歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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古文書講座「てらこや」第4回。

一昨日にあったが、ようやく今日書いている。
諸事多忙で更新できず申しわけありません。

寺村左膳日記の慶応3年(1867)11月分を一気に読む。このところ、1回で半月か20日前後のペースだったから、かなり駆け足だ。
しかも、大きな事件や、左膳が国許から上京することもあって、分量が多い。おそらく、いつもの2倍以上を読んだに違いない。その分、解説や注釈が足りなかったと思うが、致し方ない。

というのも、左膳の日記は同年12月まであるが、あと1回ですべてを終わらせないといけないからだ。次回の最終回も駆け足になるだろう。しかも、王政復古政変がある……。

日記の読みと注釈だけで、1時間10分ほどかかってしまい、予定していた討幕の密勅も流すだけ。
でも、討幕の密勅が薩長だけでなく、芸土にも下される予定になっていたことだけはどうしても伝えたかったので、少し解説する。
またその背景に、討幕派公家集団の形成があり、密勅作成には、彼らの主導権が大きかったことを伝えたかった。通説のように、薩摩の主導権によるものではないと言いたかったのである。

そして、今回のメインテーマだった近江屋事件に割ける時間は、20分程度しかなくなった。
焦りながら、日記以外の史料を解説する。とくに桐野利秋の「京在日記」と、大久保利通・岩倉具視の往復書簡を読み比べながら、薩土間で、新選組が犯人だと確信するに至るプロセスを解説した。

とくに、新選組犯人説が浮上したのはいつからか、どの筋から出てきた情報かを見ていった。

左膳の日記には事件当日(11月15日)の条に「多分新撰組等之業なるべしとの報知也」と書かれているが、日記本文から一段下げの後筆分に書かれていることから、信ずるに足りない。

越前藩の『丁卯日記』には、事件翌日の16日、土佐藩参政の福岡藤次が松平春嶽に呼び出されたとき、「相手は恐らくは新選組中ならんとの事」と語っている。土佐藩側では、事件翌日には早くも新選組の仕業だという感触をもっていたようだ。

それとは別に岩倉具視と大久保利通の往復書簡では、事件翌日の16日、岩倉が大久保に宛てて、「会暴奇策も有之」とか「全く幕闇殺之策ニ決し申候事」と書いており、幕府か会津筋の仕業であると推測している。
それを受けた大久保も翌17日には「新撰組云々之一条」を岩倉から承ったと書いていることから、同日か前日に、さらに岩倉から新選組犯行説が大久保に伝わっているようだ。
また、大久保は岩倉宛ての書簡のなかで、坂本・中岡の死に対して「遺憾」の意を表明している。残念とか気の毒という意味である。一般に龍馬とは疎遠だったとされている大久保も二人の死を悼んでいるのである。このことはあまり知られていないようなので、強調しておきたい。

いずれにせよ、事件直後から、土佐、薩摩、岩倉あたりでは新選組の仕業だと心証を強めていたことがうかがえる。そして、『京在日記』にあるように、19日に高台寺党の生き残りが二本松の薩摩藩邸に逃げ込み、それを桐野らが伏見藩邸に移動させ、21日、土佐藩小目付の毛利恭助・谷守部の立会の下、尋問したことで、新選組犯行説は疑念から確信へと変わっていく。

一応、そうしたプロセスを理解していただけたのではないかと思っている。
新選組にとっては、迷惑な冤罪であり、近藤もそのために悲惨な最期を遂げることになった。
しかし、一面では新選組にとっても、自業自得だったといえるかもしれない。近江屋事件から3日後の18日、新選組は七条油小路で伊東甲子太郎を暗殺し、さらに駆けつけた高台寺党の連中も何人か待ち伏せして殺害した。
明らかに、闇討ち、暴殺である。ただでさえ、薩土に疑われているなか、新たに大規模な闇討ち事件を起こしたのだから、状況証拠的には心証は真っ黒になる。近藤はそれに気づかなかったのだろうか。
辛うじて逃走した高台寺党の生き残りが薩摩藩に庇護され、新選組の原田左之助の仕業だと証言する。
まさに近藤と新選組は、高台寺党の生き残りに報復、復讐されたのだ。

大久保が岩倉に宛てた書簡のなかで、新選組を「近日来、暴を働き候由、第一近藤勇が所為と察せらる」と非難し、「実に自滅を招く表れ」と喝破したが、まさにその通りになったともいえる。

結局、予定時間を30分近くも超過した。近江屋事件を45分程度まとまって話せたので、最低限度の責務は果たせたかなと思っている。

さて、次回は今期の最終回である。
王政復古政変がメインになる。また左膳の去就も意外な方向に転回する。そのあたりをお楽しみに>受講者の方々。

なお、今期で寺村左膳日記は終了し、次期からは新しいシリーズを始めます。
テーマは次の通り。

「大河ドラマ「篤姫」の見方」

関心があって、時間とお金に少し余裕のある方は参加をご検討下さい。
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【2007/05/31 09:52】 | てらこや
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こんばんは
パルティアホースカラー
討幕の密勅が芸州と土佐にも下される予定だったというのは、確か『中山忠能履歴資料』に出てくる話でしたよね。あの時期の公家討幕派を見ていると、彼らが薩長の指導者たちとは異なる思惑で、自ら主体的に動いているのがよくわかりますね。

彼らの思惑が薩長の戦略にかなりの影響を与えていたことは一般にはあまり知られていないと思いますが、もっと知られてほしいことですね。


討幕派公家
桐野
パルティア・ホースカラーさん、こんばんは。

討幕派公家といえば、岩倉具視が有名ですが、ほかにも中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之といった、討幕の密勅に署名した公家もいますね。
ご指摘のように、彼らの動向が薩長討幕派の形成にも影響を与えていますね。西郷や大久保は、これらの公家の示唆によって討幕に踏み込むきっかけを与えられたともいえそうです。

講座でも、『中山忠能履歴資料』の一節を紹介しました。
まず薩長が先で、その後、機を見て芸土にという予定だったと思いますが、途中で大政奉還になってしまったので、芸土への下賜は延期もしくは中止されたのでしょうね。
四藩に一斉に与えないのは、やはり四藩の方針の違いや温度差があるからでしょうね。討幕派公家から見た信頼度の反映でもあると思いますが(笑)。

これと似たような時間差攻撃は王政復古政変でも再現されますね。
中山忠能が明治天皇に会って王政復古の大号令の勅許を得たのち、まず薩摩に伝えられて、薩摩が軍勢を動かしたのち、順番はどうだったでしょうか、土佐・尾張・越前の順だったかな、最後は芸州でしたっけ? 芸州があまり信用されていなかったのは、討幕と公議政体に二股かけているのが日和見だと見られていたからだったでしょうか? 史料を見ないで書いているので自信がありません(爆)。


パルティアホースカラー
私も、芸州が最後だったと記憶しています。同様に史料を確認したわけではないので、あやふやな記憶ですが(笑)。

各藩の信頼度の差は、情報伝達の速さにおいて顕著ですよね。信頼できるか否かをかなり慎重に検討して事を進めている印象があります。その公家たちの意向が薩摩以外にも影響しているのは確かですよね。

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南日本新聞連載の「さつま人国誌」第8回連載。

同紙サイトに掲載されました。
詳しくはここをクリックして下さい。

島津氏の軍配者、川田義朗(下)です。
次回は島津氏の鬮取りについて書く予定です。

【2007/05/26 16:46】 | さつま人国誌
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川田義朗
ばんない
こんばんは。

『本藩人物志』でしたか、九州征伐(→余り個人的に好きな用語じゃないのですが、教科書にも載っているので仕方なく)の帰路で原因不明の急病になった豊臣秀吉を川田が祈祷で直したというこれまた不思議なエピソードが載ってますね。

