歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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日経ベンチャー

経済誌『日経ベンチャー』8月号(日経BP社)に、表題の拙稿が掲載されました。ただ、この雑誌は定期購読が主で、書店売りはしていないようですね。

以下のような3部構成になっています。

1,豊臣家を裏切った忠臣たち
2,裏切りにあったとき、家康は……
3,大勝負を決した“凡人”の裏切り


今回は小説仕立てになっております。
関ヶ原の裏切りといえば、福島正則ら豊家恩顧の家康への帰順や小早川秀秋の日和見と裏切りが話題になりますが、2章で家康も裏切られたという視点を採用しました。家康の会津出陣は秀頼も承認した豊臣公儀の正式の軍役でしたが、政権の中枢にいる2大老と3奉行(三成を入れると4奉行)がこれに公然と背きました。家康も豊臣政権から裏切られたというわけです。

小説仕立ては久しぶりだったので、戸惑いが多く、何度も推敲しました。近年では珍しいです(苦笑)。

もしご覧になれる環境でしたら、読んでいただけると幸いです。

なお、近刊の雑誌やムックにも執筆しております。興味のある方はご一読下さい。

新・歴史群像⑨『本能寺の変』(学習研究社)
『歴史街道』9月号(PHP研究所)
別冊歴史読本『稀代の軍師 黒田如水と一族』(新人物往来社)

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【2007/07/31 00:40】 | 新刊
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新・歴史群像⑨『本能寺の変』
板倉丈浩
こんにちは。
表記の本、早速購入いたしました。「足利義昭推戴説」藤田達生氏の論考が興味深かったです。
気になったのが2点ありまして、ちょっとまとめますと、

(1)新史料「5月28日付け光秀書状写」の年次について

 この光秀書状は伯耆羽衣石城あてに送られたものであり、「委曲山田喜兵衛より演説あるべく候」は山田喜兵衛が使者として口上を述べることを意味している(副状の発給ではない)。
 一方、本能寺の変直後に出された西尾光教あて光秀書状には「委細山田喜兵衛尉申すべく候」とある。
 ゆえに、この文書の年次は天正10年とは考えにくい(3日間で約400kmの走破は不可能)。

(2)秀次の三好家養子入りの時期について

 1,(天正7年)11月25日付け「三好孫七郎殿」あて秀吉書状(福尾猛一郎氏所蔵文書)の存在
 2,良質な軍記物である『長元物語』や『南海通記』の記述
 3,三好家における秀次の実名「信吉」は信長からの偏諱と考えられる
 4,天正9年5月21日付け「宮部次兵衛尉吉継」書状(上坂文書)にある花押は、
   生涯変わらなかった秀次の花押と全く相違している(つまり宮部吉継と秀次は別人)

 以上のことから秀次の養子入りは本能寺の変以後であるとする見解は成立しない。

桐野さんや谷口さんの説を真っ向から否定しているようですが、どうでしょう?
特に、天正7年の秀吉書状は新出史料だと思いますが、年次がカッコ付きなのが気になるところです。


藤田説
桐野
板倉丈浩さん、こんにちは。

さっそくご購読されたようで(笑)。

(1)についてですが、「演説」だろうと「可申」だろうと、そんなに違わないと思いますよ。
たとえば、信長文書571号(天正3年10月25日付)の伊達輝宗宛て信長書状は、末尾が「猶使者可申候」となっています。
これは「使者」が副状を書くわけではなく、輝宗に直接伝えるわけですから、「可申」と「演説」の用法がはっきりと区別されているわけではありません。

また『小早川家文書之一』に足利義昭の御内書がいくつか収録されていますが、そのなかで「演説」文言が出てくるのを、とりあえず2点見つけました。

224号:永禄12年(1569)3月23日付
「委細聖護院門跡、国清寺可有演説候」

227号:元亀元年(1570)12月27日付
「委細聖護院門跡可有演説候也」

聖護院道澄が義昭の奏者をつとめているわけですが、門跡みずから備後まで出かけてじかに伝達したとは考えにくいのではないでしょうか。

ほかにも「演説」の用例はあると思いますが、「演説」も「可申」も奏者からの伝達という意味では、さして用法的に違いはないと思います。

付言すれば、この光秀書状の年次がいつであれ(個人的には天正10年だと思っていますが)、拙説にはまったく影響がありません。
私はたとえこれが天正10年でなかったとしても何ら困りませんが、藤田説は天正10年だと非常に困ることになりますね。

(2)について。
福尾猛一郎氏所蔵文書は未見です。できれば出典を書いてほしかったですね。
未見なので、何ともいえませんが、年次は大丈夫でしょうかね。天正7年とする根拠を知りたいものです。

あと、「三好孫七郎信吉」なる名乗りですが、素朴な疑問として、これは秀次と同一人物なのでしょうか?
次に「信吉」を信長の一字拝領としていますが、どうでしょうかね。
信長家臣団のなかで、「信」の一字を拝領した者はいないのでは。「長」は丹羽長秀などいますけど。
「信」は近衛信基、鷹司信房などの摂関家や、徳川信康や長宗我部信親など戦国大名の世子にしか与えていないと思います。
それらの事例からいけば、秀吉の甥にすぎない秀次に「信」の一字を与えるというのは不自然ですね。

秀次の花押については、一貫して変化がなかったといえるのかどうか、個人的には要検討です。

秀次のこと
こんばんは、胡です。
新・歴史群像⑨『本能寺の変』を購入しました。
藤田氏の反論を読んだが、詳しくないので、納得できるかどうか、まだわからないんです。

さて、秀次が三好康長の養子になった時点については、諏訪勝則氏と小和田哲男氏は正反対の意見を著書で述べましたが、諏訪氏は史料検証によって、秀次が三好家に入る時間を本能寺の変の少し後だと考えられる。

一方、小和田氏は天正九年九月頃のことと考えられる。理由は「事変の後は、秀吉が康長を懐柔する必要がない」とか、「長元物語」の記事(秀吉が康長に加勢して渡海する)が天正九年のことだと考えるからです。

もし、桐野先生のおっしゃるとおりに、当時は信孝がすでに康長の養子になったら、なぜ信長が秀次を三好家に送ったか?

また、藤田氏の反論に、一つの重点は秀次が「信吉」を名乗ることです。「信」は信長からいただいたとすれば、秀次が康長の養子になったのは、本能寺の変前のことに間違いなかろう。



福尾猛一郎
ぴえーる
ではなく、福尾猛市郎の間違いだと思うのですが、そうであれば、山口県文書館が「福尾猛市郎収集文書」および「福尾猛市郎文書」、広島大学図書館が「福尾文庫」として古文書を所蔵しているようです。

秀次の養子入り
桐野
胡さん、こんばんは。

えっと、私は、信長が秀次を三好家に送ったとは申しておりません。
私の意見としては、秀次が三好家の養子になったのは本能寺の変のあとです。したがって、信長が送れるはずがありません。秀吉が三好康長との関係を強化するために養子縁組したと思います。

一方、藤田説のとおり、信長存命中に秀次が三好康長の養子になったとした場合、藤田説も信長が送り込んだとはとらえておらず、あくまで秀吉が主体だと思います。
どちらが送り込んだにしても、信孝が養子になったのに、秀次も養子になるのはちょっと変で、それは胡さんのご指摘のとおりだと思います。

また、信吉が信長からの一字拝領だとはなかなか考えづらいというのは、前回書いたとおりです。



福尾猛市郎
桐野
ぴえーるさん、こんばんは。

ご教示有難うございます。

どこかで聞いたことがある名前だと思って、東大史料編纂所のデータベースで検索してみましたが、ヒットしませんでした。
ご教示後、「~市~」で検索したら、いくつかヒットしました。吉川の人物叢書『大内義隆』を書かれた人でしたね。


秀次の名乗り
桐野先生のご返答を読ませていただきました。だが、秀次の名前に、質問がありますが...

先生の仰ったとおりに、「孫七郎信吉」と秀次は同一人物とは限らないんです。ならば、その孫七郎信吉は宮部次兵衛吉継(秀次)とは別人という可能性がある。

しかし、小和田氏によれば、その「孫七郎信吉」は天正十一年に香西又一郎という者に知行状を与えた(PHP新書「豊臣秀次」)。もしこの信吉は秀次ではなく、やっはり三好一族の誰かだったら(三好式部少輔?)、天正十一年という時点には三好家に二人の「孫七郎」がいるのではないか。

その時、信孝はすでに織田三七郎を名乗って、三好康長の養子ではなかった。孫七郎信吉は孫七郎(ずっと「吉継」を名乗ってるか?)とともに三好康長の養子で、義兄弟の間柄であろう。



間違えました
先の返事は「信長が秀次を三好家に送り込みました」というわけではなく、「なぜ信長は秀次が三好の養子になることを黙認したのか」という意味です。どうもすみませんでした。<(_ _)>

三好孫七郎信吉
桐野
胡さん、こんばんは。

天正11年(1583)7月26日、三好孫七郎信吉が香西又一郎に知行宛行状(100石)を出している件について。
藤田恒春『豊臣秀次の研究』(文献出版、2003年)によれば、翌12年8月28日、秀次の署名で香西にさらに加増の知行宛行状(200石)を出しています。
ですから、信吉=秀次と見てよいでしょうね。

ただ、藤田氏は信長時代の秀次についてほとんど触れておらず、信吉から秀次への改名時期についても言及がありません。ただ、三好名字から羽柴名字へと変わったのは、天正12年夏頃だとしています。

信吉名での香西への知行宛行は、諏訪勝則氏の説の範囲内ですね。格別不思議ではありません。
問題はやはり、秀次がいつ三好信吉と名乗ったのかという点に絞られるでしょうね。

藤田説では天正7年とのことですが、果たしてどうなのか。
これが成立するためには、天正9年の宮部次兵衛尉吉継が秀次ではないことを立証する必要がありますが、藤田説では、上記三好信吉の文書の存在を根拠にしており、それで立証したことになるのか、個人的には疑問です。

谷口克広氏の指摘によれば、『惟任謀反記』に宮部次兵衛尉の名前が山崎合戦後の明智方残党の掃討戦に出てきます。これは明らかに羽柴軍の一員であり、秀次以外には考えにくいですけどね。

それからしばらくして(天正10年10月までに)、宮部次兵衛尉吉継が三好孫七郎信吉と名乗りを変えたという理解も成立するのではないかと思います。

その場合、「信」は信孝からの一字拝領の可能性もないとはいえません。もともと信孝が三好康長の養子になったわけですから、縁組み解消と秀次の養子入りにあたって、信孝の承認のあかしとしての一字授与だったとも考えられます。
それは同時に、秀吉と信孝の一時的な協調関係を意味したのではないでしょうか。




織田信孝
桐野先生、お忙しいなかでのご返答ありがとうございます。

信孝と言えば、谷口氏の言うとおりに、彼は四国政策で積極的に参与し、一国一城の主になりたいようですね。そうすれば、明智光秀と斎藤利三にとって、信孝は尤も危険な存在といえる。ですから、彼ら(または利三)は信孝を止めなきゃならないんです。(本能寺の変)これは偶然ではなく、おそらく明智らの一つの狙いだろうか。

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先日の上方上洛の報告。

【初日】
まず吉野に行く。
京都から近鉄に乗り、橿原神宮前で乗り換える。ここで友人の和田氏と合流し、一緒に吉野へ。
某財団法人が太田牛一『信長記』の写本を所蔵している。その閲覧が目的だった。年2回だけ一般公開され、所蔵史料の閲覧が許可されるので、この機を逃すと、半年は見られなくなる。

このような山中になぜこんな団体があるのかよくわからない。創設者の地元なのだろうか。とにかく、多くの古文書や古典籍を所蔵しているのである。

昼前に目的地に着く。駅から吉野川沿いの道を暑い中、20分近く歩いた。
来館者は私たちだけかと思ったら、先客があった。若手研究者らしき人が太平記の写本を一心不乱に閲覧していた。

