膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
先日、TV「開運なんでも鑑定団」で信長朱印状が登場したことを当ブログで書いた

本日、ぴえーるさんからのコメントで、信長朱印状の全文がほぼはっきりわかる写真をご提供いただいた。ここです
ぴえーるさんには、厚く御礼申し上げます。

それで、さっそくおこしてみました。一部不鮮明なところがあるのと、私の力不足でよく読みとれない部分があります。読める方、ご教示いただければ幸いです(かわとさんやろあんさんのご教示により、一部訂正しました)。

讃岐国之儀、其方
任本領之旨申談候、
全可有領知候、前々
家来・国人□(等カ)も
招寄、廻調略可
被達本意候、於
信長不可有疎意之
状如件、

天正八
 四月五日 信長(朱印)


番組のナレーションによると、持ち主の先祖は讃岐の香川氏の右筆だったそうだから、香川信景宛てだろうか?
宛所が切れていてわからないのが残念である。

冒頭の部分、讃岐にある本領を与えるという意味なのか、あるいは讃岐国全部を与えるという意味なのか、とりづらい。
香川氏宛てだとすれば、讃岐国全部ということはないと思うが……。

あるいは、ほかに宛所の該当者が考えられるか?

 
何度かコメントをいただいたばんないさん、いろいろご教示有難うございます。御案内のサイトはお気に入りに追加して勉強させていただきます。

さて、お返しといっては何ですが、京都大雲院にある島津以久の墓所をご紹介しておきます。

島津以久は、島津義久・義弘兄弟とは従弟にあたります。肝付氏と戦った廻城で壮烈な討死を遂げた島津忠将(貴久の弟)の嫡男です。

別名、幸久、征久とも呼ばれ、官途名は父と同じ右馬頭です。
慶長8年(1603)、徳川家に一度収公された島津豊久旧領である佐土原を与えられて大名となり、近世の佐土原島津家の祖となります。
そして同15年(1610)4月9日、伏見で亡くなっています。享年61。

京都で亡くなったせいか、墓所が大雲院になりました。大雲院と以久が生前に何らかの縁があったのかどうかはよく知りません。

前回コメントで書いたように、大雲院は織田信長嫡男の信忠の院号を寺名にしているように、織田家ゆかりの寺です。墓所にある一番大きな墓が信長・信忠父子の墓です。

そして、その墓の手前に石組みで区画された以久の墓所がありました(写真参照)。正面の石扉に「丸十」の家紋があったので、島津家ゆかりの墓所だとは思いましたが、その時点では誰の墓だかわかりませんでした。
島津以久墓所

石扉の奥はこんな感じで、墓が並んでいます(写真参照)。なお、写真の後ろ右手に白く大きな墓標が映っていますが、信長・信忠父子の墓です。
以久墓

正面の墓2基が中央メインに位置しており、夫婦墓だろうかと思いました。
右側の墓の線香台に小さな板状の卒塔婆?がありました(写真参照)。
念のため少し大きく撮影しておいたので、何とか墓の主がわかりました。
以久卒塔婆

卒塔婆?に「高月院殿照誉宗恕大居士」という院号・戒名が書かれていました。
これに該当するのは、以久しかいません。
『島津氏正統系図』によると、以久は入道名が宗恕で、法号が「照誉高月院」ですから、まさにぴったり一致します。

それでも、まだいくつか疑問があります。

以久の左横の墓は夫人なのかどうか? あるいは二代目の忠興か?
以久の手前に左右に並んでいる墓は、殉死でもした家臣の墓だと思っていましたが、ばんないさんのサイトによれば、佐土原島津家の歴代藩主の墓もこの寺にあるそうですから、もしかしたら歴代藩主の墓かもしれません。以久から左回りで歴代藩主の墓かもしれません。
左右に4基か5基ずつ並んでいたように記憶しています。