帯二筋ツヽ遣了、其外カヽ  遣了」

ここに「ツマキ」が登場します。
言経が信長に家督相続の御礼の挨拶をしたときに、その流れで二条御新造にいる女房衆にも挨拶したというのは十分ありえますね。というか、それが儀礼的な慣習でもあります。
となると、「ツマキ」は信長付きの女房衆ということになりますから、勝俣鎮夫氏の信長の「キヨシ」(気好)だった側室という解釈があてはまるのでしょうか。

ただ、「近所女房衆」という書き方が少し引っかかっております。ただの「女房衆」なら、信長付きであることは明らかですが、「近所」をそのまま解釈すれば、二条御新造の近所ということになりますね。
たとえば、言経が家督相続の御礼挨拶をする場合、信長の重臣(とくに在京している)にも挨拶する可能性があります。京都所司代の村井貞勝などがそれに該当するでしょう。また、光秀の京都屋敷があるのも確実ですから、そこに留守の女房衆(ツマキか)がいたので進物したという考え方ができるかどうか。

まあ、ふつうなら、信長付きの女房衆だと解したほうがいいかもしれませんが。

『言経』に出てくる「ツマキ」と、『兼見』に出てくる「惟向州妹」の「妻木」、あるいは「惟任姉妻木」が同一人物なのかどうかも重要ですね。
このうち、「惟任姉妻木」について、兼見は「在京之間」と書いており、この「妻木」の居所は京都以外にありそうです。それが坂本なのか、安土なのか、どちらにもとれそうです。
また、「妹」の「妻木」が兼見のもとを訪れた天正七年四月十八日は、信長の摂津出陣、のちの在京の期間とも重なっており、信長付きの女房衆という可能性を排除できません。

もっとも、『兼見』天正八年正月十七日条で、兼見が光秀に新年の挨拶をしに坂本に行ったとき、光秀に面会したのち、「妻木」にも会って進物をしています。
進物が光秀のそれの半分であることから、「妻木」は明智家でも重要な立場の人間です。私は以前、これを光秀夫人と推定しましたが、あるいは夫人の実家の当主妻木氏(『明智軍記』だと、妻木範熈か同範賢か)の可能性もないわけではありません。微妙なところです。

同一人物か否か、決定的な証拠はありませんが、別人だとする積極的な理由もありませんね。難しいところです。

あと、『多聞院』に出てくる「御ツマキ」ですが、「御」という表記がとても不自然です。「ツマキ」が「妻木」なら、名字に冠しているわけです。
もっとも、多聞院英俊がこの女性の出自などをよく知らず、名字ではなく女性名だと勘違いして、たとえば、信長妹の市を「御市の方」というように、敬称の接頭語を付けただけなのかもしれません。

それともうひとつ、光秀の出自にも関わることですが、「妻木[惟向州妹]」や「惟任姉妻木」とする「妻木」が、たとえば、帰蝶を信長夫人斎藤氏と実家の名字で呼ぶように、実家名だとすれば、光秀の名字も本来は妻木だった(妻木家から明智家に養子入りした)可能性も考えるべきではないかと、以前から思っておりました。
光秀関係の系図のなかには、妻木ではありませんが、別の家から明智家の養子になったというのもありますので、今後、さらに要検討でしょうね。

ともあれ、ご教示有難うございました。今後の課題にしたいと思います。


信長ヨリ筒井順慶へ祝言在之、
Tm.
桐野先生、早々のご返事痛み入ります。

実際のところ『多聞院日記』の記述は多分に風聞などに基づく不確かさを伴っており、ご指摘の如く「御」を冠した「ツマキ」については、従来、他方よりも疑問が投げ掛けられていました。
その様ななかで
>光秀の名字も本来は妻木だった(妻木家から明智家に
>養子入りした)可能性も考えるべきではないかと、
>以前から思っておりました。
というのはその『多聞院』の記述に注目されてのことなのでしょうか?

『多聞院』のそれが人名であれば、妻木氏より他家に嫁いだ女性ということになろうかと思われますが、婚家の名が記されずに「信長一段ノキヨシ也」と記されているのは、やはり彼女が信長に近しい女性(側室を含め)であったとの英俊の認識を示すものといえるのではないでしょうか。
ただ、勝俣氏の「ツマキ」を「妻姫」とする解釈には疑問であり、また彼女が本当に信長の側室であったなら「信長ノ(御)ツマキ惟任ノ妹死了、」と記されていて良いかと思われ、光秀関係の系図や軍記物等にすらその事柄が記されていないことから、側室とみることにも疑問があります。

そうしたなかで自分が注目しているのは、元亀元年の二月と七月に、入京した信長が光秀の屋敷を宿所としていることであり、そのときに彼女が信長の夜伽を勤め「信長一段ノキヨシ也」となったもので、結果として身籠らなかったことで側室に召されることなく光秀の許に留まり、その後も信長入京のおりに相手になることもあったのではないかとみています。
ただ、『言経卿記』に「近所女房衆」とだけある点には疑問の余地がありますが。

実を申せば、その彼女こそが天正三年二月に筒井順慶に嫁いだ女性ではないかと考えていたのですが、最近ではその前年に亡くなった畠山昭高に嫁いでいた養女(道三の娘とも?)の再稼ではないかと考えており、その流れで信孝の猶子や大和拝領の件が出てきたのではないかとみています。

信長公記
磯部
磯部でございます。
ご多忙中のところ、御返事を賜り、厚く御礼申し上げます。
小生は太田牛一の著作にも多大な関心を抱いております。かつて、桐野様は、桶狭間合戦に関連させて、小瀬甫庵が『信長記』の執筆にあたり、天理本系統の『信長公記』を利用したのではないか、という趣旨を発表されました。大変、興味深い内容でした。近々、『信長公記』の諸本についてのご研究を発表されるとのこと、楽しみにしております。

光秀は妻木氏?
桐野
Tm.さん、こんにちは。

光秀が妻木名字だった可能性は、『多聞院』ではなく、『兼見』に基づいています。これにははっきりと、光秀の姉も妹も(おそらく同一人物ではないかと思われますが)妻木氏だと書いてあるからです。

当時、既婚の女性は、婚家ではなく実家の名字を名乗るのが常識ですね。未婚の場合ももちろんそうです。
光秀の姉妹が未婚か既婚かわかりませんが、いずれにせよ、妻木名字であるなら、光秀もそうだったのではないかと考えるのは自然です。

勝俣鎮夫氏の説についてですが、「御ツマキ」を「御妻姫」と解するのは明らかに不自然で無理筋でしょうね。重箱読みの逆、湯桶読みになりますから。

もっとも、だからといって、勝俣説が無効だとは思えなくなりました。Tm.さんのご指摘によって、どうやら信長のそば近くに「ツマキ」という女性がいることがわかったからです。
これをふつうに「妻木」と読めば、妻木氏という女性だということになり、勝俣氏の光秀妹=信長側室説の裏づけになるかもしれません。


天理本信長記
桐野
磯部さん、こんばんは。

天理本に触れた拙稿までご覧でしたか。
あれに書いたように、天理本は首巻があるので貴重です。しかも、陽明本その他と桶狭間合戦の記事に異同があり、なおかつ、甫庵信長記の記述と酷似している点があるのも、また面白いですね。

信長公記は何といっても自筆本・写本の数が半端ではなく多いですし、まだまだ発掘される可能性が高いです。
その全体を把握するというのは並大抵のことじゃないですね。


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昨日、古文書講座「てらこや」の最終講座(第5回)だった。

土佐藩重役の寺村左膳の日記慶応3年分を前期から読んでいる。今期を含めて計9回やったが、それでも大政奉還まで届かなかった。1カ月も残したままで終了したのは残念だが、4月からの講座でやるしかない。

今回は、①イカロス号事件の長崎での処理、②薩土盟約の頓挫のいきさつの2点を中心に読み進めた。

イカロス号事件の舞台が長崎に移り、幕府は外国奉行の平山敬忠などが土佐藩側、とくに海援隊士たちに事情聴取している様子を、佐々木高行の『保古飛呂比』(8月19日条)から見ていった。
幕府がイカロス号事件の犯人が土佐藩の人間であると盛んに英国側に吹き込み、薩長と土佐の離間を策していると、土佐藩側がとらえているところが非常に興味深かった。

幕府側によって事情聴取されたと思われる人々は、『保古飛呂比』によれば、

石崎揆一郎(長崎人)
平野富二郎(長崎人)
三澤揆一郎(江戸人)
渡辺剛八(越前人、のち大山重)


などだが、このうち渡辺剛八以外はよく知らなかった。
その後、受講生の方から、他の3人を教えていただいた。名前も微妙に違っている。

石崎麒一郎 長崎地役人・本船番
事件当日、南海丸に行き、暇乞いをしていたため、取調べを受けたらしい。

三沢揆一郎 御医師松本桂太郎門人
事件当日、南海丸に行き、暇乞いをしていたため、取調べを受けたらしい。

平野富二
長崎製鉄所機関手見習いを任命され機械学の伝習をうけた。翌年機関手となり、本木昌造に師事して汽船ヴィクトリヤ号(長崎丸1番 94トン)、チャールス号(長崎丸 138トン)の乗組み員となる。
慶応 2年(1866) 21歳
徳川幕府海軍軍艦回天丸の一等機関手として下ノ関海戦に参軍する。養家をでて始祖の平野家を再興する。
慶応 3年(1867) 22歳
土佐藩雇用となり汽船夕顔、若紫、空蝉号などの一等機関手となる。坂本竜馬らの海援隊々士との親交がふかまる。

