膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
南日本新聞連載コラム「さつま人国誌」第14回
―毒殺? 急病? 死因は謎―

右下のリンク欄からご覧になれます。

島津家久についての3回目の拙稿です。
今回は家久にまつわる最大の謎、「毒殺」一件について書いてみました。
もっとも、すっきりした結論が出たわけではありません。今後に残る検討課題だと思います。
とくに、島津義久が家久に宛てた書状の解釈がひとつのポイントになると思っております。そのうち、少し詳しく検討したいので、ご意見も賜れば幸いです。
 
図録島津義弘

鹿児島県姶良町(あいらちょう)の歴史民俗資料館が昨年、開館20周年記念の特別展を開催したときに作成された図録である。

姶良町には帖佐という地名がある。
文禄年間からしばらく島津義弘の居城だったところである。
兄龍伯(義久)が女婿忠恒に家督を譲ったのに伴い、義弘に鹿児島の内城を明け渡して、大隅の富隈に隠居することになる。
当時、義弘は栗野城を居城としていたが、島津家太守の居城たる内城に入れば、兄を追い払って後釜におさまるという印象を与えるのを避けて、「中宿」して、帖佐に留まった。その代わりに内城には三男忠恒を入れることで龍伯の了解を得る。

姶良町としては、義弘ゆかりの地として、帖佐を忘れてもらっては困るということで企画したものだろう。

この図録を見て、一番印象に残っているのは、図版、とくに2次にわたる高城合戦の絵図2種である。縮尺・距離・方位などが非常に正確な絵図である。両軍(島津VS大友、島津VS豊臣)の配置がよくわかるし、高城の縄張や陣城が非常にリアルで精細に描かれている。
所蔵先は日南市教育委員会だが、ここには飫肥がある。飫肥といえば、豊臣期から幕末まで伊東氏の所領だったところ。伊東氏は2次の高城合戦に参戦しているだけに、その関係者の手になるものだろうか。

図録のメインは、やはり義弘文書とその関係文書である。
国宝の島津家文書だけでなく、加治木島津家文書や加治木町郷土館所蔵文書まで50点以上の文書が写真版付きで収録されている。しかも、関ヶ原合戦前後のものが多い。同館渾身の企画だといえるだろう。
また「於岩釼御合戦之刻之事」という加治木町の新納家の記録も掲載されている。たしか『旧記雑録後編』でも見たことがある史料だ。

執筆者も豪華である。
三木靖氏「島津義弘の生涯」という解説を執筆しているほか、次の3人の論文も収録されている。

山本博文氏「島津義弘の賭け」
島津修久氏「島津義弘公と茶の湯について」
五味克夫氏「島津義弘の書状」


すべてを紹介しきれないが、とても豪華な図録である。
お値段もお手頃の1.500円(+送料)である。
詳しくは冒頭の同館サイトに問い合わせして下さい。
小為替(送料は切手可)でも注文できました。
 
幕末の近江屋事件に名を残す近江屋井口家の当主新助氏の訃報をご遺族からいただいた。訃報は少し前から存じ上げていたが、改めて正式の書面でいただいた。

90歳を超されていたから、大往生といえるかもしれないが、一抹の寂しさが拭いきれない。

というのも、昨年春、とある座談会で対面がかない、親しく謦咳に接したからである。
杖をついておられたが、大変お元気で、近江屋の歴史について、いろいろ語っていただいた。

また、個人的にも大変お世話になっている。
昨年、歴史読本誌に発表した拙稿「龍馬遭難事件の新視角--海援隊士佐々木多門書状の再検討」の連載にあたって、井口家ご所蔵の佐々木多門書簡の閲覧・使用と写真掲載をお願いしたところ、快諾していただいた。また海援隊士白峯駿馬などの写真掲載も合わせてご許可いただいた。
拙稿をお送りしたら、ご丁寧な礼状をいただいたことも忘れられない。

昨年の上記座談会がひとしきり終わったのち、私が薩摩産だと話したためか、「ちょっと」と声をかけられ、「私の京都二中時代の話だが……」と切り出された。

「担任が末富東作という華奢な先生だったんだが、小説家志望で、懸賞小説によく応募していて、とうとうサンデー毎日か何かの懸賞小説に入選して、しばらくしたら先生を辞めて上京してしまわれたよ」

迂闊にも最初何の話かわからなかった。すると、

「ほら、鹿児島の海音寺さん……」

そう説明されてようやく思いあたった。奇遇なことに、井口さんの担任が、かの海音寺潮五郎の若き姿だったのである。海音寺氏は私の郷里の隣、大口市の出身である。

井口さんが私のためにとせっかく切り出されたのに、それに応えきれなかったのが悔しかったが、井口さんは「不勉強な若僧め」という感じで、にこにこ笑っておられたのをよく覚えている。

あとで調べたら、海音寺潮五郎が京都府立二中の教師をしていた時期は、1928〜34年(昭和3〜9年)だった。むろん、井口さんの中学時代とぴったり符合する。

1年前はあんなにお元気だったのにと残念でならない。じつは、今年もう一度お話をうかがおうという計画もあったらしいのだが……。
今度上洛する機会があったら、墓参したいものである。合掌。

 
月末30日の武蔵野大学講座のレジュメがようやく完成。
また力を入れすぎたかもしれない(笑)。
今回のテーマは、

天璋院篤姫と幕末薩摩藩について

主催者からの連絡によれば、定員上限までほぼ達した様子。
昨年の2倍の受講者ということになる。
こりゃ、大変だ。
関心のある方は上記の大学名をクリックして下さい。

一方、小学館「てらこや」は今期のテーマは

大河ドラマ「篤姫」の見方

だが、7月からの講座(初回は7/10)も会場のキャパぎりぎりの盛況で、これまでにない受講者数である。

何やかやといっても、大河さまさまなのかもしれない。



 
歴読8月号

表題の本が発売になった。
詳しくはここへ。目次が見られます。

同誌は先月号から文庫サイズの別冊を付けている。
今回は『「信長記」の大研究』と題して、友人の信長研究者である和田裕弘氏と小生との共著である。
『信長記』は多くの伝本があり、それを語るのはとても難しい。
歴読別冊