私たちもあらかじめ用意してもらった『信長記』15巻を閲覧。
最初は2人で見ていたが、どうもペースを上げないとすべて見られないとわかって、巻を分けて別々に閲覧した。
事前に下調べしていたのと、ほぼ同じ結論を得られた。

帰路は館員の方に車で駅まで送ってもらった。疲れていたので、とても有難かった。
閲覧はできるが、撮影・紙焼などは不可とのことで、いささか消化不良だったものの、一応、最低限の成果は得られたと思う。

【2日目】
この日は、伏見に下る。
寺田屋関連の史跡をめぐる。
伏見の薩摩藩邸跡が某酒造会社になっているが、親切な社員の方から敷地内の見学を許される。多謝。
薩摩藩邸の前には濠川が流れている。人工の運河だと思うが、予想以上の水量と急流に驚く。
慶応2年(1866)正月、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬は幕吏に襲撃され、間一髪で逃れる。お龍から急報された薩摩藩邸では、大山彦八(巌の兄)が濠川から舟で救援に向かい、龍馬と三吉慎蔵を救出する。

この濠川なら、舟もすぐ下れただろうと納得する。
濠川沿いに歩く。窮地を脱した龍馬たちが潜んでいたという材木置き場跡などを見学する。
途中、豊臣政権時代の伏見城下ゆかりの地名がたくさん残っているのに気づく。
2

3

伏見から京阪電車で北上し、東福寺駅で下車。
東福寺塔頭の即宗院を訪れる。
即宗院は島津家の京都での菩提寺である。
昨年、初めてお伺いして、ご住職にいろいろお話をうかがった。
今回も事前に連絡してこの日の来訪をお知らせしてあったので、手際よくお迎えしていただく。

ご住職から、せっかくだから東福寺の名所をご覧下さいと、無料のチケットをいただいたので、ご好意に甘えることにした。
まず、東福寺でおそらく一番有名な通天橋と、その先にある開山堂(常楽庵)を見学。この開山堂の建物は一風変わっている。入母屋式でその中に閣を上げてある。閣の部分を伝衣閣と呼ぶらしい。
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東福寺開山堂。伝衣閣と庭園


次に、方丈庭園を見学。「八相の庭」と呼ぶそうな。
方丈の四方に庭園があり、南庭は「枯山水の庭」、西庭は「井田市松の庭」、北庭は「市松の庭」、東庭は「北斗の庭」という。

友人たちと、苔や低灌木でつくられた「市松」模様を見て、どのような意味なのか議論になる。「八相の庭」は釈迦が衆生救済を示した八相成道にちなんでいるそうだから、悟りを開いた成道を示しているのだろうか。

見学後、ご住職と歓談。
「採薪亭」という、人々に向けた新しい試みをされているそうで、あまり抹香臭くないことをやりたいというご趣旨らしい。とくに人間関係をテーマにされているようで、来年の催しで小生にもひとつ話をしてくれないかという依頼あり。これまでの講師の方々を見ると、とても私の柄ではないと思ったが、信長と光秀の関係でもいいとのことだったので、一応お引き受けする。予想外の展開で、とんだことになったと思った(苦笑)。

その後、一番の目的である墓所を見学させてもらう。
即宗院は島津家の菩提寺だけあって、江戸中期の元禄前後からの薩摩藩士の墓がたくさんある。なかでも有名どころは、

田中新兵衛(人斬り新兵衛)
奈良原喜左衛門(生麦事件)
道島五郎兵衛(寺田屋事件で有馬新七と串刺しにされた人)
中井弘(薩脱藩士、のち滋賀県・京都府知事)
などである。

今回はとくに、有馬新七の父、有馬正直の墓、文久2年(1862)に京都で病死した樺山孫次郎の墓を見学・撮影。

有馬正直は、関白近衛忠熈に嫁いだ興子(島津斉興一女)のお付きの家来として在京し、京都でなくなっている。有馬新七の日記には、父の墓参のため、即宗院を訪れた記事が書かれている。

樺山孫次郎については、それほど知っているわけではないが、樺山資紀が孫次郎没直後に、橋口家から樺山家の養子に入っていることと何か関連があるのかもしれないと思っており、もう少し詰める必要がある。

即宗院を辞去したのち、河原町に向かう。三条を下った先斗町にある中華の「風南」で宴席となる。
京都国立博物館の宮川禎一氏や友人の研究者中村武生氏や東京龍馬会関係者の方々などと歓談。
賀茂川沿いの川床での宴席で、いかにも夏の京都らしい風情。賀茂川からの涼風でとても快適だった。

【3日目】
二本松の薩摩藩邸跡周辺を見学。
近衛殿跡、今出川の近衛邸(桜木御殿)、朔平門外猿が辻(姉小路公知暗殺地)、石薬師の大久保利通邸跡などを見て回る。

その後、黒谷に行く。
今春他界された近江屋主人の井口新助氏の墓参のため。昨春お会いして貴重な話をうかがったのに残念である。献花・焼香した。
上田藩士赤松小三郎(中村半次郎に殺害)の墓、会津墓所なども見学。

昼食後、大雲院を見学。
日頃非公開だが、この時期は一般公開されていたばかりか、織田信長・信忠父子の画像も公開され、祇園祭の山車の形をした祇園閣にも登れるとあって、これを見逃す手はない。
大雲院は信忠の法号にちなむ。戦後に寺町から移転してきたが、戦前は大倉喜八郎の別荘だった。大倉家の別荘が今も残っているし、祇園閣は喜八郎がつくったという。
祇園閣の上に登ると、京都の市街と東山が一望に見渡せる。
東京龍馬会の方々は、霊山墓地が見えると、いたくご満悦だった。
霊山観音や知恩院、京都タワー、清水の三重塔などもよく見える。
一般公開はしばらく続くので、未見の方にはお勧め。
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祇園閣の上から境内の信長・信忠の墓、島津以久の墓を見下ろす

その後、京都国立博物館に行く。
昨日お会いした宮川さんに迎えていただく。
宮川さんには、昨年井口家文書、なかでも海援隊士佐々木多門書状の閲覧でも大変お世話になった。
今回も寄託史料を見せていただく。昨年閲覧できなかった史料も見られたのがうれしかった。

今回も充実した上洛だった。
関係者のみなさんに御礼申し上げます。


【2007/07/30 00:49】 | 雑記
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ばんない
酷暑の関西、お疲れさまでした。
今日は先週に比べると比較的涼しいようです(とは言っても動くと汗だくだくですが)

吉野の某財団法人ですが、桐野さんのお察しの通りです。
ttp://www.geocities.jp/ryum○nbunk○/enkaku.htm
(直接リンクよけのため一部伏字)

某酒造会社のそばを流れる川ですが、明治以降の琵琶湖疎水の開通も関係していて、江戸時代以前の堀そのままの状態では残ってないようですね。濠川の水量が多いのは、明治時代に琵琶湖疎水とつながったためだそうです。
http://agua.jpn.org/yodo/higasitakase/higasitakase.html
http://agua.jpn.org/yodo/hori.html
京都ではその疎水工事に携わった北垣国道知事の知名度が高くて、今回でてきた中井弘知事の知名度はほぼ0に近いと思います(汗)

東福寺の普門院の庭は明治10年に改造を加えたため、当初の原型が崩れているとのこと(『京の庭』山と渓谷社)改造箇所はネタにされていた市松と、池の間にある石積みの参道です。なので、作庭の意図がよく分からなくなっている可能性があります。作庭時期は上掲本に依れば延宝年間とのこと。

大雲院の特別公開の話、ありがとうございました。9/30日までのようですね。暑い京都、しかも墓場は藪蚊が多いので非常に嫌なんですが(汗)、覚悟を決めて行って来ます。

行ってきました…
ばんない
ようやく暑さが一段落したので、行ってきました。
それでも寺宝の展示してあった部屋はクーラーが利いて無くて、説明のボランティアの方は気の毒でした。しかし、送り火のあった旧盆前後はもっとすごかったそうで…。

祇園閣に登ると、風があったのでとても涼しかったです。眺望も絶景でした。順路に入ってなかったようなので係の方に一言言ってから以久+@と信長・信忠親子のお墓参りしてきました。佐土原島津家関係の史料は墓以外皆無だったのは残念でした。

大雲院
桐野
ばんないさん、おはようございます。

大雲院行かれましたか。
少し涼しくなってよかったですね。

そうそう、墓所のほうは順路に含まれていませんでしたね。私たちも係員に一言断ってから参拝しました。
島津以久墓所、詳しくみたわけではないですけど、江戸後期あたりの年号がありましたね。必ずしも殉死者だけとはいえないかもしれませんね。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第17回
―壮絶な武士道と愛の形―

連載コラムが更新されています。
右下リンク欄からご覧になれます。

今回はおそらく当連載でいちばん変わったテーマかもしれません。なかなか正面から取り扱われる話題ではないからです。

分量の関係でコラムだけでは書ききれなかった点を補足しておきます。

私はこの問題は近世薩摩の郷中教育の成立との関係で、もう少し掘り下げられてもよいのではと思っております。

この方面の名著といわれる、氏家幹人『武士道とエロス』(講談社現代新書)では、武士道と衆道が密接な関係にあったことが明らかにされています。
とくに薩摩関係の話題が多く、平田三五郎の話や、拙コラムでも取りあげた明治中期の「稚児道」が薩摩の衆道の典型例として語られています。

ただ、こうした逸話を「衆道」のみを媒介項にして語るだけで十分なのかという点については、最近、少し疑問をもっております。
とくに「稚児道」や「稚児様」という美少年を二才たちが祭り上げる慣習は、薩摩の外城制との関係も考慮に入れるべきだろうと思い始めています。
美しい「稚児」が「主君」になぞらえられていたことの意味を掘り下げてもいいと思うのです。
またこの風習の成立に、おそらく山田昌厳が関わっているのではないかという感触もあります。


【2007/07/28 17:52】 | さつま人国誌
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しずのおだまき
ばんない
また、特定の女性がよってたかって喜びそうなネタをテーマにされましたね(苦笑)

平田三五郎は桐野さんも挙げられた『本藩人物志』には「(平田)増宗の子というは誤れり(以下略)」とあり、系統不詳のようですね。しかし、あの新納忠元も挽歌を寄せたという人物ですから家老クラスの人物の息子の可能性も棄てきれないと思います。一方の吉田清盛は同じ『本藩人物志』をたどると曾祖母が島津善久の娘です。
さて、その二人に対して挽歌を寄せた新納忠元にも、そういう話が伝わってますね(もちろん庄内の乱の時ではなくて、もっと若いときです)。…忠元のイメージが崩れるので、関係者には余り知れ渡って欲しくない話かも知れませんが(苦笑)

庄内の乱の様相を伝える数少ない史料『庄内軍記』は『島津史料集』に所収されているので読んだことがあるのですが、やたらこの手の話を多く載せています。『庄内軍記』の成立は江戸時代中期とのことですが、衆道関係の話を大量に採用したのは何らかの関係があるのでしょうか。

閑話休題、本富安二郎が旧長岡藩士だったことを今まで知りませんでした。恥ずかしい。仇敵だった場所に仕事とはいえ赴任する心境はどんな物だったんでしょうか。今回のテーマから完全に逸脱しますが、ちょっと気になりました。

本富安四郎
桐野
ばんないさん、こんばんは。

平田三五郎といえば、一部同人誌系業界では、BLの象徴的人物かも知れませんね(笑)。

おそらくご存じでしょうが、「薩摩見聞記」は『日本庶民生活資料集成』第12巻(三一書房刊)に収録されています。
冒頭の解題を原口虎雄氏が書いています。それによれば、本富安四郎は、長岡藩士といっても、生年が慶応元年(1865)ですから、明治維新のときは3歳か4歳。長岡藩と政府軍の熾烈な戦いはほとんど記憶にないでしょうね。
東京英語学校を卒業して、宮之城の盈進高等尋常小学校に赴任したのは25歳のときです。翌年にはもう校長を拝命していますから、優秀だったのでしょう。高等尋常小学校でも、英語を教えていたのでしょうか?

