歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞「さつま人国誌」第21回
―「豚一殿」の催促に困惑―

連載コラムが更新になりました。右下リンク欄からご覧になれます。

今回は一部ではよく知られていた話です。
だいぶ前、港区立郷土資料館で、三田の薩摩藩邸跡の発掘調査の出土品が展示されていて、山のように積んであった豚・猪の骨に驚いた覚えがあります。それと小松帯刀書翰を結びつけて書いてみました。

小松は豚肉だけでなく、牛肉も食べていたようです。今から見ると、なかなかの美食家ですね。
佐藤信淵は薩摩藩邸で買われている豚を「白毛豕(豚)」だとしています。黒豚ではなかったみたいです(笑)。
黒豚はいつ頃から飼われるようになったのでしょうね。
「豚一殿」には、いちにさんの黒豚しゃぶしゃぶを食べさせてあげたいくらいです(笑)。

スポンサーサイト

【2007/08/25 16:01】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |

肉食
かじやちょう
港区立郷土資料館で開催された展示会は、大変おもしろかったですね。展示されていた獣骨は、犬や猫に及んでいて、特に犬は愛玩用ではなく、食用であったと解説されていたように記憶しています。案外、四つ足のものを食べていたのですね(笑)

ペットと食用
桐野
かじやちょうさん、こんにちは。

たくさんコメント有難うございます。

あのときの展示を拝観と購入した図録がだいぶ役に立っています。今回の掲載にあたって写真掲載の許可もいただきました。

図録を見ると、一方で、発掘されたなかには狆の墓もあって、どうみてもこれはペットですね。富裕な商家の娘が愛玩していたのではないかと思われます。

コラムでも紹介した佐藤信淵の『経済要録』には食犬のことも書かれています。

「食犬は多毛或は長毛の犬にして、俗に「ムクイヌ」と呼べる者なり、多毛犬は身体能く肥て肉最厚く、食料と為して甚だ美なるを以て名くる処なり」

愛犬家は卒倒しそうですね(爆)。


ももんじや
ばんない
こんにちは。慶喜の「豚一様」の話はwikipediaの当該項目でも紹介されてますので結構知っている人は多いでしょうね。水戸藩は光圀の「ラーメン」の件といい、”げてもの食い”が多かったようで(爆)。斉昭の娘が伊達家に嫁いでいますが、「牛乳が体にいいから」と言うことで斉昭は雌牛一頭ごと伊達家に進呈していますね。困ってしまったのは伊達家の方で、「牛になるのは嫌じゃ」と毒味役を辞退する女中が相次いだとか言う話を聞いたことがあります。当時は牛乳を飲むと角が生えるという迷信があったようですね。タイトルにした獣肉料理専門店も江戸時代の後期になると存在していたようですが、やはり肉食(魚扱いの鯨除く)は一般には馴染みがなかった物のようですね。

犬を食べる習慣は弥生時代に日本に伝わったようで、縄文時代にはなかったようです。奈良時代以降、仏教の興隆から廃れたようですが、薩摩藩のいかもの食い(^^;)はそういう影響を受けずに残った物なんでしょうか。それとも琉球経由で後から新たに伝わった物なんでしょうか。
ご紹介の『経済要録』に出てくる食用犬は明らかにチャウチャウ(中国の食用犬)に似ていますね。あと朝鮮半島には今も犬を食べる習慣が残っていますが、その犬はどうもチャウチャウとは違うようです(検索したらいろいろ出てきますが、グロテスクな画像もありましたので、リンクはやめときます…)。

鹿児島の黒豚については、400年ほど前に島津家久の琉球出兵でもって帰った物が起源とするのが公式見解なようですが、
http://www.krp1.com/kurobuta/
http://www.kurokatutei.net/butaken.html
それなら薩摩藩邸で食べていた豚が白豚なのはどういうことなんでしょう?

ところで、
よその大名家から、薩摩藩主の正室になった女性やお付きの女中達はビックリしたでしょうね>食用の諸々(^^;)

黒豚と白豚
桐野
ばんないさん、こんばんは。

黒豚は、やはり家久の琉球侵略のときの副産物でしたか。
江戸の薩摩藩邸で飼われていたのは白豚だけじゃなかったかもしれないですけど、黒と白とではやはり味がちがうんでしょうね。「経済要録」は上品な味だと書いています。黒豚は脂が乗っているという違いでしょうかね。

斉彬の奥方は一橋家から来ていますから、藩邸内で豚を飼っていたのには驚いたことでしょう。
それもそうですが、周囲は臭いが大変だったのではと想像しますが……。

チャウチャウは食料だったんですね。知りませんでした。


秘剣
明治末年~大正ごろのあるひとの日記に、犬の鍋が旨かったという記事があり、びっくりしたことを覚えています。
東京に遊学している薩摩人の日記でした。
ちなみに、わたしの子供時代の剣道の師匠です・・・

焼酎「桐野」
桐野
秘剣さん、おはようございます。

このところ、多忙と歯痛のため返事が遅くなりました。

犬に対する見方はわずか半世紀ほどで様変わりですね。
そういう豪傑な先生がおいででしたか。

そういえば、焼酎の新銘柄「桐野」はなかなか入手しにくいそうですが。個人的にはぴったりでして(笑)。

黒豚と白豚
白黒はっきり
はじめまして。
大変楽しく拝見させてもらっています。

私は畜産を学んでいるのですが、藩邸で飼育していたものが黒豚ではなく白い豚であるというのに興味を引かれて書きこみさせていただきました。
薩摩藩がバークシャー種の黒豚を飼育していたのは畜産の側からも事実とされてますが、品種不明の白い豚を飼っていたとなるとちょっと新しい事実が浮かんでくることになります。

まず、この白い豚についてですが、日本古来の品種であった可能性もありますが、ぶちなどの模様もない完全に白い豚であるならば、ヨーロッパ原産のものだと思われます。
豚の品種自体に黒豚や白黒マダラの豚が多く、特に中国系の豚はそのほとんどが色や模様があり、世界的に主流な「白い」豚はヨークシャー種、ランドレース種などヨーロッパ由来の品種であるからです。

ですが、これらの白豚が薩摩(日本)にもたらされたという記録は私の知る限りでは畜産史にはなく、日本に始めて入ってきたのは横浜開港後のこととされています。(出島は除く)
ですので、本当にこれが白い豚だとするならば日本における畜産の歴史において「新しい品種が持ち込まれて日本人の手で飼育されていた」時代が早まるのでちょっとした発見になります。

いずれにせよ本当にどこから入手して、そして何故明治の頃には薩摩藩本土には黒豚しか残っていなかったのか、ちょっとミステリーですね。

案外密貿易とかかもしれませんが、これは門外漢である私には想像することしか出来ません。

まあ骨が残っているので、それを獣医学解剖学が専門の方が調べれば、一発で何種なのかは分かるような気もしますが...


補足 品種について
さつま黒豚はバークシャー種という黒い豚の品種に属しており、この種は肉の味は良いものの体格が小さく、産児数も少ないため、生産性が他の品種より劣ります。
そのため、味を考慮せず単純に肉を得たいというのであれば、中型から大型のヨークシャー種、ランドレース種の方が勝ります。
(事実、この生産性の差のためさつま黒豚の飼育頭数は一時期激減していた時代もあります。)

どうやって薩摩藩がこの白豚を手に入れたのかは分かりませんが、
黒より白を藩邸で飼育することにした理由は、以上の様な産肉性の効率によるものと思われます。
あるいは、そもそも鹿児島から江戸屋敷まで豚を生きたまま持ち込むという事自体が通常の方法では考えにくいので、その入手方法上白豚しか調達できなかったか。
本当に、黒にせよ白にせよどうやって豚を藩邸まで連れてきたんでしょうか。

白毛豕
桐野作人
白黒はっきりさん

コメント有難うございます。
畜産の専門家のご意見大変参考になりました。
幕末にはまだ白毛豚は国内にいなかった可能性が高いのですね。
とっていも、私は佐藤信淵の本から引用しただけで、その真偽のほどはよくわかりません。
ほかの史料に記事あればいいですね。
豚を藩邸にどうやって運んだかですが、おそらく生まれてまもない幼豚なら持ち込みは簡単ではないでしょうか。ペット感覚かも。



DNA
桐野作人
白黒はっきりさん

補足です。
東京都港区教育委員会が豚骨を大量に保管していますから、ぜひ畜産の専門家に調査してもらいたいですね。


コメントを閉じる▲
富山弥兵衛

先日、南日本新聞「さつま人国誌」に書いた富山弥兵衛の記事について、いくつかコメントをいただいた。

そのなかで、富山の諱(実名)について板倉丈浩さんから「忠全」とか「豊国」といった説があることをご紹介いただき、京都の戒光寺墓地にある高台寺党の墓石にも「豊国」と刻んであると教えてもらった。御礼申し上げます。

考えてみれば、つい昨秋、戒光寺墓地を訪れて、富山の墓の写真を撮影したことを思い出した。何ともうっかりな物忘れで愕然としている。連載でもこの写真を使えばよかったと少し後悔している。せっかくなので、富山の墓の写真を紹介しておきます。

これだと、実名は「豊国」、通称も「四郎」になっていますね。最初、「四郎太」だったので、それに戻したということでしょうか。
余談ながら、名字も「冨山」に見えます。

なお、前述のコメントでも書きましたが、ほかにも実名が「正利」という説もあるようです。


【2007/08/24 19:01】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |
これまで常識だと信じて疑いもしなかった事柄に疑問を呈されると、驚くものである。些細なことかもしれないが、表題の件がそれだった。

