歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載コラム「さつま人国誌」第14回
―毒殺? 急病? 死因は謎―

右下のリンク欄からご覧になれます。

島津家久についての3回目の拙稿です。
今回は家久にまつわる最大の謎、「毒殺」一件について書いてみました。
もっとも、すっきりした結論が出たわけではありません。今後に残る検討課題だと思います。
とくに、島津義久が家久に宛てた書状の解釈がひとつのポイントになると思っております。そのうち、少し詳しく検討したいので、ご意見も賜れば幸いです。
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【2007/06/30 22:34】 | さつま人国誌
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武藤 臼
家久が毛利家における隆景の役割を演じるつもりだったということでしょうか。
家久が五大老になって関ヶ原で大活躍・・・なんてIF小説としてはマニアックでしょうか。

家久の死について
市川
桐野先生、こんにちは。
早速ですが、私が思うに島津家久は優秀な軍略家である一方。良き夫、良き父親だったのではないかと思います。
佐土原が包囲される以前から家久は病気であり、どこかで死期を悟っていた。このまま自分が死ねば、恐らく息子の豊久は城を守って討ち死にする。そうなる前に降伏して家族を守ろう、と考えた。それに主戦派の自分が降伏すれば、兄達も降伏しやすくなる。そして秀長の本陣に行った後、自分の真意を豊久に話して死んだ……。
そんなドラマを想像してしまいます。

中務家久の死
桐野先生、こんばんは
かつてある島津氏関連の本を読んで、その著者は家久が秀長に降伏するのは彼自身が側室の子で義久、義弘、歳久とは違うから、独立しようとしたんだと指摘します。
先生はどう思われますか。


家久と隆景
桐野
武藤臼さん、こんにちは。

ご指摘のように、島津家と毛利家は大名権力の構造が似ている感じがしますね。当主を支える一門が強くて、分散的な傾向がある点がとくに。

家久については、果たして豊臣政権にどういう態度をとろうとしていたのかよくわかりません。
初めは恭順的だったのは間違いありませんから、そこから、隆景とのアナロジーというのもありえることかもしれません。秀長が家久を気に入ったという面もあるかも知れませんね。
それだけに、突然の急死が不可解で、毒殺説がささやかれる余地が出てくるのでしょうね。

家久の覚悟
桐野
市川さん、はじめましてだったでしょうか?

家久が病気で死期を悟っていたというご意見、なるほどと思います。
私も相対的にもっとも無理のない推論だと思っています。ただ、それを証明する史料がないのが弱点ですね。
前年暮れには、戸次川の合戦で豊臣軍を破っていますし、表面上は元気に見えます。それにまだ41歳と若いですからね。
家久死後、豊久がそのまま家督を継ぎ、旧領を安堵されていますし、ご存じのように、豊久は関ヶ原合戦で、伯父義弘の身代わりになって討死するくらいですから、本宗家への忠節を失っていません。もし父が本宗家に毒殺されたなら、豊久はこんな態度をとらないのではないかとも思えます。



家久と他の兄弟
桐野
胡さん、こんにちは。

ご指摘のように、家久は他の3人の兄とは母が違いますね。生母の違いが兄弟同士の諍いになるというのは、武家の家ではよくあることではあります。

ただ、島津家の場合、家久が格別そのことで差別的な待遇を受けていたとも思えません。むしろ、優遇されているように思えます。
日向の伊東氏を追放したのち、太守義久は家久を日向守護代に任じています。本来なら、伊東氏征服にもっとも功のあった義弘が任命されてもおかしくなったはずです。
義久は義弘を肥後方面に差し向けようとする構想をもっていたからだと思われますが、それでも、家久への処遇は厚くないでしょうか。
義久は歳久よりも家久を厚遇しているようにも見えます。そう結論するには、家久が佐土原付近でどの程度の知行地を与えられたのかを明らかにしないとならないわけですが、残念ながらよくわかりません。
それでも、家久が日向一国の守護代であることを考えると、知行地も少なくなかったという推定はできそうです。豊久の所領は3万石前後ありますので、家久もほぼ同様だったのではないかと思われます。

以上から、生母の違いが家久の行動に大きな影響を与えたとは考えにくいように思います。
一般的に、大名の分家や一門には、本家に取って代わろうとしたり、独立したり、他の大名に従おうとする傾向がありますから、家久の場合もそうした視点から見たほうがいいかもしれませんね。



こっちの家久、人気ありますね(苦笑)
ばんない
じゃあ、どっちの家久が人気がないといいたいんだ、といえば「あの」家久なんですが(汗)

3回通して興味深く読ませていただきました。紙面が限られていたので本当はもっと書きたいことがあったのを削りに削ったという印象を持ちました。

家久は豪勇で知られている武将ですが、最初に取り上げられた「家久君上京日記」では山賊を怖がるような文章を書いているなど意外な点が見られるのが興味深いです。戦で闘うのと山賊とはまた別問題ということだったんでしょうか。

最終回の義久の手紙の解釈についてですが、原昭午氏の解釈と全く正反対なので、意表を突かれました。あの「義久の手紙」は非常に解釈が難しい物だと思いますが、私個人の考えでは、あの手紙を「義久が家久を暗殺した犯人」の証拠とする原昭午氏の説には賛同しかねます。あの原氏の論は憶測に憶測を重ねた空想に近い内容で、何でここまで人気の説になってしまったのか不思議です。
フロイスの「日本史」を読むと家久の死に関しては早くから秀吉の暗殺説が飛び交っていたことが分かります。同本によれば吉川元春も暗殺説が飛び交っていたようですね。島津家も毛利家もキリシタンとは不仲だったので贔屓目でこういう話を書いたとは考えにくく、西国ではこういう噂が飛び交っていたのは事実と見て良いのではと考えています。

家久宛て義久書状
桐野
ばんないさん、こんばんは。

仰せの通り、分量の制限があって、十分意を尽くせないものになりました。
ただ、家久宛ての義久書状についてはどうしても触れておくべきだと思い、かなり重視しました。
ご指摘のとおり、家久毒殺の動機を島津家側に求めるのは原昭午氏がその嚆矢ではないかと思われます。その典拠もこの義久書状ですね(原昭午「兵農分離と幕藩制」 『大系日本国家史』3・近世 東京大学出版会、1975年)。
私も以前、原説にそれほど異論をもってはいなかったのですが、どうもその解釈では据わりが悪いなと感じておりました。
原説と拙説の一番の違いは「公界」の解釈だろうと思います。原説はこれを「島津公儀」と解釈し、家久が上洛すれば、島津家の「公界」が崩壊するととらえています。

一方、拙説では、これを「豊臣公儀」だと解釈しました。それはこの書状の尚々書に「上洛可然様御納得肝心たるへく候」の解釈とリンクさせてのことです。この一節を素直に読むと、義久が家久の上洛を阻止しようとしているようには読めず、むしろ逆に上洛を督促しているように読めてしまいます。そうであれば、「公界」は豊臣政権になるだろうと思いました。
もっとも、原説ではなぜかこの尚々書の部分を引用していません。

この書状については、一度詳しく検討してみたいと思っておりますので、ばんないさんのお知恵も拝借できればと思います。

イエズス会史料から見ていくのはよいやり方かもしれませんね。解釈の隘路を突破できるかもしれません。今度じっくり読んでみます。

西国から見た秀吉
ばんない
こんばんは。

あんな話を書いておいてなんですが、当方個人的には「家久は病死だろう」と思っています(汗)。しかし、フロイス「日本史」の記述から見て、早くから「秀吉による暗殺説」が広まっていたことには興味があります。
島津家久も吉川元春も武勇で知られた武将であり、西国の民衆には「もしこの2人が生きていたら…」という待望論があり、それがこの噂の背景にあるのでは、と私なりに考えています。
逆に考えると、西国では「秀吉の天下統一」というのは、実は歓迎されざる物だったのではないかということが想定されます。

九州と秀吉
桐野
ばんないさん、こんばんは。

そういえば、吉川元春も急な病死ということになっていますね。
でも、豊臣政権が元春まで毒殺したとは考えにくいですね。もしばれたら、毛利両川は秀吉から離反し、西国は大変なことになります。島津攻めどころではなく、秀吉が九州で孤立する事態にもなりかねません。

家久については、拙コラムで書いたように、もし心変わりして上京を取り止めたとすれば、いろんな推測ができますね。
ひとつは、上京といい条、実際は豊臣政権が家久を島津家から引き離したうえで、惣無事令違反の詰め腹を切らすつもりだったのではないか。
あるいは、家久が真偽定かならぬ風聞をそのように伝聞して、ある程度信じた(あるいは島津本宗家がそのように吹き込んだ)可能性もないとはいえません。

そうだとすれば、上京しないと豊臣政権との約定違反、上京すると、殺害される可能性がある……。
家久は進退窮まってしまい、あるいは病死という形にしたうえで自害し、嫡男豊久の地位と佐土原家の保全を優先したのかという妄想さえ浮かんできます(笑)。

九州の人々にとって、秀吉は招かれざる客だったことはたしかでしょうね。肥後に入部した佐々成政は国人一揆によって自滅しているくらいで、豊臣流儀の押しつけははた迷惑で、とくに朝鮮陣はその極致でしょうね。

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図録島津義弘

鹿児島県姶良町(あいらちょう)の歴史民俗資料館が昨年、開館20周年記念の特別展を開催したときに作成された図録である。

姶良町には帖佐という地名がある。
文禄年間からしばらく島津義弘の居城だったところである。
兄龍伯(義久)が女婿忠恒に家督を譲ったのに伴い、義弘に鹿児島の内城を明け渡して、大隅の富隈に隠居することになる。
当時、義弘は栗野城を居城としていたが、島津家太守の居城たる内城に入れば、兄を追い払って後釜におさまるという印象を与えるのを避けて、「中宿」して、帖佐に留まった。その代わりに内城には三男忠恒を入れることで龍伯の了解を得る。

姶良町としては、義弘ゆかりの地として、帖佐を忘れてもらっては困るということで企画したものだろう。

この図録を見て、一番印象に残っているのは、図版、とくに2次にわたる高城合戦の絵図2種である。縮尺・距離・方位などが非常に正確な絵図である。両軍(島津VS大友、島津VS豊臣)の配置がよくわかるし、高城の縄張や陣城が非常にリアルで精細に描かれている。
所蔵先は日南市教育委員会だが、ここには飫肥がある。飫肥といえば、豊臣期から幕末まで伊東氏の所領だったところ。伊東氏は2次の高城合戦に参戦しているだけに、その関係者の手になるものだろうか。

図録のメインは、やはり義弘文書とその関係文書である。
国宝の島津家文書だけでなく、加治木島津家文書や加治木町郷土館所蔵文書まで50点以上の文書が写真版付きで収録されている。しかも、関ヶ原合戦前後のものが多い。同館渾身の企画だといえるだろう。
また「於岩釼御合戦之刻之事」という加治木町の新納家の記録も掲載されている。たしか『旧記雑録後編』でも見たことがある史料だ。

執筆者も豪華である。
三木靖氏「島津義弘の生涯」という解説を執筆しているほか、次の3人の論文も収録されている。

山本博文氏「島津義弘の賭け」
島津修久氏「島津義弘公と茶の湯について」
五味克夫氏「島津義弘の書状」


すべてを紹介しきれないが、とても豪華な図録である。
お値段もお手頃の1.500円(+送料)である。
詳しくは冒頭の同館サイトに問い合わせして下さい。
小為替(送料は切手可)でも注文できました。

【2007/06/29 21:19】 | 戦国島津
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帖佐に産まれて良かったです。
帖佐 英朗
僕は横浜生まれの横浜育ちですが、両親が鹿児島出身です。

何故僕がこの現代日本に生を受けたか、考える事に確かな意義を感じている今日この頃です。

有難う御座いました。

帖佐
桐野作人
帖佐 英朗さん、こんばんは。

ご両親が帖佐出身ということでしょうか?
今後ともよろしく。

欲望がどんどん出て来ました。有難うございます。
帖佐 英朗
お疲れ様です、帖佐英朗です。

桐野さんのお陰で、欲が(良い意味で)どんどん出てきました。


僕が調べた結果、母方の黒木姓は西郷隆盛の祖先、場所は広島で平家の落ち武者だそうです。

変わりに、島津義弘は大隅帖佐家出身、父方の血筋となります。

最近痛切に想うのですが、祖先先祖あっての現在の僕。

やるべき事はやってからこの世を去りたいですね。

敬具


帖佐将一
沖縄との間に橋を架けましょう。

これは素晴らしいです
市野澤
こんばんわ。

ご紹介の図録、遅れ馳せながら購入しました。

私は義弘文書と五味克夫氏の「島津義弘の書状」が印象に残りました。
五味氏がおっしゃるように「義弘の書状には情味が感じられる」
内容のものが少ないないですね。
義弘が家臣に慕われる逸話の多さは、
このような所にも由来があるように考えます。

