膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
薩長同盟はどこで結ばれたか
「近衛殿」にあった小松帯刀邸


近衛邸跡碑

同志社大学新町校舎にある「近衛家旧邸址」(旧桜御所)の石碑。揮毫は近衛文麿

 明治維新を実現した最大の原動力は薩長同盟の締結にあるといっても過言ではない。
 近年、薩長同盟の性格や締結時期をめぐって研究が盛んになっている。しかし、肝心で基本的な事柄がおそろかになっているのではないか。それは薩長同盟がどこで結ばれたのかという点である。
 多少、幕末維新史に通じている人なら、「小松帯刀(薩摩藩家老)の京都屋敷だ」と即座に答えるだろう。では、その小松邸がどこにあったのか答えられる人は少ないのではないだろうか。
 じつは、そんな基本的な事実もはっきりしていないのである。寺町石薬師にあった大久保利通の邸宅にあった茶室(有待庵)が小松から譲られたものだとわかっていることから、この大久保邸の前身が小松邸だったとする説がある。現在の京都市上京区石薬師通寺町東入ル(京都御苑の北東角)あたりである。でも、私は茶室が移転されただけだと見ており、小松邸がここにあったとは限らないのだ。
 結論からいえば、小松邸は二本松の薩摩藩邸から西方約三〇〇メートルにある摂関家の近衛家の邸宅「近衛殿」(旧桜御所)内にあったと考えられる。
 現在、烏丸今出川交差点近くの同志社大学今出川校舎に、かつて薩摩藩邸があった。そしてそこから西方向に向かうと、同大学の新町校舎という別のキャンパスがあるが、これが「近衛殿」跡である。
 その裏づけとなる史料もある。まず、大久保利通の三男利武氏の談話(「尚友ブックレット」九)。利武氏は「(小松帯刀は)相国寺の少し先、烏丸通に在ったと聞いて居ります近衛家御花畑の別邸を借り住居して居られます」と述べている。近衛家は島津家と親戚同士だったから、薩摩藩の大立者である小松に便宜を図ったのだろう。
 次に、鹿児島出身の伝記作家、勝田孫弥も、長州藩の木戸孝允が薩長同盟のために入京したくだりで、「一月京師に入り、先づ西郷の寓所に投宿せしが、数日にして、近衛家の花畑に在りし別荘に移転せり」と記している(「大久保利通伝」中巻)。この別荘が小松邸だろう。
 第三に、薩長同盟締結直前に上京した薩摩藩家老の桂久武も小松邸を何度か訪れ、「小松家宿、御花園へ参り候」と日記に記している(「桂久武日記」)。「御花園」はおそらく右の「御花畑」「花畑」と同じ場所で、「近衛殿」を指していると思われる。
 近衛家の邸宅は幕末期には二カ所あった。室町時代から桜御所と呼ばれた「近衛殿」と、豊臣政権時代につくられた今出川邸(現・京都御苑内今出川門近く)である。幕末には今出川邸が本邸となり、古い「近衛殿」は別邸化したのではないか。断言はできないが、「近衛殿」が「御花畑」「御花園」と呼ばれ、そのなかに小松邸があった可能性が高い。
 薩長同盟がどこで結ばれようと、その歴史的な意義は不変であり、場所の問題など些末なことかもしれない。でも、私たちが歴史的な事件を実感し、当時に想いを馳せられるのは、やはりゆかりの地に立ち会うことではないだろうか。その意味で、薩長同盟締結の舞台を特定する作業は決して無駄ではないと思うのである。