川田の子孫…最も義朗は生涯未婚だったので養子の子孫と言うことになりますが…はどうもその後の薩摩藩では不遇だったようで子孫は断絶したという話も『本藩人物志』に載っていたような。伊集院家とのつながりが嫌われたのではないかという説を何かの本で見たような記憶があるのですが、誰の説かを失念してしまいました。

ところで川田義朗の「朗」って、師匠の偏諱なのでしょうか?もし偏諱とすれば下一字を下一字にもらう偏諱はかなり変則的な物だと思うのですが…。

比志島氏
桐野
ばんないさん、どうも。

川田義朗の下の一字が伊集院忠朗の一字をもらったかどうかですが、通常の偏諱の慣習なら違うと思います。もっとも、軍配者同士だと、別の慣習が存在していたらその限りではないですが。

川田義朗以降の子孫はそれほど不遇ではないように思います。伊集院家とのつながりといっても、義朗は忠棟の上意討ちや庄内の乱を見ずに亡くなっていますから。

その養子の大膳亮国鏡は比志島義貞の二男です。もともと、川田氏は比志島氏の庶流ですから、本家から養子が来てもおかしくないですね。
比志島氏といえば、中納言家久の家老をつとめた比志島国隆が不興を蒙り改易されて、「本藩人物誌」の「国賊伝」に名前がありますね。
むしろ、その縁のほうが大きいかなという気もしますが、それでも、義朗の子孫は代々、地頭をつとめていますから、地位や家柄はさほど低下していないように思います。

川田義朗の養子
ばんない
こんばんは。

『本藩人物志』は寛永以降の家臣の動向が分からないのですが、確かに以後も地頭に任ぜられたりしているならば、川田家の家格から見てもそんなに不遇ではないですね。

義朗の養子・国鏡ですが、『鹿児島県史料』旧記雑録諸氏系譜3 の前書きに鹿児島大教授の五味克夫氏が国貞・国隆系の比志島氏の系図を添付されてますが、それによると国鏡はその国貞の弟で、父は比志島国真となってますね。

比志島氏は本宗家に伊集院忠棟と関係がある点とか、島津中納言家久の絶大なる信用を得ていた国貞の息子・国隆が理由不明の流罪になった点といい、島津氏の重臣の割には謎の多い一族だと思います。

比志島氏
桐野
ばんないさん、どうも。

ご教示の『旧記雑録諸氏系譜』3の前書きにある「比志島源左衛門系図」をあらためて見てみました。
たしかにご指摘のとおりですね。私が『本藩人物誌』のみを典拠にして書いたのが、横着で怠惰な行為だということがわかりました(爆)。
国貞系のほうが有名ですが、比志島氏のなかでは庶流なんですね。

国貞の弟、国鏡が川田義朗の養子になったのは義久の意向が働いているのではないかという気がします。国貞も義久の代に御使役(評定衆の一員)に取り立てられており、いわばお気に入りの側近です。義朗も義久の腹心でしたから、両者を結びつけたとも考えられます。

義久が忠恒に家督を譲ったとき、国貞を忠恒付きの老中にしました。これが国貞の嫡男国隆引き立てのきっかけになったのでしょうね。もっとも、国隆にとっては悲劇的でしたが。
この国貞・国隆系統の系図を五味克夫さんが同書の前書きという形で、本文ではないところに収録されたのは、新しく発見されたか、あるいは改易された家だけに公式には伝来せず秘伝になっていたからでしょうか。

比志島氏系図について
ばんない
こんばんは。

『本藩人物志』は私もしょっちゅうお世話になっている史料ですから、そんなに卑下なさらないで下さい。私の立場もなくなります(爆)。
「義貞」と「国真」、『本藩人物志』の編者が史料を写すときに混同した上に誤字をしたような印象を受けます。「貞」と「真」という字は似てますし。

比志島源左衛門系図について、『鹿児島県史料』の前書きでの五味氏の説明はこうなっています。
「なお(伊地知)季安は、「比志島氏文書」の終わりに比志島源左衛門系図として、比志島九代義重次男義信以後義住、国守、国親、国詮、国高、国泰に至る家系と国守の弟・国真、国貞、国英、国能に至る家系と、国貞の子国隆、国安、国通の家系の略系図を掲載している。参考資料として付記しておく。」


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せごどん3

西郷隆盛を描いたコミック単行本「せごどん3」が発売になった。

詳しくはここへ

第2巻でお由羅事件があり、島津斉彬襲封があったから、今回は西郷がお庭番として斉彬に登用され、中央政局にデビューするあたりを描くのだろう。

そろそろ久光も登場か。大久保は西郷の出世を横目に見ながら、またいじけるのかどうか。

見どころはある。
今回の帯は西郷子孫の隆文氏の推薦文が付いているらしい。

【2007/05/24 00:44】 | 新刊
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昨年の11月からブログを始めて6カ月ほどで大台到達です。

毎日数百人の方に見ていただいていると思うと、アクセスしていただいたみなさんに感謝するばかりです。

最近は読み応えのある文章をアップしておりませんが、多少何かを得られた場合には、右下リンク欄の人気ブログランキングをクリックして下さいませ。

次の山に向かいたいと思います。
今後ともよろしくご愛顧下さい。

【2007/05/22 18:10】 | 雑記
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この間、某誌掲載予定の原稿で、信長記(太田牛一本)の原稿をずっと書いている。いや、書いている時間より調べている時間のほうがはるかに長い。

何せ大特集と銘打って分量が多い。それに難しいテーマである。とても一人では書けそうもなかったので、私よりずっと詳しい友人の研究者W氏に頼み込んで分担してもらった。
ところが、W氏の原稿はとっくにあがっているのに、私のがあがらず、編集部に迷惑をかけている。

あまり知られていない信長記のある写本を取り上げるつもりだったが、それが有名な池田家本の系統なのかどうかという評価をめぐって、ほぼ全巻(15巻)を総まくりでチェックする羽目になったのが遅れた原因のひとつでもある。何せ、チェックポイントが半端じゃない多さなのだ。

道家清十郎兄弟、山口小弁、春田勝蔵、薬師寺九郎左衛門、野村越中……

あんた誰?という人物ばかりだ。
でも、悪戦苦闘の末、ようやくメドが立った。明日には脱稿できるだろう。

いやあ、この世界は奥が深い。
思わぬ迷宮に迷い込んだと半ば後悔しているが、もう踏み込んだ以上、引き返せないのだ。つらいなあ。

【2007/05/22 01:42】 | 信長
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南日本新聞連載「さつま人国誌」の第7回分が同紙サイトに掲載されました。興味のある方はご覧下さい。

なお、この連載のURLは右下のリンク欄にもありますので、ご利用下さい。

【2007/05/19 10:03】 | さつま人国誌
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かじやちょう
かじやちょうです。
HPで見られるようになって毎回楽しみに拝見しています。

川田氏に興味があり、川田城の跡を訪ねて郡山の山奥まで行ったことがあります。川田氏の墓所にも行きました(笑)。
薩摩の軍配者が重要な役割を果たしているのはわかるのですが、どのような身分でどのような権限を与えられていたのか理解するのがなかなか難しいです。義朗についてももう少し知りたいのですが・・・なかなか(笑)。
ところで、勝鬨についておもしろいご解説ありがとうございました。勝鬨は気を扱うことなので、軍配者の仕事だったとのことですが、勝鬨を担当した者は軍配者と考えて宜しいのでしょうか?

