拙著『
だれが信長を殺したのか』(PHP新書)のなかで、さっそく、うっかりした点を発見してしまった(苦笑)。
山城愛宕郡高野の豪族で佐竹出羽守という人がいるが、彼は比叡山延暦寺の焼き討ち後、光秀の配下の与力となった(姉妹の一人は吉田兼見夫人)。
その佐竹が元亀年間に、光秀とトラブルを起こしたことがある(拙著190頁)。その原因を光秀との寄親・与力関係か知行問題だろうと推定した。
そう書きながら、頭に何か引っかかりを感じていた。それが今日はっきりわかった。ちゃんと原因を書いた論文を見つけたのである。しかも、信長関係では基本的に押さえておくべき主要論文のひとつだった……。それは、
染谷光廣「織田政権と足利義昭の奉公衆・奉行衆との関係について」 『織田政権の研究』 吉川弘文館 1985年追放された将軍義昭の奉公衆・奉行衆の多くが織田権力に取り込まれ、なかでも光秀の配下になった者が相当数いたことが書かれている。一昔前には何度も参照した論文である。
いかん、頭ですっかり消しゴムが働いている……。
で、染谷論文には、その原因を「山城光源院領の儀」と、もうひとつ「
二十日銭」などの利権をめぐって、光秀と係争したとあった。
そう、頭に引っかかっていたのは、消しゴムがわずかに消し忘れたこの部分だったのだ。
ところで、「
二十日銭」って何だろうか? 読みは「はつかせん」でいいのだろうか? 地子銭? 通行税?
日国(小学館『日本国語大辞典』)で引いてみたが、「はつかせん」では立項されていない。
問題がひとつ解決したと思ったら、また別の問題が派生してしまった(爆)。