歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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高崎正風

先日、某研究会で小松帯刀について報告した。
そのとき、幕末薩摩藩の研究者であるMさんから、表題の書籍について教えてもらい、速攻で購入した。う~ん、いい値段。

高崎正風といえば、明治になってから歌人として知られるが、幕末薩摩藩においては、因縁のある人物である。
なぜかといえば、幕末薩摩藩の有名なお家騒動であるお由羅崩れは別名、高崎崩れともいう。それは正風の父高崎温恭が首魁として死刑になったことから、その名がつけられたからである。正風は事件当時まだ幼少だったが、成人するのを待って改めて奄美大島に流刑になっているほどだから、この事件の根深さが知られる。

正風が幕末維新史に名を刻んだとすれば、やはり文久3年(1863)の8・18政変において、会津藩との連携のために奔走したことだろう。
さらに慶応年間になると、正風は藩内の討幕反対派の立場にあり、西郷・大久保とは政敵関係になった。お由羅崩れに怨みを含む西郷・大久保も、その最大の犠牲者だった正風と政敵になるとは皮肉なものである。

さて、正風は通称を左太郎とか左京といった。
同じ名字で、高崎五六(猪太郎ともいう)という人物もいる。二人は同い年であるばかりでなく、ともに討幕反対派という共通の政治的立場にもあった。したがって、この二人は名字が同じで、通称も一字違いのため、よく間違えられる。

今回の報告で、『寺村左膳手記』の慶応3年(1867)9月27日条を引用し、小松が高崎に討幕を断念するよう説諭されて、たまらず妾宅に逃げ込んだという記事を紹介した。
同手記には「高崎輩」と書かれており、私はこの時期に積極的に活動していた高崎五六だとばかり思っていた。ところが、この伝記に収録された正風の日記を読むと、当日、正風が小松邸を訪れている。
もしかすると、左膳手記の高崎とは正風かもしれない。

いずれにせよ、この本が貴重なのは、高崎正風の日記が部分的ながら収録されていることである。
貴重なご教示をいただいたMさんに多謝。

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【2007/04/30 00:12】 | 古書
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板倉丈浩
こんにちは。
この二人、昔は同一人物だと思っていました(笑)
幕末薩摩関係では、黒田清綱と清隆とか、樺山三円(資之)と資紀とか、藤井良節と九成とかもゴチャゴチャ(^^;
(そういえば、尊攘激派として知られた三円や良節はその後どうなったんでしょう?)
さて、小松に反対した「高崎」ですが、高橋秀直氏の『幕末維新の政治と天皇』378ページに、

薩摩の藩情も複雑で倒幕派一色というわけではなく、当時の京都藩邸にさえも反対派は存在していた。
そして土佐側が工作した対象は高崎正風であった(『寺村左膳道成日記』40~42頁)。

とありますので、どうやら正風のようですね。


高崎伊太郎
桐野
板倉さん、どうも。

引用された高橋秀直氏の著作で、高崎を正風とされているようですが、どうでしょうか?

寺村左膳道成日記の当該部分には「高崎伊太郎」と出てきます。
この記述によるかぎり、左太郎、左京の通称だった正風よりも、猪太郎という通称だった五六のほうが該当するのではと思います。
左太郎の間違いだとするより、猪太郎の当て字だと見たほうが妥当ではないでしょうか。

もっとも、西郷が国許の久光側近の蓑田伝兵衛に宛てた書簡(慶応三年十二月二十八日付)によれば、「高崎左京」(正風ですね)が仁和寺宮嘉彰親王を惑わし、「後藤の説を信じ陰策これあり」という理由により国元に送還すると伝えています。
大政奉還から王政復古政変にかけて、正風が後藤象二郎と結んで、西郷・大久保の行動を妨害していたのはたしかでしょうね。

ただ、正風がそうだったからといって、当該期、五六(猪太郎)が在京していなかった、後藤と結んでいなかったわけではないと思います。

いずれにしろ、両高崎の行動を時系列的に、具体的に明らかにする必要はありそうです。


記録の混乱?
板倉丈浩
こんばんは。
佐々木克氏の『幕末政治と薩摩藩』396ページを見ますと、小松を説得していたのは高崎五六(猪太郎)ではないかとしており、研究者でも見解が分かれているようです。
ただ、この慶応三年の時点でも高崎五六が「猪太郎」と呼ばれていたかという問題もありますし、「佐太郎」と「伊太郎」なら字も似てますので(笑)、小松や大久保に対抗できる藩士としては正風の可能性の方が高いんじゃないかなーとは個人的には思っています。
この時期の高崎五六の動向がイマイチわかりませんが、ひょっとしたら2人とも挙兵反対で行動していたために記録も混乱していたのかもしれませんね(^^;



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薩長同盟はどこで結ばれたか
「近衛殿」にあった小松帯刀邸


近衛邸跡碑

同志社大学新町校舎にある「近衛家旧邸址」(旧桜御所)の石碑。揮毫は近衛文麿

 明治維新を実現した最大の原動力は薩長同盟の締結にあるといっても過言ではない。
 近年、薩長同盟の性格や締結時期をめぐって研究が盛んになっている。しかし、肝心で基本的な事柄がおそろかになっているのではないか。それは薩長同盟がどこで結ばれたのかという点である。
 多少、幕末維新史に通じている人なら、「小松帯刀(薩摩藩家老)の京都屋敷だ」と即座に答えるだろう。では、その小松邸がどこにあったのか答えられる人は少ないのではないだろうか。
 じつは、そんな基本的な事実もはっきりしていないのである。寺町石薬師にあった大久保利通の邸宅にあった茶室(有待庵)が小松から譲られたものだとわかっていることから、この大久保邸の前身が小松邸だったとする説がある。現在の京都市上京区石薬師通寺町東入ル(京都御苑の北東角)あたりである。でも、私は茶室が移転されただけだと見ており、小松邸がここにあったとは限らないのだ。
 結論からいえば、小松邸は二本松の薩摩藩邸から西方約三〇〇メートルにある摂関家の近衛家の邸宅「近衛殿」(旧桜御所)内にあったと考えられる。
 現在、烏丸今出川交差点近くの同志社大学今出川校舎に、かつて薩摩藩邸があった。そしてそこから西方向に向かうと、同大学の新町校舎という別のキャンパスがあるが、これが「近衛殿」跡である。
 その裏づけとなる史料もある。まず、大久保利通の三男利武氏の談話(「尚友ブックレット」九)。利武氏は「(小松帯刀は)相国寺の少し先、烏丸通に在ったと聞いて居ります近衛家御花畑の別邸を借り住居して居られます」と述べている。近衛家は島津家と親戚同士だったから、薩摩藩の大立者である小松に便宜を図ったのだろう。
 次に、鹿児島出身の伝記作家、勝田孫弥も、長州藩の木戸孝允が薩長同盟のために入京したくだりで、「一月京師に入り、先づ西郷の寓所に投宿せしが、数日にして、近衛家の花畑に在りし別荘に移転せり」と記している(「大久保利通伝」中巻)。この別荘が小松邸だろう。
 第三に、薩長同盟締結直前に上京した薩摩藩家老の桂久武も小松邸を何度か訪れ、「小松家宿、御花園へ参り候」と日記に記している(「桂久武日記」)。「御花園」はおそらく右の「御花畑」「花畑」と同じ場所で、「近衛殿」を指していると思われる。
 近衛家の邸宅は幕末期には二カ所あった。室町時代から桜御所と呼ばれた「近衛殿」と、豊臣政権時代につくられた今出川邸(現・京都御苑内今出川門近く)である。幕末には今出川邸が本邸となり、古い「近衛殿」は別邸化したのではないか。断言はできないが、「近衛殿」が「御花畑」「御花園」と呼ばれ、そのなかに小松邸があった可能性が高い。
 薩長同盟がどこで結ばれようと、その歴史的な意義は不変であり、場所の問題など些末なことかもしれない。でも、私たちが歴史的な事件を実感し、当時に想いを馳せられるのは、やはりゆかりの地に立ち会うことではないだろうか。その意味で、薩長同盟締結の舞台を特定する作業は決して無駄ではないと思うのである。


【2007/04/28 19:48】 | さつま人国誌
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関ヶ原の名スナイパー柏木源藤
井伊直政の死の衝撃で放浪の旅に


柏木源藤

南林寺由緒墓地(鹿児島市南林寺町)にある柏木源藤の供養塔

 南林寺由緒墓地(鹿児島市南林寺町)の一角に、「武山丈心居士」と刻まれた墓がひっそりと建っている。江戸時代中期の明和六年(一七六九)に建立されたものらしい。
 法名しか刻まれていないが、これは慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦で、島津義弘の窮地を救った柏木源藤の供養塔である(『称名墓志』巻二)。源藤は義弘の家来、川上四郎兵衛忠兄の郎党だった。
 義弘率いる島津勢は関ヶ原合戦で西軍に属したが、武運拙く敗北のやむなきにいたり、義弘は敵中突破による郷里帰還を決断した。いわゆる「島津の退き口」である。
 徳川家康は本陣のそばを猛然とすり抜けた島津勢を見て、腹心の井伊直政や本多忠勝に追撃の下知を発した。
 徳川の精鋭の追撃は凄まじく、さしもの島津勢もその猛追を振り切れず、家老の長寿院盛淳、甥の島津豊久(日向佐土原城主)も義弘の退却を掩護しながら、次々と討死した。
 主戦場から五キロほど南東に離れた牧田あたりで、井伊勢が義ついに弘主従に追いついた。直政(四〇歳)は黒馬に乗り、白糸威の鎧に銀杏の前立のついた甲冑を着け、長刀を携えながら、「何をもたもたしておる。兵庫(義弘)を討て」と大音声をあげた。
 とそのとき、島津勢の一団から源藤が進み出て鉄砲を放つと、弾は見事に直政に命中した。直政はしばらく馬上で激痛をこらえたものの、たまらず落馬した。それを見た源藤は「川上四郎兵衛、討ち取ったり」と、思わず主人の名を叫んだ。郎党の悲しさで自分の名を名乗るのは憚られたのだろう。
 直政の負傷部位と程度は諸説あるが、一番信用できそうな井伊家の記録『井伊慶長記』によれば、弾は直政の右脇腹に当たったものの、頑丈な鎧だったために、弾が跳ね返って右腕(右肘とも)を貫いたという。
 大将の負傷で井伊勢が追撃を断念したために、義弘主従は辛うじて窮地を脱した。源藤の大殊勲だった。ときに源藤、二十二歳という。なお、直政はこのときの負傷が癒えずに、一年半後に他界している。
 この手柄ゆえか、源藤は義弘の隠居所である加治木に住んだ。だが、その後の源藤は不遇だった。『本藩人物誌』には「逼迫して町人にまかりなり、子孫断絶いたし候」とある。
 なぜ源藤は落魄したのか。それをうかがわせるような逸話がある。『旧南林寺由緒墓志』には、源藤が井伊直政の死去を知ってこれを哀れみ、「弔死の志をもって墨染の法衣を身にまとい、廻国修行に郷関を出しが、また帰らず、その終焉の地、果して何処(いずこ)なるか、勇士の末路、憐れにもまた遺憾なり」とある。
 直政の死を知った源藤には、どんな思いが去来したのか。ほんの一瞬の出来事が徳川四天王と勇名を馳せた武将の一命を奪ってしまったことに、世の無常を感じたのかもしれず、それが出家と放浪につながったのだろうか。

【2007/04/28 18:29】 | さつま人国誌
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ぼっけもん新聞
ようやく念願の記事が拝見できました。
「島津の退き口」で私が印象に残った人物は、「島津奔る」で読んだ「中馬大蔵」です。
思い立ったら即行動という彼の単純な行動は、薩摩人の気風を思わせるには十分な逸話だと思いました。
ただ、他の書籍にて彼の逸話を見ることができないのが残念です。
私は、三年ほど前から故郷鹿児島についての書籍を読み始めました。
これからもこのブログを活用して勉強させて頂きます。


中馬大蔵
桐野
ぼっけもん新聞さん、どうも。

コラム連載はしばらく本欄でもつづけますが、そのうち、南日本新聞サイトでも掲載してくれるのではと思います。そちらもご覧下さい。

中馬大蔵についても、取り上げて見ようかと思っておりました。以前、大蔵の墓の写真も撮影しております。じつは私の親戚の先祖だったりします。

今後ともよろしく。

源藤
びわこ
桐野さま
ご無沙汰してます。

直政を撃った島津隊士の行く末がこういうものだったのかと初めて知りました。

今年、彦根はお城の築城400年祭で今までになく盛り上がっています。
その支援事業のひとつ、10月21日に「戦国の道」語り部ツアー&ウォーク・「赤備え井伊隊追尾!島津(五僧)越えの道」が企画されています。

私もこのイベントのお手伝いをすることになっているのですが、如何せん、三成バカなもので、歴史を勉強しなおす必要に迫られています。
わからないことがあったら、お尋ねするかもしれません。どうぞ、その時は、お力をお貸しください。
よろしくお願いします。





五僧峠越え
桐野
びわこさん、どうも。

ご無沙汰しております。ようこそ。

400年祭関連のイベントが五僧峠越え(島津越え)ウォークですか。面白そうですね。
私にとっては五僧峠越えは因縁の場所。忘れようにも忘れられません。
10年ほど前に関ヶ原踏破(義弘陣所~大坂城まで)をしたとき、五僧峠を下ったところで、スズメバチに刺されました。たしか多賀のあたりまで降りてきたときです。
刺された瞬間、激痛が走って、くるぶしが赤く腫れ上がりました(苦笑)。

