膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
南日本新聞「さつま人国誌」第21回
―「豚一殿」の催促に困惑―

連載コラムが更新になりました。右下リンク欄からご覧になれます。

今回は一部ではよく知られていた話です。
だいぶ前、港区立郷土資料館で、三田の薩摩藩邸跡の発掘調査の出土品が展示されていて、山のように積んであった豚・猪の骨に驚いた覚えがあります。それと小松帯刀書翰を結びつけて書いてみました。

小松は豚肉だけでなく、牛肉も食べていたようです。今から見ると、なかなかの美食家ですね。
佐藤信淵は薩摩藩邸で買われている豚を「白毛豕(豚)」だとしています。黒豚ではなかったみたいです(笑)。
黒豚はいつ頃から飼われるようになったのでしょうね。
「豚一殿」には、いちにさんの黒豚しゃぶしゃぶを食べさせてあげたいくらいです(笑)。

 
富山弥兵衛

先日、南日本新聞「さつま人国誌」に書いた富山弥兵衛の記事について、いくつかコメントをいただいた。

そのなかで、富山の諱(実名)について板倉丈浩さんから「忠全」とか「豊国」といった説があることをご紹介いただき、京都の戒光寺墓地にある高台寺党の墓石にも「豊国」と刻んであると教えてもらった。御礼申し上げます。

考えてみれば、つい昨秋、戒光寺墓地を訪れて、富山の墓の写真を撮影したことを思い出した。何ともうっかりな物忘れで愕然としている。連載でもこの写真を使えばよかったと少し後悔している。せっかくなので、富山の墓の写真を紹介しておきます。

これだと、実名は「豊国」、通称も「四郎」になっていますね。最初、「四郎太」だったので、それに戻したということでしょうか。
余談ながら、名字も「冨山」に見えます。

なお、前述のコメントでも書きましたが、ほかにも実名が「正利」という説もあるようです。

 
これまで常識だと信じて疑いもしなかった事柄に疑問を呈されると、驚くものである。些細なことかもしれないが、表題の件がそれだった。

いささか旧聞に属するが、『歴史読本』8月号の戦国特集で、島津義弘の合戦を担当した山口研一氏の論考を読み返していて、はたと気づいた。島津忠恒にルビが振ってあって、

ただひさ

となっていた。私はこれまで

ただつね

だと疑いもしなかったから、意表を衝かれた。
山口氏が「ただひさ」とする根拠は何なのかはよくわからない。きっと何か典拠があるのだと思うが……。

ちなみに、山口研一氏は薩摩島津氏について、いくつか優れた論文を書いている。とくに、次の論文は、伊作島津家の本宗家家督獲得についての通説に疑問を呈し、ライバルの薩州島津家の実久が一時守護職を相続したことを明らかにしている。

「戦国期島津氏の家督相続と老中制」(『青山学院大学文学部紀要』28号、1987年)

薩州島津家については、私も少しまとめたいと思っている。
 
昨日、新宿で某社の企画担当者と打ち合わせ。

来年の大河ドラマ「篤姫」の関連企画についてである。
文化セミナー、講演会、史跡探訪ツアーと1年間を通じた企画が毎月1回ずつある。
私は、とりあえず、この年末の講演会と来年の京都ツアーの案内を引き受けていた。今回は鹿児島ツアーについて、そのメニューや関係者との交渉をどうするかを打ち合わせることになっていた。

鹿児島の関係者、とくに県関係や島津家との手づるがあまりないので、その方面の人脈が多彩な友人の調所一郎氏にも加わってもらった。
さすがに調所氏である。どの方面に声をかけたら、スムーズに進行するかよくご存じで、企画担当者も大変喜んでくれた。調所氏に感謝である。

調所氏のおかげで、充実した鹿児島3泊4日のツアーのメニューが組めそうだ。また調所氏の薩摩拵と自顕流の講演も企画のひとつとして実現しそうな感じである。

話の成り行きで、どうやら私も京都ツアーだけじゃなく、鹿児島と江戸ツアーもやらなければなりそうな雰囲気だった。すべて薩摩づくしの企画である。

この企画、通り一遍のものではなくて、1年間の学習や見学を通じてテーマへの理解を深めるという趣旨で、史跡探訪ツアーも凝ったものやあまり知られていないことをやりたいという企画担当者の熱意が反映したもの。むしろ、私のような人間にはそのほうが好都合かも知れない。