軍配者の権限
桐野
かじやちょうさん、どうも。

>薩摩の軍配者が重要な役割を果たしているのはわかるのですが、どのような身分でどのような権限を与えられていたのか理解するのがなかなか難しいです。

う~ん、これは難しいですね。
薩摩島津家の軍配者は必ずしも一人ではなかったようですが、メインは日新斎・貴久の時代の伊集院忠朗、義久の時代の川田義朗というのはほぼ固定されているように思います。
どちらかといえば、忠朗も義朗も島津家当主との個人的関係や信任が強かったように思います。

島津家の場合、ご存じのとおり、軍略の策定にあたっては、最高意思決定の方法として鬮取りが重視されました。でも、軍配者は鬮取りとは直接関わっておらず、むしろ、修験者が担っています。

軍配者は軍略や対外方針の決定には関与していない、あるいはできないのかもしれませんね。

ただ、天正14年頃、島津氏が筑前・筑後と豊後の二正面戦をしていた頃、いったん鬮取りで豊後攻めを決めたにもかかわらず、筑紫広門の離反により、急遽、筑前攻めに方針変更したとき、鬮取りの結果を否定しないという体裁をととのえるためでしょうか、豊後領内に「伏せ針」をしています。おそらく大友氏が日向に出てこないようにという封印だと思います。
その針に霊力をもたせるため、加持祈祷をしたのが川田義朗でした。
そうした義朗の働きをどのように理解するのかという課題もありますね。
また、甲陽軍鑑によれば、山本勘助は「城取」(城の設計)をしています。これも地鎮祭の一種ですから、軍配者の役目だというのもわかりますが、義朗が城取に関わったのかどうかはわかりませんね。
ただ、合戦に出陣したとき、本陣をどこにおくか、その吉凶を占う「地取」はやっていたと思われます。

いずれにせよ、なかなかの難問です。


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古文書塾「てらこや」の講座「幕末の日記を読む3」。

昨夜、その3回目の講座だった。ゴールデンウィークを挟んだので、隔週のところが3週間空いてしまって、久しぶりという感じ。
じつは、決算と某雑誌の原稿締め切り3本を抱えていて、この講座の準備に1日費やすのは大変だった。

でも、いよいよ大政奉還に入るから手を抜くわけにはいかない。
ところが、日記の主、寺村左膳はこの大事に国許に帰ってしまい、日記はのんびりしたもの。
だから、別の史料を援用せざるをえない。今回はとくに徳川慶喜の回顧談である『昔夢会筆記』を使った。明治維新から30年以上経ってからの回想だし、自分に都合よく脚色してある部分もあるから割り引いて読みましょうと断ってから読む。

面白かったのは、慶喜の回顧談に付録的に付いていた松平定敬(もと桑名藩主)の回顧談。
二条城で慶喜が大政奉還する旨を在京諸藩の代表に通知したとき、薩摩・土佐・芸州・備前・宇和島の五藩の代表が居残って、慶喜と膝詰め談判となった。
慶喜が「近う近う」と声をかけたので、彼らが膝を畳に付けながらにじり寄ったので、その距離がわずか三尺になったという記述など、とてもリアルである。徳川260年の歴史のなかで、将軍と陪臣がこんな近い距離で話し合うのは初めてだったのではないか。

なかでも、重要人物は薩摩の小松帯刀と、土佐の後藤象二郎である。定敬の回顧談は、そば近くで見ていただけに、両者の好対照の様子が活写されている。
小松は摂関家・宮家以下の朝廷の公家たち、慶喜や老中以下の幕府諸役人、また諸藩主や重臣たちとの間で、文久年間から長く周旋活動をしてきた経験がある。そのため、将軍慶喜の前とはいえ、万事そつがない。

ところが、後藤は中央政界に打って出たのが、大政奉還のあった慶応3年(1867)後半からだったから、経験が少ない。

その差がもろに出たようで、そばで見ていた定敬は後藤の緊張した様子を「成る程、額・首筋の流汗は甚だしかりき」と述べ、あとで同僚たちと「後藤の汗咄し(ばなし)」を噂し合ったという。
よほどすごい汗だったのだろうな。自分も汗っかきなので、後藤にはむしろ親近感を覚える(笑)。

後藤は二条城に登城する直前、坂本龍馬から、もし慶喜が大政奉還をごまかすようなら刺し違える覚悟で行ってこいとネジを巻かれていたから無理もあるまい。後藤の気負いに反して、慶喜はあっさりと大政奉還を宣言してしまったから、後藤もさぞや拍子抜けしたのではないだろうか。

講座の趣旨からはずれるが、のちに、後藤などが王政復古政変の直前、小松が足痛のため再上京して来なかったことを非常に残念がり、小松が西郷・大久保らに敗れて失脚したのではないかとまで憶測している史料がいくつかある。

なぜ後藤らがここまで小松に期待をかけていたのか、単に公議政体という共通項のためかと思っていたが、どうやらそうではなさそうだとわかった。
将軍慶喜の前でも堂々と周旋活動ができる小松のそつのなさや手際のよさは、後藤たちにない才能だったのではあるまいかという思いを強くした。

後藤たちは王政復古の舞台での対立する諸勢力間で、小松の周旋・調停能力を買っていたのではないだろうか。

今回、大政奉還を中心に話を進めた。じつは、大政奉還と共に、討幕の密勅降下も同時進行している。時間の関係と、両者の錯綜で受講者のみなさんが混乱しないように話題を分けた。

次回は、討幕の密勅とともに、龍馬暗殺の話題にも入る。これまであまり使っていない史料も使おうかなと思っている。

【2007/05/16 20:49】 | てらこや
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南日本新聞紙に毎週土曜日に連載している拙コラム「さつま人国誌」が同紙サイトに本日から掲載されました。

この欄をクリックすれば、ご覧いただけます。

現在、サイト表紙の更新欄の新着情報にあります。その後はサイト左側のメニュー画面「掲載中の連載・特集」コーナーをクリックすると、拙コラムにたどり着けます。

拙ブログでもこの間数回分掲載しましたが、著作権の関係でタイトルを変えてありました。また同紙コラムには図版など別の情報も入っています。

今後、鹿児島県外の方は拙コラムを同紙サイトでご愛読いただければ有難いです。

【2007/05/13 17:55】 | さつま人国誌
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たすかります
ばんない
早速ブクマしておきました(^^;)

ところで最新回連載のネタになっている桂久武は、確かに日置島津家の出身なんですが、日置島津家自体は江戸時代前半に歳久の血統は途絶えていますね。久武にすれば血はつながってなくても、末裔という意識の方が強かったんでしょうか。

ところで、明治初年に日置島津家当主と共に歳久の遺骨発掘に携わった田尻種寛氏とはどういう人物なんでしょうか。プライバシー問題などで差し支えなければご教示賜りたく思います。


佐多
ばんないさん
お節介ですが投稿します。
田尻種賢という人がいます。島津久風の四男です。初名は歳香で、田尻家へ養子に入っています。その子ご息ではないかと思います。

日置島津家の血統
桐野
ばんないさん、どうも。

日置島津家はご指摘のとおり、早い時期に島津家久の庶子が入って継いでいますね。
血統からいえば、桂久武と島津歳久がつながっていないのは事実です。

ただ、島津家に限らず、当時は血統より家意識が優先される傾向が強いですね。祖先祭祀も当然、家中心だと思います。
それに血統優先なら、島津家の一門・分家のほとんどの祖は島津家久になってしまいますね。
血統は短期間では強く意識されますが、長くなるとどうでしょうか。徳川将軍家は8代将軍吉宗のときまでは権現様(家康)の血統が重視されましたが、それは家康が超絶した存在だったからで、家久には家康ほどの神通力はないと思います。むしろ、家久の父、義弘の血統だというのが、暗黙裡には意識されたかもしれませんが。

そうだとすれば、桂家の養子に入った久武も桂家の祖を先祖だと思うのではないかということになりますが、そこはそれ。歳久が心岳公として藩中から尊崇されていることが、久武に若い頃から日置島津家の一員でもあるという誇りを培養したのかもしれません。
ともかく、久武が月の命日(在京中は祥月命日がめぐってこなかった)に墓参し、多額の寄進をしていることは、格別の思い入れではなかったかと思います。