いささか旧聞に属するが、『歴史読本』8月号の戦国特集で、島津義弘の合戦を担当した山口研一氏の論考を読み返していて、はたと気づいた。島津忠恒にルビが振ってあって、

ただひさ

となっていた。私はこれまで

ただつね

だと疑いもしなかったから、意表を衝かれた。
山口氏が「ただひさ」とする根拠は何なのかはよくわからない。きっと何か典拠があるのだと思うが……。

ちなみに、山口研一氏は薩摩島津氏について、いくつか優れた論文を書いている。とくに、次の論文は、伊作島津家の本宗家家督獲得についての通説に疑問を呈し、ライバルの薩州島津家の実久が一時守護職を相続したことを明らかにしている。

「戦国期島津氏の家督相続と老中制」(『青山学院大学文学部紀要』28号、1987年)

薩州島津家については、私も少しまとめたいと思っている。

【2007/08/24 13:57】 | 戦国島津
トラックバック(0) |

読みについては
ばんない
「ただかつ」
というのもありました。これは『島津義弘の賭け』だったと思います(記憶あいまい)。

昔の人名の読み方は素直じゃないので難しいです。しかもほとんどの史料で当然の如くルビふってませんし(涙)。宮之城島津家の島津忠長も「ただなが」じゃなくて別の読み方らしいんですが…。

島津忠長
桐野
ばんないさん、こんばんは。

「ただかつ」とも読みますか。びっくりです。
山本博文氏が言っているのならば、これも何か根拠があるんでしょうね。

島津忠長については「ただたけ」と読むと思います。
これは『本藩人物誌』の当人の項にルビが振ってありました。ルビが振ってあるのは珍しいですね。

島津義弘の前名、義珍もふつう読めません(笑)。


島津忠恒
板倉丈浩
こんばんは。
最近記憶力に自信がない(涙)板倉です。
(別エントリで御教示いただいた『新選組史料集』の「富山正利」の部分、読んだはずなのに全く忘れていました・・・)

さて、島津忠恒ですが、とりあえず『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』をあたってみましたが、いずれも「たゞつね」とルビが振ってあります。
『島津義弘の賭け』もめくってみましたが、忠恒の読みにかんする記述はないようです。
ひょっとしたら忠恒のことを「忠久」とか「忠寿」などと当て字している史料があるのかもしれませんが、全く思い当たりません・・・。

自信はありませんが(汗)、今回の「ただひさ」については、単なる誤植じゃないかと思っています。


結局のところ
市川
桐野先生、こんばんは。
結局のところ、昔の人名はよくわからないものなんですよね。これが正しいと思っていても、実際は違ったりと……。
奥州の最上義光は、自分の名前をひらがなで書いていたと聞きました。もし本当なら、実にありがたいものです。

ちなみに私は島津日新斎のことを「にっしんさい」と覚えていました。友達の話だと、コーエーのゲームでも「にっしんさい」だったという話です。う~む、やはり人名は分かりづらい。


松裕堂
実名(諱)は資料や人によって、ホント読み方がさまざまで、ドレを信頼していいものか、私の場合しょっちゅう不安になります(笑)。

国語辞書なんかだと漢字ごとに「名乗り」項を設けて、読み方が書かれていたりしますけど、だいたいの字が複数の読みをもってますんで、”特定”するとなると殆どお手上げの状態。

あと「実名の○○は●●●●と読むのがただしい」ってだけの説明だけだと何か不安。

誤植?
桐野
板倉さん、こんにちは。

寛永伝・寛政譜は「ただつね」でしたか。だったら、まず間違いないでしょうね。両書とも、一応大名家提出の家譜を元にしていますから。

誤植の可能性というより、筆者が付けたルビではなく、編集部が付けたルビの可能性もありますね。


人名は難しい
桐野
市川さん、松裕堂さん、こんにちは。

たしかに人名は難しいですね。
公家とか大名クラスなら、何とかなりますが、身分が低い人はとても難しいです。

とはいえ、ここでは日新斎や忠恒という大名クラスが俎上に上がっているわけですが(笑)。
日新斎などは「じっしんさい」と読める人のほうがむしろ少ないと思います。

そういえば、「織田」も「おた」か「おだ」かという議論もありましたね。


御教示ありがとうございます
ばんない
板倉様、『島津義弘の賭け』も精査して下さったようでありがとうございます。うーむ、なんと人任せな自分(^^;)。それには載ってなかったですか。ただ「忠恒=ただかつ」というのは間違いなく見た記憶だけははっきりしているので、追々と探してみたいと思います。

「織田」の読みの話も出てきましたが、信長の母と言われる「土田御前」も私は長い間「つちだごぜん」と読むと思っていたのですが「どたごぜん」というのが今では正しいとされているようですね。「どたごぜん」と読むとどうも落ち着きのない女性のような印象を受けてしまうのは私だけなんでしょうか(汗)

「義珍」は「よしまさ」でしたっけ。文字通りの珍名だと思います(爆)「義」は足利義昭からの偏諱ですが「珍」はどこから持ってきたのでしょうか?


桐野
ばんないさん、こんばんは。

義珍の「珍」はどこから持ってきたのでしょうね。わたしもわかりません。歴代の島津家の人間で、この字を諱に持っている人はおそらくいないのではないかと思いますが。
この偏諱をもらったのは、義久が秀吉から義昭寄りに政治的スタンスを移した時期ですね。天正12年だったかな。この判断が間違いだったと思いますが……。
上井覚兼によれば、「由緒なき仁」だというのが理由でしたが。うちは成り上がりの秀吉と違って、右大将家の鎌倉以来の名家だというわけですが、考えてみれば、もともと伊作島津家ですから、それほど威張れたものじゃないですけどね。

もっとも、「珍」の字、通称ならいますね。幕末に重富家の珍彦がいます。
久光の三男ですけど、これは「うずひこ」と読んだと思います。実名は忠鑑、国名は備後だったかな?


薩州島津家
かじやちょう
かじやちょうです。

勝久から貴久に守護職が移る頃の情勢には大変興味があります。勝者側の都合で書かれた史料は多くありますが、本当にそうなのか???と今ひとつ納得がいきません。薩州島津家についてまとめられたら、是非拝見させてください。楽しみにしています。

コメントを閉じる▲
昨日、新宿で某社の企画担当者と打ち合わせ。

来年の大河ドラマ「篤姫」の関連企画についてである。
文化セミナー、講演会、史跡探訪ツアーと1年間を通じた企画が毎月1回ずつある。
私は、とりあえず、この年末の講演会と来年の京都ツアーの案内を引き受けていた。今回は鹿児島ツアーについて、そのメニューや関係者との交渉をどうするかを打ち合わせることになっていた。

鹿児島の関係者、とくに県関係や島津家との手づるがあまりないので、その方面の人脈が多彩な友人の調所一郎氏にも加わってもらった。
さすがに調所氏である。どの方面に声をかけたら、スムーズに進行するかよくご存じで、企画担当者も大変喜んでくれた。調所氏に感謝である。

調所氏のおかげで、充実した鹿児島3泊4日のツアーのメニューが組めそうだ。また調所氏の薩摩拵と自顕流の講演も企画のひとつとして実現しそうな感じである。

話の成り行きで、どうやら私も京都ツアーだけじゃなく、鹿児島と江戸ツアーもやらなければなりそうな雰囲気だった。すべて薩摩づくしの企画である。

この企画、通り一遍のものではなくて、1年間の学習や見学を通じてテーマへの理解を深めるという趣旨で、史跡探訪ツアーも凝ったものやあまり知られていないことをやりたいという企画担当者の熱意が反映したもの。むしろ、私のような人間にはそのほうが好都合かも知れない。

とりあえずは、篤姫と和宮の墓所見学が楽しみ。
企画内容が具体化したら、またお知らせします。

【2007/08/23 10:49】 | 幕末維新
トラックバック(0) |

参加します!
町田明広
町田です、こんにちは。
わくわくするような企画が目白押しですね。
私も可能な限り、お供に加えさせていただければ
望外な喜びです(^^)
次回のお知らせを楽しみにしております!

お久しぶりです
桐野
町田明広さん、こんばんは。

このところ忙しくて返事が遅れました。すみません。

篤姫のイベントがいろいろありそうですね。
私が関わっているものについては、ここでもご紹介したいと思います。
ただ、町田さんを満足させられるものに出来るかはあまり自信がありません(笑)。
あと、私が関わっている企画は例年応募者が多くて、すぐ定員一杯になるそうです。うまくいけばよいですが。

コメントを閉じる▲
編集担当者のN本さんからの連絡で、表題の拙著(PHP文庫)が重版になったことを知る。

文庫ながら、500頁以上の「大作」で、ふつうの文庫の2冊分の分量がある。地味で読みにくい、読み通せない、難しいという評判だったので、重版になったことは非常に喜ばしい。
Amazonから拙著のリンクを張ったところ、書評がいくつか載っていて、予想以上に好意的に書かれているのを知って安堵した。

1300枚あった原稿を1000枚未満に削った苦労を思い出した。とくに前半部分の薩摩統一期の話を相当削った。最初に力を入れて書いた部分だったので、断腸の思いがしたものである。

そういえば、同文庫の次回作として「島津義弘と立花宗茂」を執筆する予定になっているが、延び延びになっている。こちらのほうが、じつはずっと売れるはずだと踏んでいる。早く不義理状態を解消したいものだ。
だが、その前にまだやらなければならない仕事が……。

【2007/08/22 20:47】 | 戦国島津
トラックバック(0) |

おめでとうございます
かわい
 地味とか難しいとかはともかく、読み通せないという評判があったとは意外です。私などはすでに2度読んでいますが、データを取りたいのでさらにあと3度は読むつもりです。
 義弘と宗茂もマニアとしては地味で難しいのを期待したいところです。

5度も!
桐野
かわいさん、こんばんは。

率直なご感想、有難うございます(笑)。

それにしても、都合5度も読むほどの値打ちがありますかね? データといっても、所詮フィクションもありますから。あるいは、あら探しのこと?

