
三条実美の墓石
昨日、晴天に誘われて、有志の方々と史跡散策をした。
護国寺や雑司ヶ谷霊園あたりを探索した。
護国寺は小堀遠州忌を行っており、またチベット仏教との交流イベントもやっていた。チベットの若い僧侶たちが砂マンダラを作っていたりしていた。
護国寺で探した主な墓所は、
山県有朋、大隈重信、田中光顕、三条実美、山田顕義、大倉喜八郎、坂田三吉、下田歌子など。
村田英雄の「王将」で有名な将棋指し坂田三吉の座像
雑司ヶ谷霊園で回った主な墓所は、
中浜万次郎(ジョン万)、夏目漱石、千葉定吉・重太郎、落合直澄(落合直亮の養嗣子で歌人)、小栗忠順、加藤弘之、東條英機、永井荷風、岩瀬忠震、小泉八雲、泉鏡花、大川橋蔵など。その後、入谷の鬼子母神に詣でた。
今回の史跡めぐりでの疑問は表題にあるように、三条実美の官職についてだった。墓石には、次のように刻んであった。
内大臣正一位大勲位三条公之墓内大臣という官職と、実名が刻んでなかったために、最初、実美の父、実萬(さねつむ)かと思った。実萬も内大臣に任官していたからである。
それに、実美なら、太政官の最高の官である太政大臣に補任されているから、こちらの官職を冠するはずだと思ったからである。
でも、実美の墓であるのは間違いなかった。また明治18年(1885)、実美が太政大臣から内大臣に転じていることも顕彰碑に書かれていた。つまり、最終官職が内大臣だから、それを墓石に刻んだのだろうと一応納得した。
でも、それで私の疑問がすべて氷解しなかった。おそらく明治になって、太政官制度が変形を強いられ、実美の内大臣も太政官制におけるそれではない、おそらく昭和期に牧野伸顕や木戸幸一がつとめた天皇側近としての内大臣と同じものだろうと推測するにとどめた。
帰ってから調べてみると、やはり太政官制における太政大臣は明治18年の太政官制の廃止と内閣制度の創設に伴い、廃官となっていた。実美が内大臣に転じたのはそのためだった。内大臣は宮中に設置され、天皇を常侍補弼する任にあたると定められた。
もっとも、太政官制の廃止とともに、その最上位に位置した実美を遇する必要に迫られて(つまり、実美を首相にするわけにはいかないから)、特別に設けられたという性格が濃厚だった。実美には、藩閥諸勢力と宮中諸勢力との調整役を期待されたという。
その後、内大臣が新首相任命に元勲とともに深く関与するようになったのは周知のとおり。実美が任官したときとくらべて、内大臣の性格も変容したようである。
実美の墓碑からそんなことを考えた一日だった。