今回は、和田氏が複雑な『信長記』世界の俯瞰を試みている。とくに、首巻を有する伝本、たとえば陽明文庫本や改訂史籍集覧本(我自刊我本)などの成立時期や経緯を探る意味で、斎藤義龍が信長暗殺のために放った刺客、青木加賀右衛門の名前の有無が手がかりになると指摘している。これまで語られなかった視点であり、注目される。

小生は各論を担当した。桶狭間合戦、長篠合戦、信康事件、本能寺の変など、重要事件に再検討を迫るような問題提起も一部したつもりである。とくに、天理大学本を中心に桶狭間合戦をかなり詳しく検討してみた。
また尊経閣文庫(加賀藩前田家)が所蔵する伝本のひとつがとても変わっているので紹介してみた。とくに本能寺の変以降の出来事、備中高松城の水攻め、清水宗治の自害、秀吉と毛利の和睦、山崎合戦、光秀の最期などが詳しく記載されている。
筆致が本格的な漢文に近く、太田牛一のそれとは異なる。また、牛一の別著『大かうさまくんきのうち』(太閤さま軍記のうち)からの引用もあることから、いくつかの著作から抜き出して追筆したのでないかと思われる。

この別冊とは別に、本誌のほうには次の記事を書いている。

新発見! 「本能寺の変」三日前の光秀書状

これは、拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)でも紹介した光秀文書だが、紙数の関係で年次の考証を端折ったため、この記事で改めて検討したもの。

今号は「書き換えられた戦国合戦の謎」という特集もあります。
興味のある方はお買い求め下さい。
 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第12回
―軍法戦術の妙で敵討つ―

右下のリンク欄からアクセスすればご覧になれます。

このテーマは上下2回でやるつもりだったが、分量が多くて収まりきれず、上中下の3回とあいなる。
「知られざる〜」と銘打っている以上、その点を書いたというのが今回の趣旨。

そのため、「毒殺」一件は次週回しとなった。ご了承下さい。
なお、「毒殺」一件については、新たな解釈を加えてみました。家久の死の直前、義久が家久に書状を出しています。その内容がなかなか判読しがたかったのですが、こう読むのではないかと思って提示してみました。
お楽しみに。
 
本日、小雨のなか、終日外出。

資料調べ1件、打ち合わせ3件。

某経済誌より「裏切りの関ヶ原」というテーマでの執筆依頼があり、担当編集者と打ち合わせ。
畑違いにもかかわらず、拙著『真説関ヶ原合戦』をよく読み込んでいてくれたのに少し驚く。意気に感じるタイプなのと、元編集者の血が騒いで、自分の担当だけでなく、コンセプトについてもあれこれ口出しする。
いい方向でまとまればいいが。

その後、『信長記』について、研究関係者との顔合わせ、打ち合わせ。
何せ、全容をまだ把握できていない段階で、史料の撮影・複写などにも取りかかる必要があり、前途多難を思わせる。
打ち合わせのあと、軽く一杯。某研究機関の仕事ぶりや史料についての面白い話を聞く。
また、先日から通っている『上井覚兼日記』についても、テキスト面での貴重な情報をアドバイスされる。多謝。

関係者の一人から論文をいただく。多謝。
まったく専門外のテーマで、ざっと読んだだけだが、面白い。
足利義輝が九州探題職を大友氏に、奥州探題職を伊達氏に与えたことが意外と重要だと気づかされた。室町幕府体制の変質だとも。
義輝暗殺事件との関係もありそうだ。こんな見方もあるのかと教えてもらう。

帰る頃には小雨も已んでおり、スタバに傘を忘れてしまったことに気づき、途中から取りに戻る。粗忽粗忽。

そういえば、左側の「最近のコメント」欄。尾籠きわまりなし。自業自得だが、何とかならないか。浅猿浅猿。

 
本日、暑いなか、旧江戸城内郭、すなわち皇居東御苑に出かけた。

ある歴史紀行文の取材のためで、急ぐ必要はなかったのだが、篤姫関係もあって前倒しして急遽行くことにした。
陽ざしがかげり出す3時過ぎがいいだろうと思って行ったが、いやはや都心のど真ん中だから、暑い暑い。

じつをいうと、旧江戸城内郭に行くのはほとんど初めて。10年くらい前に一度行ったが、通り抜けただけで、ほとんど何も見なかった。

せっかくだからと、大手門から入城。
まず二の丸を見学。さっそく切り込みハギの枡形がお出迎え。立派な石垣である。雑木林を抜けて行くと、きれいな庭園があって驚く。菖蒲や紫陽花など、季節の花が咲いていた。
また、すべての都道府県木が植えられていて、宮崎県木のフェニックスまであったのに驚く。東京でフェニックスを見るとは思わなかった(写真参照)。
フェニックス

二の丸と本丸をつなぐ汐見坂を登る。坂の横にある白鳥濠の高石垣はおそらく現存する旧江戸城内で一番立派なのではないだろうか。

いよいよ天守台跡にたどり着いた(写真参照)。
明暦の大火で焼けて以来、この上には天守閣は作られなかった。上に登ると、風が吹き渡っているし、眺望もよく、とても気持ちがよい。
眼下に江戸城の本丸御殿跡が広大な芝生になっている。ここに大奥も、中奥(将軍執務室)も、表御殿もあったのだと思うと、感無量である。
ただ、案内板がやや不親切。できれば、大奥、中奥、表向の三区画を示すものがほしい気がする。
江戸城天守台

本丸内を散策する。
忠臣蔵で有名な松の廊下跡の碑もあった(写真参照)。
その場に立って、ここが吉良上野介が浅野内匠頭に斬りつけられた廊下のカギに曲がったあたりだとすると、白書院は向こうかとか、あっちが大広間かとか、想像をめぐらしてみる。
松の廊下