義弘と宗茂については、義久で苦労したので、少し楽して書きたいと思っていたのですが(爆)。

ファンクラブですから(笑)
かわい
 登場人物一覧と地名一覧と年表を作ろうと思っていまして、そういう意味ではフィクションの部分も重要になります。
 『反太閤記』とか『織田武神伝』のも作りたいんですけど、個人作業なので手が回りません(笑)。

義弘と宗茂に興味津々
市川
桐野先生、こんばんは。
『島津義久』は地図や登場人物、合戦の詳細が載っていて大変勉強になったことを覚えています。特に私は島津忠恒のファンなので、彼の活躍(?)の所を面白く読ませていただきました。
あと個人的に、秋月種実も大好きです。

次回作の義弘と宗茂も期待しております。二人は敵同士だったのにその後は何かと協力して乱世を乗り切った印象がありますから、いろいろ興味深いです。えらく歳は違うのに……でも、そこもまた面白い!

最近暑いですが、これからも頑張ってください。

慶祝
ばんない
重版おめでとうございます。

>『島津義弘と立花宗茂』(仮)
たぶん内容が充実しすぎて義弘編と宗茂編で別々の本になるんでは
と、予想しておきます(苦笑)

期待大
武藤 臼
おめでとうございます。
私も楽しく読まさせていただきました。

>義弘と宗茂
大変楽しみにしてますので、よろしくお願いします(笑

楽しみにしています
重版おめでとうございます。

外国人ながら、わたしも2度読んでいますね。今戦国時代の島津氏、特に島津義久をめぐる解説本や伝記などは殆どないと思います。普通は義弘の本がいっぱいあるので、『島津義久』は珍しいし、そのときの島津氏の家中事情も詳しく書いてあり、重要な読本だと思います。

ご新著も楽しみにしていますが、もし都合よければファクションより、戦国時代の島津氏その家族史、あるいは政治史の解説本にはもっと期待していますね。

印象には、一般向けの島津氏の解説本は三木靖氏の『薩摩島津氏』(戦国史叢書10)と『裂帛島津戦記』(歴史群像シリーズ 戦国セレクション)二冊しかありません。実は「もっと知りたいな~」という気持ちがあります。






御礼
桐野
みなさま

拙著重版につき、いろいろ懇切なるお言葉をいただき、有難うございます。
少しは報われた気がしております。

島津氏については、まだまだ知られていないことが多いので、これからもいろいろ調べてみたいと思っております。次回作も頑張ります。



島津家の女性たち
桐野
胡さん、こんにちは。

胡さんは外国の方でしたか。
それにしても、お詳しいですね。

島津氏の家族史といえば、よくコメントを下さるばんないさんのサイトが充実しています。とくに島津家の女性について、これほど詳しいサイトは知りません。興味がおありなら、のぞいて見て下さい。

http://www.realintegrity.net/~shimadzu/index.html

おめでとうございます
かじやちょう
重版おめでとうございます。

私も楽しく読ませていただきました。
苦労して削られた前半部も拝見したいですね。
どこかで書いて頂けると思いますので、楽しみにしています。



コメントを閉じる▲
『信長公記』巻7に、天正2年(1574)正月の祝宴で、信長が朝倉義景・浅井久政・浅井長政3人の頭蓋骨を「薄濃」(はくだみ)にして酒宴に供したという、有名な逸話がある。薄濃とは髑髏に漆を塗って金粉で色づけしたものらしい。
この一件は信長の残虐さを表す証拠のひとつとされていた。

ただし、角川版信長公記の編者(奥野高広・岩澤愿彦両氏)は、馬廻だけの内宴だから意味が違うという注釈を付している。つまり、必ずしも残虐性を意味しないというのだ。

私もそれ以上深く追求したことはなかったが、最近読んだ以下の本に興味深いことが書かれていた。

武田鏡村『織田信長 石山本願寺合戦全史』(ベスト新書、2003)

それによれば、この薄濃は真言立川流の秘儀だというのである。
これは決して非礼の行為ではなく、薄濃にした髑髏を7年間安置して祀れば、8年目に髑髏に魂が甦ってきて、神通力を与えるというとか。
信長は、かれらの髑髏を祀り、その霊力を受けて活力にしたいという思いがあったという。

さて、どこまで信じていいのやら。
奥野・岩澤両氏が必ずしも残虐行為ではないと注釈したことを受けたのか、さらに積極的な解釈を示したことになるが……。
それにしても、信長が真言立川流を信仰していたとはにわかには信じがたい。武田氏は、淫教・邪教として真言宗から否定されたが、民間信仰として広がっていたとする。これも本当なのだろうか?

真言立川流といえば、後醍醐天皇の護持僧文観が思い出される。また網野善彦著「異形の王権」も思い出される。

もっとも、霊力が顕れるという8年目には、本能寺の変が起きてしまった。真言立川流の霊験もいかほどのものだったのか……

【2007/08/20 10:51】 | 信長
トラックバック(0) |

宿敵を祀る?
こんにちは、胡でございます

この逸話はあまりにも有名だが、その振る舞いはいったいどうやって説明するのか。

井沢元彦氏によれば、それは信長が朝倉義景と浅井長政に対する憎さを示すことであるが、その理由は単なる対戦相手でなく、特に義弟の長政が義景に従い、自分を裏切ったことには信長が耐えられないのである。つまり、単純的な暴虐でなく、期待している義弟の裏切り(義景では多分朝倉氏と織田氏の累代の遺恨を連想する)に応じる行動ではないかと思われる。(信長の長政に対する恨みは想像以上深いから)

したがって、信長はその二人に対して、深く怨んでいたが、「信長公記」の中でも、それから信長がその二つの頭骨をどう扱ったか記してないので、果してそれらを祀っていた証拠は残してないし、さらに、信長は本当に神通力を得るために、宿敵を祀ることは到底考えがたい。

武田説のカギは、当時に真言立川流がいったいどれほど流行されていたかとのことだと思う。

真言立川流
橋場
について言及したのは、明石散人氏の「第六天魔王信長」(だったかな?)が先ですね。

トンデモな方々ばかり(^_^;
かわい
 井沢氏といい明石氏といい、この手の話になるとそっち系の方が大活躍ですな(^_^;。
 ということは、武田氏も?

真言立川流
桐野
胡さん、こんにちは。

仰せのように、信長が果たして髑髏をどう扱ったか不明ですね。真言立川流の秘儀を行ったのなら、何らかの記述があってもおかしくありませんが、ないですね。

真言立川流がこの時代でも普及していたかどうか、私も懐疑的です。

第六天魔王信長?
桐野
はしば殿下、こんにちは。

国会データベースで調べたところ、ご紹介の書籍のタイトル、明石氏ではなく、羽山信樹氏と藤巻一保氏の同名著書ならありました。
明石氏のは『二人の天魔王』でしょうか?

いずれにしろ、網野善彦『異形の王権』の刊行年よりあとですから、網野史観に刺激されたものでしょうね。

真言立川流も髑髏を使用するのは同じですが、この場合、男女の和合水を垂らさないといけないはず。『信長公記』にはそこまで書かれていません(笑)。


第六天信仰
桐野
かわいさん、こんにちは。

明石・武田の諸氏の著作は、髑髏という外形的な類似性からの発想のような気がしますね。
真言立川流の秘儀だというなら、もっと証拠を提出しないと論証したことにはならないと思います。また、信長の寺社政策を見ると、自身が真言立川流にかぶれていたとはどうも考えにくいですね。

あと、信長の天魔のごとき比喩として「第六天魔王」が語られますが、第六天じたいは、御霊信仰に似ており、祟りをなす者を祀ることで、逆に守護神に転化させるものだという考え方もありますね。たとえば、阿修羅や鬼子母神と似たようなものです。

伊豆や相模には、民間に第六天信仰がかなり普及しているそうで、とても天魔だとは思えません。

信長を第六天魔王になぞらえるのも、守護神的な意味合いが本義で、誤読している可能性はないでしょうかね。

参考文献
木村博「伊豆・相模における第六天信仰」 『関東戦国史の研究』所収、後北条氏研究会編、名著出版、1976年


Re:第六天信仰
Tm.
お久しぶりです、Tm.です。

そもそも信長が「第六天魔王」を表明したのは「天台座主」の信玄に対抗してのものであり、私信の上でのことであって、公言してはいなかったと存じます。
そのうえで信長の所業に対して当時の人々が「天魔のごとき」と批難したことを、一部の現代人が曲解したものに過ぎないと言えます。
信長が特段に第六天信仰を持っていたという訳ではないでしょうね。

むしろ太子信仰に興味を抱いていたことが近衛前久の証言などからも知られますね。

信長の宗教観
お忙しいなかでのご返答ありがとうございます。

通説では、信長は無神論者、またはフロイスが言ったように自我神格化をする人物です。でも、最近の学界では(三鬼清一郎氏かな~)、信長は伊勢神宮などの寺社を修復したり、越前の織田剣神社を保護したりしていたため、果して無神論者だったのか疑いですね。

この点について、桐野先生は如何でしょうか?