非常に詳しい情報で有難かった。御礼申し上げます。

なお、『保古飛呂比』のなかで、長州の木戸貫治(桂小五郎)がちょうど長崎に来ており、薩摩藩士と称していたことなど興味深い記事があった。
そして、木戸がアーネスト・サトウに会ったことを佐々木に語り、サトウが「三藩尽力にて大変革の事を周旋」することを教えてくれたという記事があった。
この「三藩」は薩摩・土佐のほか、宇和島だろうと思ったので、そのように話したが、もしかしたら芸州藩かもしれない。

また、サトウがこの「三藩尽力」が成就しなかったら、それは欧州の諺で「老婆仕事」というのだと語ったので、英国の一書記官からそんなことを言われたら、面目がない、奮発しないといけないと、佐々木らが意気込んだというのも面白かった。

ところで、欧州の諺でいう「老婆仕事」って、どんな意味だろうか?
どうやら、大勢で頑張ってみても、結局、実現できない、成功しないという意味らしい。それを老婆の仕事に比喩しているのだろうか?
サトウだから、おそらくイギリスの諺だろう。英語で何というのか、もしご存じの方がおいでなら教えて下さい。

薩土盟約の頓挫については、やはり寺村の日記の記事は重要だと思う。
土佐から上坂した寺村と後藤は、大坂の心斎橋筋で、ばったりと西郷吉之助に出会う。
西郷は、脚気養生のため京から大坂に下ってきた島津久光のお供をしていた。そして相撲見物の帰りに寺村・後藤らと会ったのである。
それから、薩土の間で会談が行われるが、会談内容を寺村が簡単に箇条書きにまとめている。そのなかに「兵隊は差し出し候哉等の事と相尋ね」という一節がある。
これはおそらく、西郷が土佐側に尋ねたものだろう。西郷の関心事は、上京した後藤らが土佐藩兵を引き連れてきたかどうかにあったのである。

これについては、すでに山内容堂が、大政返上の周旋は正々堂々とやるべきで、兵力などを使うのはもってのほかと託宣していたので、土佐藩兵の上京は不可能だった。

西郷がこれに失望したことは想像に難くない。土佐藩はやる気がないと、西郷が判断したのではないか。このことが、薩土盟約の頓挫の大きな理由になっているように思う。

そして近年、故・高橋秀直氏が薩土盟約頓挫の理由として挙げた『嵯峨実愛手記』(正親町三条実愛の日記)の一節も紹介した。
それは、幕府が天皇の彦根動座を考えており、会津藩が天皇の警固にあたる。その一方で、フランス艦隊を薩摩に派遣して薩摩藩の砲台を攻撃することによって、在京薩摩藩士の動揺を誘い、薩摩藩討幕派を孤立化させるという策略だという内容である。

それを聞いた西郷らが危機感を深めて、薩土盟約という迂遠な周旋策では間に合わない、先手を取って急ぎ挙兵すべきだという理由から、薩土盟約を破棄するに至ったというのが、高橋説の趣旨である。

ただ、フランス艦隊の薩摩への派遣は困難ではないか。すでにフランス本国では公使のロッシュを解任し、幕府一辺倒から等距離外交へと政策を変更していることと、イギリス・アメリカ・オランダなどの手前、単独で薩摩攻撃など出来ないのではないか、とくにイギリスが黙っていないだろう。つまり、この策は現実的ではないというような話をした。

ほかに、長州藩士の柏村数馬の『柏村日記』から、西郷が柏村に語った「三都同時挙兵計画」の全容を紹介し、それでも西郷が「討幕は仕らず」というのはなぜか。西郷らが考えている「討幕」とは何かという話をしたところで、タイムアップとなった。
期せずして、うまいまとめになっていたと思う。

次期講座は4月10日(火)から開講です。
また寺村左膳の日記の続きをやります。次期こそは大政奉還、龍馬暗殺、王政復古政変というクライマックスになります。
興味のある方、ご参加下さい。
詳しくはここへ

【2007/03/14 23:14】 | てらこや
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「老婆仕事」「老婆の理屈」
まいたけ君
英語の諺はわかりませんが、萩原延寿『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』5によれば、木戸は、サトウとの談話を佐々木高行に語っただけでなく、坂本龍馬にも、サトウとの談話の趣旨を書きおくっているそうです。
 坂本龍馬宛の木戸の手紙には、次のように書いてあります。

 「西洋にては古より、公論と存込み天下に相唱え、不被行とて其の儘捨置候事は、老婆の理屈と申し、男子は好み不申、乍去、日本今日の建言と申し候ものも、少しは老婆の理屈と申し候気味有之候様覚申し候などと談話仕候由伝承仕り、不覚長嘆息、外国一通弁館をして此語を吐かしむるは、列侯は不及申、神州男子の大恥辱と、老屈生(木戸)までも甚感慨悲痛罷在候折柄、御大論拝承奉欣喜候。」

萩原氏は、「サトウが使ったという「老婆仕事」あるいは「老婆の理屈」とは、たわいもない作り話(old wives'tale)のことであろう」と書いてありました。
もしかしたら、このような諺は実際はなくて、木戸の自尊心を刺激するための方便だったのではないでしょうか?

サトウが、木戸=長州にハッパをかけたと考えると、「三藩尽力」とは、薩摩・土佐、そして長州なのではないでしょうか?

老婆の理屈
桐野
まいたけ君さん、こんばんは。

木戸は龍馬には「老婆の理屈」と語っているんですね。
どうも口先だけで大きなことを言って、有言不実行の態度を指すみたいですね。

萩原延寿氏がご存じない格言なら、サトウの作り話も一理あるかもしれませんね。

「三藩尽力」に長州が入るかどうか微妙なところですね。四侯の建白により、一応、長州宥免の勅許は下りていますから、その意味では「朝敵」の汚名は雪げたといってよいかもしれませんが、現実にはまだ京都政局に復帰するには、いくつものハードルがあります。
長州による周旋活動は現実問題として、まだ難しいと思うのですが……。

old wives'tale
板倉丈浩
こんばんは。

英語のold wives'taleは「迷信」という意味でよく使われますが、こういう表題の劇もあるみたいなので↓、こちらの方が妥当ですかね・・・。1590年に作られた喜劇作品のようです。

ジョージ・ピール『老妻物語』(The Old Wives' Tale)
 http://homepage3.nifty.com/engeki/RP2000.8.htm#7

「森の中での場面で、場内に散らばっているのであろう手隙の役者たちがあちこちから木霊となって台詞を次々に繰り返す」というシーンがあるようなので、あちこちの藩がいろんなことを「建言」している当時の状況について、「あの喜劇に似てますね」という感想を漏らしたんじゃないかと思われます。

『一外交官の見た明治維新』には、木戸と伊藤俊輔が「毛利家は世間で誤解されている。幕府を倒そうなんて夢にも思っていない」と力説したのに対して、サトウは「彼らは私のことを誤解していたようだ・・・イギリス側ではずっと以前から、行動を共にしている西国諸大名の政策の基本点は、将軍職の廃止にあるということの明白な証拠を握っていたのである」と記しており、「老婆の理屈」ないし「老婆仕事」についての言及は全くありません。

つまり、「本音の話が出来なかった」と残念がるサトウが世間話的に言ったことを、真剣な話をしたつもりの木戸の方が「有言不実行を皮肉られた」と誤解して憤慨した・・・というのが真相のような気がします。


老妻物語
桐野
板倉さん、こんにちは。

まいたけ君さんが紹介された old wives'tale そのままのシナリオと芝居があるんですね。

なるほど、諸藩の周旋や建白が木霊のように鳴り響いている割には、成果はいまひとつという状況を、サトウが皮肉っているのかもしれませんね。

サトウと伊藤俊輔との会話は、伊藤が言質をとられることを警戒しているようにも見えますね。将軍辞職要求を「討幕」だととられたくないというのが伊藤の本音でしょうか?

まあ、土佐藩も含めて将軍辞職が大政返上に伴うべきだというのは、「公議」「公論」を主張する雄藩にはすでに共通の了解事項だったはずですが、伊藤はどうしてそんなに警戒したんでしょうね。外国人ゆえ、いまひとつ信用できないと思ったのでしょうか。



アーネスト・サトウ
板倉丈浩
>諸藩の周旋や建白が木霊のように鳴り響いている割には、成果はいまひとつという状況を、サトウが皮肉っているのかもしれませんね。

この後、サトウは久留米藩士相手に「何らかの形で戦争が行われなければ問題は解決しない」などと言っていますから、土佐藩などの建白運動を冷ややかに見ていたということはあると思います。


>伊藤が言質をとられることを警戒しているようにも見えますね。将軍辞職要求を「討幕」だととられたくないというのが伊藤の本音でしょうか?