「米百俵」の国から来た本富には、仇敵薩摩がどのように映ったのか興味がありますね。


山田昌厳
かじやちょう
かじやちょうです。

今週のさつま人国史はおもしろいテーマですね(笑)
山田昌厳との関連ですと、島原の乱後に彼が始めたといわれる「稚児請」でしょうね。稚児請は外城の郷中教育のために作られ、各外城にものですので、直接衆道には結びつかない気がします。もちろん時代が下って初期の目的がなくなるとわかりませんが(笑)

稚児請
桐野
かじやちょうさん、お久しぶりです。

ご指摘のとおり、稚児に日傘を差したり、他郷からの襲撃を阻止するための寝ずの番などは「稚児請」の現象だと思います。
これは稚児を主君に見立てるものですから、この稚児を衆道の対象にするのは畏れ多い行為になりますね。

ただ、薩摩藩の郷中教育は男だけの閉鎖社会ですから、こうした美しい稚児への憧憬が衆道とある程度重なってくるのは致し方ないですし、二才と稚児では年齢差もあって、往々にしてそのような関係が生じてもおかしくないですね。

稚児請
ばんない
みなさんこんばんは。
「稚児請」(ちごもうし)とは初めて聞く言葉で、取りあえず何がなにやら分からないので、安直にネット検索してみました(汗)。あまり情報がなかったのですが、比較的よく説明されているのが
http://www9.ocn.ne.jp/~kihunkan/ihm3.htm
上のサイト(おそらく出水市のパンフレットか何かをコピーした物でしょうか)かと思われます。
この説明では留守を守っていた山田昌厳の跡継ぎがたまたま13歳と若かったことが「稚児請」の発祥と受け取れます。…留守を守っていた跡継ぎがもし昌厳の長男で壮年の男性だったら、その後の薩摩の郷中教育の様相は一変してたのかも知れませんね。

ところで、山田昌厳(有栄)は父・有信と共に勲功著しく、特に昌厳は当時薩摩藩の中でも異様な長命を保っていた長老だったこともあってか、家老になっていますが、その子孫では家老になった人物はいないらしい、ということを何かの本で見たことがあります。戦国の世が遠くなると共に功績が忘れ去られて、次第に冷遇されたのでしょうか。

ところで、「薩摩見聞記」の件、ありがとうございます。『日本庶民生活史料集成』に所収されていたとは存じませんでした。本富安次郎、お書きになられていた経歴を見ると、夏目漱石と似たところがありますね。最も漱石は更に抜擢されて国費留学でイギリスに行ったのがまずかった?最もその時の神経症のおかげで、大小説家・漱石が誕生したともいえますが。

三五郎塚
KK
平田三五郎の墓(三五郎塚)
平田三五郎は実在の人物で、墓は今でも子孫が墓参りしているそうです。財部町の史跡に指定されている。平田三五郎の墓が鹿児島県曽於市財部町北俣の古井荷込坂の上に在って、[三五郎塚]と云う。
財部町の観光課によると、財部駅からタクシーで10分だそうです。(古井・こい)

JR日豊本線財部駅から、財部南郵便局がある馬立を目指す。馬立の理髪店の角から古井へ向かって1.5キロ、橋を渡って、次の小川を渡った左前方、先の古井十字路まで行かない坂を手前で左にはいる。(東九州自動車道では 末吉財部IC)

http://www.mapion.co.jp/phonebook/M16006/46217/L0804350/
拡大とドラッグして動かせる。


御礼
桐野作人
KKさん

三五郎塚の紹介有難うございます。
行く機会があるかどうかわかりませんが、取り急ぎ御礼まで。

二才・郷中制度
KK
桐野さま
この男色の社会的制度ともなっている二才制度と・郷中制度は、出水が一番強固だったそうですね。また、一部に、明治以降、昭和まで残っていたと聞きましたが、どういう形か知りませんが何かご存知でしたら教えてください。

「賎のおだまき」
KK

「賎のおだまき」は国会図書館に蔵書されていますが、国会図書館デジタルライブラリー制度ができて、蔵書されている以下の3つの版がNetで見られるようになりました。
参考にアドレスをかいておきます。

国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
 http://kindai.ndl.go.jp/index.html
 http://www.ndl.go.jp/jp/data/endl.html

1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8
2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10
3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂,   明20.8


「賎のおだまき」
桐野作人
KKさん、こんにちは。

同書が国会図書館の近代デジタルライブラリーで閲覧できるというのは、小生も存じており、この本だけでなく、よく利用しております。
ご教示有難うございました。

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明日から二泊三日で、上方方面に出かけます。

そのため、しばらく更新やコメントができませんので悪しからず。


【2007/07/24 23:12】 | 雑記
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W大学のK先生のゼミ、先日、前期が終了だった。
せっかく受講させてもらっているのに、このところとみに多忙で、隔週しか行けなかった。

まだ日記の最初、天正2年(1574)をやっている。
牛歩のような進行だが、その分、中身が濃い。担当の院生のみなさん、とても充実したレジュメを作ってこられる。

川辺、麑(鹿籠)、藺牟田、牛根など、鹿児島特有の地名が頻出。
人名も、伊地知重秀、川上久隅、平田宮内少輔、伊集院久治などが多彩な人物が登場。

とくに平田宮内少輔の人名比定について、『旧記雑録拾遺 諸家系図』、『君家累世御城代御家老記』などをもとに、平姓平田氏の系図復元にまでチャレンジされていて、感嘆した。
平田氏は代々、老中を出す名門だったが、義久から忠恒への代替わりで、嫡流の平田増宗が粛清されてしまい、系図の復元はなかなか難しい面があるだけに、意欲的な研究だった。

個人的には、川上久隅が義久から藺牟田地頭を勤めるよう命じられたのに対して、「御名字」を理由に詫言をいって辞退している一節が面白かった。
地頭は、島津本宗家の根本被官が任ぜられる役で、島津氏の異字分家である川上氏が勤めるのは家柄無視だと、久隅が抵抗しているわけである。
これは分家や外様国人の独立性を削り取ろうという義久の政策の一環ではないかと思えた。

川上久隅はこの後、大した働きをしていないし、地位も禄高もさほど上昇したとは思えない。
一方、同族の川上久朗流が引き立てられて、その後、勢力が増大しているように見える。

ゼミ終了後、他大学の院生による報告もあった。
後北条氏と豊臣政権の交渉における北条氏規の役割についてである。氏規が酒井忠次に宛てた書状の年次が議論の焦点だったように思う。他大学からの他流試合である。後北条氏を専門とするK先生だからだろう。M1とのことで、少し緊張されていたが、積極的な姿勢は好感がもてた。

その後、受講生のみなさんと前期終了の打ち上げ。
私より年配の院生の方と研究テーマについて雑談。最寄り駅から大学まで毎日徒歩で通っておられるとかで、大変元気で熱心な方である。少しは見習わないと。

また、韓国からの留学生も受講されていた。島津義弘に関心がおありのようで、とても驚く。「敵をよく知らないと……」と冗談めいて話されたのには爆笑。何と言っても「鬼石曼子」だから。何か手伝えたらよいが。
研究以外に、向こうの徴兵制や軍隊生活の話、韓流の話で盛り上がる。

みなさん、二次会に行かれたようだが、私は休肝のため、一次会で失礼した。とても、刺激的で楽しい一時だった。



【2007/07/24 01:01】 | 戦国島津
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紙屋敦之氏の研究ノートである。
前から探していたが、なかなか入手しにくかった。発行者である福岡大学七隈史学会のサイトにメールを送ったところ、在庫はすでになかったが、親切にも複写していただき、無料で郵送していただいた。まことに有難い。ご厚意に感謝します。

掲載誌:七隈史学会会報5号
発行年:1992年
発行者:福岡大学七隈史学会


梅北一揆は文禄の役が始まったとき、島津家の地頭だった梅北国兼らが出征の途中、肥後の佐敷城を奪って反乱を起こしたが、わずか数日にして鎮圧された事件である。朝鮮出兵中、唯一の反乱だといわれている。

梅北一揆の評価については、同じく紙屋氏の論文「梅北一揆の歴史的意義―朝鮮出兵時における一反乱―」(戦国大名論集16『島津氏の研究』所収、吉川弘文館)がほぼ定説化している。

紙屋氏は、従来、朝鮮出兵の軍役を拒否した反乱とされてきたのに対して、在地に対する支配権を否定されるのに不満をもった在地領主層の統一政権に対する反乱だと位置づけた。

表題の研究ノートは、上記論文を補強するために書かれたと思われる。
この論文で知ったことは、

1,梅北国兼がもと宮原刑部左衛門といい、薩摩国川辺郡加世田の宮原を本貫とする国人だったこと。のち、梅北宮内左衛門が戦死したのち、その養子となっている。

2,梅北一揆の起こる1年前の天正19年(1591)4月、川辺郡川辺の山の寺(宝福寺)で大野忠宗という川辺郡山田を知行する国人が斬られている。これは小規模な合戦だったかもしれない。誅したのはおそらく島津本宗家。とくに義久の意向だと思われる。

3,梅北一揆では梅北国兼に田尻但馬や東郷甚右衛門らが一味した。一揆後、討死した田尻但馬の叔父の荒尾嘉兵衛が妻子を引き連れ、知行地の市来から川辺の山の寺まで来たところを門前の一之瀬村でことごとく討たれたという。

4,梅北一揆を挟んで、その1年前に大野忠宗が義久の命で斬られ、一揆後、一揆の首謀者の一人、田尻但馬の一族縁者が斬られた。どちらも同じ川辺の山の寺だった。紙屋氏はこれを偶然ではないとし、山の寺が薩隅の国人たちから尊崇され、精神的紐帯になっていた寺であり、荒尾嘉兵衛らは大野忠宗の死に殉じたのではないかと指摘している。

5,紙屋氏によれば、梅北一揆の原因は朝鮮出兵というより、大野忠宗斬殺のほうにありそうだ。朝鮮出兵で軍役が強化されるのに伴い、国人の在地支配を否定する政策が遂行されたため、梅北らはそうした統一政権に従う島津氏の大名権力に反乱を起こさざるをえないほど追いつめられていたということであろうか。

薩隅の国人たちが信仰の聖地とした山の寺が果たしてどんな寺だったのか、とても興味を惹かれる。
短い研究ノートながら、いろいろ教わった。


【2007/07/22 01:01】 | 戦国島津
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読んでみたいです。
くみ
自分の地元が梅北一揆に絡んでいるとは…
初めて知りました。

山寺は川辺の北部、大野氏の居城跡は実家の近くです。

地元の歴史、もう一度ちゃんと勉強しなくては。


桐野
くみさん、こんにちは。

そうなんです。くみさんの地元のほうと関係がありました。
宝福寺はいまも残っているのでしょうか。またいまでも「山の寺」と呼びますか?