天台座主と第六天魔王の意味
桐野
Tm.さん、こんにちは。

お久しぶりです。
フロイス記録にある信長と信玄の応酬についてですが、従来の理解でいいのかという疑問もあります。

信玄は信長に焼き打ちされた延暦寺の外護者、あるいは延暦寺の国家鎮護の役割を担うことを称しているわけですが、その趣旨からすれば、「第六天魔王」も、信長が京都(朝廷を含む)の守護者たる意味を込めているという解釈もできるのではないかと思っております。

京都を実際に支配している自分と、遠い甲斐にいる信玄とでは、果たしてどちらが京都を守護できるのか、もはや明らかではないかという優越感が込められていると考えられないでしょうか。

信長の宗教観
桐野
胡さん、こんばんは。

信長は無神論者ではないと、私も思います。信長も中世の人ですから。
伊勢神宮遷宮の寄進その他、信長の宗教活動はいくつかありますね。
とくに熱心に神仏を信仰していたとは思えませんが、それなりに敬意を表していた面はあったかもしれません。『細川家記』だったか、信長は法華経(法華宗だったか?)を信じていると書いてありますが、どうなんでしょうね。安土城天主の何階かの仏間は法華経の世界が描かれているという説もありますね。

一方、信長の自己神格化はどこまで本当なのかということもありますね。
毛利元就、島津日新斎など、戦国大名の始祖も神格化されているとも指摘されていますから、信長もそうだったとしても、必ずしも特別ではないかもしれませんが。

コメントを閉じる▲
南日本新聞連載「さつま人国誌」第20回
―間諜に徹し無残な最期―

連載もようやく20回。まだ道半ばにも至っておりません。
今回は珍しく新選組関係のネタです。
薩摩出身の富山弥兵衛を取りあげてみました。
右下のリンク欄をクリックすればご覧になれます。

富山を「とやま」と読まないで、「とみやま」と読むのはいかにも薩摩らしいです。
富山の出自や経歴など不明な点が多いですね。一応、薩摩藩京都藩邸の留守居役、内田仲之助の家来ということになっていますが、事実なのでしょうか? また私は諱も知りません。越後柏崎の招魂場には、富山の墓があるはずですが未見です。諱を刻んであるのでしょうか。
そういえば、先日の地震で倒壊などしていないでしょうか。

富山の生涯を見ると、立場こそ違え、田中新兵衛や伊牟田尚平と同じ匂いを感じてしまいます。世に出られない下級武士(陪臣)のもがきのようなものが……。

【2007/08/18 11:20】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |


ばんない
こんばんは。
他藩においても陪臣というのは似たような立場だったんでしょうか。薩摩藩だけ特別弱かったんでしょうか。

ところで「富山」と書いて「とみやま」と読むんですか。当方ATOKを使っていますが「とみやま」と打っても「富山」に一応変換するようです。
鹿児島風の言い方?といえば、「垂水」も「たるみず」と読みますね。関西では「たるみ」です。

陪臣
桐野
ばんないさん、こんばんは。

他藩の陪臣はすぐに思いつきませんが、新選組や海援隊にも陪臣や軽輩身分が多いですね。
たしか岡田以蔵も陪臣だったような。
伊藤博文は陪臣じゃなかったですかね?(うろおぼえ)

陪臣や郷士など軽輩の者が身を立てるには正規のルートではダメで、たとえば文久年間の尊攘運動に身を投じるとか、新選組や陸援隊・海援隊など、あまり身分を問わない有志組織に属するという変則的な方法をとるしかなかったと思います。

垂水の読みはよく間違えられますね。
伊地知も「いちじ」と読まれることが多いです。
頴娃とか今給黎とか祁答院とか難しい名字や地名が多い土地柄です(笑)。





ばんない
伊藤については他に詳しい方が多そうですから、詳細な説明はお任せするとして(汗)、ネットで検索した限りでは農民の出身から中間の身分に変わったという経歴があるようですね。

「とみやま」ですが、桐野さんはご存じかどうか分からないのですが『宇宙戦艦ヤマト』の主人公の役を当てた声優が「富山敬」(とみやま けい)という方でした。但し、この方鹿児島出身ではないようです。

鹿児島は難しい地名が多いですね。読み方もさることながら、余り使われない漢字が多いのも理由かと思います。「○原」も「○ばる」といいますよね。これは隣県の知事のおかげで急に読める人多くなってそうですが。

冨山敬
桐野
ばんないさん、こんにちは。

冨山 敬も「とみやま」でしたか。
私にとっては、「宇宙戦艦ヤマト」の古代よりも「タイガーマスク」の伊達直人ですね(笑)。
ご本人は鹿児島出身じゃないかもしれませんが、父か祖父の代には鹿児島だった可能性がありますね。
そういえば、冨山 敬さんはもう他界されているんですか。銀英伝のヤンと一緒に逝ってしまったんですね。

富山敬
かわい
本名の読みも「とみやま」だそうですから、関係があるかもしれませんね。本名の字は「冨山」だそうですが、このへんの微妙な字の違いはどうなんでしょうか。『姓氏家系大辞典』あたりだと同じ扱いですが。
東京出身ということですから、数代で遡ると地方出身者になる可能性は高いですね。私も3代以内で75%まで奥羽越になります。


松裕堂
ご無沙汰しております、松裕堂です。

>桐野さん
>たしか岡田以蔵も陪臣だったような。
岡田以蔵は"藩の足軽"なので、陪臣というわけではなかったハズです。
土佐藩で陪臣として有名なのは、田中光顕や那須信吾、岩村兄弟あたりが著名なんじゃないでしょうかね。

>陪臣や郷士など軽輩の者が身を立てるには
ながい江戸時代を全国的にみると、当事者に学問があるなどの一芸があれば、自藩や他藩や幕府がヘッドハンティング的に引き抜き・登用をおこなうケースも見受けられますけど、"基本的には"一握りの稀なケースなんでしょうね、これも。

ただ、"身分の上昇"は難いことみたいですが、一代限りの加増や仕事毎の報償・御褒美なんかは全国的にいつの年代でも、結構頻繁にやっているような印象はあります。>江戸時代

富山と冨山
桐野
かわいさん、こんにちは。

川崎大十『「さつま」の姓氏』には、「富山」で立項してあり、「冨山」はないですね。
『鹿児島県姓氏家系大辞典』では「富山・冨山 とみやま・とやま」と両方を並列で立項してあり、字の違いはないということだと思います。

富山(とみやま)氏はもともと、島津忠久の入部のときから在地していた島津荘の有力な荘官(弁済使)だったようです。由緒のある家だったと思われます。

また同上書には、「富山」(とやま)氏から「外山」氏が分かれたとも書いてありますが、たしかに「外山」(とやま)という名字も鹿児島には比較的多いですね。



身分の流動化
桐野
松裕堂さん、お久しぶりです。

土佐藩の陪臣の事例、有難うございました。
田中光顕や那須兄弟や岩村兄弟がそうでしたか。
土佐勤王党やその流れを引く陸援隊に属している人ばかりですね。

やはり陪臣や郷士層が社会的発言力をもつには徒党・結社を組む必要があったのでしょうね。
学問や武芸など一芸に秀でた人もいたでしょうが、やはりレアケースだと思われます。

その意味では、幕末は陪臣・郷士にも活躍の場を与えてくれる可能性に満ちた時代だったといえるかもしれません。土佐国内だと、いつまでも上士にバカにされていても、いったん藩外に出ると、そんな差別からある程度解放されるという自由感があったのでしょうね。
武市瑞山がそうした人々から慕われた理由が何となくわかる気がします。

藩組織の枠を超えた有志組織がなぜ幕末に叢生したのか、それらの組織の政治的立場の違いを超えて共通項を見出すという意味で、幕末史研究の重要な一翼ではないかと思います。



外山
ばんない
身分の流動化を求めるとなると、新撰組なども同じ流れに位置づけられるのかも知れませんね。

ところで、外山という苗字が富山(冨山)と同じとは、字面からは全然分かりませんでした。
外山というと、今年の春頃、一部でかなり有名になった人がいましたよね。この人は鹿児島出身だそうです(苦笑)

"神"となった新選組隊士
板倉丈浩
おはようございます。
富山弥兵衛については、市居浩一氏の『新選組・高台寺党』(新人物往来社)が詳しいですね(といっても、そんなに詳しい履歴を伝える史料はないようなんですが・・・)。

富山の名乗りについては、『近世殉国一人一首伝』(城兼文編・明治2年刊)に「富山四郎太忠全、初名弥兵衛」とあります。
ちなみに、辞世は「から人は死してぞ止まめ我はまた なな世をかけて国につくさん」というもので、戦死したときに彼の懐中に書き置きがあったということです。
常に死を覚悟して捨て身で行動していた、ということでしょうか。
こういう「七生報国」の和歌は藤堂平助も残しており、いわゆる高台寺党の中では強かった考えなのかもしれません。

富山の勇死を憐れんだ地元村民は彼を神として祀り、この神社に祈念するとなぜか兵役に行かずに済むという御利益があったそうです。
富山は京都霊山神社や新潟護国神社、靖国神社にも合祀されており、市居氏は「よくよく神様に縁がある男」と評しています(^^;
「富山神社」は昭和36年9月に台風で倒壊して、その後、跡地(新潟県三島郡出雲崎町吉水、教念寺境内)には「薩摩藩士 富山四郎豊國之碑」と刻まれた石碑が建っているとのこと。

なお、柏崎招魂場にあった富山の墓は、昭和20年7月に軍用道路建設にあたって撤去され、その後どうなったかわからないとのことですが、招魂場の人名表には「薩州藩 富山弥兵衛豊國」とあるそうです。
京都東山戒光寺にも伊東甲子太郎・藤堂平助ら他の高台寺党の人々と並んで彼の墓があり、それには「富山四郎源豊國」と刻まれているようです。


コメントを閉じる▲
前田慶次

劇画「花の慶次」で有名な前田慶次。
米沢市立図書館が表題の本の改訂版を刊行したので購入。

同館サイトをのぞいたところ、すでに売り切れでがっかりした。ただ、市内の書店のいくつかに市中在庫があるかもしれないという告知が出ていたので、そのうちの米沢書房に電話したところ、在庫があるというので、すぐさま購入。
代金後払いでよいとのこと、非常に親切だった。