五僧越え、イベントとしては面白いと思いますが、ただ、歴史的由緒としてはどうか。個人的には、島津義弘主従はここを越えていないと思います。ここを越えたのは義弘からはぐれた連中(新納旅庵など)ではないかと推定しています。

もし私でお役に立つことがあったら、何なりとお申し付け下さい。



びわこ
桐野さま
早速にとても心強いお返事、ありがとうございます。


五僧越えでスズメバチの洗礼ですか・・・
2度目に刺されると大変だと聞きますから、気をつけてくださいね。

>歴史的由緒としてはどうか。

三成が関ヶ原を古橋まで落ちたルートも諸説ありますが、こういう謎解きみたいな歴史、大好きです。

秋まではどっぷりと島津に浸かることにします。(笑)




島津義弘の逃走ルート
桐野
びわこさん。

スズメバチ、2回目は恐いと聞いていますので、用心しているつもりです。以前も刺されたとき用の応急の処置具を教えてもらいました。太腿にブスッと刺せばいいというやつです。

島津越えのイベントについて。
じつは義弘はここを越えてなかったんだって、と野暮なことを言うのは本意ではありません。
ただ、史実関係は別に押さえておくべきではないかと思っています。

拙著『真説関ヶ原合戦』(学研M文庫)でも、義弘が島津越えをしていないことを、かなり詳しく書いています。また雑誌の記事でも何度か書きました。
高宮の旧家に、義弘の礼状らしきものが残っていますが、署名が「忠平」(若い頃の義弘の初名)となっており、どう考えてもおかしいですね。偽文書だとは申しませんが、こちらに逃げてきた義弘の家来たちが思わせぶりに遺したものでしょう。

イベントの盛会をお祈りします。


柏木玄トウ入道
板倉丈浩
こんばんは。
先日、何気なく『関ヶ原合戦史料集』(藤井治左衛門編、新人物往来社)を見ていたら、こんな記述がありました(P354~357)。


「徳川家康は、十四日朝、岐阜を出発、本隊は旧中山道を西上せしめ、自身は五百の精兵を率いて、木田を船にて渡り、本巣郡柿の木戸に至った頃、島津惟新の鉄砲隊長に襲われ、自害せんとした。

[美濃国雑事記]
川上左京ハ島津父子ヘ進メ、垣ヶ木戸ヘ出迎ヒ、薩摩勢ヲ伏セ置申候。(中略)薩州ヘ十人参リ居リ候唐人ノ内、柏木玄トウ入道ト申候テ、鉄炮ノ名人ト引替ヘ、右ノ玄トウ入道ニ下知シテ、十匁ノ鉄炮ニテ御乗物ヲ左ヨリ右ニ打貫キ候。然ル処、東照宮ニハ、右ノ鉄炮ニテモ御命ニ別状モ無御座候。(以下略)

[藤井評]
この事件は異説多く、真偽の研究を必要とする。ただし垣の木戸における川上左京との事件は事実だったようである。」


この「柏木玄トウ入道」は柏木源藤と同一人物とみて間違いないと思いますが、井伊直政を狙撃した人物に、家康を狙撃したという伝承もあるのは、なかなか興味深いですね。
「十匁ノ鉄炮」を操る「唐人」であったということは、明か朝鮮の出身で大口径銃の扱いに習熟していたのでしょうか。


柏木源藤
桐野
板倉さん、どうも。

ご紹介の家康襲撃の記事、私も興味深いのですが、史実としてはどうかなとも思っています。

じつは拙著「覇戦関ヶ原」(学研、歴史群像新書)のなかでも、家康襲撃説、源藤唐人説、十匁筒説などを取り入れて創作しています。

この続編を書きかけのまま中断しています。編集部からも督促されているのでした。早く手をつけないといけないのですが……

覇戦関ヶ原
板倉丈浩
こんばんは。

>史実としてはどうかなとも思っています。

この『美濃国雑事記』、文体からして20世紀前半の成立と思われますので、歴史学的には史実とは認定しがたいですね。
ただ、関ヶ原を長年研究してきた郷土史家の藤井氏が「事実だったようである」と見解を述べておられるので、地元伝承として、全くの創作でもなさそうなのですが、その後の研究は進んでないようで残念です。

>編集部からも督促されているのでした。

これは、藪蛇でしたか(笑)
ファンの方々も期待していると思いますので、是非とも完結させてください。



R
ゆきりんの先祖かと思った

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南日本新聞の連載コラム「さつま人国誌」を遅ればせながら掲載します。
同紙のサイトでも掲載してくれるとのことでしたが、作業が遅れているようなので、とりあえず先行して載せてみます。
なお、タイトルは同紙のそれとは異なっております。著作権の関係で、私が付けたタイトルにしてあります。もちろん本文はルビ以外は変更がありません。



その後の愛加那
尾崎三良の自叙伝と日記の食い違い


愛加那

愛加那の肖像

 西郷隆盛が奄美に流罪となり、龍郷村で流謫生活を送っていたとき、愛加那を島妻に迎えたことはよく知られている。愛加那は郷士格である龍家の二男家・佐恵志の娘だった。二人の間には菊次郎(のち京都市長)と菊草(のち菊子、大山誠之助夫人)という二人の子どももできた。
 しかし、島妻の運命は哀しい。西郷が罪を許されて本土に戻っても同行することはできない。愛加那が最後に西郷に会ったのは元治元年(一八六四)二月二十日のことだった。結婚してから四年ほどたっていた。
 明治になってから、愛加那の手もとから菊次郎と菊草は西郷家に次々と引き取られた。そのため、愛加那は親戚の子、丑熊を養子にしたという。
 その後の愛加那については、菊次郎が二度ほど帰郷していることが判明しているが、明治三十五年(一九〇二)の旧暦八月二十七日、農作業中、脳溢血のため畑で倒れたまま他界したという最期の様子のほかは、ほとんど知られていない。おそらく寂しい余生をすごしたといわれている。
 そんな愛加那を目撃して、日記や自叙伝に書き残した人物がいる。尾崎三良という人である。幕末には戸田雅楽と名乗り、公家の三条実美の家士で坂本龍馬と親しく、西郷とも面識があって交流している。その尾崎が明治十五年(一八八二)八月、参事院議官補のとき、沖縄県の巡視を命じられた。その仕事を終えた帰途、龍郷村に立ち寄って愛加那と会っている。
 この人は日記だけでなく、自叙伝を残している。まずあとから書かれた自叙伝が公表された。そのなかに愛加那の意外な姿が書かれており、人々を驚かせた。
「玉鶴と云ふ優美の名にして且つ英雄西郷の愛せし婦人なれば定めて美形ならんと憶想せしが、案に相違し只見る一蛮婦五十位の醜面、しかも全く島風の衣服、手甲には入墨し足は徒跣(かちはだし)して来る。是には吃驚(びっくり)せざるを得ず」(『尾崎三良自叙略伝』中巻)。
 身もふたもない書き方である。愛加那が玉鶴と呼ばれているのはおかしいと思われつつも、一時はこのイメージが一人歩きしていた。
 ところが、近年、尾崎の日記が刊行されて、これが間違いだとわかった。日記には「西郷隆盛氏ノ未亡人ニ面会」とあるのみで、愛加那の容貌や様子などは何も書かれていない。それとは別に、尾崎は汾陽(かわみなみ)某宅を訪れて、「玉鶴」という老婦に会ったとも書いている。彼女は上野景範という旧薩摩藩士(のちイギリス特命全権公使)が奄美に役人として赴任してきたときの島妻だったのだ(『尾崎三良日記』上巻)。
 つまり、尾崎は記憶違いをしていて、愛加那と別人の玉鶴を混同して自叙伝に書いてしまったのである。だとすれば、人騒がせな目撃談だというしかない。尾崎はせっかく愛加那に会いながらも、結局、日記にその様子を何も書き残さなかったことになる。何とも残念ではないか。


【2007/04/28 18:04】 | さつま人国誌
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このところ、諸事多忙でなかなか更新できなかった。

24日夜、古文書講座てらこや「幕末の日記を読む3」の2回目の講座に出講。

いよいよ、土佐藩が大政奉還建白書を幕府に提出するところまで漕ぎつけた。
その建白書全文を改めて読んでみた。同時に芸州藩が提出した建白書と読み比べてみたが、やはり土佐藩の建白書がよくできている。それは前藩主山内容堂の建白書だけでなく、後藤ら家来の建白書の二本立てになっていて、後藤らの建白書のほうが8カ条の要求項目が並べられており、非常に具体的な内容になっているからだろう。

ところが、日記の主、寺村左膳は大政奉還という重大事件にもかかわらず、国元に帰郷してしまう。これがじつをいうと、明治維新以降の左膳の身の振り方まで決してしまったといえるかもしれない。左膳の不在のうちに、後藤・福岡・神山らの在京重役は薩摩藩との連携を図り、ともに王政復古政変に突入していく。
薩摩藩とは一線を画すとばかり思っていた左膳にとっては、後藤らの態度は変質に見えたことだろう。それに憤慨した左膳は維新政府に背を向ける道を選択する。

それはさておき、左膳が京都に不在なので、次回は他の史料を援用してやることになる。これは準備が一段と大変になりそうだ(苦笑)。

前回、白い紙の文字が反射してとても見づらく、やばいなと思ったが、今回はなんとか大丈夫だったので安堵。体調にはもう少し気を遣おう。

【2007/04/27 00:40】 | てらこや
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久しぶりに大河ドラマを見た。
第16回「運命の出会い」

前回見逃したので、諏訪攻めのいきさつがよくわからなかったが、一番不思議だったのは、諏訪頼重降伏後も桑原城に由布姫を含む諏訪勢が立てこもっていたことである。主君が降伏した時点で空き城になったか破壊されたのではないだろうか。

甲府に送られた頼重だが、史実では弟の頼高も一緒で、ともに自刃したはずだが、ドラマでは省略されていた。ストーリーを複雑にしないというか、頼重と禰々の愛を強調するためには致し方ないだろう。

そういえば、20年前の大河「武田信玄」では、頼重を坂東八十助(現・三津五郎)が演じていた。そして幽閉された東光寺から女装して脱走したところを、晴信に見咎められて斬られるという筋だったが、今回のほうが史実に即していてオーソドックスでよかったのではないか。

ついでにもうひとつ。禰々は夫が自刃されられた心痛のためか、翌天文12年(1543)正月に他界する。弱冠16歳という。
桜井幸子、どうみても16歳には見えないよなあ(笑)。彼女の代表作は何といっても、白馬童子じゃなかった、森田童子の主題歌でも話題を呼んだ「高校教師」である。禰々はだいたいそのドラマでの年齢だったわけだから、歳月は移ろうものである。

勘助と由布姫との出会いは以前本欄で想像したのと当たらずとも遠からずだったな。摩利支天の彫り物を媒介に、ミツと由布姫が重なり合うという筋書。私にも予想できるくらいだから、陳腐な設定だったのでは。

さて、ヒロイン由布姫を演じる柴本幸はどうだろうか。演技や表情が堅いというか、いまいちだな。新人だから致し方ないけれど、目力はありそうだから、強気な性格をそれでうまく表現できたら、まあまあ見られるかもしれないが……。

今回、由布姫が生き残るいきさつでの、彼女のセリフは変だった。命が惜しくて死ねなかったというのと、生き地獄をこの目で見てみたい云々というセリフは明らかに矛盾している。これでは、勘助が彼女を助ける動機づけが弱くないか。
これは彼女のせいではなく、脚本家のせいである。この脚本家、改まった能書きというか決めゼリフを言わせる場面で破綻することが多い。要するに、肝心の場面をうまく決められないのだ。これではクライマックスが説得的でないばかりか高揚しないし、次につなげられない。これって脚本家にとっては致命的な欠陥のような気もするが……。

【2007/04/22 23:13】 | 風林火山
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秘剣
由布姫の台詞は脚本家の限界を思わせる「へ理屈」に感じました。
ドラマとしての出来は他の作品に比較してよいかな、と思うので残念です。

セリフ過剰では
桐野
秘剣さん、お久しぶりです。

たしかにそうですよね。この脚本家は肝心の場面で、説明しようとするセリフが多いんですよね。
説明しないで、断定的な決めゼリフをあてるほうがずっと効果的だと思うのですが……。

ジャンルは異なりますが、拙著も説明が多くて、バシッと決められないのかもしれません。その意味では、脚本家のことはあまり言えません(爆)。

今年はドラマとしては、まあまあだと思います。論外だった昨年とくらべたらましなほうです。
主役の内野氏はじめ役者たちの熱演によるところも大きいですが。

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昨年、武蔵野大学(武蔵野校舎の生涯学習センター)で開かれたオムニバス歴史講座「薩摩と明治維新」の第2次講座が今年も開かれることになった。

現在、受講者を募集中です。
詳しくはここをご覧下さいませ。

講師は次の面々。私以外は有名人の子孫だ(笑)。

島津晴久(重富島津家当主)
大久保利泰(大久保利通曾孫)
榎本隆充(榎本武揚曾孫)
桐野作人


全4回講座で有料だが、4回とも受講すれば1回分お得らしい。
私の講座の日時とテーマは、

6月30日(土)13:00~14:30
天璋院篤姫と幕末薩摩藩について


来年の大河にちゃっかり便乗させてもらってます(笑)。
ドラマの歴史的背景、とくに薩摩藩の特殊事情がよくわかるかも、と積極的に考えていただけると幸いです。

昨年は平日午前中という、もっとも集客しにくい条件だったにもかかわらず、毎回定員を超える100人以上の申し込みがあり、一部の方には受講を断ったほどだというから、今年は思い切って、さらに多くの方に受講してもらおうということになり、土曜日午後と格段に条件がよくなった。
でも、キャパ400人は多すぎないかな。ほかのお三方はともかく、とても私めは自信がありませぬ。