図録と共に義弘関連の講演資料も送付頂きましたが、
これも良い内容でした。

桐野さん、ご紹介ありがとうございました。

ここ、2~3年の遅れを取り戻す日々です(笑)。
古い話題で申し訳ありません。



図録島津義弘
桐野
市野澤さん、こんにちは。

この図録はよくまとまってますね。
筆者選択など目配りもいいと思います。
こんな良質な図録や史料集を公共機関が比較的安価で刊行してくれるのは有難いかぎりです。


帖佐英朗
お久しぶりです。帖佐です。

今度帖佐駅行きたいです。

帖佐
桐野
帖佐英朗さん

帖佐は地名だけでなく、名字も多いですね。

じつは帖佐には初めて行きましたが、とてもいいところでした。

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幕末の近江屋事件に名を残す近江屋井口家の当主新助氏の訃報をご遺族からいただいた。訃報は少し前から存じ上げていたが、改めて正式の書面でいただいた。

90歳を超されていたから、大往生といえるかもしれないが、一抹の寂しさが拭いきれない。

というのも、昨年春、とある座談会で対面がかない、親しく謦咳に接したからである。
杖をついておられたが、大変お元気で、近江屋の歴史について、いろいろ語っていただいた。

また、個人的にも大変お世話になっている。
昨年、歴史読本誌に発表した拙稿「龍馬遭難事件の新視角--海援隊士佐々木多門書状の再検討」の連載にあたって、井口家ご所蔵の佐々木多門書簡の閲覧・使用と写真掲載をお願いしたところ、快諾していただいた。また海援隊士白峯駿馬などの写真掲載も合わせてご許可いただいた。
拙稿をお送りしたら、ご丁寧な礼状をいただいたことも忘れられない。

昨年の上記座談会がひとしきり終わったのち、私が薩摩産だと話したためか、「ちょっと」と声をかけられ、「私の京都二中時代の話だが……」と切り出された。

「担任が末富東作という華奢な先生だったんだが、小説家志望で、懸賞小説によく応募していて、とうとうサンデー毎日か何かの懸賞小説に入選して、しばらくしたら先生を辞めて上京してしまわれたよ」

迂闊にも最初何の話かわからなかった。すると、

「ほら、鹿児島の海音寺さん……」

そう説明されてようやく思いあたった。奇遇なことに、井口さんの担任が、かの海音寺潮五郎の若き姿だったのである。海音寺氏は私の郷里の隣、大口市の出身である。

井口さんが私のためにとせっかく切り出されたのに、それに応えきれなかったのが悔しかったが、井口さんは「不勉強な若僧め」という感じで、にこにこ笑っておられたのをよく覚えている。

あとで調べたら、海音寺潮五郎が京都府立二中の教師をしていた時期は、1928~34年(昭和3~9年)だった。むろん、井口さんの中学時代とぴったり符合する。

1年前はあんなにお元気だったのにと残念でならない。じつは、今年もう一度お話をうかがおうという計画もあったらしいのだが……。
今度上洛する機会があったら、墓参したいものである。合掌。


【2007/06/27 23:12】 | 雑記
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初めまして
ひろぼん
近江屋の亭主が気になり、ウィキペデアから井口新助氏、そして、こちらのブログへたどり着いた者です。

竜馬暗殺における近江屋の亭主について、以前から疑問を持ってるのですが、亭主はこの事件について何も語られていなかったのでしょうか。

一番目の当たりにした亭主の証言を見たことがないのですが、実際はどうだったんでしょうか。

一瞬の出来事であり、当時の夜の深さでは、全く何もかも分からなかったのでしょうか・・。


突然の書き込みを失礼しました。



井口新助氏の草稿
桐野
ひろぼんさん

お返事が遅れました。
近江屋の主人井口新助の筆記草稿が現存しています。これは明治33年(1900)、『近畿評論』に「今井信郎氏実歴談」が掲載されたのに対し、その反論として書かれたものです。
今井らが近江屋を訪れたとき、松代藩士だと名乗ったとするのに対して、十津川郷士という名刺を差し出したと証言したりしています。
『坂本龍馬全集』3訂版補遺に収録されています。

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月末30日の武蔵野大学講座のレジュメがようやく完成。
また力を入れすぎたかもしれない(笑)。
今回のテーマは、

天璋院篤姫と幕末薩摩藩について

主催者からの連絡によれば、定員上限までほぼ達した様子。
昨年の2倍の受講者ということになる。
こりゃ、大変だ。
関心のある方は上記の大学名をクリックして下さい。

一方、小学館「てらこや」は今期のテーマは

大河ドラマ「篤姫」の見方

だが、7月からの講座(初回は7/10)も会場のキャパぎりぎりの盛況で、これまでにない受講者数である。

何やかやといっても、大河さまさまなのかもしれない。




【2007/06/26 23:18】 | 雑記
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歴読8月号

表題の本が発売になった。
詳しくはここへ。目次が見られます。

同誌は先月号から文庫サイズの別冊を付けている。
今回は『「信長記」の大研究』と題して、友人の信長研究者である和田裕弘氏と小生との共著である。
『信長記』は多くの伝本があり、それを語るのはとても難しい。
歴読別冊

今回は、和田氏が複雑な『信長記』世界の俯瞰を試みている。とくに、首巻を有する伝本、たとえば陽明文庫本や改訂史籍集覧本(我自刊我本)などの成立時期や経緯を探る意味で、斎藤義龍が信長暗殺のために放った刺客、青木加賀右衛門の名前の有無が手がかりになると指摘している。これまで語られなかった視点であり、注目される。

小生は各論を担当した。桶狭間合戦、長篠合戦、信康事件、本能寺の変など、重要事件に再検討を迫るような問題提起も一部したつもりである。とくに、天理大学本を中心に桶狭間合戦をかなり詳しく検討してみた。
また尊経閣文庫(加賀藩前田家)が所蔵する伝本のひとつがとても変わっているので紹介してみた。とくに本能寺の変以降の出来事、備中高松城の水攻め、清水宗治の自害、秀吉と毛利の和睦、山崎合戦、光秀の最期などが詳しく記載されている。
筆致が本格的な漢文に近く、太田牛一のそれとは異なる。また、牛一の別著『大かうさまくんきのうち』(太閤さま軍記のうち)からの引用もあることから、いくつかの著作から抜き出して追筆したのでないかと思われる。

この別冊とは別に、本誌のほうには次の記事を書いている。

新発見! 「本能寺の変」三日前の光秀書状

これは、拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)でも紹介した光秀文書だが、紙数の関係で年次の考証を端折ったため、この記事で改めて検討したもの。

今号は「書き換えられた戦国合戦の謎」という特集もあります。
興味のある方はお買い求め下さい。

【2007/06/24 00:56】 | 新刊
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甫庵の再評価について
Tm.
お久ぶりになりますがTm.です。
『甫庵信長記』と天理本の関係についての素朴な疑問です。

天理本については内容的にも全く無知なので何とも言えないのですが、首巻の記述に類似性が見られるることで従来の『甫庵』に対する評価に再検討の必要性をご指摘されているようなのですが、現に天理本の第七冊が『甫庵』系統のものによって補われているとのことからすれば、その首巻もまた『甫庵』の影響を受け改変されているという可能性はないのでしょうか。
如何に牛一系の伝本とはいえ写本であり、しかも牛一の子孫が係わっていないということで、むしろそうした余地(裁量)が多いにあったのではないかとも思われますが如何でしょう。

『甫庵』の復権を訴えるに、天理本の記述との類似のみでは説得力は弱く、牛一系とは異なるそれらを裏付ける第三の史料の存在が望まれるところですが、ご研究のなかではそれについて何か発見されているのでしょうか。

天理本巻十二加之
桐野
Tm.さん、こんばんは。

諸事多忙のため、コメントが遅くなりすみません。

ご指摘のように、天理本第七冊(信長公記巻十一、十二に相当)は甫庵信長記がほぼそのまま書写されています。

そのことにより、首巻が甫庵信長記の影響をうけているのではないかという疑問、もっともです。
私も以前、その可能性があるのではないかと思っていました。しかし、斎藤義龍の刺客、青木加賀右衛門の名前の有無から、天理本が陽明文庫本よりも古いと思われることから、むしろ、天理本が甫庵信長記に影響を与えた可能性のほうが高いと思うようになりました。

それで、天理本第七冊ですが、これは厳密には、次のように二つに分かれています。

1,信長記十二:天正六年

2,信長記十二 加之:天正七年

天理本は首巻を巻一としていますから、陽明文庫本とくらべて一巻ずつずれることになり、「十二」が巻十一に、「十二加之」が巻十二に相当します。
ここで問題になるのは当然、2のほうです。「加之」とある点が注意です。ご指摘のように、これはほぼ『甫庵信長記』の写しです。しかも、この巻(~加之)だけ、別筆です。
そして、年次を見ればわかるように、信康事件のあった年であることに留意すべきでしょう。

ご存じかもしれませんが、池田家本も巻十二だけが別筆で、おそらく陽明文庫本の引き写しです。
Tm.さんは池田家本のこの事実をもって、同本が陽明文庫本の影響をうけているのではないかとお考えになるでしょうか? おそらくそうではないと思います。池田家本の巻十二以外は、陽明文庫本とは明らかに違います。

となれば、天理本も同様だと思います。
天理本の他の部分も『甫庵信長記』とは一部に似た箇所はあっても、全体的には明らかに異なります。

信康事件のあった巻十二が、信長記諸本のなかで、いかにデリケートな存在だったかがおわかりかと思います。
自筆本の池田家本には果たして最初から自筆の巻十二は存在しなかったのか。それとも、存在したが、のちに徳川家に遠慮して廃棄し、その巻だけ書き直したのか、という想定はできます。
天理本も似たような経緯ではなかろうかと思います。

『甫庵信長記』については、果たして天理本とどれほど類似しているのか、全面的に検討したわけではありません。そのためには、天理本の全文翻刻が不可欠ですが、まだその作業を終えていません。
復権ということになるかどうかはそれからだろうと思います。ただ、全否定するという態度はとれないだろうという感触はあります。
申し訳ないですが、今のところはそれくらいしかお答えできません。


天理本の成立について
Tm.
桐野先生、お忙しい中のご返事、何時ものことながらありがとうございます。

そもそも「首巻」については牛一直筆のものがなく、その意味においては、はたして本当に牛一自身の著述によるものなのかという疑問もあります。和田さんも述べられておられるように、その発見が望まれるところですね。

ご指摘の青木加賀右衛門や桶狭間における服部小藤太の名の有無、異同については、一方で一端削除されたものが復活、そして改変された可能性もあるやに思われ、天理本の首巻については、その過程で甫庵本も参照にされ成立した改著版である可能性もあるのではないでしょうか。

天理本の古態性と言う点に注目するなら、問題となる首巻以前に、尊経閣文庫蔵の『永禄十一年年記』(直筆)や『安土日記』(写本)、それに個人蔵の『太田牛一旧記』(直筆)との比較検討も必要であり、それらに共通するものがあれば、改めて注目すべきものであるかと思います。

天理本と甫庵本
桐野
Tm. さん、こんばんは。

ご指摘のように、天理本が甫庵本を参照して取り入れた可能性はないとはいえないでしょう。
ただ、前回も書いたように、天理本の全容を把握し、さらに他の伝本との比較のうえで、最終的な結論を出すべきでしょうね。

個人的には、天理本は池田家本でも建勲神社本でもない、別の祖本(自筆本かそれに近いもの)の写本ではないかという感触があります。あくまで漠然としたものですが。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第12回
―軍法戦術の妙で敵討つ―

右下のリンク欄からアクセスすればご覧になれます。

このテーマは上下2回でやるつもりだったが、分量が多くて収まりきれず、上中下の3回とあいなる。
「知られざる~」と銘打っている以上、その点を書いたというのが今回の趣旨。

そのため、「毒殺」一件は次週回しとなった。ご了承下さい。
なお、「毒殺」一件については、新たな解釈を加えてみました。家久の死の直前、義久が家久に書状を出しています。その内容がなかなか判読しがたかったのですが、こう読むのではないかと思って提示してみました。
お楽しみに。

【2007/06/23 09:42】 | さつま人国誌
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本日、小雨のなか、終日外出。

資料調べ1件、打ち合わせ3件。

某経済誌より「裏切りの関ヶ原」というテーマでの執筆依頼があり、担当編集者と打ち合わせ。
畑違いにもかかわらず、拙著『真説関ヶ原合戦』をよく読み込んでいてくれたのに少し驚く。意気に感じるタイプなのと、元編集者の血が騒いで、自分の担当だけでなく、コンセプトについてもあれこれ口出しする。
いい方向でまとまればいいが。

その後、『信長記』について、研究関係者との顔合わせ、打ち合わせ。
何せ、全容をまだ把握できていない段階で、史料の撮影・複写などにも取りかかる必要があり、前途多難を思わせる。
打ち合わせのあと、軽く一杯。某研究機関の仕事ぶりや史料についての面白い話を聞く。
また、先日から通っている『上井覚兼日記』についても、テキスト面での貴重な情報をアドバイスされる。多謝。