伊藤というよりは木戸でしょう。伊藤はサトウと面識がありますが、木戸は初対面ですし。
サトウは木戸には非常に好意的なのですが、片思い的な部分もありますね。

サトウは「天皇を中心に雄藩連合政府を作れ」という意見の持ち主で、木戸にも当然その話題を振ったと思われます。
ただ、長州藩は幕府に対して、表向きは恭順の姿勢を示していましたし、この段階では中央政局には何の発言権もない状況ですから、責任ある地位にある木戸としては「イギリスが内乱を煽っているのではないか」と警戒し、「長州藩主に野心はありません」と無難なコメントをしたんだと思います。


少し似ている【老婆の繰言(くりごと)】
吉田松陰大好き
童門冬二氏の著作『幕末・男たちの名言』(PHP文庫)で、桂は龍馬に「いつも、おばあさんの繰言ばかり言っている」と皮肉られた事を上げておられますね。史料でない為サトウとの談話を龍馬に報告する前か後か不明ですが、他者からは“逃げの小五郎”と認識されがちです。高杉晋作は桂の本質を見抜いており「古い家をぶっ壊すのは俺の方が得意だが、新しい家を建てるのは桂にかなわない」と理解しています。暴動を嫌い、皮肉られても辛抱強く、クールに事を見守るタイプである様ですね。暴れ牛の晋作が良き理解者なので、吉田松陰の教育はさすがですhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F89F.gif" alt="" width="12" height="12">

老婆の繰り言
桐野
吉田松陰大好きさん、こんばんは。
桂は龍馬にもばあさんの繰り言みたいだと言われていたんですか。面白いですねえ。
桂の場合、その慎重さが生き残りの秘訣だったかもしれません。とっくに文久年間に非命に斃れていてもおかしくないですから。

原因はこれか?
かわい
>吉田松陰大好きさん、桐野さん
 それってたぶん、この記事の最初のコメントでまいたけさんが紹介してくださった「坂本宛木戸書簡」と関係がありそうです。ああいう手紙をもらったら、お前も愚痴っぽいやっちゃなあと、龍馬でなくてもいいたくなるでしょうから(笑)。

繰り言
桐野
かわいさん、どうも。

こちとらが繰り言というか、くり返しになってしまったようですね。まいたけ君さんの書き込みを失念してしまいまっておりました。

私も繰り言
吉田松陰大好き
恐らく、まいたけさんのコメントに充分関係しているでしょう。慎重派の桂と、即行派の龍馬の性格や価値観の違いが見えますね。龍馬も『己の成す事は己しか知らない。周囲の者は何とでも言え』と言っているのに、この時の桂の内面は理解していない様ですね。龍馬に限らず、他も“己の成す事は天しか知らない”等言っているので、いかに理解者が少なく苦悩した事か(現在も同様でしょうが)。それにしても、人の意見を聞かない晋作が、よくぞここまで成長してくれたhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F89F.gif" alt="" width="12" height="12">涙チョチョ切れもんです!桐野様、先のコメントは新しい日本語ですね!おもろいッス!

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本欄で、故・高橋秀直氏の遺作をご紹介した。

彼は本来、近代史の研究者であり、とくに『日清戦争への道』(東京創元社刊)という名著も遺している。
幕末維新史関係の論文はほとんど入手したが、この本だけはすでに絶版ということもあり、送られてくる古書目録はむろん、ネットで探しても、なかなか手に入らないでいた。

明治維新のなかに、その後のわが国の大陸侵略を必然化させた内因があったとする通説に対して、日清戦争の前後で、わが国の政治外交上の大きな転換、画期があったというのが、同書の趣旨のようである。
個人的にも興味があるテーマだったので読んでみたかった。

そこで思いあまって、ネット古書店「日本の古本屋」の「探求書コーナー」に書き込んだところ、すぐに情報をいただいた。

以前もこのコーナーに書いたことがあったが、梨のつぶてだったので、今回もダメもとだと思ってあまり期待していなかった。

しかも、情報提供店は自店の在庫ではなく、他店の在庫にあるはずだと教えてくれたのである。
それは神田神保町の古書店だったので、今朝さっそく電話してみたところ、在庫があることが確認でき、折良く本日は古文書講座の日で神保町に行くから、ついでに引き取ってくることになった。

自店の利益にならないにもかかわらず、何と奇特な古書店だろうと感謝することしきりである。同じ業界なので、店主同士で知り合いなのだろうか。どんな事情があるか知らないが、まことに有難かった。

うれしくなって、速攻で書いている。

そのお店は、滋賀県大津市にある「古本あい古屋」である。中国関係の古書が充実しているとか。
残念ながら専用サイトがないようだが、ここに同店の紹介があります。
きっと良心的なお店だと思うので、ご近所の方は一度訪れてみて下さい。



【2007/03/13 11:18】 | 古書
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復古記

マツノ書店から、『復古記』復刻のパンフレットが送られてきた。

総頁数28ページと、大変力が入っている。
デザインも渋くて素敵だ(写真参照)。

推薦文も、次のように多彩な面々(敬称略)。

宮地正人
中村彰彦
箱石 大
一坂太郎
紀田順一郎

それに不肖、小生である。

すでに仮予約も順調の様子。
幕末維新研究者や通の幕末史ファンにとっては、ベストにしてラストチャンスだと思う。分割払いもあるので入手しやすい。

パンフレットは無料で送ってくれるそうなので、マツノ書店サイトをご覧下さい。

マツノ書店の回し者かと思われるかも知れませんが、そうです。より正確には私設応援団です。
厳しい出版情勢のなか、大手が見向きもせず、中小は体力の関係で手がつけられない、過去の定評ある史料書・学術書を精力的に復刻して読者に廉価で提供する、その志と情熱を応援しているからです。
この活動のなかから、きっと次代を担う研究者や作家が生まれてくるに違いありません。

【2007/03/12 23:43】 | 幕末維新
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大河ドラマ「風林火山」第11回。

ようやく武田家中が信虎追放に向かって動き出した。
板垣・甘利・飯富らの譜代重臣が密談している場面があった。そのなかで、飯富が天文5年(1536)の前島一門処断の件で武田家奉行衆が退転したことを他人事のように述べていたが、本来なら家中を揺るがす一大事件のはずである。

奉行衆というのは、武田家の職制では両職(当該期は板垣信方と甘利虎泰か)に次ぐ重職で、公事奉行と勘定奉行の二つがあるが、この一件の場合、訴訟沙汰に関わる公事奉行が該当するのではないか。

不勉強で、このとき退転した奉行衆が誰だか知らないが、これら奉行衆は武田氏屋形である信虎の側近衆であり、本来、甲斐武田氏の根本被官のうちの有力者がつとめるはずである。
わかりやすくいえば、跡部氏とか長坂氏などに代表される人々ではないかと思われる。
彼ら奉行衆の退転は、信虎が代表する大名武田家の「公儀」が公正を担保できないことへの強烈な不信感の表明だと思われる。
自家の根本被官にさえ、このような実力行動に出られるのだから、武田家中の内部危機は相当深刻だったはずである。

そのあたりの家中の内紛を描いたならば、ドラマにもっと迫真性が生まれたはずである。また信虎がそうした家中の矛盾を外に転化するために外征に熱心で、その勝利の果実によって家中を慰撫するという、なりふりかまわぬ方法をとったとしたほうが、譜代老臣たちの信虎追放への合意形成により説得性が出たのではないかと思うが、例によって、父子相剋に事態を矮小化、単純化したのが惜しまれる。

前回の海ノ口城の戦いで、山本勘助がまったく必然性のない軍師的役割をつとめたあたりから気になっていたのだが、ドラマのメインストーリーにおいて、勘助が関与する必要のない場面でも、無理やり関わらせようとする傾向が目立つようになった気がする。

今回の真田幸綱との別れもそうだし、次回の追放された信虎の出迎え役に勘助が任命されるという噴飯事もそうである。今川家はしかるべき家臣を出迎えさせないと、礼を失すると思うのだが……。勘助は牢人だぞ。

以前、といっても20年以上前だろうか。「黄金の日日」という大河ドラマがあった。これも堺衆の視点から戦国時代を描くという面白い作品だったが、いつも重大な場面で、主役の呂宋助左衛門がからんでくるのである。
金ヶ崎の退き口で秀吉に玉薬を届け、杉谷善住坊の狙撃も邪魔し、安土城の青瓦を製作したり、干殺しにされている鳥取城に潜入して無駄に兵粮を食いつぶしたり、細川ガラシャを助けたり、挙句は本能寺の変でも信長に会いに行こうとしたり……という具合である。あまりにも同じパターンがくり返されるので、途中からイヤになった。

私は、この手の必然性のないパターンの連続を、主役の出しゃばり症候群と呼んでいて、とくに史料が少ない主役の場合にとられる手法で、致し方ない面もあるものの、思わず「おいおい」と言いたくなるような、ドラマのリアリティを極端に削ぐ逆効果をもたらしてくれる。

近年の大河では、「利家とまつ」にその傾向が顕著だった。何せ、清洲会議に前田利家が登場するし、富山城にこもる佐々成政を説得するために、まつが豪雪の中、一人で!出かけるのだもの(大笑)。

勘助も史料が少なく、その足跡がわからない点が多いだけに、この症候群が発症する可能性がかなり高くなるだろう。
これが、このドラマの死命を制することになるかもしれない。


【2007/03/11 23:37】 | 風林火山
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メチャクチャ面白いです
吉田松陰大好き
『でしゃばり症候群!』、勘助は『牢人!』と、メッチャおもろいです。牢人なら、どの様に信虎を迎えるのでしょうねぇ。ワクワクします!昨年の山内一豊が明智光秀の最期を見届けたのも面白かったです。あまり詳しい事は分かりませんが、千代は大阪城で人質となったんでしたっけ?ガラシャは最後まで抵抗しましたが、ドラマの千代も最後まで抵抗し、人質になっていませんでしたが詳細をお聞かせ願います。


吉田松陰大好き
そーいえば、ミツが出てきて良かったですね!http://blog83.fc2.com/image/icon/i/F8D2.gif" alt="" width="12" height="12">カンパ~イhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F8D2.gif" alt="" width="12" height="12">2,3秒程でしたが、念願が叶って本当におめでとうございます!DVD等に納めしたか?12月の総集編までかなり時間がありますよ!土曜日がチャンスですね。