しかも、届いてみると、何と、表題の本だけでなく、小野栄著『上杉景勝伝』(米沢信用金庫叢書)を無料でプレゼントしていただく。何とも有難い。多謝。

表題の本には、次の3点が入っていた。

1,米沢市立図書館所蔵(米沢善本、慶次の自筆本)の道中日記 の忠実なる複製(朱線・朱丸などもそのまま)
2,前田慶次道中日記 資料編(翻刻と解説付き)
3,付図(前田慶次の遺跡、前田慶次道中行程図)

これで、2.100円は安い。

道中日記は関ヶ原合戦後、上杉景勝が米沢に減封国替になった慶長6年(1601)のものである。慶次は景勝を慕って米沢まで下向した。
これを読むと、慶次は伏見から中山道を下っている。
特徴的なのは、名所旧跡を見ながら、和歌をたくさん詠んでいること。また万葉集や古今集からの引用も多い。
慶次は武人というより文人の印象を受ける。

米沢書房からのお知らせによると、米沢ではすでに再来年の大河ドラマに向けて盛り上がっているとのこと。
直江兼続・上杉景勝だけでなく、前田慶次も主要キャストらしく書かれている。このトライアングルで描かれるのだろうか。

なお、前田慶次道中日記は『日本庶民生活史料集成』 第8巻(三一書房)や『新編信濃史料叢書』第10巻(信濃史料刊行会)にも収録されている。

【2007/08/17 19:10】 | 新刊
トラックバック(1) |


ぼっけもん新聞
前田慶次、「花の慶事」で知り「一夢庵風流記」を読んだ記憶があります。今は、誇りを被って眠っている書籍ですが、久々に起こしたくなりました。
私にとって漫画の慶次は、あこがれの存在です。


管理人さんへお尋ねします。
ぼっけもん新聞
反、西郷・島津などの立場が書かれている書籍を探しています。
教えて頂けないでしょうか。
宜しくお願いいたします。


びわこ
桐野さん、こんにちは。

道中日記の改訂版、出たんですか?
欲しいっ、私も欲しい・・・(探します)

さて、この前田慶次道中日記は、関ヶ原合戦直後に琵琶湖を船で渡り、佐和山城麓で船を下りて中仙道に入っているんですよね。

三成の霊を慰めるために「虫送り」だったか、そういうことをしてるっていう記述もあって、関ヶ原合戦を世間がどういう見方してたかも垣間見ることのできる読み物ですよね。

>また万葉集や古今集からの引用も多い。

桐野さんが書いてらっしゃるように私も武人より文人の才を強く感じました。


夜中に思いつくまま書いたのでしまりのない文章ご容赦(^^;

米沢書房
桐野
びわこさん、こんにちは。

私が購入したものの奥付には、

平成13年9月29日発行
平成17年5月2日改訂二版発行

となっています。
改訂版といっても、どこが改訂されたのかよくわかりませんが。

発行元にはもう在庫がないようです。
私が購入した米沢市内の米沢書房にはまだあるかもしれません。
http://phonebook.yahoo.co.jp/list?a2=06202&g3=3097000


重野安繹
桐野
ぼっけもん新聞さん、こんにちは。

反西郷・島津の立場といっても、あからさまのものはありましたかね。
贔屓の引き倒しはいやですが、その逆もまだ同様で。

西郷のことをよく知る人で、比較的手厳しいことを書いているのは重野安繹(しげの・やすつぐ)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。後世、「抹殺博士」の異名で有名ですが、西郷のことをよく知る人です。

『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。豪傑肌に見えるけど、度量は大きくないと書いています。
その重野の著作は戦前のものなので、なかなか入手しにくいですが、大和書房刊『西郷隆盛全集』第6巻に「西郷論集成」がまとまって載っており、そのなかに重野の上記批評も収録されています。この本なら、比較的大きい図書館には置いてあると思います。

あと、薩摩の精神風土や制度を批判的に論述した郷土出版があります。比較的入手しやすいものでは、

片岡吾庵堂『横目で見た郷土史』、高城書房、1996年
中村明蔵『薩摩民衆支配の構造』、南方新社、2000年

あと、西南戦争や薩摩士族について、文化的民俗的に研究したものとして、

千葉徳爾『負けいくさの構造』、平凡社選書153、1994年

ほかにもいくつかあると思いますが、とりあえず思いついたものを挙げてみました。




ぼっけもん新聞
ありがとうございます。
以前より、良書選びに困っていました。
前田慶次の書籍も早速取り寄せました。

最近は、山路愛山の西郷評や南日本新聞の鹿児島百年を購入して読んでいます。
増える書籍をいかに読むか。時間作りに四苦八苦しながら楽しんでいます。
これからもよろしくご指導ください。

ありがとうございます
びわこ
桐野さん
早速、ありがとうございます。

問い合わせてみますね。


コメントを閉じる▲
昨夜、渋谷区某所の薩摩郷土料理屋で、鹿児島の県人会の方々と会合。

おいしい薩摩揚げ、豚骨、黒豚しゃぶしゃぶをいただき、焼酎を楽しむ。焼酎も鹿屋か大崎だったか、新発売のものを試飲させていただく。

会合といっても、よく趣旨がわからなかったが、とにかく県人会に協力してほしいということだろう。さしあたっては、会員を集めた講演会をという話だった。

これまでいくつかある県人会関係の団体には一度も出席したことはない。今回もたまたまよく参加する薩摩の会の関係者からのお呼びだったのと、少人数での会だというので出かけたもの。
果たして具体的な話になるのかどうか、しばらくは模様眺めだろうか。

【2007/08/14 18:45】 | 雑記
トラックバック(0) |


ぼっけもん新聞
熱しやすく冷めやすい。それが鹿児島人の悪いところです。最近は、大久保公のように国のためを思う一心を貫き通す薩摩人が減ったように思います。熱き心は必要ですが、それを持続させる冷めた心も必要です。このバランスに欠くと「言行一致」にはなりにくいと思います。
私も薩摩人として「郷中教育」」の教えである「嘘をつかない」を体言できればと、精進しております。
講演会が決まりましたら、お誘いください。
楽しみにしています。

熱しやすく
桐野
ぼっけもん新聞さん、こんにちは。

熱しやすく冷めやすいというのは、薩摩人だけでなく、日本人全体がそんな気がしますね。

郷中教育は美徳の面もありますが、「議をいうな」精神では果たしてどうかとも思います。そのままではなく、時代に即してイノベーションしないといけないかもしれませんね。


ぼっけもん新聞
「議をいうな」といわれる郷中教育ですが、「舎の者と議論を行い己を高めるていた」という記述を読んだ気がします。これは「議」ではないのでしょうか。以前より疑問なのです。
本来、「議をいうな」とは「言動が一致しない口先だけの者」に対して使われていたのではないのだろうか、と推測しています。私は幼い頃より「議をいうな」と言われ育ってきました。「相手を黙らせる最強の呪文」のように連呼する人が多かったですが、そのような方にかぎって「謙虚な姿勢に欠けていた」気がします。「議」を行うことにより「洗練された思考」を身に付けることが可能だと思うので、単純に「議をいうな」精神だけでは問題でしょうね。

議をいうな
桐野
ぼっけもん新聞さん、こんにちは。

>本来、「議をいうな」とは「言動が一致しない口先だけの者」に対して使われていたのではないのだろうか、と推測しています。

本来はそういう趣旨といいますか、議論よりも実践が大事だという意味だったのかもしれませんが、結局、年長者や上位者の年少者・下位者への優位を示す手段、言論封殺の手段になったのは否めませんね。
たとえば、西南戦争でも、挙兵反対論や自重論に対して、この言葉が発せられ、悲惨な結末を招いています。

ですから、そのような精神風土の再現にならないよう注意が肝要かと存じます。


無名戦士
今でもありますね。例えば西郷さんにマイナスな私学校生による挙兵反対論者虐殺の史実などの話題は封殺されますからね。

私学校
桐野
無名戦士さん、初めまして。

仰せの通り、西南戦争の暗部はあまり取りあげられておりませんね。
大久保政権の挑発によって、やむをえず起ったという歴史観が主流ですが、果たしてそうでしょうかね。

鹿児島士族間の矛盾や対立などにも目を向けるべきですね。とくに城下士(私学校)による差別的な郷士支配という面を無視してはならないと思います。




ぼっけもん新聞
上記の意見のとおりです。本来の意味であったであろう「議をいうな」は結局、上位者が下位者への優位を示す言論封殺の行為になってしまったことは、事実だと思います。



コメントを閉じる▲
大河ドラマ「風林火山」第32回
―越後侵入―

今回は山本勘助の越後侵入が描かれ、とてもありえそうもない長尾景虎との対面、もっとありえそうもない宇佐美定満との対面と、創作全開である。

戸石崩れは『甲陽軍鑑』と異なり、上田原合戦→戸石崩れという順でちゃんと描いてあった。
もっとも、戸石攻めはまたしても芸のない武田の攻め方で(笑)。「豊泉堂雑記」さんから筆誅を喰らうのではないか。
さらに、豊泉堂さんが心配していた戸石崩れに勘助が不在という恐ろしいことが実際に起こってしまった。

『甲陽軍鑑』では、勘助が劣勢の武田勢を救うために、両角虎光の兵50騎を借りて、村上勢の進路を南にそらすことに成功し、窮地を脱することになっている。ところが、肝心の勘助は景虎に捕らわれて戦場に不在である。しかも、宇佐美に正体がばれてしまっている……。

さて、この場面、軍師の勘助の見せ場のはずだが、今後何らかの形で描くのだろうか。それともスルーしてしまうのだろうか?