そんなわけで、首都圏にお住まいで薩摩に興味のある方、お時間のある方、慈悲心をお持ちの方は受講をご検討下さい。


【2007/04/21 22:56】 | 雑記
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板倉丈浩
こんにちは。
私は慈悲深くはないのですが(笑)、昨日第1回を受講しました。
会場は大学の教室に変更されており、当日受付でも入れました。
島津晴久氏は名家の出らしく上品な感じで、斉彬・久光の面影をよく受け継いでいるように見受けられました。
で、気がついたことなどをいくつか。

・大久保氏・榎本氏も来場されていて、ご紹介がありました。
・雨が降ると吉兆だという「島津雨」。話の導入はやはりこれでした。
・鹿児島を中心に一門(重富・加治木・垂水・今和泉)と一所持(日置・花岡・宮之城・都城)がそれぞれ同心円的に配置されているようです(地図で見るとよくわかる)。
・初代忠久の頼朝落胤説について、「私どもの系図では・・・」「学問的には・・・」と両方説明がありました。
・島津氏は蒙古襲来までは鎌倉常駐。竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』に3代久経が描かれ、旗に十字紋が使われている。
・貴久~義弘時代の戦争の説明では、ただ人を斬っていたばかりではなく、供養碑の建立など、敵味方を差別しない死者に対する回向があったことに言及。
・朝鮮出兵に関して「明の史書に"鬼"島津と書かれた」という説明は疑問でした(漢語では「鬼」とは幽霊のことだから、日本のように勇猛だから鬼と呼ぶことはないと思う・・・)。
・OHP投射された関ヶ原合戦図屏風(井伊家所蔵のもの)で、島津隊の位置がわからず、「どこだ、どこだ」と虫眼鏡で探し出されたのには思わず苦笑。前に出て教えてあげたい衝動に駆られました(笑)。確かにこの図屏風の島津隊の位置は通説とは違っているのですが・・・。
・江戸・幕末期の説明は駆け足。その中で「地元では大久保利通は名誉回復したが、調所笑左衛門と川路利良はまだ」という指摘が印象に残りました。そうか、まだなのか・・・。
・最後に晴久氏の4代前にあたる島津珍彦(久光の子)そして典姫(斉彬の娘)の写真を紹介。写真を見るとどんな人だったのか気になってしまうので、時間切れが残念でした。


島津晴久氏の講演
桐野
板倉さんこんばんは。

武蔵野大学の講座のご報告有難うございました。

このシリーズの講師のうち、私以外は全員出席されていたのですね。一番の若僧が欠席とはと、ほかの方々に思われたかも(笑)。

島津さん、OHPを利用されたんですね。前回は誰も使いませんでしたが。あるいはレジュメ代わりだったのでしょうか?
そういえば、前回、写真の紙焼を演台に貼られましたが、小さくて見えなかったことがありました。とくに珍彦氏を初めとする一族の写真を見せるにはよかったかもしれません。

私のときも、パワーポイントでも使おうかなと思っていますが、じつはよく使いこなせなかったりします(爆)。せめて、スライドショーくらいはやりたいと思っています。

調所笑左衛門と川路利良の地元での名誉回復。
島津家全体が調所への贖罪意識があるなら、その名誉回復への障害はほとんどないと思います。ほとんど島津斉彬との関係だけですから。
川路は銅像こそ建ちましたが、一般レベルでの意識の変化というのはどうでしょうか? それよりも、意識の退化というか、歴史の記憶が次第に薄れていくことのほうが問題かも知れません。

川路利良
ばんない
ご無沙汰しておりました

島津晴久氏が斉彬と久光の面差しを受け継いでいるという点のコメントはパスして(苦笑)

鹿児島県はともかく
警察庁内での川路の権威というのは今でも絶大のようですね。
最近よくテレビに出演している警察OBの北芝健氏は、派出所勤務時代に「鹿児島まで帰りたいんですが、今手持ちの金がない」と駆け込んだ中年男性に
(鹿児島といえば初代総監の出身地、悪い人ではないだろう)
と思いこみ、数万円をポケットマネーから貸したそうですが…その男は寸借詐欺師だったらしく、そのお金は二度と戻ってこなかったそうで(苦笑)

川路の地元での悪評については、川路の性格とかやり口に加えて、郷士vs城下士の対立も影を落としているという認識なのですが、少なくとも警察庁は鹿児島県出身者には門戸が広かった時期があるようで、そういう点では地元に貢献していると思うんですけど…最もそれだけしか地元に貢献してないかも知れないが。

郷士と城下士
桐野
ばんないさん、お久しぶりです。

川路利良の銅像は鹿児島県警前に堂々と建っていますが、場所が場所だけに、さすがにいたずらする人はいないようです(笑)。
ちょっと前に天保山にある坂本龍馬・お龍の新婚旅行の碑がペンキを塗られるいたずらがされたことがありましたが、川路銅像に手を出す大胆な者はいないでしょうね。ちなみに、今年は西南戦争130周年ですが(笑)。

郷士と城下士の対立というご指摘、仰せのとおりだと思います。川路は厳密に言えば、与力座身分で、島津家の被官扱いであり、郷士よりさらに格下です。昔でいえば、足軽身分ですね。

その川路が出世したのは西郷の推挙があったと言われていますから、鹿児島の私学校党から見れば、川路は恩知らずということになるのでしょう。もっとも、こうした見方は多分に公私混同気味だと思いますが。ふつうは国家公務員として、とくに大警視として国家の治安を預かる者なら、そう簡単に辞職するわけにはいかないでしょう。

その一方で、川路は大久保の知遇も得ています。大警視になれたのも大久保の力に預かっていると思います。
西郷と大久保の両雄から引き立てられた川路は、身分は低くても相当優秀だったといえるのではないでしょうか。

私学校党と川路の関係が決定的に悪化したのは、やはり、西南戦争直前に川路が配下で鹿児島出身の巡査たちを視察のために帰国させたことでしょうね。
もっとも、国家の治安を預かる者としては、政情不安地域に部下を派遣するのは、当然の情報収集活動だと思います。
「視察」を「刺殺」だなんて、子供だましのごまかしもいいところで、私学校党に捕縛された巡査たちを拷問して得られた「供述」ですからね。挙兵の名分がなかった私学校党が無理やりでっち上げた可能性が高いでしょう。
そのシナリオを書いたのが誰か、ある程度絞られると思いますけどね。少なくとも、西郷と桐野は関わっていません。西郷は小根占で猟をしていますし、桐野は吉野の開墾地で畑を耕していましたから。

川路が郷士出身の巡査を鹿児島に送り込んだのは、彼らの城下士への反感を利用したからだと言われていますが、果たしてそうなんでしょうかね?
巡査はほとんど郷士ばかりで、城下士はまずいないでしょう。城下士はほとんどが近衛兵ですからね。川路の手駒は郷士しかいなかったわけで、それほど意図的なものだとも思えませんがねえ。

川路の鹿児島での評判の悪さは、むしろ西南戦争後に形づくられた気もしますね。歴史的敗者のアイデンティティを維持するためにも、誰か悪役が必要だったと思います。
それというのも、西南戦争で負けたとはいえ、城下士出身の私学校党はかなり生き残っているわけで、彼らはその後も、鹿児島の政治・行政・教育など主要な分野を占めました。川路嫌い、西郷全面賛美はそういう勢力によって形成された面もあるのではないでしょうかね。

なお、今の県知事さんは私と同じ郷里で、戊辰戦争の重要な従軍記録を残した有名な郷士の子孫です。先祖は西南戦争直前、従軍を拒否して私学校党にいじめられ、川路とも仲がよく、政府軍に降伏したときには川路に降伏していますけど、今は西郷復権の先頭に立っておられるようで、皮肉なものです。票に響くんでしょうかね?

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検証本能寺の変

本日、谷口克広氏から表題の本を恵贈された。多謝。
まだ版元の新刊案内も詳しくないので、表紙写真も載せておきます。
版元・定価などのデータはここに

本書の特徴はいくつかある。

1,まず使える史料とそうでない史料をちゃんと峻別する必要があることを強調している。史料批判の重要性という当たり前のことだが、信用できない史料をもとに、いかに俗説がこしらえられるか、その弊害を説いている。

2,江戸時代からの先行研究を網羅的に俎上に上げていること。これを見たら、いわゆる俗説の成立が、江戸時代や明治時代にすでに原型があることがわかる。

3,黒幕説の徹底批判
 とくに朝廷黒幕説と足利義昭黒幕説が成り立たないことを、詳細に論じて葬り去っている。まことに小気味よい。
 たとえば、朝廷黒幕説に対しては、
「一口に言うと、朝廷関与(黒幕)説は、先入観に導かれて史料を曲解するところから生まれた説といえるだろう」

足利義昭黒幕説に対しても、「(鞆幕府の)その勢力や権威を光秀が信じていたとしたら、もっと義昭を表面に出して味方を募ったはずではないだろうか」と拙著と同様の立場であり、光秀が義昭を「謀反当初から担ごうという意図はなかっただろう」とも指摘している。

 南欧勢力黒幕説に対しても、実に詳しい批判がある。そして結論として、
「そもそも、計画通り信長を討たせ、さらに秀吉を動かして光秀も討たせるなどと、まるで将棋を指すようである。金力もない、兵力もない、日本国内での仲間も限られているイエズス会が、卓上で駒を動かすように日本の政治の中枢を操るなど、できるはずがないであろう」

そして、黒幕説全般に共通する点として、
「結論のほうがはじめにあって、史料をその結論に合わせて曲解してしまう、ということである」と手厳しい。
黒幕論者たちはこの批判にどのように反論するのだろうか。

そして谷口氏の結論は、諸説のなかから成立しないものを順に消去した結果、残ったのが、次の3点だという。

①天正10年5月の信長による光秀足蹴事件
②斎藤利三の一件(稲葉家との相論)
③四国対策をめぐる対立


しかも、この3点はつながっていると、谷口氏は結論している。
視点や方法論が異なりながら、結論はほとんど拙著と同じものになっている。

ほかにも、拙著では触れなかった「本願寺教如黒幕説」をはじめとした、種々の黒幕説をすべて撫で斬りにしている。

とくに、谷口説で興味深いのは、光秀67歳説を積極的に主張していることである。これは谷口氏の年来の持説であり、『当代記』に基づいている。55歳の通説が俗書の『明智軍記』にある光秀辞世(あのような死に方をしたのに辞世があったとは考えにくい)を根拠にしていることより、はるかに信頼できる。
付け加えれば、拙著では紙数の関係で書かなかったが、光秀は目が相当悪かったのは確実である(いくつか史料あり)。これも67歳説を補強しているかもしれない。

拙著より相当読みやすい本に仕上がっている(笑)。拙著とともに読み比べられることをお勧めしたい。


【2007/04/21 00:11】 | 信長
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旬な話題
はじめまして^^

私の芸能サイトで
こちらの記事を紹介させて頂きましたので
ご連絡させて頂きました。

紹介記事は
http://newsoftoday.blog89.fc2.com/blog-entry-935.html
です。

これからもよろしくお願いいたします^^


お聞き流しを
Tm.
『検証 本能寺の変』早速、購入しました。

確かに読みやすい。非常に読みやすい。
それに比べると『だれが信長を殺したのか』の難しいこと。

願わくば新書にて刊行して頂きたかったです。

操作ミスですか
桐野
Tm.さん、おはようございます。

管理人のみ閲覧と同じ趣旨のコメントをいただいておりますが、もしかして操作ミスで二回アップされたでしょうか? そうならご愛敬ですが(笑)。

谷口氏の著書、読みやすいというのはその通りだと思いますが、もともと趣旨や方法論が異なるので致し方ありません。どちらにもそれなりの長所・欠点があろうかと思います。

申し訳ありません
Tm.
>もしかして操作ミスで二回アップされたでしょうか?