田尻務
桐野
ばんないさん、佐多さん

田尻種寛氏ですが、佐多さんのご指摘のように、田尻種賢の子どもではないかと推測されます。
種賢は久風の四男で、桂久武の兄。むしろ田尻務(つかさ)という通称のほうがよく知られています。島津久光側近としても知られます。西郷・大久保と久光の間を取り次ぐ役目を担いました。

とくに、西郷と田尻は親しかったようです。それは西郷家と日置島津家の縁からでしょう。西郷の父は久風の二男、赤山靱負の家に出入りしていました。赤山は田尻務・桂久武の兄にあたります。赤山がお由羅崩れで切腹し、西郷に血染めの肌着を形見として贈ったことは、西郷の政治活動の原点です。

その後も、西郷の政治基盤のひとつが日置島津家との連携でした。
その関係は現在も続いているようで、西郷の庶長子、菊次郎の子孫である隆文氏は日置島津家と姻戚関係にあり、鹿児島県日置市(旧・日置郡日吉町)にある日置島津家の菩提寺、大乗寺跡を守っています。
連載コラムでは分量の関係で書けませんでしたが、ここに平松神社から改葬された歳久の墓があり、終の棲家になっています。


即答、ありがとうございました
ばんない
田尻種寛の父?は養子にいって改名して、実は日置島津家の出身だったんですね。なるほど。ならば、島津歳久の遺骨発掘に携わっているのも納得ですね。
鹿児島藩の田尻氏には古くから薩摩国にいた一流と、いわゆる戦国末期の「島津の北上」の時に降伏してそのまま家臣になった元柳川城主だった流れと2系統に分かれるようですが、養子先はどっちだったのでしょうね(ちなみに両家とも通字は「種」でした)
それにしても幕末の日置島津家は桂久武といい、赤山靱負といい、そうそうたる人物を輩出してますね。

久武が島津歳久を強く思慕した理由を私なりに考えてみたのですが、久武自身が強硬な討幕派だったというのと歳久が強硬な反豊臣秀吉スタンスを取っていたというのが「反中央」という点で一致しており、共通点を感じていたのかなあ、という気がします。

ちなみに養子先の桂家も梅北国兼の乱に加わったりとかしているようですが、島津氏の分家の中ではいまいちパッとしない一族(失礼)のように思います。藩中から尊崇される心岳公に心が傾いたのは当然なのかも知れませんね。
私は「桂」と言えば頭に浮かぶのは「三枝」「米朝」だったりします(汗)

南洲窯は大乗寺の跡にあるんですね。平松神社に歳久の墓は残っている物だとばかり思っていました。URI欄にご紹介させていただいたブログで、西郷家との関係にもちらっと触れてました。意外にも「国賊」とされている歳久の曾孫・久慶の墓もあるんですね。

…ちなみに今神戸の某百貨店で行われている鹿児島の物産市に南洲窯の薩摩焼が出ていますが、手も足も出ませんでした(涙)

島津忠隣の墓も
桐野
ばんないさん、どうも。

うっかりして、コメントを付けたとばかり思っていました。すみません。

私も以前行ったことがあるのですが、大乗寺跡には西郷隆文氏兄弟の南洲窯があります。
窯のそばに墓所があって、歳久の墓や幕末期の家老として知られる島津下総久徴(桂久武の長兄)の墓もあります。
また少し離れたところに、久武の兄、赤山靱負の墓もあります。

そうそう、天正15年(1587)、豊臣秀長軍との根白坂の戦いで壮絶な討死を遂げた歳久養嗣子の忠隣(薩州家島津義虎の二男)の墓もあるのを発見して驚きました。


南洲窯では、「敬天愛人」と書かれた安い小鉢を買ったことがありますが、高いのは手が出ません(笑)。
なお、南洲窯は今年になって、喫茶店も開業したようです。ずっと立ち寄りやすくなったと思います。

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昨日、晴天の中、甲東祭(大久保利通の慰霊祭)が青山墓地で開催され出席した。
友人の有村さんが初めての参加だったので、近くで合流する。

今年で129回目の命日である(正確には5月14日)。
慰霊祭はいつものとおり、神式でしめやかに行われ、出席者一同、玉串を奉納した。
参加者の数も例年並みだった。
顔見知りの友人も多い。大久保利通研究者の勝田政治氏、調所広郷の子孫の調所一郎氏、マツノ書店店主の松村久氏らとも旧交を温める。
また、重富島津家の当主晴久氏も来られていた。初めての出席とか。

終了後、近所の花店で直会(なおらい)。
今年はやけに盛り上がった。薩摩・長州と会津の因縁が話題になったからである。さまざまな立場から意見が飛び交った。
例年なら、出席者の自己紹介があるが、今回は議論沸騰のため時間がなくて省略された(笑)。
甲東ご子孫の利泰氏に、この間の調査報告や南日本新聞連載の拙コラムをお渡しする。

有村さんが初めての参加で青山墓地も初めてだというので、同姓の有村俊斎(海江田武次)・雄助・次左衛門の墓に行くことになったが、場所が探し当てられなかった。過去何度も参詣しており、昨年の甲東祭でも行ったのに。記憶力が低下していて愕然となる。

直会終了後、気の合った知り合いたちで渋谷に流れて二次会。
これまた盛り上がった。とくに薩摩がらみの京都ツアーを企画することになった。個人的な事情もあり、何とか実現したい。


【2007/05/13 15:44】 | 雑記
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佐多
こんばんわ。
甲東さんがどんな方か勉強不足でわかりませんでした。
青山霊園といえば、村橋久成や末川家、新納家、北郷家、川上家、樺山家、町田家、碇山家などがありますね。樺山三円さんの墓もありましたよ。
護国寺には玉里家の墓所もありましたね。入口の松平不昧公の五輪塔といえばよいのか巨大な石塔があり、どうやって積み上げたのか関心します。

甲東
桐野
佐多さん、どうも。

博学の佐多さんだから、ジョークだと思うのですが、甲東は大久保利通の雅号です。おそらく甲突川の東(加治屋町)という意味ではないかと思います。
念のため、本文も修正しておきました。よく見ると、甲東が誰だかわからないような文章でした。

青山墓地は樺山三円の墓もありましたか。村橋久成は一度行ったような記憶もあります。錚々たる家の墓がありますね。

護国寺には玉里公爵家の墓もありましたか。知りませんでした。事前に知っていたら、参詣できたのにと残念です。
久光の墓は福昌寺にありますが、それ以降の子孫は護国寺だということでしょうか。


佐多
桐野様
こんばんわ。
甲東はさっぱりわかりませんでした、お恥ずかしい限りです。投稿文を読んでいてなんとなく理解出来ました。護国寺は三代目の忠承様からですね。忠済様ご夫妻は福昌寺にあるようです。余談ですが、島津久大様ご夫妻の墓所は私の住んでいる関東圏にあります。今度島津家の英国家庭教師の方の翻訳された本でも購入しようかと思っています。たしか久大様が翻訳なされていたと記憶しています。


薩摩国見聞記?
桐野
佐多さん、こんばんは。

久大(ひさなが)さんは玉里島津家(公爵)の一族でしたね。翻訳本というのは、

H・B・シュワルツ著『薩摩国滞在記』(新人物往来社、1984年)

E・ハワード著『薩摩国見聞記~一英国婦人の見た明治の日本~』(新人物往来社、1978年)

のどちらかでしょうか? どちらも久大氏が翻訳されていますね。
家庭教師ということですと、女性の家庭教師で島津本家の忠重氏ら兄弟を教育した人の「~見聞記」のほうですかね。

両方とも一応もっておりますが、雑誌原稿のため必要に迫られて一応読んだことがあるのは「~見聞記」です。これはたしか講談社学術文庫にもなっていますので、こちらのほうが入手しやすいかもしれません。


