拙著『
だれが信長を殺したのか』(PHP新書)について、板倉丈浩さんをはじめ、いろいろご意見・ご批判をいただいた。
コメント欄の数が多くなってしまったので、本欄のほうでできうるかぎりお答えしたい。
まず板倉さんには貴重なご意見をいただき、感謝したい。非常に鋭いご意見なので、こちらも大変勉強になります。箇条書きに沿って、私見を述べてみたいと思います。
(1)三好式部少輔の地位について(P84)
これについては、本欄で別途ご紹介した
新出の信長朱印状(「讃岐国之儀」云々)との関連も考えないといけないなと感じております。
天正八年(1580)三月、本願寺が降伏したことにより、信長はその余勢を駆って、四国仕置(阿波・讃岐)にも着手したのではないかと思われます。
それが、新出の信長朱印状であり、板倉さんが取り上げている香宗我部親泰宛ての信長朱印状+三好康長副状です。
両者はおそらくセットにして考えないといけないのではないかなと思い始めています。
板倉さんは、元親が土佐一条氏を盟主とする大津御所体制の補佐役であることから、阿波国の国主に元親がなれないのではないかとご指摘です。なるほどと思いました。もしかして板倉さんは、阿波国を三好式部少輔に与えるという信長朱印状があったのではないかと想定されているでしょうか? つまり、香宗我部親泰宛ての2点はそれの関連文書だと。
板倉さんは新出の信長朱印状の宛所は三好康長ではないかと推定されましたが、それをセットに考えると、讃岐と阿波の両国が三好氏に与えられることになりますね。
そうだとすれば、当然ながら元親は怒りますよね。信長との断交は天正八年まで遡ることになりますが、さすがに早すぎないでしょうか。
(2)天正10年5月27日付け堀秀政書状について(P185)
ご指摘のように、天正十年五月頃の堀秀政の動きについて、『信長公記』は混乱しています。谷口克広氏は秀政が備中に下向したのは五月下旬、つまり徳川家康接待ののちだとしています。私は下旬というより、ほとんど月末だったのではないかと思っています。
秀政が羽柴秀吉とどこで合流したか、一次史料で確認することは難しいのではないかと思っています。『寛政譜』などは秀政が備中高松にいたように書いていますが、果たしてどこまで信用できるか。
たとえば、『惟任謀反記』には、「堀久太郎秀政に池田勝九郎元助・中川瀬兵衛尉清秀・高山右近重友等を差し加へ、これを遣す」とありますが、池田元助・中川清秀・高山重友の三人とも、備中に行くどころか、本能寺の変前後、ようやく出陣しようかというくらいですから、彼らと同道するはずだった秀政もまだ上方に留まっていた可能性が高くないでしょうか。
私は、那波直治問題(斎藤利三問題でもありますが)を処理した五月二十七日ののち、秀政は中国に下向する態勢になったのではないかと思います。
したがって、五月二十七日付の秀政書状は存在してもおかしくないと思います。
(3)本能寺の変の直前期における光秀の地位について(P120)
これもなかなか難しい問題ですが、光秀が長宗我部氏の取次からはずされたことはたしかで、信孝が四国渡海の総司令官に任命された以上、光秀が四国政策から排除されたことは明らかです。
それが政治的打撃になるかどうかという評価の問題ですね。
光秀が信長のそば近くにいて、信頼が厚かったというのも評価の問題で、直接の担当正面がないというのは、谷口克広氏の言われる方面軍司令官の地位から降りることを意味します。光秀がそれで満足したかどうかですね。
(4)本能寺の変とは何だったのか(P280)
戦国時代は謀叛や叛逆が多かった、中世人はキレやすかったというのはその通りだと思いますが、そうした一般論ではなく、天正年間初期という時代において、より具体的に考える必要があるのではないかと思います。
拙著では十分書き切れませんでしたが、やはり、荒木村重や松永久秀の反逆との比較は重要ではないかと思っています。
久秀や村重の頃(天正七年前後)までは、二人がそうしたように居城にこもって、本願寺・上杉謙信・毛利輝元・足利義昭らと結ぶという方法がとれました。
しかし、光秀が謀叛を起こした同十年にはそうした方法はとれません。謙信は没し、毛利は退潮し、本願寺は降伏し、将軍義昭の京都帰還はほぼ絶望的な状況でした。反逆して成功するには、信長本人を打倒するしか方法はなくなっています。
私は、光秀が将軍義昭と結ぼうと考えていなかった、つまり、義昭が黒幕ではないと思っていますが、拙著で挙げなかった理由として、本能寺の変当日、光秀が美濃の国人西尾光教に宛てた有名な書状に、信長父子が「天下の妨げ」だったという一節にもっと注目すべきだと思っています。
何が言いたいかといえば、光秀は信長本人の存在は否定しても、信長が構築した「天下」の枠組みは認めているということです。光秀が信長死後も「天下」という言葉を使っていることは重要だと思います。言葉を換えれば、光秀は将軍義昭の京都復帰や旧体制の復活など考えていなかったということです。光秀は信長の代わりに「天下」の中心に坐るつもりだったとしか考えられないでしょうか。
(5)「惟任公儀を奉じて」の解釈(P216)
板倉さんが仰せのように、「公儀=信長本人」でも私は別に構いません。要は、「公儀」は信長であって、足利義昭ではないということが明確になればいいだけです。
ただ、大村由己が「将軍」と「公儀」を使い分けているので、あえて意味づけすれば、「将軍」が信長本人で、「公儀」が織田権力だと解すれば、うまくおさまるというだけのことです。
以上、どこまでお答えになっているかわかりませんが、とりあえずの回答にしたいと思います。