ドラマ
小池
歴史をドラマ、小説化する難しさですね。視聴者、読者にうんなるほどと思わせるうそ(ホラ)をつける人が、良い脚本家であり、小説家なんでしょうか


桐野
>吉田松陰大好きさん

大河「功名が辻」では、千代は大坂城で人質になっていましたね。これは山内家に限らず、大名すべてがそうでした。

ミツが回想シーンで出てきましたけど、セリフはなく、しかも静止画だったような。もっと見たいですけどね。「花より男子」2でも、出番が少なくて残念です。

>小池さん

そうなんですよね。おおかたを唸らせるというか、異論を挟ませないような「うそ」が大事だと思います。
それは多分に一般的な合理性と、歴史ならば、その時代の価値観の本質を見抜く力が必要ではないかと思います。
今年の大河は出だしはよかったのですが、付け焼き刃だったかもというか、メッキがはげなければよいがと、少し心配してます。



功名が辻
吉田松陰大好き
御言葉を返し、申し訳ありませんが、千代は豊臣方の要請をことごとく断っていましたが、それでも引かない豊臣方に、一豊の言う事しか聞かない!と、仕舞には屋敷に火をかけようと最後まで抵抗していましたよ(ドラマでは)。史実と異なりますが、主役だから決めていましたね。『花より男子』という素晴らしいドラマを御覧になっているんですね。さぞ、熱が入っている事と思います。下剋上を起こして主役の座を取ればいいのに。しほりちゃんは演技が上手いから、これからドンドン出てくると思いますよ!桐野様のメロメロ時代が到来しそうですねhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F991.gif" alt="" width="12" height="12">

でしゃばり大歓迎
タカシ
私もお言葉を返し、申し訳ありませんが(笑)、私は風林火山をノンフィクションとしては見ていないので、いろいろな表情(特に目)を見せてくれる勘助のでしゃばり大歓迎。
そして、大森脚本がビシバシ伏線を張っているところを
いつ、あ、そうかと自分が気がつくのかと興味津々。
一言の台詞も聞き逃さないよう、しっかり見ているので、かなり疲れる。 これで勘助の出番が少なかったら、完全にキレル。 私にとって勘助は癒し系だもんで(笑)
タイトルロールに「ミツ」と出た時点でなんか感動してしまった。勘助が形見の眼帯をきれいな布で包み、大切に持っていることにもジーン。

タカシさんも凄いです
吉田松陰大好き
勘助がキレイな布で眼帯をくるんでいたなんて気付きませんでした。相当念入りに御覧になられている様で、風林火山のスタッフ一同『しめしめhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F99B.gif" alt="" width="12" height="12">』と思っていますよ~。私も【ミツ】のタイトルを見て「オッ!」と手を叩いて喜んでいました(桐野様にカンハ~゚イhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F8D2.gif" alt="" width="12" height="12">と思っていたのでhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F9A4.gif" alt="" width="12" height="12">)。でも、ドラマの終盤、忘た頃に2,3秒出て「あっ、そうか」と思い出しましたhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F99C.gif" alt="" width="12" height="12">。静止状態ですが、正に《乙女の微笑み》だなと、男であれば何度でも見たくなる程キュートに思えましたよhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F992.gif" alt="" width="12" height="12">やはり、土曜日がチャンスです!

千代と眼帯の話
かわい
 あ、別に千代が眼帯してたとかいうネタじゃありませんから(笑)。

>吉田松陰大好きさん
 余計なお節介ではありますが、それはちとお心得違いかと思います。諸大名の大坂屋敷は西軍の統制下にあり、千代も勝手に出入りできないから止まっていたわけで、人質になっていなかったわけではありません。西軍は細川家の一件で城内への収容こそ諦めましたが、在宅でも人質になっていたことには違いないのです。
 ま、ドラマでの千代の抵抗は作り話ですから、そのあたりはいくら格好よく作ってもらってもかまわないわけですが、この場合は人質として毅然かつ大胆に抵抗して見せたと解釈するのが無難ではないかと思います。

>タカシさん
 私の見間違いでなければ、予告の信虎に斬りかかるシーンでは、勘助は鮑眼帯をあの草鞋眼帯に掛けかえてましたね。勘助のミツへの思いを象徴するあの眼帯、その後どうなるのか気になりますね。結果を先取りすれば、勘助は信虎を斬らないわけですし、今後は期するところがあるときにかけて勘助大活躍、みたいな使い方を期待したいところです(ウルトラセブンかい(笑))。

かわい様、感謝致します。
吉田松陰大好き
なるほど!そういう事でしたか。先のコメントでは、大変失礼を致しました。専門家からのアドバイスは為になります。事に意見する上、それを上回る答えを頂けて、意見する甲斐があります。御丁寧にありがとうございました。大変スッキリし、ルンルン気分になっておりますhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F89F.gif" alt="" width="12" height="12">

見方もいろいろ
桐野
タカシさん、はじめまして。

私も別にノンフィクションとして見ているわけではないです。そもそも、勘助の史料が少ないので、ノンフィクションは成立しないと思います。

要は、わかっている史実や信頼できる史料をどの程度活用するかというところが脚本家の手腕でしょうね。
その際、想像や創作が介在しても全然かまわないわけで、問題はそれがどれだけの説得性(これも人さまざまでしょうが)をもつかでしょう。
タカシさんは説得性があるというか満足されている。一方、私はまだまだ煮詰め方が足りない、もっと史実や史料を活かす余地があるぞという立場。
まあ、価値観の違いですから、致し方ありません。

もちろん、史実や史料をほとんど無視するやり方もありますし、一概に否定はしませんが、でも、それはあまり歴史ドラマという範疇で見ないほうがいいかもしれません。

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このところ、帰鹿したり拙著新刊があったりでゴタゴタして、他の話題を書く余裕がなかったが、帰鹿前に戦国史研究会に久々に出席した。

2月24日、同研究会の例会が駒沢大学キャンパスで開かれた。
今回の報告者は香川県在住で、四国の戦国期・織豊期の研究者である橋詰茂氏で、論題は表題のとおりである。

じつは、橋詰氏が新著(博士論文とか)を刊行したばかりで、例会会場で割引販売があるというのが、久しぶりに出かけた一番の動機だった(笑)。
おかげさまで、2割引で購入できました。念のため、データを書いておきます。目次・構成など詳しくはここへ
橋詰茂

著者:橋詰茂
書名:瀬戸内海地域社会と織田権力
版元:思文閣出版
刊行年:2007年
定価:7.200円+税


さて、報告のほうは、長宗我部元親の伊予侵攻に関する新出文書3点の紹介しながら、天正5~12年という織田権力期から豊臣政権初期における伊予情勢を考察するものだった。

元親文書は、伊予国喜多郡(現・愛媛県大洲市)の国人、曽根氏の家に伝来していたものと思われる。そのうち、年次が天正5年(1577)に比定されるものは、長宗我部軍が伊予に侵攻したとき、曽根氏がこれに呼応して大津(現・大洲市)周辺が長宗我部方に平定されたことを示している。

元親の発給文書は知られているものが少ないだけに、貴重な史料紹介だった。

また、当該期の他の元親文書や、河野通直文書、讃岐の香川信景文書なども検討されたが、とくに東予の金子元宅に宛てた香川信景書状の年次について、藤田達生氏が「芸土入魂不相替候」の一節から、毛利・長宗我部の反信長同盟だとして、天正9年に比定している。
これに対して、橋詰氏は同書状中の「芸羽入眼付而境目之儀取々到来候哉」が「芸」=毛利、「羽」=羽柴秀吉であることから、両者の境目が確定するのは、天正10年の信長の死以前には考えられないことから、同書状は天正11年に比定するのが妥当だと述べた。

私もこの藤田説には常々疑問に思っていたので、すこぶる同感だった。

質疑応答で、私は讃岐の国人である香川信景と同之景が同一人物なのかどうかという点を橋詰氏に質した。
『南海通記』には天正3年に、香川之景が信長から一字拝領して信景と名乗ったとある。しかし、橋詰氏は同書の記事を否定して、之景と信景の花押が異なるだけでなく、別の人物と思われる形跡が多々あるので、別人と考えたほうがよいという見解だった。

個人的な関心とも合致した面白い報告だった。
四国の戦国から織田期にかけての一次史料が少ないなかで、今後も一層の新史料の発掘に期待したい。

なお、例会終了後、古くからの友人である大嶌聖子氏に呼び止められ、そのお声掛かりで平野明夫氏から御高著をいただいた。古い友人たちの厚誼は有難くてうれしいが、高い値段の本だけに非常に恐縮した。さっそく拙著を送っておいた。
平野氏の著書もデータを紹介しておく。そのうち、機を見て紹介してみたい。とくに織田期の徳川氏、織田権力との関係などの論考が興味深いのではないかと思われる。詳しくはここへ
平野明夫

著者:平野明夫
書名:徳川権力の形成と発展
版元:岩田書院
刊行年:2006年
定価:9.500円+税




【2007/03/10 12:09】 | 信長
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表紙

本日、拙著の見本が届いた。

おそらくまだ版元のサイトにも掲載されていないと思うので、ここで書いておきます。
なお、発売は今月15日です。

著者:桐野作人
書名:『だれが信長を殺したのか―本能寺の変・新たな視点―』 
出版社:PHP新書
定価:760円+税
ISBN978-4-569-69073-5


内容は書名のとおり、本能寺の変の政治的背景を考察したものです。諸黒幕説をすべてリセットして、それ以前の先行研究を批判的に継承するというスタンスでまとめてみました。
また、明智光秀の新出文書も収録しております。本能寺の変の3日前の書状だと思われます。

