膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
中華帝国の構造

1994年にサントリー学芸賞を受賞した作品
著者は黒田明伸氏。

コメント欄で、かわとさんに戦国期から織豊期において、鐚銭=ビタが決して悪貨ではなく、むしろ金銀に対して相場が上がっていたことを教えてもらった。

そのことで思い出したのがこの本である。古書で意外と安く買えた(笑)。
この本には、わが国の戦国期から織豊期にかけて、なぜ貫高制が石高制へと転換されたのかという、以前から気になっていた問題を、中国を中心とした東アジア世界の動きから解き起こしている。
むろん、表題のほうが主題であり、日本の問題がそれほど触れられているわけではないので、いまはまだ拾い読みの状態。

16世紀前半、メキシコや日本の銀が大量に明国に流入し、同国は銀経済となり、銅銭の鋳造が減少した。そのため、それまで日本に大量に輸出されていた銅銭も1570年代にはほとんど流入が停止したと黒田氏はいう(127頁)。まさに貫高制から石高制の転換期にあたる。

そのことから、日本では2つの大きな社会・経済現象が起きた。
ひとつは、鐚銭問題の深刻化である。輸入銭の供給量が極端に減ったので、鐚銭が横行したというわけである。

もうひとつは、そのような銭経済下で、折から織豊期に入り、各地で検地が実施されるようになると、収租額を銭価で表示できなくなり、より確実な価値をもつ米穀に依拠せざるをえなくなって石高制を成立させたというのである。

私も、関東を中心として展開した貫高制のほうが石高制よりも合理的ではないかとひそかに思っていたが、やはり統一権力の強制力が石高制を強引に成立させたのかという程度で思考停止していた。

このように、東アジアの視点から近世社会の指標のひとつである石高制の成立を考えるというのは新鮮な驚きだった。

しかし、かわとさんの御説を知って、さらに思考は反転した。
輸入銭がなくても私鋳銭・模鋳銭というわが国独自の銭貨鋳造が予想以上に普及していたのではないかというのだ。
わが国の本格的・大衆的な貨幣鋳造は寛永通宝が最初だとばかり思っていたが、まさにこれこそ官製的思考だったかもしれない。
織豊期社会において、輸入銭に頼らない下からの銭貨鋳造が本格的に行われていたとすれば、貨幣は上から押しつけられるものという「常識」を疑ってかかる必要がありそうだ。

そして別の疑問も派生する。
まず、私鋳銭や模鋳銭を鋳造していた主体はどういう階層・勢力なのだろうかという点。また銭貨鋳造に統一権力、大名権力など総じて領主側はどの程度関与していたのか。

次に、銭貨鋳造がなお盛んであったなら、貫高制から石高制への移行を結局説明できなくなるのではないのか? あるいは関東で貫高のことを永高(永楽銭換算)ともいったことから、貫高はやはり精銭の存在が前提だったのか。それならば、マクロ的には黒田理論はなお有効なのだろうか。

現状で黒田理論がどのように評価されているのか、あるいは乗り越えられようとしているのか、研究状況をよく知らないが、日本の中近世移行期では、より具体的に再検討する必要があるということだろう。