関係者の一人から論文をいただく。多謝。
まったく専門外のテーマで、ざっと読んだだけだが、面白い。
足利義輝が九州探題職を大友氏に、奥州探題職を伊達氏に与えたことが意外と重要だと気づかされた。室町幕府体制の変質だとも。
義輝暗殺事件との関係もありそうだ。こんな見方もあるのかと教えてもらう。

帰る頃には小雨も已んでおり、スタバに傘を忘れてしまったことに気づき、途中から取りに戻る。粗忽粗忽。

そういえば、左側の「最近のコメント」欄。尾籠きわまりなし。自業自得だが、何とかならないか。浅猿浅猿。


【2007/06/22 23:15】 | 雑記
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本日、暑いなか、旧江戸城内郭、すなわち皇居東御苑に出かけた。

ある歴史紀行文の取材のためで、急ぐ必要はなかったのだが、篤姫関係もあって前倒しして急遽行くことにした。
陽ざしがかげり出す3時過ぎがいいだろうと思って行ったが、いやはや都心のど真ん中だから、暑い暑い。

じつをいうと、旧江戸城内郭に行くのはほとんど初めて。10年くらい前に一度行ったが、通り抜けただけで、ほとんど何も見なかった。

せっかくだからと、大手門から入城。
まず二の丸を見学。さっそく切り込みハギの枡形がお出迎え。立派な石垣である。雑木林を抜けて行くと、きれいな庭園があって驚く。菖蒲や紫陽花など、季節の花が咲いていた。
また、すべての都道府県木が植えられていて、宮崎県木のフェニックスまであったのに驚く。東京でフェニックスを見るとは思わなかった(写真参照)。
フェニックス

二の丸と本丸をつなぐ汐見坂を登る。坂の横にある白鳥濠の高石垣はおそらく現存する旧江戸城内で一番立派なのではないだろうか。

いよいよ天守台跡にたどり着いた(写真参照)。
明暦の大火で焼けて以来、この上には天守閣は作られなかった。上に登ると、風が吹き渡っているし、眺望もよく、とても気持ちがよい。
眼下に江戸城の本丸御殿跡が広大な芝生になっている。ここに大奥も、中奥(将軍執務室)も、表御殿もあったのだと思うと、感無量である。
ただ、案内板がやや不親切。できれば、大奥、中奥、表向の三区画を示すものがほしい気がする。
江戸城天守台

本丸内を散策する。
忠臣蔵で有名な松の廊下跡の碑もあった(写真参照)。
その場に立って、ここが吉良上野介が浅野内匠頭に斬りつけられた廊下のカギに曲がったあたりだとすると、白書院は向こうかとか、あっちが大広間かとか、想像をめぐらしてみる。
松の廊下

その後も三層の富士見櫓や白鳥濠の高石垣の上にある展望台から都心の景色を眺める。まわりは高層ビルだらけだ。

展望台から下りたところで、城内アナウンスが閉門を告げる。5時20分前だった。
同じ門から出るのは面白くなかったので、北側の平川門から出た。
水濠にかかる橋を渡ったところに、「太田道灌公追慕之碑」がひっそりと建っていた。太田道灌没後450年にあたる昭和11年(1936)に、ときの東京市長が建立したものらしい。何といっても、江戸城開基の人だから。

わずか2時間足らずの散策だったが、とても楽しかった。
考えてみれば、拙宅から地理的にもっともお手軽な城郭見学である。八王子城よりも近いかも。




【2007/06/20 23:20】 | 雑記
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昨日の大河ドラマ「風林火山」第24回。
表題の尾籠、失礼のほどを。今回のキーワードだったもので。

ガクト景虎が出るというので見たが、ほんの顔見せ程度だった。

真田幸隆(正確には幸綱)がいよいよ武田氏に帰属することを決める。
しかし、武田氏を一番の仇敵のように非難していたけど、これは村上義清も加わっていた戦いによるものだから、武田氏だけが悪し様に言われるのはおかしいし、地縁的な関係からは、むしろ村上氏が真田氏の宿敵ではないかと思うが……。

それはさておき、この脚本家は女性の心情を描くことが非常に下手だという印象を受ける(男性のそれもうまいわけではない)。
一時期の由布姫の錯乱と迷走もそうだし、今回の幸隆夫人の忍芽もそうだ。武田氏は父たちの宿敵だからと言っておきながら、その下の根も乾かぬうちに、兄が夫を裏切り者だと罵ると、一転して夫の味方をする。はあ~という感じだ。
女性は山の天気のように変わりやすいとでも考えているのだろうか。少しは思考に整合性をもたせるか、心情の変化を何らかの形で視聴者に理解させる工夫をしてみたらどうかと思うが……。
女は意地と怨恨だけで生きるものという偏見でもあるのかねと思ってしまう。

さて、今回は勘助が鉄炮で負傷した一件で、よく馬糞が出てきた。晴信に鉄炮で負傷した感想を聞かれた勘助は馬糞の味がしたとまで引っ張った。

幸隆ゆかりの僧侶が勘助の傷の手当てをし、馬糞を溶いて呑ませたら治ったと豪語していた。馬糞で治療というのはあまりに唐突で、面食らった人も多いだろう。
でも、出典はすぐピンと来た。

『雑兵物語』(浅野長武監修、人物往来社、1968年)

である。
これには、いろんな種類の足軽や中間、小者といった武家奉公人の逸話が独特の口語文でたくさん載っている。
そのなかに負傷の手当てをどうしたかということも書かれている。たとえば、傷が疼く場合の対処法としては、

「疵ががいにうずくべいならば、おのれが小便をのみなされろ。やはらぎ申べい」

傷がズキズキ痛むなら、自分の小便を呑めば症状が和らぐというのである。一時期、自分の小水を呑む健康法も流行ったから、あながち非科学的でもあるまい(笑)。

また傷の手当てについて。とくに鉄炮傷と特定したわけではないが、次のように書かれている。

「がいに胴腹の疵から血がはしる。又、血が胴へ落るもんだぞ。あし毛馬の糞を水にたてゝくらへば、胴へおちた血が下りて、疵もはやくいゑるものだ。あし毛馬の血をのんでも、胴へ落た血がくだるといふぞ。去ながら馬の血はうぬがまゝにとられまい。くそをくらったがましだ」

大意をとると、
「胴や腹の負傷で出血が多かったり、内出血しているときには、葦毛馬の糞を水に溶いて喰らえば、内出血した血が滞留せずに降りて、傷が早く治るというものだ。葦毛馬の血を呑んでも同様の効果が得られるが、馬の血を得るには殺さないとできないから、糞のほうが簡単に入手できるのでこちらがましである」

ドラマのシーンはこの一節からヒントを得たのだと思う。

さて、由布姫が晴信に勘助や板垣信方のことをあれこれ告白したために、晴信の顔色が変わり、軍議の場でも、板垣に皮肉を言ったり、板垣の進言をあえて無視する挙に出た。
いかにも嫉妬心丸出しで、器量が小さい晴信にされている。
しかも、これは単発のエピソードではなくて、おそらく上田原での板垣の討死(おそらく憤死として描かれるだろう)の伏線であろうことは想像に難くない。

あるいは、由布姫の無意識のなかに(諏訪氏の怨念という)夜叉の顔が隠されており、それが期せずして、武田家中の反目や分裂をもたらすという、一種のたたり神として含意されていると思うのは穿ちすぎか。

【2007/06/18 21:46】 | 風林火山
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大河の出典は『甲陽軍鑑』かと
かわい
 松山合戦の際の甘利左衛門と米倉彦次郎の逸話がありますから、たぶんこちらでしょう。脚本家氏はアレンジが下手なだけで、『甲陽軍鑑』はけっこう読み込んでいるようですよ。

巻第卅二
桐野
にありました。どこにあるか探しましたよ(笑)。

「葦毛馬の糞、水にたてゝのみ候へば、血をくだすと申て」云々とあり、しかも、鉄炮疵の手当て法だと書いていますので、こちらのほうを参照したのでしょうね。
ただ、これは永禄5年(1562)の話で、河越夜戦のあった天文15年(1546)から16年後の話なんですね。

米倉丹後の発明した「竹束」に関連する記事だったわけですな。

そういえば、この記事のあたりに、武田家に鉄炮が持ち込まれた話が出ています。信虎時代の大永5年(1525)に、鉄炮2挺が初めて甲府に来たとあります。
通説の鉄炮伝来より17年前になりますが、信じていいのでしょうか?
橋場殿下あたりは東国への鉄炮伝来を早めに想定していたような(うろ覚え)。

楽しく読ませていただいています。
ぶるぼん
桐野先生、以前、『新・歴史群像シリーズ』でお世話になりましたぶるぼんです。いろいろな先生方の歴史ブログを見ていましたら、先生のブログにたどり着きました。先生のブログは大変タメになり、いろいろと参考になります。ぜひぜひ大河ドラマも続けてみてください。橋場先生、かわい先生のブログともども毎週楽しみにしています。僕のほうもアドレスのブログで毎週『風林火山』のコメントを書いています。

真田郷の長谷寺
桐野
ぶるぼんさん、はじめまして。

すみません。お知り合いの編集者の方のようですが、お書きになっているブログではわかりませんでした(笑)。

ブログに書かれている「風林火山」の記事読みました。
私なんかよりずっと詳しいですね。
馬糞を勘助に呑ませた例の坊さんがのちに真田幸綱に招かれて長谷寺の開基になったのですか。そういう関係だったのですね。
真田郷の長谷寺には昨夏行きました。幸綱と夫人と昌幸の墓が裏手にありましたね。


ぶるぼん
桐野先生、これは失礼致しました。
メインの当社アドレスを貼っておきます。
もっとも最近はこちらのブログ
http://d.hatena.ne.jp/shugoro/
がハンドルネームになっていることが多いのですが……。
まあ、こちらは競馬予想がメインです。

思い出しました
桐野
ぶるぼんさん

あらためて貴ブログを拝見して、思い出しました。
その節にはお世話になりました。その後も歴群の仕事はされているのでしょうか。

はい
ぶるぼん
細々とですが、今回も携わっています。
また、担当になった場合はよろしくお願いします。
まあ、基本的にフリーですので、他の書籍等でもご縁がありましたらぜひ。

すみません
かわい
>桐野先生
 もう少し細かい内容まで踏み込んで書けばよかったですね。お手数をおかけしました。
 鐵炮の話は、種子島とそれ以前の『応仁記』なんかに登場するものを分けて考えるなら、大永5年もありなのかもしれません。それ以前の武田家は鐵炮どころではなかったでしょうし。
 このあたり、橋場さんはどうお考えですかね。

>ぶるぼんさん
 徒歩圏内のご近所なのでそのうち遊びにうかがいます。

鉄炮
桐野
かわいさん、こんばんは。

武田氏や北条氏の史料では、鉄炮の記事が種子島への伝来よりも早めに登場していますね。
考えてみれば、教科書的な史実の典拠は「鉄炮記」という後世の二次史料ですから、「応仁記」や「甲陽軍鑑」とさほど変わりません。「鉄炮記」だけが重視されるというのもおかしいですね。

鉄砲伝来
胡でございます。
恐れ入りますが、この討論には私を参与させていただきたいんです。

一般的には、鉄砲伝来は天文12年のことだと伝われているが、個人的にはポルトガルより、倭寇(日本の商人たち)は中国、琉球との密貿易で鉄砲を日本に導入したのではないだろうかと考えます。

「鉄砲記」には、天文十三年ころに、ある貿易船が伊豆に漂着したとの記事があり、一方、「北条五代記」には、永正十年に玉滝坊という山伏は堺で中国から伝来した鉄砲を入手して北条氏綱に献上したとの記事もある。

「鉄砲記」と「北条五代記」の史料としての信用度がまだ問題だが、種子島から、ただ一年で関東北条氏まで鉄砲が伝えられたことは考えにくいし、それに、その一年間に、鉄砲の作り方が習得できたかどうかまだ疑問があります。その二つの史料によれば、むしろ鉄砲伝来の時点は天文12年以前のことだという可能性が高いのではないでしょうか。

以上愚見ですが。






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今月末30日に武蔵野大学(武蔵野市)で開催される講座で講師をつとめることになっている(興味のある方はここをご覧下さい。まだ受講生募集中です)。

テーマが「天璋院篤姫と幕末薩摩藩について」というものだが、じつはまだほとんど準備していない。少し気になって、篤姫が将軍家定に嫁ぐ前に江戸の薩摩藩邸のうち、渋谷の藩邸に滞在していたので、その場所がどこなのか調べた。

この屋敷はいわゆる下屋敷という位置づけである(災害などの避難用)。入手した時期は安政年間初めだったか。江戸の薩摩藩邸は三田・高輪の両邸とも海の近くにある。黒船の来航によって、直接砲撃される危険があったので、斉彬が内陸部に新たに屋敷を求めたのが渋谷の藩邸である。
初め抱屋敷だとばかり思っていたが、下屋敷だとすれば、上屋敷を手放して交換して得たものか。
この藩邸で、斉彬が電信の実験をやったという記録が残っている。ここに篤姫も数カ月滞在したのである。