とりあえずは、篤姫と和宮の墓所見学が楽しみ。
企画内容が具体化したら、またお知らせします。
 
編集担当者のN本さんからの連絡で、表題の拙著(PHP文庫)が重版になったことを知る。

文庫ながら、500頁以上の「大作」で、ふつうの文庫の2冊分の分量がある。地味で読みにくい、読み通せない、難しいという評判だったので、重版になったことは非常に喜ばしい。
Amazonから拙著のリンクを張ったところ、書評がいくつか載っていて、予想以上に好意的に書かれているのを知って安堵した。

1300枚あった原稿を1000枚未満に削った苦労を思い出した。とくに前半部分の薩摩統一期の話を相当削った。最初に力を入れて書いた部分だったので、断腸の思いがしたものである。

そういえば、同文庫の次回作として「島津義弘と立花宗茂」を執筆する予定になっているが、延び延びになっている。こちらのほうが、じつはずっと売れるはずだと踏んでいる。早く不義理状態を解消したいものだ。
だが、その前にまだやらなければならない仕事が……。
 
『信長公記』巻7に、天正2年(1574)正月の祝宴で、信長が朝倉義景・浅井久政・浅井長政3人の頭蓋骨を「薄濃」(はくだみ)にして酒宴に供したという、有名な逸話がある。薄濃とは髑髏に漆を塗って金粉で色づけしたものらしい。
この一件は信長の残虐さを表す証拠のひとつとされていた。

ただし、角川版信長公記の編者(奥野高広・岩澤愿彦両氏)は、馬廻だけの内宴だから意味が違うという注釈を付している。つまり、必ずしも残虐性を意味しないというのだ。

私もそれ以上深く追求したことはなかったが、最近読んだ以下の本に興味深いことが書かれていた。

武田鏡村『織田信長 石山本願寺合戦全史』(ベスト新書、2003)

それによれば、この薄濃は真言立川流の秘儀だというのである。
これは決して非礼の行為ではなく、薄濃にした髑髏を7年間安置して祀れば、8年目に髑髏に魂が甦ってきて、神通力を与えるというとか。
信長は、かれらの髑髏を祀り、その霊力を受けて活力にしたいという思いがあったという。

さて、どこまで信じていいのやら。
奥野・岩澤両氏が必ずしも残虐行為ではないと注釈したことを受けたのか、さらに積極的な解釈を示したことになるが……。
それにしても、信長が真言立川流を信仰していたとはにわかには信じがたい。武田氏は、淫教・邪教として真言宗から否定されたが、民間信仰として広がっていたとする。これも本当なのだろうか?

真言立川流といえば、後醍醐天皇の護持僧文観が思い出される。また網野善彦著「異形の王権」も思い出される。

もっとも、霊力が顕れるという8年目には、本能寺の変が起きてしまった。真言立川流の霊験もいかほどのものだったのか……
 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第20回
―間諜に徹し無残な最期―

連載もようやく20回。まだ道半ばにも至っておりません。
今回は珍しく新選組関係のネタです。
薩摩出身の富山弥兵衛を取りあげてみました。
右下のリンク欄をクリックすればご覧になれます。

富山を「とやま」と読まないで、「とみやま」と読むのはいかにも薩摩らしいです。
富山の出自や経歴など不明な点が多いですね。一応、薩摩藩京都藩邸の留守居役、内田仲之助の家来ということになっていますが、事実なのでしょうか? また私は諱も知りません。越後柏崎の招魂場には、富山の墓があるはずですが未見です。諱を刻んであるのでしょうか。
そういえば、先日の地震で倒壊などしていないでしょうか。

富山の生涯を見ると、立場こそ違え、田中新兵衛や伊牟田尚平と同じ匂いを感じてしまいます。世に出られない下級武士(陪臣)のもがきのようなものが……。
 
前田慶次

劇画「花の慶次」で有名な前田慶次。
米沢市立図書館が表題の本の改訂版を刊行したので購入。

同館サイトをのぞいたところ、すでに売り切れでがっかりした。ただ、市内の書店のいくつかに市中在庫があるかもしれないという告知が出ていたので、そのうちの米沢書房に電話したところ、在庫があるというので、すぐさま購入。
代金後払いでよいとのこと、非常に親切だった。

しかも、届いてみると、何と、表題の本だけでなく、小野栄著『上杉景勝伝』(米沢信用金庫叢書)を無料でプレゼントしていただく。何とも有難い。多謝。

表題の本には、次の3点が入っていた。

1,米沢市立図書館所蔵(米沢善本、慶次の自筆本)の道中日記 の忠実なる複製(朱線・朱丸などもそのまま)
2,前田慶次道中日記 資料編(翻刻と解説付き)
3,付図(前田慶次の遺跡、前田慶次道中行程図)