その後も三層の富士見櫓や白鳥濠の高石垣の上にある展望台から都心の景色を眺める。まわりは高層ビルだらけだ。

展望台から下りたところで、城内アナウンスが閉門を告げる。5時20分前だった。
同じ門から出るのは面白くなかったので、北側の平川門から出た。
水濠にかかる橋を渡ったところに、「太田道灌公追慕之碑」がひっそりと建っていた。太田道灌没後450年にあたる昭和11年(1936)に、ときの東京市長が建立したものらしい。何といっても、江戸城開基の人だから。

わずか2時間足らずの散策だったが、とても楽しかった。
考えてみれば、拙宅から地理的にもっともお手軽な城郭見学である。八王子城よりも近いかも。



 
昨日の大河ドラマ「風林火山」第24回。
表題の尾籠、失礼のほどを。今回のキーワードだったもので。

ガクト景虎が出るというので見たが、ほんの顔見せ程度だった。

真田幸隆(正確には幸綱)がいよいよ武田氏に帰属することを決める。
しかし、武田氏を一番の仇敵のように非難していたけど、これは村上義清も加わっていた戦いによるものだから、武田氏だけが悪し様に言われるのはおかしいし、地縁的な関係からは、むしろ村上氏が真田氏の宿敵ではないかと思うが……。

それはさておき、この脚本家は女性の心情を描くことが非常に下手だという印象を受ける(男性のそれもうまいわけではない)。
一時期の由布姫の錯乱と迷走もそうだし、今回の幸隆夫人の忍芽もそうだ。武田氏は父たちの宿敵だからと言っておきながら、その下の根も乾かぬうちに、兄が夫を裏切り者だと罵ると、一転して夫の味方をする。はあ〜という感じだ。
女性は山の天気のように変わりやすいとでも考えているのだろうか。少しは思考に整合性をもたせるか、心情の変化を何らかの形で視聴者に理解させる工夫をしてみたらどうかと思うが……。
女は意地と怨恨だけで生きるものという偏見でもあるのかねと思ってしまう。

さて、今回は勘助が鉄炮で負傷した一件で、よく馬糞が出てきた。晴信に鉄炮で負傷した感想を聞かれた勘助は馬糞の味がしたとまで引っ張った。

幸隆ゆかりの僧侶が勘助の傷の手当てをし、馬糞を溶いて呑ませたら治ったと豪語していた。馬糞で治療というのはあまりに唐突で、面食らった人も多いだろう。
でも、出典はすぐピンと来た。

『雑兵物語』(浅野長武監修、人物往来社、1968年)

である。
これには、いろんな種類の足軽や中間、小者といった武家奉公人の逸話が独特の口語文でたくさん載っている。
そのなかに負傷の手当てをどうしたかということも書かれている。たとえば、傷が疼く場合の対処法としては、

「疵ががいにうずくべいならば、おのれが小便をのみなされろ。やはらぎ申べい」

傷がズキズキ痛むなら、自分の小便を呑めば症状が和らぐというのである。一時期、自分の小水を呑む健康法も流行ったから、あながち非科学的でもあるまい(笑)。

また傷の手当てについて。とくに鉄炮傷と特定したわけではないが、次のように書かれている。

「がいに胴腹の疵から血がはしる。又、血が胴へ落るもんだぞ。あし毛馬の糞を水にたてゝくらへば、胴へおちた血が下りて、疵もはやくいゑるものだ。あし毛馬の血をのんでも、胴へ落た血がくだるといふぞ。去ながら馬の血はうぬがまゝにとられまい。くそをくらったがましだ」

大意をとると、
「胴や腹の負傷で出血が多かったり、内出血しているときには、葦毛馬の糞を水に溶いて喰らえば、内出血した血が滞留せずに降りて、傷が早く治るというものだ。葦毛馬の血を呑んでも同様の効果が得られるが、馬の血を得るには殺さないとできないから、糞のほうが簡単に入手できるのでこちらがましである」

ドラマのシーンはこの一節からヒントを得たのだと思う。

さて、由布姫が晴信に勘助や板垣信方のことをあれこれ告白したために、晴信の顔色が変わり、軍議の場でも、板垣に皮肉を言ったり、板垣の進言をあえて無視する挙に出た。
いかにも嫉妬心丸出しで、器量が小さい晴信にされている。
しかも、これは単発のエピソードではなくて、おそらく上田原での板垣の討死(おそらく憤死として描かれるだろう)の伏線であろうことは想像に難くない。

あるいは、由布姫の無意識のなかに(諏訪氏の怨念という)夜叉の顔が隠されており、それが期せずして、武田家中の反目や分裂をもたらすという、一種のたたり神として含意されていると思うのは穿ちすぎか。
 
今月末30日に武蔵野大学(武蔵野市)で開催される講座で講師をつとめることになっている(興味のある方はここをご覧下さい。まだ受講生募集中です)。

テーマが「天璋院篤姫と幕末薩摩藩について」というものだが、じつはまだほとんど準備していない。少し気になって、篤姫が将軍家定に嫁ぐ前に江戸の薩摩藩邸のうち、渋谷の藩邸に滞在していたので、その場所がどこなのか調べた。

この屋敷はいわゆる下屋敷という位置づけである(災害などの避難用)。入手した時期は安政年間初めだったか。江戸の薩摩藩邸は三田・高輪の両邸とも海の近くにある。黒船の来航によって、直接砲撃される危険があったので、斉彬が内陸部に新たに屋敷を求めたのが渋谷の藩邸である。
初め抱屋敷だとばかり思っていたが、下屋敷だとすれば、上屋敷を手放して交換して得たものか。
この藩邸で、斉彬が電信の実験をやったという記録が残っている。ここに篤姫も数カ月滞在したのである。

で、その所在地だが、江戸切絵図などを丹念に見たら判明した。
以前、国学院大学に勉強会で通っていたが、その途中にあることがわかった。19.000坪弱ある比較的大きい屋敷である。今度写真撮影にでも行きたいものだ。