で、その所在地だが、江戸切絵図などを丹念に見たら判明した。
以前、国学院大学に勉強会で通っていたが、その途中にあることがわかった。19.000坪弱ある比較的大きい屋敷である。今度写真撮影にでも行きたいものだ。

講座のために、篤姫のネタをもう少し仕入れておかないといけないな。ほかの仕事も抱えて焦るばかりである。

【2007/06/17 18:41】 | 幕末維新
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楽しみに
秘剣
お忙しそうですね。
お身体、お大事に。
わたしどもの知らないことを、いろいろご教示いただけるのが、なんとも嬉しくありがたく思っています。

有難うございます
桐野
秘剣さん、おはようございます。

お言葉有難うございます。
生来の不精なもので、忙しいくらいのほうがいいと思います。ただ、昔とくらべて体がついていかないですけどね(笑)。

頑張ってください
ゆぅちゃん
個人的には島津家から侍従としてついてきた仙波サカなんかもわかると嬉しいです。

頑張ってください2
板倉丈浩
第2回もこっそり受講する予定の板倉です(笑)。
私的には天璋院というか大奥勢力が幕末政局に与えた影響が気になっています。
といっても、受講者の大半は天璋院がどんな人だったかに関心があるんでしょうけど・・・(そういう自分も芳即正氏の論文を読んだくらいで、ほとんど知りません)。
スライドショーを駆使されるとも聞きましたし(笑)、非常に期待しておりますので、よろしくお願いします。



有難うございます
桐野
ゆぅちゃんさん、板倉さん

激励有難うございます。

篤姫の史料はほんとに少ないので大変です。
講座では、篤姫本人よりも、その周辺事情を明らかにするほうにウェイトを置かざるをえないかもと思っているところです。

スライドショーは話の貧弱さを補うためです(爆)。



リンク報告
カミタク(リンク先は「NHK大河ドラマ「篤姫」の故郷紹介」)
カミタクこと神山卓也と申します。

鹿児島の観光と温泉とを紹介する拙HP「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内の「NHK大河ドラマ「篤姫」の故郷紹介」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/ATSUHIME.HTM#atsuhime_kengai
から貴記事にリンクを張りましたので、報告します。

今後とも、よろしくお願いいたします。


了解しました
桐野作人
カミタクさん、はじめまして。

リンクの件、了解しました。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第11回
―信長、光秀と京で出会う―

右下のリンク欄からご覧になれます。
今回から2回にわたり、島津家久を取り上げます。
1回目は、天正3年(1575)の家久の上京を『家久君上京日記』から紹介しました。とくに、信長と光秀との出会いが中心です。

次回は、秀吉との戦い、島津本宗家内での家久の立場などから、いわゆる「毒殺」の一件を考察したいと思います。

【2007/06/16 11:12】 | さつま人国誌
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質問です
市川
こんにちは
私は最近先生の本を読ませていただいたものですが、桐野先生にご質問があります。
2005年に先生が出版された「島津義久」の中で、島津義弘の息子・島津忠恒は二男ということになっておりますが、本日南日本新聞に掲載された「知られざる猛将・島津家久」では忠恒は三男となっております。大変お忙しいと思いますが、ぜひこの違いを教えていただけないでしょうか?

二男でも三男でも
桐野
市川さん、はじめまして。

拙著を読んでいただき、有難うございます。

島津家久(忠恒)を二男とするか、三男とするかですが、『島津氏正統系図』などによれば、義弘の男子で一番先に生まれたのは鶴寿丸です。生没年は1569~76年で、8歳で夭逝しています。
その次が久保(1573~1593)で、三番目が忠恒(家久)ですね。

要は、鶴寿丸をカウントするかどうかという点です。彼が長男だったことは間違いありませんから、それを重視すれば、忠恒は三男です。

一方、鶴寿丸は成人しておりませんし、時期が天正後半以降なら、実質的には忠恒が二男ということにしても必ずしも間違いではないと思います。

南日本新聞では、前者の考え方といいますか、『島津氏正統系図』に従った書き方をしました。拙著「島津義久」での記述と統一がとれていないのは問題かもしれませんが、二男でもとくに間違いではないと思います。



ありがとうございました
市川
桐野先生お忙しい中質問に答えていただきありがとうございました。
そういう違いだったんですね。
勉強になりました。

これからもがんばってください。

さつま人国誌読ませていただきました。
織田 創
いつも楽しく拝見させていただいています。
島津家久が上洛して信長や光秀と出会った話は知っていましたが、今回の記事で詳しい状況が分かりました。ありがとうございます。

記事から判断しますと、光秀とは親交を深めたようですが、信長に関しては、“見かけただけ”だったと判断しても良いのでしょうか?
多分、この頃は長篠城が危機を向かえその対応で信長も忙しかったかもしれませんが・・・
愚問で申し訳ありません!

長篠合戦との関連
桐野
織田 創さん、こんにちは。

ご指摘のとおり、家久は信長をたまたま見ただけですね(笑)。
この時期、信長は足利義昭を追放してまだ二年足らず。信長の天下が確立するかどうかまだ流動的な情勢でした。島津氏は一方で義昭と交流がありましたから、信長支持という形で完全に軸足を移しておらず、両者と等距離外交だったと思います。
そのため、家久は信長を表敬訪問して、正式に島津方の態度を表明する用意はなかったものと思われます。それが信長と公式に対面しなかった理由だと思います。

家久が里村紹巴との関係で紹巴の弟子、心前宅に宿泊しているのが、光秀を訪問するポイントだったかもしれませんね。紹巴と光秀は連歌仲間でしたから。紹巴が九州の珍しい客がいると紹介したので、光秀が興味を示したのではないでしょうか。

なお、家久が坂本城に光秀を訪ねたのは、ご指摘のとおり、長篠合戦の数日前です。
光秀は二日間だけ家久の相手をしましたが、三日目は会うのを控えています。その理由は主君が三河で対陣しているのに、家来の自分が遊興していてはいけないというものでした。
光秀は信長に気を遣っていたことがうかがえます。

それからほどなく、家久は近衛前久の家宰、進藤長治から長篠での信長の勝利を聞かされていますが、どの程度の情報だったかはわかりません。


すいません!有難うございます!
織田 創
お忙しい中、私の愚問に詳細なご回答本当に有難うございます!
家久は信長に会うためというか織田家と友好を深めるために上洛したわけではなかったんですね。勉強になりました。

もうすぐ『歴史読本』発売されますね。楽しみです!
それではこれからも更新楽しみにしています。




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本日(15日)、W大学院の某ゼミに出席。
後北条氏研究で有名なK先生のゼミである。

勉強会仲間のW大院生の方から上井覚兼日記を読んでいると聞いて、ぜひ参加したいのだがとお願いしたところ、K先生に了解をとってくれた。
もっとも、K先生がなぜ上井覚兼をやる気になったのかはわからない。しかし、同日記を系統だって読んでいなかったから、いい機会だと思って参加することにした。

W大学のキャンパスで勉強するのは、10年くらい前に参加していた織豊期の公家勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』の輪読会以来だ。懐かしい。

ゼミは順番に担当者を決めて発表する形式。
担当範囲を読んで、大意、語句・人名などの注釈、さらに日記の記述と関連する史料(『旧記雑録後編』など)を添付して解説するというやり方だった。

読んでいる時期は、同日記上巻の天正2年(1574)8月条あたりである。
庄内の北郷氏と大隅の肝付氏の所領紛争が島津義久のところに持ち込まれ、守護としてこの問題をどのように処理するのかというところが焦点だった。
肝付一族出身である浄光明寺の住職、其阿西嶽が周旋に関わっており、その立場や役割がどのようなものだったかなど、議論が盛り上がった。
印象としては、伊東氏の勢力後退により、肝付氏の孤立が深まっているように感じられた。そのため、肝付氏は老臣の薬丸兼持をわざわざ鹿児島まで派遣して、この所領紛争を義久に解決してもらうことで、何とか窮地を脱しようと、老中や奏者の覚兼などに懸命の工作をしているように見えた。

浄光明寺といえば、現在は南洲神社で西郷はじめ西南戦争戦死者の墓所だよなと思いながら、みなさんの議論を聞いていた。

上記のような私見も述べたが、私はどうも史料から離れて議論する傾向が強く、あくまで史料にこだわるみなさんの研究態度に教えられることが多かった。みなさん、非常に熱心で、わずか数行のために1時間以上の議論がつづいた。
そのため、本日、進んだのはわずか1日分だけ(笑)。

ゼミ生はマスターとドクターの院生のみなさんがほとんどで、当然20代前半の若い人が多い。そんななか、私より年長か同世代かと思われる方が2人おいでだった。浮いていなくてよかったなと思う。何せ指導教官のK先生も私よりもだいぶ若いからなあ(爆)。

ともあれ、なかなか知的な刺激を受けた一時だった。

【2007/06/16 00:19】 | 戦国島津
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力作を期待
nick
当地の出ですが、地元の人はなぜか語らない。
今夜も黙々読んでます。

先生の力作を願望しています。

当地?
桐野
nick #EBUSheBAさん、はじめまして。

古い書き込みに、コメント有難うございます。
えっと、よくわからなかったのですが、当地とはどちらでしょうか? 上井覚兼の地元のご出身なのでしょうか?

上井覚兼はすぐれた日記を残していますし、私もそれを活用した作品が書ければと念願しているところです。
今後ともよろしく。

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島津家文書

先日の歴研大会会場で予約していた本が届いた。
八木書店が「東京大学史料編纂所影印叢書」シリーズの第1巻として刊行したものである。詳しい解説はここに

国宝指定された島津家文書のなかでも、歴代亀鑑と宝鑑は白眉中の白眉といえる史料。その影印集、要するに写真版である。

両者の区別がつかないでいたが、歴代亀鑑は主に貴久以前の島津本宗家に伝来したもので、宝鑑は本来の本宗家だった総州家伝来のものや伊作家の史料によって構成されているとか。
その意味では、歴代亀鑑こそ島津家文書の本筋、本流だろう。

ちょっと残念だったのはカラー版かと思っていたら、モノクロだったこと。
歴代亀鑑や宝鑑は豪華な錦織の表装なので、ぜひカラーで見たかった気がする。いつぞや、東京国立博物館での展示をガラス越しに見ただけだったので。

もっとも、今回の撮影にあたっては新技術も使用されている。
文書によっては、紙背に1行程度の簡単な付文である端裏書が記されていた。たとえば、「しまつの三郎兵衛、ゑちせん」(島津の三郎兵衛、越前)という具合に、発給者が宛所を記したものや下文など文書の性格を示したものが多い。

歴代亀鑑や宝鑑は『大日本古文書』の島津家文書にも収録されて活字化されているが、この端裏書は表装してあるためにほとんど読みとれず、翻刻されていなかった。
今回、高解像度近赤外線デジタルカメラという新兵器でこれを撮影し、端裏書の部分をPCに取り込んで反転・強調などの画像処理をして、あたかも裏面から読んでいるように表示してある。
細かい点だが、従来知られていなかった情報がわかったことになる。
足利義昭御内書

主な発給者は、

源頼朝、北条義時、同泰時、安達泰盛、後醍醐天皇、足利尊氏、高師直、足利直義、足利義満、同義教、同義政、同義昭、織田信長、近衛前久など。

文書の様式もさまざまで、さしずめ古文書学の見本になるようなものばかりである。

下文、将軍家政所下文、関東下知状、関東御教書、綸旨、御判御教書、御内書、鎮西下知状、軍勢催促状、室町幕府奉行人連署状など

まあ、眺めているだけで楽しい本ではある。


【2007/06/15 11:12】 | 新刊
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串木野留学生渡航の地

鹿児島県串木野の英国留学生渡航の地

先日、慶応元年(1865)の英国留学生の一人、堀孝之のことを書いた。

すると、本日(13日)の南日本新聞サイトに、同じく英国留学生の長沢鼎(本名:磯永彦輔)のカリフォルニア州サンタ・ローザにあったブドウ園跡が公園として保存されることになったという記事が載っていた。ここです。
ブドウ園跡やワイン醸造所がまだ残っていたということ自体、驚きである。

長沢鼎は19名の留学生中、最年少の13歳だった。
英国からアメリカに渡った長沢は苦労の末、広大なブドウ園の開拓に成功し、「葡萄王」の異名をとり、「サクセスワイン」という銘柄のワインがアメリカやヨーロッパだけでなく、日本にも大量に輸入されて売れたという。
長沢は事業の成功で莫大な富を築いたが、生涯独身を通した。

死ぬまでに帰国したのは2回だけで、留学するときに藩主から与えられた変名の長沢鼎を生涯通した。没したのは1934年、83歳だった。

犬塚隆明『薩摩藩英国留学生』(中公新書)に面白いエピソードが紹介されている。
明治末年、島津家の当主、島津忠重(最後の薩摩藩主忠義の嫡男)が海軍の士官候補生として練習艦でサンフランシスコに寄港したとき、長沢は馬車を仕立てて忠重を迎え、サンタ・ローザの邸宅に招いた。そして門前で旧主に土下座したので、周囲のアメリカ人を驚かしたという。長沢は若かったため、すぐに欧米に適応したが、そのために、不完全な「藩意識」を残存させていたことが、彼にこのような行為をとらせたと、犬塚氏は指摘している。

