昨日は体調を崩してしまい、更新もコメントもできなかった。
久しぶりの更新である。
さて、古文書塾「てらこや」が今日から始まった。
「幕末の日記を読む」シリーズの第3次である。
今回から新しく受講される方も2人おいでになった。
昨日のあまりの体調の悪さに、悪い予感がよぎったが、何とか出講できてよかった。がやはり、どこかネジが緩んでいたようで、せっかく作成した注釈をプリントアウトするのを忘れてしまい、受講者のみなさんに配布できなかった(爆)。
今日は「寺村左膳道成日記」慶応3年9月の日記を読んだ。
大政奉還の1カ月前である。
土佐藩では討幕派が台頭し、在京重役たちの間でも、薩摩藩に対する態度をめぐって分岐が生じ始める。左膳は相変わらず佐幕派である。
日記の中で面白かったのは、大政奉還の建白書が出来上がっているのに、後藤象二郎らがなかなか幕府に提出しようとしないことだった。挙句、若年寄格の永井尚志から逆に提出を催促される始末。
それもこれも、四侯会議以来の四藩の枠組みをできるだけ維持したい土佐藩の苦衷が見て取れる。薩摩を説得できなければ、こちらが武力挙兵論に歩み寄れない以上、建白書を提出するしかないと、在京重役は意を決して、提出日まで決めるが、その前日、西郷吉之助に「建白等之事同意イタシガタシ」と反対されると、後藤と左膳の病気を理由に提出日を延期してしまう腰の弱さである。
西郷が建白書提出に反対する理由として「只今右等ノ御建白出候テハ、幕ニモ万事覚悟イタシ、弊藩挙兵ノ妨ゲニモ相成り候」と述べている点がいまひとつ理解しにくかった。
これはおそらく、大久保が長州に行って、木戸・広沢ら要人と合意した、9月末までに軍艦で薩長の藩兵を大坂まで上京させるという挙兵計画との関連で考えるべきだろうと思う。それ以前に建白書が提出されたならば、挙兵の時機を定められなくなってしまうという心配からだろうと思われる。
次回以降になるが、結局、薩摩藩は土佐藩の建白書提出を容認する。それは上記の薩長藩兵の上京計画が不首尾に終わったからだろう。その原因は薩摩藩の国許にあった。したがって、在京の西郷・大久保らは建白書提出で様子を見るしかなかったのだろう。
あと、細かくて何気ない記事だったが、浄土宗の総本山、知恩院内に「写真場」(写真館)があるというのが面白かった。寺院の中に写真館があるとは意外である。一体誰が経営しているのか、寺院側が当然認めたのだろうが。
左膳の日記には、ほかの写真館の記事もいくつか出てくる。わが国の写真史の黎明期を考えるうえで、面白い史料ではないだろうか。
次回はいよいよ大政奉還建白に入る。10回以上かかって、ようやくここまで来たという感じである。