その通りです。出来れば<管理人のみ>の方を削除してください(謝)


>もともと趣旨や方法論が異なるので致し方ありません。

ただ、『だれが』が難しいと言ったのは良い意味でですので御気を悪くなさらないでください(笑)
その上で『検証』は、どうしても鈴木、藤本両氏のご著書と比較されるのは致し方ないのではないでしょうか。

後発の強みはありますが、それ以上の注目すべき新知見(「福屋文書」のような)もあるわけではなく、『当代記』における「光秀67歳・説」についても、『明智軍記』の55歳と言う年齢は疑わしいものの、当時、信長ですら49歳と初老に差し掛かっており、ましてや天正4年に生死をさ迷う大病を患っている光秀は実年齢以上に老け込んでいたと考えられ、それを積極的に肯定すべき根拠はないと存じます。

その上で、谷口氏や堀氏にも共通することですが、桐野先生はかつてご自身が「(朝廷)黒幕説」を叢生させてしまったという反省から、公武の対立を必要以上に矮小化されてはおられないでしょうか。

歴読2003年5月号の『信長「腹立」の真相』興味深く拝見いたしました。
同事件が組織としての公武の関係に深刻な影響を与えたとは考えておりませんが、少なくとも信長と誠仁親王の間にはある種のわだかまりを生じさせたに相違なく、その前後の出来事を体系的に見返すと、光秀の謀叛の背景(決断)にも通じるものがあるのではないかと思われます。


それと「妻木」ですが、『兼見』では天正6年6月14日の記事にも見られますが、ただ「妻木」とあるだけで個人を特定するような記述がなされていません(※信長在京)。翌7年の記事にある光秀姉妹の「妻木」とは別人なのか、さらに翌8年1月の記事の「妻木」とはどうかを合わせ考えるに、当時「妻木」と記すだけで分かる人物がいたのではないでしょうか。

とくに天正6年の記事で兼見は、「妻木」に「臺之物、肴色ゝ・双瓶」を使者を立てて贈っているのに対し、猪子高就には「角豆一折」を持参しており、その違いには興味深いものがあります。

公武関係について
桐野
Tm. さん、なかなか興味深いご意見有難うございます。

>桐野先生はかつてご自身が「(朝廷)黒幕説」を叢生させてしまったという反省から、公武の対立を必要以上に矮小化されてはおられないでしょうか。

それほどでもないと思っておりますが……。
もともと、公家と武家は成り立ちが異なり異質です。価値観がかなり違いますね。
したがって、その違いからくる軋轢は、信長期に限らず公武関係にはつきものです。それは鎌倉時代から幕末まで一貫してそうではないでしょうか。信長だけを特別に考える必要はないと思います。

歴史読本に掲載した拙稿もご覧になっているようで感心しておりますが、この一件についても、江戸時代初期の紫衣事件や和子入内事件とくらべると大したことはありません。
和子入内のほうが当時の公武関係にとって重大で、とくに天皇家にとっては青天の霹靂ともいうべき徳川家の横暴に見えたはずですが、当該期に公武対立だとか、徳川将軍暗殺計画があり、陰の黒幕は朝廷だったなどという説はありませんね。
逆説的にいえば、和子入内でさえ受け容れた朝廷ですから、典侍冷泉氏の一件など受忍の範囲内でしょう。信長期の公武関係は非和解的・非妥協的な対立では決してなかったのではないでしょうか。
谷口さんもご指摘のように、信長だけ特別視している傾向がありますね。

>歴読2003年5月号の『信長「腹立」の真相』興味深く拝見いたしました。
同事件が組織としての公武の関係に深刻な影響を与えたとは考えておりませんが、少なくとも信長と誠仁親王の間にはある種のわだかまりを生じさせたに相違なく、その前後の出来事を体系的に見返すと、光秀の謀叛の背景(決断)にも通じるものがあるのではないかと思われます。

この一件は、発案者は信長ではないのではないか、むしろ信長はある公家集団の計画に乗せられただけではないかと、最近思っております。
その公家集団というのは、拙稿にも示唆されていますが、信長死後、正親町天皇の勅勘を蒙っています。その理由は通常、別の一因があげられていますが、私は違うと思っています。それが原因なら、複数の公家が勅勘になるはずがないからです。

誠仁親王がこの件で信長に意趣を含んだというのがまったくないとはいいませんが、それよりも、二条御所の譲渡や即位の約束という信長からの恩恵のほうがくらべものにならないくらい、はるかに大きかったのではないでしょうか。


『兼見』にはたしかに「妻木」がよく出てきますね。
この「妻木」は「光秀妹」ではなく、その兄か父の立場にあるような、光秀の側近として重きをなしている人物ではないかと思います。
猪子高就との音信の軽重に注目されたのはなかなかだと思いますが、これが妻木と猪子の身分差によるものか、単なるこのときの事情(妻木に多く贈る必要があった)によるものかはわかりません。それでも、信長側近より多いのはたしかに面白いですね。






上意トセリアイテ
Tm.
桐野先生、お忙しいなかでのご返答ありがとうございます。

自分が「腹立事件」において注目している出来事の一つに、「安土山図屏風」の件があります。
先の歴読のご論稿では禁裏に献上されたと述べられていますが、実際には正親町天皇の「勅書=賛」を得るべく高覧に供したものであり、後にヴァリニャーノ(天正遣欧少年使節団)によってバチカンに献納されています。
問題は、立花京子氏の言われるように当初から後者を前提に屏風が描かれ、そして天皇の賛が要求されたのかどうかということですが、まずそれはないでしょう。

ではなぜ信長は天皇に賛を要求をしたのかということですが、単なる自慢の為であったとするには、当時の史料において話題に上っていないことに疑問があります。
自分には「腹立事件」と「安土山図屏風の一件」に、永禄12年の将軍義昭と信長の「競合い事件」を思わせるものがあり、後者における「女房奉書」に当る物が前者での「勅書=賛」であり、思わぬ抵抗を見せた誠仁親王に対する信長の牽制ではなかったかとみています。

>この一件は、発案者は信長ではないのではないか、むしろ
 信長はある公家集団の計画に乗せられただけではないかと
 思っております。

たとえそうであったとしても、信長はもはや親王が自分の意に逆らうとは考えていなかったのではないでしょうか。詳細を失念しましたが、親王の信長に対する反感を天皇がたしなめるような出来事も記録にあったやに思います。
親王は「変」の折に「切腹すべきか」と申し出たほどの人物ですから、事あるごとに周囲に不満を漏らすようなこともあったのではないでしょうか。

義昭の時とは立場が違いますが、光秀も兼見や長岡(細川)藤孝らからそうした状況を伝え聞き思うところがあり、謀叛を決断する(自身を納得させる)理由としたのではないでしょうか。

『川角太閤記』と『別本川角太閤記』
Tm.
話しは代わりますが、是非とも桐野先生にお教え頂きたいことがあります。

それは『川角太閤記』と『別本川角太閤記』の関係及び巷間への流布についてです。
『検証』では両者は「まったくの別の本である。」とあるのみで詳しい説明がありません。
また、他でもそれに対する説明はないと存じます。
なぜそのことに拘るのかと言えば、後者に収録されている小早川隆景宛ての光秀の書状と同じものが別の史料にも収録されているからです。

『検証』では、『覚上公御書集』の「河隅忠清発給文書」が従来知られている以上に多くの上杉景勝関係の史料に収録されていることの指摘がありましたが、「小早川隆景宛書状」については旧知のことなのでしょうか。

自分の不勉強かも知れませんが、上記のことお教え願えれば幸いに存じます。

別本川角太閤記
桐野
Tm.さん、どうも。

『別本川角太閤記』ですが、私は『大日本史料』第11編之1(秀吉時代)に収録されているものしか知りません。それも、ほんの一部、ほとんど小早川隆景宛て光秀書状だけで前後の文脈はわかりませんね。
大日本史料に収録されているのですから、東大史料編纂所に原典なり写本なりがあるのかと思って検索してみましたが、少なくともデータベースではヒットしませんね。

常識的に考えると、江戸時代初期(元和年間か)に成立したとされる『川角太閤記』(現存しているのは幕末期の写本ですが)の一変種といいますか、写本の一種で、その成立の過程で、創作が加えられたということでしょうかね。やはり小早川隆景宛ての光秀書状は偽文書だと思いますね。

あと、『国書総目録』に何か載っているかどうかですね。私は持っていないのでわかりません。

なお、同じ隆景宛て光秀書状が別の史料に収録されているとのことですが、それはどんな史料でしょうか? 不勉強なもので、ご教示いただけると幸いです。

同じ文書が別の史料にも収録されていることはよくあることで、それはこのケースでも同じでしょう。その別の史料が一次史料なら話は別ですが、おそらく編纂史料、それも比較的新しいものではないでしょうか。

追加情報
桐野
Tm.さん

先ほどのコメントはあまりに調査不足でしたので、少し追加情報を。

桑田忠親『明智光秀』(講談社文庫)によれば、『別本川角太閤記』は内閣文庫所蔵とありました。

内閣文庫は現在、国立公文書館ですので、そのサイトの以下のURLにアクセスして下さい。

http://www.archives.go.jp/owning/index.html

その検索欄に「川角太閤記」というキーワードを入力すると、6点ヒットします。ちなみに、『別本川角太閤記』ではヒットしません。

上記6点のうちのどれかが『別本川角太閤記』なのでしょうかね。よくわかりません。
そこで、『大日本史料』の同書の記載してあるところを見ると、ひとつ気づきました。巻数表示がないのです。
別本ではない『川角太閤記』だと、ちゃんと巻数があるのに、別本にはないというのは大きいヒントではないかと思いました。

上記6点のうち、5冊本と2冊本があるなか、1点だけ1冊本があります。これが別本であるかどうか。もっとも、活版とありますので、和綴じ本数巻を1冊にまとめた可能性もありますので、何とも言えません。

あるいは、他所へ移動した、紛失した可能性もないとはいえません。

とりあえず、わかるのはそれくらいです。

筒井家記?
Tm.
桐野先生へ

問題の史料は、7~8年前、国会図書館にて『筒井家記』を探していたときに偶然見つけたものです。
結局、『筒井家記』なるものは見つからずじまい(八切止夫氏の創作か?)でしたが、確か『増補・筒井家記』のうちの一冊ではなかったかと記憶しています。
その後、東大史料編纂所で探索をと思いつつそのままになってしまっています。


>常識的に考えると、江戸時代初期(元和年間か)に成立した
 とされる『川角太閤記』(現存しているのは幕末期の写本
 ですが)の一変種といいますか、写本の一種で、その成立の
 過程で、創作が加えられたということでしょうかね。

『別本』が先か問題の史料が先なのか、さらには別の出典となる史料がある(あった)のか興味を抱きつつ今に至っている次第です。

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元帥公爵大山巌

最近、また古書買いの病が膏肓に入っている(笑)。

表題の本もそのひとつ。
一部コピーは持っていたが、古書はなかなかの値段だったから、手を出さずにいた。今回、たまたま直感が働いたこともあって、値段は度外視してひらめきで購入。

それがまんまと当たった。
この間、西郷隆盛の京都屋敷の所在地を探していたが、本書に大きなヒントがあった。さっそく先日の上洛のときにあたりを視察してきた。大山は幕末維新期、西郷のボディガードをしていて終始そば近くにいたから間違いないと思う。ちなみに、大久保の警固は西郷従道だった。

本書は日露戦勝30周年を記念して刊行されたもので、史料蒐集も念入りに行われている。序によれば、宮内省・陸軍省などの諸官衙、満鉄、島津公爵家はじめ、元帥の部下などの史料・証言も集められている。
執筆者が誰なのか不明だが、史料蒐集に努力したという猪谷宗五郎氏か。

個人的には、大山巌の明治時代はさほど興味がない。それが購入を躊躇した理由だったが、幕末維新期については、西郷・大久保そして大山が生まれ育った下加治屋町の方限が詳細に復元されていて、70数軒のほとんどすべての所帯がわかる地図が付いている。おそらく本書だけではないかと思う。これは薩摩の維新史を考えるうえで貴重な仕事だろう。

大山といえば、日露戦争における満洲軍総司令官が生涯の絶頂期だから、それについて多くの分量が割かれているのは当然だが、それ以外のエピソードもいくつか掲載されている。主だったものでも、

○寺田屋事件への参加
○薩英戦争と決死隊
○戊辰戦争と大山率いる砲隊
○「君が代」選定の経緯
○西南戦争中、敵味方に分かれた大山と村田新八の戦場での往復書簡

また「兵器に関する貢献」という一章がとくに設けられ、弥介砲をはじめ、大山が関わった諸兵器について詳しく書かれているのも興味深い。大山の本質は技術テクノクラートにあったといえそうだ。

追記:
大山元帥といえば、幼少の頃の不思議な思い出がある。
子どもの頃、熱を出したり風邪を引いたりしたら、近所の医院によく連れていかれた。そこは年老いた医者が一人、そしてかなり高齢の看護士が一人いるだけの小さな医院だったが、建物もまた年季モノだった。たしかレンガ造りだったような記憶が……。
そこの待合室で先生に呼ばれるのを待っているのだが、その時間がすごく長く感じられ、とても恐かった覚えがある。子どもだから医者が嫌い、注射が嫌いというのではなく、古ぼけて薄暗い待合室の一種おどろおどろしい雰囲気が恐くて、病気のことも忘れそうだった。

その不気味な雰囲気を醸し出している最大のものが、壁にかけられていた一幅の油絵だった。
それが、大山元帥の奉天入城の有名な絵である。
鹿子木孟郎が描いた絵で、真ん中の馬上で敬礼している軍人が大山巌だと知ったのはもちろんだいぶあとになってからである。
この絵です。

おそらく複製だったはずだが、この絵に上から監視されている気がして、なぜかとても恐かった覚えがある。一種独特の色づかいのせいだろうか。
本書にもむろんこの絵は口絵として収録されている。しかし、モノクロだし、すでに大人だから、子どもの頃に感じた威圧感はまったくない(笑)。
ともあれ、私にとっての大山巌の原体験といえば、この絵に尽きるのだ。

元帥公爵大山巌
非売品
編者:大山元帥伝編纂委員 代表者 尾野実信
発行:大山元帥伝刊行会
発行年:1935年


【2007/04/20 10:31】 | 古書
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寺田屋の絵
まいたけ
 まいたけです。

 この本、3万5千円以上もする本なのですね。
 でも、値段分の価値がありそうでよかったですね。

 うろ覚えなのですが、黎明館に、大山巌が描いた寺田屋の絵がありませんでしたか? 「激動の明治維新展」で見た記憶があるのですが、、、

>寺田屋事件への参加

 ここに、その絵も掲載されているのでしょうか?
 