講座のために、篤姫のネタをもう少し仕入れておかないといけないな。ほかの仕事も抱えて焦るばかりである。
 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第11回
―信長、光秀と京で出会う―

右下のリンク欄からご覧になれます。
今回から2回にわたり、島津家久を取り上げます。
1回目は、天正3年(1575)の家久の上京を『家久君上京日記』から紹介しました。とくに、信長と光秀との出会いが中心です。

次回は、秀吉との戦い、島津本宗家内での家久の立場などから、いわゆる「毒殺」の一件を考察したいと思います。
 
本日(15日)、W大学院の某ゼミに出席。
後北条氏研究で有名なK先生のゼミである。

勉強会仲間のW大院生の方から上井覚兼日記を読んでいると聞いて、ぜひ参加したいのだがとお願いしたところ、K先生に了解をとってくれた。
もっとも、K先生がなぜ上井覚兼をやる気になったのかはわからない。しかし、同日記を系統だって読んでいなかったから、いい機会だと思って参加することにした。

W大学のキャンパスで勉強するのは、10年くらい前に参加していた織豊期の公家勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』の輪読会以来だ。懐かしい。

ゼミは順番に担当者を決めて発表する形式。
担当範囲を読んで、大意、語句・人名などの注釈、さらに日記の記述と関連する史料(『旧記雑録後編』など)を添付して解説するというやり方だった。

読んでいる時期は、同日記上巻の天正2年(1574)8月条あたりである。
庄内の北郷氏と大隅の肝付氏の所領紛争が島津義久のところに持ち込まれ、守護としてこの問題をどのように処理するのかというところが焦点だった。
肝付一族出身である浄光明寺の住職、其阿西嶽が周旋に関わっており、その立場や役割がどのようなものだったかなど、議論が盛り上がった。
印象としては、伊東氏の勢力後退により、肝付氏の孤立が深まっているように感じられた。そのため、肝付氏は老臣の薬丸兼持をわざわざ鹿児島まで派遣して、この所領紛争を義久に解決してもらうことで、何とか窮地を脱しようと、老中や奏者の覚兼などに懸命の工作をしているように見えた。

浄光明寺といえば、現在は南洲神社で西郷はじめ西南戦争戦死者の墓所だよなと思いながら、みなさんの議論を聞いていた。

上記のような私見も述べたが、私はどうも史料から離れて議論する傾向が強く、あくまで史料にこだわるみなさんの研究態度に教えられることが多かった。みなさん、非常に熱心で、わずか数行のために1時間以上の議論がつづいた。
そのため、本日、進んだのはわずか1日分だけ(笑)。

ゼミ生はマスターとドクターの院生のみなさんがほとんどで、当然20代前半の若い人が多い。そんななか、私より年長か同世代かと思われる方が2人おいでだった。浮いていなくてよかったなと思う。何せ指導教官のK先生も私よりもだいぶ若いからなあ(爆)。

ともあれ、なかなか知的な刺激を受けた一時だった。
 
島津家文書

先日の歴研大会会場で予約していた本が届いた。
八木書店が「東京大学史料編纂所影印叢書」シリーズの第1巻として刊行したものである。詳しい解説はここに

国宝指定された島津家文書のなかでも、歴代亀鑑と宝鑑は白眉中の白眉といえる史料。その影印集、要するに写真版である。

両者の区別がつかないでいたが、歴代亀鑑は主に貴久以前の島津本宗家に伝来したもので、宝鑑は本来の本宗家だった総州家伝来のものや伊作家の史料によって構成されているとか。
その意味では、歴代亀鑑こそ島津家文書の本筋、本流だろう。

ちょっと残念だったのはカラー版かと思っていたら、モノクロだったこと。
歴代亀鑑や宝鑑は豪華な錦織の表装なので、ぜひカラーで見たかった気がする。いつぞや、東京国立博物館での展示をガラス越しに見ただけだったので。

もっとも、今回の撮影にあたっては新技術も使用されている。
文書によっては、紙背に1行程度の簡単な付文である端裏書が記されていた。たとえば、「しまつの三郎兵衛、ゑちせん」(島津の三郎兵衛、越前)という具合に、発給者が宛所を記したものや下文など文書の性格を示したものが多い。

歴代亀鑑や宝鑑は『大日本古文書』の島津家文書にも収録されて活字化されているが、この端裏書は表装してあるためにほとんど読みとれず、翻刻されていなかった。
今回、高解像度近赤外線デジタルカメラという新兵器でこれを撮影し、端裏書の部分をPCに取り込んで反転・強調などの画像処理をして、あたかも裏面から読んでいるように表示してある。
細かい点だが、従来知られていなかった情報がわかったことになる。
足利義昭御内書

主な発給者は、

源頼朝、北条義時、同泰時、安達泰盛、後醍醐天皇、足利尊氏、高師直、足利直義、足利義満、同義教、同義政、同義昭、織田信長、近衛前久など。

文書の様式もさまざまで、さしずめ古文書学の見本になるようなものばかりである。

下文、将軍家政所下文、関東下知状、関東御教書、綸旨、御判御教書、御内書、鎮西下知状、軍勢催促状、室町幕府奉行人連署状など

まあ、眺めているだけで楽しい本ではある。

 
串木野留学生渡航の地

鹿児島県串木野の英国留学生渡航の地

先日、慶応元年(1865)の英国留学生の一人、堀孝之のことを書いた。

すると、本日(13日)の南日本新聞サイトに、同じく英国留学生の長沢鼎(本名:磯永彦輔)のカリフォルニア州サンタ・ローザにあったブドウ園跡が公園として保存されることになったという記事が載っていた。ここです。
ブドウ園跡やワイン醸造所がまだ残っていたということ自体、驚きである。

