
久しぶりに古書紹介を。
表題の本、データは
ここです。
なお、著者の堀孝彦氏は達之助の4代目の孫だそうだ。倫理学や社会思想史の研究者である。
堀達之助といっても、あまり知られていないかもしれない。
長崎のオランダ通詞の家に生まれ、アメリカ捕鯨船員のマクドナルドから、わが国で初めて英語を学んだ。
ペリーが来航したとき、達之助は首席通詞として、ペリーの乗艦するサスケハナ号に向かって「I can speak Dutch」と叫んだという。
公式の外交の場で外国人と会話した最初の英語だといわれており、わが国の開国の象徴的なシーンでもある。
蕃書調所や開成所でも教授方に任ぜられ、わが国の英学界をリードした人物である。安政年間、冤罪で小伝馬町の牢獄に入っていたとき、吉田松陰とも交流があったという。
じつは、私が興味をもったのは達之助よりも、その二男の孝之のほうである。
孝之は安政年間、長崎で薩摩藩士の五代友厚の知遇を得た。それが彼の生涯を決定づける。
孝之は五代との縁がもとで、慶応元年(1865)、薩摩藩英国留学生の一員(英語通詞)としてヨーロッパに渡る。
この英国留学生派遣は、薩摩藩が海外に目を向ける大きなきっかけとなった。留学生だった五代友厚・森有礼・寺島宗則らの帰国後の活躍は有名である。
ところで、わが国の近代化や国際交流のさきがけとして、近年、英国留学生を称える「若き薩摩の群像」が鹿児島中央駅前に建立された。
その碑文には「藩士十七名の留学生」と書かれている。
しかし、実際に英国に渡った留学生は19名である。
2名が除外されている。それが元土佐藩士の高見弥一と堀孝之だった。2人とも薩摩藩士ではないという理由からである。
いやはや、昔も今も薩摩人は唯我独尊で狭量だと、県外人に言われるに違いないと落胆したものだ。
19名の前途有望な若者の雄飛を出身地で差別するとは、そもそもこの国際交流の精神にもとるのではないかという疑問は今も消えていない。
で、この本である。
堀孝之の履歴について、じつに興味深い史料が2点掲載されていた。
1,『町田久成略伝』
町田久成は英国留学生のリーダー格である。のち大目付。そのなかに、
「慶応元年藩命ニ依リ渡英密行留学生寺島(中略)、御船奉行見習通弁堀宗十郎(長崎人蘭学者堀辰之助ノ長子)」孝之は壮十郎と名乗っていた。宗十郎は当て字だが孝之のこと。また二男なのに長子としているのは間違いである。
それはさておき、孝之の御船奉行見習というのは藩の役職に見える。その前提として、孝之はすでに留学直前に薩摩藩士に取り立てられていた可能性がある。
2,桂久武宛て堀壮十郎書簡(2月22日付)
孝之が薩摩藩家老の桂久武に宛てた書簡である。そのなかに次のような一節がある。
「私事、今般代々御小姓与被仰付、冥加至至極難有仕合奉存候」孝之は御小姓与という家格を与えられ、非常に喜んでいる。御小姓与(おこしょうぐみ)とは、西郷や大久保と同じ城下士の家格(ただし、下から2番目の下級だが)である。つまり、堀はれっきとした薩摩藩士になっているのだ。
問題はこの書簡の年次である。著者は慶応元年ではないかと推定している。つまり、英国渡航前だ。
この書簡の宛所は「右衛門様」と桂の通称になっている。桂は明治になってから四郎と改名しているから、右衛門名乗りは四郎より前である。明治2年(1869)には版籍奉還があり、御小姓与など諸身分も解体されている。そうなると、この書簡の年次は慶応元年〜4年くらいに絞られる。このうち、慶応2年は桂が「天機伺」のため上洛中だから該当しないだろう。そうなると、慶応元年説はかなり可能性が高いのではないか。
藩当局は藩外人である堀を藩士身分にしてから留学させた可能性が高いといえないだろうか。
となると、もう一人の高見弥一も同様ではないか。
「若き薩摩の群像」に戻ろう。
堀孝之が留学直前に藩士になっていたとすれば、この銅像の「藩士」限定という条件からみても、堀が除外されたことは妥当だったといえるだろうか。同時に高見弥一についても再検討が必要ではないだろうか。