大野忠宗という人物は興味深いですね。もともと薩州家の流れらしいですけど、義久の側近でした。
また養嗣子はのちに島津家久の家老となった樺山久高です。
加世田地頭をつとめるなど、かなり名門のはずですが、なぜ誅せられることになったのか、よくわかりませんね。





くみ
宝福寺は現在は残っていません。
でも、今でも山寺(やまんてら)と呼ばれています。

大野氏は一族悲惨な最期だったという話は
小さい頃から聞かされていましたが、
なぜそのようになったのかということに関しては
そういえば何も知らないな…と反省。
何か分かればご連絡します。

山の寺宝福寺、大野忠宗
ばんない
皆様お仕事中のこんな時間からこんにちは(^^;)

なかなか興味深い論文のご紹介ありがとうございます。是非私もタダでコピーを…怒られますね(汗)
紙屋氏は「梅北一揆=島津家への反乱」と考えておられるようですが、その説では籠城した場所が加藤清正領内の佐敷城なのが矛盾しているようには思われます。今回桐野さんがご紹介された小論では、その辺りの謎は解決されているのでしょうか。

大野忠宗の殺害について、「薩藩旧記雑録」所収の「諸氏系譜」や「本藩人物志」では理由不明としていますね。大野忠宗については拙HPでその娘について触れたことがあります(URL参照)

”山の寺”宝福寺がこんなところで絡んでいるのも興味深かったです。この寺はなかなかに曰く付きのお寺といいますか、この後、島津光久に誅殺される島津久章が一時期蟄居させられていた寺ですし、久章が殺害された清泉寺はこの山の寺の末寺だったといわれています。
また、島津家久(元「忠恒」の方)の家老であった三原重庸が同じ家老の島津久慶と対立し、幽閉されたのも確かここだったと記憶しています。



山の寺
桐野
ばんないさん、こんばんは。

山の寺は、島津久章も関係ありましたか。
三原重庸までとなると、一種の高野山的な役割でしょうかね。
大変興味が湧きましたので、また調べてみたいと思います。

梅北一揆の評価についても再検討する必要があるかも知れませんね。

期待しております
ばんない
>大変興味が湧きましたので、また調べてみたいと思います。
期待して待っております。

三原重庸が山の寺?に幽閉されたという話は確か「町田氏正統系図」に出てきます。三原重庸の娘が町田忠尚(島津家久の六男)の妻であり、三原が佐土原藩主に町田忠尚を据えようとした云々…という話であったと記憶しています。興味深かったのでコピーとってたはずなんですが、紛失したらしく見つかりません(涙)

ちなみにその町田忠尚を産んだ側室、梅北国兼の実家と同族と思われる宮原氏出身です(彼女も変死しているようです、URLご参照下さい。)

三原重庸
桐野
ばんないさん、こんにちは。

いつもディープな話題有難うございます。
「町田氏正統系譜」を見てみました。その巻三十あたり(412~423号)に、ご紹介の事件の顛末について史料がたくさん並んでいますね。
「謀書」とか「毒殺」とか物騒な言葉が並んでいます。佐土原家の二代目忠興がなくなって、その子万寿が幼少だったために、三原が野望を膨らませたようですね。自分の孫が大名になるかもしれないと、逸ったのでしょうか。

ただ、三原が幽閉された場所は山の寺だという記事は見つけられませんでした。ざっと見ただけなので、見落としている可能性があります。
その代わり、「罷重庸家老職囚諸霧島山華山寺」という一節がありました(538頁上段)。
霧島の華山寺といえば、霧島六所権現の別当寺ですね。
あるいは、幽閉先はこちらだったでしょうか?


三原重庸、陰謀す?
ばんない
>いつもディープな話題有難うございます。
今後はライトな話題を心がけようと思います。

…で、ディープな話題の続きになるのですが(汗)
その「町田氏正統系譜」に載っている「佐土原藩乗っ取り」事件ですが、うろ覚えの記憶に頼って考えると、次期佐土原藩主がいくら幼いとはいっても、(確かに本宗家の男子とはいえ)町田家に養子に出た忠尚が乗っ取りすることは、系譜関係から見てかなり無理があるのではないかと思われます。
とすると、
・この三原重庸の陰謀そのものがデマ
或いは
・娘が(他家に養子に出ていたとはいえ)藩主の息子の妻となったことで、三原重庸の頭が常識が吹っ飛ぶくらい浮かれてしまい、本当に陰謀を企てた
のどちらかと考えられますが…。
この後、三原追放の当事者である島津久慶が藩主・光久に左遷されることも考え会わせると、なんだか実際に佐土原藩乗っ取りの陰謀があったというより、薩摩藩内部の権力闘争が背景にあったような気がしてなりません。

さて、最初の話に戻りますが三原重庸の幽閉された寺ですが、何しろうろ覚えで書いているので、もしかしたら「山の寺」ではなく、ご指摘の霧島の寺だったかも知れません。混乱させてしまい、申し訳ございませんでした。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第16回
―大久保利通と深い親交―

最新の記事に更新されました。
右下のリンクからご覧になれます。

今回はタイトルのとおり、大久保利通と龍馬の交流について書きました。
両者の関係はほとんど知られていないと思います。大久保が薩摩に来た龍馬に、衣服や刀の大小を贈るなど、親密な交流があったことがうかがえます。

なお、大久保の写真は、ご子孫の大久保利泰氏からご提供いただきました。
また文中の「薩摩拵」については、調所一郎氏(調所広郷子孫)のご助言や著作を参考にさせていただきました。
お二人にはこの場を借りて御礼申し上げます。

次回は、平田三五郎の予定です。
その人誰? という方が多いかも知れませんが、知る人ぞ知る少年です。お楽しみに。

【2007/07/21 13:19】 | さつま人国誌
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昨日、豊臣秀吉関係の研究会に出席。

豊臣政権から近世初期の対外関係史、とくに日朝関係史に詳しい米谷均氏の報告が表題のようなテーマであった。

秀吉の朝鮮侵略が失敗に終わり、文禄の役末期に講和を探る動きが出てくる。小西行長と沈惟敬の画策により、秀吉を日本国王に冊封することになったのは知られている。

その冊封のプロセスを細かく追った報告だが、これまで見たことのない明や朝鮮側の史料を見て驚くことが多かった。

とくに、このときの冊封は秀吉だけでなく、徳川家康以下十数人の大名も一緒に冊封されていた事実に驚く。家康は右都督だそうな。
古代の奴国王や卑弥呼から、懐良親王や足利義満など、国王冊封の事例はいくつかあるが(実際は倭五王を含めて15例だけとか)、陪臣まで一緒に冊封された事例は秀吉のほか、卑弥呼と倭王珍の事例があるようである。

秀吉は明らかに明から日本国王に冊封されたことを確認するとともに、明使の日本派遣から秀吉がこの冊封を否定するまでの動きも大変興味深かった。
先行研究では、徳富蘇峰の『近世日本国民史』がもっとも史料を網羅していて、現在でも基本論考になっていることも意外だった。

メンバーも豊臣政権に詳しい山本博文・曽根勇二・堀新の諸氏、日明関係史に詳しい伊川健二氏など、錚々たる研究者ばかりで、こちらは議論を拝聴するばかりだった。それでも、大変ためになった。
ちょっと分不相応な参加だったかもしれないが、研究の最前線の雰囲気が味わえた気がする。

【2007/07/18 15:51】 | 戦国織豊
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陪臣の爵官
武藤 臼
大陸から見た日本史的な流れには興味を覚えます。朝鮮出兵について、双方でそういう研究が進むと面白いです。

ところで册封に際して陪臣が爵官を授けることは珍しくありません。日本についていえば、卑弥呼が親魏倭王に封じられた時、卑弥呼の使者として帯方郡へ使わされた難升米が率善中郎将、牛利が率善校尉として銀印青綬を仮授されたとされています。

訂正
桐野
武藤 臼さん、こんばんは。

ご指摘のとおりでした。
卑弥呼の朝貢使の難升米と牛利が冊封されてました。
私のまったくの間違いで、米谷さんのレジュメはその旨記してありました。米谷さんの名誉のために明記しておきます。

なお、米谷さんによれば、ほかにも倭王珍の家来倭隋ら13人が平西征虜冠軍輔国将軍に任ぜられているようです。

私の間違いでしたので、本文も訂正しておきます。
ご指摘有難うございました。

官爵の推薦権
武藤 臼
素早い対応恐れ入ります。
コメントした後で思ったのですが、中国から陪臣への官爵の付与について、誰にどんな位をもらうかを皇帝に推薦することで臣下を統制する権威づけに使う、という考えがあったように思います。織田信長が朝廷に臣下の受領名を推薦していたという類の話と重なるとも思うのですが、この秀吉冊封の際、家康のほか誰がどんな官名で、それを誰が明に推薦したのか興味が湧きます。秀吉がするはずはないので、やっぱり小西行長でしょうか。


板倉丈浩
武藤臼さん、こんばんは。
自称・朝鮮役研究家の板倉です(笑)
さて、陪臣の爵官ですが、講和使・内藤如安(小西飛騨守忠俊)が明の兵部尚書あてに出した請願書によると次の通りです。

国王→秀吉、妃→妻豊臣氏(北政所)、神童世子→嫡子(秀頼)、都督・関白→養子秀政(秀次?)

大都督(5)→小西行長(西海道を世襲)、石田三成、増田長盛、大谷吉継、宇喜多秀家

亜都督(10)→徳川家康、前田利家、羽柴秀保、小早川秀秋、蒲生氏郷、毛利輝元、平国保(上杉?)、小早川隆景、有馬晴信、宗義智

都督指揮(11)→前田玄以、毛利吉成、長束正家、寺沢正成、施薬院全宗、柳川調信、木下吉隆、石田正澄、源家次(?)、平家親(?)、小西末郷

亜都督指揮(6)→島津義弘、松浦鎮信、山中長俊、五島純玄、岡本重政、平信(?)

一見してわかるとおり、小西行長に親しい人が優遇されているお手盛り人事です(^^;
明の記録では、行長・秀家・長盛・三成・吉継・家康・輝元・秀保に都督僉事、如安に都指揮使が授けられたとあり、また上杉景勝と毛利輝元は都督同知、前田玄以は都督僉事の任命書が残っていますので、実際に任ぜられた官は上記の表とはちょっと違っていたようですが、詳しくはわかりません。

で、この処置は、順義王を封じた旧例に倣ったものとあります。
室町将軍への処遇とは明らかに違っており、順義王アルタンは元朝滅亡後のモンゴルで最大の英傑とされるほどの人物ですから、明は秀吉を決して軽く見てはいなかったといえると思います。



武藤 臼
板倉さんこんばんわ
予想どおりに面白いです。
島津義弘より上に、あんただれだっけ?というのが何人もいますが(笑

明朝の資料は手元に全くないので、職制が分からないのですが、亜都督指揮とかなんか聞き慣れない名前ですね。明の記録のほうの都指揮使、同知に馴染みがあるのを見ると、如安の申告ミスなんでしょうか。

ここでアルタン・ハーンの名前を聞くとは意外です。それはかなり高い評価ですね。

アルタンと秀吉
板倉丈浩
すみません。一ヶ所、誤りを発見しました。
 ×平家親(?)
 ○平行親(?)
それでも、誰のことかわからないことに違いはありませんが(^^;

>ここでアルタン・ハーンの名前を聞くとは意外です。それはかなり高い評価ですね。

王号は当初「順化王」が予定されており、これからも秀吉の冊封がアルタンを非常に強く意識していたことがわかります。
で、秀吉もその点をわかっていたのか、冊封そのものは受け入れていたようなんです。


武藤 臼
>秀吉もその点をわかっていたのか、冊封そのものは受け入れていたようなんです。

?では秀吉は何に激怒したのですか?

如安の行為自体は謁見に映ります

補足説明です
板倉丈浩
>では秀吉は何に激怒したのですか?