それはそうと、宇佐美が使っている忍びが「軒猿」となっていて、思わず苦笑してしまった。

前々回からだったか、直江実綱の娘でが出てきている。父に景虎の夜伽をするよう命じられたものの、景虎に冷たくあしらわれるというシーンがあった。
これを見て、在りし日の大河「天と地と」にフラッシュバックしたのは私だけだったろうか。
「天と地と」でも似たようなシーンがあったが、若干設定が違っていた。宇佐美定満の娘が乃美(「なみ」と読む)で、やはり景虎の近くに侍して、景虎を慕い続けるというものだった。
乃美を演じたのは樫山文枝、宇佐美は宇野重吉と民芸コンビだった。懐かしい。

乃美」と「」……字こそ違うが音は同じ。脚本家の「天と地と」へのオマージュか。

【2007/08/12 22:40】 | 風林火山
トラックバック(0) |
南日本新聞連載「さつま人国誌」第19回
―大学野球で活躍後、戦死―

この間取りあげてきたテーマや流れからはちょっとはずれて、私にしては珍しい題材を扱いました。

最近、東京ドームに取材に行った件を書きました。
西郷隆盛の孫、西郷準(ひとし)が東京六大学で、立教のエース兼強打者になったエピソードです。とくにデビュー戦がすごいです。
投手よりも打者としての資質があったように見えます。そのままいけば、プロ入りも夢ではなかったでしょう。
でも、戦争によってその夢も絶たれました。


【2007/08/11 11:15】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |

拝読しました
秘剣
西郷ドンの孫の話、拝読しました。
よい文でした。しみじみと感じるところがありました。


桐野
秘剣さん、どうも。

西郷といえば、西南戦争までで、その後の子孫のことはほとんど知られていません。今回はそうした空白部分を取りあげてみました。

過分なお言葉恐縮ですが、秘剣さんのブログのしみじみ感にはかないません。

管理人のみ閲覧できます
-


コメントを閉じる▲
一昨日、古文書講座「てらこや」に出講。
今期のテーマ「大河ドラマ『篤姫』の見方」の3回目。

今回から篤姫の登場である。
登場といっても、いまだ客体というか、実質的な主体は島津斉彬である。
篤姫入輿がどのようなプロセスによって実現したかを、『斉彬公史料』所収の史料を手がかりに見ていった。

嘉永3年(1850)当時、将軍世子だった家祥(のち家定)が二度にわたって、摂関家出身の御簾中に先立たれたために、「京都はお好み遊ばされず」という意向を表明。家系繁盛だった11代将軍家斉の御台所、広大院(島津重豪一女)の家系から、再々縁を結びたいということになった。
【確認点1】
 ・家定御台所問題はあくまで徳川家から始まったこと
 ・嘉永3年が端緒で、斉彬はまだ世子で藩主にはなっていなかったこと

それで、島津家にも斉興か斉彬に適齢期の娘がいないか、大奥の上臈を通じて打診があったが、二人とも適当な娘がいなかった。
そのため、広大院の弟妹筋である南部・戸沢・戸田・奥平の諸家の娘も御簾中の対象になった。
【確認点2】
 ・広大院の血筋ということで、必ずしも島津家ではなかったこと

広大院の血筋で、御簾中候補者は5人ないし6人(奥平氏を含む)いた。
このうち、広大院に近い南部・戸沢・戸田の3家の姫が脱落。
残りが篤姫と於哲(久光長女)となったが、斉彬は篤姫に決定。
【確認点3】
 ・篤姫は決して第一候補ではなかったこと
 ・於哲をはずすにあたって、斉彬は父斉興の意向に気を遣っていること

次に、篤姫を実子とするかどうかということで、斉彬の試行錯誤がある。篤姫を養女として届け出ると、将軍家の御台所・御簾中は摂関家に限るという不文律があるため、近衛家の養女として送れば、「又々の養女」となってしまう。届出は実子か養女か、斉彬は迷う。
一方、幕閣か大奥筋では、御簾中ではなく「御部屋様」すなわち側室でもいいのではないかという声があり、広大院の先例を考えると、側室では島津家の面目が潰れるという判断から、斉彬は実子届けを決断。そのために伊達宗城との口裏合わせまで行う。
【確認点4】
 ・篤姫は側室になる可能性もあった

その他、斉彬が篤姫を実子だとする理由づけや背景に、対幕関係上、ユニークで込み入った事情があることを見ていく。
とくに将軍家から家慶の庶子「初之丞」(のち一橋慶昌)の養子先として島津家が候補になっていた事情が大きいことがわかった。
【確認点5】
 ・その発端から、いわゆる将軍継嗣問題と篤姫入輿は無関係であること

ほとんど芳即正氏の説をなぞる形になったが、実際に史料と突き合わせながら検討することが大事だと感じた。
とくに「御一条初発より之大意」(「竪山利武公用控」)という斉彬書状と思われる長文の史料が面白かった。時間の関係で全文読めなかったのが残念である。

受講者から久光の一女於哲がもし御簾中候補となったら、久光の勢力が増大したのかという鋭い質問があった。
斉彬と久光の関係は良好であり、ただ斉興に気を遣う必要があったので、斉彬が丁重な形で於哲の可能性を消去していったのではないかと回答。それでいいのかどうかはわからない。
ただ、この時代の特質として血統重視観念があり、於哲より篤姫のほうが広大院に血統的には近いことが斉彬の大義名分になっただろうと思う。

前日にNHKから大河の第1次キャストの発表があった。タイミングがよく、斉彬は誰、篤姫の母は誰とイメージが湧きやすかった。

余談
講座の翌日、NHKの大河ドラマ制作担当者から、今回のキャスティング発表のリリース資料を送っていただいた。以前、担当者とお会いして少し協力したからだろう。多謝。
それによれば、発表されたキャスト以外で、薩摩関係では、有村俊斎、伊地知正治、有村雄助、奈良原喜左衛門、有村次左衛門もキャスティングされている由。もっとも、それほど知名度のある役者ではないかもしれないが。



【2007/08/09 17:23】 | てらこや
トラックバック(0) |
すでにネットニュースでもリリースされている。
これとかこれ

表題の記事、京都の友人が京都新聞などの記事を送ってくれた。有難い。多謝。

丸瓦の表面に「能」(異体字)の字を刻んだものが大きく写真に載っている。まことに印象深い。

現在の本能寺が「ヒ」=「火」を避ける意味で、この字(右側が「ヒ」2つではなく「去」のような字)を使っている。たしかその理由づけが本能寺の変で伽藍が焼失したので、その縁起かつぎというものだったような記憶があるが、この丸瓦の出土で、焼ける前からこの字を使っていたことになるのか。
あるいは、天文法華の乱で焼けたときの縁起かつぎだったのか?
あるいは、本能寺の変後から寺町移転までの間に再建されたものではないのか?

それはともかく、「無防備イメージ一新」という新聞見出しは大げさすぎないか。
今谷明氏がコメントで触れているように、二条御新造を誠仁親王に譲った信長は本能寺を新たな居館にするにあたって、所司代の村井貞勝に本能寺の普請を命じている。御殿その他の付帯施設が作られたわけで、堀や石垣もそれに含まれるだろう。
また、もともと洛中の法華宗寺院、それも本能寺のような門流寺院はある程度の防御施設をもっている。堀や石垣があってもおかしくない。中世の寺院は武装しており、現代のような開放的な寺院をイメージすることじたいがおかしい。

「無防備イメージ」はそうした物理的な施設がなかったことに由来するのではなくて、信長の御供衆が少なかったことに起因する。どんなに堅固な城郭でも、わずか数十人では守りきれるはずがないだろう。
仮に信長が数千人の軍勢を引き連れて本能寺に宿泊していたら、決して「無防備イメージ」にはならなかったはずである。

その意味で、この新聞見出しには違和感を覚えた。

【2007/08/08 00:19】 | 信長
トラックバック(0) |

まったく賛成
中村武生
中村武生です。
 いつもお世話になっております。
 今朝、この朝刊で大きく目覚めました。

 瓦の漢字、無防備記事、本当にまったく同じことを思いました。
 本能寺の変に造詣のふかい桐野さんと同じ感想だったこと、光栄に存じます

石垣・堀の年代
桐野
中村武生さん

先日はお世話になりました。

今度の発掘、「無防備」云々よりも、石垣や堀がいつのものなのか、そちらのほうが重要ではないかと思います。
情報が少ないのでよくわかりませんが、焼け瓦は果たして本能寺の変のときのものなのか、それとも天文法華の乱のときの可能性はないのか、いろいろ推測が浮かびます。
また、石垣・堀の築造年代についても、①天文法華の乱以後、②信長時代、③本能寺の変以後から寺町移転までなど、いろんな可能性が考えられそうですね。

また丸瓦の「能」の異体字。一種のまじないか判じ物のようにも思えますが、当時はよくあったことなんでしょうかね。ほかにも事例があれば知りたいものです。



市野澤
ご無沙汰してます。
今回、出土した瓦が本能寺の変の時の物だったら、火の手がどの程度だったかも判明しますよね?

いつ焼けたか
桐野
市野澤さん、こんばんは。

ご無沙汰しておりました。お元気だったでしょうか。

今回の焼け瓦ですが、本能寺の変のときだった可能性が高いのではないかと思います。

うっかりしておりましたが、天文法華の乱で本能寺が焼けたときは、四条坊門西洞院にはなく、たしか六角大宮にあったはずです。

天文法華の乱ののち、本能寺が四条坊門西洞院に再建されるのは天文14年(1545)です。それ以降、本能寺の変までおそらく焼けていないと思われます。
したがって、本能寺が焼けたとすれば、天正10年しかないのではないでしょうか。

どの程度焼けたのか。遺骨はないのか。清玉上人が全部回収したんでしょうかね?