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「さつま人国誌」第5回(5月5日朝刊掲載分)
相国寺の東、塔之段にも居住
薩軍戦没者慰霊塔

西郷隆盛の居宅があった塔之段の相国寺寄り(塔ノ段口)に、禁門の変と鳥羽伏見の戦いで戦死した薩摩藩士72人の慰霊塔がある

 前回、京都の西郷邸が大久保邸のすぐ近くにあったことを突き止めた。しかし、大山巌が「甲東逸話」(大久保利通の逸話集)のなかで、相国寺の門前に西郷邸があったと回想していることにも気づいた。
 果たして西郷邸は二つあったのだろうか。大山の伝記「元帥公爵大山巌」に次のような回想がある。
「当時上京中の西郷は相国寺に隣せる塔之段といへる処に二階建の寓居を構へ(後略)」
 この回想は「甲東逸話」よりさらに具体的で、西郷は相国寺近くの塔之段に二階建ての家を構えていたというのである。大山はこの西郷邸に起臥して藩邸に出勤していたとも書いてあるから、この記事の信憑性は高い。
 相国寺といえば、室町時代に将軍足利義満が創建した寺院で京都五山のひとつとしてもよく知られている。幕末には二本松の薩摩藩邸の北側と東側に隣接していた。二本松という地名も相国寺の門前町のひとつである。
 大山の回想に出てくる「塔之段」という地名はどこを指すのだろうか。京都の古い地名事典「京都坊目誌」には「大塔ノ址」として「其址相国寺の東。今塔之檀の地名を存し、即ち是也」とある。相国寺には七重大塔跡が建立されたが、応仁の乱で焼失した。その跡に基壇が残ったので塔之檀と呼ばれ、いつしか塔之段という地名になった。
 幕末京都の古地図には、相国寺の東に上塔ノ段丁、下塔ノ段丁という町名が記されており、現在もその場所に塔ノ段通が存在する。
 つまり、西郷は相国寺の東にある塔之段に居宅を構えていたのは間違いないだろう。その時期がいつ頃かといえば、右の大山の回想では、慶応二(一八六六)年の薩長同盟締結の頃にはすでにあったとしている。また土佐藩士樋口真吉の伝記「樋口真吉伝」にも同三年六月三日条に「西郷吉之助ヲ相国寺門前ノ旅宿ニ訪フ」とある。これも塔之段の居宅だろう。
 大久保が寺町石薬師に住んだのは薩長同盟の締結直後だとされるが、西郷も前後して塔之段に屋敷を構えたのではないだろうか。
 そして最初の疑問に戻る。果たして京都の西郷邸は二つあったのか。西郷が塔之段に住んだことは確実だと思われる。では、石薬師中筋の間借りは誤伝なのか。それを証言した地元の古老は幕末に多くの薩摩藩士たちと交流があったことがうかがわれ、証言も非常に具体的だから、誤伝だとも思えない。
 これを矛盾なく理解するには、西郷ははじめ、おそらく元治元(一八六四)年頃と思われるが、石薬師中筋の料亭中熊の二階に間借りしたが、それでは警護や広さなどの面で何かと具合が悪いので、翌慶応元年か二年初頭までに塔之段の居宅に移ったと考えればよいかもしれない。(歴史作家)


【2007/05/12 07:05】 | さつま人国誌
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高柳光寿

いまさらながらの本だが、最近購入。
ある論文が収録されているのを知って、それだけ図書館で複写すれば用が済んだのだが、え~い、めんどくさいとばかりに上下巻とも購入。これまたなかなかの値段だった(爆)。
上下巻合わせると10センチほどになる分厚い本である。

著者:高柳光寿
版元:吉川弘文館
刊行年:1970年
頁数:上巻866頁/下巻808頁
定価:各5.500円(当時)


目的の論文はもちろん読んだが、ほかにも面白そうな論文が目白押しで目移りしそうだ。

たとえば、「豊臣秀頼薩摩落説」。

よく知られた伝承だが、同工異曲の逸話を載せた史料がこんなにたくさんあるとは知らなかった。さすが実証史学の面目躍如である。
秀頼の薩摩落ち伝承はその死の直後からささやかれてようだ。とくに家康が亡くなった直後、秀頼が朝廷に保護されており、家康の死後にそれが公表されるらしいとか、元和2年(1616)、長崎代官の村山等安の台湾出兵が秀頼捜索のためだったという噂など仰天するような話がてんこ盛りである。

正面から取り組んでも手応えがあるのはむろんだが、企画を考えたり、小ネタを仕入れたりといった使い方にも適した本だろう。


【2007/05/10 00:08】 | 古書
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鹿児島史話

鹿児島の歴史研究の泰斗、芳即正(かんばし・のりまさ)氏の新刊。今年で御年92歳になられるようだ。一層のご健勝をお祈りする。

書名:鹿児島史話
著者:芳 即正
版元:高城書房(たき~)
刊行年:2007年
定価:3.800円+税


地元の高城書房が版元。あまり県外に知られていないと思われるので、ぜひ紹介したい。詳しくは高城書房のサイトで。

芳氏がこれまで雑誌などに発表された論考や講演を一冊にまとめたもの。内容は、鹿児島の幕末維新史が中心で、とくに西郷隆盛に関する記述が多い。
大きな目次だけ紹介する。

一、安政五年西郷隆盛への島津斉彬密命
二、西郷隆盛と島津久光
三、西郷隆盛と島津久光再論
四、西郷赦免動議の時期と理由
五、島津久光・西郷隆盛と最後の将軍徳川慶喜
六、薩長同盟~久光と西郷
七、英医ウィリスと西郷隆盛
八、西郷隆盛と橋本左内―将軍継嗣問題の軌跡―
九、元治元年の西郷隆盛
一〇、鹿児島県令大山綱良と私学校
一一、西郷隆盛の出生と家族・縁戚略説
一二、明治後期の鹿児島と社会主義
一三、芳あて山川均の手紙
一四、鹿児島新聞創刊日誤伝の謎
一五、かくれ念仏と講組織
一六、薩摩琵琶歌と島津重豪
一七、天璋院篤姫入輿(嫁入り)問題―通説への疑問―
一八、堀孝之と鹿児島―薩藩留学生の通訳―
一九、西田橋「ぎぼじ」の製作年代
二〇、幕末における島津久光の評価
二一、家禄処分と鹿児島士族―桂久武の不安―
二三、お由羅騒動の話
二四、島津斉彬の海外情報源
二五、大山綱良遺言書
二六、調所広郷の脇差送り状


興味深い論考が多い。
個人的には、三、七、一〇、一七、一八、二四などが興味深い。
天璋院篤姫の入輿について、芳氏は『日本歴史』にも論文を発表していたが、一七は講演でそれをかみ砕いて話している。とくに島津斉彬が将軍継嗣問題を有利に運ぶために篤姫を大奥へ送り込んだという通説を覆している。
考えてみれば、当たり前のことで、一大名の一存で徳川将軍家の御台所を決められるはずがない。芳氏は、むしろ徳川家からの要請だったことを明らかにしている。このあたり、来年の大河に反映させないと、制作側の勉強不足だと言われよう。

幕末薩摩藩に興味のある人には必携ではないだろうか。


【2007/05/08 11:19】 | 新刊
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もう92歳なんですね。
パルティアホースカラー
芳即正氏の新刊の情報は存じておりませんでした。目次だけでも、とても面白そうですね。

天璋院篤姫の入輿についての芳即正さんの論考は、同じく高城書房から刊行された『坂本龍馬と薩長同盟』収録のものを読んだことがありますが、ぜひ大河ドラマに反映させてほしいですね。そうでなければ、確かに制作側の勉強不足だと思います。