信長の四国政策とその転換過程を明智家中の動向と関連づけて詳しく見ており、最近、当サイトでご紹介して多くの方々からご意見をいただいている信長朱印状の内容とも関わっております。

一応、目次をスキャナで取り込みました(以下の4枚)。
ご購入の参考にしていただければ有難いです。
目次1

目次2

目次3

目次4


【2007/03/07 20:59】 | 信長
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購入
小池直行
早速買って読みたいと思います

ご無沙汰してます
市野澤 永
ご紹介頂いたプログ、楽しみに拝見させて頂いております。 ご著書、購入させて頂きます。

よろしく
桐野
>小池直行さん

有難うございます。
よかったら、感想もお聞かせ下さい。

>市野澤永さん

ご無沙汰しております。
当ブログ見ていただき、有難うございます。
拙著、ご期待を裏切らないといいますか、あまり言及されないことが書いてあると思います。
よかったら、ご感想をお願いします。

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高橋秀直

表題の本と『新修 徳川家康文書の研究』第2輯を少し割引で入手した(ともに吉川弘文館刊)。
後者については以前当ブログでも紹介したことがある。

今回は表題の本を紹介したい。詳細はここ

著者の高橋秀直氏(1954-2006)は昨年初頭、惜しくも急逝された。頭の出来はくらべるべくもないが、同世代だけに訃報を聞いたときには他人事ではなかった。
したがって、本書は本人ではなく、友人の研究者や弟子筋の人々がまとめた遺稿集である。

著者はもともと近代史の気鋭の研究者として知られ、『日清戦争への道』(東京創元社、1995)は名著として評価が高い。
そして2000年前後から時代を遡らせて、幕末維新期の政治史を研究対象とすることになった。その間、わずか5年間ほどだが、幕末維新期に関する十数本の論文を書いている。本書はそれらが骨格になっている。

私も、これまでの幕末維新期の研究者と異なるタイプで、構想が壮大でありながら、細部の実証も手堅く、何より明晰な物言いをする高橋氏の所論に大変関心をもち、入手しにくい大学紀要などに書かれた論文や講演集まで折に触れて集めていた。薩摩藩討幕派の動向が詳しく書かれた論文が多いのも関心をもった一因だった。とくに「討幕の密勅と見合わせ沙汰書」という論文などは意表をつかれたものだ。

巻末の解説で、伊藤之雄氏が幕末維新史をとらえる視角として、高橋氏が「天皇原理」と「公議原理」という二つの概念を提起したことを挙げている。まさにこの二つの原理が幕末維新期の政治史のみならず、近代政治史までを規定していることは間違いないだろう。
問題は両原理の対立・葛藤や相互依存・補完の関係を、より具体的・動的に把握することにありそうだ。
とくに大政奉還から王政復古にかけては、討幕の密勅を得た薩長討幕派の動きにもかかわらず、「公議原理」が優勢だったというのはその通りだろう。王政復古政府は「公議原理」により規定された政府だったといってよい。

今回の遺稿集は既論がほとんどだが、氏の没後に『日本史研究』に掲載された論文「幕末長州における藩官僚と有志―八月一八日政変から元治内乱へ―」や、「薩長同盟の成立」という書き下ろしなど、未見の論文も含まれているので、非常に楽しみである。

この遺稿集が高橋氏の望む形だったかどうかはわからないが、ともあれ、刊行が何よりの供養ではないかと思う。




【2007/03/06 16:40】 | 新刊
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先日、TV「開運なんでも鑑定団」で信長朱印状が登場したことを当ブログで書いた

本日、ぴえーるさんからのコメントで、信長朱印状の全文がほぼはっきりわかる写真をご提供いただいた。ここです
ぴえーるさんには、厚く御礼申し上げます。

それで、さっそくおこしてみました。一部不鮮明なところがあるのと、私の力不足でよく読みとれない部分があります。読める方、ご教示いただければ幸いです(かわとさんやろあんさんのご教示により、一部訂正しました)。

讃岐国之儀、其方
任本領之旨申談候、
全可有領知候、前々
家来・国人□(等カ)も
招寄、廻調略可
被達本意候、於
信長不可有疎意之
状如件、

天正八
 四月五日 信長(朱印)


番組のナレーションによると、持ち主の先祖は讃岐の香川氏の右筆だったそうだから、香川信景宛てだろうか?
宛所が切れていてわからないのが残念である。

冒頭の部分、讃岐にある本領を与えるという意味なのか、あるいは讃岐国全部を与えるという意味なのか、とりづらい。
香川氏宛てだとすれば、讃岐国全部ということはないと思うが……。

あるいは、ほかに宛所の該当者が考えられるか?


【2007/03/04 17:12】 | 信長
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自信はないですが…
かわと
4行目
字が薄くてよく見えないのですが、下の字は「者」か「共」でしょうかね。「共」かなぁと思ったんですが、よく見ると「者」の方が良さそうな感じですねえ…。
とすると上は何が入りますかね。「衆」とかでしょうか…?

5~6行目
「調略」の下は「可」かなぁという気がします。
6行目冒頭は「不」と読まれていますが、「被」ではないでしょうか。「本意を達せらるべく候」と読むように思います。
あと、最後の「如件」の下に「■」を充てられていますが、字はないように思いますが、いかがでしょうか。

私はこの文書の背景については何も知識をを持ち合わせておりませんが、率直にまだ信長発給の新出文書ってあるんだなぁ、などと思いました。


かわと
度々失礼します。
すみません。コメントを編集しました。
「共」は「者」の方がよさそうかなぁ、と思い直しました。

信長新出文書
桐野
かわとさん、こんにちは。

ご教示有難うございました。
ご指摘のとおりではないかと思いました。

「共」は私もそうじゃないかなと思ったのですが、何せ色が薄いもので。
(後記:かわとさんの再コメントで「者」ではないかとのこと。たしかに「国人衆共」では二重複数形になる。「国人共」だけのほうがいいけれど)

「不」を「被」に代えるとすっきりと意味が通りますね。私も内心、「本意を達せず候」では意味が逆だと思っておりました。該当の一字に微妙に虫損らしきものがあり、「不」に見えてしまいました。

この信長文書、明らかに新出だと思います。信長の新出文書は最近でもけっこうありますね。管見のかぎりでも、10点近く見ています。
とくに今回のは、信長文書がほとんどない香川県からなので貴重です(塩飽諸島が香川県に属するなら、ここにも信長文書が1点あります)。

内容的にも、信長の四国政策に関わっています。この辺は史料の空白期間なので、非常に興味深いです。
冒頭の部分、讃岐一国を本領として与えるという意味なんでしょうかね? もしそう解釈していいなら、どえらいことではないかと思っているのですが……。



かわと
即レスにて失礼します。
「共」or「者」の上の字ですが、「衆」か、もしくは「等」あたりが該当しそうですね。これはやはり現物か鮮明な写真を見ないと確定はし難いところです。

なぜ宛所がないんでしょうね…? 意図的に切ったとすれば、その背景が興味深いところですね。
まだまだ未発見の文書って信長クラスでもあるんですね。わくわくする反面、ちょっと怖い気もします(笑)。

冒頭の部分ですが、「讃岐国の儀、その方本領に任するの旨、申し談じ候」と読むのでしょうか。そうであれば、讃岐国一国を本領として安堵した文書と理解できるように思います。その上で、当国中の家臣や国人層の糾合(含意するのは一国の「無為」)を命じたのでしょうかね。

やはり
桐野
かわとさん

度々のコメント有難うございます。

やはり讃岐一国を本領として安堵する、または宛行うと解釈できそうですね。

となると、ますます宛所が誰なのかが気になります。
家来・国人を「招寄」という部分が気になっているのですが、どうも讃岐の国外から呼び寄せるニュアンスを感じてしまうのですが……。
その場合、信長三男の信孝の可能性が浮上します。天正10年5月に、実際に信長が信孝に讃岐一国を与えるという朱印状を発給しています(三好康長には阿波を与えるという、いわゆる四国国分令です)。
もし2年前に遡って信長が先行的に命じていたのなら、これまでの織田権力の四国政策を読み替える必要も出てきます。

個人的には、今月中旬刊行の拙著に取り入れたかった史料でした。あとの祭りとはこのこと(爆)。


「招寄」
かわと
「衆」ヵとした字、じーっと目を凝らすと(笑)、「之」かもしれません。いずれにせよ文意にはあまり影響はありませんが。

この文書の宛所を勘案するには、ご指摘の通り「招寄」の用法が鍵になりそうですね。信長発給文書で類例が既にあるのであれば、そこから背景を探れそうです。

私は信長文書にあまり当たったことがないのではっきりしたことは言えませんが、「招寄」が他国からの招聘を指すことが明確であれば、宛所を切断したと思われることや、現在の所蔵者も勘案すると、香川氏に充てたものではない可能性が高まりますでしょうか。

この辺は、私は生半可に深読みはしないようにします(笑)。是非次著にて新解釈がご呈示されるよう期待申し上げます。

宛所
桐野
かわとさん、どうも。

度々のご教示有難うございます。
不明文字、私の目には薄すぎて読めません。まるであぶり出しのようです(笑)。
その一方で、末尾の「状如件」のあとも一字ありそうに見えるし、果たして「件」でいいのかなと思ったりもします。
いずれにせよ、実物か、鮮明な写真版がないと確定できないですね。