毎日暑いですね(;^_^A
市野澤
現代の技術でも骨まで焼くの時間がかかりますよね。信長の遺骸は一体、どうなったのか?興味は尽きません。 『新・歴史群像シリーズ⑨本能寺の変』で藤田達生氏が論考で桐野さんが発見された新史料「福屋金吾旧記文書」の年次について、異議を唱えていらしてましたが反論、おまとめ中でしょうか?

福屋金吾旧記文書
桐野
市野澤さん、おはようございます。

藤田説への反論、疑問はさしあたって拙ブログの次のエントリーのコメント欄にあります。表題が異なるので、見つけにくかったかもしれません。

http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-190.html

コメントを閉じる▲
南日本新聞連載「さつま人国誌」第18回
―島津本宗家が権限奪還―

拙コラムが更新されました。
右下のリンク欄からご覧下さい。

今回は、島津忠恒による伊集院幸侃(忠棟)の上意討ちを取りあげました。
いかにも唐突で荒っぽい事件に見えますが、秀吉が死去し、豊臣政権が分裂・混乱している機をとらえた事件で、島津本宗家としては確信的な行為だと思います。
忠恒の舅、義久も一枚噛んでいたかどうかは微妙なところです。義久が上方から帰国して数日経ってから起きていますので、「アリバイ」はありそうですが、かといって事前謀議の可能性を排除することはできない気もします。

豊臣政権によって太守権を実質的に換骨奪胎されたいちばんの被害者は義久ですから、動機なしとはいえません。
この事件は、豊臣政権に奪われた大名権力を取り戻す目的があったのではないかと結論してみました。

島津本宗家の最大の関心事がそこにあるかぎり、中央政局の権力闘争→関ヶ原合戦からは一歩引いており、あまり関心がなかったといえそうです。

幸侃にとっては、秀吉の死が大きかったと思います。
幸侃自身がそれほど恣意的な政策を行ったとは思えませんが、太閤検地と朝鮮出兵のために、家中の多くが苦労し、禄高を減らされるなかで、ひとり大禄を得て、秀吉-三成ラインと結びついたことに家中の反発が大きく、それほど同情が集まらなかったのかもしれません。

それでも、島津本宗家を相手に1年近く戦った嫡男忠真の健闘は特筆すべきかもしれません。ただ、豊臣公儀の代表である徳川家康が島津本宗家に味方した以上、政治的に勝ち目がなかったのもたしかですね。

【2007/08/04 12:43】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |

その時歴史が動いた
市川
桐野先生、こんにちは。
伊集院幸侃の事件は、島津家の慶長年間における重大な出来事ですよね。彼が謀殺された時、中央では石田三成と徳川家康が暗闘していた。私は彼らの対立が、加害者の島津忠恒に幸侃殺害を決意させたと思います。
幸侃を殺害しても、家康が守ってくれる。そんな打算と、幸侃を殺すことで三成との縁を切ろうとしていたのでは……。
もし逆に幸侃が生きていたら、島津家は関ヶ原の役でどのような立場になっていたのか、気になります。

島津家の権限回復以外にも、幸侃殺害は忠恒の歴史に対する思惑があったのではないでしょうか。私は忠恒という人物が、かなり凄腕の君主に見えて仕方ありません。
もしかしたら、幸侃殺害は家康が忠恒をそそのかしてやらせたのかもしれません。

家康の教唆?
桐野
市川さん、こんばんは。

伊集院幸侃事件はご指摘のとおり、大きな事件だと思います。
島津家が豊臣政権に対して求心力より遠心力を高めた出来事といえるかもしれません。

ただ、家康が唆したというのはどうでしょうかね。私にはよくわかりません。
結果論からいえば、そういう見方もできるかもしれませんが、事件には忠恒の強い怨恨のようなものを感じさせます。
忠恒は事件後、神護寺にいったん蟄居していますから、事件の重大さを認識していたと思います。

忠恒の評価については難しいですが、近世薩摩藩の祖として、幕藩体制のなかに島津家を位置づけて安定させたという意味では、ご指摘のように凄腕だったといえそうです。

ただ、幸侃のほかにも、老中の平田増宗の暗殺も命じています。ちょっと血を流しすぎたようにも感じます。



ばんない
こんばんは。伊集院幸侃は戦国末期から関ヶ原直前まで、島津家に(良くも悪くも)大きな役割を果たした人物ですが、何しろ史料が余り残ってないので実体がよく分からない人でもありますね。

伊集院幸侃は島津家家臣団の中でも特別に秀吉にひいきされた人で、直江兼続らと似た扱いとも言えますが、秀吉政権崩壊後も直江が上杉景勝に重用されたのに対し、幸侃は文字通り切り捨てられましたね。
浮地の裁量権まで任されていた話は山本博文『島津義弘の賭け』で触れていたのかも知れませんが、失念していました。今回のコラムによると、大名の重要な権限の一つのようですが、それを秀吉の命で任されていたと言うことは、秀吉の頭の中ではいずれ島津氏を廃して伊集院氏を正式に大名として取り立てるという考えでもあったんでしょうか。

秀吉が死んでからもめたのは島津家だけじゃなくて、宇喜多家などもそうですね。
太閤検地を初めとする豊臣政権の諸大名への政治干渉はすべて朝鮮出兵に集約される物で、その出兵の失敗に対する末端の武士の反発は結構大きかったのではとも考えています。忠恒が「幸侃暗殺」という一見無茶な手段に出たのも家中のこういう不満をくみ取っていたからとも思われます。

ただ、忠恒が凄腕だったかというとどうかな、と私も思います(汗)他の大名ならあそこまで家中に血の粛清をしていたら、それを口実に徳川家康が改易することも考えられますし。畿内周辺など要地の大名ではなかったことが有利に働いたようにも思われます。

豊臣政権の期待
桐野
ばんないさん、こんにちは。

秀吉が島津氏に代えて伊集院氏を取り立てようとしたかという点については、ありえないのではないでしょうか。
豊臣政権は大名を潰そうというのではなく、あくまで自分に都合のよい大名であってほしいということだと思います。とくに、島津氏への太閤検地は朝鮮出兵の軍事動員に堪えられるだけの体制を構築させるためのものでした。
島津家側で豊臣政権に協力的だったのは、伊集院幸侃と島津義弘でしょうね。このあたりは山本博文氏の研究があります。
当時の大名権力のあり方として、必ずしも権力が大名一人に集中しなければならないとは考えられていないように思います。
毛利家における小早川隆景、龍造寺家における鍋島直茂などが当主の輔佐もしくは後見だったことはよく知られております。島津家では、義弘がまさにそれと同じ立場だったように思います。
これを伊集院幸侃がつとめるとなると、本宗家の一族ではないですから、家中の反感を招きますね。豊臣政権にとって、幸侃を取り立てることで、島津家中が分裂することは望まなかったのではないでしょうか。

豊臣政権としては、義久に代わって義弘が当主になることを望んでいたかもしれませんが、義弘が固辞したのでそれを諦め、義弘の子である忠恒の家督相続を次善の策として了承するしかなかったのでしょうね。



ばんない
こんばんは。

今回は伊集院幸侃の類似例として小早川隆景、鍋島直茂を出してこられましたが、小早川家は隆景の死を持って毛利家から分裂?しているように見えますし、鍋島直茂は豊臣政権から徳川幕府に変わる間に龍造寺氏から家督を横領したような形になってますね。
>豊臣政権にとって、幸侃を取り立てることで、島津家中
>が分裂することは望まなかったのではないでしょうか。
むしろ、幸侃を破格の扱いで取り立てれば島津家中が分裂することは目に見えているのであって、豊臣政権はそんな見え見えのミスをあえて犯したのかなあ、という感想を持ちます。そこから豊臣政権は島津氏の崩壊をどこかで期待してたのではないかという考えが消えないわけです。

そういえば、いわゆる「九州征伐」後の仕置きでは薩摩国領主:島津義久、大隅領主:島津義弘、日向諸県郡領主:島津久保…と分割されていませんでしたっけ。こういう処分をされた大名というのは余り多くないように思われますが。

島津と毛利
桐野
ばんないさん、こんばんは。

コメント遅くなりすみません。

豊臣政権が伊集院幸侃を重用したのは、やはり島津義久の太守権を制限・牽制する意図があったろうと思います。豊臣政権と距離を置く義久に大名権力のすべてを預けておくのは、豊臣政権にとっても具合が悪いし、畢竟、島津家にとっても不幸だという半ばお節介的な押しつけがあったと思われます。
もし義久の権力を制限しないままだと、島津家は朝鮮出兵の軍役を果たせなかったでしょう。そうなったら、改易しかありません。
でも、豊臣政権は島津家の生殺与奪の権を握ったとしても、改易してしまえば、1万人前後の兵力を失うわけで、それは避けたかった。島津家を生かすためには、多少の反発は覚悟のうえで幸侃を重用するしかなかったのではないでしょうか。

あと、島津家領国の分割統治ですが、毛利家も実情は同じようなものだと思います。
毛利家は112万石でしたが、30万石は養子の秀元、10数万石は両川の一人、吉川広家に分配しています。秀元は防長二カ国、広家は出雲だったか、ほぼ国ごとの分割だったように思います。
分割の比率は違うかもしれませんが、毛利家も島津家と似ているように思います。