秀吉は明使節を歓待したのですが、一緒に来た朝鮮使節には会おうとしなかったんですね。
といいますのも、来日した朝鮮使節の身分が低いことが判明したため(釜山で明使節の接待をしていた役人でした)、朝鮮王子が御礼に来ることを期待していた秀吉が「侮辱された」と思い激怒したようです。
そして秀吉は、明使節の求めた朝鮮からの完全撤兵(これは冊封の前提条件でした)を拒否して、使節を追い返します。
その後の数ヶ月、明は朝鮮からの援軍派遣要請を断りながら、日朝間の紛争を調停してなんとか冊封を完成させようとしますが上手くいきません。
そうこうしているうちに、明で政変が起こって講和派が失脚してしまい(同じ頃、秀吉も大軍派遣を決断)、全面戦争に雪崩れ込むことになった・・・というわけです。

>如安の行為自体は謁見に映ります

如安は明の兵部尚書あてに、この名簿を審査資料として活用してほしいと請願していますが、陪臣の爵官はあくまでも明の主体的判断で決定された事項です。
任官した諸大名に特に不満もなかったようなので、如安の「お手盛り」にもかかわらず、実際に付与した官は日本国内での序列に配慮したものになったのではないでしょうか。



武藤 臼
ということは、大河ドラマでよく見かける、「日本国王に封じる」と詔書を読み上げた明使節に激高するというのは、ちょっと違うということなのですね。

>如安の行為自体は謁見に映ります
ああ、酷い誤字だ、越権が・・・
国内の序列に叶ったものだったとなると、尚更馴染みの無い名前が気になりますね

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薩摩切子

黎明館の学芸員Nさんより、表題の図録などを頂戴する。多謝。
この2月、鹿児島に帰り黎明館を訪問した。そのとき、Nさんの肝煎りで、小松帯刀や村田新八などの書簡を閲覧させていただいた。
その折のご好意につづき、また図録2点、紀要1点お送りいただき、感謝するばかりである。

さて、図録「薩摩切子」だが、3年前の特別展のものである。
現存が確認されている薩摩切子は200点ほどではなかったかと思うが、図録には70点以上収録されているのではないか。これほど一堂に集まるのは稀有なことだろう。

個人的には深い藍色の切子が好きである。
なかには、「紫色切子ちろり」という急須形の切子がある。ほぼ球形という難しい形に複雑な幾何学紋様。どれほど高い技術をもった職人が作ったのかと、ため息が出そうである。

また、薩摩切子の定義がちゃんとしてあったのにも感心した。
時期的には斉彬時代を中心とする幕末期かと思っていたが、明治初年、市来四郎の経営する開物社で製作されたものも含めるらしい。
もっとも、幕末や明治初期に長州萩や東京でも作られていたという確証があるものは除外されるらしい。萩や東京でも似たものが作られていたというのは知らなかった。

この図録に価値があるのは、単に薩摩切子の写真を掲載してあるだけではない。薩摩藩で切子の研究が行われ、実際の製造過程での試行錯誤などの史料が「斉彬公史料」を中心に多数収録されていて、薩摩切子の歴史を跡づけられるようになっている。
つまり、図録じたいが優れた史料集である。

黎明館を訪問された折は手にとってご覧下さい。

黎明館企画特別展
薩摩切子
鹿児島県歴史資料センター黎明館刊行
平成16年(2004)10月


【2007/07/16 23:48】 | 雑記
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大河ドラマ「風林火山」第28回

いよいよ板垣信方と甘利虎泰の「両職」が討死。
板垣信方

上田原古戦場にある板垣信方の墓。昨夏撮影したもので、だいぶ荒れ果てていたが、本ドラマ最後の紀行によると、かなり整備されていた。

でも、甘利の内応って、策に溺れた筋書きではないだろうか。どうして、オーソドックスに作れないかなあ。
晴信の慢心を諫めるのに、敵に内通してしまったら、元も子もないだろうに。そんな人間の諫言など、晴信にはさらに通じなくなると思うのだが。
やっぱり、脚本家が独自性とか創作力を、何か勘違いしているような気がするな。

板垣信方の死については、本邦随一のアクションスターだった千葉ちゃんのために見せ場をつくるに違いないと思っていたから、あれこれ言うまい。ただ、影武者や孫子や諏訪法性の偽旗はやりすぎなんじゃなのかな。

もっとも、『甲陽軍鑑』では、板垣は「近国に名をとりたる仁なりといへども、油断いたされ候」とあるけれど、その死をより意義あるものにするには、「油断」という筋書きには出来なかったのだろうな。何せ、この間の数回で、散々下手な伏線を張りまくってきたから、覚悟の討死にしなきゃならなかったのだろう。

もっとも、『甲陽軍鑑』には、油断していた板垣が敵が襲来してきたので、床几から立ち上がって馬を引き寄せ乗ろうとしたところを、乱入してきた5,6人の敵に馬から引きずり降ろされ、転んだところを討ち取られたとある。

実際はお粗末で惨めな最期だったわけで。
唯一、馬上から落ちるところだけが『甲陽軍鑑』を取り入れたことになるのだろうか。

余談
千葉真一が引退するのではないかという情報が流れている。「キーハンター」をワクワクしながら見ていた世代だから感慨深い。
御年68歳だから、アクションスターとしては難しいのか。でも、古稀を過ぎたアクションスターというのも、また素敵だと思うけどな。
近々、記者会見があるらしい。

【2007/07/15 23:47】 | 風林火山
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サニー千葉
ばんない
板垣の最後はシンイチ・チバのオンステージになるとは思っていたんですが、敵に円陣で囲まれる演出などは「戦○自衛隊」とほぼ一緒でしたね(汗)。

引退するというのは初耳です。アクションスターとしてはきつい年齢なのでしょうが、本当に引退するというなら残念です。ただ、引退するとなると昨日の『風林火山』のあの派手な演出も分かるような気がします。でもタランティーノ監督は嘆くでしょうね。

引退
桐野
ばんないさん、こんにちは。

千葉真一の会見があったみたいですね。
やっぱり役者としては引退のようです。今後はプロデューサー的な立場になるんでしょうか。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070716-00000001-oric-ent

ただ、この人は役者はともかく、経営者その他は決して成功したとはいえないですから、一抹の不安がありますが。

感想
市川
役者さんの熱演、場所の広大さは前半のクライマックスに相応しいものだったと思います。
ですが武田晴信さんのオーバーリアクション、いまいち意味が分からない甘利さんの作戦、負けを前提に戦う板垣さんの不甲斐無さと、最後の無駄な奮戦(そして歌詠み)。
私個人は不満の残るものでした。次回に期待しています。

大見得
桐野
市川さん、こんばんは。

晴信の演技はますますオーバーで露悪的になっていますね。とくに、歌舞伎の大見得を切るような大写しには笑ってしまいました。
まあ、亀治郎さんは歌舞伎役者ですから、不思議ではないですが(ただ女形だったような)。

板垣役の千葉氏については、68歳とは思えぬ身のこなしだったことはたしかですね。よほどの修練の成果だと思います。

上田原合戦じたい、果たしてどんな戦いだったか、さっぱりわかりませんでしたね。もともと史実がよくわかっていませんが、たとえ創作でも、両軍の駆け引きがわかるようにつくってほしいものです。

上田原合戦については、かわいさんの詳しい批評があります。リンク欄の豊泉堂雑記です。興味がおありなら、ご覧下さい。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第15回
―小松帯刀への厚い信頼―

右下のリンク欄から入れます。

坂本龍馬の入薩シリーズ3回のうちの2回目です。
小松帯刀との交流を取りあげました。小松と龍馬の関係はあまり知られていないのではないかと思います。
次回は龍馬と大久保利通について書く予定です。

龍馬と薩摩藩の人脈は広いです。具体的な人物をあげただけでも、

吉井幸輔・大山彦八・渋谷彦助

などが思いつく。
彼らも紹介したいが、スペースが足りない。
とくに、吉井は龍馬を西郷に引き合わせた人だし、龍馬の身上を親身になって心配していたと思うんだけど。

【2007/07/14 12:54】 | さつま人国誌
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拝読しました
パルティアホースカラー
興味深く読ませていただきました。
確かに、龍馬が薩摩藩の人物として西郷と小松を紹介する書簡を郷里に出している割に、西郷と龍馬の関係ばかりが特筆されがちですね。

吉井は早い時期から龍馬と交流していたようですし、かなり親しい様子が窺えますよね。次回も楽しみにしております。

吉井幸輔
桐野
パルティアホースカラーさん、こんにちは。

吉井幸輔は西郷・大久保の陰に隠れがちですが、ご指摘のように、もっと知られてよい人物だと思います。

龍馬と知り合ったのも、勝海舟との縁だったでしょうか? 龍馬のほかにも、伊牟田尚平・益満休之助など(相楽総三もか)とも関係があり、情報収集関係の仕事をしていた可能性もありますね。
慶応年間、吉井の役職について、京都留守居役だったとか、用人だったとか、あるいは海軍掛だったという史料もあります。
吉井に限りませんが、実際の活動にそうした役職がどれほどの裏付けになっているのか興味があるところです。

なお、吉井は『吉井友実三峰日記』を書いていますが、私が知るかぎりでは、明治になってからのものがあります。幕末期のものがあったら、それこそ一級史料だと思いますけれども……。


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赤備え

新刊である。

副題:武田と井伊と真田と
著者:井伊達夫
版元:宮帯出版社


著者は日本甲冑協史学研究会会長・旧与板藩井伊子爵家18代当主。
同じ版元から『井伊軍志』なども刊行している。
なお、与板藩(越後三島郡)は井伊直孝の兄、直継(直勝)の流れの家で、18世紀初頭、成立した2万石ほどの藩である。

先日、京都に取材に行ったとき、たまたま同社の前を通りかかり、ポスターが貼ってあるのを見て、飛び込みで予約していたのが本日送られてきた。ここに案内がある。

口絵のカラー写真が豊富。ほとんど朱塗りの甲冑ばかりである。タイトルからして当然だが。

武田(山県昌景)の赤備えは有名で、のちに井伊の赤備えに引き継がれる。
真田の赤備えについては、大坂の陣で真田信繁勢が赤備えだったことが合戦図屏風などで明らかだが、著者は「古真田の赤備え」として、信繁以前の幸綱・信綱・昌幸の頃にも赤備えがあったのではないかと推測している。もっとも、史料がなさそうだが。

同社からは、お近づきのしるしにと、以下の新刊もいただいた。
武田軍団

三浦一郎『甦る武田軍団―その武具と軍装―』

御礼申し上げる。




【2007/07/13 23:23】 | 新刊
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ご存知かもしれませんが
びわこ
桐野さん、こんにちは。

「京都井伊美術館」で検索されると、著者である井伊達夫さんのサイトに行けます。
ま、彦根では、名の知れた方ですね。(いろんな意味でも・・・)

与板井伊家については、直勝関連でもしかしたら佐和山城の資料(直政が入部した当初の)が残ってないか、SHUNさんにわざわざ与板にまで出向いて調べてもらったことがあります。
結局、何もなかったのですが・・・(苦笑)


京都井伊美術館
桐野
びわこさん、お久しぶりです。

京都井伊美術館のご紹介有難うございます。
建仁寺の近くにあるんですね。知りませんでした。
与板藩については、ほとんど知られていないでしょうね。

いま、彦根は「ひこにゃん」とか「しまさこにゃん」が大ヒットだそうで。でも、「みつなりにゃん」?はいまいちだそうですね(笑)。

井伊達夫氏
ばんない
曲がりなりにも井伊達夫氏は子爵の末裔になられたので、ご存じかと思ってましたので、そっちの方にびっくりしました。
>(いろんな意味でも…)
気になるけど、その先は聞かないほうが身のためでしょうか(苦笑)
甲冑関係の新聞記事などでよく名前のあがる人ですね。