「招寄」は、やはり讃岐国在住だと、ちょっと違うような気もしますが、西讃の有力国人である香川氏の右筆の子孫に伝来しているなら、やはり香川氏の存在は無視できないかもしれません。

当時の当主、香川信景は信長からの一字拝領とされ、天正三年以来、反三好路線の一致から信長に服属しているとされます。また同時に、当該朱印状の頃、長宗我部元親の二男親和を養子に迎えて同盟を強化しています。

問題は天正八年当時の讃岐支配がどのように行われていたかだと思います。
讃岐は阿波三好家の領域でしたが、当主の三好(十河)存保が岩倉城合戦で長宗我部氏に敗れて、阿波を保てず、讃岐に退転していました。また西讃は香川氏や香西氏らが割拠して、反三好勢力が優勢でした。

そういうなかで、信長が三好存保をどう見ていたかがよくわかりません。服属していたのか否かが確認できません。この時期はむしろ、長宗我部氏が親信長派であり、天正八年夏前後、十河城(三好存保が籠っていると見られる)を攻めていることは、新出の元親書状(羽柴秀吉宛て)で確認できます。

したがって、信長は香川氏もしくは長宗我部氏の讃岐での行動を暗黙に是認しているように思われます。とすれば、両者はともに当該朱印状の宛所の候補であると思います。

信孝が宛所だとすれば、三好存保の改易を前提にした措置だと思われますが、天正八年では、やや時期尚早な気もします。

いずれにしろ、この時期の讃岐情勢は史料的な空白が多くて不明な部分が多いです。
当該朱印状はその空白を埋める恰好の史料ですが、いかんせん、宛所が切断されているのが画竜点睛を欠いております。宛所さえあれば、信長の讃岐への仕置方針がかなり鮮明になったのに、残念です。




ろあん
この文書、関心が有りましたので。コメントお許し下さい。
以前の写真より、やや鮮明な物が提供されて、ぴえーるさんには感謝感謝です。

四行目の最後は、「も」ではないかと思います。その上に「等」が有るかも知れません。墨が薄くて判別しにくいですが。

文脈から言えば、「前々 家来・国人等も 」と思われます。
五行目の「招寄」は信長文書では用語の例が確認できませんが、他に読み方は無いように思われます。
七行目の最後は、「之」だと思います。信長文書では、「状」の前には「之」を記す用例が多数あります。
「不可有疎意之状如件」だと思います。
また、「件」の後に文字はないと思います。「状如件」が書留文言ですので、その後に文字があれば、おかしいです。


讃岐国之儀、其方
任本領之旨申談候、
全可有領知候、前々
家来・国人□(等か)も
招寄、廻調略可
被達本意候、於
信長不可有疎意之
状如件、

天正八
 四月五日 信長(朱印)


本文の行間が等間隔にあいている点、また署判の部分、署名の上に朱印が捺されているのが確認出来ますので、一応良いモノだと思われますが。ただし、写真では朱印が縦長ではなく、正円に近いように見えます。

僕も、この朱印状が良い物だとすれば、武井夕庵の手になると思いますが、原本を見てみないことには何とも言えません。
あと、紙質の問題ですが、信長の家臣に発給した物ではないようなので、料紙は雁皮か鳥ノ子の、いわゆる斐紙系の紙が使用されているとベストだと思います。

この文書、既に専門家が見ているのではと思います。思文閣の社長が右筆の「武井夕庵」の手だと発言したようなので、事前に専門家に意見を聞いた可能性が大だと思います。

朱印の部分が欠けるなど、欠損が多くて非常に残念です。
一度、良質な写真など見てみたいものです。
失礼しました。


招寄
桐野
ろあんさん、こんにちは。

いろいろご教示有難うございます。
料紙や右筆まで詳しく教えていただき有難うございます。
本文のほうもご指摘の分を反映させたいと思います。

「招寄」という用語、信長文書ではやはり珍しいとのこと。私はどうも他国から呼び寄せるというニュアンスが強いのではないかと思っておりますが、比較検討の材料がないのが何とも。ろあんさんはいかがお考えでしょうか。

いずれにしろ、近年の新出の信長文書ではかなり貴重なものではないかと思います。
これからも、いろいろ教えて下さい。

別の意味ですごい
小池
私のような素人には、このような古文書を読み解ける方は、ただただ尊敬です

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何度かコメントをいただいたばんないさん、いろいろご教示有難うございます。御案内のサイトはお気に入りに追加して勉強させていただきます。

さて、お返しといっては何ですが、京都大雲院にある島津以久の墓所をご紹介しておきます。

島津以久は、島津義久・義弘兄弟とは従弟にあたります。肝付氏と戦った廻城で壮烈な討死を遂げた島津忠将(貴久の弟)の嫡男です。

別名、幸久、征久とも呼ばれ、官途名は父と同じ右馬頭です。
慶長8年(1603)、徳川家に一度収公された島津豊久旧領である佐土原を与えられて大名となり、近世の佐土原島津家の祖となります。
そして同15年(1610)4月9日、伏見で亡くなっています。享年61。

京都で亡くなったせいか、墓所が大雲院になりました。大雲院と以久が生前に何らかの縁があったのかどうかはよく知りません。

前回コメントで書いたように、大雲院は織田信長嫡男の信忠の院号を寺名にしているように、織田家ゆかりの寺です。墓所にある一番大きな墓が信長・信忠父子の墓です。

そして、その墓の手前に石組みで区画された以久の墓所がありました(写真参照)。正面の石扉に「丸十」の家紋があったので、島津家ゆかりの墓所だとは思いましたが、その時点では誰の墓だかわかりませんでした。
島津以久墓所

石扉の奥はこんな感じで、墓が並んでいます(写真参照)。なお、写真の後ろ右手に白く大きな墓標が映っていますが、信長・信忠父子の墓です。
以久墓

正面の墓2基が中央メインに位置しており、夫婦墓だろうかと思いました。
右側の墓の線香台に小さな板状の卒塔婆?がありました(写真参照)。
念のため少し大きく撮影しておいたので、何とか墓の主がわかりました。
以久卒塔婆

卒塔婆?に「高月院殿照誉宗恕大居士」という院号・戒名が書かれていました。
これに該当するのは、以久しかいません。
『島津氏正統系図』によると、以久は入道名が宗恕で、法号が「照誉高月院」ですから、まさにぴったり一致します。

それでも、まだいくつか疑問があります。

以久の左横の墓は夫人なのかどうか? あるいは二代目の忠興か?
以久の手前に左右に並んでいる墓は、殉死でもした家臣の墓だと思っていましたが、ばんないさんのサイトによれば、佐土原島津家の歴代藩主の墓もこの寺にあるそうですから、もしかしたら歴代藩主の墓かもしれません。以久から左回りで歴代藩主の墓かもしれません。
左右に4基か5基ずつ並んでいたように記憶しています。


【2007/03/04 16:08】 | 戦国島津
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大雲院
ばんない
大変興味深い写真をありがとうございました<(_ _)>

実は京都に大雲寺とか大雲院と言うところはあちこちあって(^^;)、島津以久の墓のある大雲院は寺町通りにあるということで、それらしいところを探したのですが、何しろ寺町通りは豊臣秀吉が寺を集めたので通りの名前になったというくらい寺だらけでよく分からなかったのです。

織田信忠の菩提寺ということで調べてみたら、このお寺、○○年前にクラスメートの父上のお葬式をしたので一度行ってました。最もそのころは島津以久なる人物すら全く知らなかったので、そんなすごい寺だとは全く知りませんでした。通常は円山公園という大観光地の中でひっそり戸を閉ざしている寺です。
おそらく桐野さんが拝観できたのは、作家の取材だったからではないかと思います。

拝観を拒絶しているのは、有名武将の菩提寺ということでマニアが殺到するのを避けているなどの事情があるのかも知れません。ただ、URL欄に書いたように、ここには「祇園閣」という昭和初期の珍建築があるので、そこの特別公開の時に墓所も見られるチャンスがあるかも知れませんね。



中村武生
 ごぶさたをしております。
 いつも興味深くブログを拝見しております。たいへん勉強させていただいております。

 さて大雲院の島津以久墓の前に並ぶ五輪塔5基については、京都の墓碑調査記録の最高峰とでもゆうべき寺田貞次『京都名家墳墓録』上巻、170-171ページにその銘文が記載されております。

 それによれば7名の戒名と没日の記載があり、うち4名がやはり殉死者で、慶長15年(1610)7月15日に亡くなっています。

 あとは寛永14年(1637)8月7日がふたり(月が読みにくいものがあるようで、でもおそらくは8月か)、承応2年(1653)6月22日がひとりです。

 寛永・承応の3人はどういう方かわかりません。
 
 何かのお役にたてば幸いです。
 当該部分がご入用でしたらご連絡くださいませ。

 すでにご承知のことでしたらお許しください。

殉死
桐野
中村武生さん、お久しぶりです。

ご教示有難うございます。
ちゃんとしたいい史料本があるのですね。

やはり殉死でしたか。ふつう、殉死した家臣の陪墓は主君のそれより小さく作ることが多いと思うのですが、島津以久の墓所では、ほとんど同じ大きさの墓ですね。

取り急ぎ御礼まで。
またご連絡します。

大雲院と春長寺
桐野
ばんないさん、こんにちは。

ご指摘のように、大雲院とよく似た寺名はありますね。私も洛北岩倉に大雲寺があるのを知ってします。

それで、大雲院の所在地ですが、2度移っているようですね。以下のサイトに少し詳しく書かれています。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/daiun-in.htm