長沢鼎は19名の留学生中、最年少の13歳だった。
英国からアメリカに渡った長沢は苦労の末、広大なブドウ園の開拓に成功し、「葡萄王」の異名をとり、「サクセスワイン」という銘柄のワインがアメリカやヨーロッパだけでなく、日本にも大量に輸入されて売れたという。
長沢は事業の成功で莫大な富を築いたが、生涯独身を通した。

死ぬまでに帰国したのは2回だけで、留学するときに藩主から与えられた変名の長沢鼎を生涯通した。没したのは1934年、83歳だった。

犬塚隆明『薩摩藩英国留学生』(中公新書)に面白いエピソードが紹介されている。
明治末年、島津家の当主、島津忠重(最後の薩摩藩主忠義の嫡男)が海軍の士官候補生として練習艦でサンフランシスコに寄港したとき、長沢は馬車を仕立てて忠重を迎え、サンタ・ローザの邸宅に招いた。そして門前で旧主に土下座したので、周囲のアメリカ人を驚かしたという。長沢は若かったため、すぐに欧米に適応したが、そのために、不完全な「藩意識」を残存させていたことが、彼にこのような行為をとらせたと、犬塚氏は指摘している。

長沢鼎生誕の地

長沢鼎生誕の地(鹿児島市上之園町)

カリフォルニアの葡萄王として著名な人物だったが、一面では忘れ去られていた人でもあった。しかし、ゆかりの遺跡があると、少しは身近に感じられるものである。もっとも、すぐ訪ねていくわけにもいかないので、とりあえず上記に生誕地跡の石碑を紹介しておく。
 
昨夜、古文書塾「てらこや」に出講。
5回講座の最終回である。

土佐藩重役寺村左膳の日記をずっと読んできたが、今期中に何としても終わらせるため、慶応3年(1867)12月分を一気に駆け足で読んだ。
途中、天満屋事件など重要事件があったのだが、王政復古政変に絞るために、断腸の思いで端折る。

でも、日記に注釈を加えながら12月晦日まで読み終えたときには、すでに1時間10分を過ぎていて、残りは20分だけ。これで王政復古政変を解説するのは無理……。

それでも、越前藩の「丁卯日記」を中心に、政変の経緯を読み解く。視座を大久保一蔵VS後藤象二郎に設定する。

兵庫開港期日である12月7日に合わせて、直近5日を政変決行日に定めた薩摩藩に対して、後藤が越前・尾張・紀州・芸州の支持を取りつけて、在京雄藩だけで平和裡の新政権樹立構想で対抗する。
すると、今度は大久保が後藤に政変決行日を意図的にリークして牽制する。政変決行が不可避と知った後藤は、越前の松平春嶽を通じて、この情報を徳川慶喜に流す。
それは政変阻止のためではなく、政変を決行させながら、慶喜の「反正」を強硬に迫り、新政権内での主導権確保を狙う薩摩藩の意図を挫こうという「薩遺算(違算か)失望」の策である。
そのためには、慶喜が幕府内の保守派や会津・桑名などの強硬派を押さえるのが前提だった。慶喜は阿吽の呼吸で、後藤の意図を察し、永井尚志や平山敬忠ら幕閣の要人を使って反対派を押さえつけるのに成功した。

まさに大久保と後藤が見かけは「雷同」して手を携えながら、裏では「同床異夢」「呉越同舟」で突入したのが王政復古政変である。
一方の慶喜の立場からみたら、まさに「やらせクーデタ」だった。

薩摩藩討幕派としては、慶喜の大政奉還により、討幕の密勅実行の大義名分を失い、宮廷クーデタという形に後退した政変になったが、何としても慶喜に打撃を与えて、KOは無理でも判定勝ちに持ち込みたいという意図が見え隠れする。
小御所会議で、辞官納地を強引に認めさせた大久保だったが、越前・尾張の周旋により、慶喜の議定就任や納地が懲罰的なものではなく、徳川家も諸藩も同等に一定の禄高を差し出すことによって新政権の財政基盤をつくるという決定を見て、むしろ、後藤が判定勝ちしそうな雲行きになった。

大坂に下っていた慶喜の上京も決定した。このままいけば、慶喜の復権が劇的になされるはずだったが……。

というところで、日記は終わる。
結局、予定の時間を30分近くオーバーして何とか解説を終えることができた。

日記全体を通してみると、日記の主、寺村左膳の進退もよく示されていた。もともと佐幕派だった寺村だが、政変決行に加担した後藤・福岡・神山のトリオへの不信感を露わにし、小御所会議代理出席を断って、ついに後藤らと決裂する。
これを機に、寺村は明治政府での栄達の道を断たれたといっても過言ではない。この日記は、寺村の「遺恨」や「痛憤」を書き綴った日記でもあることが最後に明らかになったように思えた。

あとで、受講生の方から「後藤は一人で頑張ったんですね」という感想をいただき、我が意を得たりという思いだった。
私がこの日記を読むにあたって、ひそかに設定していた裏テーマは後藤象二郎の復権だったからである。14回に及んだ講座のなかでも、折に触れて後藤に関する史料をたくさん紹介したつもりである。

次期は、次のテーマでやります。
開講日は7月10日(火)で、隔週火曜日の5回です。

大河ドラマ「篤姫」の見方

天璋院篤姫の出自はむろん、幕府と薩摩藩の関係を中心にしつつ、幕府政治のあり方が篤姫の入輿によって変化が生じたのか否か。大奥の実態なども含めて、幕末という時代を裏側から読んでいきたいと思っています。
関心があって時間とお金に少し余裕のある方はご検討下さい。
主催者はここです。ただ、まだ新講座はアップされていないようです。
 
本日(10日)、表題の学会が中央大学後楽園キャンパスで開催されたので、初めて参加。
昨日が初日だったが、本日の報告のほうが関心が高かったのと、友人の研究者、町田明広氏の報告があったので、それを楽しみに参加した。