これで、2.100円は安い。

道中日記は関ヶ原合戦後、上杉景勝が米沢に減封国替になった慶長6年(1601)のものである。慶次は景勝を慕って米沢まで下向した。
これを読むと、慶次は伏見から中山道を下っている。
特徴的なのは、名所旧跡を見ながら、和歌をたくさん詠んでいること。また万葉集や古今集からの引用も多い。
慶次は武人というより文人の印象を受ける。

米沢書房からのお知らせによると、米沢ではすでに再来年の大河ドラマに向けて盛り上がっているとのこと。
直江兼続・上杉景勝だけでなく、前田慶次も主要キャストらしく書かれている。このトライアングルで描かれるのだろうか。

なお、前田慶次道中日記は『日本庶民生活史料集成』 第8巻(三一書房)や『新編信濃史料叢書』第10巻(信濃史料刊行会)にも収録されている。
 
昨夜、渋谷区某所の薩摩郷土料理屋で、鹿児島の県人会の方々と会合。

おいしい薩摩揚げ、豚骨、黒豚しゃぶしゃぶをいただき、焼酎を楽しむ。焼酎も鹿屋か大崎だったか、新発売のものを試飲させていただく。

会合といっても、よく趣旨がわからなかったが、とにかく県人会に協力してほしいということだろう。さしあたっては、会員を集めた講演会をという話だった。

これまでいくつかある県人会関係の団体には一度も出席したことはない。今回もたまたまよく参加する薩摩の会の関係者からのお呼びだったのと、少人数での会だというので出かけたもの。
果たして具体的な話になるのかどうか、しばらくは模様眺めだろうか。
 
大河ドラマ「風林火山」第32回
―越後侵入―

今回は山本勘助の越後侵入が描かれ、とてもありえそうもない長尾景虎との対面、もっとありえそうもない宇佐美定満との対面と、創作全開である。

戸石崩れは『甲陽軍鑑』と異なり、上田原合戦→戸石崩れという順でちゃんと描いてあった。
もっとも、戸石攻めはまたしても芸のない武田の攻め方で(笑)。「豊泉堂雑記」さんから筆誅を喰らうのではないか。
さらに、豊泉堂さんが心配していた戸石崩れに勘助が不在という恐ろしいことが実際に起こってしまった。

『甲陽軍鑑』では、勘助が劣勢の武田勢を救うために、両角虎光の兵50騎を借りて、村上勢の進路を南にそらすことに成功し、窮地を脱することになっている。ところが、肝心の勘助は景虎に捕らわれて戦場に不在である。しかも、宇佐美に正体がばれてしまっている……。

さて、この場面、軍師の勘助の見せ場のはずだが、今後何らかの形で描くのだろうか。それともスルーしてしまうのだろうか?

それはそうと、宇佐美が使っている忍びが「軒猿」となっていて、思わず苦笑してしまった。

前々回からだったか、直江実綱の娘でが出てきている。父に景虎の夜伽をするよう命じられたものの、景虎に冷たくあしらわれるというシーンがあった。
これを見て、在りし日の大河「天と地と」にフラッシュバックしたのは私だけだったろうか。
「天と地と」でも似たようなシーンがあったが、若干設定が違っていた。宇佐美定満の娘が乃美(「なみ」と読む)で、やはり景虎の近くに侍して、景虎を慕い続けるというものだった。
乃美を演じたのは樫山文枝、宇佐美は宇野重吉と民芸コンビだった。懐かしい。

乃美」と「」……字こそ違うが音は同じ。脚本家の「天と地と」へのオマージュか。
 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第19回
―大学野球で活躍後、戦死―

この間取りあげてきたテーマや流れからはちょっとはずれて、私にしては珍しい題材を扱いました。

最近、東京ドームに取材に行った件を書きました。
西郷隆盛の孫、西郷準(ひとし)が東京六大学で、立教のエース兼強打者になったエピソードです。とくにデビュー戦がすごいです。
投手よりも打者としての資質があったように見えます。そのままいけば、プロ入りも夢ではなかったでしょう。
でも、戦争によってその夢も絶たれました。

 
一昨日、古文書講座「てらこや」に出講。
今期のテーマ「大河ドラマ『篤姫』の見方」の3回目。

今回から篤姫の登場である。
登場といっても、いまだ客体というか、実質的な主体は島津斉彬である。
篤姫入輿がどのようなプロセスによって実現したかを、『斉彬公史料』所収の史料を手がかりに見ていった。