ともあれ、貴重な情報を教えていただいて、ありがとうございました。

薩長同盟と久光
桐野
芳即正氏はご高齢にもかかわらず、研究心旺盛で感服します。

天璋院篤姫の入輿はドラマでは核心的な部分になりますから、あだやおろそかにできないと思います。原作を読んでいないのですが、出版時期から見て、どうも最新研究が反映されていない可能性が高いかもしれないですね。やや不安です。

ほかにも「薩長同盟~久光と西郷」という論考も面白そうです。これは薩長同盟締結に久光の関与や影響力がどの程度あったのかに焦点を当てたもので、従来、あまり顧みられなかった視点です。
近年、高橋秀直氏の研究などで、薩長同盟締結時期を遡らせようとする動きもあります。これも薩長両藩主父子の和解を根拠にするものですから、その延長線上で考えると、いわゆる薩長同盟締結(慶応2年正月)に久光の影響力を想定するのも、的はずれではないかもしれません。

講演も収録されているので、多少精粗がありますが、ご一読をお勧めします。


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本欄では政治ネタは書かないつもりでしたが、この新聞記事には驚きました。

日本もついにここまで来たかという感じです。
東京都の有権者の見識が問われそうです。

戦後レジームからの脱却とは、戦前戦中レジームへの回帰への道だと思わざるをえません。



【2007/05/08 01:10】 | 雑記
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うわぁ
かわい
 前々から痛い人だとは思っていましたが、こりゃまた痛烈ですね。

買いかぶりすぎでは?
hasu
自民党から出馬の予定とかならともかく、個人としての出馬表明がなぜ「戦前戦中レジームへの回帰への道」となるのでしょうか?もしかしたら当選ちゃうかも知れません。でもそれでも何百人の内のひとりです。それでも前回大統領選でルペンが決選投票に進んでしまったフランスと比べればただの泡沫候補でしょう。

同感です
パルティアホースカラー
確かに、「日本もついにここまで来たか」って感じですね。
また、「戦後レジームからの脱却」という言葉に新鮮な響きを感じている人もいるかもしれませんが、実際は「戦前戦中レジームへの回帰」を意味する可能性が高いことは留意されるべきだと思います。

まあそうなんですが……
桐野
hasuさん、どうも。

たしかに個人としての立候補なので、ご指摘もわかります。ただ、無所属で当選したのち、鞍替えすることも可能なわけで。とくに与野党伯仲状況なら、ありえない話ではありません。
もっとも、彼女が自民党から立候補したら、話は別かといえば、必ずしもレジーム云々といった大げさなことではないかもしれません。でも、近年の社会政治状況を示す象徴的な出来事ではあると思います。

何といいますか、レジームは別段上からの意志だけで変更されるわけではなく、むしろ上はレジームからの受益者のはずで、わが国の歴史ではレジーム変更の梃子は「内因」よりも「外圧」の影響が大きく、その時代の空気感のようなものと無関係ではないように思います。敗戦直後からしばらくは、まず考えられなかった現象がいまは起こるわけですから。
むろん、彼女が立候補するのは自由ですが、それを戦後民主主義の成熟だと達観できるほど、私は楽観主義にはなれないものですから(笑)。


松裕堂
どうも、リードオンリーばかりで御無沙汰しております松裕堂です。

件の人物が立候補を表明したことについて「日本もついにここまで来たか」という感想や「戦前戦中レジームへの回帰」と受け取られる向きがイマイチ私には良くわからないのですが、排他的主張の目立つ海外のドギツイ政党や政治家の例を見ていると、hasuさんが上で仰られているように、この人物について「買いかぶりすぎ」というか、大袈裟というか、警戒のしすぎという気はいたします。

>敗戦直後からしばらくは、まず考えられなかった現象がいまは起こる
率直に申しますと、戦後60年以上を経過しても「敗戦直後」(乃至「敗戦直後からしばらく」)に考えられた現象しか起こらないほうが、寧ろ不思議な気がしませんか。60年の期間で日本史を観た場合、政治史にしろ、文化史にしろ、相応・相当の変化は過去にも見られるわけですから況んや現代をや。

とりあえず、この人物が仮に参院選に当選したとしても、現在の政治体制(政治風土?)では当選回数と年齢がネックになって、現実問題たいした影響力は持てないと思うんですが、これも楽観的すぎますかね?

世相の変化
hasu
ども。たしかに単なる保守回帰ではない世相の変化を表わしているのかも知れません。ナチスだって最初は泡沫政党だったんだから時代の雰囲気を甘く見てはいけないのも確かでしょう(さすがに一緒にしては彼女に失礼だと思いますが)。とはいえ、戦後には岸信介はもとより、あの辻政信だって国会議員をやっていたわけで。
私としては彼女のようなご老人が居ても立っても居られず(?)出馬表明すること自体、彼女自身が自らの一票を託すに足ると考える若い世代の候補者を見つけられなかった証拠ではないかと考えるのですが。

老いの一徹?
桐野
私の関心と感慨は、彼女個人の力量や活動というより、彼女が立候補できるようになった時代の気分の変化のほうです。
むろん、60年前と現在とでは多くの点で変わっていないほうがおかしいわけで、それはいうまでもないでしょう。それでも、戦後体制への公然たる異議申し立てとしての出馬は間違いないところで、それを戦前戦中レジームの最高責任者の縁者が直接乗り出すわけでして。
岸信介、辻政信、あるいは板垣正の出馬とはまた違うエポックメイキングな意味合いがありそうですが……。


彼女の立候補表明は、時期的な問題として、「小倉侍従日記」「卜部侍従日記」が立て続けに公開されたことと無縁ではないと思います。個人的には、政権安定化のため(とくに対米、対中韓関係上)の安倍政権サイドからのリークではないかと憶測しておりますが。

それはともあれ、彼女の思いは何よりも祖父の雪冤にあるはず。それと背反する動きが水面下で政府筋や与党側で進行しているのではないかという不信感と危機感が根底にあるのではないでしょうか。
信頼できる若い世代がいないというのも一理ありそうですね。おそらく安倍政権には期待が大きかったと思いますが、この間の一連の事態で、それが失望に変わっているかもしれず、向背定かならぬ若い世代はもはやあてにならぬ、この際、自分が出た方がよい(ある程度支持が期待できるはず)という「老いの一徹」かもしれませんね。


蟻さん
仮に当選したとして、それが戦前レジームへの回帰になるんでしょうか?また軍国主義日本が復活する、というのは些か短絡的では。これまで共産主義者が毎回何人も当選してますが、日本は別に共産主義社会には向かっていません。それに、仮に彼女が当選したとしても、それ自体は否定すべきではない。それが民主主義というものでしょう。確かに空気は変わりましたが、従来の左翼天下の崩壊に伴う大きな流れの中の、一つのうねりとして表れたものに過ぎないでしょう。それに、よく十把一絡げに「戦前」と言いますが、昭和の初めの一時期をもって明治大正の歩みをも全否定するかのような捉え方には疑問を持ちます。


水戸っぽ
概ね蟻さん様に同感です。
何より「戦後体制への公然たる異議申し立てとしての出馬」は間違いないとか、「彼女の思いは何よりも祖父の雪冤にあるはず」とか決め付けるのは如何かと〔私自身は(関連する発言等のような)その具体的な証拠となるものを見聞・承知していないので。さらには彼女自身の「個人的・実存的」な思いと「政治的」主張が同じであるという証拠もありません〕。当該の記事にある彼女の主張は、天皇の靖国参拝は別として、東京裁判批判は広く人口に膾炙した議論だし(その「全否定」とまではいっていないし)、ましてや高齢者福祉の充実云々に至っては何ら問題のあるものではありません(笑)。
所詮戦争を知らない世代の戯言と評されるかもしれませんが、使い古された感のある「いつか来た道」論を反復するより、「時代の気分の変化」は(その良し悪しは別として)事実として否定しようのない前提と認めたうえで、それが生み出す危険性をいかに防ぐかという観点からの議論のほうが今の我が国を考えるうえでは必要なのではないでしょうか。と、声高に主張したところで場違いというか「ひとり生テレビ」状態になるのでこの辺で(笑)。

