『信長公記』巻7に、天正2年(1574)正月の祝宴で、信長が朝倉義景・浅井久政・浅井長政3人の頭蓋骨を「薄濃」(はくだみ)にして酒宴に供したという、有名な逸話がある。薄濃とは髑髏に漆を塗って金粉で色づけしたものらしい。
この一件は信長の残虐さを表す証拠のひとつとされていた。
ただし、角川版信長公記の編者(奥野高広・岩澤愿彦両氏)は、馬廻だけの内宴だから意味が違うという注釈を付している。つまり、必ずしも残虐性を意味しないというのだ。
私もそれ以上深く追求したことはなかったが、最近読んだ以下の本に興味深いことが書かれていた。
武田鏡村『織田信長 石山本願寺合戦全史』(ベスト新書、2003)
それによれば、この薄濃は真言立川流の秘儀だというのである。
これは決して非礼の行為ではなく、薄濃にした髑髏を7年間安置して祀れば、8年目に髑髏に魂が甦ってきて、神通力を与えるというとか。
信長は、かれらの髑髏を祀り、その霊力を受けて活力にしたいという思いがあったという。
さて、どこまで信じていいのやら。
奥野・岩澤両氏が必ずしも残虐行為ではないと注釈したことを受けたのか、さらに積極的な解釈を示したことになるが……。
それにしても、信長が真言立川流を信仰していたとはにわかには信じがたい。武田氏は、淫教・邪教として真言宗から否定されたが、民間信仰として広がっていたとする。これも本当なのだろうか?
真言立川流といえば、後醍醐天皇の護持僧文観が思い出される。また網野善彦著「異形の王権」も思い出される。
もっとも、霊力が顕れるという8年目には、本能寺の変が起きてしまった。真言立川流の霊験もいかほどのものだったのか……