長沢鼎生誕の地

長沢鼎生誕の地(鹿児島市上之園町)

カリフォルニアの葡萄王として著名な人物だったが、一面では忘れ去られていた人でもあった。しかし、ゆかりの遺跡があると、少しは身近に感じられるものである。もっとも、すぐ訪ねていくわけにもいかないので、とりあえず上記に生誕地跡の石碑を紹介しておく。

【2007/06/14 02:42】 | 幕末維新
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薩摩藩英国留学生
ばんない
長沢鼎は晩年はちょうどあの「禁酒法」に引っかかって肝心の商品を売れない事態となり、結構苦労したようですね。第二次世界大戦に巻き込まれる前に亡くなったのが不幸中の幸いでしょうか。一度何かの本で、留学した頃?の長沢鼎の写真を見たことがありますが、生涯独身だったことと照らし合わせて、いろいろ考えさせられました(苦笑)。

薩摩藩の英国留学生+アルコールときたら、破滅的な末路をたどった村橋久成の方が個人的に印象に残っています。日本をビール大国?にした偉人の一人であることは確実ですが、実際英国留学せず、明治維新も来なかった方が彼にとっては幸せだったんじゃなかったろうか、とその人生を見ると、いろいろ考えさせられます。
村橋は最後神戸で行路人となって倒れているところを発見され、死亡が確認されるのですが、ネットで調べた限りでは、神戸のどこで死んだのかがはっきり分からないですね。

別記事で話題になっていた町田久成も、出家遁世して公的な場から身をひいていますし、五代友厚、寺島宗則、森有礼みたいにその後の政財界で大活躍した人物もいますが、薩摩藩留学生は全体として意外に維新後の時流に乗れなかった人が多いような印象を受けます。

留学生の傾向
桐野
ばんないさん、こんにちは。

薩摩藩留学生で政治家になった人はほとんどいませんね。寺島宗則や森有礼は大臣になっていますが、どちらかといえば官僚ですね。
そういえば、黒田清隆も第2次の英国留学生の候補になっていたのですが、慶応末年の動乱のため、候補者リストからはずされています。成果が出るのが遠い先である留学生より、即戦力として要請されたということで、政治家・軍人と留学生の分かれ目があるようにも思います。
薩摩藩留学生の選抜基準も藩校である開成所の成績によって決められているようですから、やはり学究膚の人物が選ばれている傾向がありますね。どちらかといえば、政治家には不向きかと。

村橋久成については、明治14年(1881)の開拓使官有物払い下げ事件のショックが大きかったような気がしますね。疑獄事件を目の当たりにして、とくに黒田清隆に幻滅した可能性がありますし、留学生仲間の五代もこの事件で再起不能になっていますが、そのことと関係があるのかどうか、真相はよくわかりません。

最近、「長州ファイブ」という映画が封切られましたが、こちらは長州藩の英国留学生たちを描いたもので、現地で薩摩藩留学生と出会い、激論を交わす場面などもあるそうです。
長州藩の留学生も伊藤博文と井上馨を除くと、政治家になった人はいませんね。薩摩藩と似たような傾向かも知れません。


教えて欲しいのですが…
ほうしん
鹿児島に「ちゃわん虫の唄」という戯れ歌があります。「茶碗蒸し」を虫の料理か何かと勘違いする「愚かさ」を揶揄する内容だったように記憶しています。犬塚先生か誰かの著作の中に「長澤」がこの日本語「ちゃわんむし」を忘れてしまっていたというエピソードを書かれていたように記憶していますが、この「ちゃわん虫の唄」は一体何時できて、長澤のエピソードとは全く無関係なのでしょうか?ご教示くださいませ。

ちゃわんむしの唄
桐野
ほうしんさん、はじめまして。

その唄、私も子どもの頃、「茶碗についた虫じゃろかい~」と意味もわからずに歌っていた記憶があります(笑)。

俗謡の成立時期はいつかというのは、私はまったくの門外漢でよくわかりません。ネットで検索したら、次のようなサイトがありました。

http://www.minc.ne.jp/~mictky/kagosima/tyawan.html

これによれば、大正年間に作られた唄ということらしいです。そうなると、長沢鼎が知っていたという話とは矛盾しますね。もし長沢が知っていたというのがたしかなら、あるいはオリジナルの唄が江戸時代か幕末あたりにはすでにあったということでしょうか?
サイトにある歌詞は何となく新しい感じがしますけどね。

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昨夜、古文書塾「てらこや」に出講。
5回講座の最終回である。

土佐藩重役寺村左膳の日記をずっと読んできたが、今期中に何としても終わらせるため、慶応3年(1867)12月分を一気に駆け足で読んだ。
途中、天満屋事件など重要事件があったのだが、王政復古政変に絞るために、断腸の思いで端折る。

でも、日記に注釈を加えながら12月晦日まで読み終えたときには、すでに1時間10分を過ぎていて、残りは20分だけ。これで王政復古政変を解説するのは無理……。

それでも、越前藩の「丁卯日記」を中心に、政変の経緯を読み解く。視座を大久保一蔵VS後藤象二郎に設定する。

兵庫開港期日である12月7日に合わせて、直近5日を政変決行日に定めた薩摩藩に対して、後藤が越前・尾張・紀州・芸州の支持を取りつけて、在京雄藩だけで平和裡の新政権樹立構想で対抗する。
すると、今度は大久保が後藤に政変決行日を意図的にリークして牽制する。政変決行が不可避と知った後藤は、越前の松平春嶽を通じて、この情報を徳川慶喜に流す。
それは政変阻止のためではなく、政変を決行させながら、慶喜の「反正」を強硬に迫り、新政権内での主導権確保を狙う薩摩藩の意図を挫こうという「薩遺算(違算か)失望」の策である。
そのためには、慶喜が幕府内の保守派や会津・桑名などの強硬派を押さえるのが前提だった。慶喜は阿吽の呼吸で、後藤の意図を察し、永井尚志や平山敬忠ら幕閣の要人を使って反対派を押さえつけるのに成功した。

まさに大久保と後藤が見かけは「雷同」して手を携えながら、裏では「同床異夢」「呉越同舟」で突入したのが王政復古政変である。
一方の慶喜の立場からみたら、まさに「やらせクーデタ」だった。

薩摩藩討幕派としては、慶喜の大政奉還により、討幕の密勅実行の大義名分を失い、宮廷クーデタという形に後退した政変になったが、何としても慶喜に打撃を与えて、KOは無理でも判定勝ちに持ち込みたいという意図が見え隠れする。
小御所会議で、辞官納地を強引に認めさせた大久保だったが、越前・尾張の周旋により、慶喜の議定就任や納地が懲罰的なものではなく、徳川家も諸藩も同等に一定の禄高を差し出すことによって新政権の財政基盤をつくるという決定を見て、むしろ、後藤が判定勝ちしそうな雲行きになった。

大坂に下っていた慶喜の上京も決定した。このままいけば、慶喜の復権が劇的になされるはずだったが……。

というところで、日記は終わる。
結局、予定の時間を30分近くオーバーして何とか解説を終えることができた。

日記全体を通してみると、日記の主、寺村左膳の進退もよく示されていた。もともと佐幕派だった寺村だが、政変決行に加担した後藤・福岡・神山のトリオへの不信感を露わにし、小御所会議代理出席を断って、ついに後藤らと決裂する。
これを機に、寺村は明治政府での栄達の道を断たれたといっても過言ではない。この日記は、寺村の「遺恨」や「痛憤」を書き綴った日記でもあることが最後に明らかになったように思えた。

あとで、受講生の方から「後藤は一人で頑張ったんですね」という感想をいただき、我が意を得たりという思いだった。
私がこの日記を読むにあたって、ひそかに設定していた裏テーマは後藤象二郎の復権だったからである。14回に及んだ講座のなかでも、折に触れて後藤に関する史料をたくさん紹介したつもりである。

次期は、次のテーマでやります。
開講日は7月10日(火)で、隔週火曜日の5回です。

大河ドラマ「篤姫」の見方

天璋院篤姫の出自はむろん、幕府と薩摩藩の関係を中心にしつつ、幕府政治のあり方が篤姫の入輿によって変化が生じたのか否か。大奥の実態なども含めて、幕末という時代を裏側から読んでいきたいと思っています。
関心があって時間とお金に少し余裕のある方はご検討下さい。
主催者はここです。ただ、まだ新講座はアップされていないようです。

【2007/06/13 12:33】 | てらこや
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本日(10日)、表題の学会が中央大学後楽園キャンパスで開催されたので、初めて参加。
昨日が初日だったが、本日の報告のほうが関心が高かったのと、友人の研究者、町田明広氏の報告があったので、それを楽しみに参加した。

町田氏の報告は朝いちのトップバッターだった。演題は次の通り。

幕末中央政局における「皇国復古」―島津久光率兵上京を中心として―

町田報告とは別に、小生も久光の率兵上京が朝主幕従の体制確立や幕政人事への外様雄藩の前代未聞の介入、副産物としての参勤交代の廃止など、従来の幕藩体制に風穴を開ける強引な横紙破りであり、その後の維新変革の端緒として評価すべきだと、前々から思っていたし、小文を書いたこともあった。
だから、非常に興味深く拝聴した。

町田報告の第一の特徴は「皇国復古」という言葉を大久保一蔵の文書などから発見して、それを勅命主導による国家体制「天皇親裁体制」実現のためのイデオロギーないしは大義名分だと位置づけたことである。
従来、当該期の国制に使用される「公武合体」という用語の曖昧性や多義性とくらべると、その意味や性格がわかりやすいと感じた。
(と同時に、同じ史料用語として「王政復古」との違いはあるのか否かがやや気にはなった)。

第二は、同じ「皇国復古」という言葉が、諸侯(久光)、朝廷・公家、尊攘系志士という三者の間で意味内容が異なり、その食い違いがそれぞれの政治路線や行動の違いとなって表面化し、寺田屋事件などの軋轢を生むメカニズムを明らかにしたことである。
同じ言葉を使っても、意味内容が異なるという、この時期特有の悲喜劇の背景がわかったような気がした。

ほかにも興味深い考察として、寺田屋事件の背景、とくに久光が上意討ちを急いだ理由が、長州藩と有馬新七らの薩摩藩内義挙派との結合の可能性に危機感を抱いたからではないかという視点が興味深かった。寺田屋事件の背景に薩長のせめぎ合いを見るというのはなかなか面白い。

個人的に少しわからなかった点としては、「天皇親政」と「天皇親裁体制」という用語の違いがあまり理解できなかったことである。
町田報告によれば、勅諚主導(朝主幕従)の体制、あるいは政令二途から一途への収斂という方向性における天皇の主導性を「天皇親裁体制」と規定していたように感じた。

一方、「天皇親政」は岩倉ら王政復古派公家が構想したもので、「天皇親裁体制」はあくまで一過程であり、最終的には「天皇親政」をめざすものするものの、その中味は不明というものだった。
それとは別に、尊攘系志士が構想した「天皇親政」とは、青蓮院宮(朝彦親王)を征夷大将軍として押し立て、国是を攘夷とし徳川将軍家を諸侯の列に落とすという具体的なものだった。これは後醍醐天皇の建武の新政をイメージしたと考えてよいのだろうか。

この岩倉構想と志士構想は結合する可能性はあったと町田報告は認めているが、両者の「天皇親政」の意味内容は同じなのか違うのか、よくわからなかった。
建武の新政方式のような「天皇親政」は可能なのかどうか、文久年間では実現性は薄く現実的ではないような気がするのが一点。もう一点は「天皇親政」が公武にまたがる権力概念ではなく、むしろ朝廷内の「関白―両役」体制の打破(幕府の影響力の排除)という朝廷内改革とでもいうべき限定的な意味合いをもっていた可能性はなかったのかなど、いろいろ憶測してしまった。

それはともあれ、幕末薩摩藩をフィールドにしている小生には、刺激的で興味深い内容だった。

ほかの報告は以下の3つ(敬称略)。

牧野雅司「明治維新と日朝関係の変質」
刑部芳則「栄典制度の形成と華族」
星野尚文「明治初年における藩邸処分問題の展開」


3報告とも面白かったが、とくに刑部報告はユニークだった。内容を伴いつつも、軽妙洒脱な語り口は、これまでの学会報告ではお目にかかったことがないほど個性的で、思わず引き込まれてしまった。
そのなかの史料で面白かったのは、討幕の密勅の署名者の一人で、自他ともに認める維新の功臣のはずの嵯峨実愛(正親町三条実愛)が伯爵止まりで侯爵になれなかったことに愚痴をこぼしていたこと。古文書講座「てらこや」でおなじみの人物だっただけに、その立場に「その気持ちはわかるよ」と思わず相づちを打ってしまった(笑)。