町田氏の報告は朝いちのトップバッターだった。演題は次の通り。

幕末中央政局における「皇国復古」―島津久光率兵上京を中心として―

町田報告とは別に、小生も久光の率兵上京が朝主幕従の体制確立や幕政人事への外様雄藩の前代未聞の介入、副産物としての参勤交代の廃止など、従来の幕藩体制に風穴を開ける強引な横紙破りであり、その後の維新変革の端緒として評価すべきだと、前々から思っていたし、小文を書いたこともあった。
だから、非常に興味深く拝聴した。

町田報告の第一の特徴は「皇国復古」という言葉を大久保一蔵の文書などから発見して、それを勅命主導による国家体制「天皇親裁体制」実現のためのイデオロギーないしは大義名分だと位置づけたことである。
従来、当該期の国制に使用される「公武合体」という用語の曖昧性や多義性とくらべると、その意味や性格がわかりやすいと感じた。
(と同時に、同じ史料用語として「王政復古」との違いはあるのか否かがやや気にはなった)。

第二は、同じ「皇国復古」という言葉が、諸侯(久光)、朝廷・公家、尊攘系志士という三者の間で意味内容が異なり、その食い違いがそれぞれの政治路線や行動の違いとなって表面化し、寺田屋事件などの軋轢を生むメカニズムを明らかにしたことである。
同じ言葉を使っても、意味内容が異なるという、この時期特有の悲喜劇の背景がわかったような気がした。

ほかにも興味深い考察として、寺田屋事件の背景、とくに久光が上意討ちを急いだ理由が、長州藩と有馬新七らの薩摩藩内義挙派との結合の可能性に危機感を抱いたからではないかという視点が興味深かった。寺田屋事件の背景に薩長のせめぎ合いを見るというのはなかなか面白い。

個人的に少しわからなかった点としては、「天皇親政」と「天皇親裁体制」という用語の違いがあまり理解できなかったことである。
町田報告によれば、勅諚主導(朝主幕従)の体制、あるいは政令二途から一途への収斂という方向性における天皇の主導性を「天皇親裁体制」と規定していたように感じた。

一方、「天皇親政」は岩倉ら王政復古派公家が構想したもので、「天皇親裁体制」はあくまで一過程であり、最終的には「天皇親政」をめざすものするものの、その中味は不明というものだった。
それとは別に、尊攘系志士が構想した「天皇親政」とは、青蓮院宮(朝彦親王)を征夷大将軍として押し立て、国是を攘夷とし徳川将軍家を諸侯の列に落とすという具体的なものだった。これは後醍醐天皇の建武の新政をイメージしたと考えてよいのだろうか。

この岩倉構想と志士構想は結合する可能性はあったと町田報告は認めているが、両者の「天皇親政」の意味内容は同じなのか違うのか、よくわからなかった。
建武の新政方式のような「天皇親政」は可能なのかどうか、文久年間では実現性は薄く現実的ではないような気がするのが一点。もう一点は「天皇親政」が公武にまたがる権力概念ではなく、むしろ朝廷内の「関白―両役」体制の打破(幕府の影響力の排除)という朝廷内改革とでもいうべき限定的な意味合いをもっていた可能性はなかったのかなど、いろいろ憶測してしまった。

それはともあれ、幕末薩摩藩をフィールドにしている小生には、刺激的で興味深い内容だった。

ほかの報告は以下の3つ(敬称略)。

牧野雅司「明治維新と日朝関係の変質」
刑部芳則「栄典制度の形成と華族」
星野尚文「明治初年における藩邸処分問題の展開」


3報告とも面白かったが、とくに刑部報告はユニークだった。内容を伴いつつも、軽妙洒脱な語り口は、これまでの学会報告ではお目にかかったことがないほど個性的で、思わず引き込まれてしまった。
そのなかの史料で面白かったのは、討幕の密勅の署名者の一人で、自他ともに認める維新の功臣のはずの嵯峨実愛(正親町三条実愛)が伯爵止まりで侯爵になれなかったことに愚痴をこぼしていたこと。古文書講座「てらこや」でおなじみの人物だっただけに、その立場に「その気持ちはわかるよ」と思わず相づちを打ってしまった(笑)。

途中、すごい豪雨もあったが、意義深い一時だった。
会場で、「てらこや」の受講生で友人でもあるT氏と出会い、終了後も歓談して時間を忘れるほど楽しかった。
 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第10回
―秀吉を前に「神慮」迷走―

拙コラムが同紙サイトで更新されました。右下のリンク欄からたどっていけます。

本来、くじ取りが島津氏の分散的な大名権力を補完し、荘厳化する機能を担っていたわけですが、秀吉という未曾有の敵を前にして「神慮」も動揺せざるをえませんでした。
とくに、太守島津義久が家中の主戦論を抑制し、豊後侵攻の矛先を他に向けるために、「神慮」を強引に利用したことにより、「神慮」の権威を自ら引き下げることになります。

分量の関係でコラムに書けなかったことを補足しますと、伊集院忠真が挙兵した庄内の乱で、義久が女婿の忠恒にくじ取りをするよう諫言しますが、忠恒がそれを無視したため、義久は「まことに心もとない」とぼやいています。
すでにくじ取りの役目は終わっていたことがうかがえます。

さて、次回からは2回にわたって、島津家久を書こうと思っています。もちろん、中務大輔のほうです。とくに毒殺問題を取り上げるつもりです。乞うご期待。
 
堀達之助

久しぶりに古書紹介を。

表題の本、データはここです。
なお、著者の堀孝彦氏は達之助の4代目の孫だそうだ。倫理学や社会思想史の研究者である。

堀達之助といっても、あまり知られていないかもしれない。
長崎のオランダ通詞の家に生まれ、アメリカ捕鯨船員のマクドナルドから、わが国で初めて英語を学んだ。
ペリーが来航したとき、達之助は首席通詞として、ペリーの乗艦するサスケハナ号に向かって「I can speak Dutch」と叫んだという。
公式の外交の場で外国人と会話した最初の英語だといわれており、わが国の開国の象徴的なシーンでもある。