 
関ヶ原の名スナイパー柏木源藤
井伊直政の死の衝撃で放浪の旅に


柏木源藤

南林寺由緒墓地(鹿児島市南林寺町)にある柏木源藤の供養塔

 南林寺由緒墓地(鹿児島市南林寺町)の一角に、「武山丈心居士」と刻まれた墓がひっそりと建っている。江戸時代中期の明和六年(一七六九)に建立されたものらしい。
 法名しか刻まれていないが、これは慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦で、島津義弘の窮地を救った柏木源藤の供養塔である(『称名墓志』巻二)。源藤は義弘の家来、川上四郎兵衛忠兄の郎党だった。
 義弘率いる島津勢は関ヶ原合戦で西軍に属したが、武運拙く敗北のやむなきにいたり、義弘は敵中突破による郷里帰還を決断した。いわゆる「島津の退き口」である。
 徳川家康は本陣のそばを猛然とすり抜けた島津勢を見て、腹心の井伊直政や本多忠勝に追撃の下知を発した。
 徳川の精鋭の追撃は凄まじく、さしもの島津勢もその猛追を振り切れず、家老の長寿院盛淳、甥の島津豊久(日向佐土原城主)も義弘の退却を掩護しながら、次々と討死した。
 主戦場から五キロほど南東に離れた牧田あたりで、井伊勢が義ついに弘主従に追いついた。直政(四〇歳)は黒馬に乗り、白糸威の鎧に銀杏の前立のついた甲冑を着け、長刀を携えながら、「何をもたもたしておる。兵庫(義弘)を討て」と大音声をあげた。
 とそのとき、島津勢の一団から源藤が進み出て鉄砲を放つと、弾は見事に直政に命中した。直政はしばらく馬上で激痛をこらえたものの、たまらず落馬した。それを見た源藤は「川上四郎兵衛、討ち取ったり」と、思わず主人の名を叫んだ。郎党の悲しさで自分の名を名乗るのは憚られたのだろう。
 直政の負傷部位と程度は諸説あるが、一番信用できそうな井伊家の記録『井伊慶長記』によれば、弾は直政の右脇腹に当たったものの、頑丈な鎧だったために、弾が跳ね返って右腕(右肘とも)を貫いたという。
 大将の負傷で井伊勢が追撃を断念したために、義弘主従は辛うじて窮地を脱した。源藤の大殊勲だった。ときに源藤、二十二歳という。なお、直政はこのときの負傷が癒えずに、一年半後に他界している。
 この手柄ゆえか、源藤は義弘の隠居所である加治木に住んだ。だが、その後の源藤は不遇だった。『本藩人物誌』には「逼迫して町人にまかりなり、子孫断絶いたし候」とある。
 なぜ源藤は落魄したのか。それをうかがわせるような逸話がある。『旧南林寺由緒墓志』には、源藤が井伊直政の死去を知ってこれを哀れみ、「弔死の志をもって墨染の法衣を身にまとい、廻国修行に郷関を出しが、また帰らず、その終焉の地、果して何処(いずこ)なるか、勇士の末路、憐れにもまた遺憾なり」とある。
 直政の死を知った源藤には、どんな思いが去来したのか。ほんの一瞬の出来事が徳川四天王と勇名を馳せた武将の一命を奪ってしまったことに、世の無常を感じたのかもしれず、それが出家と放浪につながったのだろうか。
 
南日本新聞の連載コラム「さつま人国誌」を遅ればせながら掲載します。
同紙のサイトでも掲載してくれるとのことでしたが、作業が遅れているようなので、とりあえず先行して載せてみます。
なお、タイトルは同紙のそれとは異なっております。著作権の関係で、私が付けたタイトルにしてあります。もちろん本文はルビ以外は変更がありません。



その後の愛加那
尾崎三良の自叙伝と日記の食い違い


愛加那

愛加那の肖像

 西郷隆盛が奄美に流罪となり、龍郷村で流謫生活を送っていたとき、愛加那を島妻に迎えたことはよく知られている。愛加那は郷士格である龍家の二男家・佐恵志の娘だった。二人の間には菊次郎(のち京都市長)と菊草(のち菊子、大山誠之助夫人)という二人の子どももできた。
 しかし、島妻の運命は哀しい。西郷が罪を許されて本土に戻っても同行することはできない。愛加那が最後に西郷に会ったのは元治元年(一八六四)二月二十日のことだった。結婚してから四年ほどたっていた。
 明治になってから、愛加那の手もとから菊次郎と菊草は西郷家に次々と引き取られた。そのため、愛加那は親戚の子、丑熊を養子にしたという。
 その後の愛加那については、菊次郎が二度ほど帰郷していることが判明しているが、明治三十五年(一九〇二)の旧暦八月二十七日、農作業中、脳溢血のため畑で倒れたまま他界したという最期の様子のほかは、ほとんど知られていない。おそらく寂しい余生をすごしたといわれている。
 そんな愛加那を目撃して、日記や自叙伝に書き残した人物がいる。尾崎三良という人である。幕末には戸田雅楽と名乗り、公家の三条実美の家士で坂本龍馬と親しく、西郷とも面識があって交流している。その尾崎が明治十五年(一八八二)八月、参事院議官補のとき、沖縄県の巡視を命じられた。その仕事を終えた帰途、龍郷村に立ち寄って愛加那と会っている。
 この人は日記だけでなく、自叙伝を残している。まずあとから書かれた自叙伝が公表された。そのなかに愛加那の意外な姿が書かれており、人々を驚かせた。
「玉鶴と云ふ優美の名にして且つ英雄西郷の愛せし婦人なれば定めて美形ならんと憶想せしが、案に相違し只見る一蛮婦五十位の醜面、しかも全く島風の衣服、手甲には入墨し足は徒跣(かちはだし)して来る。是には吃驚(びっくり)せざるを得ず」(『尾崎三良自叙略伝』中巻)。
 身もふたもない書き方である。愛加那が玉鶴と呼ばれているのはおかしいと思われつつも、一時はこのイメージが一人歩きしていた。
 ところが、近年、尾崎の日記が刊行されて、これが間違いだとわかった。日記には「西郷隆盛氏ノ未亡人ニ面会」とあるのみで、愛加那の容貌や様子などは何も書かれていない。それとは別に、尾崎は汾陽(かわみなみ)某宅を訪れて、「玉鶴」という老婦に会ったとも書いている。彼女は上野景範という旧薩摩藩士(のちイギリス特命全権公使)が奄美に役人として赴任してきたときの島妻だったのだ(『尾崎三良日記』上巻)。
 つまり、尾崎は記憶違いをしていて、愛加那と別人の玉鶴を混同して自叙伝に書いてしまったのである。だとすれば、人騒がせな目撃談だというしかない。尾崎はせっかく愛加那に会いながらも、結局、日記にその様子を何も書き残さなかったことになる。何とも残念ではないか。