途中、すごい豪雨もあったが、意義深い一時だった。
会場で、「てらこや」の受講生で友人でもあるT氏と出会い、終了後も歓談して時間を忘れるほど楽しかった。

【2007/06/11 00:13】 | 幕末維新
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ごあいさつ
日本ブログ新聞
はじめまして、突然のコメント失礼いたします。

この度、日本ブログ新聞というサイトをオープンいたしました。

ブログランキング&ブログパーツ&SNS&YouTubeなどの付加サービスを備えております。

よろしければ、ご参加下さい。

なお、このご案内が重複しておりました場合は、ご容赦下さい。

失礼いたします。

http://japanblog.jp/

japan.blognews@gmail.com

ありがとうございました。
町田明広
桐野さま

町田です。先日はお忙しいところ、拙い報告をお聞きいただき、誠にありがとうございました。大会報告は、評価がいかがだったか、気になるところですが、個人的には、私としてはまずまずの出来であり、得がたい経験となりました。非常に楽しい、充実した一時でした。
また、コメントをいただきまして、重ねて御礼申し上げます。今回の報告で説明が至らなかった点、成稿における留意点を的確にご指摘いただいております。

さて、今回ご指摘いただいた諸点につきまして、お返事が遅くなりまして恐縮ですが、若干のコメントをさせていただきます。

「皇国復古」と「王政復古」のイデオロギー的差異をどのように捉えるかですが、「皇国復古」は文久期前半の政策用語であり、諸勢力によってその理解に位相があり、朝廷(岩倉等廷臣)、諸侯(久光)、西国志士間でその到達点およびそこに至るプロセス(戦略・具体的方策)に相違があったと考えます。一方、「王政復古」は慶應期に登場し、国体変革を意識したスローガンであり、「皇国復古」に比して、凡そ勢力間に共通認識を持ちえた概念と捉えます。よって、報告者の中では両概念は峻別されています。

「天皇親政」と「天皇親裁体制」の概念の相違点ですが、天皇親政は文字通り、天皇が最高意思決定者として政治を司る政体を指し、大政委任は否定され、律令(太政官制)に復した状態を想起しています。一方、天皇親裁ですが、天皇が最高意思決定者であることには変わりありませんが、幕府への大政委任は容認しており、国事に関わることは天皇に奏聞の上、親裁を仰ぐ必要があります。幕府は執行機関という位置づけですが、奏聞事項を精査し、勅裁案を検討できる状況にあります。

久光は皇国復古を天皇親裁体制実現のためにイデオロギー化し、一橋慶喜・松平春嶽の登用等を計り、久光自身が幕政参画・当期政局の実質的リーダーとなり、挙国一致体制実現(公武融和)、最終的には徳川公儀体制維持・封建制存続を企図したと考えます。

なお、政令二途は攘夷別勅旨および文久国是策定を巡る文久2年後半以降、松平春嶽がその実態を指摘し始め、文久3年3月の家茂上京時に関白鷹司輔煕から「征夷将軍儀是迄通御委任被遊候上ハ、彌以叡慮遵奉君臣之名分相正、闔國一致奏攘夷之成功人心帰服之所置可有之候、國事之儀ニ付テハ事柄ニ寄直ニ諸藩ヘ御沙汰被爲有候間、兼テ御沙汰被成置候事」と沙汰されて以降、顕然化したと考えます。

「天皇親政」における朝廷(岩倉等廷臣)および西国志士の連関性ですが、両者がそれぞれ志向した政治形態は、岩倉は斬新論であり、そのプロセスや最終形は明らかにしていません。一方、西国志士はまさしく「建武の新政」をイメージしていたと考えます。寺田屋事件以降、それは噴出し、建武の新政、楠正成、後醍醐天皇が様々な場面で取り上げられます。

今回のご指摘で「この岩倉構想と志士構想は結合する可能性はあったと町田報告は認めているが、両者の「天皇親政」の意味内容は同じなのか違うのか、よくわからなかった」点に関しましては、確かに岩倉は具体的には述べていませんが、推量すべきことと考えました。恐らく、岩倉と西国志士では摂関制存続に関して差異があったと推察します。岩倉は廃止まではこの時点で思いが至っていなかったと考えます。

なお、岩倉は「天皇親政」を文久年間で実現できるとは考えておらない斬新論ですが、西国志士はかなり杜撰な計画ですが、可能と考えました。しかし、条件として大諸侯の挙兵を念頭に置いていたため、彼らの行為はあくまでも「魁」でした。また、天皇親裁はあくまでも「公武にまたがる権力概念」と考えます。例えば、「朝廷内の「関白―両役」体制の打破」といったことは、朝廷人事改革であり、天皇親裁という政治形態そのものではないという認識です。

実に分かり難いコメントで恐縮ですが、現時点でご用意できたものはこのレベルです。次回、お会いできた際にでもお話しができればと思います。よろしくお願いいたします。

また、本報告は成稿を期したいと思います。概念の精緻化はなかなか難しい課題ですが、時間をかけるつもりでやってまいります。

今後も様々ご教示いただきたく、どうかよろしくお願いいたします。

有難うございます
桐野
町田明広さん、こんばんは。

小生の雑評に詳しいコメント有難うございます。
おおかた理解することができました。
「皇国復古」をキーワードにした分析は新しい見方だと思います。
また、「天皇親政」と「天皇親裁体制」の違いについても、大政委任の有無によるという点、よくわかりました。
もっとも、文久2年段階で、「天皇親政」はとても無理だと思います。主体的条件がととのっていません。朝廷にとっては摂関制度の廃止さえ大変ですし、諸侯は幕府の存在を認めていますしね。仰せの通り、無謀な「魁」だったと思います。

コメント有難うございました。
またお会いしたときにいろいろ教えて下さい。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第10回
―秀吉を前に「神慮」迷走―

拙コラムが同紙サイトで更新されました。右下のリンク欄からたどっていけます。

本来、くじ取りが島津氏の分散的な大名権力を補完し、荘厳化する機能を担っていたわけですが、秀吉という未曾有の敵を前にして「神慮」も動揺せざるをえませんでした。
とくに、太守島津義久が家中の主戦論を抑制し、豊後侵攻の矛先を他に向けるために、「神慮」を強引に利用したことにより、「神慮」の権威を自ら引き下げることになります。

分量の関係でコラムに書けなかったことを補足しますと、伊集院忠真が挙兵した庄内の乱で、義久が女婿の忠恒にくじ取りをするよう諫言しますが、忠恒がそれを無視したため、義久は「まことに心もとない」とぼやいています。
すでにくじ取りの役目は終わっていたことがうかがえます。

さて、次回からは2回にわたって、島津家久を書こうと思っています。もちろん、中務大輔のほうです。とくに毒殺問題を取り上げるつもりです。乞うご期待。

【2007/06/09 17:42】 | さつま人国誌
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島津家のおみくじ
ばんない
コラム拝読させていただきました。

戦国時代における島津家のくじについては一般書では『呪術と占星の戦国史』(小和田哲男著)、秀吉侵攻直前のくじの迷走については『薩摩島津氏』(三木靖著)あたりでも取り上げてますが、くじを使った戦国大名が島津氏だけというのは意外でした。織田信長ですら桶狭間の合戦直前に熱田神宮へ参拝しているなど、戦国大名と神頼みは切り離せないと考えていたので。

あと、コラムに載せられなかった補足は興味深く読ませていただきました。忠恒と義久の間にはそういう確執もありましたか(苦笑)。庄内の乱では忠恒が火薬の扱いで不手際を犯して義久の激怒を食らうという事件もあったようですね。

くじもそうですが、耳川(高城川)の戦いの時の「竜田川」の和歌の話や、晩年の雨乞いの和歌の話など、義久の行動は中世的というより更にさかのぼって古代的な印象さえ受けます。

くじ取りの意味
桐野
ばんないさん、こんばんは。

戦国島津氏のくじ取りについては、小和田・三木両氏のほか、原昭午氏、福島金治氏なども言及されていますね。
くじ取りを単なる呪術と見るだけでは不十分だと思います。やはり秀吉の九州下向直前の天正14年(1586)に一番多くくじ取りが行われていることは、くじ取りが非常に政治的な意味合いをもっていたことの裏返しだと思っております。
このなかでは、福島氏がくじ取りと島津氏の大名権力の関係から論じられているのと、三木氏が天正14年のくじ取りに義久の動揺を見ているのが注目すべき点かと思います。
小生はさらに義久の動揺の意味するものは何かという点について、秀吉とという未曾有の敵の存在もさることながら、一門や譜代門閥層のなかに太守義久の命に従わない者が出てきたことを大名権力の危機ととらえて、それを克服する手段として、また秀吉との対決を回避する手段としてくじ取りを利用するという挙に出たことが重要ではないかと思いました。

竜田川の和歌などご指摘のとおりで、私も拙著に取り入れたことがあります。ほかにも伏針とか面白い呪術を使っていますね。その心性を誰か明らかにしてくれないですかね(笑)。

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堀達之助

久しぶりに古書紹介を。

表題の本、データはここです。
なお、著者の堀孝彦氏は達之助の4代目の孫だそうだ。倫理学や社会思想史の研究者である。

堀達之助といっても、あまり知られていないかもしれない。
長崎のオランダ通詞の家に生まれ、アメリカ捕鯨船員のマクドナルドから、わが国で初めて英語を学んだ。
ペリーが来航したとき、達之助は首席通詞として、ペリーの乗艦するサスケハナ号に向かって「I can speak Dutch」と叫んだという。
公式の外交の場で外国人と会話した最初の英語だといわれており、わが国の開国の象徴的なシーンでもある。

蕃書調所や開成所でも教授方に任ぜられ、わが国の英学界をリードした人物である。安政年間、冤罪で小伝馬町の牢獄に入っていたとき、吉田松陰とも交流があったという。

じつは、私が興味をもったのは達之助よりも、その二男の孝之のほうである。
孝之は安政年間、長崎で薩摩藩士の五代友厚の知遇を得た。それが彼の生涯を決定づける。
孝之は五代との縁がもとで、慶応元年(1865)、薩摩藩英国留学生の一員(英語通詞)としてヨーロッパに渡る。

この英国留学生派遣は、薩摩藩が海外に目を向ける大きなきっかけとなった。留学生だった五代友厚・森有礼・寺島宗則らの帰国後の活躍は有名である。

ところで、わが国の近代化や国際交流のさきがけとして、近年、英国留学生を称える「若き薩摩の群像」が鹿児島中央駅前に建立された。

その碑文には「藩士十七名の留学生」と書かれている。
しかし、実際に英国に渡った留学生は19名である。
2名が除外されている。それが元土佐藩士の高見弥一と堀孝之だった。2人とも薩摩藩士ではないという理由からである。
いやはや、昔も今も薩摩人は唯我独尊で狭量だと、県外人に言われるに違いないと落胆したものだ。
19名の前途有望な若者の雄飛を出身地で差別するとは、そもそもこの国際交流の精神にもとるのではないかという疑問は今も消えていない。

で、この本である。
堀孝之の履歴について、じつに興味深い史料が2点掲載されていた。

1,『町田久成略伝』
町田久成は英国留学生のリーダー格である。のち大目付。そのなかに、

「慶応元年藩命ニ依リ渡英密行留学生寺島(中略)、御船奉行見習通弁堀宗十郎(長崎人蘭学者堀辰之助ノ長子)」

孝之は壮十郎と名乗っていた。宗十郎は当て字だが孝之のこと。また二男なのに長子としているのは間違いである。
それはさておき、孝之の御船奉行見習というのは藩の役職に見える。その前提として、孝之はすでに留学直前に薩摩藩士に取り立てられていた可能性がある。

2,桂久武宛て堀壮十郎書簡(2月22日付)
孝之が薩摩藩家老の桂久武に宛てた書簡である。そのなかに次のような一節がある。

「私事、今般代々御小姓与被仰付、冥加至至極難有仕合奉存候」

孝之は御小姓与という家格を与えられ、非常に喜んでいる。御小姓与(おこしょうぐみ)とは、西郷や大久保と同じ城下士の家格(ただし、下から2番目の下級だが)である。つまり、堀はれっきとした薩摩藩士になっているのだ。
問題はこの書簡の年次である。著者は慶応元年ではないかと推定している。つまり、英国渡航前だ。
この書簡の宛所は「右衛門様」と桂の通称になっている。桂は明治になってから四郎と改名しているから、右衛門名乗りは四郎より前である。明治2年(1869)には版籍奉還があり、御小姓与など諸身分も解体されている。そうなると、この書簡の年次は慶応元年~4年くらいに絞られる。このうち、慶応2年は桂が「天機伺」のため上洛中だから該当しないだろう。そうなると、慶応元年説はかなり可能性が高いのではないか。
藩当局は藩外人である堀を藩士身分にしてから留学させた可能性が高いといえないだろうか。
となると、もう一人の高見弥一も同様ではないか。

「若き薩摩の群像」に戻ろう。
堀孝之が留学直前に藩士になっていたとすれば、この銅像の「藩士」限定という条件からみても、堀が除外されたことは妥当だったといえるだろうか。同時に高見弥一についても再検討が必要ではないだろうか。