最初、正親町天皇の勅命により、信長・信忠父子の菩提を弔うために、御池御所(二条御所ではないかな?)に浄土宗の貞安上人が開山して、信忠の院号にちなんで大雲院と命名したようです。信長ではなく信忠だったのは、御池御所が信忠自刃の地か、その近くからだったと思われます。

その後、豊臣秀吉の京都改造計画により、ご存じのように寺町への寺院集住策がとられますが、そのとき、大雲院は寺町四条南に移転しています。現在の四条河原町交差点の高島屋の西南にあたる地です。

さらに幕末の禁門の変で大雲院は焼失したのに加え、寺町通りが繁華街になってしまったため、1973年(昭和48)に現在地に移転したようです。現在地に移ってから、まだ30年ちょっとしかたっていないのですね。

それで、大雲院のひとつ前の所在地だった寺町四条南の地(正確には、京都市下京区寺町通四条下る貞安前之町)には、現在、春長寺があります。

これは信長時代に京都所司代をつとめた村井貞勝の法号(春長軒)にちなみます。現住所に大雲院開山の貞安上人の名が含まれているので間違いないでしょう。
一度、訪れたことがありますが、境内に村井貞勝父子の墓がありました。

現在の大雲院の祇園祭の山車のような建物が「祇園閣」というんですね。一種の展望台でしょうか? 一度昇ってみたいものです。特別拝観期間もあるようですね。


太雲院
佐多
桐野様
はじめまして。
佐多と申します。関東生まれの関東育ちですが、両親は鹿児島出身です。歴史好きでネット検索して見つけた次第です。島津以久公の母は佐多上野介忠成の息女で遠い一族にあたります。拝観が可能であれば是非訪れたい所です。
さて、寛永年間の墓は宮崎県の地方郷土史会まいづるによると忠興公の殉死者だそうです。忠興公の墓もあるのかもしれないですね。
後、孫の久信公の幼名は菊寿丸です。その子久敏公は菊袈裟丸で東京の吉祥寺に巨大な五輪塔の墓が存在しています。その隣には町田図書久幸の墓もあります。その他品川の広岳院には島津玄蕃頭忠紀公の崩れた巨大な墓もありました。杉並の大円寺にも都城島津家や平佐北郷家、本城家(永吉家庶流)などもあります。一度見られるとよいかと思われます。

佐多家
桐野
佐多さん、こちらにもコメント有難うございます。

大雲院には、やはり忠興の墓もありましたか。
上記写真のなかで、おそらく以久の向かって左隣の墓がそうではないかと思います。
となりますと、手前左右の墓は以久・忠興父子のそれぞれの殉死者の可能性が高いですね。

垂水家と佐多家の縁、ご教示有難うございます。

そういえば、忠将の弟、尚久の一女も佐多忠常に嫁いでいますね。
佐多忠成は日新斎との関係が深かったので、そこから、忠将・尚久兄弟との縁も出来たのでしょうね。

佐多家といえば、知覧ですねえ。
有名な武家屋敷には行ったことがありますが、島津家墓所はまだ詣でたことがありません。今年行けたらいいなと思っております。

大円寺は知っておりましたので、前から行こうと思っていました。
ご教示の吉祥寺、広岳院なども機会があれば、行ってみたいです。




佐多
知覧へ行くのであれば知覧文化という冊子も閲覧されると佐多氏系譜なるものが記載されていて、人物関係がわかると思います。(国会図書館にも所蔵されていますが)
佐多忠成公の室は島津運久公の息女です。ここから相州家との縁が始まっています。忠常(久政)公の子息久慶公は中書家久公の息女を室に迎えています。忠充公は鎌田氏、忠治公は島津久元公の息女、この後は養子が入っていますので肝属家や宮之城家庶流、佐志家、加治木庶流、越前家などから正室を迎えています。久福公は当初重豪公の息女を正室へ迎えるはずでしたが、近思録崩れの影響で父が強制隠居になり、破談になったようです。
佐多忠将公は頴娃家の系譜によると頴娃氏から室を迎えているようです。領地が近接している為でしょうか。
知覧の島津墓地は五輪塔や山川石のような宝ぎょう殷塔、角石型や宗功寺のような家型(小さいです)など色々あります。

私の祖父も知覧に墓があります。麓の武家屋敷に居住はしていなかったので、かなり離れた庶流だと思います。系図を探しているのですが、親戚はばらばらで位牌すらどこにいったのかわからない状態で苦労しています。

佐多氏系図
桐野
佐多さん、こんにちは。

佐多氏の系譜が「知覧文化」に収録されていたり、今回図書館に所蔵されているとのこと、度々のご教示有難うございます。

さて、『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺』諸氏系譜二にも、佐多氏の系図が第一と第二に分かれて2種類収録されています。
第一が本家、第二が庶流のように見受けられます。
ただ、第一のほうは江戸中期の久武までですね。幕末まではありません。
「知覧文化」などには幕末まで収録されているのでしょうか?

お名前からそうだろうと推察しておりましたが、やはり佐多さんもご一族なんですね。



佐多
桐野様、こんばんわ。
知覧文化ですが、
13号 佐多家文書(佐多直忠様の所蔵文書で佐多左馬介通久の後胤で志志目家より養子に入った直邑(…上にくが3つ付きます)から数代まで
16号 佐多久英覚書(慶長の役従軍記)
18号 有馬純正筆『佐多氏系譜』久福公代まで
20号 『本藩人物誌』所収佐多氏系譜
23号 内屋敷平山家文書(知覧島津家の役人、久峰公母堂伊地知氏女於半?様の法号微笑院?が記載されていたような気がします。その他佐多氏庶流の達山勘助が役人平山氏を殺害して逃亡し、出水で発見され獄死後に磔になったと記載があり何とも凄い事件があったものだし、よく活字化されたなぁと思います)
25号 佐多忠光関係史料について(初代の特定される文書があるか?といった内容)
28号 佐多式部少輔久治家文書
35号 佐多氏系譜後編(久邦公代の前半欠落~久徴公代途中まで)
大体嫡流と有力な庶流のみしかないです。
知覧の島津墓地には島津木工久治という墓があり、これが誰か不明です。系図には記載されていません。が、久徴公の嫡男ではないかと思われます。久徴公の後を剛二郎様が継承されていますので、二男なので剛二郎となったのではないかと推測しています。

知覧文化
桐野
佐多さん、こんにちは。

「知覧文化」、不勉強でよく知らなかったのですが、充実したラインナップですね。
古書もあるようなので、探してみたいと思います。
ご教示有難うございました。


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帰鹿報告その4。

追加。
帰鹿報告2の福昌寺関連で、「山川石」という独特な黄色の石材が話題になっていますので、念のため、その石を使った島津義久の墓の写真を掲げておきます。
島津義久

さて、指宿ではもうひとつ立ち寄ったところがあった。

白水館というホテルである。
海沿いの閑静な立地にある高級ホテル。

ここのオーナーが歴史好きな方で、西郷・大久保などの書墨を展示しているのは前から知っており、また最近は、慶応三年(1867)のパリ万博につくられた「薩摩・琉球国勲章」をオークションで競り落としたことや小松帯刀の遺墨も入手したことも知っていた。

フロントで尋ねると、マネージャーさんが親切に案内してくれ、また丁寧な説明もしてくれた。
奥まった廊下沿いのギャラリーにそれらは展示されていた。

とくに、西郷・大久保・小松の三傑の遺墨が一堂に並んでいたのは壮観だった。西郷・大久保まではあっても、小松まで揃っているところは少ない。
マネージャーさんから撮影してもよいという許可をいただいた。

もっとも、同館では、今年末に附属の美術館をオープンすることになっている。大河「篤姫」が決定する前から進んでいた計画だったが、結果的に最高のタイミングでオープンできることになる。
ここには、秘蔵の逸品が飾られるはずである。
小松関係も遺墨だけではなく、まだ文書もあることを知っている。

マネージャーさんが親切だったのは、調所さんの人脈にもよる。同館の学芸員さんとも知り合いだという。もっとも、当日はお休みだったが、学芸員さんと知り合いだったことで、なおさら対応がよかったような気がする。

また同館は、小松帯刀顕彰会のメンバーでもあるそうで、館内の売店で、小松研究家だった故・瀬野富吉さんの遺作も発売していた。それに、吹上酒造の焼酎「小松帯刀」を販売していたので、私はこちらを2本購入した。

今後、美術館のオープンが楽しみである。
同館の詳細はここへ

鹿児島に引き返すと、猪股さんの要望で、鹿児島県警前の川路利良大警視の銅像見学(写真参照)。
川路銅像

ここは3年前だったか、一度来たことがある。
そのとき同様、県警内の売店にも行く。「「大警視」や「巡査殿」などの焼酎が置いてあった。
前回は気づかなかったか、まだなかったのかどうかよく覚えていないが、1F入口の右手に、川路大警視のコーナーが設けられていた。川路の有名な写真が大きく掲げられ、関係史料や写真が並べられている。川路の史料の一部が京都の霊山記念館にあるとは知らなかった。
撮影してよいのか受付に尋ねたところ、川路銅像の除幕式を担当された方がわざわざ出てこられて、当時の様子を詳しく説明して下さった。
当時も、川路銅像建立に関しては反対の声があったようである。