ひこにゃんは、肝心の祭りよりひこにゃん自体が有名になりすぎたような(汗)あの気の抜けたモチのような風情はいわゆる和み系キャラクターで一目見たら忘れられませんが。好きな物に「かに」なんて書いてますね。「肉」は近江牛つながりで分かるんですが、なんでカニ好きなんでしょう。ロシアからの輸入が減って高いのに…モチの分際で贅沢だ(苦笑)。
「みつなりにゃん」…公式HPにはいないようですが、あの”佐和山城”をイメージしたキャラクターなんでしょうか…。

と思ったら、「みつなりにゃん」らしきものを、ひこにゃんの生き別れの姉のサイトで見つけました。
http://kyoto-tower.co.jp/kyototower/activity/img/hikone.jpg

みつなりにゃん
桐野
ばんないさん、こんにちは。

ご紹介のサイトを拝見。
みつなりにゃんって、兜かぶってるほうでしょうか?
少し陰険そうに見える……。

いしだみつにゃん
板倉丈浩
ばんないさん、桐野さん、こんにちは。

三日月の兜をかぶっているのは、ひこにゃん宿命のライバル(?)「しまさこにゃん」ですね。
目つきは悪いですが、亡き主人を想ってやさぐれているだけで、実は心優しいねこ・・・らしいです(笑)

「いしだみつにゃん」は今月末から出るようです↓
http://isojima.shiga-saku.net/e40037.html
http://pds.exblog.jp/pds/1/200707/14/09/f0017409_18384331.jpg


”にゃん”
びわこ
桐野さん、みなさん、こんにちは。

>いろんな意味でも

なんて、意味深な書き方をして申し訳ありませんでした。
新修彦根市史にも膨大な資料を提供されていますし、甲冑・刀剣関係はもちろん、いろんなところでお名前を拝見します。

さて、肝心のお祭りよりもひこにゃん・しまさこにゃんが人気沸騰の彦根ですが、私も時々、さこにゃんの中身をやらされてます(笑)
普段は、もっと若手がやってるんですけど、この若手の都合がどうしてもつかない時は、呼び出されます。

そんなさこにゃんの夢は、佐和山城で主君・三成と鮒寿司を肴に花見酒をすることなんですよ。(笑)

あ、桐野さんは猫好きですよね。
癒し系のひこにゃんは桐野さんの心をくすぐるのかなぁ。。。

いしだみつにゃんに関しては、いよいよ三成まで猫になったか・・・って感じです。
ちなみに大谷にゃんぶ(刑部)とか、こににゃん(小西行長)とかもいるみたいです。

いしだみつにゃん
桐野
板倉さん、びわこさん、こんばんは。

しまさこにゃん、いしだみつにゃんの紹介有難うございます。

私はひこにゃんよりも、ちょっと斜にかまえているしまさこにゃんのほうがいいですね。

彦根が生んだキャラクター、なんかもう全国版ですね。

ひこにゃんの仲間
ばんない
みなさまこんにちは。
なんかこちらの深読みのせいでいろいろとご心労をおかけしたようで申し訳ありませんでした<(_ _)>

しまさこにゃん…「島左近」がモデルなんでしょうか。ご紹介リンク先のピンバッチではますます目線がガンをとば…じゃない、「眼光鋭く」(汗)こわーくなってますね。びわこさんは「さこにゃん」の中の人をされてるんですね。これからの季節はかなりきつくなってきますね。URLは彦根城に登城するひこにゃん(たぶん春頃)の映像ですが、中身の人にとってはかなりきつかったんじゃないかと。

これから登場の大谷にゃんぶはおそらくかぶり物キャラ、小西行にゃんは首から十字架、というデザインじゃないかと予想しておきます(^^;)
でも小西なんか三成つながりと言うだけで、彦根城はおろか近江国ともほとんど縁がないような…。

石田三成は島津と因縁のある人物ですが、小西も島津とは曰く付きの人物でしたっけ、と無理矢理歴史ネタにふっておきます(汗)

佐和山一夜城
ばんない
ご無沙汰しています。また、改装おつかれさまでした。

ところでURL欄にもありますが、9/1~15の短期間プロジェクトで表題のイベントをされているようです。
ベニヤにペンキ塗りなのはともかくとして、見た目が姫路城な点については皆様の評が分かれるところかと思います。

ところで実際の佐和山城には天守あったんでしょうか?現存の彦根城佐和山櫓が旧佐和山城天守、という説は修理の結果否定されたようですが。

ひこにゃんイベントいきたいんですが、兵庫県からではJR高くて…割引切符も出てないようですし。思案中です。

佐和山城天守
桐野
ばんないさん、こんにちは。

彦根は盛り上がっているようですね。
もし行かれたら、様子教えて下さい。

佐和山城天守は存在したようです。
元禄期の佐和山城古絵図にも書かれていますが、これは信用できないとのこと。
『彦根市史』通史編によれば、関ヶ原合戦に関する結城秀康の書状に「さを山(佐和山)へ山中より取かけ、(中略)てんしゆ(天守)に日(火)をかけ申し候」という一節があり、天守が存在したのはたしかなようですね。
おそらく三重の天守ではないかと推定されているようです。

そうそう、ばんないさんのサイト、非常に面白いので、リンクさせていただいてよろしいでしょうか?



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今晩(11日)の番組、桶狭間合戦を取りあげていた。

さっそく黒田日出男氏の「乱取状態急襲」説(甲陽軍鑑典拠)が登場していた(詳しくはここ)。今年の仮説がもうTVに登場したのだから驚きである。果たしてそれほどの学説なのかどうか、まだまだ検証が必要だろう。

そして、今川義元の視点からだと新味を打ち出したと強調しながらも、桶狭間合戦の重要な論点はすべてスルーされていた。少なくとも私にとっては、ほとんど見るべき値打ちがない番組だった。

スタジオ出演の小和田哲男氏も、黒田説をどのように考えているのか、また奇襲か正面攻撃かという点についてもコメントしないままで終わった。

乱取状態急襲」説って、そんなに説得力があるのかな? 新説好きのNHKが飛びついただけじゃないのか。
 そもそも、『甲陽軍鑑』への史料批判はまだ確たる結論が出たとは思えない。少なくとも『信長公記』首巻よりもそんなに信用できる史料なのかという疑問がある。お膝元の武田氏関連の記事さえ、おかしい点がたくさんあるのに、他国の記事がそれほど信用できるとは思えないのだが……。

 たとえば、武田氏研究で知られる平山優氏は近刊のあとがきで、『甲陽軍鑑』をもとに山本勘助を書くと研究者仲間に話したところ、止めた方がいいという否定的な反応が多かった、大げさにいえば研究者生命を賭していたと書いていたほどである。『甲陽軍鑑』の再評価が進んだ現在でもかくのごとしである。
 これに対して、『信長記』(信長公記)をもとにして信長を書くといっても、同様な反応があるとは思えない。
 この反応の違いこそ、両史料の信頼性のありようを如実に示している。

また、黒田説では「急襲」の定義が奇襲と強襲のどちらなのか曖昧である。あるいはそんな区別は不要なのだろうか。これは藤本正行説(これは正面強襲説だろう)との関わりからも、曖昧にできないのではないか。

素朴な疑問をあげれば、乱取って今川軍だけにかかわらず、すべての戦国大名に共通する性向であろう。藤木久志氏が描いた「雑兵の世界」は上杉謙信の関東出陣から着想したものだと思う。
だったら、川中島合戦だって、上杉軍は北信四郡で乱取をほしいままにしたはずなのに、その隙を武田軍に衝かれたという話は聞かないし、いわゆる第4次川中島合戦では、上杉軍は整然と行動しているイメージがある。

今川軍だけ、よほど間抜けなんだろうか?

しかし、番組では今川義元は緻密な軍団を組織したって褒めていたのに、矛盾を感じないのかな? 上杉軍などよりずっと軍律が厳しそうな感じで解説していたけどなあ。

桶狭間合戦を取りあげるなら、そうした肝心な課題を避けられないはずで、それに取り組む気がなかったら、作らないほうがましではないか、という印象をもった。

【2007/07/12 00:59】 | 信長
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橋場
仰せの通り、「乱取」なんて別に珍しくもありませんし、その隙を衝かれて大敗するようなチンケな指揮系統の軍勢な訳が無いのに、番組は「緻密な組織」と「乱取」の間で見事に論理破綻していましたね。

寄親寄子制
桐野
橋場殿下

まったく何のために作った番組なのかよくわかりませんね。
冒頭に今川義元の再評価、名誉回復といった趣旨を強調していましたが、それも看板倒れでした。
理由として挙げていたのは、せいぜい寄親寄子制だけでしたかね(今川仮名目録追加もあったけど形だけ)。
その寄親寄子制も極端に単純化して紹介してましたけど、寄子って百姓だけですかね。百姓といっても、上層の名主百姓や被官百姓だと思うし、寄親になれない小規模な領主だって寄子に編成されたはずではないでしょうか。
単純化は不正確と同義ではないと思いますが……。

乱取のターゲット
かわい
 番組は観なかったのですが、そもそもあのへんて乱取の対象になるような場所でしたっけ?

ターゲット
桐野
かわいさん、どうも。

そうなんです。
いつぞやの議論でも、あの一帯は丘陵地帯で田圃もありそうもないし、とても人口が多いとは思えません。2万5千の兵が乱取するには割に合わない地域だと思いますよ。

そもそも乱取は敵との遭遇の可能性が少ない状況で恩賞的に許可されるか、苅田・放火のように、意図的・戦術的な狙いでやるかのどちらかだと思います。
眼前に信長の主力がいるのに、それを無視して野放図にやるとは思えませんね。今川軍だって、最低限の軍法があったはずですから、それなりの統制が効いていたと思われますし、最前線で乱取なんかやっている場合じゃないと思うんですがね。



現地の状況
板倉丈浩
かわいさん、桐野さん、こんばんは。

さて、黒田説ですが私も同様な疑問を持っていました。
といいますのも、『桶狭間合戦記』に次のような記述があるからです。
「此時分ニハ有松村・落合村ハ有間敷也。大脇村の古老の咄ニ、其頃ハ此辺、皆野山・田畑にして今の往還もなし」
つまり、この時代は東海道(往還)が有松付近を通っていなかったので、村すらなかったということなんですね。
現地を知らない甲陽軍鑑の作者が、誤った伝聞をそのまま記事にしてしまったということではないかと。
甲陽軍鑑以外の史料に乱取の記述がないのも当然ですよね・・・。


近世東海道
桐野
板倉さん、こんばんは。

「桶狭間合戦記」といえば、参謀本部の「迂回奇襲」説の典拠となった史料ですね。
たしかに、ご紹介の記述がありました。田畑はあったけど、往還はない、慶長13年(1608)、伊奈備前守らの検地をきっかけに開け、近世東海道となったとありますね。
ただ、そうなると、この一帯の近世東海道はまったく人為的に作られたことになりますね。たしかに沓掛から善照寺へと向かう中世東海道(鎌倉往還)は遠回りですから、距離を短縮するために開発されたということになるのでしょうか?

余談ですが、藤本氏の正面攻撃説はまさにこの有松の谷筋の回廊を今川・織田両軍が正反対から進んできて激突したという構図になるわけですね。
もし同書のとおり、合戦当時に往還さえなかったら、今川の大軍がこの筋を通るとはまず考えられませんね。
一方、織田軍にとっては今川方に気づかれずに接近できたともいえそうで(だとすれば奇襲的要素があるのでは)、そうした未開の環境が幸いしたということになるのでしょうか? そうだとすれば、乱取説よりも、まだ説得力があるように思うのは私だけでしょうか。

でも、藤本説では同書は一刀両断で切り捨てられています(笑)。まあ、江戸後期の成立ですし、どこまで信じていいのやらという面もあるので致し方ないですが、それにしても、「按するに」という一節を掲げて、著者の考証が展開されています。それがまったく的はずれともいえない気もしますが……。
たとえば、佐久間信盛の所領が愛智郡山崎にあったから、山崎城を佐久間が守ったという解説など、まったくの作り話だともいえない気がしますが……。

「甲陽軍鑑」や「桶狭間合戦記」に厳密な史料批判を加えれば、使わない方がいいということなりそうですが、かといって、すべて切り捨ててよいのかといえば、そうでもない気がします。
一方で、桶狭間合戦で比較的史料批判に耐えうる史料は「信長公記」首巻や「三河物語」などだけですけど、これだと、史料不足で、結局、真相がわからないという隘路に陥ってしまいます。
厳密な史料批判も、痛し痒しといったところですね。




武藤 臼
寄親寄子制で始まって、乱取急襲で終わったというなんとも奇妙な番組でしたね。

寄親寄子制という言出しには多少惹かれたんですが、つまるところ今川の影響ってあるんですか?