【2007/06/09 01:31】 | 古書
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町田久成
春長軒
「我自刊我書」本の『信長公記』が町田久成所蔵本を底本にしていることは、つとに知られていますが、町田久成がその『信長公記』を何時、何処で入手したのか興味津々です。


我自刊我本
桐野
春長軒さん、こんばんは。

我自刊我本「信長記」の刊行は明治14年(1881)なので、町田久成はそれ以前に入手したことになるのでしょうが、いつ、どんな経緯で入手したんでしょうね。
私も詳しいことはよく知りません。

博物館資料の収集
まいたけ
 関秀夫『博物館の誕生--町田久成と東京帝室博物館-- 』(岩波新書)を読むと、町田は、図書館と美術館を連結してつくられたロンドンの大英博物館のような博物館設立を考え、重点的に収集するべき博物館資料三種類のひとつに「古典籍や古文書類」をあげています。その収集方法としては、「楓山文庫、昌平坂学問所、和学講談所、開成所の蔵書を大図書館に集め、諸家の文庫などについても調査をおこない、博物館への収蔵の道を開くことを考える」とありました。おそらく、諸家の文庫調査の過程で見つかり、密かに買い求めたのかもしれません。島津久光の死後、出家した久成は、明治23年、園城寺子院の光浄院住職となりますが、ここは織田信長も止宿したことのある名刹だとか。織田信長とはご縁があったのかもしれません。

光浄院
桐野
まいたけさん、こんばんは。

町田久成についての岩波新書のご紹介、有難うございます。私も買ってきました。
ご指摘のとおり、古典籍や古文書類の蒐集の一環として、「信長記」を入手した可能性がありますね。しかも、後援者の大久保利通がまだ健在だった時期ではないかと思われますね。

ところで、町田が晩年出家して住職となった三井寺の光浄院ですが、「信長記」では信長の宿泊は確認できないような。
「信長(公)記」巻一、信長が足利義昭を奉じて上洛する永禄11年(1568)9月27日条に次のようにあります。
「廿七日、公方様御渡海候て、同三井寺光浄院御陣宿」とあり、信長ではなく義昭が宿泊しています。
先行していた信長は前日の26日、同じ三井寺でも極楽院に陣営を置いていますね。
その後、信長が三井寺に陣を置いた可能性があるのは、元亀元年(1570)、浅井・朝倉軍が比叡山に滞陣したときでしょうか。このとき、信長が坂本あたりに本陣を構えています。かなり長期間の対陣だったので、三井寺にも宿泊したかもしれませんが、はっきりとは史料に表れないように思います。
光浄院のほうには確実な史料があるのかも知れませんが。

なお、光浄院住職といえば、信長時代の暹慶(のち山岡道阿弥)が有名ですね。この人は信長と義昭が決裂したとき、義昭の味方になって、瀬田を守る総大将になっています。逆縁ですが、縁はありますね。



松裕堂
随分と時間が経過し、この話題にレスするのも「今さら」とは存じますが、
8月23日付南日本新聞のサイト(373news.com)に↓こんな記事が掲載されてますね。
http://www.373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=6202

当方も鹿児島駅前でこの銅像を拝んだ日には「銅像一体造るだけでも相応の費用はかかるわけだし、しょうがないのかなぁ」と思った記憶があります。

実現したらちょっと嬉しい今日このごろ。

次回コラムで
桐野
松裕堂さん、こんにちは。

新聞記事、ご紹介ありがとうございます。

私もすでに読んでおりました。次回の拙コラムでさっそく取りあげる予定にしております。

いい流れになったとは思いますが、もし実際に造ることが決まっても、彫刻家の方の意向もありますから、まだまだ紆余曲折がありそうですね。

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新聞報道によれば、被葬者不明とされた山科の西野山古墓がそうだという。
事実だとすれば、大きな発見だと思う。

ひとつ気になったのは、京都新聞の記事。
「73年には民間の郷土史研究の論文」ですでに発表されていたという。つまり、今回の調査の結論はオリジナルではないことになる。しかも30年以上前に同じ方法で推定したというのだから、この在野の論文発表者の業績がもっと評価されてもいいのではないか。せめて名前くらい出してもいいのでは。
「民間」と「大学」の違いが記事に反映しているのだろうか。

ちなみに、他の新聞にはその点が書かれていない。

【2007/06/05 16:21】 | 雑記
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調所
公的肩書きの無い研究者などの方が的確な判断を下せることは、薩摩の刀装具や薩摩焼のコトを調べてきて痛感しております。特に私が調べている分野は大学の先生や博物館の学芸員より町の古老や古道具屋の言ってることの方が、後に出てきた資料で正しかった、などということも有ります。薩摩の歴史全般についても桐野さんより詳しい研究者が鹿児島の大学や博物館にいらっしゃるか疑問です。

いえいえ
桐野
調所さん、どうも。
私の守備範囲である信長関係でも、在野にアカデミズムと遜色ない研究者がいますね。
薩摩関係に関しては、大学や資料館などに私などよりずっと詳しい方がいらっしゃいますよ。あえて名前は出しませんが、拙著「島津義久」執筆にあたっても、そういう研究者にいろいろ教えてもらいました。そういう方々にもっと本や論文を書いていただけたらと思います。
要は、在野だろうとアカデミズムだろうと、できる人はできるということではないでしょうか。



ばんない
こんばんは。

その島津氏のことで、島津氏に関わりのある某博物館の学芸員でありながら、ある戦国島津氏の一般書に思いっきり間違いを書いた人を知っています。

その一般書が改版されてからは、その箇所は直ってるんでしょうか。未確認なのですが。

桐野さんはお気づきだと思うので、以下ノーコメントと言うことで(汗)


びわこ
桐野さん、こんにちは。

そういえば、今年のはじめ、『丹波篠山で国内最大級の恐竜化石発見』というニュースが新聞紙面のトップを飾りました。

専門家の間では、この篠山層群の地層からは出るだろうとずっと言われていたにもかかわらず、その突破口を見つけたのは、専門家ではなく、「いつか自分も見つける」と言っていた在野の研究家たちでした。

新聞では『化石発見 恐竜探し20年のロマン』と見出しをつけて、発見した元高校の先生である在野の研究者を称えていました。

ロマンを持って、私も自分の研究テーマに取り組んで行こうと思った次第・・・

なんか、コメントの内容が逸れてしまいました(笑)

その研究者の名前は、
中村武生
桐野さん
中村武生です。
 当該の件、その研究者の論文は、鳥居治夫「山城国宇治郡条里に関する考察」(『近江』第4号 近江考古学研究会 1973)かと存じます。
 
 「在野だろうとアカデミズムだろうと、できる人はできる」、まったく賛成です。

 なお今回の報告者吉川真司さん「できる人」です。この宇治郡条里の研究は、過去に「山階寺」跡の推定に成功しています。

 これにより鎌足の墓が推定可能になったわけですから、きわめて画期的です。「大宅廃寺」の可能性はふっとんでしまった。
 現在の山科区厨子奥付近です。
 
 なお鎌足の墓に関連してひとこと。
 高槻市阿武山古墳が鎌足の墓とされていますが論外です。

 これなんかも1987年11月、アカデミズムの成果として大々的に報じられいまでも通説化していますが、文献史料の読み方をしっていたら誰でもありえないことがわかります。
 
 「できるひと・できないひと」論にひとこと参加させていただきました。失礼しました。

よくあることで
桐野
ばんないさん、どうも。

その「一般書」なるもの、私はよく知らないのですが……。もしかして私も書いているとか。

まあ、専門家の方もたまには間違いや勘違いもありますよ。私なんかしょっちゅうで、あとで冷や汗かいたことが何度もありますから、人様のことは言えませぬ(爆)。


継続こそ力なり
桐野
びわこさん、お久しぶりです。

>ロマンを持って、私も自分の研究テーマに取り組んで行こうと思った次第・・・

自分のテーマにずっと取り組まれるのは素敵だと思います。私の友人でも、ずっと信長を追いかけていて、すごい史料を発見した人がいます。

継続こそ力ですが、私は浮気性なのか、いまいちひとつのテーマに集中できない質なんですよね。これも職業にしてしまったゆえの、貧乏性なのかもしれませんが。



鳥居治夫氏
桐野
中村武生さん、どうも。

在野の研究者のお名前と論文名、ご教示有難うございます。城郭や幕末だけでなく、古代史まで詳しいですね。
貴ブログの詳細な論評も拝読しました。

寺田屋再建問題、いよいよ佳境ですね。今後の展開を楽しみにしております。新しい方法論というかアプローチではないかと思います。幕末と現代が架橋されるようで、歴史の醍醐味ですね。

先行研究を探すのが難しい
ばんない
こんばんは。

中村さんご指摘の『近江』という雑誌を国立国会図書館で検索したのですが、1巻1号(1973.1)しか所蔵していないですね。私の在籍した某大学の図書館も調べましたが、やはりこの1巻1号しかもってませんでした。

以下は推測ですが
この『近江』はかなりマイナーな学術雑誌で、そのためにこのような先行研究があることを吉川氏が知らなかった可能性は高いと思われます。『京都新聞』は京都・滋賀を地盤として購読者をかなり持っている新聞社ですから、おそらく読者からの通報などで『近江』に関する情報を得たのではないでしょうか。

先行研究を知らなかったことを指摘された論文としては、やはり古代史ですが、直木孝次郎氏の「近江朝末年に於ける日唐関係」というのがあります。天智天皇晩年に突如やってきた大人数の使節の実体を「白村江の戦いで捕縛された捕虜の返還+補償の取り立て」とした興味深い物ですが、これも立命館大(当時)の松田好弘氏の先行研究があったのですが、その論文が直木氏の目に触れることはなく、後で当時立命館大にいた山尾幸久氏から指摘があって、直木氏は論文を大きく修正されてます。

ブログのテーマからずれるのでこの話題はこれにて失礼します。

あとノーコメントと宣言しましたが、気にされているようなので(苦笑)
>その「一般書」なるもの、私はよく知らないのです
>が……。もしかして私も書いているとか。
はい!その本には桐野さんもコラムを掲載されていた記憶があります(汗)
では、以後ホントにノーコメントと言うことで。触らぬ神に祟り無し。

山尾幸久氏
桐野
ばんないさん、どうも。

先行研究をすべて把握するのは難しいですね。私も拙文を書いた経験からよくわかります。

京都新聞の情報は、むしろ、吉川氏からこんな先行研究もありますと断ったうえで、コメントしたんじゃないですかね。新聞記者が知りうる情報ではないような気がします。むしろ、吉川氏が学問的良心を示されたかと推測しますが。

山尾幸久氏、懐かしい名前です。
この先生には、専攻は違いましたが、ひとからならぬお世話になりました。私の一身上の問題を親身になって心配してくれた二人の先生のうちのお一人です。足を向けて寝られません(爆)。


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昨日の大河ドラマ「風林火山」。
最近はあまり観ていないので、第何回かわかりません。

この間の勘助と由布姫のやりとりはうざったくて見る気も書く気も失せます。気持ちが猫の目のように変わるじゃじゃ馬姫ですなあ。
何度もいうように、その責の大半は脚本にあると思います。多少うまい演技をしたとて、脚本のお粗末さをカバーできません。

それはさておき、久しぶりに書く気になったのは、ちょっとした疑問から。

今川義元から北条氏康に宛てた起請文が登場した。
いかにもそれらしい牛王(玉)宝印(ごおうほういん)の料紙だった。もしかして本物? 熊野の牛王宝印紙だろうか? 東国だと戸隠山あたりも牛王宝印を出しているらしいが。

ただ表裏のどちら側に書いてあったか、よくわからなかった。
ふつうは、裏に書くはずだが……。
牛王宝印の料紙を翻してみせたから、一応、表裏の意味を知っているらしいが……。

で、問題は宛所。たしか、

北条氏康殿

と書いてあった。
これはいかんだろう。実名は避けないと。

北条左京大夫殿

と書くべきだろうに。
せっかく本物らしい牛王宝印紙を用いながら、ちょっと詰めが甘かったのではないか。時代考証の柴辻先生が見たら、すぐ指摘しただろうに。




【2007/06/04 21:28】 | 風林火山
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時代考証者
春長軒
桐野さん、こんばんは
小生も見ました。たしか、二度アップされました。ただし、宛名は「北条氏康殿」ではなく「北条新九郎氏康」とありました。柴辻さんは、この文書の作成には深く関わっていないと思います。NHKの美術部スタッフがある程度柴辻さんなどから意見を聞きながら、独自の判断で作ったのだと思います。柴辻さんが見過ごすはずはないと思います。戦国期の研究者の中でも、柴辻さんほど古文書に精通している方はいないと思います。すくなくとも、古文書に限って云えば、去年の時代考証の先生とは格段の差があると思います。
これはNHK制作側の体質の問題だと思います。
美術部には、書道の専門家は所属していても、古文書の専門者がいるわけではないので。