追悼和歌なら
桐野
まいたけさん、どうも。

黎明館のあのときの展示、大山の絵は記憶にないのですが。もともと記憶力が悪いので申し訳ありません。

『元帥公爵大山巌』の寺田屋事件関連のなかにも、その絵は出てきません。冒頭の口絵にもありませんね。

明治24年(1891)、有馬新七らに贈位があったとき、大山はわざわざ伏見の大黒寺を訪れて、追悼の一首を手向けています。その一首の写真版はありますが……。

二つなき身もふりすてし真こゝろは
 雲の上まてあらはれにけり

ただ、序文によれば、大山家には自筆日記、自叙伝、往復書簡など多くの資料がまだ所蔵されており、逐次刊行されるであろうと描かれていますが、その後、公刊された形跡はありませんね。日記がいつ頃のものなのか、往復書簡には誰からのものがあるのか興味が尽きませんが。これらの資料の中にその絵も含まれているかもしれませんね。

お答えになっていなくてすみません。




まいたけ
 まいたけです。

 いろいろお調べいただき、ありがとうございました。

 『激動の明治維新展』の図録を開いてみました。
  図録を調べてから、先のコメントを書くべきでしたね。

 寺田屋事件に関して、寺田屋の絵と、「大山」まではよかったのですが、記憶というものは、あてにはなりませんね(冷汗)
 寺田屋の絵というのは、正しくは、「寺田屋事件見取り図」といい、是枝柳右衛門が記したものでした。鹿児島市維新ふるさと館が所蔵しているようです。
 それから、「大山」というのは、大山違いでして、上記の絵とともに、寺田屋事件の顛末を記した大山綱良日誌が展示されていました。わたしは、展覧会会場で見学したふたつの展示品を混同していたようでした。ちなみに、大山綱良日誌は、黎明館が所蔵しているようです。
 黎明館の『研究紀要報告・補説』(1984)に、塩満郁夫「大山綱良日誌と獄中からの遺言状」という論文が掲載されているようなので、ちょっと読んでみたい気もします。
 
 それから、大山巌の史料は、国立国会図書館に所蔵されているようですよ。
 http://www.ndl.go.jp/jp/data/theme/constitutional/data/o.html#oyama-iwa
 ここに、「日記、書翰」とありますので、そのことではないでしょうか。

是枝柳右衛門
桐野
まいたけさん、こんにちは。

是枝柳右衛門は非武士身分の有志で、田中河内介ら藩外の尊攘派と交流があった人ですね。
寺田屋事件に参加したために、たしか屋久島に流罪となり、そのまま現地で亡くなったと思います。
彼の伝記もあって、一応もっています。

黒木弥千代『幕末志士 是枝柳右衛門』 是枝翁顕彰会 1963年

でも、同書にも寺田屋見取り図は掲載されていません。

大山綱良の論文は、私も入手しようとしていて後回しになっておりました。そのうち手に入れてみます。

大山巌の史料、憲政資料室ですね。おそらくそうだろうと思っておりました。

いろいろご教示有難うございます。

是枝柳右衛門と大山巌
まいたけ

 こんにちは。
 まだ、大山巌と寺田屋にこだわっている(笑)まいたけです。

 是枝は、屋久島で死亡していましたか。可哀想な人ですね。元治元年10月13日没。寺田屋事件が文久2年ですから、「寺田屋事件見取り図」は、その2年間に書かれたものということになりますね。
 再度、『激動の明治維新』展の図録を見てみると、「寺田屋事件見取り図」は、16.0cm×360.0cmという大きさでした。
3.6メートルもの長さの資料でしたら、見取り図だけではなく、手紙か報告書も含まれているものと思います。見取り図でない部分は、もしかすると、桐野さんがご所蔵の是枝の伝記に掲載されているかもしれませんね。
 この「寺田屋見取り図」は、有馬新七の伝記にも掲載されているようで、この部分だけがクローズアップされてしまってるようですね。本来は、別の資料名かもしれません。

 それから、大山巌と寺田屋の関係ですが、坂本龍馬が寺田屋で襲われた時、身を隠していた材木小屋まで船で救いに来たのが、大山巌の兄でした。その関係もあってか、坂本龍馬の四十年祭には、大山巌が薩摩藩を代表して参列し、その時、大山が朗読した祭文には、「坂本君の寺田屋に寓するや一夕突然兇徒の乱入に逢ひ格闘瘡を蒙る時に予が亡兄彦八伏見の藩邸に在り依て君を迎へ之を保護せり」と書いてありました。
 また、大山巌は、寺田屋お登勢の娘の縁談の世話までしていたようです。
 寺田屋と大山巌は、かなり懇意にしていたようですね。
 
 大山巌の関係文書に、寺田屋一族からの手紙などないでしょうかね?

有馬新七伝記から
桐野
まいたけさん、どうも。

黎明館の図録「激動の明治維新」掲載の寺田屋見取り図を見ました。幅が3.6メートルもあるんですね。ということは、図録写真はほんの一部だけということでしょうか。

是枝柳右衛門の伝記にも、有馬新七の伝記『有馬新七先生伝記及遺稿』にも、この見取り図は掲載されていません。後者のほうは昭和初期の古い本で、口絵部分のところが切れているので、もしかしたら口絵部分に見取り図があったのに、失われている可能性もありますが……。

ただ、有馬の伝記の口絵に有馬の遺墨があり、それに後輩の樺山資紀が有馬の真筆であることを証明する一筆をしたためています。
その解説によれば、この遺墨は伏見の寺田屋が所蔵していたのを手放されそうだったので、それを見た樺山が買い求めて京都府立図書館に寄贈したものとか。刊行当時でも同館所蔵だそうです。現在は京都府立総合資料館あたりが所蔵しているかもしれませんね。

樺山がこの遺墨を見たのは明治30年夏だそうで、感激した樺山は寺田屋主人の求めに応じて「誠の栞」と題して次のように一筆書いたそうです。

「亡き我先輩有馬新七ぬしの誌されし誠のいたく心に染みて覚へしが寺田屋伊助の乞ひにまかせてしるし与へぬ」

大山巌は寺田屋事件がきっかけで、その後も寺田屋と交流があったようですね。兄彦八と龍馬の縁もありますし。 

有馬の遺墨
まいたけ
 おっしゃるように、図録写真にある寺田屋の見取り図は、展示を見たときの記憶では40~50cm程度の幅だったと思いますので、寺田屋の見取り図以外のところが、とても気になります。本当は、下手な寺田屋の見取り図より、それ以外のところの方が大切なような気がするのはわたしだけでしょうか?どんなことが書かれていたのか、徳之島にお電話する際、ちょっと聞いてみてください。お願いします。

 有馬新七の伝記は数点あるようなので、もしかしたら、違う本なのかもしれませんね。西京の先生から伺った話なので、来月お聞きしてみます。
 
 ところで、有馬の遺墨ですが、おっしゃるように京都府立総合資料館に所蔵されているようです。『坂本龍馬全集』増補改訂版(宮地佐一郎著)の後記に、「寺田屋文書」の解説と共に、同文書が所蔵されている京都府立総合資料館に所蔵されている寺田屋関係の資料名が書かれていますが、大正6年の寺田屋旧蔵として登録されている資料に、「有馬新七墨蹟一軸」が挙げられていました。おそらく、この軸のことでしょうね。

 樺山云々の解説のところ、とても興味があります!古文書塾のときでもよいので、是非とも見せていただけないでしょうか?お願いします。
 
 

別の伝記かも
桐野
まいたけさん、どうも。

有馬新七の伝記は手持ちのもので足りると思っていたのですが、まいたけさんのご指摘のように、いろいろあるようなので、気になって調べましたが、次のものかもしれません。

有馬正義先生遺文
久保田収
芸林会
1970年

通称の「新七」だけでなく、実名の「正義」でも検索してみたら、ありました。
なかなかの古書価格からして(笑)、これに寺田屋見取り図が掲載されているのかもしれません。
悔しかったので、注文しました(爆)。




木村 泰一郞
○訪ふ。
○いくらで御求めになったか(元帥公爵 大山嚴)。
○余も將に購はんとす。參考にしたし。


木村 泰一郞
○字を誤つた。
○「嚴」→「巖」

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この日月に、安土と京都に行った。

4/15(日)
安土は、城郭シンポがあったので参加した。朝4時起きで9時からのシンポに参加。それでも、電車の乗り継ぎなど悪く、30分遅刻した。

安土城を中心に、各地の織豊系城郭の調査・研究の現状が報告された。
城郭方面は門外漢だが、それでも、何人かの知友がおり、久しぶりの方も含めて旧交を温めることができた。

4/16(月)
京都駅前に宿泊し、朝から史跡調査に行った。
天気予報は降水確率80%だったが、朝方ぱらついた程度で、影響なし。日頃の行ないのよさがまた立証された(爆)。
薩摩藩邸跡

まず久しぶりに烏丸今出川に行く。同志社大学今出川校舎西門にある薩摩藩邸跡の石碑の写真を撮影。これまで何度か挑戦したが、立看に隠れて撮影できなかった。今度も新入生歓迎の時期で悪い予感がしたが、何と立看がない。しかも、石碑の案内板までついている(写真参照)。

同大学は敷地内の史跡について、大学全体での歴史意識の共有化が進んでいるように感じた。受付に行くと、史跡の一覧が写真と地図付きでリストになっていて、それをもとにテキパキと教えてくれるから気持ちがよい。

今出川校舎から新町校舎に行ったときもそうだった。私が近衛殿の跡を示す碑か何かないかと尋ねたところ、受付嬢がさっとリストを取り出し、説明してくれたので、すぐ見つかった。マップに史跡番号を落としてあって、すぐわかる。

この「近衛殿」は室町時代、桜御所と呼ばれた近衛家の邸宅である。有名な国宝「上杉本洛中洛外図屏風」にも描かれているように、邸内の糸桜が有名で、そのために「桜御所」と呼ばれていた。

その後、豊臣政権時代、近衛邸はあらたに禁裏御所の北側に造営される。今出川邸である(現在、京都御苑内にある)。
この今出川の近衛邸に行ったところ、何と、桜御所から移植された糸桜が見事に咲いていた(写真参照)。やや盛りを過ぎていたが、4月中旬でも見られたことに感激!
糸桜

案内板によれば、安政2年(1855)に孝明天皇が近衛邸に行幸して、この糸桜を見物し、和歌一首を遺している(写真参照)。
近衛邸案内板


昔より名にはきけども今日見れば
  むべめかれせぬ糸さくらかな


そのほか、入江御所、相国寺、妙顕寺、妙覚寺、浄福寺、知恩寺などを回った。
妙顕寺では尾形光琳の墓所を探したが見当たらず。
妙覚寺はかつて織田信忠の宿所で本能寺の変のとき焼失し、その後、現在地に移っている。狩野派の狩野元信・永徳の墓をようやく探し当てた。日本史の教科書に絶対載っている巨匠たちだが、その墓はほんとにこじんまりとして小さかった。

浄福寺は、豊臣秀吉に反逆の嫌疑をかけられた島津歳久の首級が埋葬された所。この寺は、幕末期に薩摩藩士の宿所になっていたことをあとで知った。書院の柱に薩摩藩士たちが切りつけた刀傷が付いているというのをあとで知ったが、文字どおりあとの祭りだった(泣)。
司馬遼太郎の古い作品に『薩摩浄福寺党』(1966年刊)というのがある。ほとんど知られていない作品だが、今度読んでみよう。

百万遍の知恩寺には、朝山日乗の墓を探しに行った。日乗は将軍義昭の有名な袖判御教書に明智光秀とともに署名した人で、根っからのキリシタン嫌いでも有名。朝廷の意向を体して、キリシタン宣教師の入京を阻止しようとしたが、信長の鶴の一声で覆されたこともまた有名。
広い墓所を隅から隅まで見て回ったが、見つからなかった(泣)。幕末期の墓碑もボロボロなものが多いから、天正期のそれはなおさらだろうな。
その代わり、関ヶ原合戦の前哨戦の伏見城の戦いで、城を守って討死した鳥居元忠の墓を見つけた。何か余徳があるもんだ。

寺町石薬師にも行った。ここは大久保利通の邸宅跡の石碑が立っている。
今回の最大の目的地だったが、何と、彼の人の下宿地をほぼ特定できた。これは南日本新聞のコラムで書くつもり。乞うご期待。


【2007/04/17 12:46】 | 雑記
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「めかれ」
桐野
追加です。

上記本欄で引用した孝明天皇の和歌。
「めかれ」の部分の意味がわからなかったのですが、辞書に載っていました。

めかれ【目離】
(「めがれ」とも)対象から目が離れること。見ないでいること。会わないでいること。

この場合、「めかれせぬ」という否定形ですから、目が離せないという意味でとればいいみたいですね。

「昔から噂には聞いていたけれど、今日見てみれば、なるほど、目が離せないほど素晴らしい糸桜であることよ」

というような意味でしょうか。

ふと思ったのですが、天璋院篤姫は島津家から近衛家の養女という形で、将軍家定に嫁しています。
そして、近衛家で行儀作法など習ったといいます。その近衛家とは、今出川の近衛邸だったはずですから、篤姫もこの桜を見た可能性がありますね。


日乗の墓
永田
こんばんは
表題の件残念でしたね。事前にお聞きしてれば
資料送りましたのに。
ちなみに日乗の墓は、入り口から真っ直ぐ歩いて
2、30メートル行きましたら右手にあります。

しまった
桐野
永田さん、お久しぶりです。
そうか。日乗の墓はちゃんと残っているんですね。京都の信長関連史跡なら永田さんに聞けばよかった……。

ちなみに、私の携帯に永田さんの携帯アドレスだけ入っています。いつのだか覚えていませんが、山奥の本圀寺に行ったときではないかと思います。あれ以来、変更はないでしょうか?

