膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
幕末の近江屋事件に名を残す近江屋井口家の当主新助氏の訃報をご遺族からいただいた。訃報は少し前から存じ上げていたが、改めて正式の書面でいただいた。

90歳を超されていたから、大往生といえるかもしれないが、一抹の寂しさが拭いきれない。

というのも、昨年春、とある座談会で対面がかない、親しく謦咳に接したからである。
杖をついておられたが、大変お元気で、近江屋の歴史について、いろいろ語っていただいた。

また、個人的にも大変お世話になっている。
昨年、歴史読本誌に発表した拙稿「龍馬遭難事件の新視角--海援隊士佐々木多門書状の再検討」の連載にあたって、井口家ご所蔵の佐々木多門書簡の閲覧・使用と写真掲載をお願いしたところ、快諾していただいた。また海援隊士白峯駿馬などの写真掲載も合わせてご許可いただいた。
拙稿をお送りしたら、ご丁寧な礼状をいただいたことも忘れられない。

昨年の上記座談会がひとしきり終わったのち、私が薩摩産だと話したためか、「ちょっと」と声をかけられ、「私の京都二中時代の話だが……」と切り出された。

「担任が末富東作という華奢な先生だったんだが、小説家志望で、懸賞小説によく応募していて、とうとうサンデー毎日か何かの懸賞小説に入選して、しばらくしたら先生を辞めて上京してしまわれたよ」

迂闊にも最初何の話かわからなかった。すると、

「ほら、鹿児島の海音寺さん……」

そう説明されてようやく思いあたった。奇遇なことに、井口さんの担任が、かの海音寺潮五郎の若き姿だったのである。海音寺氏は私の郷里の隣、大口市の出身である。

井口さんが私のためにとせっかく切り出されたのに、それに応えきれなかったのが悔しかったが、井口さんは「不勉強な若僧め」という感じで、にこにこ笑っておられたのをよく覚えている。

あとで調べたら、海音寺潮五郎が京都府立二中の教師をしていた時期は、1928〜34年(昭和3〜9年)だった。むろん、井口さんの中学時代とぴったり符合する。

1年前はあんなにお元気だったのにと残念でならない。じつは、今年もう一度お話をうかがおうという計画もあったらしいのだが……。
今度上洛する機会があったら、墓参したいものである。合掌。