とは言え、宛名の表記は明らかに正しくないので、ややもすれば制作側や、時代・風俗考証者のお二人の責任に帰せられるかもしれません。
ただし、今日の大河ドラマは単なるホームドラマと化した面もあるので、昔のように歴史の勉強に益することはなくなったように思います。


新九郎でよかった
桐野
春長軒さん、こんばんは。

ご指摘有難うございます。
「北条新九郎氏康殿」でしたか。
一応、通称(仮名)+実名ですが、これでも、実名を使っているかぎり、間違いじゃないですかね。

あと、新九郎という仮名の名乗りですが、氏康は天文10年(1541)に父氏綱の死と共に家督を継ぎ、ドラマの進行時点では同14年と、4年も経過していますから、左京大夫を名乗ってもおかしくないですね。

『戦国遺文 後北条氏編』一を見てみましたが、天文10
~14年頃の氏康の発給文書は「氏康」としか署名がないので、よくわかりません。
ただ、氏綱が死去してから数カ月後の天文10年11月発給の氏綱文書に、朱筆で北条左京大夫と書き込んであります(200号文書)。もっとも、後筆でしょうから、証拠にはならないでしょうね。

念のため、『戦国人名辞典』の氏康の項を見たところ、「天文20年(1551)末頃、左京大夫に任官したらしい」とありました。
となると、河東の一乱のときは、新九郎だったみたいです。ドラマの起請文の仮名は正しかったようです。
この点は私が訂正したほうがよいようです。

でも、やっぱり氏康は違うと思います。「北条新九郎殿」でいいのでは。
好意的に解釈すれば、「北条新九郎」では視聴者が誰だかわからないだろうからと、氏康を付加したのかもしれませんが。



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昨日、歴史学研究会大会に参加した。会場は東大駒場キャンパス。この会は日本史関係で一番大きな学会である。

いつもは近世史部会に行くことが多いのだが、今回は中世史部会に参加。
研究会仲間の若い友人である川戸さんが運営委員として司会していた。頼もしい。最新の論文もいただいた。拙ブログでも教えていただいたことをさらに詳しくまとめている。有難うございます。

統一テーマは「在地領主の組織編成と機能」。

報告は2本(敬称略)。

田中大喜「在地領主結合の複合的展開と公武権力」

菊池浩幸「室町・戦国期在地領主のイエと地域社会・国家」


まったくの門外漢なので、あくまで印象批評として。

田中報告で興味深かったのは、交通・流通あるいは金融の中心である町場を介して、在地領主たちの一揆結合が結ばれるという点。町場が領主たちの共同利害の舞台であることがわかった。
あと、惣領と家督の融合という視点。
両者は同じものだと思っていたが、そうではないらしい。惣領職は幕府から補任されるものではなく、在地領主(御家人)の自称だったという点。それを幕府が追認して、幕府法で保護を加えたということらしい。
妥当な見解なのかどうか批評力を持ち合わせていないが、面白かった。

菊地報告は、難しい内容にもかかわらず、意外とわかりやすかった。概念の整理がうまく、論旨が明確だったからだろうか。
「イエ」の構成員が、家督・一家(庶家)・被官人であること。被官人のなかに根本被官人とは別に、在地被官人(沙汰人など)がいること。彼らが村落共同体と接点をもつ有力者であり、彼らを取り込みつつ、在地諸集団への支配が貫徹されようとしていたこと。
ちょっと気になったのは「国人領主」のとらえ方。
「在地領主」ではなく「国人領主」の語を積極的に使いたいとのことで、その根拠は在地領主が幕府・守護に奉公する側面を重視し、それゆえに「国人」であるというとらえ方。「国人」って、そういう意味なのかなと思った。

やっぱり中世は難しい。

歴研大会といえば、歴史関係出版社が出店を出しており、通常より廉価で買えるので、これを目的に参加する人もいるくらい。
今日の成果は、

河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』 吉川弘文館 2007
脇田晴子『天皇と中世文化』 吉川弘文館 2003
森下徹編『武士の周縁に生きる』 吉川弘文館 2007
太向義明『長篠合戦』山梨日日新聞社出版部 1996 
大藪 宏『戦国武田の黒川金山』山梨日日新聞社出版部 1995


それと予約したのが、
『東京大学史料編纂所影印叢書』の第1期6冊のうち、

『島津家文書―歴代亀鑑・宝鑑―』 八木書店

国宝となった島津家文書のうち代表的な文書の影印版である。
少しはこれで勉強しよう。

それと電子出版物の朗報。
東京堂出版から『くずし字解読用例辞典』CD-ROM版がこの7月にも発売されるようだ。くずし字辞典の煩雑な使い方がある程度解消されるかも。
手書き入力でも該当文字候補を検索できる機能がすごいと思う。 


【2007/06/04 00:08】 | 雑記
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救世主降臨
橋場
>>手書き入力でも該当文字候補を検索できる機能がすごいと思う。

そ、それはまさしく愚生の為に有るような機能ではないですか(涎)。

あいまい検索
桐野
橋場殿下、どうも。

会場の出店で、デモ解説をしていました。
1画目を手書きで入力すると、画面に候補字の一覧がさっと出てきます。非常に見やすいです。見た感じはなかなかだと思いましたが、問題は検索の精度でしょうね。
あまり厳密すぎると、ヒットしない可能性がある。かといって、大雑把だと候補字が多すぎて、絞るのが大変ということになりそう。
あいまい検索の出来如何ではないかと思いました。

なお、お値段は28.000円+税とか。

足元
橋場
むむむ、た、高いですね。
バカな男の足元を見てくれちゃってますね(T_T)。

謝礼
かわと
大してお構いもできず失礼いたしました。直前に体調を崩して喉をやられていたので、しゃべりは結構疲れました(笑)。

私も実は門外漢であまり内容が頭に入っていないのですが、菊池報告での「国人」の概念規定については、石田晴男さんのかつての歴研大会報告を踏まえたものだと思います(同「室町幕府・守護・国人体制と「一揆」」、『歴史学研究』586、1988年)。

くずし字辞典のCD-ROM、仰せの通り検索精度がカギになりますが、面白そうですね。私も懐に余裕があれば入手したいところですが…。せめて1万円台ならと思うんですが…。
東京堂はいいものを出すんですが、軒並み高いのが玉に瑕…。

お疲れさまです
桐野
かわとさん、どうも。

一昨日はお疲れさまでした。
体調を崩していたのに大変でしたね。でも、はた目にはふつうに見えましたよ。午後の討論から夜の懇親会まで、きっと怒濤の一日だったのではないでしょうか。

私はあまり時間がなくて中座してしまいました。できれば、午後からの討論も聞きたかったのですが、盛り上がったのでしょうか?

石田晴男氏の論文紹介、有難うございます。
やはり先行研究があるのですね。
在地領主論は何せ先行研究が分厚そうですから、おいそれと近づけません(笑)。
ご紹介の論文はすぐ入手できそうですから、読んでみます。

くずし字辞典のCD-ROM、周囲で評判など聞いてますか。


くずし字CD-ROM
かわと
今のところ、話題は出ていないです。
また評判を耳にしましたらご報告いたします。

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阿弥陀寺
新暦と旧暦の違いがあるが、今日は本能寺の変が起きた日。
信長・信忠の425回目の命日でもある。

今年3月に上梓した拙著のあとがきで、計算間違いして415年と書いてしまった(冷汗)。

じつは、今も本能寺の変の原稿を書いている。何とか今日中に仕上げなければ……。

少し宣伝しておきます。
今月末発売予定の「歴史読本」8月号別冊(文庫版)が「信長記」特集である。
友人の和田裕弘氏と共著となった。太田牛一の「信長記」(信長公記ともいう)の世界を読者にかいま見てもらえたらと思う。

現在、「信長記」の伝本は50点以上知られ、40点以上が現存している。
そのすべてを把握するのは至難の業であるが、和田氏が可能なかぎり、全容を把握しようと努めた力作である。

私の分担は、そのうちから天理本と尊経閣本(15冊)の2点を少し詳しく紹介した。天理本は桶狭間合戦について、あまり知られていない情報が書かれている。
尊経閣本(15冊)はどうもよくわからない写本だ。池田家本系統だと言われているが、どうもそうだとは言い切れない。
この写本の面白さは本能寺の変以降の記事がじつに10数頁にわたって書かれていること。備中高松城の開城のいきさつ、山崎の合戦、光秀の最期まで書かれている。どれも非常に興味深いことが書かれている。
よかったら、お買い求め下さい。

写真は阿弥陀寺にある信長・信忠の墓

【2007/06/02 22:19】 | 信長
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『信長記』
磯部
桐野先生、こんばんは。
『信長記』に関するご論考が、今月末には発表されるとのこと。楽しみにしております。


小瀬甫庵
Tm.
桐野先生どうも。

>尊経閣本(15冊)はどうもよくわからない写本だ。
 池田家本系統だと言われているが、どうもそうだとは
 言い切れない。

尊経閣文庫と言えば加賀前田家ゆかりのものですね。前田家では五代藩主綱紀の頃でしょうか信長ブームがあったらしく、初期形体の「信長記」の残欠本(写本)である『安土日記』(同文庫)※がもたらされ、今も信憑性が議論されている?『天守指図』(静嘉堂文庫)なども伝わっています。
(※ちなみに内閣文庫の写本の複写にあたり、マイクロフィッシュ化の費用を寄贈しました)

>この写本の面白さは本能寺の変以降の記事がじつに
 10数頁にわたって書かれていること。

一般的に牛一の『信長(公)記』が家康の伊賀越えで終わっているのに対し、甫庵の『信長記』はその後、確か滝川一益の伊勢長島への帰還までが綴られていますね。
その甫庵も晩年には前田家に身を寄せており、その彼の影響が何らしかあるのではないでしょうか。

発売、楽しみにお待ちしております。

はじめまして
織田 創
いつも楽しく拝見させていただいています。
私は『信長公記』を主な材料にしてブログを書いているので、次の「歴史読本」非常に楽しみです。

ブログを書くとき桐野先生の書籍もかなり参考・引用させていただいています。
これからもブログの更新&新刊、楽しみにしています。
今後ともよろしくお願い致します。

「信長記」特集よろしく
桐野
>磯部さん

コメント有難うございます。
共著者の和田さんの原稿は「信長記」の概要をよく描いていますから、お勧めです。
私は、各論として、桶狭間合戦、長篠合戦、信康事件、本能寺の変以降が伝本によって、どんな描かれ方をしているのかをまとめました。
よかったら、読んで下さい。

>Tm. さん

ご指摘のとおり、尊経閣文庫は「安土日記」など、いろいろ重要な史料を所蔵していますね。
「天守指図」といえば、内藤・宮上論争が思い出されますが、安土城については、ほかにもまだいろいろな謎がありそうです。今回の共著者の和田さんが安土城に関して、サプライズな情報を持っているので、そのうち明らかになると思います。

>織田 創さん

おそらくはじめましてでしょうか?
織田さんのサイトは以前に偶然見た覚えがあります。熱心にやってらっしゃいますね。
拙著からも引用していただいているとか。今後ともよろしくお願いします。

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南日本新聞連載コラム「さつま人国誌」第9回連載。

今回は紙面の都合で、昨1日(金)に掲載されました。
次回からは通常どおり、土曜日です。

戦国島津氏のくじ取りというテーマ、なかなか興味深いです。
コラムに書いたように、貴久と義久の代、約30年に集中しています。忠恒(家久)の代になると見られなくなります。
島津氏が九州の雄となる過程で見られるというのは、いろいろな想像をかき立ててくれます。
また、国策の決定において、ここまでくじ取りに頼る戦国大名は島津氏だけではないかと思います。それを特殊と見るか、時代遅れと見るか……。

今回は(上)で、次回(下)は、豊臣秀吉の九州下向を前にして、「神慮」が動揺・混乱する様子を述べたいと思っております。



【2007/06/02 14:28】 | さつま人国誌
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今川義元墓

写真:桶狭間古戦場にある今川義元の供養塔

昨日は関東一円で激しい雷雨があった。

川崎では雹も降ったようだ。→この記事

初夏なのに、氷みたいな雹なんてと思ったが、雹は夏の季語なんだとわかって納得。

雹といえば、桶狭間合戦が思い出される。
信長が今川義元の本陣を攻撃する直前、突然雷雨が起こり、雹が降った。『信長公記』には次のように書かれている。

俄に急雨(むらさめ)石氷を投打つ様に、敵の輔(つら)に打付くる。身方は後の方に降りかゝる。

引用中の「石氷」が雹のことだと言われている。
「急雨」が昨日のような雷雨だろう。

この「石氷」が今川方には不運にも顔に当たり、織田方には幸運にも背中から降ってきた。このときの風向きが勝敗を分けたという。

さて、桶狭間合戦があったのは、永禄3年5月19日である。
これを西暦換算したところ、1560年6月22日だとわかった。
昨日の雹とかなり近い日であることが判明した。

同日か2,3日違いだったら、もっと劇的だったが、そういうわけにはいかなかった(笑)。

【2007/06/01 00:55】 | 信長
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