印象批評として
ほうけもん
「雪辱」なんぞが現代政治でも「戦前戦中レジーム」ですら時代遅れで問題外なのに、もっともらしい「福祉問題」をテーマに持ってくるあたり、「装飾政治家」風な感じがいたしますです。シニカル過ぎでしょうか?いずれにせよ「私益優先体質」が露骨ですよ、と言いたい。

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薩摩浄福寺党

先日、京都に行って、島津歳久ゆかりの浄福寺を訪れた。
訪問後、京都の友人から、幕末期、この寺に薩摩藩邸では収容しきれなかった藩士が一時期滞在して、書院の柱などに斬りつけた刀傷が残っていると聞いて、少し悔しい思いをした。

それがきっかけで、司馬遼太郎がこのいきさつを小説に書いていると知り、古書で購入。表題が書名になっているが、短編集で8編収められているうちのひとつ。

司馬遼太郎傑作シリーズ
書名:薩摩浄福寺党
版元:講談社
刊行年:1966年
定価:290円


この作品が実際に書かれたのは刊行年より少し前だろう。司馬遼太郎の初期の作品といえる。判形はB6版だが、定価が時代をよく表している。収録された短編は次の通り。

1,慶応長崎事件
2,薩摩浄福寺党
3,倉敷の若旦那
4,五条陣屋
5,おお、大砲
6、絢爛たる犬
7,壬生狂言の夜
8,侠客万助珍談


1はイカロス号事件の顛末。嫌疑をかけられた海援隊士の菅野覚兵衛と佐々木栄の話。
3は元治元年(1864)、倉敷の幕府代官所を襲撃した長州の第二奇兵隊の物語。
4と5は天誅組の話。7は新選組隊士松原忠司の話。
という具合で、だいたい幕末に題材をとったものが多い。

肝心の「薩摩浄福寺党」は、架空の薩摩藩士肝付又助というぼっけもんがはね上がって、新選組との些細な諍いで斬られて死ぬという話。~党となっているから、何か特別任務をもった集団かと思ったが、そうではなかった。思わせぶりなタイトルではある。
また、寺ゆかりの歳久の話は何も書かれていなかった。なぜ薩摩藩士が浄福寺を宿営地にしたのか。それは歳久との因縁しかないと思うのだが……。

それはともあれ、全体的に非常に軽妙で読みやすい。司馬遼太郎はむしろ短編の名手ではなかろうか。
国民的大作家だが、まだあまり知られていない初期の作品があるようだ。もっとも、私が不勉強で知らないだけかも知れないが(爆)。

【2007/05/07 20:33】 | 古書
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島津久治

古書購入。

島津男爵家編輯所著
島津長丸発行
1922年刊
総頁:76頁


島津久治(1841~72)の略歴は過不足なく描かれているが、期待した文書類はほとんどなかったのが残念である。

久治は久光の二男で、一門家の宮之城家を継いだ。宮之城家は、戦国期の太守、島津義久の従弟にあたる島津図書頭忠長(ただたけ)から始まる家である。石高は幕末期で15.763石。堂々たる万石持ちの分家。

ちなみに、久治の通称は図書というが、これは先祖忠長が図書頭だったことにちなむ。久治に限らず、歴代当主はみな図書と名乗っている。
ただし、忠長は「~頭」だが、それ以降は「~頭」が付かない。なぜかといえば、江戸時代、図書頭などの官途や~守などの受領名(国司名)は諸大夫成(五位)以上の官位をもつ者しか名乗れなくなったから。主に大名と上位役職をもつ旗本だけの特権になった。島津家では、本家当主と世子、それに分家の佐土原家の当主と世子しか名乗れなかったのである。

たとえば、久光も重富島津家の当主だった頃は周防とか和泉という国名こそ名乗ったものの、~守の受領名は名乗れなかった。久治も同様で、~頭のない図書だけになったのである。

久治の業績としては、薩英戦争のとき、兄藩主茂久の陣代として総指揮をとったこと。また禁門の変のときも、薩摩藩の指揮をとっている。禁裏警衛の総大将が久治で、天龍寺駐屯の総大将が実弟の島津備後(珍彦、重富島津家当主)だった。
慶応2年(1866)には筆頭家老となって、藩政を取り仕切ったが、政治的には討幕反対派だったために、明治維新後、薩摩藩主流から遠ざけられる。とくに明治2年(1869)の藩政改革のとき、川村純義・伊集院兼寛ら戊辰戦争帰りの城下士グループから門閥保守派の首魁として激しく攻撃され、家老辞職のやむなきにいたった。
それからほどなく、32歳の若さで他界する。発行者の島津長丸は久治嫡男である。
晩年、鹿児島にオランダ人スケップル、フランス人クープスを招いて、英仏語の教育を熱心に行ったという。

口絵に、久治が元治元年(1864)12月、長崎で撮影した写真が掲載されている。椅子に座って斜め右を向いている。紋付きの肩には丸十の家紋が見える。精悍で利かん気の強そうな感じの殿様である。
これは久治が薩英戦争後の薩英の講和修交のため、長崎碇泊の英国軍艦を表敬訪問したときに撮影したものだろう。写真師はやはり上野彦馬だろうか。

【2007/05/06 18:36】 | 古書
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言葉
小池
薩摩藩の殿様や上級武士たちも薩摩弁だったのでしょうか、織田信長も普段は岐阜あたりの方言をしゃべっていたのでしょうか、つまらない疑問で申し訳ありません

言葉
桐野
小池さん、どうも。

江戸時代は大名が江戸に幕府から藩邸を与えられ、留守居役を置き、世襲する江戸詰め家臣も出てくるようになったので、地方の藩士も江戸に行けば、留守居や江戸詰め家臣の世話で何とかなりました。藩主や藩主世子は江戸と国許に交互に住みましたから、江戸弁はものにしていたと見ていいでしょう。

島津久光については、文久2年(1862)のいわゆる率兵上京に際して、西郷との間で面白い逸話がありますね。
西郷は、久光に面と向かって「久光公は地五郎(田舎者)だから」と言い放ったといわれます。
久光は島津家一門ながら、庶子のため、ずっと国許在住を義務づけられていたので、江戸や京都に行ったことがありませんでした。西郷の「地五郎」発言は、京都や江戸で周旋をやるには、まず言葉が基本条件なのに、久光はそれができないではないかとダメ出ししたわけです。
そこには、島津斉彬の側近として江戸住まいが長く、京都でも近衛家はじめ公家方に周旋活動をした西郷の久光に対する優越感がにじみ出ています。
ですから、久光は江戸弁も京都弁もダメだったのでしょう。西郷は江戸弁をある程度使いこなし、京都弁も理解できたと思われます。

江戸時代は江戸・京都と地方の人的交流が相当盛んになっていますから、言葉も江戸弁を「標準語」にする均質化の傾向はあったかもしれませんね。

さて、信長の時代はどうでしょうかね。日常生活は尾張弁だったかもしれませんが、信長は天皇や摂関家など公家衆とも交流していますから、京都弁というか、公家言葉は相当理解できたのではないでしょうか。


板倉丈浩
こんばんは。
私は言語学は詳しくないのですが(汗)、現在のような方言は江戸時代に成立したもののようで(例えば薩摩弁は機密漏洩を防止するためにワザと難解にしたという伝説があります)、戦国時代までは広く「中世語」が話されていたようですね。

当時来日していた宣教師の記した『日葡辞書』や『日本大文典』などを見ると、確かに「京へ筑紫に坂東さ」のような違いはあったようですが、方言とされている事例の大半は名詞で、我々がイメージするような方言差は無かったようです。

江戸時代については、例えば武家社会に関して言えば、重要な伝達事項は全て文書によって行われており(江戸時代以前は文語と口語は全く違っていた)、通常は礼儀作法を身につけ、あいさつとか天気の話題(笑)が出来れば事足りたのではないかと思います。
ただ、和漢問わず教養があれば、文化人として諸国の人と交流できるので、慣習的に成立した「武家共通語(江戸語)」の習得にはそれなりに有利だったようです。
教養がそれほどない人の場合、方言差を克服するために謡曲の言葉を使う、といったことも行われていたようです。


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「さつま人国誌」第4回(4月28日朝刊掲載分)
大久保邸の隣にあった!?

