膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第11回
―信長、光秀と京で出会う―

右下のリンク欄からご覧になれます。
今回から2回にわたり、島津家久を取り上げます。
1回目は、天正3年(1575)の家久の上京を『家久君上京日記』から紹介しました。とくに、信長と光秀との出会いが中心です。

次回は、秀吉との戦い、島津本宗家内での家久の立場などから、いわゆる「毒殺」の一件を考察したいと思います。
 
本日(15日)、W大学院の某ゼミに出席。
後北条氏研究で有名なK先生のゼミである。

勉強会仲間のW大院生の方から上井覚兼日記を読んでいると聞いて、ぜひ参加したいのだがとお願いしたところ、K先生に了解をとってくれた。
もっとも、K先生がなぜ上井覚兼をやる気になったのかはわからない。しかし、同日記を系統だって読んでいなかったから、いい機会だと思って参加することにした。

W大学のキャンパスで勉強するのは、10年くらい前に参加していた織豊期の公家勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』の輪読会以来だ。懐かしい。

ゼミは順番に担当者を決めて発表する形式。
担当範囲を読んで、大意、語句・人名などの注釈、さらに日記の記述と関連する史料(『旧記雑録後編』など)を添付して解説するというやり方だった。

読んでいる時期は、同日記上巻の天正2年(1574)8月条あたりである。
庄内の北郷氏と大隅の肝付氏の所領紛争が島津義久のところに持ち込まれ、守護としてこの問題をどのように処理するのかというところが焦点だった。
肝付一族出身である浄光明寺の住職、其阿西嶽が周旋に関わっており、その立場や役割がどのようなものだったかなど、議論が盛り上がった。
印象としては、伊東氏の勢力後退により、肝付氏の孤立が深まっているように感じられた。そのため、肝付氏は老臣の薬丸兼持をわざわざ鹿児島まで派遣して、この所領紛争を義久に解決してもらうことで、何とか窮地を脱しようと、老中や奏者の覚兼などに懸命の工作をしているように見えた。

浄光明寺といえば、現在は南洲神社で西郷はじめ西南戦争戦死者の墓所だよなと思いながら、みなさんの議論を聞いていた。

上記のような私見も述べたが、私はどうも史料から離れて議論する傾向が強く、あくまで史料にこだわるみなさんの研究態度に教えられることが多かった。みなさん、非常に熱心で、わずか数行のために1時間以上の議論がつづいた。
そのため、本日、進んだのはわずか1日分だけ(笑)。

ゼミ生はマスターとドクターの院生のみなさんがほとんどで、当然20代前半の若い人が多い。そんななか、私より年長か同世代かと思われる方が2人おいでだった。浮いていなくてよかったなと思う。何せ指導教官のK先生も私よりもだいぶ若いからなあ(爆)。

ともあれ、なかなか知的な刺激を受けた一時だった。