蕃書調所や開成所でも教授方に任ぜられ、わが国の英学界をリードした人物である。安政年間、冤罪で小伝馬町の牢獄に入っていたとき、吉田松陰とも交流があったという。

じつは、私が興味をもったのは達之助よりも、その二男の孝之のほうである。
孝之は安政年間、長崎で薩摩藩士の五代友厚の知遇を得た。それが彼の生涯を決定づける。
孝之は五代との縁がもとで、慶応元年(1865)、薩摩藩英国留学生の一員(英語通詞)としてヨーロッパに渡る。

この英国留学生派遣は、薩摩藩が海外に目を向ける大きなきっかけとなった。留学生だった五代友厚・森有礼・寺島宗則らの帰国後の活躍は有名である。

ところで、わが国の近代化や国際交流のさきがけとして、近年、英国留学生を称える「若き薩摩の群像」が鹿児島中央駅前に建立された。

その碑文には「藩士十七名の留学生」と書かれている。
しかし、実際に英国に渡った留学生は19名である。
2名が除外されている。それが元土佐藩士の高見弥一と堀孝之だった。2人とも薩摩藩士ではないという理由からである。
いやはや、昔も今も薩摩人は唯我独尊で狭量だと、県外人に言われるに違いないと落胆したものだ。
19名の前途有望な若者の雄飛を出身地で差別するとは、そもそもこの国際交流の精神にもとるのではないかという疑問は今も消えていない。

で、この本である。
堀孝之の履歴について、じつに興味深い史料が2点掲載されていた。

1,『町田久成略伝』
町田久成は英国留学生のリーダー格である。のち大目付。そのなかに、

「慶応元年藩命ニ依リ渡英密行留学生寺島(中略)、御船奉行見習通弁堀宗十郎(長崎人蘭学者堀辰之助ノ長子)」

孝之は壮十郎と名乗っていた。宗十郎は当て字だが孝之のこと。また二男なのに長子としているのは間違いである。
それはさておき、孝之の御船奉行見習というのは藩の役職に見える。その前提として、孝之はすでに留学直前に薩摩藩士に取り立てられていた可能性がある。

2,桂久武宛て堀壮十郎書簡(2月22日付)
孝之が薩摩藩家老の桂久武に宛てた書簡である。そのなかに次のような一節がある。

「私事、今般代々御小姓与被仰付、冥加至至極難有仕合奉存候」

孝之は御小姓与という家格を与えられ、非常に喜んでいる。御小姓与(おこしょうぐみ)とは、西郷や大久保と同じ城下士の家格(ただし、下から2番目の下級だが)である。つまり、堀はれっきとした薩摩藩士になっているのだ。
問題はこの書簡の年次である。著者は慶応元年ではないかと推定している。つまり、英国渡航前だ。
この書簡の宛所は「右衛門様」と桂の通称になっている。桂は明治になってから四郎と改名しているから、右衛門名乗りは四郎より前である。明治2年(1869)には版籍奉還があり、御小姓与など諸身分も解体されている。そうなると、この書簡の年次は慶応元年〜4年くらいに絞られる。このうち、慶応2年は桂が「天機伺」のため上洛中だから該当しないだろう。そうなると、慶応元年説はかなり可能性が高いのではないか。
藩当局は藩外人である堀を藩士身分にしてから留学させた可能性が高いといえないだろうか。
となると、もう一人の高見弥一も同様ではないか。

「若き薩摩の群像」に戻ろう。
堀孝之が留学直前に藩士になっていたとすれば、この銅像の「藩士」限定という条件からみても、堀が除外されたことは妥当だったといえるだろうか。同時に高見弥一についても再検討が必要ではないだろうか。
 
新聞報道によれば、被葬者不明とされた山科の西野山古墓がそうだという。
事実だとすれば、大きな発見だと思う。

ひとつ気になったのは、京都新聞の記事。
「73年には民間の郷土史研究の論文」ですでに発表されていたという。つまり、今回の調査の結論はオリジナルではないことになる。しかも30年以上前に同じ方法で推定したというのだから、この在野の論文発表者の業績がもっと評価されてもいいのではないか。せめて名前くらい出してもいいのでは。
「民間」と「大学」の違いが記事に反映しているのだろうか。

ちなみに、他の新聞にはその点が書かれていない。
 
昨日の大河ドラマ「風林火山」。
最近はあまり観ていないので、第何回かわかりません。

この間の勘助と由布姫のやりとりはうざったくて見る気も書く気も失せます。気持ちが猫の目のように変わるじゃじゃ馬姫ですなあ。
何度もいうように、その責の大半は脚本にあると思います。多少うまい演技をしたとて、脚本のお粗末さをカバーできません。

それはさておき、久しぶりに書く気になったのは、ちょっとした疑問から。

今川義元から北条氏康に宛てた起請文が登場した。
いかにもそれらしい牛王(玉)宝印(ごおうほういん)の料紙だった。もしかして本物? 熊野の牛王宝印紙だろうか? 東国だと戸隠山あたりも牛王宝印を出しているらしいが。

ただ表裏のどちら側に書いてあったか、よくわからなかった。
ふつうは、裏に書くはずだが……。
牛王宝印の料紙を翻してみせたから、一応、表裏の意味を知っているらしいが……。

で、問題は宛所。たしか、

北条氏康殿

と書いてあった。
これはいかんだろう。実名は避けないと。

北条左京大夫殿

と書くべきだろうに。
せっかく本物らしい牛王宝印紙を用いながら、ちょっと詰めが甘かったのではないか。時代考証の柴辻先生が見たら、すぐ指摘しただろうに。



 
昨日、歴史学研究会大会に参加した。会場は東大駒場キャンパス。この会は日本史関係で一番大きな学会である。

いつもは近世史部会に行くことが多いのだが、今回は中世史部会に参加。
研究会仲間の若い友人である川戸さんが運営委員として司会していた。頼もしい。最新の論文もいただいた。拙ブログでも教えていただいたことをさらに詳しくまとめている。有難うございます。