おはようございます。
永田
桐野様ご無沙汰してます。
携帯アドレスは変更なしです。

ご紹介されてました京都古銘聚記、私も早速府立資料館
にて閲覧して来ました。建仁寺の供養塔実際近くで見てみたいものです。
日乗の墓ですがフロイス日本史の注釈に確か明治?に見つかったとの記述があったように思いますが。

誰が信長を殺したのか、を読み終えましてまた、読み返しまして私は桐野さんのお考えに惹かれます。
前々著謀殺から、他の本能寺を扱ったものとは一線を画すものと思ってまして、前著も読み答えがありましたが、
今回も目新しいもの多く手元に置いておきたい本です。

桐野様の論文と比較しまして私ら素人に解り易く論を進めるに当たって、目線を下げるではないでしょうが色々ご苦労があったと思います。多分ページの制約が無ければ倍以上?になるのではと思ったりもしました。
次回作も楽しみにしてます。


武藤 臼
地震で止められず、雨にもあわず、京運もとい強運をお持ちですね。

御上洛頂いたのに、お声掛けもできませんでした。
またの機会をお待ちしてます。


次回はぜひ
桐野
武藤 臼さん、こんにちは。

せっかく上洛したのに連絡せずに申し訳ありませんでした。急に思い立ったのと、平日だったのと、朝から夕方まで史跡を探しているだろうなと思っていましたから、あえてご連絡しませんでした。お許し下さい。
次回、時間に余裕があるときにはぜひお会いしたく存じます。

地震は安土にいたときにありました。昼休み、戸外で坐って食事していたときに、突然ドスンと尻が突き上げられました。道路端に坐っていたので、でかいダンプでも通ったのかと思いましたが、さにあらず。あとで三重の地震だと聞いて驚きました。滋賀県は震度3だったとのことですが、もっと上だったようにも感じました。

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昨日、信長研究者の谷口克広氏と一年ぶりに会い、旧交を温めた。谷口氏は現在、北海道に住んでおり、今度上京したもの。

谷口氏からは、さっそく拙著の批評をいただいた。
よくできているが、長宗我部氏問題の部分が冗長で、テーマからはずれているのではないかと指摘された。
指摘された部分、たしかに分量が多いし、本能寺の変と関係ない記述もある。今後、叙述する際の全体構成についてのアドバイスだと受け取った。

また、私が紹介した新出の明智光秀文書。最大の関心は年次にあったので、谷口氏に意見を聞いてみたところ、天正10年でいいのではないかと言われたので、心強かった。谷口氏の知り合いの研究者は天正9年ではないかという意見だったそうだ。

その後も、信長についての研究動向、信長公記諸本の情報など、話は尽きなかった。
谷口氏も本能寺の変の著作を今月に上梓する。これも注目の一冊だろう。
版元のサイトにもまだ詳しい新刊紹介がないので、付記しておく。

検証本能寺の変 歴史文化ライブラリー232 吉川弘文館 四六判/定価1.890円

【お知らせ】
15(日)、16(月)の両日、関西出張のため更新できません。


【2007/04/14 21:03】 | 雑記
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「だれが信長を殺したのか」
小池
「だれが信長を殺したのか」を2度読み返しましたが、どうもすっきりしません。桐野さんが書かれておられるような「黒幕もいなければ、大義名分を振りかざした義戦でもなかった、唐突に実行された政変だった」という点に関してですが、じゃー光秀をこのような行動に駆り立てたのはなんだったのでしょうか。桐野さんは、四国の件で織田家内での立場が弱まったためと言われてると思いますが、まだそれ程追い詰められているとは思われません。信長が取り立てた程の人間が、見通しもなく、根回しもせずに発作的にクーデターを起こすでしょうかというのが正直な私の気持ちです。取次ぎをしていた長宋我部氏の役割がなくなったということですが、それは中国での戦で働けば取り返せるのではないかという気がします。資料に対しあらゆる角度から分析されている桐野さんに全くの度素人の私が思いつき程度に生意気なことを申し上げてすみません。素人の思い入れ位にお受け取りください。

私見ですが
桐野
小池さん、こんにちは。

ご意見有難うございます。

拙説については、史料不足もあって完全だとは思っておりません。しかし、朝廷黒幕説や将軍義昭黒幕説よりも相対的に蓋然性があると思っています。

合理的に考えるなら、本能寺の変の原因は、信長と光秀の間に何らかの対立・葛藤があったと見るのが自然ですね。
では、それが天正10年段階では何なのか。さまざまな政治的要因を消去していくと、四国問題と斎藤利三問題くらいしか残らないのではと思います。

むろん、これが決定的だったかどうか断定はできません。しかし、方法論としては、原因は相対的に妥当性、合理性のあるものに求めざるをえないのではないでしょうか。

仰せのとおり、四国問題が光秀の致命的な打撃かといえば、必ずしもそうとはいえないでしょうね。別に丹波などの所領を取り上げられたわけではありませんから。

でも、松永久秀にしても、荒木村重にしても同様で、所領を取り上げられたわけでもありません。一時的に信長の不興を買っても、別の仕事で取り戻せる可能性はありますが、二人とも反逆に踏み切っていますね。動機の深刻さの程度では、光秀もこの二人とさほど違うとは思えません。また久秀も村重も光秀に劣らぬ有能な人物だったと思いますが、その反逆のしかたに確乎とした見通しや根回しがあったとも思えません。この時代、意外と謀叛や反逆のハードルは低いといえそうです。
右肩上がりできた人間は多少後退しただけで、実体以上に深刻に考える傾向はありますね。

よい比喩だとは思いませんが、日本という国家、国民がそうですね。世界第二位の経済力をもちながら、近年はいろんな要因が重なり、自信を失い、斜陽国家になった、国民生活が立ちゆかなくなるかもしれないという被害妄想に取りつかれていますが、アフリカ諸国などとくらべたら、くらべものにならないくらい豊かです。
でも、往々にして、人間は自分を客観的に見ることが難しいですね。

私は四国問題や斎藤利三問題の根底に、天下人とその下の分国大名との流動的で不安定な相互関係が存在していたと思っています。とくに光秀が信長の専制的な姿勢(武篇道の押しつけなど)のために、分国大名の地位や権限が、信長の恣意に左右されることに不安を抱いていたのではないかと思います。光秀はもっと分国大名の地位や既得権益を認めてほしいという要求をもっていたのに、それを信長がどうしても容れてくれないと見切ったのではないでしょうか。

とくに、斎藤利三問題については、光秀は信長の強制する「武篇道」を何とか実現しようとした。そのためには軍団強化がいちばんです(佐久間信盛みたいになりたくないなら)。またその手っ取り早い方法は、有能で勇猛な武将をよそから引き抜いてくることです。これは武将一人だけでなく、その被官・家来も含めた集団ですから、軍団の速成強化としては非常に有効です。

光秀はそれを実行したわけですが、今度は信長が家中法度違反だと叱責し、利三に腹を切らせるまで怒りました。
光秀としては、「じゃあ一体どうすればいいんだよ」と混乱したのではないかと思います。「武篇道」と「家中法度」を両立できないと思い込んだかもしれませんね。

一方、信長から見ると、光秀を勝家・秀吉など他の分国大名よりも恣意的で身勝手だと思っていたかも知れません。
それは対長宗我部関係です。織田家の取次で、とくに戦国大名を交渉相手とする場合、取次がその相手と親族・姻戚関係まで結ぶことはまずありません。
対武田、対上杉、対毛利――その取次となった信長の部将や側近は誰一人として相手とそんな関係を結んでいません。

その意味では、明智と長宗我部の関係は非常に特殊で、織田家の取次制度から大きく逸脱していると思います。信長は光秀の長宗我部との恣意的な関係を統制違反だとして断ち切ろうとしたのかもしれません。
でも、光秀にはそれが既得権益の上からの侵害としか見えないと思います。

そうしたすれ違いがいくつも重なり、今後もその疑問・不安が解消されないばかりか、際限なき滅私奉公を強制されるだろうと光秀が判断した結果が本能寺の変ではないでしょうか。光秀にはこのままでは生き残れないという切迫感があったのではないでしょうか。

どこまでお答えになったかわかりませんが。


ありがとうございました
小池
大変ご丁寧な、ご説明ありがとうございました、このような素人向けのご説明が「だれが信長を殺したのか」に
あれば、私でもわかったなと思います。紙数の関係であまり懇切丁寧な説明を書いていたらきりがないのでしょうか。

感想まとめ
板倉丈浩
こんばんは。
私も小池さんと同感で、例えば終章の記述にこの「私見」が盛り込まれていれば、読者にとってもわかりやすく、御著書の完成度がより高まったのではないかと思いました。
さて、これまでの私の書き込みをまとめてみますと、こんなところです。

(1)本能寺の変が「不慮謀叛」=「唐突に実行された政変」であり、黒幕も大義も存在しなかったとする見解は、新紹介史料の解釈も含め、概ね妥当と思われる
(2)四国問題については、信長は天正8年頃から三好氏再興に理解を示し実際に支援しており、天正10年段階で政策が劇的に変化したとは言えないのではないか
(3)斎藤利三問題については、史料の信憑性に疑問があり、仮にこの問題が存在したとしても、天正10年の出来事とは思われない(ただし、利三ら重臣が謀叛に積極的に関与した可能性は高い)
(4)信長の無警戒ぶりから見て2人の間に何らかの対立があったとは考えがたく、謀叛は信長の酷薄な性格と光秀の利己主義的な動機に起因しているものと考えるべきではないか

結果としてバラバラに指摘したので論点がぼけてわかりにくくなってしまい、また私の読解力が至らなかった点もあり、申し訳ありませんでした。
これからもよろしくお願いします。


稲葉家譜の評価
桐野
小池さん、板倉さん、どうも。

上記で書いたことは、拙著にも断片的には書いているんですけどね。やはり説明不足だったようですね。以後、気をつけます。

これ以上の議論は水掛け論になるので、一点だけ。板倉さんの(3)について補足しておきます。

私は何度も書いたように、『稲葉家譜』(とくに利三の一件)はある程度使える信用できる史料だと思っています。その理由は2つあります。

(1)この件に限らず、同書全体にいえることですが、編年体の形式で、年月日まで克明に記していること。叙述のしかたも過度の修飾がなく禁欲的であり、また稲葉家中に伝来する多様な文書類を随所に引用して裏付けを示すなど、編集態度が良心的であること。

(2)利三の一件は、稲葉家にとって不名誉な出来事で恥になるにもかかわらず、あえて書いていること。したがって、粉飾だとは思えないこと。

年次についても、那波直治とセットに処理されたことは十分あり得ることで、利三の処分が死罪と重かったのは、ほかでもなく、利三が直治を引き抜いたと考えれば合点がいき、一連のプロセスを整合的に理解できること。したがって、利三への処分は退転がとがめられたのではなく、直治引き抜きの罪によるものだと考えられる。よって、直治退転が天正10年であれば、利三への処分も同年でもおかしくない。

なお、利三と直治の一件は、細川家の『永源師檀紀年録』や『明智軍記』にも記事があります。『永源~』の刊本は文化7年(1810)の写本を底本にしています。『明智軍記』は元禄6年(1693)本です。『永源~』の原典の成立時期が不明なので、両者の関係もよくわかりません。

『稲葉家譜』は、幕府に提出した公式史料である『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』と内容が異なり、同家中に秘蔵された孤立的な史料ではないかと思われます。

いずれにしろ、編纂史料の信用性の問題なので、論じる立場によって評価は異なると思います。でも、逆にいえば、この件で一次史料が出てくれば決定的な証拠になると思います。

以上で、私の釈明はこれで終わりにします。

RE:稲葉家譜の評価
板倉丈浩
こんばんは。
>これ以上の議論は水掛け論になるので

私は本能寺の変の要因について、現段階で最も依拠すべき史料は、何度も言及した細川父子あての光秀自筆覚書であり、その内容を素直に解釈するところからスタートすべきというスタンスでして、編纂史料、それも江戸時代のかなり後に作られたであろう家譜の類を重視するのはかなり抵抗があるので、しつこい印象を持たれたかもしれません。
お気を悪くされたのならお詫びしますm(_ _)m

>『稲葉家譜』は(中略)同家中に秘蔵された孤立的な史料ではないかと思われます。

編纂史料の扱いは難しいです。
成立年代がいつかにもよるとは思いますが、軍記や逸話集の影響を受けていないと言いきれるのかどうか・・・。
『稲葉家譜』の史料的価値について先行研究があればいいのですが、管見の限りなさそうですし。

>でも、逆にいえば、この件で一次史料が出てくれば決定的な証拠になると思います。

まあ、ぶっちゃけそうなんですよね。
江戸時代の編纂史料では本能寺について実にいろいろな説が唱えられていたのですが、一次史料、同時代史料による裏付けがないから今まで切り捨てられていたわけで、何か見つかればそれで決まりになるという話なわけです。