その後、荒田あたりに差しかかったとき、先日、当ブログでも書いた中原猶介の生家が近くにあったことを思い出したので、三方限記念碑とともに見学することにした。
中原猶介の碑は甲南高校のグランドの脇に建っていた。なかなか立派である(写真参照)。
中原猶介

また「三方限出身名士顕彰碑」もすぐ近くの甲南中学の裏門横にあった。クラブ活動をしていた野球部の生徒たちが「こんにちは~」と元気な挨拶をしてくれるのが心地よい。

さて、三方限とは、薩摩藩の城下士のうち、下級城下士の居住地域だった上之園・高麗・上荒田の三つの方限(ほうぎり)を指す。
この一帯は甲突川右岸(西岸)にあたり、比較的新しい武家居住地だった。約400戸の武家屋敷があったという。

顕彰碑の裏側に三方限出身の人名がたくさん挙げてあった。大久保利通が高麗出身だというのはいいとしても、ちょっと疑問だったのは、対岸の加治屋町方限出身のはずの西郷兄弟や伊地知正治が上之園方限出身者として名を挙げられていることだった(写真参照)。
三方限

西郷たちは一時期、上之園に住んだことがあったのだろうか? そのあたりの事情をご存じの方がおいでなら、ご教示下さい。

最後、空港へ行く途中の重富で、岩剣山が見えた。
ここは島津義久・義弘兄弟の初陣の地である。以前、友人と一緒に頂上まで登って、重富や加治木方面の景色を眺めたことを思い出した。
途中、日頃とは異なる角度から同山を撮影できたので載せておきたい(写真参照)。
岩剣

以上で、帰鹿報告を終わります。
調所さん、猪股さん、いろいろ有難うございました。

【2007/03/03 13:00】 | 幕末維新
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ペーペーで済みません
吉田松陰大好き
確か『上之園』は広いグラウンドになっている所ですよね。去年、初めて鹿児島へ行ったもので、あまり地名も覚えておりませんが、2回目の【維新ふるさと館】訪問時、道に迷い、ヤケになってメチャクチャに歩いているとグラウンドを見つけ、碑と看板があり、西郷が住んでいたという説明が書かれていましたが、理由は忘れました。その後、いつの時代か分かりませんが学校も建ち、門の一部が碑の隣に残っています。このブログを御覧になった地元の方及び御存知の方、是非、情報をお願い致します。私も、もう一度理由を知りたいです。

上之園
吉田松陰大好き
少々思い出しました。確か、大久保家の借金の担保が西郷の生家で、結局、返済できず上之園で住む事になったという理由だったと思います。とにかく、西郷らしい理由であった記憶はかすかに残っております。

西郷家の住居について
猪股
こんばんは,猪股です。

西郷家の件で,情報までですが…

吉田松陰大好きさんのおっしゃる通り,中央町の共研公園の入口に,”西郷南洲翁宅地跡”の碑があります。これは,昭和9年に建てられた碑が太平洋戦争で失われた為に作り直した2代目だそうです。その碑の説明によれば,「西郷隆盛は、安政二年(1855)十二月、下加治屋町の誕生の地を売却し、以来、明治二年(1869)七月、武屋敷に転居するまでの十数年間、この地を借りて居所とした…」とのことです。また、碑の脇にある案内板には、「…下加治屋町の屋敷を売り借金の返済に充てたといわれています…」とあります。西郷南洲顕彰館発行の『詳細西郷隆盛年譜』には,下加治屋町の屋敷は鎌田源次郎に売ったとあります。これらの内容が,どの資料を基に書かれているのは,スミマセン,調べていないので分かりません。『鹿児島城下絵図散歩』(高城書房)には,安政6年ころの内容と推定されている”旧薩藩御城下絵図”を使用して,現在との比較を掲載されていますが,それによると,この時の西郷家は,やはり上記と同じ場所(厳密にいうと,現在の熊本ファミリー銀行)になっています。また,そこから鹿児島中央駅に向かった数件先には,伊知地正治の家があったと書いてあります。写真版が掲載されているので,目を凝らして見たのですが,私の目ではハッキリ確認できませんでした(村田十蔵家はバッチリ分かったのですが…苦笑)。


吉田松陰大好き
大久保利通様の御子孫の方々には、大変失礼な事を申し上げ、誠に申し訳ありません。反省しております。実は、私も「大久保」と申しますので、大変違和感を感じておりました。猪股様、正しい情報を感謝致します。道に迷い、運が悪いと思っておりましたが、かえってラッキーでしたhttp://blog83.fc2.com/image/icon/i/F992.gif" alt="" width="12" height="12">私は薩摩の幕末時代が大好きです。桜島を見て感じた事は、西郷も大好きな山で、山自体も西郷を育んでいた様に感じました(推測です)。実際、火山灰に苦しんだでしょうが、眺めていると不思議にそう思いました。西郷の雄大さが桜島と重なって見えるからかもしれません。

有難うございます
桐野
吉田松陰大好きさん、猪股さん

ご教示有難うございます。
やはり、加治屋町の屋敷を売って上之園に移住したのですね。

その後、『西郷隆盛全集』に付いている年譜を見てみましたが、猪股さんのご指摘のように、安政2年(1855)12月12日、鎌田源次郎に永代売り願いを出し、同月中に許可されたようですね。西郷家の加治屋町屋敷は259坪もあったのですね。今ならお大尽ですが(笑)。

それで、上之園に移ったのは一年半ほどのちの安政4年で、「武村上之園借地に住む」と書いてあります。
上之園は武村に属するのかと、軽い衝撃でした。

なお、同年譜も出典が書いてないのが困ります。

伊地知正治の家も西郷家と同様だったのでしょうかね。


郷中教育
吉田松陰大好き
西郷の生家が259坪なんて凄すぎます。正に大尽ですね。伊地知はどうでしょうね…。郷中教育の3つのキーワードは「弱い者いじめをしない」,「負けるな!」と、もう一つは自信ありませんが『年寄りを大切にする』でしたでしょうか?旅行以来、数カ月は3つをしっかり覚えておりましたが、ガタが来て、長い事気になって仕方ありません。郷中教育は現在も一部で行っている様ですね(毎日ではないでしょうが)。6時からビッシリ詰まったスケジュールですよね。桐野様も体験されましたか?剣術→朝食→勉学→剣術…季節により、水泳や登山等、凄いですよね。

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帰鹿報告その3。

二日目は前日と打って変わって好天で、陽ざしがとても強かった。
指宿まで遠出することにした。

途中、南林寺を通過したので、調所氏に頼んで寄ってもらう。
ここには、西郷とともに入水した勤王僧月照の墓がある(写真参照)。
月照

前回来たときには、無縁塚が所狭しと並んでいたが、きれいに整理してあった。
月照だけでなく、ある程度名前の知られた人物の墓がいくつもあった。気づいただけでも、

薬丸兼義(幕末期の薬丸自顕流当主)
美玉三平(生野の乱のリーダー)
篠崎彦十郎(江戸藩邸留守居役、焼き打ち事件で自害)
森山新蔵(西郷・村田らと流刑となるが自害)
赤塚源六(戊辰戦争時、春日丸艦長)
徳田邕興(江戸期の軍学者)


撮影を終えてから、一路、指宿に向かう。
桜島は頂上に雲がかかってみて、全容が見えない。一日中、ずっとそうだった。ちなみに、開聞岳もガスっていて見えなかった。

指宿市役所で、今和泉家墓所を尋ねる。案内のパンフレットをもらったが、まだ地元も宣伝に本腰を入れていない感じだった。

今和泉島津家の墓所は、市街の北のはずれにあった(写真参照)。
今和泉家墓所

初代から11代までの墓がある。そのうち初代~5代までは合葬されており、6代目から単独の墓である。ここの墓所の成立時期と関わると思われる。

10代当主が忠剛(ただたけ)である(写真参照)。
この人が天璋院篤姫の父親だ。
島津忠剛

じつは、島津本宗家の26代斉宣(斉彬祖父)の七男だが、一門家の今和泉家の養子となって家督を継いだ。
いくつかの墓標や灯籠などがだいぶ傷んでおり、早いうちに補修したほうがよいのではと思われた。

その後、今和泉邸跡に行く。現在は今和泉小学校になっている。
海に面しており、とても風が強かった。
領主仮屋跡とされる石垣が残っている(写真参照)。この一帯は隼人松原とも呼ばれていて、松並木がきれいである。
海岸には積荷の運搬施設である雁木が残っていた。
隼人松原

ほかにも、小学校内に今和泉家ゆかりの手水鉢などが保存されているそうだが、今回は見学しなかった。

一応、目的は達したので、鹿児島に戻ることにしたが、調所氏が近所の温泉に先祖の調所広郷の銘を刻んだ手水鉢があるというので、見に行くことにした。

二月田温泉(にがつでん~)といい、地元の人たちが利用する鄙びた温泉である。
でも、別名を「殿様湯」ともいい、江戸期の島津家の殿様がわざわざ入湯したという由緒がある。
その湯殿跡も残っていたが、江戸期にもかかわらず、タイル張りだったから、往時は立派なものだったと思われる。

手水鉢は温泉に隣接した小さな八幡宮の境内にひっそりと置かれていた。
その側面に「文政十一年」(1828)と年次があり、左下に「調所笑左衛門広郷」と刻んであった。
調所広郷が、重豪か斉興の入湯に同行したときのものか。

鹿児島に帰ってから、もう少し撮影したものがあるが、それは次回に。

【2007/03/02 02:09】 | 幕末維新
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