嘉永3年(1850)当時、将軍世子だった家祥(のち家定)が二度にわたって、摂関家出身の御簾中に先立たれたために、「京都はお好み遊ばされず」という意向を表明。家系繁盛だった11代将軍家斉の御台所、広大院(島津重豪一女)の家系から、再々縁を結びたいということになった。
【確認点1】
 ・家定御台所問題はあくまで徳川家から始まったこと
 ・嘉永3年が端緒で、斉彬はまだ世子で藩主にはなっていなかったこと

それで、島津家にも斉興か斉彬に適齢期の娘がいないか、大奥の上臈を通じて打診があったが、二人とも適当な娘がいなかった。
そのため、広大院の弟妹筋である南部・戸沢・戸田・奥平の諸家の娘も御簾中の対象になった。
【確認点2】
 ・広大院の血筋ということで、必ずしも島津家ではなかったこと

広大院の血筋で、御簾中候補者は5人ないし6人(奥平氏を含む)いた。
このうち、広大院に近い南部・戸沢・戸田の3家の姫が脱落。
残りが篤姫と於哲(久光長女)となったが、斉彬は篤姫に決定。
【確認点3】
 ・篤姫は決して第一候補ではなかったこと
 ・於哲をはずすにあたって、斉彬は父斉興の意向に気を遣っていること

次に、篤姫を実子とするかどうかということで、斉彬の試行錯誤がある。篤姫を養女として届け出ると、将軍家の御台所・御簾中は摂関家に限るという不文律があるため、近衛家の養女として送れば、「又々の養女」となってしまう。届出は実子か養女か、斉彬は迷う。
一方、幕閣か大奥筋では、御簾中ではなく「御部屋様」すなわち側室でもいいのではないかという声があり、広大院の先例を考えると、側室では島津家の面目が潰れるという判断から、斉彬は実子届けを決断。そのために伊達宗城との口裏合わせまで行う。
【確認点4】
 ・篤姫は側室になる可能性もあった

その他、斉彬が篤姫を実子だとする理由づけや背景に、対幕関係上、ユニークで込み入った事情があることを見ていく。
とくに将軍家から家慶の庶子「初之丞」(のち一橋慶昌)の養子先として島津家が候補になっていた事情が大きいことがわかった。
【確認点5】
 ・その発端から、いわゆる将軍継嗣問題と篤姫入輿は無関係であること

ほとんど芳即正氏の説をなぞる形になったが、実際に史料と突き合わせながら検討することが大事だと感じた。
とくに「御一条初発より之大意」(「竪山利武公用控」)という斉彬書状と思われる長文の史料が面白かった。時間の関係で全文読めなかったのが残念である。

受講者から久光の一女於哲がもし御簾中候補となったら、久光の勢力が増大したのかという鋭い質問があった。
斉彬と久光の関係は良好であり、ただ斉興に気を遣う必要があったので、斉彬が丁重な形で於哲の可能性を消去していったのではないかと回答。それでいいのかどうかはわからない。
ただ、この時代の特質として血統重視観念があり、於哲より篤姫のほうが広大院に血統的には近いことが斉彬の大義名分になっただろうと思う。

前日にNHKから大河の第1次キャストの発表があった。タイミングがよく、斉彬は誰、篤姫の母は誰とイメージが湧きやすかった。

余談
講座の翌日、NHKの大河ドラマ制作担当者から、今回のキャスティング発表のリリース資料を送っていただいた。以前、担当者とお会いして少し協力したからだろう。多謝。
それによれば、発表されたキャスト以外で、薩摩関係では、有村俊斎、伊地知正治、有村雄助、奈良原喜左衛門、有村次左衛門もキャスティングされている由。もっとも、それほど知名度のある役者ではないかもしれないが。


 
すでにネットニュースでもリリースされている。
これとかこれ

表題の記事、京都の友人が京都新聞などの記事を送ってくれた。有難い。多謝。

丸瓦の表面に「能」(異体字)の字を刻んだものが大きく写真に載っている。まことに印象深い。

現在の本能寺が「ヒ」=「火」を避ける意味で、この字(右側が「ヒ」2つではなく「去」のような字)を使っている。たしかその理由づけが本能寺の変で伽藍が焼失したので、その縁起かつぎというものだったような記憶があるが、この丸瓦の出土で、焼ける前からこの字を使っていたことになるのか。
あるいは、天文法華の乱で焼けたときの縁起かつぎだったのか?
あるいは、本能寺の変後から寺町移転までの間に再建されたものではないのか?