>以上で、私の釈明はこれで終わりにします。

釈明なんて言われてしまうとちょっと心苦しいのですが、真摯で丁寧なレスをいただき、本に書かれている以外にもいろいろ検討し深く考えておられることがわかりましたし、非常に有益な議論であったと考えております。
拙い議論におつきあいいただき、本当にありがとうございました。



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昨日、久しぶりに甲東研究会が新宿で開かれた。
甲東は、大久保利通の雅号である。大久保の事績を研究する会として一昨年に発足した。

今回の報告者は、吉田敦氏(桜美林大学非常勤講師)。
テーマは「殖産興業の経済思想から見た大久保利通」である。

主に計量統計学からのアプローチである。
歴史系の人間には統計学と聞いただけでチンプンカンプンだが、計算方法はともかく、その結果と意味合いは非常によくわかった。数字で示されると、異論が混じる余地がないほどクリアな結論が得られるようだ。

その統計は何かいうと、大久保の内務卿時代である明治9~11年に作成された「全国農産表」という統計データを素材にしたものである。
そのなかで、関東90郡のデータをもとに、①米価、②一人あたり米生産高、③一人あたり蚕糸生産額を示したもので、米価は群馬県など西関東で高く(米の生産高が少なく、養蚕業で豊かであるため)、千葉・茨城など東関東で米価が安い(米の生産高が多く、養蚕がほとんどない)という傾向が見事に検出された。
関東だけを例にとっても、地域的な偏差があることがよくわかった。

大久保が主導して作成されたこの「農産表」は、統計学の見地からみると、データ的に精粗があって使いづらいけれど、明治初年にこれだけの全国的データがまとまってあることは非常に貴重で、もっと活用すべきだという意見には、なるほどと思った。

また、大久保がなぜこのような全国データを作成させたかといえば、明治初年の殖産興業路線が、欧米から大工場施設を移植しただけで、わが国の工業化が実現できるかのごとく、現実を無視したやり方で失敗した先例をみて、やはり地域の実情に応じて、産業を興すことが大事であるという考え方になったことが大きいとのこと。大久保が政府に提出した殖産興業の建白書にも、その点が強調されていた。

そのためには、地域の実情把握が基本であり、このようなデータが作成されたわけである。それも欧米式の新規産業だけでなく、伝統産業(養蚕など)にも着目して、輸出を増やす努力をしたという指摘が興味深かった。

殖産興業の建白書にもあるように、人民の富を増やす民政の発展が国力充実につながるという大久保の考え方が貫かれ、しかもそれを具体的に政策化していたことに重要な意義があるというのが、報告の概要だったように思われる。

とにかく、歴史系と異なる方法論を開示されて、物珍しさもあったが、とても面白かった。

大久保の殖産興業による「富国」路線が、むしろ「強兵」路線(その推進者は西郷隆盛)と矛盾する面があること(それが征韓論の対立の背景にあるだろう)は、先日紹介した坂野潤治『未完の明治維新』(ちくま新書)でも指摘されていた。
また坂野氏は大久保が横井小楠のよき後継者であり、横井の「富国論」を実際に国政レベルで政策化したものだと指摘している。

大久保と横井の親近さといえば、三谷博氏もまた指摘していた(『明治維新を考える』有志舎)。もっとも、三谷氏は殖産興業路線のほうではなく、「公論」や「公議」についての考え方の共通性を取り上げていた。

大久保と横井の一般的評価からすれば、お互いかなり遠い立ち位置のようにも見えるが、不思議と通底し合っているこの親密さはなにゆえだろうか。近年、その点を指摘する研究者が増えていることは、大久保評価の新たな視角を提供しているようにも思える。

【2007/04/12 11:01】 | 幕末維新
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水戸っぽ
大久保が横井の後継者であるという評価は確かに「意外」(より肯定的な表現でいえば「新鮮」)な感がありますが、それが(政治ではなく)経済面に限定されたものと考えれば一転して諒解可能となり腑に落ちました。即ち横井の経済思想・経済政策を大久保が独自の手法で実践した、と。「民富」のためには「民権」は抑制(あるいは後回し)という一種の開発独裁の表現型とでもいうべきか。我が国も含めたアジアにおいては、「近代化」は往々にしてこのような形で進展・実現する一方、政治のほう(の近代化)については今日に至っても永遠の課題であるというのが何とも宿命的です。そうした意味でも、横井のような知性が当時の日本に出現し得た意義は今こそ問われるべきでは、と痛感した次第です。
勝海舟が、横井の思想を西郷の手で実践させたいという趣旨のことをいっていますが、実際はそれが大久保だったというのは面白いですね。

開発独裁か
桐野
水戸っぽさん、お久しぶりです。

大久保についての貴重なご意見有難うございます。
わが国の近代化の実験はたしかに開発独裁の一典型で、アジア諸国の先例になったという評価がありますね。
一般的には、大久保に限らず、薩長藩閥政府から昭和の軍部まで、開発独裁といえないことはないと思います。

もっとも、大久保に関しては、「有司専制」とか「開発独裁」とは別の見方をしようという近年の研究動向がありますね。

「有司専制」にしても、板垣ら在野の民権派が民撰議院設立を正当化するための戦術だったという見方もあり、内務卿時代の大久保を「独裁」というにはあたらないと指摘する研究者もおります。

たとえば、佐々木克氏などは、台湾出兵が、大久保が佐賀の乱鎮圧のため東京を留守にしている間に決定されたと指摘しています。そして、長崎に台湾征討司令官に任命された西郷従道が立ち寄ったので、大久保が何とか引き止めようとしましたが、従道は東京での決定事項だからと、大久保を振りきって出航してしまったという事例を挙げています。つまり、台湾出兵という重大な対外政策が大久保抜きで決められたわけです。大久保「独裁」は実態に即していないと評される所以でもあります。

前述の三谷博氏などはさらに踏み込んで、明治八年の大阪会議以降、大久保は長州の木戸や土佐の板垣と連携して、西郷包囲網を築く一方、ついに立憲政体導入に賛成したと指摘しています。

これに岩倉具視は抗議して辞意を表明しますが、大久保は盟友岩倉の反対を無視して、立憲政体の確立に踏み込みました。大久保は王政復古、征韓論で肝胆相照らす仲となった岩倉まで切り捨てたのです。
しかし、立憲政体を具体化しようとしていたそのとば口で暗殺されたため、その時期の大久保の実像が見えにくくなっているのではないでしょうか。

立憲政体といっても、実質は立憲君主制ですが、それでも曲がりなりにも憲法制定をやろうというのですから、それを「開発独裁」一般に含めていいかどうか議論があるところでしょうね。


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昨日は体調を崩してしまい、更新もコメントもできなかった。
久しぶりの更新である。

さて、古文書塾「てらこや」が今日から始まった。
「幕末の日記を読む」シリーズの第3次である。
今回から新しく受講される方も2人おいでになった。
昨日のあまりの体調の悪さに、悪い予感がよぎったが、何とか出講できてよかった。がやはり、どこかネジが緩んでいたようで、せっかく作成した注釈をプリントアウトするのを忘れてしまい、受講者のみなさんに配布できなかった(爆)。

今日は「寺村左膳道成日記」慶応3年9月の日記を読んだ。
大政奉還の1カ月前である。
土佐藩では討幕派が台頭し、在京重役たちの間でも、薩摩藩に対する態度をめぐって分岐が生じ始める。左膳は相変わらず佐幕派である。

日記の中で面白かったのは、大政奉還の建白書が出来上がっているのに、後藤象二郎らがなかなか幕府に提出しようとしないことだった。挙句、若年寄格の永井尚志から逆に提出を催促される始末。

それもこれも、四侯会議以来の四藩の枠組みをできるだけ維持したい土佐藩の苦衷が見て取れる。薩摩を説得できなければ、こちらが武力挙兵論に歩み寄れない以上、建白書を提出するしかないと、在京重役は意を決して、提出日まで決めるが、その前日、西郷吉之助に「建白等之事同意イタシガタシ」と反対されると、後藤と左膳の病気を理由に提出日を延期してしまう腰の弱さである。

西郷が建白書提出に反対する理由として「只今右等ノ御建白出候テハ、幕ニモ万事覚悟イタシ、弊藩挙兵ノ妨ゲニモ相成り候」と述べている点がいまひとつ理解しにくかった。

これはおそらく、大久保が長州に行って、木戸・広沢ら要人と合意した、9月末までに軍艦で薩長の藩兵を大坂まで上京させるという挙兵計画との関連で考えるべきだろうと思う。それ以前に建白書が提出されたならば、挙兵の時機を定められなくなってしまうという心配からだろうと思われる。

次回以降になるが、結局、薩摩藩は土佐藩の建白書提出を容認する。それは上記の薩長藩兵の上京計画が不首尾に終わったからだろう。その原因は薩摩藩の国許にあった。したがって、在京の西郷・大久保らは建白書提出で様子を見るしかなかったのだろう。

あと、細かくて何気ない記事だったが、浄土宗の総本山、知恩院内に「写真場」(写真館)があるというのが面白かった。寺院の中に写真館があるとは意外である。一体誰が経営しているのか、寺院側が当然認めたのだろうが。
左膳の日記には、ほかの写真館の記事もいくつか出てくる。わが国の写真史の黎明期を考えるうえで、面白い史料ではないだろうか。

次回はいよいよ大政奉還建白に入る。10回以上かかって、ようやくここまで来たという感じである。


【2007/04/11 00:49】 | てらこや
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南日本新聞での連載「さつま人国誌」が本日から始まった模様。

模様というのは、地方紙のため掲載紙をまだ見ていないから。
郷里からは二、三、メールや電話があった。有難いかぎり。

第一回は「西郷隆盛の島妻・愛加那のその後」というタイトル。
第二回は関ヶ原の島津の退き口で、井伊直政を狙撃した柏木源藤の予定。

同紙サイトではどうやら掲載されないようだから、一週間遅れくらいで拙ブログで掲載できるよう交渉してみたい。

もし鹿児島でご覧になった方がおいでなら、ご意見、ご感想などお寄せ下さいませ。

【2007/04/07 21:17】 | さつま人国誌
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ぼっけもん新聞
先日も楽しい時間でした。南日本新聞への掲載記事を見る方法を模索していましたが、今回の報告を見て嬉しくなりました。これからも楽しみにしています。

もう少しお待ち下さい
桐野
ぼっけもん新聞さん、こんにちは。

先日はどうも。
拙コラムを楽しみにしていただいて有難いかぎりです。なるべくご期待に添えるようにしたいと思いますので、もうしばらくお待ち下さいませ。


調所
さつま人国誌、拝読させて頂きました。鹿児島の知り合いがファックスしてくれましたので。愛加那についての誤解と似た事例が他にもあるのでしょうね。そうした間違った伝聞が事実らしく歴史小説になったり。その点、桐野さんの作品・記事は十分な調査に基づいておりますので、私は教科書としても大切に保存させて頂いております。今後南日本新聞土曜版が楽しみです。

ようこそ
桐野
調所さん、こちらでは初めまして。
以前と違って、コメントできる環境になったのでしょうか?

さっそく拙コラムご覧になったようで、ご感想有難うございます。
私の調査も決して十分とはいえませんし、今後はいろいろアラが出てくるかもしれません(笑)。またご指摘願えたらと思っております。
刀工の波ノ平氏も一度取り上げてみたいと思っているのですが、代表的な人物はやはり行安でしょうか? といっても、史料がなさそうですね。


波平の件
調所
刀工波平は江戸前期に末子相続で始まった本家も長男家の嫡家もその他分家当主も橋口姓です。別派に石神姓、佐藤姓などの波平がおります。ただ一般刀工の多くが、明治以降ですが、波之平、波平、浪平を姓としており、当主以外の姓なのか、橋口家とは血縁関係の無い弟子筋の姓なのか、再来週に鹿児島で、波平姓の人々に会って調査することになっておりますので、結果報告致します。

「さつま人国記」を拝読しました
やまもも
お久しぶりです、やまももです。

 南日本新聞の4月7日に載りました「さつま人国記」を拝読させてもらいました。前から西郷隆盛が奄美に流罪となっていた時の島妻(あんご)である愛加那のことが気になっていたので、とても興味深く読ませてもらいました。

 しかし、西郷と愛加那の間に生まれた菊次郎(のちの京都市長)と菊草(のちの大山誠之助夫人)は西郷家に引き取られたそうですが、愛加那自身は一人残され寂しい余生を送ったとのこと、当時の島妻という境遇にいる女性の哀しさを伝える話ですね。

 「さつま人国記」の続きを楽しみにしています。
 

有難うございます
桐野
やまももさん、こんばんは。

拙コラム読んでいただき有難うございました。
愛加那は家族と引き裂かれてしまったわけですが、甥の丑熊を養子に迎えており、仲睦まじかったようです。せめてもの慰めでしょうか。

引きつづきご愛読いただければうれしいです。


秘剣
記事、興味深く拝読させていただきました。
お写真の若々しさにもビックリしました(^^;)。

有難うございます
桐野
秘剣さん、こんにちは。

わざわざ拙コラム記事、鹿児島から取り寄せられたのでしょうか。そこまでして読んでいただきありがとうございます。
写真は近影がなかったもので、数年前のものです(笑)。
秘剣さんのブログ、いつも感心しながら、読んでおります。焼酎文化にあれだけ熱意をもって語られ、しかも薬丸自顕流の修行の様子も書かれていて、感嘆しつつ読ませていただいております。