統一テーマは「在地領主の組織編成と機能」。

報告は2本(敬称略)。

田中大喜「在地領主結合の複合的展開と公武権力」

菊池浩幸「室町・戦国期在地領主のイエと地域社会・国家」


まったくの門外漢なので、あくまで印象批評として。

田中報告で興味深かったのは、交通・流通あるいは金融の中心である町場を介して、在地領主たちの一揆結合が結ばれるという点。町場が領主たちの共同利害の舞台であることがわかった。
あと、惣領と家督の融合という視点。
両者は同じものだと思っていたが、そうではないらしい。惣領職は幕府から補任されるものではなく、在地領主(御家人)の自称だったという点。それを幕府が追認して、幕府法で保護を加えたということらしい。
妥当な見解なのかどうか批評力を持ち合わせていないが、面白かった。

菊地報告は、難しい内容にもかかわらず、意外とわかりやすかった。概念の整理がうまく、論旨が明確だったからだろうか。
「イエ」の構成員が、家督・一家(庶家)・被官人であること。被官人のなかに根本被官人とは別に、在地被官人(沙汰人など)がいること。彼らが村落共同体と接点をもつ有力者であり、彼らを取り込みつつ、在地諸集団への支配が貫徹されようとしていたこと。
ちょっと気になったのは「国人領主」のとらえ方。
「在地領主」ではなく「国人領主」の語を積極的に使いたいとのことで、その根拠は在地領主が幕府・守護に奉公する側面を重視し、それゆえに「国人」であるというとらえ方。「国人」って、そういう意味なのかなと思った。

やっぱり中世は難しい。

歴研大会といえば、歴史関係出版社が出店を出しており、通常より廉価で買えるので、これを目的に参加する人もいるくらい。
今日の成果は、

河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』 吉川弘文館 2007
脇田晴子『天皇と中世文化』 吉川弘文館 2003
森下徹編『武士の周縁に生きる』 吉川弘文館 2007
太向義明『長篠合戦』山梨日日新聞社出版部 1996 
大藪 宏『戦国武田の黒川金山』山梨日日新聞社出版部 1995


それと予約したのが、
『東京大学史料編纂所影印叢書』の第1期6冊のうち、

『島津家文書―歴代亀鑑・宝鑑―』 八木書店

国宝となった島津家文書のうち代表的な文書の影印版である。
少しはこれで勉強しよう。

それと電子出版物の朗報。
東京堂出版から『くずし字解読用例辞典』CD-ROM版がこの7月にも発売されるようだ。くずし字辞典の煩雑な使い方がある程度解消されるかも。
手書き入力でも該当文字候補を検索できる機能がすごいと思う。 

 
阿弥陀寺
新暦と旧暦の違いがあるが、今日は本能寺の変が起きた日。
信長・信忠の425回目の命日でもある。

今年3月に上梓した拙著のあとがきで、計算間違いして415年と書いてしまった(冷汗)。

じつは、今も本能寺の変の原稿を書いている。何とか今日中に仕上げなければ……。

少し宣伝しておきます。
今月末発売予定の「歴史読本」8月号別冊(文庫版)が「信長記」特集である。
友人の和田裕弘氏と共著となった。太田牛一の「信長記」(信長公記ともいう)の世界を読者にかいま見てもらえたらと思う。

現在、「信長記」の伝本は50点以上知られ、40点以上が現存している。
そのすべてを把握するのは至難の業であるが、和田氏が可能なかぎり、全容を把握しようと努めた力作である。

私の分担は、そのうちから天理本と尊経閣本(15冊)の2点を少し詳しく紹介した。天理本は桶狭間合戦について、あまり知られていない情報が書かれている。
尊経閣本(15冊)はどうもよくわからない写本だ。池田家本系統だと言われているが、どうもそうだとは言い切れない。
この写本の面白さは本能寺の変以降の記事がじつに10数頁にわたって書かれていること。備中高松城の開城のいきさつ、山崎の合戦、光秀の最期まで書かれている。どれも非常に興味深いことが書かれている。
よかったら、お買い求め下さい。

写真は阿弥陀寺にある信長・信忠の墓
 
南日本新聞連載コラム「さつま人国誌」第9回連載。

今回は紙面の都合で、昨1日(金)に掲載されました。
次回からは通常どおり、土曜日です。

戦国島津氏のくじ取りというテーマ、なかなか興味深いです。
コラムに書いたように、貴久と義久の代、約30年に集中しています。忠恒(家久)の代になると見られなくなります。
島津氏が九州の雄となる過程で見られるというのは、いろいろな想像をかき立ててくれます。
また、国策の決定において、ここまでくじ取りに頼る戦国大名は島津氏だけではないかと思います。それを特殊と見るか、時代遅れと見るか……。

今回は(上)で、次回(下)は、豊臣秀吉の九州下向を前にして、「神慮」が動揺・混乱する様子を述べたいと思っております。


 
今川義元墓

写真:桶狭間古戦場にある今川義元の供養塔

昨日は関東一円で激しい雷雨があった。

川崎では雹も降ったようだ。→この記事

初夏なのに、氷みたいな雹なんてと思ったが、雹は夏の季語なんだとわかって納得。

雹といえば、桶狭間合戦が思い出される。
信長が今川義元の本陣を攻撃する直前、突然雷雨が起こり、雹が降った。『信長公記』には次のように書かれている。

俄に急雨(むらさめ)石氷を投打つ様に、敵の輔(つら)に打付くる。身方は後の方に降りかゝる。

引用中の「石氷」が雹のことだと言われている。
「急雨」が昨日のような雷雨だろう。

この「石氷」が今川方には不運にも顔に当たり、織田方には幸運にも背中から降ってきた。このときの風向きが勝敗を分けたという。

さて、桶狭間合戦があったのは、永禄3年5月19日である。
これを西暦換算したところ、1560年6月22日だとわかった。
昨日の雹とかなり近い日であることが判明した。

同日か2,3日違いだったら、もっと劇的だったが、そういうわけにはいかなかった(笑)。