寄親寄子制
桐野
武藤 臼さん、こんばんは。

寄親寄子制は今川家だけの専売特許じゃないと思いますね。武田も北条も毛利も島津も程度の差こそあれ、あるいは名称こそ違え、寄親寄子制じゃないんですかね。

戦国大名にかなり普遍的な軍団編成方法だとすると、何らかの共通点があるということだと思います。

おそらく軍役や陣立をより合理的に組織しようと思えば、だいたい似たような編成方法をとらざるをえないんのではないでしょうか。

で、織田軍はどうなんでしょうね。
少なくとも桶狭間合戦のあった永禄初年頃までは、寄親寄子制がはっきりした形で成立しているように見えないような。林とか佐久間といった宿老クラスが大きな備えを率いているようには見えないのですが、どうなんでしょうね?

美濃平定後はある程度知行宛行の史料もあって、たとえば、西美濃三人衆クラスだと、与力の所領も一括して寄親に安堵しているようですけどね。

寄親寄子制2
橋場
織田家の場合、初期ですと林秀貞とかでも七百とかの小勢しか率いてませんね。寄親寄子となると、その秀貞に「荒子の前田与十郎」が付属している形跡が『信長公記』に見られるくらいだったでしょうか。
かえって桶狭間直後三河統一戦過程の徳川家の方が寄親寄子制を鮮明に導入していますね。

東西両頭制?
桐野
橋場殿下

徳川氏のばあい、桶狭間後に寄親寄子制の展開が見て取れるのですね。

記憶が定かではありませんが、三河国を東西に分け、一方を酒井忠次が、他方を石川家成(数正だったか)が受け持つというのがそれにあたるのでしょうか?




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恒例の小学館古文書講座「てらこや」の出講が今夜から始まった。前回の寺村左膳の日記から一転して、薩摩な話題である。

話題がほとんど薩摩に絞られるため、これまでの受講者のみなさんから敬遠されるのではと思っていたが、豈図らん哉。
盛況で定員一杯になってしまった。
それもこれも大河ドラマの社会的話題性のおかげだろう。

今日は第1回で、テーマの前提ともいうべき幕末前史として、鎌倉以来の島津氏の簡単な歴史を振り返りながら、将軍吉宗時代の竹姫入輿問題を取りあげた。

島津氏の話をしながら、本当は戦国や織豊期のほうがやりやすいと思いながら、スルーする。
竹姫入輿問題は、まず竹姫のことをほとんどの人が知らないと思い、実家の清閑寺家の家格などから入る。
竹姫が婚約者に相次いで死なれるという不幸な過去をもっていることなど話しながら、史料を読むと「御器量勝れかね」なんて個所で、笑い声が起きた。何とか関心をもってもらえたと思う。

竹姫入輿から入ると、篤姫はまだかという声も出てくるかもしれないが、やはりこうした歴史の流れを押さえておいたほうが理解しやすいと思うがゆえの試みだった。

今回は珍しくほぼ定刻に終了。いつもより格段に史料読解が少なかったからだろう。本当はこれくらいがいいかもしれない。

質問もたくさん出た。とくに、

城下士と郷士の身分差別の要因は何か?

竹姫の遺言は史料として残っているのか?

といった鋭い質問が出て、たじたじだった。
竹姫の遺言については、私が少し間違った説明をしたかもしれない。もう少し調べておいたほうがいい。反省点である。

次回はこれらのおさらいをしながら、島津重豪の一女、茂姫(広大院)と将軍家斉の婚姻を中心にやりたいと思う。

なお、今後はこれまでやったことのない試みもするつもりである。
テーマが大河ドラマに関わるだけに、宮尾登美子の原作本と実際の史料の対比を通じて、作品がどのように作られるのか、そのプロセスなどをかいま見たいと思っている。これも一種の史料論だろう。

【2007/07/10 23:51】 | てらこや
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どうでもいいことですが……
市川
こんにちは、市川です。
私も来年の大河ドラマ『篤姫』は楽しみにしています。
ただ驚いたのは、篤姫を演じる女優が宮崎あおいさんというまだ21歳の方だということです。若いですね。
ちなみに和宮役には堀北真希さん(現在19歳)を起用。

確かに篤姫は20歳で家定の正室になっておりますから、年齢的には合っているんですよね(輿入れのときのみですけど)。
この二人の演技力と、脚本家の力に期待してます。

キャスト
桐野
市川さん、こんばんは。

篤姫―和宮コンビは本当に若いですね。
たしか篤姫が将軍家定と正式に結婚したのは数え22歳のときだったと思いますが、生物学的に同年齢でも、現代と時代が違って、当時の人は一般に老成していますから、ちょっと年上の人が演じるくらいがちょうどいいのかもしれませんが。

ともあれ、頑張ってほしいものです。

それにしても、その後主要キャストが発表されませんね。個人的には、小松帯刀を誰が演じるのか気になっているところです。


「篤姫」キャスティング発表!
町田明広
町田です。ご無沙汰しております。
ようやく、発表になりましたね。
http://www3.nhk.or.jp/drama/
個人的には久光が誰かということが関心事でしたが、山口祐一郎ですか。期待したいです。
しかし、和宮の堀北真希は含まれていませんね。竜馬、慶喜、海舟らと共に、次回でしょうか。
いずれにしろ、来年大河は見ることになりそうです(^^)

ようやく
桐野
町田明広さん、こんばんは。

「篤姫」キャスティングの紹介有難うございました。
榎木孝明が久光かと思っていました。沢村一樹、山口祐一郎と鹿児島出身者が揃いましたね。

原田泰造が大久保正助ですか。鹿賀丈史とくらべるのは可哀相か。頑張ってほしいものです。

小松帯刀はジャニーズ系かと予測しておりましたが、やはりスケジュールを押さえられなかったか。瑛太は最近よくドラマなどに出る若手ですね。
ともあれ、頑張ってほしいものです。

そうそう、町田さんの最近の論文について、私のリンク欄にある「つばめ飛ぶ~」のパルティア・ホースカラーさんが紹介と批評をして下さっています。未見なら、ご覧になって下さい。



拝見しました。
町田明広
桐野さん、コメントありがとうございました。
そうでしたか、鹿児島出身者がかなり含まれているんですね。印象では、全体的に若い中で、渋く押さえるところは外さないといった感じがします。ところで、次回、鹿児島に行かれる際は同行させていただけるとうれしいです(^^) すいません、少々饒舌すぎました<m(__)m>
さて、「つばめ飛ぶ~」は、実は本サイト同様、必見サイトに登録済みでして、研究のためにも参考にしていただいております。今回は「主賓」(笑)でしたが、以前からも度々取り上げていただいておりました。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第14回
―新婚旅行で登山、滝見学―

今回から3回にわたり、坂本龍馬の薩摩入りを取りあげる予定です、
その1は、霧島の塩浸温泉に湯治旅行に出かけた龍馬・お龍夫妻のエピソードについてです。

右下のリンク欄を辿っていけばご覧になれます。

【2007/07/07 15:03】 | さつま人国誌
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薩摩拵

友人の調所一郎氏が4年前に上梓した本の改訂増補新版である。ご恵贈いただき感謝。

これまで初版から改定増補版、改定増補版二刷、そして今回と増補を重ねながら何度も版を重ねてきた。
この種の特殊な業界の本にしては、ベストセラーといってよいのではないか。

「拵」は、刀剣の外装一式を意味する。鞘・鍔・柄などすべてを含む。
私は調所氏とこの本によって、薩摩藩に伝わる薩摩拵なる概念を初めて知った。その特徴は実戦本位で驚愕的なものだった。いくつか覚えているのをあげると、

鍔が極端に小さいこと(鍔競り合いを禁じているのと、トンボの構えのとき、鍔が耳にあたらないように)。

返角の形状(帯から抜けやすくなっている)。

柄の反り(通常の刀と異なり、内反りになっている)

そうした知識を前提に、幕末薩摩藩士の写真を見ると、薩摩拵の刀剣をほとんどが所持していることがわかったのも驚きだった。

刀剣に興味のある方には必携かもしれない。

薩摩拵(改訂増補新版)
著者:調所一郎
版元:里文出版
定価:2.800円+税
体裁:A5版、152頁、カラー写真多数


薩摩刀 波平

なお、調所氏には最近、鹿児島の黎明館で開催された企画展「薩摩刀 波平―武の国の刀工―」の図録も頂戴した(写真参照)。こちらも感謝。
調所氏はこの展示の企画に関わり、展示中、講演も行っている。拵だけでなく、刀剣そのものにも造詣が深い人である。とくに薩摩藩独特の刀工波平の由緒・技術などについて一家言もっている。


【2007/07/07 01:57】 | 新刊
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調所
拙著他ご紹介頂き有難うございます。薩摩拵の鐔は細いというか小さいといった感じでしょうか。大きくして防御の姿勢を表したくなかったという事もあるようです。柄は他国物より長いことも特徴です。図録は、これに限らず刀剣関係一般に値段が高くて申し訳ないのですが、刃文などを映しこむ特殊撮影、及び撮影に耐える状態にするのにかなりの費用がかかってしまうので、御了承頂けますればうれしいです。


桐野
調所さん、どうも。
わざわざのコメント有難うございます。
ご指摘を含めて本文を修正加筆しました。
これからもいろいろ教えて下さい。



調所
こちらこそ色々と教えて頂きました。有難うございます。そこで以前から刀剣関係者の間で話題になっていたのですが、高杉晋作の有名な写真で、典型的な、通称さるすべりという返角のついた薩摩拵を持っているものがあるのですが、薩摩藩士に刀をもらった記述など、どこかに残っているのでしょうか?


ぼっけもん新聞
さすがは、見るところが違いますね。
桐野様の回答が楽しみです。

高杉晋作の佩刀
桐野
調所さん、どうも。

高杉晋作の刀というのは、例の有名な晋作の写真に写っている佩刀のことでしょうか?
よく見てみましたが、これがいわゆるさるすべりの返角なのかどうか、素人目にはよくわかりません(笑)。晋作の左手の親指と人差し指で握っている部分ですよね?