石薬師中筋

大久保利通旧邸の石碑(右端)の先に見える辻が石薬師中筋

 前回、薩長同盟が結ばれた小松帯刀邸の所在地を推定してみた。
 それでは、幕末薩摩の三傑のうち残りの二人、西郷隆盛と大久保利通の京都での邸宅はどこにあったのか当然気になる。
 このうち、大久保邸の所在地はよく知られており、現在も「大久保利通旧邸」と刻まれた石碑が立っている(現・京都市上京区石薬師通寺町東入ル)。大久保がここに住んだのは、薩長同盟締結直後の慶応二(一八六六)年春頃から明治二(一八六九)年春までのおよそ三年間である。勝田孫弥「甲東逸話」によれば、広さは三十坪ほどと狭かった。大久保はまた邸宅の南隣に一軒家を借りて、洛中に出入り禁止となっていた長州藩士の広沢真臣・品川弥二郎・福田侠平などをひそかに住まわせていたという。
 気になるのは西郷邸である。西郷は一体どこに住んでいたのだろうか。
 桐野利秋(当時、中村半次郎)の日記「京在日記」によれば、桐野は「西郷宿所」に何度も出入りしており、そこには品川弥二郎や土佐藩の中岡慎太郎など他藩士も尋ねてきていることがわかるが、残念ながらどこにあったかは書いてない。
 じつは、その手がかりがある。大久保利通の三男利武氏の手になる「利武聞書」に地元の古老から聞いた興味深い話がある。
「西郷南洲翁も一時石薬師中筋の中熊(薩邸出入の料亭)の二階に居られたこともある」
 何と、西郷も大久保邸のある石薬師付近に住んでいたというのである。
 この場所がどこなのか気になって、現地を調べたことがある。石薬師通は京都御所(現・京都御苑)の北東にある石薬師門からつづく東西の通りである。そして「中筋」は石薬師通りと交差する南北の通りだとわかった。
 この辻が「石薬師中筋」であることは間違いない。この辻の四隅のどれかにあったと思われる「中熊」という料亭の二階に西郷が住んでいたのか。しかも、この辻は大久保邸の石碑から東にわずか二十メートルほどしか離れていないのである。つまり、西郷邸と大久保邸はほとんど隣同士になる。
 さあ、これで一件落着かと思ったが、よく考えるとおかしい。大久保は一軒家に住んでいるのに、西郷は料亭の二階に間借りしているではないか。この違いはなんだろう。
 その疑問を裏づけるように、『甲東逸話』で、大山巌(のち元帥、西郷のいとこ)が「維新前西郷は、相国寺の門前に一家を構へていた」と回想しているのに気づいた。
 解決したと思ったら、新たな疑問が生じてしまった。西郷邸は果たしてどこにあったのか。次回もう一度考えたい。 (歴史作家)

【2007/05/04 15:35】 | さつま人国誌
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週刊司馬遼太郎Ⅱ

表題の本を、週刊朝日編集部の村井さんからご恵贈いただいた。感謝。

このシリーズの2冊目である。
今回は「関ヶ原」「梟の城」「世に棲む日日」「峠」の4作品を取り上げてあるようだ。
前回もそうだったが、今回も写真と絵が美しい。
写真は小林修さんというカメラマンだ。今後も注目しておきたい。

まだざっとしか読んでいないが、「世に棲む日日」には、地元である周南市のマツノ書店店主の松村久さんが写真付きで登場していた。松村さんの愛車は「松陰号」というそうだ(笑)。

それと感慨深かったのは、長岡市にとうとう河井継之助記念館が出来たことである。昨年暮れオープンのようだ。県境を越えた只見町が継之助終焉の地なので、ここには記念館があったが、これまで長岡にはなかった。
「とうとう」というのは、継之助について、地元では賛否両論、いや批判論のほうが強かったから。何せ、北越戦争で長岡はほとんど丸焼けになってしまったから、開戦を決意した継之助への風当たりが強かった。
いずれにせよ、地元が歴史と向き合っていることは大事だと思う。
もっとも、米百俵の話もすっかり忘れられてしまったなあ(笑)。

翻って考えれば、鹿児島も西南戦争でたくさんの人間が死に、多くの町が焼けた。鹿児島だけでなく、関係ない熊本や宮崎の町まで焼いた。
その責任を問う声はあまり鹿児島からは聞こえてこない。継之助のいくさが私戦なら、西郷のいくさも私戦だと思うが……。

【2007/05/02 23:48】 | 新刊
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三条実美

三条実美の墓石

昨日、晴天に誘われて、有志の方々と史跡散策をした。

護国寺や雑司ヶ谷霊園あたりを探索した。
護国寺は小堀遠州忌を行っており、またチベット仏教との交流イベントもやっていた。チベットの若い僧侶たちが砂マンダラを作っていたりしていた。

護国寺で探した主な墓所は、

山県有朋、大隈重信、田中光顕、三条実美、山田顕義、大倉喜八郎、坂田三吉、下田歌子など。
坂田三吉

村田英雄の「王将」で有名な将棋指し坂田三吉の座像

雑司ヶ谷霊園で回った主な墓所は、

中浜万次郎(ジョン万)、夏目漱石、千葉定吉・重太郎、落合直澄(落合直亮の養嗣子で歌人)、小栗忠順、加藤弘之、東條英機、永井荷風、岩瀬忠震、小泉八雲、泉鏡花、大川橋蔵など。

その後、入谷の鬼子母神に詣でた。

今回の史跡めぐりでの疑問は表題にあるように、三条実美の官職についてだった。墓石には、次のように刻んであった。

内大臣正一位大勲位三条公之墓

内大臣という官職と、実名が刻んでなかったために、最初、実美の父、実萬(さねつむ)かと思った。実萬も内大臣に任官していたからである。
それに、実美なら、太政官の最高の官である太政大臣に補任されているから、こちらの官職を冠するはずだと思ったからである。

でも、実美の墓であるのは間違いなかった。また明治18年(1885)、実美が太政大臣から内大臣に転じていることも顕彰碑に書かれていた。つまり、最終官職が内大臣だから、それを墓石に刻んだのだろうと一応納得した。

でも、それで私の疑問がすべて氷解しなかった。おそらく明治になって、太政官制度が変形を強いられ、実美の内大臣も太政官制におけるそれではない、おそらく昭和期に牧野伸顕や木戸幸一がつとめた天皇側近としての内大臣と同じものだろうと推測するにとどめた。

帰ってから調べてみると、やはり太政官制における太政大臣は明治18年の太政官制の廃止と内閣制度の創設に伴い、廃官となっていた。実美が内大臣に転じたのはそのためだった。内大臣は宮中に設置され、天皇を常侍補弼する任にあたると定められた。
もっとも、太政官制の廃止とともに、その最上位に位置した実美を遇する必要に迫られて(つまり、実美を首相にするわけにはいかないから)、特別に設けられたという性格が濃厚だった。実美には、藩閥諸勢力と宮中諸勢力との調整役を期待されたという。
その後、内大臣が新首相任命に元勲とともに深く関与するようになったのは周知のとおり。実美が任官したときとくらべて、内大臣の性格も変容したようである。
実美の墓碑からそんなことを考えた一日だった。


【2007/05/01 19:54】 | 幕末維新
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