それはともかく、「無防備イメージ一新」という新聞見出しは大げさすぎないか。
今谷明氏がコメントで触れているように、二条御新造を誠仁親王に譲った信長は本能寺を新たな居館にするにあたって、所司代の村井貞勝に本能寺の普請を命じている。御殿その他の付帯施設が作られたわけで、堀や石垣もそれに含まれるだろう。
また、もともと洛中の法華宗寺院、それも本能寺のような門流寺院はある程度の防御施設をもっている。堀や石垣があってもおかしくない。中世の寺院は武装しており、現代のような開放的な寺院をイメージすることじたいがおかしい。

「無防備イメージ」はそうした物理的な施設がなかったことに由来するのではなくて、信長の御供衆が少なかったことに起因する。どんなに堅固な城郭でも、わずか数十人では守りきれるはずがないだろう。
仮に信長が数千人の軍勢を引き連れて本能寺に宿泊していたら、決して「無防備イメージ」にはならなかったはずである。

その意味で、この新聞見出しには違和感を覚えた。
 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第18回
―島津本宗家が権限奪還―

拙コラムが更新されました。
右下のリンク欄からご覧下さい。

今回は、島津忠恒による伊集院幸侃(忠棟)の上意討ちを取りあげました。
いかにも唐突で荒っぽい事件に見えますが、秀吉が死去し、豊臣政権が分裂・混乱している機をとらえた事件で、島津本宗家としては確信的な行為だと思います。
忠恒の舅、義久も一枚噛んでいたかどうかは微妙なところです。義久が上方から帰国して数日経ってから起きていますので、「アリバイ」はありそうですが、かといって事前謀議の可能性を排除することはできない気もします。

豊臣政権によって太守権を実質的に換骨奪胎されたいちばんの被害者は義久ですから、動機なしとはいえません。
この事件は、豊臣政権に奪われた大名権力を取り戻す目的があったのではないかと結論してみました。

島津本宗家の最大の関心事がそこにあるかぎり、中央政局の権力闘争→関ヶ原合戦からは一歩引いており、あまり関心がなかったといえそうです。

幸侃にとっては、秀吉の死が大きかったと思います。
幸侃自身がそれほど恣意的な政策を行ったとは思えませんが、太閤検地と朝鮮出兵のために、家中の多くが苦労し、禄高を減らされるなかで、ひとり大禄を得て、秀吉−三成ラインと結びついたことに家中の反発が大きく、それほど同情が集まらなかったのかもしれません。

それでも、島津本宗家を相手に1年近く戦った嫡男忠真の健闘は特筆すべきかもしれません。ただ、豊臣公儀の代表である徳川家康が島津本宗家に味方した以上、政治的に勝ち目がなかったのもたしかですね。
 
本日行きました。
野球観戦ではなく、取材です。

ドームの一角に、野球体育博物館があります。
野球殿堂入りした名選手のレリーフなどが飾ってあります。
南日本新聞の連載ネタで、敗戦関係について書くための取材でした。

博物館なので、ちゃんと学芸員がいらっしゃいました。
あらかじめ取材の申し込みをしてあったので、出迎えていただく。
女性でしたが、とても野球、というか野球の歴史に詳しい方で、昔の選手の名前がポンポン飛び出してきました。景浦とか吉原とか。

沢村栄治もどこで戦死したのか教えてもらいました。私の記憶のもとはTVアニメ「巨人の星」しかなく(爆)、3度も召集されて中国戦線で戦死したとばかり思っていたら、台湾沖で輸送船が撃沈されたそうですね。知らなかった。

館内に、六大学などアマの野球選手の戦没者のモニュメントがあり、その中に、私の目的の人の名前が刻んでありました。鹿児島出身の選手です。

その後、その選手の成績データを調べたいがどうしたらよいかと尋ねたら、館内に野球図書館がありますと連れて行ってくれた。
司書さんに「戦前の○○大学の資料、たしかOB会が作った本があったはず。あれを見せてあげて」とテキパキと指示。
出てきた本一冊だけで、用事が済んだ。
応対も親切で、あたりが柔らかく感じがよい学芸員さんだった。こちらが取材意図を告げると、それは意外な組み合わせで面白いと言ってくれた。多謝。

次回は8月15日直前掲載なので、これにしようと思っています。

その後、某図書館に論文探しに行く。
以前入手してもっていたはずなのに、いくら探しても出てこないので、再度複写に行かねばならなくなった。こういう時間の無駄が悔しいのだ。
でも、意外な論文や史料を見つけたので、よしとしておく。

今日は日差しがきつかった。夏場に2件も回ると、それだけでバテバテ。かといって、仕事は待ってくれないのがつらい。