この写真の佩刀だという前提での議論ですが、
『東行先生遺文』の口絵写真には「この写真は慶応二年四月先生長崎に於て写され、その夫人に贈られしものなり」という説明文がついています。

晋作はたしかにその時期に長崎に行っていますので、間違いないところでしょう。
となると、晋作の佩刀は写真撮影時期以前に薩摩藩士の誰かからもらったものと考えるべきでしょうね。

私は、その刀は晋作が長崎でもらったものではないかと思っています。もし長州領内でもらったものなら、さすがに薩摩拵の刀を日頃携行しないのではないかと思うからです。
長崎である薩摩藩士からこの刀をもらい、長崎来訪記念に写真撮影したときに一緒に写した。あるいは写真館訪問も薩摩藩側の手配だったかもしれません。

このとき、晋作が会った薩摩藩士が誰かということですが、判明しているのは側用人市来六郎右衛門です。この人は長崎常駐の役人だったかもしれません。
晋作が慶応2年(1866)3月28日付で、木戸貫治(孝允)と井上聞多(馨)に宛てた書簡がありますが、それには次のように書かれています。

「弟事も長崎薩邸罷り越し候処、幸に側用人市来六郎右衛門御邸にて御使者之事談判候処、六郎右衛門申し候には」云々

このとき、晋作が長崎に行き、薩摩藩の役人と接触したのは、英国公使パークスが薩摩藩を表敬訪問するので、その場に潜り込んでパークスらと接触しようと考え、その仲介を薩摩藩側に依頼するのが目的のひとつでした。すでに薩長同盟が結ばれていますから、晋作も気安く頼もうとしたわけです。
結局、晋作は市来から薩摩藩には「固陋之者」が多くて何が起こるかわからないから、入薩は考え直したほうがいいのではないかと諭され、入薩は断念したのではないかと思われます。
そのほか、晋作は薩摩藩の斡旋で軍艦購入の手配をしております。
こうした交渉の過程で、晋作は市来と親交を深めて例の刀を贈られたのではないかと推測もできます。

ほかに、晋作と交流があった薩摩藩士は五代才助(友厚)、大山格之助(綱良)、伊集院兼寛、黒田清綱、村田新八などがいます。
このなかで、書簡のやりとりなどをしてとくに親しかったのは、五代才助と大山格之助だろうと思います。

五代が晋作に宛てた書簡には互いに贈り物をした記述があります(慶応2年5月26日付)。晋作が薩摩藩士とのやりとりで贈り物があったとする史料はこれだけではないかと思います。その尚々書に次のような興味深い一説があります。
「御互いに国家危急相救うべきの御交りにて、かかる御謝礼等に預かり候ては、実に心外の至りに存じ奉り候、随て此の品誠に以て麁器(粗器)赤面の至りに御座候得共、持ち合いに任せ進呈仕り候」

晋作から五代に意外な贈り物があったので、五代も恐縮しつつ「麁器」を贈っていることがわかります。もっとも、これが刀だとは限りません。
それと、残念なことに、この書簡は晋作の長崎滞在より以後のことなので、写真に写るはずがないですね。

以上から、晋作の薩摩拵の刀は、上に挙げた薩摩藩士の誰かから贈られた可能性が高いと思いますが、とくに長崎で会った市来六郎右衛門の可能性が一番高いのではないかと思います。
市来六郎右衛門がどんな人なのか、ほかに史料があればいいんですけどね。

>ぼっけもんさん

コメント有難うございます。
以上のように考えてみました。


調所
桐野様 有難うございました。お忙しい中、私の道楽につきあわせてしまい申し訳ございませんでした。その一番有名な写真で、左手の親指と人差し指の間に位置するのは栗形で、小指の付け根下二センチ程の所に丸い返角が付いてます。印刷によっては黒くつぶれてしまっているものもありますが、柄も目抜の付いてない潰し巻きで、よくある薩摩拵です。いずれにしろ大変すばらしい回答を頂き、恐縮しております。有難うございました。

栗形と返角
桐野
調所さん、どうも。

もう一度よく写真を見てみたところ、ご指摘の部分に何か突起状のものが付いているのがわかりました。
私は栗形と返角を取り違えていたようです。不勉強ですみません。
潰し巻きも見たことがありますので、納得です。
ほかにも長い柄、小さい鍔、全体に武骨なつくりなど、なるほど薩摩拵の特徴がよく表れていますね。
これが薩摩拵だと唱えた人は今まで誰もいなかったと思います。古写真の情報はやはり貴重ですね。
晋作は薩摩藩とは疎遠だと言われていましたが、必ずしもそうではないことも同時に明らかになったと思います。

高杉晋作の刀
板倉丈浩
こんばんは。
私が高杉晋作の刀と聞いて思い出したのは、田中光顕『維新風雲回顧録』にある次のエピソードです。

これによると、光顕が十津川にいたときに、薩摩浪人・梶原鉄之助(本名左近允右嘉衛門)から譲ってもらった二尺六寸の名刀で、安芸国佐伯荘藤原貞安作、永禄六年八月吉と銘があったそうです。
その後、光顕は中岡慎太郎に従って長州に入り、高杉に薩長提携の必要を説くのですが、その席で高杉が光顕の刀を欲しいと言い出し、断っても聞かないので「弟子にしてくれるなら」という条件で譲った・・・という話です。

光顕は「彼はこの刀がよほど気に入ったらしく、長崎で写真をとって私のところに送り届けてくれた。それを見ると断髪を分けて着流しのまま椅子に腰をおろしている。そして貞安の一刀を腰へんにぴたとつけ、洒落な風姿の中に一脈の英気、颯爽として、おのずから眉宇の間に閃いている。彼は死ぬときまでこれを手放さなかった」と記していますので、多分間違いないのではないかと思います。


調所
板倉さま 初めまして。貴重な情報有難うございます。六年程前に高杉晋作の薩摩拵に気付き日刀保などで話題にしてきたのですが、どなたも由来をご存知ありませんでした。様々な分野の方と情報交換するのは、やはり有意義ですね。今後とも宜しくお願い致します。因みに先程、目抜と書きましたが目貫の転換ミスでした。

維新風雲回顧録
桐野
板倉さん、調所さん

板倉さんご紹介の本、私も持っていたので確認しましたが、たしかに高杉の刀のようですね。
そんないきさつがあったとは、灯台もと暗しでした。

高杉が薩摩拵の刀を日常的に持ち歩くはずがないと思い込んだのが間違いでしたね。

勉強になりました。

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昨日、武蔵野大学でのオムニバス講座「薩摩と明治維新」2の一環として、表題の講座に出講。

200人もの受講者。
これだけの人を集める主催者側の努力に敬服。
また次期大河ドラマの主人公という旬の話題も募集の大きなプラスになったのではないかと思う。

写真28枚のスライドショー、A3で10枚のレジュメ。
これだけのものを1時間半で話すのはどう考えても無理なので、ある程度端折りながら話した。
スライドショーについては、使用する写真ファイルがデジカメの性能によって精粗があるため、あまり大写しにすると、ぼやけてしまうのではないかと危惧していたが、かなり大きなスクリーンにもかかわらず、比較的よく映っていたように思える。あとで聞いたところ、後ろの受講者もよく見えたとのこと。ただ、小さな字はわからなかったとのこと。

内容については、外様藩の薩摩藩からなぜ2度にわたり、将軍御台所を輩出できたのか、その事情を中心にお話しした。
竹姫問題を起点に説き起こしたが、一橋家と重豪の縁組のところで、ひとつ話を抜かしていたことと、島津家と徳川家が開幕以来、予想以上に関係が良好で、それが幕末まで維持されていたことを強調することを失念してしまったのが反省点。

最後はやはり時間切れで、篤姫や和宮のエピソードをかなり割愛せざるをえなかったのが、少し残念である。

終了後、拙ブログによくコメントをいただく板倉さん、先日明治維新史学会で報告を拝聴した町田さん、東京龍馬会の方、古文書講座「てらこや」の常連受講者の方々、拙著をよく読んでくれている学生さんなどからわざわざ挨拶していただく。時間の関係で、きちんとお話できずに申し訳なかった。

次回講座は、7月28日(土)で、榎本武揚の子孫、榎本隆充氏の「戊辰の役と明治維新の対露外交に果した榎本武揚の役割」と題した講演である。詳しくはこちらをご覧下さい。





【2007/07/01 17:25】 | 幕末維新
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おつかれさまでした
板倉丈浩
こっそり受講するつもりが、ついつい話しかけてしまった板倉です(笑)
レジュメも充実していて、説明もお上手で、良い講座だったと思います。
朝から食事抜きだったとのことで、その熱血先生ぶりは受講者のみなさんもさぞかし満足されたことではないでしょうか。
ただ、やはり天璋院に関する史料は少ないんですねえ(勝海舟のホラ話はかなり割引いて考えるべきでしょうし・・・)。
その中で、松平慶永あて島津斉彬書簡を引用し、天璋院に対する斉彬の「密命」は存在したが、外堀の本寿院(家定生母)への働きかけの段階で挫折したのではないかとする見解は興味深かったです。

同書簡で「一橋は御いやと其うへ奥向皆々きらひ候」と本寿院だけではなく大奥が皆慶喜を嫌っていたとあり、一方『慶喜公伝』の朝比奈閑水の談話では「慶喜の容貌を大奥女中が賞賛するので家定が嫉妬した」とあるので、慶喜を嫌ったのは将軍家定か大奥か、大奥が慶喜を嫌った理由は何か、といった点がちょっと気になりました(慶喜による大奥改革を忌避したとか、斉昭の女性問題が悪影響したとかいろいろ考えられますが・・・)。

最後に、本能寺の本を読んだという経済学部の学生さんが感激の面持ちで桐野さんに話しかける光景を目撃しました。
私も大学では経済理論など勉強していましたので、何とも懐かしく、心温まる心境になりました。

興味深く拝聴しました。
町田明広
昨日はお疲れ様でした。90分の制約の中で、あれだけの内容が盛り込まれ、かつ、レジュメ(というより資料集)も今後参考にさせていただくことになると確信できるほど、充実しており、有意義な時間でした。
私の薩摩藩知識は文久期に限定されており、その前後を今後学ばなければという思いから、もちろん桐野さんのご講演ということがあってですが、受講いたしました。
基本的事項から密命に関する事項まで、実に興味深く拝聴しました。どうもありがとうございました。また今後とも、様々ご教示をお願いいたします。

本寿院と大奥
桐野
板倉丈浩さん、こんばんは。

篤姫入輿前後の大奥は完全に本寿院(跡部氏)によって支配されていると思います(将軍家慶御台所の有栖川宮家喬子もすでに他界しています)。やはり将軍生母の力は絶大です。身分的にも、中臈から老女にまで上りつめています。
本寿院の意向は大奥の意向だといってよいと思います。
講座で紹介した松平慶永宛て島津斉彬書状でも、本寿院の激怒が書かれていましたが、彼女としては、息子家定が若いのに後継問題をあれこれ言われることが癇に障っていたみたいで、家定が50歳になるまでは跡継ぎ問題は封印するとまで言っていたと思います。

あと、いわゆる将軍=譜代結合の幕府ですから、伝統的な価値観が重視され、将軍継嗣問題でもその一番の基準は血統だったと思います。
当時の徳川宗家は一橋系統が支配しており、家斉との血縁の親疎が重視されたと思います。その点、紀州慶福は一橋系統で、水戸出身の慶喜よりはるかに家斉に近いです。一橋派といい条、実際の一橋系統は紀州の慶福だったというのも逆説的ですね。


嘉永・安政期の薩摩藩
桐野
町田明広さん、こんばんは。

わざわざご参加いただき痛み入ります。
一般愛好者向けの講座でしたので、内容的に物足りなかったのではないでしょうか?

私も斉彬期の薩摩藩についてはよく知りません。「島津斉彬文書」もありますが、ちゃんと読んだことはありませんしね。拾い読みしただけでも、非常に面白そうですが、何せ、文久期以降とくらべて、関係人物が様変わりしており、馴染みが少ない点が取っつきにくい最大の理由のような気がしています。西郷なんかはよく生き残ったなと思います。
あるいは、文久2年の久光主導の藩政改革が急激で、人事も含めて大幅な刷新がなされたせいでしょうか?


Re:本寿院と大奥
板倉丈浩
いつもお世話になります。

>本寿院の意向は大奥の意向だといってよいと思います。
>家定が50歳になるまでは跡継ぎ問題は封印するとまで言っていたと思います。

なるほど。大奥の反慶喜もあまり深い理由ではなさそうですね。
大奥トップの感情的反発と"譜代の論理"が結びついて将軍継嗣問題の流れを決定づけたといったところでしょうか。
御教示ありがとうございました。


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