古文書講座「てらこや」第4回。
一昨日にあったが、ようやく今日書いている。
諸事多忙で更新できず申しわけありません。
寺村左膳日記の慶応3年(1867)11月分を一気に読む。このところ、1回で半月か20日前後のペースだったから、かなり駆け足だ。
しかも、大きな事件や、左膳が国許から上京することもあって、分量が多い。おそらく、いつもの2倍以上を読んだに違いない。その分、解説や注釈が足りなかったと思うが、致し方ない。
というのも、左膳の日記は同年12月まであるが、あと1回ですべてを終わらせないといけないからだ。次回の最終回も駆け足になるだろう。しかも、王政復古政変がある……。
日記の読みと注釈だけで、1時間10分ほどかかってしまい、予定していた討幕の密勅も流すだけ。
でも、討幕の密勅が薩長だけでなく、芸土にも下される予定になっていたことだけはどうしても伝えたかったので、少し解説する。
またその背景に、討幕派公家集団の形成があり、密勅作成には、彼らの主導権が大きかったことを伝えたかった。通説のように、薩摩の主導権によるものではないと言いたかったのである。
そして、今回のメインテーマだった近江屋事件に割ける時間は、20分程度しかなくなった。
焦りながら、日記以外の史料を解説する。とくに桐野利秋の「京在日記」と、大久保利通・岩倉具視の往復書簡を読み比べながら、薩土間で、新選組が犯人だと確信するに至るプロセスを解説した。
とくに、新選組犯人説が浮上したのはいつからか、どの筋から出てきた情報かを見ていった。
左膳の日記には事件当日(11月15日)の条に「
多分新撰組等之業なるべしとの報知也」と書かれているが、日記本文から一段下げの後筆分に書かれていることから、信ずるに足りない。
越前藩の『丁卯日記』には、事件翌日の16日、土佐藩参政の福岡藤次が松平春嶽に呼び出されたとき、「
相手は恐らくは新選組中ならんとの事」と語っている。土佐藩側では、事件翌日には早くも新選組の仕業だという感触をもっていたようだ。
それとは別に岩倉具視と大久保利通の往復書簡では、事件翌日の16日、岩倉が大久保に宛てて、「
会暴奇策も有之」とか「
全く幕闇殺之策ニ決し申候事」と書いており、幕府か会津筋の仕業であると推測している。
それを受けた大久保も翌17日には「
新撰組云々之一条」を岩倉から承ったと書いていることから、同日か前日に、さらに岩倉から新選組犯行説が大久保に伝わっているようだ。
また、大久保は岩倉宛ての書簡のなかで、坂本・中岡の死に対して「
遺憾」の意を表明している。残念とか気の毒という意味である。一般に龍馬とは疎遠だったとされている大久保も二人の死を悼んでいるのである。このことはあまり知られていないようなので、強調しておきたい。
いずれにせよ、事件直後から、土佐、薩摩、岩倉あたりでは新選組の仕業だと心証を強めていたことがうかがえる。そして、『京在日記』にあるように、19日に高台寺党の生き残りが二本松の薩摩藩邸に逃げ込み、それを桐野らが伏見藩邸に移動させ、21日、土佐藩小目付の毛利恭助・谷守部の立会の下、尋問したことで、新選組犯行説は疑念から確信へと変わっていく。
一応、そうしたプロセスを理解していただけたのではないかと思っている。
新選組にとっては、迷惑な冤罪であり、近藤もそのために悲惨な最期を遂げることになった。
しかし、一面では新選組にとっても、自業自得だったといえるかもしれない。近江屋事件から3日後の18日、新選組は七条油小路で伊東甲子太郎を暗殺し、さらに駆けつけた高台寺党の連中も何人か待ち伏せして殺害した。
明らかに、闇討ち、暴殺である。ただでさえ、薩土に疑われているなか、新たに大規模な闇討ち事件を起こしたのだから、状況証拠的には心証は真っ黒になる。近藤はそれに気づかなかったのだろうか。
辛うじて逃走した高台寺党の生き残りが薩摩藩に庇護され、新選組の原田左之助の仕業だと証言する。
まさに近藤と新選組は、高台寺党の生き残りに報復、復讐されたのだ。
大久保が岩倉に宛てた書簡のなかで、新選組を「
近日来、暴を働き候由、第一近藤勇が所為と察せらる」と非難し、「
実に自滅を招く表れ」と喝破したが、まさにその通りになったともいえる。
結局、予定時間を30分近くも超過した。近江屋事件を45分程度まとまって話せたので、最低限度の責務は果たせたかなと思っている。
さて、次回は今期の最終回である。
王政復古政変がメインになる。また左膳の去就も意外な方向に転回する。そのあたりをお楽しみに>受講者の方々。
なお、今期で寺村左膳日記は終了し、次期からは新しいシリーズを始めます。
テーマは次の通り。
「大河ドラマ「篤姫」の見方」関心があって、時間とお金に少し余裕のある方は参加をご検討下さい。