なお、小早川家は秀吉の親族の秀秋を迎えたために、家格上、輝元の下に置くことができず、武家清華家の一員として、秀秋は輝元と同格となりました。
それに伴い、隆景も清華成して輝元と同格になりましたが、あくまで隆景は秀秋を輔佐して、豊臣政権の西国支配担当という形は変わっておりません。
ただ、隆景死後は秀秋の独立志向が強まったのは事実だと思います。秀吉の親族だからしかたありませんね。


豊臣政権の「お節介」
ばんない
ご多忙の中、長文のコメントありがとうございました。

今回の回答では
>半ばお節介的な押しつけ
と言う所がつぼにはまりました。その他、この後島津久保が死んだ後、その妻の亀寿を久保の弟・忠恒に再嫁させたのは石田三成の画策ですが、どうも三成のやることは「小さな親切大きなお世話」ということが多いように見受けられます。本人は好意のつもりなんでしょうが。三成ファンの方には例えがまずくて申し訳ないですが、今のイラクとアメリカの関係に似たようなところがありますね。

その観点でみると伊集院幸侃に与えられた「当主に匹敵する八万石の領地」というのも納得いきます。豊臣政権側から見ると、島津家家中統制のために幸侃に島津家当主並の権力を与えたつもりだったのでしょう。…結果、島津家中の恨みを買い、思いっきり逆効果でしたが。

後、歴史に「もしも」というのは禁句ですが、
徳川幕府が同じような状況なら、そのころ一揆扇動でうっとうしかった伊達とやる気のない島津を領地トレード転封したんじゃ無かろうかなどと考えてみました。それを出来なかったところに当時の豊臣政権の弱さというか、朝鮮出兵がらみでこれ以上国内に面倒を抱えられない、といったジレンマみたいな物もかいま見えます。

ところで、先のコメントを書いた後に思い出したのですが、西国大名では毛利氏の他に大友氏、長宗我部氏も島津氏同様分封(という用語が正しいのかどうか…)されかけてますね。最も同時代の史料で確認してませんが、大友氏に関してはフロイス『日本史』にその話題が出てますのでたぶん間違いない情報だと思われます。最も、分封の対象だった大友宗麟が「九州征伐」直後に死んでしまいましたので、その話は白紙になったようですが。そういえば、大友氏は朝鮮出兵がらみで改易されましたね…。これも島津氏初めやる気のない西国大名に対する脅しだったような気もします。

伊集院幸侃の斬殺事件
板倉丈浩
こんばんは。
さて、この事件については、山本博文氏以外にも様々な研究がありますね。

小宮木代良氏は慶長4年正月、前年末の義久・家康の接触に義弘・忠恒が抗議して義久が両者に誓書を提出したという事件を重視し、秀吉の死によって公儀権力への対応をめぐる内部対立が顕在化したと指摘しています。
また、幸侃斬殺は義久の帰国を待ち、事前承諾なしに義弘・忠恒の独断によってなされたものであり、豊臣政権から打ち込まれた楔である幸侃を秀吉の死に乗じて排除したというよりは、「むしろ島津氏内部の権力争いに起因する面が強いように思われる」と小宮氏は述べています。
(「慶長期島津氏の動向」(『幕藩体制下の政治と社会』文献出版,1983))

一方、重永卓爾氏は忠恒の性格的な問題を重視し、特に義久の後継者問題絡みで幸侃に怨恨を抱いていたのではないかと推測しています。
「いずれにせよ、忠恒(家久)の蛇のごとき陰湿・執拗な性格は天性のものであれ、後天的であれ異常としかいいようがない。忠恒に一度憎まれたが最後、重臣等がいくら諫言しても必殺の憂き目にあうのである。彼によって抹殺された有能な人士は枚挙にいとまがない。(中略)猜疑心の強い(女中よりも血判をとっている)、色欲旺盛な人物でしかなかったのではないかと疑いたくなる。現存する彼の自筆の書状・和歌の類を見ても義久・義弘の足元にも及ばない。凡庸としか表現できないのである。(中略)義久の肖像(画像・彫塑)が一点も存在しないのは奇怪というほかはない」
(「伊集院忠真受発給文書に見る庄内事変の一齣(下)」南九州文化20,1984))
かなり辛口・・・というより糞味噌な評価ですね(^^;

なお、島津家内部における権力関係については、米澤英昭氏の考察があり、幸侃斬殺の結果、帰国した義久は実権を取り返し、忠恒への家督継承は白紙に戻され、義弘は政治的・軍事的・経済的に全く権限を有しない状況に至ったとしています。
そして、関ヶ原合戦後の慶長7年に忠恒か信久(垂水家、義久の孫)かで籤引きが行われ、忠恒の相続が再び決定したが、内部対立は慶長16年の義久の死まで終息しなかったと指摘しています。
(「庄内の乱に見る島津家内部における島津義久の立場」都城地域史研究7,2001)
くじ引きで相続問題の解決を図るとは・・・いかにも島津家らしいです(笑)



有難うございます
桐野
板倉さん、こんにちは。

伊集院幸侃事件について、諸説のご紹介、有難うございます。
拙著『島津義久』(PHP文庫)では、小宮説を採用し、義久はこの事件に関わっていないという立場をとりました。
起請文の一件は承知しておりますが、義弘も関与したというのはどうでしょうかね。
伊集院忠真は義弘の女婿ですし、義弘と幸侃の政治的立場は似ております。ともに豊臣政権(石田三成)との関係が深い点では共通しています。
むしろ、忠恒の暴走だったのではないかという気がしますが……。

米澤説にあるように、義久が忠恒に不信感を持ち、垂水家の久信を後継にしようとしたのも、伊集院幸侃の一件があった(独断で勝手にやった)ことが尾を引いているようにも感じられますね。

島津忠恒はバカ殿か
ばんない
残暑お見舞い申し上げます
忠恒は幸侃に殺意を燃やして、あっさり行動に移してしまいましたが、こっちは太陽に殺意が沸いています

さて
板倉様ご紹介の
「庄内の乱に見る島津家内部における島津義久の立場」都城地域史研究7,2001
に、庄内の乱において忠恒が貴重な火薬の処理を誤り、義久に罵倒されている、という一件が紹介されています。

あと、史料名を失念してしまったのですが、朝鮮側(明側だったかも)の史料で日本側の脱走兵の多くが「殿」の暴虐に絶えかねて逃げた、という下りがあるのですが、この「殿」というのがどうも島津忠恒のことを指しているらしいのです。
最も、こちらの方は敵側に当たる者をけなしている可能性が大ですので、史料の信用度は薄いかも知れません。

忠恒の和歌がうまいかどうかは、当方文学の素養がさっぱりなのでノーコメントですが、『薩藩旧記雑録』などに父の義弘より多くの和歌が載っているのは、単に薩摩藩の初代藩主なので和歌が保存されていたと言うだけじゃなくて、実際にたくさん作歌したのではないかと思われます。その背景には頻繁に連歌会とかことある機会に作歌した舅・義久への対抗意識があったんではないかと当方は考えていますが、如何でしょう。

確実にバカ殿と思われるのは女性関係で、晩年になるとだらしないですね。つまらないことで起請文書いています。まあ、武田信玄も男の愛人に起請文書いてますから同じレベルと思えばわずかに救いがありますかねぇ(苦笑)

閑話休題、
伊集院幸侃も、政治的な立場は義弘に近かったのかも知れませんが、島津家の後継者についてはなかなか微妙な動きをしています(URL欄、ご参照下さい)。後の記録でも「忠真(幸侃の息子)は忠恒を廃して久信を擁立しようとしたので排斥された」と明言している(『薩藩旧記雑録』後編3-1689)ものもありますし。ただ、それすらも伊集院幸侃一族を落とすために捏造された記録の可能性もあるのでは?…と考え出すと、何が真実なのか分からなくなってきます…。


コメントを閉じる▲
本日行きました。
野球観戦ではなく、取材です。

ドームの一角に、野球体育博物館があります。
野球殿堂入りした名選手のレリーフなどが飾ってあります。
南日本新聞の連載ネタで、敗戦関係について書くための取材でした。

博物館なので、ちゃんと学芸員がいらっしゃいました。
あらかじめ取材の申し込みをしてあったので、出迎えていただく。
女性でしたが、とても野球、というか野球の歴史に詳しい方で、昔の選手の名前がポンポン飛び出してきました。景浦とか吉原とか。

沢村栄治もどこで戦死したのか教えてもらいました。私の記憶のもとはTVアニメ「巨人の星」しかなく(爆)、3度も召集されて中国戦線で戦死したとばかり思っていたら、台湾沖で輸送船が撃沈されたそうですね。知らなかった。

館内に、六大学などアマの野球選手の戦没者のモニュメントがあり、その中に、私の目的の人の名前が刻んでありました。鹿児島出身の選手です。

その後、その選手の成績データを調べたいがどうしたらよいかと尋ねたら、館内に野球図書館がありますと連れて行ってくれた。
司書さんに「戦前の○○大学の資料、たしかOB会が作った本があったはず。あれを見せてあげて」とテキパキと指示。
出てきた本一冊だけで、用事が済んだ。
応対も親切で、あたりが柔らかく感じがよい学芸員さんだった。こちらが取材意図を告げると、それは意外な組み合わせで面白いと言ってくれた。多謝。

次回は8月15日直前掲載なので、これにしようと思っています。

その後、某図書館に論文探しに行く。
以前入手してもっていたはずなのに、いくら探しても出てこないので、再度複写に行かねばならなくなった。こういう時間の無駄が悔しいのだ。
でも、意外な論文や史料を見つけたので、よしとしておく。

今日は日差しがきつかった。夏場に2件も回ると、それだけでバテバテ。かといって、仕事は待ってくれないのがつらい。

【2007/08/02 21:08】 | 雑記
トラックバック(0) |