膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
この日月に、安土と京都に行った。

4/15(日)
安土は、城郭シンポがあったので参加した。朝4時起きで9時からのシンポに参加。それでも、電車の乗り継ぎなど悪く、30分遅刻した。

安土城を中心に、各地の織豊系城郭の調査・研究の現状が報告された。
城郭方面は門外漢だが、それでも、何人かの知友がおり、久しぶりの方も含めて旧交を温めることができた。

4/16(月)
京都駅前に宿泊し、朝から史跡調査に行った。
天気予報は降水確率80%だったが、朝方ぱらついた程度で、影響なし。日頃の行ないのよさがまた立証された(爆)。
薩摩藩邸跡

まず久しぶりに烏丸今出川に行く。同志社大学今出川校舎西門にある薩摩藩邸跡の石碑の写真を撮影。これまで何度か挑戦したが、立看に隠れて撮影できなかった。今度も新入生歓迎の時期で悪い予感がしたが、何と立看がない。しかも、石碑の案内板までついている(写真参照)。

同大学は敷地内の史跡について、大学全体での歴史意識の共有化が進んでいるように感じた。受付に行くと、史跡の一覧が写真と地図付きでリストになっていて、それをもとにテキパキと教えてくれるから気持ちがよい。

今出川校舎から新町校舎に行ったときもそうだった。私が近衛殿の跡を示す碑か何かないかと尋ねたところ、受付嬢がさっとリストを取り出し、説明してくれたので、すぐ見つかった。マップに史跡番号を落としてあって、すぐわかる。

この「近衛殿」は室町時代、桜御所と呼ばれた近衛家の邸宅である。有名な国宝「上杉本洛中洛外図屏風」にも描かれているように、邸内の糸桜が有名で、そのために「桜御所」と呼ばれていた。

その後、豊臣政権時代、近衛邸はあらたに禁裏御所の北側に造営される。今出川邸である(現在、京都御苑内にある)。
この今出川の近衛邸に行ったところ、何と、桜御所から移植された糸桜が見事に咲いていた(写真参照)。やや盛りを過ぎていたが、4月中旬でも見られたことに感激!
糸桜

案内板によれば、安政2年(1855)に孝明天皇が近衛邸に行幸して、この糸桜を見物し、和歌一首を遺している(写真参照)。
近衛邸案内板


昔より名にはきけども今日見れば
  むべめかれせぬ糸さくらかな


そのほか、入江御所、相国寺、妙顕寺、妙覚寺、浄福寺、知恩寺などを回った。
妙顕寺では尾形光琳の墓所を探したが見当たらず。
妙覚寺はかつて織田信忠の宿所で本能寺の変のとき焼失し、その後、現在地に移っている。狩野派の狩野元信・永徳の墓をようやく探し当てた。日本史の教科書に絶対載っている巨匠たちだが、その墓はほんとにこじんまりとして小さかった。

浄福寺は、豊臣秀吉に反逆の嫌疑をかけられた島津歳久の首級が埋葬された所。この寺は、幕末期に薩摩藩士の宿所になっていたことをあとで知った。書院の柱に薩摩藩士たちが切りつけた刀傷が付いているというのをあとで知ったが、文字どおりあとの祭りだった(泣)。
司馬遼太郎の古い作品に『薩摩浄福寺党』(1966年刊)というのがある。ほとんど知られていない作品だが、今度読んでみよう。

百万遍の知恩寺には、朝山日乗の墓を探しに行った。日乗は将軍義昭の有名な袖判御教書に明智光秀とともに署名した人で、根っからのキリシタン嫌いでも有名。朝廷の意向を体して、キリシタン宣教師の入京を阻止しようとしたが、信長の鶴の一声で覆されたこともまた有名。
広い墓所を隅から隅まで見て回ったが、見つからなかった(泣)。幕末期の墓碑もボロボロなものが多いから、天正期のそれはなおさらだろうな。
その代わり、関ヶ原合戦の前哨戦の伏見城の戦いで、城を守って討死した鳥居元忠の墓を見つけた。何か余徳があるもんだ。

寺町石薬師にも行った。ここは大久保利通の邸宅跡の石碑が立っている。
今回の最大の目的地だったが、何と、彼の人の下宿地をほぼ特定できた。これは南日本新聞のコラムで書くつもり。乞うご期待。