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鹿児島県史料

年に2度か3度ある鹿児島の春苑堂書店からの定期便。
『鹿児島県史料』新刊の送付があった。今回の2点は、次のとおり。

1,薩摩藩法令史料集四 6.510円
2,旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集七 6.510円


この2点の刊行予告案内は以前も本欄で紹介したことがある。

今回はとくに2,が面白いと思う。
まだざっと見ただけだが、有名な『旧記雑録』の編者である季安の15本の考察史料が載っている。まず長い題名のこれ、

「琴月様御養子願之儀為政貞昌相勤候事件調」

「琴月様」とは、近世薩摩藩祖で中納言の島津家久の諡号である。
何が面白いかというと、島津義久の家老だった平田増宗の一件から、義久の家督問題について、かなり詳しい史料と考察がある。
義久の家督は、三人の娘のうち、三女亀寿(これまで何回も取り上げたジメサア)の聟家久と、二女(御さや)の嫁ぎ先である垂水島津家の間で争われたが、結局、前者の勝利となった。

その後、垂水島津家系統(彰久―信久―久章)である新城島津家の島津大和守久章が島津本宗家伝来の系図を持って出奔し、高野山にこもるという事件があった。これは幕府にも聞こえるほどの大事件になったが、結局、久章は連れ戻されて谷山で幽閉され、乱心の理由で斬られている。
この史料は、この事件のいきさつが多くの関係者の文書を収録しながら、大変詳しく書かれている。

そして、この事件の処理にあたったのは、家久の筆頭家老だった伊勢貞昌である。貞昌は名家老と言われるが、とくにこの家督問題をめぐって、徳川幕府の権威を利用しようし、将軍秀忠の二男国松(のちの駿河大納言忠長)を家久の養子に迎えようと幕閣に申し入れるというウルトラCまで考えついた人物である。季安は、貞昌のこの行動を非難しているのが面白い。

なお、上記2点の取扱は、

春苑堂書店南鹿児島店
〒890-0068 鹿児島市東郡元町19-6
電話:099-812-3221


【2007/04/06 23:55】 | 新刊
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佐多
伊勢家系譜がマイブームです。大隈町誌と町誌別冊資料編2に詳しい系譜が記載されていました。伊勢貞昌は新納忠元の孫だったんですね。江戸で没して広岳院に葬られたそうです。島津忠紀の墓は確認しましたが伊勢貞昌はあったことがわからなかったので未確認です。没落士族は何でも売却していたのですね。文書もコレクターの方に大事に保存されていたようで現在は宮崎の博物館や鹿児島大学に寄贈されているそうです。

伊勢家
桐野
佐多さん、こんばんは。

伊勢家といえば、何といっても伊勢貞昌が始祖のようなものですね。貞昌は新納忠元の孫でしたか。
貞昌が広岳院に葬られたなら、墓石がありそうですね。そのうち、戒名・院号をメモってから調べてみようかなと思います。

伊勢家の所領は大隅町の岩川や末吉町あたりにありましたね。高6000石余ですから、なかなかの大身です。
大隅町は市町村合併で現在、曽於市になったようですね。
伊勢家は一所持ですから私領主になるわけですが、戊辰戦争でこの地から出征したのが「私領五番隊」でした。焼酎の銘柄にもありますね。昨年初めて呑みました。
たしか、そのときの戦功により、岩川が末吉から分離独立したのではなかったかなと記憶しておりますが、うろ覚えです。



佐多
こんばんわ。
墓に関して詳しいサイトです。
http://www4.airnet.ne.jp/soutai/patio/patio.cgi?
仰るとおり岩川郷として分離したそうです。伊勢家は昭和天皇のご成婚時に授爵願い運動があり黒岡某(帯刀か?…豊州二男家)が尽力されたのですが、華族としての対面が保てるか?とのことで沙汰止みになってしまったそうです。黒岡家の墓所は鎌倉寿福寺にあります。
他に堅馬場川上家(嫡流)の私領もあったようです。二十四代久竜氏は十七歳で日置領主繁麿氏と米国へ渡り、帰国後国際的なホテルのマネージャーや支配人をなされていたそうです。(語学堪能で性格は至って温厚であったと島津忠弘氏の回顧談あり…知覧島津家当主か?)

琴月様御養子願之儀為政貞昌相勤候事件調
ばんない
ごぶさたしております。ようやく暖かくなってきたので収束しそうですが、インフルエンザが4月になっても流行っていたようですね。お大事に。

ところで、私も気になりますその史料(汗)
でも、以前『鹿児島県史料集』15に所収されていた
「家久公御養子御願一件」
とは別ものなんでしょうか?

底本が異なるようです
桐野
ばんないさん、こんばんは。

そうでした。私も似ているなと思って気になっており、チェックしようと思いつつ忘れておりました。

結論から申しますと、内容的にはほぼ同じですが、底本が異なり、多少の異同があるようです。

A.「琴月様御養子願之儀為政貞昌相勤候事件調」
 底本:東京大学史料編纂所所蔵島津家本、写本

B.「家久公御養子一件伊地知季安考按」
 底本:鹿児島県立図書館所蔵写本

とくに大きな違いは、Aの解題によれば、Aには末尾に「伊勢貞昌請若君論」という題名の山本正誼の見解と、それに対する季安の批判などが増補されているようです。Bにはそれらが存在しません。増補分は分量的に、刊本で4頁強程度です。




伊勢家の授爵運動
桐野
佐多さん、こんばんは。

伊勢家の授爵運動があったのですか。貴重な話題有難うございます。
でも、伊勢家にどれほどの功労があったとしても、残念ながら、華族の要件を満たしていないと思います。あるいは、幕末期に島津本家から養子が入ったりしているのでしょうか? 仮にその血統があったとしても、血統より家格が優先しますね。
御三家の付家老の家が辛うじて男爵(尾張藩の成瀬家は子爵だったか)になれたのがおそらく最低要件で、それ以外の陪臣は難しいと思います。沙汰止みにされて正解だったと思います。

コメントありがとうございます
ばんない
今回の『鹿児島県史料』の方がやや長い内容の様ですね。
>Aには末尾に「伊勢貞昌請若君論」という題名の山本正
>誼の見解と、それに対する季安の批判などが増補されて
>いるようです。
山本正誼の論の内容が分からないので推測ですが、伊地知季安は元々伊地知家の出身ではなく伊勢氏からの養子らしいので(URL参照)、おそらく山本は伊勢貞昌の施策をけなしていて、伊地知がそれに対して反論するっていった内容なのでしょうか。

伊勢氏は貞昌の息子が早世して孫には女子しかなかったので、その後は島津家久(忠恒)の子供の一人が養子になってますね。その後も藩主の子供が養子に入っているケースが多いです。それとひきかえに、といってはなんですが、貞昌ほどの家老を出しながら、その後の伊勢氏は藩政で活躍した人物を輩出していないようです。一所地6000石で、跡取りになれそうにない藩主の息子を養子に押しつけるには適当な家だったのでしょう。ただ、幕末の伊勢氏当主に関しては存じません。

伊勢の殿様
鳥江 悠
 私の祖母の兄嫁だった「ひで」ばあさんは、薩摩の伊勢家・伊勢直記・すまの二女として明治7年10月11日に生まれています。
「小さいころ殿様の膝で遊んだ」とよく話してくれました。幼かったゆえ、詳しいことは訊いていませんが、養女にいった姉が所持していた「伊勢直記」の墓碑銘の写しを預かっています。

 ここに平川毅識という人が書いた、伊勢直記の墓碑銘の写しがあります。
「伊勢貞喬、通称勘之丞。後改直記。貞喬之父貞幹、為留守居附役、在京師。文久癸亥歳貞喬従。久光公在京、明年父貞幹歿、貞喬襲父職。明年長藩大挙侵京。当是時、貞喬護乾門、…(明治)八年三月一三日嬰病歿。年三十一。嗚呼惜哉。於是紀始終云爾。」(中略、原文には句読点なし)
 何か情報がわかればいいなと思っています。


よくわかりません
桐野
鳥江 悠さん

お尋ねの件ですが、薩摩関連の系図集によると、伊勢氏は10家くらいあるようですが、ご先祖のお名前は見出せませんでした。

また、幕末安政年間の鹿児島城下の住人がわかる鹿児島城下絵図散歩』の巻末資料に「伊勢勘兵衛」という直記さんの通称勘之丞に近い名前はあります。その父貞幹さんの通称がわかれば、照合はできますが。

とりあえずわかったのは以上です。
お役に立てずにすみません。

お礼、感謝!
鳥江 悠
 早速ご丁寧なご返事をありがとうございます。祖母の父、直記は蛤ご門の変で目を負傷し、それがもとで亡くなっています。
  ご多忙のところをお調べいただき恐縮しています。ありがとうございました。ますますのご活躍をお祈りしています。

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江戸名所図会

古文書講座「てらこや」の講師仲間である菅野俊輔氏より、表題の本を恵贈された。有難うございます。

正式タイトルはもう少し長くて、

書いておぼえる「江戸名所図会」くずし字入門

である。詳しくはここへ

菅野氏は昨秋、『書いておぼえる江戸のくずし字いろは入門』を刊行している。それも恵贈されたので、拙ブログでも紹介したことがある。新刊はその姉妹編といってよい。

「江戸名所図会」は見るだけでも楽しい絵画史料だが、それに書かれているくずし字を絵を楽しみながら勉強していこうという趣旨である。前作が変体仮名の「いろは」からくずし字を習得していくのを目的としたように、くずし字をなるべくストレスを感じないように学んでいきたいという姿勢は一貫している。
このような本から、くずし字を勉強すれば、習得も早くなるのではないかと思われる。この本が10年前からあれば、私もこれで勉強してみたかったと思う。

くずし字に関心をもっている人、原文書(とくに近世文書)を読んでみたいと思っている人には、最適の入門書だと思う。お値段もお手頃だ。

【2007/04/05 01:30】 | 新刊
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最近、表題にある、年に一度の恒例の選考をした。

最終選考に残ったのは、戦国伝奇、三国志、太平洋戦争ものと多様で、どれも読み応えがあった。
その結果を誌面告知より先にお知らせするわけにはいかないが、これほど粒ぞろいだったのは近年珍しい。
書き手もみな30代。様々な職業ありだが、よく勉強していることがわかる。仕事の合間にどのような想いを込めて書いているのだろうかと興味深かった。

この賞も今年でもう13回目だ。正直なところ、こんなに長く続くとは思っていなかった。もっとも、近年は自分にこの賞の選考の資格があるのかなとも思っている。同賞主催版元の仮想戦記も中途のまま書きかけになっているし。

ともあれ、ようやく態勢がととのったので、これから頑張るしかない。


【2007/04/03 15:45】 | 雑記
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昨日、大久保利通ファンのYさん、Uさんとさる用事でお会いした。
今度、内輪の甲東研究会が久しぶりに開かれることになったことなどを聞いた。

成り行きで、大河ドラマの話題になったが、お二人が「ウッチー」と何度も呼ばれるので、某女子アナの愛称かと思っていたが、さにあらず。
主役の内野聖陽のことをそう呼ぶらしい。

ほかにも、今川義元役の谷原章介は「タニショー」とか「ハラショー」と呼ぶらしい。
またBLなる隠語も教えてもらい、いろいろなドラマや映画で、BLの気配を感じ取るのが一種のはやりとか(爆)。

とても楽しい一時だった。

おっと、これだけではただの雑談になってしまうので、少し歴史寄りに引き戻しておく。

日本人は「タニショー」とか「キムタク」といった人名をつづめた呼び方が非常に好きである。
これは前近代の日本人も同じだったと見える。
たとえば、羽柴筑前守秀吉は「羽筑」、惟任日向守光秀は「惟日」と呼んだり、書かれたりする。
豊臣政権の五奉行などは、その奉行連署状で、次のように大胆に省略している。

増右(増田右衛門尉長盛)
石治(石田治部少輔三成)
浅弾(浅野弾正少弼長政)

この慣習を「片名字」もしくは「片苗字」という。名字と一緒に通称や官途名も省略されている場合が多いが、一応、そういう。
書状などの宛名に片名字を使うことは、相手に対する敬意を表す。逆に自分に使うときは自分を尊ぶことになる。

江戸時代の故実家として知られる伊勢貞丈(1717-84)の書いた『貞丈雑記』巻9に次のように書かれている。

「一、書状に、人の名を片苗氏(片名字)に書くを、うやまふ礼とする事、古はなき事也、近代のはやりこと也、古は貴人の名には、一向苗氏をば不書、其次少うやまふ人は、苗氏をば二字共に出て、一躰の文言脇付等にて、うやまふ礼はある也」

片名字の慣習はいにしえにはなく、「近代のはやりごと」とのこと。「近代」の範囲がどこまでか、上限がどこまで遡るかということだが、戦国時代までは遡れそうだ。

なお、国史大辞典の「片苗字」の項には、近世文書でよく使用するとある。とくに、松平称号を賜った人には差出人の高下にかかわらず片名字にすることが多いという。

そういえば、江戸時代の島津家も松平称号をもらっているなと思って、『島津家文書』を見てみたら、すぐに松平名字を探せなかったが、代わりに豊臣政権時代の片名字を見つけた。

「羽左衛門大夫」(福島正則) → 「羽兵入」(羽柴兵庫入道=島津義弘)

といった書状など、たくさんの事例がある。

松平称号を片名字にするのは、豊臣政権下で羽柴名字を片名字にしたのに起源がありそうだ。

「ウッチー」から変な話にそれてしまった(笑)。

【2007/04/01 23:04】 | 雑記
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